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九十九回の裏切り、見つけた本当の愛
「心の底から愛してる」 そう囁く恋人・尾崎純一(おざき じゅんいち)は、九十九回も役所から逃げ続けた男だった。 あろうことか彼は、結婚を...
Chương (1)
第1章
「心の底から愛してる」
そう囁く恋人・尾崎純一(おざき じゅんいち)は、九十九回も役所から逃げ続けた男だった。
あろうことか彼は、結婚を引き延ばすため、白井茉里(しらい まり)を巻き込む事故を偽装し、彼女のお腹の子さえ奪ってみせた。
絶望に沈む彼女の耳に、純一の嘲笑が突き刺さる。
「七年間の恋人ごっこ?ぜんぶ舞奈のための復讐だよ。あいつが本気になったら負けだ」
七年間のすべてが、嘘。
奈落の底に突き落とされた茉里だったが、幸い、まだ「次の一手」は残されていた。
彼女は正気を戻し、別の男からの求婚を受け入れる。
純一が愚かにも「百回目の逃亡劇」を計画している、まさにその時。
茉里は彼を捨て、新天地・港海市へと嫁いでいく――
第1話
九十九回目の婚姻届――その提出に向かう途中、尾崎純一(おざき じゅんいち)は結婚から逃げるため、白井茉里(しらい まり)を乗せたまま大型トラックへと猛スピードで突っ込んだ。激しく損壊した現場から、二人は救急搬送された。
十分後、血まみれで手術台に横たわる茉里は意識を失ったまま、七ヶ月になる胎児を容赦なくその体から掻き出されていた。
目覚めた時には、すべてが終わっていた。お腹の子を失ったと知り、彼女は涙が溢れて止まらなかった。
医師には安静にするよう言われたが、純一のことが気になって仕方ない。茉里はこっそりと病室を抜け出し、彼のもとへ向かった。
病室のドア前まで来た時、中から楽しげな笑い声が漏れ聞こえてきた。思わず中を覗いたら――
「純一、お前マジですげえよ。結婚から逃げるために命張るとか。でもさ、一応お前の子供だったんだろ?医者が言ってたぜ、取り出されたのは、もう赤ん坊の形がしっかりある男の子だったって。後悔してねえの?」
純一が鼻で笑う。「後悔だと?何言ってるんだ!俺があいつと付き合ってるのは、舞奈の仇討ちのためだ。子供一人どころか、あいつの命だって、どうでもいいよ」
その目に宿る冷たい光。いつも自分に向けられていた優しさも愛情も、そこには欠片もなかった。
茉里は息を呑んだ。華奢な肩が小刻みに震える。何度も目を擦り、声の主の顔を確認しようとする。
けれど、認めるしかなかった。今話している二人は、実の兄と、七年間愛し続けた恋人。それが紛れもない事実だということを。
「その通りだ」白井陽介(しらい ようすけ)が冷ややかに応じた。
「七年前、あいつさえ白井家に戻ってこなければ、舞奈ちゃんが留学なんかで遠くへ行くこともなかったんだ。まったく、疫病神もいいとこだぞ」
「舞奈、もうすぐ帰ってくるって」その名を口にした途端、純一の声音が驚くほど柔らかくなった。
「百回目の『逃亡劇』が終わったら、茉里に種明かしして舞奈を迎えに行くよ。陽介さん、心配ないって。あいつ、今じゃ俺にベタ惚れだから。この七年間が全部嘘だったと知ったら、ショックで二度と俺たちの前に現れなくなるだろう」
その瞬間、茉里の全身から力が抜けた。涙が堰を切ったように流れ落ちる。
壁に手をついてよろよろと駆け出し、庭のベンチに辿り着くと蹲るように泣き崩れた。今聞いた言葉が本当だなんて、信じたくなかった。
茉里の人生に、幸運などというものはなかった。
幼い頃に迷子になり、十八歳でようやく実の両親に引き取られた。だが、帰った先で待っていたのは、養女の白井舞奈(しらい まな)ばかりを可愛がる家族だった。
家に入った初日、実の兄である陽介に睨みつけられた。
「俺の妹は舞奈ちゃんだけだ。兄さんなんて呼ぶな」
茉里は一番小さなメイド部屋に押し込められ、舞奈のお古を着せられ、挙げ句の果てには夜の店で働いて学費を稼げと命じられた。
新学期が始まると、男子たちが彼女の露出の激しい写真を学内掲示板に貼りまくった。
