Đang tải thông tin quảng bá...
昔の笑顔、遠くなりし夢
椎名育也(しいな いくや)と結婚した望月絵里(もちづき えり)は、お嬢様生活を捨て、夫と息子のために全てを捧げてきた。 だが、どれだけ尽...
Chương (1)
第1章
椎名育也(しいな いくや)と結婚した望月絵里(もちづき えり)は、お嬢様生活を捨て、夫と息子のために全てを捧げてきた。
だが、どれだけ尽くしても報われることはなく、むしろ犬扱い。
最期の瞬間に、絵里が聞こえたのは息子の歓声──「やった!ママ死んだ!これでやっと颯花さんを堂々と迎えられるのだ!」
絵里はようやく悟った──いわゆる「真心には真心が返る」なんて、まったくの嘘だった!
生まれ変わった絵里が、冷ややかな夫と息子、そして図々しい顔をしている夫の幼馴染・小林颯花(こばやし さやか)を見つめ、にやついて宣言した。
「椎名家夫人の身分も、旦那も息子も、全部譲るわ」
そう言って、財産も要らず、さっぱり離婚。夫も息子も、もうこりごりだった!
第1話
椎名育也(しいな いくや)と結婚した望月絵里(もちづき えり)は、お嬢様生活を捨て、夫と息子のために全てを捧げてきた。
だが、どれだけ尽くしても報われることはなく、むしろ犬扱い。
最期の瞬間に、絵里が聞こえたのは息子の歓声──「やった!ママ死んだ!これでやっと颯花さんを堂々と迎えられるのだ!」
絵里はようやく悟った──いわゆる「真心には真心が返る」なんて、まったくの嘘だった。
生まれ変わった絵里が、財産も要らず、さっぱり離婚。夫も息子も、もうこりごりだった!
……
「お望み通り、椎名育也と離婚するわ。今後、あの男はあなたのものよ。息子も」
カフェで、絵里は無表情で離婚届を小林颯花(こばやし さやか)に差し出した。「ただし、この書類は颯花さんが持っていってサインをもらってきてちょうだい。私が渡せば、あの人は承知しないから」
「身一つで離婚して家を出ることになってもいいの?」颯花が信じられない様子で聞いた。
フン、ウケる。
身一つって?
絵里は椎名家で、もともと何一つ持っていなかったのだ。
「ええ、喜んで」
その口調は、朝ごはんのメニューを話すように平坦だ。
「絵里さん、わざと身を引くフリ?」
颯花は眉をひそめて言い放った。「あの時私が海外に行って育也君とすれ違わなきゃ、あんたが椎名家の夫人になるはずなかったんだよ。そんな小手先の真似、やめたほうがいいわ」
「本気だって言ってるでしょ」と絵里は繰り返した。
颯花は書類をじっと見つめ、「じゃこっちも喜んでもらうわ」
颯花は絵里の目の前で電話をかけ、相手が応答するやいなや、べったりとした甘い声で言った。「育也君、今会社のカフェにいるの。ちょっと助けて欲しいことがあるんだけど、来てくれない?」
たちまち、10分とも経たずに父子が来た。
二人の視線は絵里という存在を微塵も認めないようにただ通り過ぎ、まるで空気でも見るようだ。
絵里は冷淡な苦笑いを浮かべた。目の前で、息子の瑛多(えいた)が颯花に抱きついた。「颯花さん、会いたかったよ!」
その熱烈で従順な様子は、颯花のほうが実母であると言わんばかりだった。そして瑛多は絵里に鋭い一瞥をくれて聞いた。
「颯花さん、ママに意地悪されてない?」
育也も、絵里に警戒の眼差しを向けた。その言動の端々に、まるで彼らこそが家族であり、絵里は余所者であるようだ。
絵里は、自分がもう涙も流せないほど傷ついたと思い込んでいた。だが、育也の冷たい目線と瑛多の憎たらしい表情を見て、拳を強く握りしめ、心臓が締め付けられるように痛んだ。
ここ半月、どれだけ泣いて哀願しようが、育也は一度も家に帰ってこなかった。息子は、彼女の世話より、保育園に預けられる方を選び、彼女に迎えに来てもらうことすら嫌がっていた。
なのに、颯花のたった一本の電話で、二人はすぐに駆けつけた。
五年間の結婚生活……絵里はいったい何だったんだろう。
颯花はかばんから書類を取り出し、育也に手渡した。「育也君、弟が結婚するんだけど、資金が足りなくて……」
育也は一秒の躊躇もなく、高級ペンでサインした。
「そんな遠慮はいらない。言われなくても小林健一(こばやし けんいち)に家を買ってあげるつもりだ。叔父さんの体調も思わしくないし、叔母さんもご高齢だし、君に余計な負担をかけたくないからな」
颯花は照れくさそうにうつむいた。「育也君……私の事、そんなに大切に思ってくれてありがとう」
絵里の胸は、締め付けられるような痛みに襲われた。
あの寵愛に満ちた笑顔……彼が絵里に微塵たりとも見せたことのない優しさ。
「育也、これがもし、私との離婚届だったら?」
彼の顔は一瞬で凍りついた。「言っただろう。颯花さんは互いを理解し合う特別な存在だ。くだらない嫉妬はよせ」
絵里は立ちすくんで、激痛に押しつぶされそうだ。もう限界。ここでもういられない。必死で感情を抑え、なんとか涙をこらえた。
すると瑛多が、彼女の苦悶の表情を怒りと勘違いして、不機嫌そうに呟いた。「ママってケチ!颯花さんがママだったらよかったのに。颯花さんは絶対にこんなにケチじゃない!」
悲しみのあまり、絵里は笑いがこみ上げ、涙で曇った目であの親子を見つめた。
育也はその痛々しい表情に一瞬動揺したが、すぐに冷たく言い放った。「大人しくしてくれ。先に帰ってくれ、瑛多と用事があるから」
