風と共に過ぎ去った思い出

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風と共に過ぎ去った思い出

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「手術は無事に終了しました。胎児は完全に排出されて、子宮内に残留物は一切ありません」 結婚三周年の記念日に、葉山桐子(はやま きりこ)...

Chương (1)

第1章

「手術は無事に終了しました。胎児は完全に排出されて、子宮内に残留物は一切ありません」 結婚三周年の記念日に、葉山桐子(はやま きりこ)はまだ生まれていない我が子を失った。 「桐子!大丈夫なの?」 白衣を着た親友の白野美苗(しらの みなえ)が慌ただしくドアを押し開け、心配そうに声をかけた。 「信之が浮気したの」 桐子の表情は暗く沈んでいる。 三年前、彼女が小山信之(こやま のぶゆき)と婚姻届を提出したあの日。 桐子は信之に言った。「もし浮気したら、あなたのもとを永遠に去る」 そのとき信之は神に誓うように言い切った。 「浮気なんて絶対しないよ。もししたら、社会的に抹殺されても構わない。それでもお前に合わせる顔がなくなるくらいの覚悟はあるから」 だが昨日、桐子はようやく知ったのだ。 信之が自分に隠れて、佐伯遥(さえき はるか)と半年以上も一緒に暮らしていることを。遥は、彼女と同じようにすでに二か月の身ごもりだった。 第1話 「手術は無事に終了しました。胎児は完全に排出されて、子宮内に残留物は一切ありません」 結婚三周年の記念日に、葉山桐子(はやま きりこ)はまだ生まれていない我が子を失った。 「桐子!大丈夫なの?」 白衣を着た親友の白野美苗(しらの みなえ)が慌ただしくドアを押し開け、心配そうに声をかけた。 「信之が浮気したの」 桐子の表情は暗く沈んでいる。 三年前、彼女が小山信之(こやま のぶゆき)と婚姻届を提出したあの日。 桐子は信之に言った。「もし浮気したら、あなたのもとを永遠に去る」 そのとき信之は神に誓うように言い切った。 「浮気なんて絶対しないよ。もししたら、社会的に抹殺されても構わない。それでもお前に合わせる顔がなくなるくらいの覚悟はあるから」 だが昨日、桐子はようやく知ったのだ。 信之が自分に隠れて、佐伯遥(さえき はるか)と半年以上も一緒に暮らしていることを。遥は、彼女と同じようにすでに二か月の身ごもりだった。 一晩中眠れなかった桐子は、今朝になって胎児の様子がおかしいことに気づいた。 慌てて病院へ駆け込み、検査の結果、すでに胎児の心音が止まっていることを知らされた。 「自分の子が男の子だったのか女の子だったのかさえ、私は知らないの」 子どもの話を口にした途端、桐子の目からついに涙がこぼれ落ちた。 「小山のクズ野郎!今すぐあいつのところへ行って、はっきりさせてくる!」 美苗は怒りに震え、立ち上がって部屋を出ようとした。 しかし桐子はその手をつかみ、「美苗、子どものことは、彼には言わないで」と静かに言った。 美苗は一瞬言葉を失い、やがて落ち着きを取り戻して答えた。 「わかったわ。でも、これからどうするつもり?」 桐子は窓の外を眺めて、冷たい声で言った。 「ドイツに戻るつもりよ」 「それもいいわ。お父さんのドイツでの影響力を考えれば、小山はこの先一生あなたに会うことなんてできないでしょうね」 美苗は胸の奥にこみ上げる名残惜しさを押し殺し、桐子の手をそっと握った。 「それに、彼との離婚のことで悩む必要もなくなる」 葉山家はずっと前に一家そろってドイツへ移住しており、桐子もドイツ国籍を持っている。 彼女と信之が結婚したとき、ドイツでは結婚式を挙げていなかったため、その婚姻はドイツでは認められていない。 美苗はもちろんそのことを知っており、うなずきながら尋ねた。 「それで、いつ出発するの?」 「レストランを譲渡するつもりだから、だいたい一週間後くらいね」 桐子は幼いころから東国で活躍することを夢見ており、ようやく両親の許しを得て東国に来て、自分のレストランを開いたのだ。 彼女はあのレストランで信之と出会ったのだ。 二年間の交際を経て、三年間の結婚生活を送った。 桐子は、信之が浮気をするなど夢にも思っていなかった。 だが、現実は目の前に突きつけられている。今の彼女はただ、ここから離れたいと思うだけだ。 美苗は手術を控えていたため、少しの間桐子のそばにいたあと、病室を後にした。 桐子はベッドに横たわり、疲れ切った様子で天井を見つめ、ぼんやりとしていた。 そのとき、スマホが鳴った。 遥からのメッセージだ。 【今日はあなたたちの結婚記念日なのね?信之が須磨ホテルに部屋を取ってくれたの。今夜、私たちが何をすると思う?】 【信之ったら本当にどうかしてるわ。