根も葉もない噂が校内に広がり、彼女は路地裏で下劣な男たちに囲まれ、辱められかけたこともあった。
最も辛かった時期に、茉里は生きる気力を失い、壁に頭を打ち付けて死のうとした。
その時、純一が現れたのだ。
彼は自分の上着を優しく茉里の肩にかけ、転校の手続きを取り、彼女をいじめた連中に仕返しをしてくれた。
きれいなドレスを何着も贈り、その腕で守り、できる限りのことをしてくれた。
茉里の傷を一つ一つ癒し、盛大なプロポーズまでしてくれた。
純一こそが、自分を暗闇の底から救い出してくれた一筋の光だと、茉里はずっと信じていた。
でも、違った。全部、嘘だった。
純一が自分と付き合ったのは、自分が白井家の令嬢の座を奪い、舞奈を悲しませて海外へ追いやったからだ。
愛情なんて最初からなかったのだ。七年間の優しさはすべて、復讐のための演技だった。
一度奈落の底から引き上げておいて、それからもっと深い地獄へと叩き落とされたのだ。
茉里は嗚咽で息もできなくなった。ようやくすべてを理解した。婚姻届を出すたびに様々なトラブルが起きたのは、純一が最初から届け出るつもりなどなかったからだ。
平らになった下腹部に手を当て、震える指で電話をかけた。
第2話
「江口社長……息子さんとの縁組のお話、お受けいたします」
電話の向こうから、驚きと喜色が入り混じった男の声が響いた。
「本当か!ありがとう!海外の仕事を片付けるから五日待ってくれ。その時京原市まで迎えを行かせよう。
それに茉里ちゃん、安心してくれ。息子が目を覚まそうが覚めまいが、江口家の財産は全部君のものだ!」
「……はい」
短く返事をして、茉里は電話を切った。
財産なんてどうでもよかった。植物状態の男と結婚することにも、もう何も感じない。
自分はただ、安心して暮らせる場所が欲しい。
青い空を見上げ、茉里は深く息を吐く。
これでようやく、あの人たちが望む通りになる。
――陽介、純一、私はもう白井家には居座らない。「白井家の令嬢」という名も、舞奈に返すから。
指に嵌まった婚約指輪が、きらきらと輝いている。唇を噛み締め、茉里はその指輪を外した。
近くのゴミ箱に投げ捨てようとした、その時。純一が慌てて駆け寄ってきた。
「茉里、捨てないでくれ!」彼は彼女の細い体を抱き寄せる。「あくまでもアクシデントだ。今回出せなくても、また次に出せるから」
心配そうな眼差し。以前と変わらない、優しく力強いはずの抱擁。だというのに、茉里が感じるのは、突き放すような冷たさだけだった。
「アクシデント?」茉里が皮肉っぽく笑った。
「あなたが逃げたのは、これで九十九回目よ。
一回目は準備ができてないって、途中で引き返した。
二回目は胃が痛いって病院に連れて行かれて、三回目は会社の外せない用事があるって……」
拳を握りしめ、一つ一つの「アクシデント」を数え上げていく。
「もう九十九回。百回目はいつ?ねえ純一、もしかして最初から届け出るつもりなんてなくて、ただ私を弄んでるだけなんじゃないの?」
純一の瞳が、見抜かれたように揺らいだ。
「そんなこと、あるわけないだろ……茉里、俺がどれだけ君を愛してるか、分かってるはずだ」
茉里が自嘲気味に笑う。
「でも、あなたの愛は私たちの子供すら、守れなかった」
まるで、失ったばかりの小さな命に別れを告げるように、彼女は蒼白な顔で、細い手をそっと下腹部に当てる。
「子供なんて、また作ればいい」純一が切なそうに顔を歪める。「体が回復したら、もう一度婚姻届を出そう」
今の態度と、病室で聞いたあの声。どちらが本当の彼なのか。茉里にはもう、分からなかった。
顔を上げ、涙を浮かべたまま問いかけた。「本気で届けを出したいなら、今すぐ行こう」
純一の動きが止また。今日の茉里が、いつもと違うことには気づいているようだ。
「今は無理だ……まだ体調が万全じゃない。次にしよう」
「次じゃなくて、今」茉里は真っ直ぐ彼を見つめた。ほんの少しでも、本心が見えないかと願いながら。
純一が眉をひそめた。いつも素直な彼女が、なぜこんなに頑なになっているのか理解できなかった。
もしかして、流産したせいか?