絵里が返事する前に、育也はすでに颯花に視線を移し、たちまち口調を柔らげた。「瑛多が今日は君と遊園地に行きたいって。もうチケットも取ってあるから、行こうか」
颯花は目を細めてにっこりした。「二人とも先に車で待っていてくれる?私、すぐに行くから」
彼らが去るのを見届けると、勝ち誇ったドヤ顔で颯花が絵里を見た。
颯花は書類を絵里に投げつけ、見下すように言い放った。
「分かったよね、あんたは育也君にとって、どうでもいい存在なのよ。あ、そうだ、忘れないでね、身一つで出て行くって。椎名家からもらったものは、針一本も持って出られないよ」
カフェの外では、育也と瑛多が颯花を待ちわびている。
夫は颯花の乱れた髪の毛を整え、息子は嬉しそうに彼女の手を繋いだ。
窓越しに映る三人は、誰がどう見ても、ひとつの家族だった。
三人の姿が視界から消えるのを確認してから、絵里は棒のように立ち上がり、五年間も育也と共に暮らした別荘へと戻った。荷物を一つ一つ整理していく──スーツケース、衣類、そして……アルバム。
分厚いアルバムの表紙にはほこりがかぶっている。手で払いのけ、震える指でページを開くと、写真に写っている自分と息子の姿に、懐かしい記憶が一気に押し寄せてきた。
前世、二人は家同士の政略結婚で結ばれた。
絵里は知っていた――育也にとって、幼馴染が一番大事な存在だ。だから彼女は愛なんて期待していなかった。ただおとなしく、お互い敬意を払う仮面夫婦を演じ続けた。
けれど、彼がここまで自分を憎んでいるとは思わなかった。骨の髄までの憎悪だった。
彼が憎んだのは、彼女が「椎名家の夫人」の座を奪ったこと。彼女のせいで、颯花が居づらい立場になっていること。息子の瑛多でさえ、颯花に心を寄せ、ママの絵里には嫌悪の眼差しを向けるばかり。
夫の愛情も、息子の尊敬もなく、踏みにじられるだけの人生を、彼女は惨めに生き抜いた。
人生の二周目、絵里はついに目が覚めた。
手に入らない男は、もういらない。恩知らずの息子も、捨てる。
全部、きれいさっぱり手放してやる!
育也が颯花と結ばれたいなら、どうぞご自由に。
瑛多が颯花を母親と呼びたいなら、この母親の役も譲ってあげる。
彼女は苦笑いしながら、アルバムの中の数少ない写真を燃やした。揺れる炎に、涙ぐんだ目がちらりと光った。
絵里は手を上げてそっと頬の涙を払った。離婚が正式受理されるまでに時間がかかると知ると、スマホを取り出して航空会社に電話をかけた。
「もしもし、30日後のM国行きの航空券を一枚お願いします」その言葉が終わらないうちに、寝室の外から子どもの苛立たしげな声が聞こえてきた――
「ママはどこ?なんでご飯も作らないの?掃除もしてないし!ほんとダメだなぁ……颯花さんとは比べものにならないよ」
第2話
父子が絵里の部屋の前まで来ると、二人そろって眉をひそめた。
瑛多が鼻をつまんで二歩下がった。「なにこの匂い!」
「うわっ、マジ最悪!ママ、どうして部屋をこんなに散らかすのよ?」
育也は眉を寄せて、床に散らばった灰を見つめた。「何を燃やした?家で火を使うのがどれだけ危ないか分かってるのか?火事になっちゃうぜ」
「もう消えたでしょ」絵里は顔も上げず、自分の荷造りを続けた。「忙しいから、自分で何か作って食べてください」
瑛多はぷうぷうと頬を膨らませた。「颯花さんだって忙しいのに、いつもちゃんとしてくれるよ!ママ、自分がだらしないのはともかく、ご飯さえも作らないの?僕とパパを飢え死にさせようってわけ?ひどいよ!」
そう言うと育也の手を引っ張って甘えた。「パパ、颯花さんを呼んで!ママなんて家政婦さん以下だよ!母親失格!」
育也は瑛多の頭をぽんと撫でた。「行っておいで」
瑛多は甲高く笑いながら弾む足取りで階段を駆け下りた。
振り返った絵里と、育也の冷たい視線がぶつかった。
「5分で片付けろ。みっともない」
そう言い捨て、彼も去っていく――まるで彼女の傷みなんて、どうでもいいかのようで。
誰も気付かないゴミ箱の中には、捨てられた指輪と、瑛多のために手縫いした小さな服があった。
この家での彼女に関わる全ては、消しゴムのカスに等しいほど取るに足らない存在だ。
スーツケースを引きずって部屋を出ると、廊下で瑛多が電話をしていた。
「颯花さん、ご飯一緒に食べて!家政婦さんに颯花さんの大好物作らせるから!豚の角煮と鰻の蒲焼きね!」
絵里は嗤った。家族にとって彼女はただの「無料で働く家政婦」――妻でも母親でもないようだ。
感謝の一言もなく、侮辱されるだけの日々、もう、こりごりだった。
すぐに階下でドアが開く音がして、瑛多が「颯花さーん!」とはしゃぐ声が聞こえた。
階下から漂ってくる料理のいい匂い。
それでも絵里は顔を上げることさえしなかった。
考えなくてもわかる――あの食卓に、自分の席はなかったのだ。
絵里はまとめ済みのスーツケースを押入れの奥に隠すと、静かに階下へ向かった。
リビングでは、育也と颯花が並んで食事をしている。横では瑛多がせっせと颯花のお皿に料理を取っている。
「颯花さん、これ、美味しいよ!絶対気に入るよ!」
颯花は「あら、ありがとう」と笑みを浮かべつつ、絵里の存在を完全にスルーした。
颯花は嬉しそうに目を細めて言った。
「瑛多、どうして私の好物全部覚えてるの?もう、そんなことまで気にかけてくれるんだ」