私、妊娠してるのに、ゆっくりさせてくれないのよ】 桐子は遥からのメッセージを見つめ、ただ目が痛くなるほどの眩しさを感じた。ちょうどその時、信之から電話がかかってきた。 「桐子、今どこにいる?結婚記念日のサプライズを用意したんだ。迎えに行くよ」 信之の声はいつもと変わらず優しく、愛情に満ちていた。 桐子には理解できなかった。浮気をしているのに、どうして彼はそれでいて、こんなにも愛おしそうな声を出せるのだろう。 桐子が黙ったままでいると、信之の声に少し焦りが混じった。 「桐子、どうしたの?」 「別に……あなたはどこ?あとで私から行くわ」 「俺は須磨ホテルにいる。やっぱり迎えに行こうか?」と信之はなおも食い下がる。 「もうすぐ誕生日でしょ?今、そのための贈り物を準備してるの。あなたが来たらサプライズにならないじゃない」 桐子は口元をわずかに引きつらせ、冷えきった眼差しを浮かべた。 「桐子、本当に優しいな!じゃあホテルで待ってるよ、早めに来てね!」 信之はそう言うと、待ちきれない様子で電話を切った。 桐子はスマホの画面に映る信之の名前を冷ややかに見つめ、「ふん、子どもの死を知っても、まだそんなに嬉しそうでいられるだろうか」とつぶやいた。 少し休んだあと、桐子はまだ疲れた体を引きずりながら、自分のレストランへ戻った。 店に入ると、スーツ姿の女性が慌てて駆け寄ってきた。 「今日は来られないって言ってなかった?」 その女性は彼女の共同経営者、佐藤祥子(さとう しょうこ)だ。 桐子は微笑み、「ちょっと相談したいことがあるの」と言った。 長年一緒に仕事をしてきた祥子は、その一言で桐子が何か重大な話を持っているとすぐに察した。 二人はオフィスに戻ると、桐子はいきなり本題に入った。「このレストランをあなたに譲りたいの」 「どうしてそんなに急なの?」 祥子は少し戸惑った様子で尋ねた。 「ドイツに帰るの。もう戻ってくるつもりはないから、あなたに譲ったほうがいいと思って」 桐子は祥子が差し出した温かいお茶を受け取り、うつむいて一口飲んだ。 「ドイツに?小山さんは知っているの?」 祥子は眉をひそめた。 「彼には知らせていないし、あなたも言わないで」 桐子の表情から気分が沈んでいるのがわかり、祥子はそれ以上何も聞かなかった。 「私がこの店を経営している限り、桐子はこのレストランの株主のままよ。ドイツに着いたら口座を教えて。毎月配当金を振り込むから」 祥子の真剣なまなざしを見て、桐子はもうそれ以上断ることはしなかった。 二人はさらにいくつかの細かいことについて話し合った後、桐子はレストランを後にし、須磨ホテルへ向かうことにした。 あの二人が今度はどんなサプライズを用意しているのか、確かめてみようと思ったのだ。 第2話 桐子がホテルに着いたとき、信之はまだ来ていない。 彼女は案内係に導かれて最上階へ向かった。 「小山社長はまたフロア全体を貸し切ってお祝いなさっています。葉山さん、こちらで少々お待ちください」 桐子は先に化粧室へ行こうと思った。 ちょうど化粧室の入り口まで歩いたところで、二人のスタッフがひそひそと話しているのが聞こえた。 「今年はどうして小山社長、二フロアも貸し切ったの?」 「しっ、声が大きい!さっき小山社長が別の女性を連れて下の階にいるのを見たのよ」 「まさか、奥さまがここにいるのに、よくもそんなことができるわね」 「金持ちは金持ちで、見なかったことにしようよ。関わらないのが一番だし」 「小山社長ってもっと一途な人かと思ってたのに」 「男ったらみんな同じよ。家の女房に飽きちゃうと、外で遊びたくなるんだから」 桐子は顔が熱くなるのを感じた。 彼女はスタッフたちを避け、こっそりと階下へ向かう。 この階の飾りつけは、上の階とまったく同じだ。 テーブルの上に並ぶケーキ、隣のシャンパンタワー、そして流れているピアノ曲まで、すべてが同じ。 遥は淡いピンクベージュのワンピースを身にまとい、信之の膝の上に腰を下ろしていた。 そのワンピースは、信之が今年発表した新作コレクションの一着だった。 桐子は数日前、信之がアクアブルーのドレスを持ち帰ったときの言葉を思い出した。 「桐子、お前の好きなピンクベージュには少し傷があって返品したんだ。このアクアブルーもお前によく似合うよ」 二人が付き合い始めてからというもの、新作が出るたびに最初に試着するのはいつも桐子だった。 だから、あのとき桐子は何の疑いも抱かなかったのだ。あのドレスは、彼が遥に贈ったものだったのか。 桐子は冷ややかに笑い、立ち去ろうとしたそのとき、部屋の中からかすかなうめき声が聞こえてきた。 振り返ると、二人が抱き合っているのが見えた。だが信之の様子は、桐子にはあまりにも見覚えがありすぎた。 桐子は驚きのあまり口を手で押さえた。 なんと、スカートの下で二人はみっともないことをしている。 「信之、すごい……」 「妊娠するとやっぱり違うな」信之は満足そうに遥の唇に軽く口づけした。 