純一が困り果てた時、ポケットの携帯が鳴った。
彼はほっとしたように茉里から離れた。「ちょっと電話、出るから」
「もしもし?あ、舞奈?いきなりどうしたんだ……え、帰国した!?本当か! わかった、今すぐこっちの場所を教える!」
弾んだ声で電話を切ると、純一は茉里の両肩を掴んだ。
「舞奈が俺たちの事故を聞いて、心配してすぐ帰ってきてくれたんだ。君にとってもいいお姉さんじゃないか」
茉里の口元が引きつった。子供を失ったばかりの自分に、笑えるはずがなかった。
だが純一は再会の喜びに夢中で、彼女の異変に全く気づかなかった。
彼女の手を引いて病室に戻り、興奮気味に陽介へ知らせた。
二人が無邪気に笑い合った。「ようやく彼女に会えるな!」
はしゃいだ後で、純一はようやく茉里を放っておいたことに気づいたらしい。慌てて彼女の傍に駆け寄った。
「な、婚姻届のことは後で考えよう。子供だって、また作れるんだから」
あまりにも軽い口調。まるで茉里が子供を失ったのではなく、ちょっと転んだだけだと言わんばかりに。
彼女は俯き、乾いた笑みを浮かべた。
――後で、か。もう私たちに「次」なんて、ないのに……
第3話
陽介が眉をひそめた。「そんな暗い顔しやがって!子供を守れなかったのは、お前の責任だろ」
「やめてよ陽介さん、茉里だってわざとじゃないから!」純一が彼女の前に立ちはだかる。
「お前は、甘やかしすぎだぞ」陽介が鼻で笑った。
「茉里は俺の婚約者だから。甘やかして当然でしょう」純一が振り返って、彼女の頭を優しく撫でた。
その瞬間、茉里ははっと息を呑んだ。
いつだってそうだ。陽介が彼女を罵り、すかさず純一が庇いに入る。
だが、純一が本気で守る気なら、親友である陽介がこれほど遠慮なく罵倒できるはずがない。
理由は一つ。二人は示し合わせて、この茶番を演じているのだ。
途端に、すべてがばかばかしく思えた。
彼女は無理矢理笑顔を作った。「……自分の病室に戻って、休むよ」
茉里は長い間眠った。途中で舞奈と純一が来た気配はしたが、相手をする気になれず、ずっと寝たふりをしていた。
不意に、カメラのシャッター音と、下卑た嘲笑が聞こえてきて――茉里は跳ね起きた。
「誰っ!?」
咄嗟に布団を引き寄せて体を隠し、怯えた声を上げる。
目の前に立っていたのは、あからさまな敵意をこちらに向ける、見知らぬ男女の集団だった。
「もう忘れたか?」下卑た笑い声が響く。「昔、同級生だったじゃん。よくお前が働いてた『店』に遊びに行ってたんだぜ!」
嫌な予感が胸をざわつかせる。茉里は震える手でスマホを掴み、助けを呼ぼうとした。
だが、それはショートカットの女に叩き落とされた。
「尾崎さんに助けを求めるなんて無駄よ。あの人は舞奈さんのものなんだから!」
「あなたたち、舞奈の……差し金?」
茉里が信じられない、という顔で問い返した。
するとショートカットの女が、容赦なく平手打ちを食わせた。
「ペッ、あんたみたいな下品なヤツが、舞奈さんの名前を呼ぶんじゃないわよ!」
女は力任せに茉里の布団を剥ぎ取り、平らになった下腹部を指差して声高に笑う。
「流産したんだってね?自業自得だよ。夜の店で男漁りして、舞奈さんの恋人まで奪おうとするんだから!」
他の連中も口々に囃し立てる。「流産して当たり前だ!」
「違う……」茉里の顔が真っ青になる。必死で首を振った。
だがショートカットの女は収まらない。拳を振り上げ、何度も茉里の下腹部を殴りつけた。
「全部あんたのせいで舞奈さんが傷ついたのよ!あんたみたいなヤツの子宮なんて、腐っちゃえばいいのよ。一生子供なんか産めないようになればいいんだ!」
激痛が全身を襲う。茉里は最後の力を振り絞ってナースコールを押そうとした時、舞奈が入ってきた。
白いワンピースを纏い、天使のように優雅で美しい姿で。
「やめなさい。茉里ちゃんは私の妹よ!いじめるなんて許さないわ」
舞奈が連中を追い払い、茉里のベッドサイドへ歩み寄る。
「大丈夫?ひどすぎるわ、あの人たち!」