瑛多は胸を張って言った。「だって、颯花さんのこと大好きだもん!もし颯花さんが僕のママだったら、好きな料理全部覚えるよ!大人になったら、颯花さんのためだけに作ってあげる!」
絵里の足が止まった。胸の奥に、無数の針で刺されるような痛みが走った。
もうどうでもいいと思っていたのに、瑛多の言葉には、やっぱり無理。
前世、息子がほんの少し優しく話しかけてくれるだけで、何日も嬉しくなったものだった――ましてや自分のために何かしてくれることなど、夢にも思わなかった。
絵里はその場にもう一分も居られなかった。振り返りもせず、二階へ駆け上がった。
ドアを閉め、すべてを外へとシャットアウトした。
あと一月、たった一月だけ我慢すれば――この息苦しい場所から逃げ出せる。
しばらくして、階下の喧騒が次第に静まっていった。
絵里がそろそろ出かけようとした時、ドアの外から瑛多の甘えた声が聞こえた。
「颯花さん、帰らないで!僕、颯花さんに寝かしつけしてほしいな」
颯花は甘やかすような口調で答えた――もう完全な母親モード。
「はいはい、じゃあ部屋に行こう」
絵里は拳を握りしめ、バルコニーへ出た。
設計上、彼女の部屋は瑛多の部屋と隣接していて、いつでも子供の世話ができるようになっていたのだ。バルコニーのドアを開けると、颯花が瑛多に絵本を読んであげる声が聞こえてきた。
その声に耳を傾けながら、絵里の頬を涙が伝った。
前世と今生を合わせて、二世分生きているのに、自分はどうしても息子とこんなに親しくなれない。
なのに、颯花には簡単にできた。
部屋では、颯花がソファに座り、育也に優しい眼差しを向けた。「私たち二人、瑛多に付き添ってね」
育也が傍に座ると、颯花はうっとりとした表情で彼の横顔を見つめた。「育也君、瑛多のためにも、私のためにも、いつ望月絵里と別れるの?あなたたちの結婚って、形だけなんでしょ?」
「私、瑛多のママになりたい。彼も私のことが大好きだし……そして私たちも、もう一度やり直せるよね」
育也は眉をひそめて彼女を見つめた。
沈黙が続き、彼は視線を逸らして、ようやく重い口を開いた。「絵里には……責任があるんだ」
会話が絵里の耳に届いて、彼女は嗤った。瞳には嘲笑がにじんでいる。
責任って?
「無料の家政婦」が手放せないだけだろう。
颯花は諦めきれない様子で詰め寄った。「まさか、彼女に未練が?」
育也は即座に否定した。「ありえないだろ。だが、彼女は瑛多の実の母だ。少なくとも瑛多には、形だけでも、ちゃんとした家庭を与えたい」
この二人のやり取りが瑛多の耳に届いた。
颯花をびっくりさせようと寝たふりしてたのに、それを聞いて布団の下で小さな手がぎゅーっと握った。
ママなんて、大嫌い。
ママがいなきゃ、颯花さんが新しいママになってくれるのにな。
ママにはどこか遠くに行ってほしい。
大人の声が消えたのを確認して、ようやく目をこすりながら起きたふりをした。
部屋にはもう育也の姿はなく、颯花だけがベッドサイドで絵本を片付けている。
「颯花さん、パパは?」瑛多はそっと彼女の服の裾を引っ張り、小さな声で尋ねた。
振り返った颯花は、瑛多のふっくらした頬をつんとつまんで言った。「パパはお仕事があるから、書斎に戻ったよ」
「もう起きちゃった?もう少し寝ようか」
瑛多は首を振り、彼女の腕を揺すりながら甘えた。「颯花さん、明日遊園地に連れて行って!お願い!」
颯花は少し困ったように笑って、優しく断った。「でも明日は学校でしょ?今度の休みに連れて行ってあげるね」
「いやだ!絶対明日行く!」ぶーたれ顔の瑛多は涙が零れそうな目で訴えた。「颯花さん、遊園地ずっと行ってないんだもん!お願い!学校のほうは、なんとかするから!」
しつこいお願いに根負けした颯花は、小さくため息をついた。「はいはい、わかったよ。明日用事が終わったら、迎えに来てあげる」
第3話
翌朝。
颯花はとっくに立ち去り、絵里は朝食をとりに階下へ降りた。
それを見つけた瑛多は、悪戯っぽく笑ってキッチンへ走り、温めた牛乳を運んできた。
「ママ、牛乳どうぞ!熱いうちにね」
普段、多忙な父親に代わって登校を任されている母親さえ動けなくすれば――颯花さんとの遊園地の約束が果たせるのだ。
絵里は無表情で瑛多を見た。また何か企んでいるのだろうが、もはやどうでもいい。
彼女は牛乳を一気に飲み干した。
どこか変な味がした。確かめようとした瞬間、豆の青臭い味が喉までこみ上げてきた。
絵里は瑛多をまじまじと見つめ、声を詰まらせた。「これ、何を入れたの!?」
瑛多はうつむいて言った。「豆乳だよ……ママ、嫌いなの?僕がわざわざ入れてあげたんだよ」
信じられない!私が豆乳アレルギーなのに!
絵里はそう思うとすぐに、喉が締め付けられるような感覚が押し寄せ、息ができなくなってその場に倒れ込んだ。意識が遠くなる中、瑛多が不満そうに呟く声がかすかに聞こえた。
目が覚めると、病室だった。
振り返ると、瑛多が不満げな表情でベッドの脇に立っている。絵里が目を開けたのに気づくと、彼は慌てて表情を繕い、鼻をすすりあげて声を詰まらせた。「ママ、やっと起きたんだ……もう、ずっと……」
その言葉に、絵里は体が一瞬固まった。これまでは、彼は私の不幸をむしろ喜ぶはずだったのに――なぜ突然、心配するようなふりを?