「このあと上に行くの?」 遥は信之の首に腕を回して甘える。 「桐子が上で待ってる。少しだけ一緒にいて、夜はまたお前のところに行くよ」 信之は遥を自分の上から降ろし、服を軽く整えた。 「じゃあ、彼女には触れないで」 「桐子も妊娠してるんだ。彼女は俺に触らせてくれないよ。お前みたいに面白くないからね」 信之はそう言って、優しく人差し指で遥の鼻先をつついた。 「たくさん食べておいて。今夜は長引くよ」 遥の頬は真っ赤に染まり、「もう、いやだわ!早く戻ってきてね」と甘えるように言った。 信之が部屋を出ようとしたのを見て、桐子は慌てて身を翻し、階上へ戻った。 食卓に戻って腰を下ろしたものの、桐子の胸の奥には吐き気がこみ上げていた。 桐子と遥の妊娠時期はほぼ同じだった。信之が何度、遥のベッドを離れ、自宅に戻って桐子の元へ来たか――もう彼女にはわからない。 そのことを思い出した瞬間、桐子は込み上げてくる吐き気を押さえきれず、思わず咽せた。 「桐子、どうしたんだ?」 信之がドアを押し開けると、桐子が口を押さえてえずいているのが目に入った。彼は慌てて桐子のそばに駆け寄り、心配そうに背中をさすってやった。 桐子はどう説明していいかわからずにいると、信之が胸を痛めたように尋ねた。 「もうこんなに経つのに、つわりがまだそんなにひどいのか?」 そうだ、信之はまだ知らない。二人の子どもは、もうこの世にいないことを。 桐子は胸の奥の悲しみを押し隠しながら言った。 「信之、赤ちゃんのこと……楽しみにしてるの?」 「もちろんだよ!俺たちの子供だ!どれだけこの日を待ち望んでいたか分かるか!」 信之は桐子にコップの水を差し出し、彼女の前に片膝をついた。 「桐子、もう決めてあるんだ。俺たちの子どもは会社の唯一の後継者にする。誰よりも幸せな人生を送らせるつもりだ」 唯一、ね。 ふっ。 桐子は口角を軽くつり上げ、冷ややかに笑った。 「あなたには、まだほかの子どもができるでしょう」 信之の胸がきゅっと締めつけられた。「桐子、どういう意味だ?」 「つまり、あなたには子どもが一人だけじゃないってことよ」 信之は何かを思い出したように上機嫌になり、桐子を見つめた。 「そうだな、桐子。俺たちにはこの子だけじゃない。 でもね、桐子。この子を産んで、しっかり体を休めたら、次の子を迎えよう。無理をしてほしくないから」 信之の真剣な表情を見ていると、桐子は思わずその優しさに騙されそうになった。 「ええ、あなたの子どもを楽しみにしているわ」 少し青ざめた桐子の顔を見て、信之は胸を痛め、そっと彼女を抱きしめた。 「俺たちの子どもだよ」 桐子は何も答えず、信之は彼女の体調が悪いのだと思い、手を取って立ち上がらせた。 「桐子、こっちにおいで。ピアノを弾いてあげようか?」 信之は桐子の手を取って、そばにあるピアノへと導いた。「前に体調が悪いとき、お前はよく俺のピアノを聴くのが好きだったよね」 桐子は信之の隣に腰を下ろし、真剣な横顔を見つめた。 そう、彼のピアノを聴くのが一番好きだった。 かつて信之がプロポーズのために弾いた曲も、あの須磨ホテルの屋上だった。 同じ夜、同じリズム――まるで何も変わっていないように思えた。 けれど今の信之には、彼女に隠して遥という存在がいる。そして彼女自身も、自分の子どもを守れなかった。 桐子はそっとお腹に手を当てた。そこには、もう何も残っていない。 「桐子、どうしたんだ?」 曲を弾き終えた信之が、涙を流している桐子の姿に気づいた。桐子は顔を上げ、信之を見つめた。 「信之、もしあなたが浮気したら、どうするの?」 信之は目に見えて動揺し、「俺は浮気なんてしない。絶対にしない。ずっとお前を愛しているよ!」と答えた。 桐子は信之を見つめながら、瞳に失望の色を浮かべた。 彼女は小さく首を振り、「あなたを信じてるわ。ただ、今日は少し体調が悪いの。先に帰りたい」と言った。 信之は桐子を守るようにホテルの外まで付き添った。 車に乗せようとしたその時、信之のスマホが鳴った。 彼は画面を一瞥し、眉間にためらいの色が滲んだ。 「桐子、今夜は取引先と会う約束があるんだ。一緒に帰れそうにない」 第3話 桐子は信之を見つめるその瞳は、氷のように冷たかった。 信之はその様子に気づき、慌ててスマホをしまいながら言った。 「もういい、先にお前を家まで送るよ」 「仕事が大事でしょ。運転手さんに送ってもらえば十分よ」 桐子は静かに首を振った。 信之はその反応にほっとしたように表情を緩め、車のそばにしゃがみ込むと、桐子の下腹に手を当てた。 「坊や、今日はおとなしくして、ママを困らせないでね」 信之が良い父親ぶる様子に、桐子はただ嗤うしかない。 やがて信之は顔を上げ、優しく桐子の頬に触れた。 「家に帰ったらゆっくり休んで。明日の朝はおいしいものを持って行くから」 桐子は淡々とうなずいた。 