茉里はベッドの上で体を丸め、弱々しく喘いだ。
「ひどい?……彼らはあなたに、命令されたからでしょう」
舞奈の目に、みるみる涙が滲む。
「茉里ちゃん、子供を亡くしたばかりでこんな目に遭って、取り乱すのは分かるわ。でも、私は本当に何も知らないの。こんなことするわけないじゃない。
あなたがこんな目に遭って、私も辛いわ。茉里ちゃん、安心して。絶対に犯人を突き止めてみせるから」
そう言って茉里の手を取ろうとする。
「触らないで!」
喉がカラカラに渇いている。残った力を振り絞って、茉里は舞奈の手を払いのけた。
その瞬間が――都合よく、入ってきた純一と陽介の目に映った。
「舞奈ちゃんに手を上げるなんて!」
陽介が激昂して茉里に平手打ちを食わせ、舞奈を背後に庇った。
純一も冷たい目で茉里を見据える。
「俺もがっかりだよ。舞奈がわざわざ遠くから帰ってきて看病してくれたのに、ひどい恩知らずだ」
茉里の心臓が、冷たい水に沈んでいくようだった。全身がわなわなと震える。
「舞奈が人を使って私を殴らせたから、触らせなかっただけ」
そう言って、自分のお腹の傷を指差す。「信じないなら、監視カメラを確認すればいい」
「何を見るんだ。舞奈ちゃんがそんなことするはずないだろ!」陽介が歯ぎしりした。「お前が舞奈ちゃんの帰国を邪魔したいだけだ!」
そう言って舞奈の手を引き、さっさと出て行ってしまった。
純一がため息をつく。「君もさ、舞奈を嫌うのは勝手だけど、こんな下手な嘘はよせ。舞奈がどれだけ君のこと心配してるか、知らないだろ」
彼は菓子の箱を取り出した。
「さっき俺と陽介さんに、君の大好物の『蟹みそ饅頭』を買いに行かせてたんだよ。そんな優しい人が、君を襲わせるわけないだろ?」
茉里は乾いた笑いを漏らした。
自分は海鮮アレルギーで、蟹みそ饅頭など口にしたこともない。
これが、七年間愛し続けた男。自分のアレルギーさえ知らず、何かあれば真っ先に他人を信じる。
最後の気力を振り絞り、茉里はベッドから降りると純一の手を引いて監視室へ向かった。
「……自分で、見て」
画面には、茉里が集団に暴行される様子が克明に映っていた。彼らの口から何度も「舞奈さん」という言葉がはっきりと聞こえている。
第4話
純一が拳を握りしめた。彼女を見る目に一瞬、心痛の色が浮かんだが、それでも声は冷たいままだった。
「だからといって、舞奈が差し向けたって証明にはならない。それに、結果的に君を助けたのは舞奈だろ?
茉里、反省すべきは、なぜあいつらが君を襲ったかだ。全部を舞奈のせいにするんじゃない!」
真実を突きつけられても、純一はまだ舞奈を庇う。
茉里は、もう可笑しくて仕方がなかった。
心はとうに凍てつき、もはや抗う気力も残っていない。
「……分かった。私が悪いのね」
純一は眉間に皺を寄せ、苦しげな表情を浮かべると、両腕を広げて彼女を抱き寄せた。
「明日、舞奈も一緒に食事するって。その時、ちゃんと謝れば大丈夫だ。舞奈なら許してあげる」
茉里は彼の肩に顔を埋めた。鼻の奥がツンとするのを、必死で堪えた。
どうせ自分は、すぐに港海市へ嫁ぐ身だ。この食事会が、あの人たちとの最後の別れになる。
翌日、退院前。純一は医師から説明された茉里の術後の注意事項を、それは丁寧にノートに書き留めていた。
そして、そのノートを得意げに茉里に見せた。
「ほら、茉里。俺がどれだけ君のこと気にかけてるか、分かるだろ」
茉里は無言で頷いた。
荷物をまとめ、舞奈から指定された高級レストランへと向かった。
店に入ると、もう全員揃っていた。純一の母親、尾崎智晶(おざき ちあき)もいる。
「純一、来たのね。こっちに座りなさい!」
智晶が、当然のように純一を舞奈の隣へと促した。
婚約者のはずの茉里には、いつも通り目もくれない。
代わりに陽介が気づいた。
「おい、ぼーっと突っ立ってないで、注文取ったり配膳したりしろよ。年下のくせに、気が利かねえな!」
茉里は純一が何か言ってくれるかと思った。