瑛多の後、育也が冷たい眼差しを向けている。
「アレルギー程度で、わざわざ病院まで運ばせるような真似は大げさじゃないか?」
「ママ、僕のことで怒ってるから、わざと倒れたふりしたんでしょ?」瑛多はしょんぼりとうつむいた。「ごめんね、もう怒らないで、謝るから。早く起きて、学校に送ってよ!」そう言いながら、彼は母親の手首を握り、点滴のチューブを意地悪く引っ張った。
点滴の針が皮膚を引き裂く鋭い痛みに絵里は顔をしかめた。絵里が無意識に瑛多を押しのけると、彼はよろめいて倒れそうになった。
「正気か!?子供に手を出すなんて!」育也の怒声が響いた。
「わあーん!」瑛多はワッと泣き出し、ベッドの絵里を叩きながら叫んだ。「悪いママ!大嫌い!!」
暴れ回る瑛多の手に引っ張られ、鋭い痛みに絵里の顔が一瞬で青ざめた。透明だった点滴チューブがみるみるうちに逆流した血液で赤黒く染まっていった。
ようやく針が抜けた時には、彼女の手の甲は見るも無惨に腫れ上がり、鮮血が真っ白なシートに不気味に広げた。
鼻腔を衝く鉄臭い匂いが、病室の重苦しい空気を一層濃厚にした。
瑛多は驚きで涙の演技も止み、茫然と絵里を見つめていた。育也も一瞬たじろぎ、思わず傷口を押さえようと手を伸ばすものの、途中で躊躇し、引っ込めてしまった。
激痛に喘ぎながら息を整えると、絵里は自ら点滴の針とチューブを全て引き抜いた。
十ヶ月をかけて産んだ子を静かに見つめて、寂しげに微笑んだ。「瑛多、それほどまでにママが憎いの?死んでほしいの?そうすれば、新しいママが来ると思っているの?」
小細工が見透かされ、瑛多は俯いてモゴモゴと言い訳もできず、ただ育也の服の裾を必死に握りしめている。
育也は唇を噛みしめ、冷たい口調で言い放った。「わざとじゃないだろう、そんなことでガタガタ言うな。 自分の子なんだから、もう少し大目に見てやれよ」
絵里はもう限界だ。
アレルギーのことは、家族全員が知っている。
瑛多はわざと豆乳を混ぜ、彼女を死ぬ寸前のショック状態に追いやった。それなのに育也は、彼女が「ガタガタ」と言うのか?
「じゃあどうすんだよ?この命でも差し出せば満足?」
育也の表情がさらに暗くなった。「一言言っただけだ。死ぬだの生きるだの、大げさな。絵里、いつから人を脅すようになった?」
言ってるそばから、ドアが開いて颯花が現れた。
瑛多の目がぱっと輝き、すぐに彼女の懐に飛び込んで、すすり泣きながら告げ口した。「ううっ……颯花さん!ママが怖いの、僕を叩いたんだよ!」
颯花は涙目の絵里を一瞥し、そして怒気を帯びた育也を見つめると、その微妙な空気を一瞬で察するように優しく瑛多の頭を撫でた。「瑛多、もう泣かないで。私も悲しくなっちゃうよ」
颯花はお見舞いの品を置くと、さも当然のように育也の隣に立った。そこにいる二人が絵に描いたような仲の良い夫婦に見えて、絵里の胸はさらに痛んだ。
颯花は申し訳なさそうにうつむいた。「絵里さん、ごめんね、私が瑛多と仲良くしすぎたせいで。悪い子じゃないだ、ただ母親の愛情に飢えてるだけなんだ」
その言葉の裏には、絵里という実母は無価値だと。
そうか、まあね。
自分こそが邪魔で無能な存在だというなら、いなくなればいい。
誰の望みも、きっと叶えてあげる。
……
病院の受付カウンターで、絵里はカルテを差し出した。
「退院手続きをお願いします」
看護師が彼女の腫れ上がった手を見て眉をひそめた。「302号室のアレルギーの方でしょう?まだ治まっていないのに……」
「用事がありますので、退院手続きをお願いします」絵里の声は枯れている。
看護師は頑な首を振った。「ダメです。あなたのアレルギー症状は深刻な状態です。ご家族の同意なしでの退院はお断りします」
絵里は言葉を失った。
家族?もう、とっくに家族なんていない。
しばし沈黙した後、彼女は書類を握りしめ、背を向けた。自分で退院すると決意した。
階段口で、降りてきた颯花とばったり顔を合わせた。
「まだいたの?」颯花は嫌味たっぷりに言った。「まさか、誰も追いかけて来なくて芝居が続けられなくなったんじゃない?望月絵里、もし離婚を撤回しようものなら、社会的に葬ってあげるわよ」
絵里は冷たい目で颯花を見た。「焦らなくていい。すぐにいなくなる。離婚が正式受理されると、一分も遅れはしない。むしろあなたこそ――
クズ男にそんなに必死?後悔しちゃうよ」
颯花は腹立たしさで拳を握りしめた。この小娘が、何様のつもりでそんな態度をとるんだ?
あの時、椎名家に異変さえなければ、育也の妻は私だったはずなのに。
図々しいったらありゃしない……この恩知らずめ!