信之はまだ何か言いたげだったが、そのときスマホの着信音が鳴り響いた。彼はうつむいてスマホを一瞥し、顔に興奮の色を浮かべた。 桐子はその様子を見ただけで、すぐに察した。 胸の奥がむかつき、信之を手で押しのけてドアを閉めた。 「相手をあまり待たせないで。早く行ったら?」 そう言い残し、運転手に車を出すよう指示した。 桐子の含みのある言い方に信之は気づいたが、遥から届いた写真が彼の理性を吹き飛ばしていた。 桐子の車が遠ざかるのを待つこともなく、彼は我を忘れたようにホテルへと向かった。 桐子は車の中で黙り込んだままだった。 前方の運転手はバックミラー越しに、彼女の表情をずっと気にしていた。 その運転手は信之に十年来仕えており、彼の腹心とも言える存在だ。 桐子はその視線に気づき、皮肉めいた笑みを浮かべた。 「ちゃんと運転して。小山社長が何をしていようと私は気にしないわ」 「奥様、ご存じだったのですか?」 運転手の声にはわずかな驚きが混じっていた。 「知ってはいけなかったのかしら?」 桐子は冷ややかに笑った。 「申し訳ありません、奥様」 「あなたが謝ることじゃないわ」 「もっと早くお伝えすべきでした」 運転手の声には深い罪悪感がにじんでいた。 桐子は眉をわずかに上げた。 運転手は続けて言った。「奥様は私にとてもよくしてくださいます。本当にお優しい方です」 「そうね。知的障害者扱いされるいい人よ」 桐子は車窓の外に流れていく景色を見つめながら、自嘲気味に言った。 「佐伯は小山社長があるパーティーで知り合った方だそうです。小林さんの遠縁の親戚だと聞きました」 運転手がふいに口を開いた。運転手の言う小林(こばやし)、桐子は知っていた。 教養がなく、遊び暮らす裕福な二世で、信之の幼なじみでもある。 桐子は以前、信之に彼とはあまり関わらないようにと言ったことがある。 ところが信之は口では了承しながら、陰ではまだ付き合いを続けていたのだ。 信之はいったい、どれほどのことを自分に隠しているのだろう。 桐子が黙ったままでいると、運転手は独り言のように話を続けた。 「佐伯はデザインを学んでいましてね。小林さんが社長に頼んで、会社で彼女に仕事を用意したんです。 最初のうち、社長はよく佐伯は奥様に似ていて、負けず嫌いで頑張り屋だと言っていました。でも、佐伯は奥様のように強くはなくて、だからこそ社長は彼女を特別に気にかけていたんです。 私が二人の関係に違和感を覚えたときには、もうずいぶん前から曖昧な仲になっていました。 ただ佐伯のことが気にかかり、世話をしてあげたいだけで、奥様には不利益となるようなことは絶対にしないから、奥様に内緒にしてって社長から頼まれました。 今夜のことも、小山社長は……」 運転手は言葉を切った。 「分かった。ありがとう」 桐子は運転手をまっすぐ見つめ、真摯に礼を言った。 車はゆっくりと小山家の別荘の前に停まった。桐子は車を降り、運転手に向かって言った。 「彼には、私が知っていることを言わないで。自分で対応するから」 運転手の不安そうな視線を無視して、桐子は別荘の入り口に入った。 「奥様、どうしてこんなに早くお戻りになりましたか?旦那様はご一緒じゃないんですか?」 メイドは桐子の姿を見ると、慌てて駆け寄り、彼女のコートを受け取った。 「つい先ほど旦那様から電話がありまして、奥様が今夜あまり召し上がっていないから、いくつか料理を用意しておくようにとのことでした。私たちはてっきりお二人一緒にお帰りになるものと思っていました」 桐子は疲れたように微笑んだ。「彼は忙しいの。どんな料理を作ったの?ちょうどお腹が空いていたの」 「奥様のご好物の筑前煮はもちろん、それに、妊娠中のお体を慮ったあっさり料理もご用意しております」 桐子はいつも屋敷のメイドたちにとても親切で、決して威張った態度を取ることはなかった。 メイドたちも桐子をとても慕っており、彼女をダイニングへ案内しながら楽しげに話しかけた。 「奥様、元気を出してくださいね。旦那様も、いくらお仕事が忙しくても、奥様をお一人で帰らせるなんて」 桐子の表情が晴れないのを見て、メイドは信之が外で仕事をしているせいで、彼女の気分が沈んでいるのだと思った。 「でも、旦那様は本当に奥様に優しいですよ。さっきもたくさんの贈り物を届けてくださいました。それに、奥様がちゃんと食事をとるように見ていてほしいって、私たちに念を押して、動画を撮って旦那様に送るようにとも言われたんです!」 テーブルの上に山のように積まれた贈り物と、メイドたちが用意した料理を見つめながら、桐子の胸の奥にほろ苦い感情が込み上げてきた。 信之と共に過ごして五年。信之はいつだって変わらなかった。 贈り物は絶えず、彼の気遣いもそれと同じように細やかだった。 けれど、その優しさは今、もう一人の女性にも向けられているのだろうか。 信之と遥は、今どこで何をしているのだろう。 