だが彼の視線はずっと舞奈に張り付いたまま、茉里には一瞥もくれなかった。
「……はい」
茉里は目を伏せ、陽介の言う通りに従った。惨めに全員の水を注ぎ、注文を取った。
舞奈の傍に来た時、突然足が伸びてきて茉里を引っ掛けた。
手に持っていたドリンクが跳ね、舞奈のドレスに降りかかる。
「きゃっ」舞奈が悲鳴を上げ、全員の視線が集まった。
「茉里、何するんだ!」
真っ先に声を荒げたのは、純一だった。
「母さんが舞奈のために特別に仕立てたドレスなのに、嫌いだからって手を出すなよ!」
茉里の目が潤む。行き場を失った手が、虚空を彷徨う。「わざとじゃ、ない……」
純一が冷たく鼻で笑った。
そして舞奈の手を引く。「行こう、手洗い場で綺麗にしよう」
二人が去った後、今度は陽介が怒り出した。
「だから連れてくるなって言ったんだ、この疫病神め」彼が茉里の髪を掴み、テーブルに叩きつける。
瞬く間に、茉里の額が大きく腫れ上がり、血が滲んだ。鈍い痛みに、くぐもった声を上げる。
「お兄、さん……本当に、わざとじゃ……」
陽介の目が冷たく光る。足を上げ、彼女の胸を蹴りつけた。
「『お兄さん』って呼ぶなって言っただろ。俺の妹は、舞奈ちゃんだけだ!」
茉里は歯を食いしばる。堪えきれなかった涙が、頬を伝った。
「泣いてんじゃねえよ。手洗い場で顔洗ってこい」
陽介が、汚物でも見るかのような嫌悪の眼差しを向けた。
茉里は拳を握りしめ、震える指先で涙を拭い、急いで席を立った。
この店に不慣れで、しばらく迷った末にようやく手洗い場を見つけた。
だが、入った途端――中から艶めかしい声が聞こえてきた。
「はぁ……舞奈……君の体、柔らかいな。昔と変わってない」
純一の深みのある、低く甘い声だった。
茉里はその場で凍りついた。一歩も、中へ入ることができなかった。
「もう」舞奈が甘えた声を出す。「そんなこと言って、私がいない間だって茉里ちゃんと寝てたくせに」
「あいつのこと、愛してないよ!」
純一が慌てて誓った。
「付き合ってるのは、君の仇を討つためだ。抱いたのだって、あくまでも『練習』だ。舞奈、俺の気持ちは神に誓って本物だ!」
舞奈が微笑んで、純一の胸に身を寄せた。「本当に練習だけ?一度も心が動いたこと、ないの?」
「心が動くどころか、体だって魅力を感じないさ」純一が力強く断言するした。
茉里の顔が、紙のように白くなった。この瞬間、胸に燻っていた最後の希望が、音を立てて消え去った。
初めて抱かれた夜、純一が涙を流したのを覚えている。
あの時茉里は、自分を愛しすぎているか、緊張しすぎているせいだと思っていた。
でも、今なら分かる――あの涙は自分のためじゃなかった。舞奈を裏切ったという、後悔の涙だったんだ。
じゃあ、毎晩の、あの濃密な時間は?
……ただの、「練習」?
十数分後、純一が舞奈を連れて手洗い場から出てきた。
ドアの前で涙を流して立ち尽くす茉里を見て、純一は一瞬、狼狽した様子になった。
第5話
「茉里、こんなところで何してるんだ?いつからいた?」
純一は慌てて舞奈から離れると、大股で歩み寄り茉里の手を取った。その心臓が、ドクドクと不安げに跳ねている。
茉里の唇が小刻みに震える。必死に涙を堪えた。
「転んで頭をぶつけちゃって……手洗い場で洗おうと思ったんだけど、ここ広くて。やっと見つけたところ」
声がかすれる。力なく服の裾を握りしめた。
注意深く見れば、彼女の異変に気づけたはずだった。
だが純一は、ただ聞かれなかったことに安堵しただけで、それ以上何も追及しなかった。
舞奈に目配せして立ち去らせると、茉里の手を引いて洗面台へ向かった。
「ちょっと目を離しただけで、こんなに怪我して」
純一が優しく傷を拭う。カバンから絆創膏を取り出し、心から心配するような目で貼ってくれた。
「これからは茉里から離れないようにしないとな。心配で仕方ないよ」
そして優しく茉里の唇に口づけする。「行こう。食事はやめて、家に帰ろう」
茉里は虚ろな目をしていた。この男、そこまで完璧に演じきって、疲れないの?