階上からかすかな足音が聞こえてきた。
颯花は上を見上げ、口元に悪意の笑みを浮かべた。
そして絵里の耳元に顔を寄せ、ささやくように言った。「望月絵里、今日という日に、あなたの負けがどれほど決定的なものか、思い知らせてあげる」
第4話
そう言うと、颯花は突然絵里の手を掴み、表情を一変させて哀れっぽく訴えかけた。
「絵里さん、ごめんなさい、瑛多と仲良くするつもりじゃなかったんだ。でもあの子のことが本当に好きで……
私が悪かった。お願い、傷つけないで。私と育也君が一緒にいるのが嫌なら、もう会わないから。二人の結婚生活にはもう関わらない。
お願いだから……あっ!」
演技をしている颯花は、悪戯っぽく笑うと、そのまま後ろに倒れこんだ。
彼女の細い体が階段を四、五回転がり、踊り場でようやく止まった。乱れた髪、惨めな姿、そして光る涙。
その弱々しい泣き声は、見る者の胸を締め付ける。
「颯花さん!」
育也と瑛多の焦げるような呼び声が、呆然とする絵里の意識を引き戻した。いつの間にか父子は階下に降りてきて駆け寄っている。
床に伏した颯花は痛みに呻き、育也を見ると、いっそう涙をあふれさせる。
「育也君、ごめん……全部私が悪いんだから。絵里さんのこと、責めないで……私が彼女を怒らせちゃったの……」
育也は颯花をお姫様抱っこして、暗く燃える瞳で絵里を睨みつける。
「望月絵里、お前に人間の心はあるのか?颯花に何かあったら、その痛みは百倍にして返してやる!」
絵里は呆然とその場に立ち尽くしている。
男の眼差しに溢れるのは明らかな想い――しかしそれは、決して自分に向けられる温もりではない。
五年間の結婚生活で、一度だって彼にそんな風に大切にされたことはなかった。しかし今、別の女性にはそんなにも心を配る。そして、自分の大事な息子は、泣きそうな顔で絵里を一瞥もせず、父の後を追って駆け出している。
「颯花さん、もう少し我慢して、すぐ医者に診てもらうから、大丈夫だよ」
遠くから聞こえる瑛多の声が、絵里の神経を少しずつ蝕んでいる。
幼い声が階段全体に響き渡った。「ママ最低!颯花さんが可哀想!」
「颯花さん、安心して、もうあの人をママなんて呼ばないから!これからは颯花さんが僕のママだ!」
絵里の心臓は、まるで誰かに握り潰されるように激しく痛んでいる。
冷や汗が流れ、呼吸も乱れる。
瑛多の言葉が、呪いのように耳裏にこだましていて、頭から離れない。
彼女はようやくわかった――この五年間、必死で守ってきた親子の絆は、これで本当にぷつりと切れてしまったのだ。
携帯が鳴り、絵里は機械的に応答した。
「もしもし、どちらでしょうか?」
絵里のしわがれた声に、向こうは一瞬戸惑ったようだ。
少々間を置いて、向こうは丁寧な口調で言った。「望月絵里様でいらっしゃいますか、国際航空でございます。ご予約の航空券が発券されましたので、搭乗時間のご確認をお願いいたします」
絵里は喉の奥にこみ上げる苦さを飲み込んだ。
「日程を早めてください。一刻も早く、ここを離れたいんです」
これから先、彼女の世界に育也も瑛多もいない。
ただ望月家の娘として、望月絵里として生きていく。
誰もが彼女を嫌うなら、遠くへ行けばいい。二度と戻らなければいい。
……
病院。
ベッドに横たわる颯花の青白い顔を見て、瑛多の目に涙がにじんだ。彼女の胸に飛び込み、声を詰まらせながら小さな手で颯花の小指を強く握りしめた。
「颯花さん、ごめん……アイスクリームを買いに行ってくれなきゃよかった、ママにいじめられて、階段から落ちることもなかったのに。
ママなんて、大嫌い!一生許さないから!」
詳細な検査の結果、脛骨の中程度骨折で、2週間ほどの安静が必要だと診断された。
しばらくはベッドから起き上がることさえできない状態だ。
ベッドに横たわった彼女は瑛多の頭を優しく撫で、無理やり笑顔を作って言った。「瑛多、あなたのせいじゃないよ。きっと私が何かやっちゃったんだね。絵里さんもわざとじゃないって信じてるから」
その痛々しい姿は、絵里をより一層悪者に見せた。
そして颯花こそが、傷つけられた無実の被害者であるかのように。
こういう揺さぶりをかけてくるような言葉は見事に効いた。
瑛多の幼い顔に怒りが広がり、ぷんぷんしながら言った。「颯花さん、ママのことをかばわないで!あの人は僕たちの仲がいいのが気に食わないから、わざと押したんでしょ!」
そう言うと、暗い表情の育也を見上げ、しっかり宣言した。「パパ、ママはいや。ママと離婚して、颯花さんと結婚してよ!」
「颯花さんこそ、僕のママにぴったりな人だもん!」
予想外の言葉に、育也は一瞬たじろいだ。すぐに沈黙に落ち、どう返事すべきか戸惑っている。
確かに絵里のことが好きではない。
だが、離婚まで考えるほどではない。
ここ数年、あの女が傍で世話を焼く生活に、いつの間にか慣れてしまっていた。別れた後の生活を考えると、なぜか気まずく感じる。
「瑛多、いくら何でも彼女は君の母さんだ。その件は――」
育也が説明しようとしたその時、颯花が優しく遮った。「瑛多、そんなこと言っちゃダメよ。ママってのは代わりがいないの。世界で一番あなたを愛してる人なんだから」