もうベッドの上で愛し合っているのかもしれない…… 桐子は食欲もなく、少しだけ食べると、体調が優れないと理由をつけて部屋へ戻った。 そのとき、信之からのビデオ通話がかかってきた。信之の半乾きの髪が、彼がさっきまで何をしていたのかを物語っていた。 「桐子、あまり食べていないって聞いたけど、また赤ちゃんが邪魔したのか?」 桐子は曖昧にうなずいた。 信之は桐子を見つめ、少し心配そうな表情を浮かべる。 「桐子、こっちはもうほとんど話がついたから、俺が戻って付き合おうか」 そのとき、スマホに遥からの動画が届いた。 動画の中で、信之は上半身こそきちんとした服を着ていたが、下半身はパンツ一枚だった。 彼は壁際の椅子に腰かけ、電話をしている。 桐子はその上着を見て、信之が今着ているものとまったく同じだと気づいた。 すべてを悟った桐子は、今まさに自分とビデオ通話している信之の取り繕った様子を思い浮かべ、ただ虚しさを覚えた。電話を切ろうとした。 「いいのよ、あなたは仕事を続けて。私はちょっと疲れたの……」 しかし、言葉の途中で遥からメッセージが届いた。 【信之の様子をよく見てよ、これからゲームを始めるわ】 第4話 やはり、遥からのメッセージがちょうど届いた。 画面に信之の顔色が一変し、気まずそうに足元を一瞥してから、桐子のほうを見た。 「桐子、さっき何を言おうとしたんだ?」 信之の声には抑えきれない焦りが滲んでいた。 桐子はすぐに何が起きたのかを察し、スマホをテーブルの上に置き、腕を組んだ。 「信之、どうしたの?急に顔色が悪くなったわね?」 「いや、なんでもない。ただ少し休みが足りなかっただけだ」 桐子はそのまま信之をじっと見つめ、しばらく言葉を発さなかった。 一方の信之は、すでに遥に振り回されていて、桐子の反応を気にする余裕もなかった。 桐子は嘲るように笑った。「お忙しいのなら、そのままで結構よ。私は寝るから。あんなに手がかかるお客様なら、さっさとお相手してくれば?」 そう言うと、桐子は信之の反応を待たずに電話を切った。 「本当に気持ち悪い」 彼女はくるりと背を向け、浴室へと入っていった。 温度を高く上げ、熱湯が桐子の身体を激しく打つ。 信之が帰ってくるたび、桐子はいつも香水の匂いを感じていた。 それでも、これまで一度も疑ったことはなかった。 だが今日、ようやく気づいたのだ。 信之と遥は、毎日こんなふうに過ごしていたのか。 なんて、吐き気がするほど気持ち悪い。 信之という男、本当に最低だ。 浴室を出た桐子は、部屋に飾られた二人の結婚写真を見つめ、皮肉な気持ちで胸が締めつけられた。 彼女は自分の布団を抱え、ゲストルームへと向かった。 「大丈夫、もうすぐ彼とは別れる。すべての準備が整えば、家に帰れるから」 桐子はベッドの上で身を縮めていた。 手術を終えたばかりの身体は、まだあまりにも疲れ切っている。 ほどなくして、桐子は深い眠りに落ちた。 翌朝、彼女は信之のキスで目を覚ました。 「どうしてこっちの部屋で寝てたんだ?」 信之の声は穏やかだった。 「朝、お前の姿が見えなくて、どれだけ焦ったか分かるか?」 桐子はさりげなく信之の唇を避けた。 「結婚する前から私はこの部屋で寝てたの。ここ数日、体調が悪くて戻ってきただけよ」 「今夜は家でお前のそばにいるよ」 信之は桐子の手を取り、心配そうに顔を覗き込んだ。 「桐子、よく頑張ってくれたね。赤ちゃんが生まれたら、ちゃんとお仕置きしてやらないとな」 信之の目に浮かぶいたわりは偽りではなく、その深い愛情もまた本物だ。 しかし、桐子は信之の首筋に残るキスマークを見つめ、ただその偽りに満ちた姿に嫌悪を覚えた。 「もういいわ。そばにいると余計に眠れないの。しばらく別々の部屋で寝ましょう」 桐子は信之に握られていた手を振りほどき、ベッドから降りた。 だが信之は彼女の行く手を遮り、不安げに尋ねた。 「桐子、昨日は本当に疲れてて……あのビデオ通話、いつ切ったんだ?」 桐子は冷ややかな目で信之を見返した。 信之の胸に不安が広がる。 昨日、彼は遥に振り回され、ビデオ通話のことなどすっかり忘れていたのだ。 遥は桐子は気づいていないと言っていたが、信之の心は落ち着かず、早めに家へ戻ってきた。 そして桐子が部屋にいないのを見た瞬間、冷や汗が背を伝った。 ようやく桐子の姿を見つけたとき、彼はほんの少しだけ安堵した。 今、桐子の冷ややかな視線を見つめながら、信之の胸の不安はますます強まっていった。 しかし桐子はただ静かに信之の手を離し、彼に向かって安心させるように微笑んだ。 「昨日は寝落ちしちゃって、いつビデオ通話を切ったのか覚えてないの」 そう言うと、信之がほっと息をつくのが見えた。 桐子はもう信之に構わず、そのままトイレへ向かった。 ところが、信之はなんと後を追ってきて、背後から桐子を抱きしめ、両手で彼女の下腹に触れた。 