その言葉は喉まで出かかったが、飲み込んだ。
どうせすぐに出ていく身だ。最後の三日間、このまま気づかないフリを続けよう。
マンションに戻ると、純一が優しく茉里の顔を包み込んだ。
「茉里、あと三日で君の誕生日だな。その特別な日に、婚姻届を出したいんだ」
茉里は呆然とした。自分がここを去る日が、奇しくも自分の誕生日だったとは。
純一は彼女が黙っているのを見て、焦って付け加える。
「今回も前みたいに何か起きるんじゃないかって心配してる?大丈夫、君の誕生日だ。今度こそ絶対に何も起きないって約束する!」
茉里は唇を噛んだ。胸の奥が苦い。
誕生日に婚姻届――これが純一の考えた、百回目の「逃亡劇」の筋書き。
彼女は無理やり笑みを作る。しかし、心が冷え切っていく。「……うん」
「じゃあ決まりだな。ちゃんと準備しとけよ」
純一が満足げに笑みを浮かべ、茉里を抱き上げて寝室へ運んだ。
茉里は、もう拒まなかった。
翌日、荷物を整理していると、孤児院の院長からもらった別れの品を白井家に残してきたことに気づいた。
幼い頃迷子になった自分を、院長が拾ってくれなければ、茉里は生きていなかっただろう。
もうすぐ京原市を去る。あれが、自分にとって最後の思い出の品だった。
タクシーで白井家の屋敷へ向かった。玄関に着くと、舞奈とばったり鉢合わせた。
舞奈は彼女を見るなり、あからさまに不機嫌な顔になる。
「明日の婚姻届の準備をしてる時間じゃないの?何しに来たのよ」
茉里は彼女の横を通り過ぎて屋敷へ入る。相手にする気はない。
「自分の物を取りに来ただけ。すぐ帰るから」
「勝手に入るなんて許してないんだけど!」
舞奈が苛立って追いかけてくる。その視線の先に、三階の踊り場が映った。
上から陽介と純一の笑い声が漏れ聞こえる。舞奈の頭に、ある計略が浮かんだ。
「きゃっ」舞奈がわざと足を挫いたふりをして、茉里に向かって倒れ込む。
二人はもつれ合い、階段を転げ落ちた。茉里は舞奈の下敷きになり、クッション代わりになった。
三階にいた陽介と純一が叫び声を聞きつけ、すぐに駆け下りてきた。
「どうした!」
舞奈が泣きじゃくりながら訴える。
「茉里が私を邪魔だって、お金を渡して追い出そうとしたの。断ったら、階段から突き落とされて……!」
陽介が額に青筋を立てる。躊躇なく足を振り上げ、茉里の胸を思い切り蹴り飛ばした。彼女の体が三メートルほど吹き飛ぶ。
陽介は拳を握りしめて怒鳴りつけた。
「舞奈ちゃんはただ帰国して家に住みたいだけだろうが。何がそんなに気に食わないんだ!」
「突き落としてない……」
茉里は冷たい床に倒れたまま、全身の骨が砕けたような痛みに喘ぐ。
一方、純一は慌てて舞奈を助け起こし、必死に怪我の有無を確かめていた。
大きな外傷がないのを確認して、ようやく安堵の息を漏らす。
「誕生日に婚姻届を出すって言っただろ?なんでまた舞奈をいじめるんだ?彼女は、君の邪魔になんてならないはずだ」
純一が茉里の前に立ち、怒りと失望に満ちた目で見下ろす。
「彼女が、私を突いたの。私は何も……」
茉里が胸を押さえる。痛みで顔が真っ青になり、冷や汗が滲み出た。
「嘘までつくようになったのか!」純一の平手打ちが飛んだ。
茉里は、雷に打たれたような衝撃を受けた。
七年間で初めて、純一が自分に手を上げた。
顔を上げ、信じられないという顔で彼を見つめる。涙が、堰を切ったように溢れ出した。
純一の胸が締め付けられる。さっき彼女を叩いた手が、微かに震えていた。
「……泣くな。自分のしたことを、よく反省しろ。じゃなきゃ、婚姻届なんか出さないからな」
第6話
純一は平静を装って、冷たく背を向けると舞奈を病院へ連れて行った。
陽介も心配そうにそれに続く。屋敷には、痛みで息もできない茉里だけが残された。
「なんで……信じてくれないの」震える唇が、か細い声を紡ぐ。胸が激しく上下する。
どう見てもこっちの方が重傷なのに、婚約者も、実の兄も、誰一人として気にかけてはくれなかった。
絶望の涙が彼女の頬に流れる。スマホを拾って救急車を呼ぼうとしたが、立ち上がった途端に目の前が真っ暗になり、力なく床に倒れ込んだ。
どれくらい気を失っていたか分からない。茉里は、乾いた血だまりの中で目を覚ました。
屋敷はしんと静まり返り、外はすっかり暗くなっている。