「たとえ……たとえ私がパパと一緒になっても、ママを寂しがらせたりしちゃだめ。わかった?」
瑛多は少し不満そうに口を尖らせたが、彼女の真剣な表情を見て、しぶしぶうなずいた。「わかったよ、颯花さん」
そんな彼女の思いやりのある態度に、育也の胸の中の罪悪感がさらに深まって、目に一瞬の憐れみが浮かんだ。「颯花、この件については、彼女からきちんと詫びを取らせる」
ちょうどその時、看護師がノックをして病室に入ってきた。「小林さん、お薬の時間ですよ」
ベッドサイドに近づいた看護師は、注意深く颯花の額の髪をかき分け、綿棒に薬剤を少量含ませ、優しく傷口を拭いている。
薬が傷口に触れた瞬間、颯花は息を呑み、思わず身を引く。
それを見た瑛多は、看護師をぐいと押しのけて真っ赤な顔で怒鳴る。「颯花さんを痛がらせないで!出て行って!颯花さんの手当てはあなたにはさせない!」
第5話
不意に押された看護師は床に転がった。痛みをこらえながら起き上がり、言い返そうとしたその時――
育也の冷たい視線を見て、彼女は口を閉ざした。そして、俯きながらおずおずと病室を後にした。
「颯花さん、痛いの痛いの飛んでけ~」瑛多は顔を近づけ、傷口に優しく手をかざした。
「瑛多、もう大丈夫よ」颯花は両手で瑛多の頬を包み込むようにして、目の中に溢れんばかりの愛情をたたえて言った。「私はもう子供じゃないんだから、こんなの、全然大丈夫」
瑛多は下唇を噛み、頬をぷっくりと膨らませて心配そうな顔をしていた。ふと思いついたように、期待に輝く目を上げて提案した。
「颯花さん、しばらくうちに来ない?この病院の看護師さん、全然ちゃんと面倒見てくれないし。うちなら僕とパパがちゃんと世話できるよ」
それを聞いた颯花は、さりげなく育也を一瞥し、少し照れくさそうに俯いた。「それは……ちょっと……」
「だって私、よそ者だもん。お宅に上がり込んだら、絵里さんに迷惑かかっちゃうよ。やはりそのまま、病院の方がいいわ」
瑛多はすぐに不機嫌そうな顔をして、ふんっと鼻を鳴らした。「だってママが怪我させたんだよ!ママが面倒みるのが当然じゃん!」
「嫌いなの?颯花さんが僕の言うこと聞かないなら、僕のこと好きじゃないんだね!」
颯花は「あはは」と愛想笑いをしながら、育也の顔色をうかがう。
彼は颯花への想いが本当なら、断らないはず。
長年育んできた二人の絆が、政略結婚の女に負けるわけがないと彼女は思っている。
しばし考え込んだ後、育也は静かにうなずく。「颯花、気にするな。家に来る件は……いつかあいつと話すから」
……
スーツケースを持って階下へ降りた絵里は、玄関に立つ颯花とばったり出くわした。
育也が注意を払って彼女を支え、片手には病院の荷物を持っている。
その姿を見た絵里は、足が棒のように固まり、まるで雷に打たれたように、その場に立ちすくみ、一歩も動けなくなってしまう。
これまでは、颯花とどれだけ親しくても、決して家に連れ込むことはなかった。
なのに、まだ離婚もしていないのに、彼は待ちきれないように彼女を連れ戻した。
まあね。
この関係の中、彼女はずっと部外者だ。
育也はまともに彼女を見ようともせず、淡々と言い放った。「颯花がしばらく家に住む。怪我が治ったら出て行く」
口元に苦い笑みを浮かべ、絵里はできるだけ平静を装って軽くうなずいた。「あなたが決めたことでいいわ」
「私は用事でしばらく家を出るわ。家のことはすべて手配しておいた。瑛多の面倒も家政婦が見るから」
一片の未練もなく、彼女は足早に玄関の方へ歩き出した。
「行っちゃダメ!」
瑛多が駆け寄り、彼女の行く手を遮った。「ママがいなくなったら、誰が颯花さんの面倒を見るの?」
「颯花さんが怪我したのはママのせいでしょ!ママが責任持って世話するのが当たり前!今日からずっと、颯花さんから離れていかないで!」
胸がぎゅっと締め付けられて、絵里は信じられない様子で、瑛多を見つめた。あの子の目元は、自分とそっくりだ。「え……何だって?」
「ママは颯花さんの世話をするの!」瑛多が繰り返した。その強い眼差しは、まるで刃物のように絵里の胸を刺した。息もできないほどの痛みだ。
ちっちゃい頃から、彼女は瑛多にしっかりと責任を持つ男になれるように教えてきた。
しかし、その教えが別の女性のために使われるとは。
絵里の体が震え、大きく息を吸い込み、必死に感情を抑えた。「私はあなたたち椎名家の家政婦じゃない」
前世、育也の仕事を支えるため、彼女は自ら進んで仕事を辞め、専業主婦となった。
家事の一切をうまく切り盛りをして、椎名家の父子の肌着に至るまで、全て彼女が手洗いした――彼らが他人に自分のものを触られるのを嫌い、洗濯機の雑菌を気にしていたからだ。
生まれつき病弱だった瑛多は昼夜を問わず泣き叫び、絵里は夜通しつきっきりで世話をした。
それなのに、最期は悲惨なものだった。
彼女は父子の感謝なんて望んでいない。だが、自分の献身が当たり前のように思われるのは耐えられない。
「どいて!」絵里は目の前の瑛多を軽く押しのけ、スーツケースを押して去ろうとした。
床に倒れた瑛多は、唇を噛みしめて大声で泣き出した。育也は慌てて駆け寄り、彼を抱き上げると、氷のような目で絵里を睨んだ。「望月絵里、いい加減にしろ!」