「桐子、もっと食べないと。赤ちゃんが全然大きくならないよ」 桐子は冷たく笑った。そこにはもう子どもはいないのに…… 「俺、俺たちの子どもが生まれるのを本当に楽しみにしてるんだ」 桐子は信之の両手をそっと外し、「これから顔を洗うから、外で待ってて」と言った。 信之はその様子を見て、桐子の頬を両手で包み込み、「わかった、外で待ってる」と穏やかに答えた。 桐子はようやくスマホを手に取った。 ちょうどメッセージが届いたところで、送ったのは遥だ。 案の定、遥からまた長い音声メッセージが届いており、内容は二人がベッドで交わした甘ったるい言葉ばかりだった。 「それに動画もあるけど、見せられないわ。刺激が強すぎるかもしれないし、あなたも妊娠しているんだから」 「信之は昨夜一晩中眠れなかったの。私のせいでヘトヘトよ。お腹に赤ちゃんがいなかったら、きっと今もここにいるわ」 「驚いた?妊娠していても、信之はやっぱり私と一緒にいるほうが好きみたいね」 「どうしてあなたは死ねないの?そうすれば私と信之は一緒にいられるのに」 桐子はチャットの記録を保存すると、すぐに遥をブロックした。 遥からのメッセージはいつも似たようなもので、挑発か呪いの言葉ばかりだった。 桐子は冷ややかに笑った。信之のセンスがここまで悪いとは思わなかった。 どうせもうすぐ去るのだ。行く前に二人に少しばかり不快な思いをさせてやろう…… そう考えた桐子は、スマホを取り出して弁護士の友人に連絡を取った。 外に出た桐子の目に映ったのは、スマホを手に何かを見ながら満面の笑みを浮かべている信之の姿だった。 桐子は彼と口論する気もなく、見なかったふりをしてダイニングへと向かった。 桐子が出てきたのを見ると、信之は慌ててスマホをしまいこんだ。 「早かったね」 「今日は取引先に付き添わなくていいの?」 桐子は水を一杯注ぎながら、わずかに皮肉を込めて言った。 「今日は赤ちゃんの服を買いに行くって約束しただろ?」 信之は立ち上がり、桐子を抱きしめた。「それに、昨日の結婚記念日はちゃんと過ごせなかったから、今日はその埋め合わせをしよう」 断ろうと思った桐子だったが、流産した我が子のことを思い出し、少しだけ心が和らいだ。 「記念日はいいわ。赤ちゃんのために何か買ってあげたいの」 信之は桐子の沈んだ様子に気づかず、むしろ嬉しそうに車の準備を指示した。 信之が忙しそうに動き回る姿を見つめながら、桐子の脳裏には、かつて二人の結婚式のために奔走していた彼の姿がふとよみがえった。 彼女はわかっている。信之は自分を愛してはいることを。 だが、その愛はもはや完全ではない。彼はその愛を別の女性と分け合っているのだ。 彼は自分の身体を汚し、そして、私たちの結婚生活そのものを台無しにした。 「桐子、準備できたよ。行こう!」 桐子は信之のあとに続いて車に乗り込んだ。 第5話 道中、信之は終始スマホを操作していた。 車窓の反射を利用して、桐子は数枚の露骨な写真を目にした。 考えるまでもなく、信之が遥とやり取りをしていることは明らかだ。 桐子は顔を外に向けたが、バックミラー越しに後方を走る見覚えのある車を確認した。 それは信之が先日新たに購入した車だ。 よく見ると、助手席には遥が座っている。 桐子は冷笑を浮かべ、まさか遥に贈ったとは思わなかったが、どうやら運転手まで付けてやったようだ。 隣の信之、背後の遥――桐子は自分が二人に振り回されているように感じた。 彼女は目を閉じ、二人のことをこれ以上気に留めないことにした。 モールに着くと、桐子は直行で母子用品店へ向かった。多種多様なベビー用品が並ぶ光景を目にして、思わず切なさがこみ上げてきた。 「どれが気に入った?」 信之が桐子の背後に歩み寄り、思いやりのある口調で問いかけた。 「赤ちゃんが男の子なのか女の子なのか、私にはまだ分からないの」 桐子は赤ちゃんのことを思い浮かべ、気持ちが沈んだ。 「それなら全部買えばいい」 信之は桐子を抱きしめ、「どうせ赤ちゃんはお前のように美しいに違いない。何を着ても似合うよ」と言った。 桐子が顔を上げると、信之の耳元にあるワイヤレスイヤホンが目に入った。 信之が電話を受けやすいよう常にイヤホンを着けていることを桐子は知っていたため、特に気に留めなかった。 「これも可愛いと思うけど、どう?」 信之はそばにあった淡いピンクベージュ色の小さな服を手に取り、微笑を浮かべながら桐子を見つめた。 昨日ホテルで目撃した光景を思い出した桐子は、瞬時に吐き気を覚えた。 彼女は冷ややかに笑い、「ピンクベージュ色ね、もう好きじゃないの」と言った。 桐子は信之を無視し、自ら選び始めた。 ほどなくして、かなりの品を選び終えた。 「桐子、上着を整えてくれる?」 信之は他の者を同行させていなかったため、両手には大小さまざまな包みを抱えていた。 桐子は仕方なく、彼のもとへ歩み寄った。 