熱っぽい体が、すぐに病院へ行けと訴えていた。
「うっ……」茉里は辛うじて体を起こす。一歩歩くたびに全身の傷が軋み、重い呻き声が漏れた。
彼女はよろめきながら玄関へ向かう。だが、ドアを開けた瞬間――人の群れが狂ったように押し寄せてきた。
「白井茉里さん!ネットで拡散されている不適切な写真はご本人ですか!」
報道陣がカメラを担ぎ、マイクを突きつける。無数のフラッシュが、茉里の蒼白な顔を照らし出した。
「お嬢様でありながら、なぜ体を使って取引を?」
「数日前に愛人に強制的に中絶させられたという話ですが、ご説明いただけますか!」
刃物のような言葉が、次々と茉里の心を抉っていく。
彼女が怯えれば怯えるほど、彼らの声は興奮を帯びていった。
「幼い頃迷子になって孤児院で育ち、両親のもとに戻った後は養女を虐待したというのは本当ですか!」
茉里は人込みに押されてよろめき、倒れた。頭を抱えて丸くなるしか、身を守る術はなかった。
「あなたを育てた孤児院の院長が、この騒動が原因で心臓発作を起こして亡くなったそうですが、罪悪感はありますか!」
その言葉に、茉里の目が見開かれた。記者のズボンの裾を掴んだ。
「何ですって……?院長先生が……亡くなった?」
誰も答えない。彼らは自分たちが聞きたい答えしか求めていない。
次第に群衆は膨れ上がり、茉里は自分が何度踏みつけられたか、もう分からなかった。
絶望しかけたその時、純一が駆けつけ、人込みに怒鳴り声を上げた。
彼はボディガードに記者たちを追い払わせると、地面に倒れた茉里を慌てて抱き上げた。
「茉里、ごめん。遅くなった。今すぐ病院に連れて行く」
茉里が震えながら彼にすがりついた。
「純一、院長先生が死んだって……嘘、だよね……?」
彼女の体は極度に冷え切り、服はあちこち汚れ、破れている。
純一の目に苦痛の色が浮かんだ。彼は答えず、ただ辛そうに頷いた。
「そんな……」茉里の声が詰まる。大粒の涙が転がり落ちた。
心身への二重の打撃に、彼女は再び意識を手放した。
純一は最高の専門医を手配して茉里を治療させた。
彼は不眠不休で茉里のベッドの傍らに付き添っていた。
「なぜまだ目を覚まさないんだ!」純一は医師に向かって怒鳴る。両の拳を固く握りしめていた。
「純一、そんなに怒鳴ることないだろ」
陽介がドアから入ってきて、のんびりとした口調で言った。
「これ、俺たちで相談して決めたことじゃないか。マスコミを使ってこいつを追い詰め、社会的に抹殺する。舞奈ちゃんの仇討ちのためだろ」
純一が怒りを押し殺す。
「追い詰めるのはいい。だが、見ろよ。こいつはこんなに怪我をしてるんだぞ」
「アクシデントなんてつきものだ。絶対安全なんて、誰も約束できるわけないだろ」
陽介が眉をひそめる。何かに気づいたように。
「純一、まさかお前……こいつのことを好きになったんじゃないだろうな?」
まるで何かに打たれたように、純一の心臓がドクンと跳ねた。
陽介の声も、途端に険しくなった。
「七年前、お前がなぜこいつと付き合い始めたか忘れたのか!今も舞奈ちゃんはあいつのせいで入院してるんだぞ。もしこいつを本気で好きになったりしたら、今後うちには出入り禁止だからな!」
純一が強く唇を噛んだ。心の中に芽生えた違和感を無理やりねじ伏せ、きっぱりと言い放った。
「こいつと一緒にいるのは復讐のためだ。好きになるわけないだろ。最初から最後まで、俺の心にいるのは舞奈だけだ!」
陽介が半信半疑で尋ねる。「本当に、一度も心が動いたことはないんだな?」
「一度もない!」純一が堂々と顔を上げた。
その瞬間、ベッドに横たわる茉里の目尻から、一滴の涙が流れたことに誰も気づかなかった。
「ならいい」陽介がほっと息をつく。「明日はこいつの誕生日だ。最後の『逃亡劇』が終わったら、全部種明かししろよ。
それと、あの院長の葬式にも行かせるな。大切な人を失う苦しみを、たっぷり味わわせてやれ!」
「任せとけ。どうすれば茉里を一番傷つけられるか、お前より分かってるさ」
純一が立ち上がり、冷たく言い放つ。
「先に出よう。茉里は目を覚ましてしまったらまずいから」
二人が病室を去った後、茉里は静かに目を開けた。
第7話
全身を襲う痛み。茉里は乾いた唇を舐め、苦しげに顔を歪めた。