「颯花はお前のせいで骨折した。家で面倒見るくらい当然だろ、そんなことでギスギスすんな」
絵里の荷物に目をやり、鼻で笑った。「言っておく、椎名家を出たら、お前は何もできないんだ。路頭に迷っちゃうぞ。よく考えろ!」
結婚してから、絵里はずっと家に籠もりきり、生活費は全部育也が負担した。
昔のカリスマ的な望月お嬢様は、とっくに消え失せた。
バカでもこんな贅沢で恵まれた生活を手放さない。ましてやこの女は自分ぞっこん惚れ込んでいると、育也は思い込んでいる。
これほど露骨に貶され、絵里の希望も最後の一つがついに消えた。
これが、彼が私をここまで軽んじる根拠なのか。
今の絵里には価値がなく、行き場がないって彼が分かってたからこそ、ここまでつけ上がったんだ
絵里は怒りに燃える育也の瞳を冷静に見据えて、声に一切の揺らぎもなく言い放った。「椎名育也、忘れたか?五年前、うちの望月家が助けなければ、あなたもうホームレスになっていたのよ」
あの頃、椎名家は破産目前で、巨額の借金を抱えていた。
父が助け舟を出さなければ、椎名家は立ち直れなかった。
その恩返しに、育也の父親が即座に二人の婚約を決めた。
人生をやり直したのに、彼の完璧な顔を見ると、まだドキドキしてしまう。
美しいものほど、手が届かない。
何度も辱められ、大切にされず、絵里の心はもうボロボロだ。
「お前!」育也の額に青筋を立ててピキッと、顔色が一気に暗くなった。周囲の空気が凍りついた。
第6話
颯花はさっと育也の腕をつかみ、気遣うふりをして、さらに煽った。
「育也君、絵里さんが嫌ならやっぱいいわ。私、病院に戻るから、ここはあなたと絵里さんの家だし。
会いたくなったら、病院に来てくれればいいから」
絵里に深々と頭を下げて、颯花はかすかに震える声で詫びた。「ごめん、絵里さん。私、今すぐ出ていくから、二人は私のために喧嘩しないでね」
松葉杖をついて立ち去ろうとしたその時、育也に手首を掴まれた。
「颯花、俺がいる限り、君をいじめる奴はいない。ここにいていいよ」
「でも……よく考えたら……」颯花はわざとらしくため息をつき、可哀想に絵里を一瞥した。「やっぱりやめとくわ、私、二人を引き裂く悪い女になりたくない」
この引き際の上手さで、育也に選択を迫る。
目尻に一瞬、勝ち誇った色が掠め、口元がほのかにほころんだ。
今日という日、この女に身の程を思い知らせてやる。
それを聞くや、瑛多は育也の腕を振りほどいて飛び降り、颯花のもとに駆け寄り、両腕でその腰をぐっと抱きしめて、首を激しく振り続ける。
「イヤ!颯花さん、行かないで!」
彼は絵里を指さし、全身で敵意を向けるような眼差しを投げかける。「出て行くのはあんたの方だ!意地悪な女!あんたがいなくたって、僕とパパだけで颯花さんの面倒は十分見られるんだから!」
広いリビングなのに、絵里は居場所がない。あの互いに寄り添う三人の絆を眺めるだけ。
父子への期待はとっくに失っていたのに、胸の奥がまたちくりと痛む。
どんよりとした闇が覆い、光は見えない。
自分はどれほど無能な母親なんだろう。十月十日をかけて産んだ子に、他の女のために家を追い出されるとは。
五年も一緒だったのに、夫の心はとっくに私には向いてない。
「本当に出て行くつもりか?」育也がじわりと距離を詰め、上から見下ろす。「椎名家はな、好き勝手に出たり入ったりできんのだぞ」
絵里の目が冷たく凜とした色が宿る。「はい、この家はあなたたちに譲る。私が出て行くから」
「見事だ!望月絵里、やったぞ!」育也は歯を食いしばり、唇を歪めて絞り出すように言い放った。「行きたいなら行け!だがな、颯花のケガが治るまで待てよ!」
「それまで、外に出るんじゃねえ!」
その胸を張って堂々とした態度は、まるで颯花の傷の責任が全部絵里にあるとでも言うようだ。
絵里の瞳がぱっと見開かれ、胸の中にやりきれない悲しみが広がっていく。
ここ数年、必死に尽くしてきたことは、彼にとっては颯花の一滴の涙にも及ばなかった。
颯花から見れば、絵里は五年間も無意味な願いを抱き続ける滑稽な女だ。
「椎名育也、もう別れよう」絵里は深く息を吸い込み、一字一句に力を込めて言い切った。
今、胸を刺すような痛みより、あの父子の本性を見抜けなかった自分が悔しい。
「今何だって?」予想外の言葉に、育也の顔に一瞬の戸惑いが走ったが、すぐに激しい怒りに変わった。「望月絵里、お前、今何を言っているのか分かっているのか?」
彼はここ数年、人並み以上に彼女を大切にしてきたと自負している。
衣装もアクセサリーも高級ブランド品も、他の女性が持っているものは何でも、毎月秘書に最新作を家まで届けさせてくる。
それなのに絵里はこれでまだ足りないと言わんばかりに、たかが些細なことで離婚だの何だのと口にした。
育也の顔が一瞬で強張り、真っ黒に曇った。「望月絵里、何様のつもり?身の程をわきまえろ!別れるならオレが言い出す番だ。調子に乗るな!」彼の目つきが鋭く冷たくなった。
昔は、しつこく育也にすがりついてきた女が今、金持ちの奥さん生活に飽きたから出て行くのか?
この椎名家を何だと思ってんの?ふざけんなよ。椎名家は人の行き来が自由な場所じゃない!