衣服を整えている最中、桐子は信之のもう一方のイヤホンを見つけた。 そして、信之が気づかぬうちに、それを自分の耳に付けた。 「私はピンクベージュ色がいいの!」 遥の声が、瞬時に耳元で響いた。桐子はしばし呆然とした。 信之が自分と一緒にいる最中に、遥と電話をしていたのだ。 「桐子、この小さな服、もう一着ピンクベージュ色のを買いましょう。お客様の中に赤ちゃんが生まれた方がいる。贈り物にしたい」 「信之、ほんとに素敵ね。今夜ご褒美をあげるわ!」 遥の声はねっとりと甘く響いた。 その時初めて、桐子は信之の手に提げられた品々に気づいた。 自分が選んだもののほかに、明らかに自分の好みに合わないものがいくつか混じっていた。 桐子はイヤホンを外し、そっと信之の上着の中に戻した。 そして、信之の手にある自分の分の品物を取り上げた。 「もうだいたい選び終わったわ。あなたはお客様の分を、もう少し選んだらいいと思う」 信之は、桐子の突然の表情の変化に驚かされた。彼がポケットの中にもう一つのイヤホンを触れたとき、ようやくひと安心した。 「桐子、このワンセットだけ買うなんて足りないだろう?」 桐子は手に持ったワンセットの小さな服を見つめ、わずかに悲しげな笑みを浮かべた。 「このワンセットで十分よ。私は先に帰る」 そう言い終えると、桐子は一度も振り返ることなく立ち去った。 信之は後を追おうとしたが、イヤホンの向こうの遥が何かを言ったため、ためらうことなく足を止めた。 「それじゃあ桐子、先に帰っていてくれ。俺はこの品物をお客様に届けたら、すぐ家に戻るから」 信之の声には興奮が満ちていたが、桐子は応じる気になれず、購入した衣服を抱えてショッピングモールを出た。 モールを出ると、彼女は一台のタクシーに乗り込んだ。「四季の墓地までお願いします」 桐子は流産の後、医師に依頼して赤ん坊の小さな遺体を引き取った。 彼女は赤ん坊のために墓地を購入し、生まれることのなかったその子に名前を付けた。 名を葉山辰巳(はやま たつみ)とつけた。 桐子は購入した衣服を墓石のそばに置いた。 「辰巳ちゃん、ママが会いに来たよ。辰巳に新しいお服を買ってきたの。ごめんね、守ってあげられなかった。来世では、またママの子供になってね」 桐子は墓石のそばに一人で午後いっぱい座っていた。 なぜ遥の子は無事に生まれ、何の問題もなく生きているのに、自分の子だけが早くも胎内で命を落とさなければならなかったのか。 桐子は信之の愛情をあまりにも容易に信じてしまった自分を憎んだ。 そして、遥の言動にあまりにも簡単に心を乱された自分をも憎んだ。 それに自らの子を守ることができなかった自分を恨んだ。 夜になるまでずっと座り続け、桐子はようやく立ち上がり帰宅の準備をした。 タクシーに乗り込み、スマホを開くと、見知らぬ複数のメッセージが届いていることに気づいた。 【私をブロックして何の意味があるの?ブロックしても、私は消えないわ】 【あなたが去った後、信之はまた私と一緒にいろいろ選んでくれたの。あなたが服を一着しか買っていなかったから、私は親切に同じものをあなたの分も用意してあげたのよ。感謝はいらないわ】 【信之が言っていたわ。私が男の子を産もうと女の子を産もうと、将来は私の子にも小山家の持ち株を分け与えるって】 【そうそう、信之が言っていたの。国内では私に正式な身分を与えられないから、国外で結婚するつもりだって】 桐子はスマホを置き、頭が割れるように痛むのを感じた。 小山信之、よくやってくれたね。 桐子はこめかみを押さえながら口を開いた。 「すみません、モリモリ法律事務所までお願いします」 第6話 「桐子さん、どうしてここに?」 桐子が入口に着いた途端、木下(きのした)弁護士が駆け出してきた。 「私と信之が当初締結した契約は、まだ残っていますよね?」 木下は桐子を事務所に案内し、二人の契約書を取り出した。 「ここにあります」 それは一通の婚前契約書であった。 桐子の両親は信之を好ましく思っておらず、さらに二人が長く海外に滞在していたため、娘が国内で不利益を被ることを懸念していた。 そのため、信之に対し一通の契約書に署名させたのだった。 もし信之が婚姻中に何らかの不適切な行為を行った場合、桐子の実家である葉山家がこれまで小山家に対して行ってきたすべての投資は、直ちに回収されるものとする。 また、桐子が信之に離婚を申し出た場合、信之は無条件でこれに同意しなければならない。 桐子は信之の不貞行為に関する証拠一式を木下に引き渡した。「しばらくしたら、信之の誕生日の宴の場で、これらを公表していただきたいのです。 葉山家も近日中に関連手続きを開始し、投資を回収する予定です。 私はドイツに戻ります。もう二度と帰ってくることはありません。レストランの譲渡手続については、祥子さんと連絡を取って進めてください」 桐子が冷静に事務的な指示を述べる様子を見つめながら、木下は胸が痛んだ。 