ネットに拡散された写真も、記者に囲まれたことも、すべて純一が仕組んだことだった。
自分を育ててくれた院長が亡くなったのに、最期の別れすら許されない。
彼は本当に、ただの一度も、自分に心を動かされたことなどなかったのだ……
しばらくして、純一がまた病室に入ってきた。
茉里が目を覚ましたのを見て、彼はすぐに嬉しそうな表情を作った。
「よかった。このまま二日間目を覚まさなかったら、入籍に間に合わないかと思ったよ」
茉里は顔を伏せた。心の中で冷ややかな笑みを零した。
入籍に間に合わない?違う。あなたの「逃亡劇」が間に合うからでしょう。
茉里は指輪をそっと外し、純一の手に乗せた。
「これ、プロポーズの時にもらった指輪。今返すから……明日、婚姻届を出したら、もう一度あなたから付け直して」
純一は一瞬戸惑い、それから笑った。
「ああ、分かった。茉里の言う通りにする」
彼女は深く息を吸い込み、尋ねた。
「プロポーズを受けた日、あなたがどれだけ喜んでたか覚えてる?私のあなたへの気持ちは変わってない。でも聞きたいの。あなたは私に、本当の気持ちって、まだある?」
「もちろんさ。茉里への想いは、死ぬまで変わらない」彼は、即座に答えた。
茉里は急激に虚しくなった。「うん」とだけ返事をして、ベッドに横になった。
「疲れたから、もう帰って。付き添わなくていいから」
「じゃあゆっくり休んで。明日、役所で会おう」
純一は彼女に布団をかけ直し、枕元に水の入ったコップを置いて離れた。どこまでも完璧な、優しい婚約者の姿だった。
翌日。茉里は、頭から浴びせられた氷水で目を覚ました。骨まで凍みるような冷たさに、思わず三回くしゃみが出た。
怯えて顔を上げると、目の前に立っていたのは陽介だった。茉里の全身が強張る。
「今日はお前の門出だ。特別に見送ってやる」
見下すような、施しを与えるかのような眼差し。
「この水で、お前の過去の罪を洗い清めてやった。これからは人に優しくしていれば、白井家にお前の居場所くらいは残してやる」
彼はメイクアップアーティストを二人呼び、真っ白なウェディングドレスを取り出した。
「俺は兄として父の代わりに、お前のために用意したものだ。メイクが終わったら、運転手が役所まで送る」
茉里は呆然とする。
純一の百回目の逃亡計画を知っているくせに、わざわざこんな芝居を……
「どうした、嬉しくて言葉も出ないか?」陽介が眉を上げる。
「ぼーっとしてないで、早くメイクを始めろ。純一が役所で婚姻届を持って待ってるぞ。俺と舞奈も後で行って、お前たちの幸せな姿を見届けてやる」
茉里は心の中で苦笑した。
幸せな姿?私が恥をかくところを、見物しに来るの間違いでしょう。
「……うん。ありがとう、お兄さん」
小さく返事をする。陽介の嘘を暴く気にもなれなかった。どうせ、もうここを去るのだから。
陽介は僅かに眉をひそめた。
いつもなら、茉里が「お兄さん」と呼べば激怒して叱りつけていた。だが、今日は違う。
先に甘い蜜をたっぷり味わわせておかなければ。そうすれば、後の復讐がもっと効果的になる。
「……ああ」陽介は嫌悪を堪えて頷くと、背を向けて出て行った。
その背中が完全に消えたのを確認してから、茉里は震えながらベッドを降りた。濡れた体を抱きしめ、二人のメイクアップアーティストに言った。
「彼がいくら払ったか知らないけど、倍出すから帰って。でも、このことは誰にも言わないで」
二人を帰した後、茉里はあの美しいウェディングドレスを撫でた。
「綺麗……もったいない」
ドレスを抱き上げ、躊躇なくゴミ箱に投げ捨てた。
それから白井家との絶縁状を書き上げ、弁護士に時間指定での掲載を依頼した。
最後に、純一宛てに数時間後の予約送信メッセージを作成した。
【七年間の青春と、生まれてこなかった子供。あなたの復讐は、成功したね】
すべてを終えると、江口家が迎えによこした車が到着した。
車から降りてきたのは、凛としたショートカットの女性だった。彼女は茉里の惨状を見ても何も聞かず、自分のコートを脱いでそっと羽織らせた。
「白井様、準備ができましたら参りましょう」
茉里は頷き、小さく礼を言って車に乗り込んだ。一度も、振り返らなかった。未練など、ひとかけらもなかった。
この京原市には、もう愛する価値のある人など、誰もいなかったから。