スーツケースを持った絵里を見て、育也は背後に控える使用人に合図を送った。「絵里を部屋に連れて行け。俺の許可なしでは、一歩も外に出すな」
「かしこまりました、ご主人様」
「奥様、失礼します」使用人は袖をまくり、ゆっくりと絵里に近づき、無理やりスーツケースを奪い取る。
この使用人の行動が引き金となって、絵里の我慢の限界を超えた。
積もりに積もった怒りがついに爆発した。絵里は声を張り上げて叫んだ。「椎名育也!私を閉じ込める権利なんて、あなたにはないでしょ」
スーツケースを取り戻そうとしたが、使用人にぐいと押され、床に転んでしまった。
育也は冷たく背を向けて命令した。「部屋に連れて行け」
もみ合いの最中、スーツケースのチャックが破れ、中身が散らばった。
フォトフレームが床に転がり落ち、高く澄んだ音が客間に響き渡った。
ガラスの破片が粉々に砕けた。
そこに収められていたのは、絵里の他界した祖母の写真だ。
この世に残された最後の形見である。
使用人が止めようとする手を振り払い、絵里は床から這い上がり、狂ったように写真へすがりついた。
ガラスの破片が柔らかな指先に食い込み、赤い血の玉がしたたり落ちた。
ぽたっ――
絵里の心は湖底に沈み、静かな闇に包まれた。
絵里は写真のガラスの破片を慎重に払いのけた。痛みすら感じないかのように、涙が途切れることなく溢れ出し、たちまち顔中を濡らした。
その姿を見た育也の胸には、重い石が詰まったような苦しさが広がり、思わず一歩踏み出そうとした。
しかし、その足がまだ床を離れぬうちに、彼の手首を颯花がしっかりと掴んだ。
第7話
床に蹲る颯花が苦しそうに血の気の引いた顔を上げた。「育也君……足が痛い」
その痛々しい様子に、育也の気持ちは完全に彼女へと引き寄せられる。
もう絵里にかまっている暇はない。彼は腰をかがめて颯花をお姫様抱っこして、階段へ向かう。「すぐにかかりつけ医を呼べ」
男の決然とした背中が階段の踊り場で見えなくなり、広い客間には絵里ひとりがぽつんと取り残される。冷たい床に座り、彼女の姿は孤独そのものだ。
指先の痛みはズキズキとしている。
しかし今、胸を締め付ける苦しみがさらにきつい。椎名家の父子への想いなのか、それとも全く別の感情なのか、絵里自身にも判断がつかない。
すぐ横では、使用人がイライラした口調で催促してきた。「奥様、どうか部屋に戻ってください。荷物は後できちんとまとめますから」
床に落ちた血の跡を冷たく見下ろし、彼女は倒れた絵里を起こそうと手を差し出した。
だが、届く前に、自分の腕が荒々しく振り払われてしまった。
絵里は割れた写真フレームを丁寧に拾い上げ、ゆっくりと腰を上げた。「結構よ。私自分で大丈夫」
使用人の手から荷物を受け取ろうとしたその瞬間、突然の猛烈ななめまいが襲い、目の前が真っ暗になって気を失った。
絵里が意識を取り戻したとき、空はとっくに深い闇に包まれていた。
窓から差し込む月明かりに照らされ、自分の手がきちんと手当てされているのに気づいた。
何かを思い出したみたいに、彼女はベッドから起き上がり、まっすぐに部屋のドアへ向かった。
だが、ドアはすでに外からがっちりと鍵が掛けられていた。
「椎名育也!出して!何するつもり?開けて!
私を閉じ込める権利なんて、あんたにはないでしょ!」
絵里がどれだけ声を枯らして叫んでも、返ってくるのは果てしない沈黙だけだ。
絵里の気持ちはどん底に沈んでいく。壁際にすり寄るように座り込んだ彼女の瞳には、はかりしれない寂しさが漂っている。
わけがわからない。育也が私のこと愛してないなら、なんで部屋に閉じ込めてまで離さないのか?
ただ颯花の面倒見させるためだけ?そんなの……
絵里が考え込んでいるうちに、ドアが外から開いた。
颯花が腕を組み、目は細めて、あきらかにバカにした表情だ。「絵里、私だったらとっくに諦めて身を引いてるよ」
「五年間も必死にしがみついて、意味ある?五年経っても、育也はいつだって私のもの。瑛多もあんたのこと、母親と認めようともしない。女としても母としても、まったくの失敗作じゃないの?」
五年間も。
絵里は椎名家で冷たい目にばかり遭ってきた。
夫に無視され、息子にバカにされても、ずっと我慢してきた。
でも、結婚を壊した女が上から偉そうに自慢するのだけは我慢できない。
颯花がそんな態度でいられるのは、全部育也が後ろ盾になっているからだ。
絵里は無表情で彼女を見つめ、瞳に一切の感情の動きを見せない。「颯花さん、あなたが望むものは全てあげるわ。ただし、聞いてください。私が離れたくないのではなく、育也が私を離さないの。
彼が私を解放してくれるなら、今すぐ役所で離婚手続きを済ませられる。ただし、前提として……颯花さんにその影響力があればの話」
痛い所を突かれた颯花の顔色は一瞬で青ざめ、逆上して叫んだ。「望月絵里、あんたって本当に勘違いしてるね。育也が放さないのは未練なんかじゃない。私がそうさせてるの!
私が一言でも言いさえすれば、彼は即座にあんたと離婚するよ。覚悟しておきな」
この間、颯花は育也に何度も吹き込んでみた。あの女と別れて、自分と付き合おうって。
でも彼は毎回、さまざまな理由をつけてこの話題から逃げてばかり。
幼馴染として彼と一緒に育った颯花には、彼の考えがわからないわけがない。
もう、彼にどっちを選ぶか決めさせる時だ。
「そう?」絵里は興味深げに眉を上げ、軽く笑った。「では、颯花さんからの良い知らせを待つ」
この五年間の愛も、この家も、もう全て捨てるつもりだ。
颯花は目を細めて相手をまっすぐ見つめ、その言葉の真偽を見極めようとする。
なんだか、颯花は絵里が前とちょっと違う気がする。
前の絵里なら、育也の前でどんなに卑屈になってても、颯花が彼と一緒にいるのは我慢できなかったのに。
今の絵里は、本当にどうでもいいと思っているかのようだ。
颯花は視線をそらし、体をかわして道を譲った。「望月絵里、本当に私に譲るなら、今すぐ出て行ってもいいんだ。安心して、育也君には私から説明するから」
その言葉に、絵里はくるりと背を向け、スーツケースを手に取り、一瞬の躊躇もなく玄関へ向かった。
颯花を通り過ぎる時、絵里は一瞬足を止めた。「颯花さん、お望み通りに。お幸せに」
そう言うと、振り返りもせずに去っていった。
育也がこの別荘を手に入れた頃から、絵里は裏庭にひっそりとある裏口に目を留めていた。
あの扉から去れば、誰の目にも触れずに済む。
通りで適当にタクシーを拾って、後部座席に乗り込む。するとポケットの携帯電話が鳴った。
電話に出ると、耳当たりの良い男性の声が聞こえる。「望月様、ご依頼の航空券変更が完了しました。本日14時発となりますので、ご準備ください」
絵里は軽く返事をして、視線を窓の外へ移す。
昔は、永遠に育也と仲良くいられ、瑛多が大人になって、結婚して家族を持つ姿を夢見たこともあった。
でも今は、この場所に未練なんて何もない。
今日を限りに、絵里はただの絵里――望月絵里。椎名家の奥様という肩書は、もう過去のものだ。