「あなたがこれまで尽くしてきたことが、これで……」 桐子は首を振った。「構いません。もともと私が一方的に信之と結婚したのです。見る目がなかったのは私です。早く目が覚めたことを祝ってください」 「分かりました。じゃあ、これからの人生が幸せでありますようにお祈りします」 法律事務所を出て、桐子は空を見上げた。 両親からこの婚前契約書への署名を求められたとき、桐子は両親と激しく口論したのだ。 彼女はまさか自分が婚前契約書を使うことになるとは思ってもみなかった。 しかし、わずか三年が過ぎただけで、彼女は自らその契約書を使うこととなった。 桐子は、かつて信之を信頼していた自分がまるで滑稽な存在であったかのように感じた。 彼女は目的もなく街を歩いていた。 ふと、見覚えのある二人の背中が目に入った。 それはまさに信之と遥であった。 遥が甘えるようにあるレストランを指さしている。 それはドイツ料理の店だ。 信之はドイツ料理を好まなかった。かつて桐子とともにドイツへ赴いた際も、決して口にしようとはしなかった。 そのため、この数年間、桐子は信之に合わせて、自身の経営するレストランで彼に食事をさせたことは一度もなかった。 ところが今、桐子の目の前で、信之は遥を寵愛しながらエスコートし、そのドイツ料理店へと入っていった。 桐子は二人の後を追い、少し離れた場所に着席した。 「信之、あなたも一口食べてみてよ!」 遥は肉を一切れ切り取り、信之の口元へ差し出した。 しかし、かつてドイツ料理を嫌っていた信之は、笑みを浮かべながらそれを口にした。 「おいしい?」 「遥がくれるものは、全部おいしいよ」 「じゃあ、どうして桐子の作った料理は食べないの?彼女はドイツ料理のレストランを経営しているんでしょう?」 「彼女はお前じゃない」 信之はさりげなく肉を一切れ切り取り、遥の皿に置いた。 「実のところ、桐子の料理はまったく俺の口には合わない。けれど、彼女はお前のように俺に合わせてくれないんだ」 「それなのに、どうしてまだ彼女と一緒にいるの?」 信之は一瞬、言葉を失った。 「遥、俺は桐子が好きなんだ。お前も知っているだろう」 「だったら、なぜ私と一緒にいるの」 遥の表情には、わずかに傷ついた様子が見られた。 「それは、俺はお前が好きだからだよ。お前は彼女とは違う。正直、彼女はとても退屈だ。毎日家に帰ると、彼女がレストランから持ち帰る油の匂いが、本当に嫌なんだ。俺がその匂いを嫌うことを知っていながら、彼女はまったく気にしない。幸いにも、彼女は妊娠して以来、長い間レストランに戻っていない。 レストランと言えば、彼女は時には長い間家に帰らず、新しい料理を研究していると言ったんだ。たとえ帰ってきても、すぐに風呂に入って寝てしまった。 一番の問題は、ベッドの上でも退屈すぎることだ。時には義務を果たしているだけのように感じることさえある」 信之は水を一口飲み、その表情は桐子には計り知れないものがある。 「まあまあ、そんな気分を悪くするような話はもうやめましょう。私と一緒にいるときは楽しく過ごさなきゃ!」 遥は信之の手を軽く揺らした。 「そうだな。野暮な話はやめとくか。で、これから何したい?」 「信之が喜ぶことをしましょう」 遥が唇を舐めると、信之は意味ありげな笑みを浮かべた。 二人が去った後、桐子は席に座ったまま、長い間心を落ち着けることができなかった。 彼女の仕事は、彼女が最も得意がることだ。 毎日厨房で新しい料理を研究することは、彼女にとって最も幸せな時間だ。 しかし、そのすべてが信之によって彼女を貶める理由とされた。 かつて信之は、そのようなことを言う人ではなかったはずだ。 信之は彼女を抱きしめながらこう言ったものだった。「お前が料理をしている姿を見るのが一番好きだ」 それらはすべて演技だったのか。 信之は、桐子が帰宅する際には着替えの服を差し出し、彼女が疲れているときには入浴を手伝っていた。 それは、彼女の身体に染みついた厨房の匂いを嫌っていたからなのか。 寝室で退屈だったからなのか。 だから遥を選んだのか。 桐子は冷ややかに笑い声を漏らした。 彼女は茫然としたまま自宅へ戻った。 「奥様、お帰りなさい。旦那様がたくさんの品物をお届けになりました。どうぞご覧ください」 メイドは桐子の帰宅に気づくと、慌てて彼女を屋内へと引き入れた。 床一面に並べられた母子用品を目にし、桐子の瞳孔は大きく見開かれた。 「奥様、どうなさいましたか」 メイドは桐子の様子が普段と異なるのを見て、不安そうに問いかけた。 彼女はメイドの手を振り払い、「捨てて」とだけ言い放った。 そう言うと、逃げるように部屋へと戻った。 桐子は扉に鍵を掛けると、ベッドに伏して崩れるように泣き出した。 信之、あなたを必ず後悔させてみせる。 第7話 翌日、桐子が朝食をとっていると、信之が慌ただしく帰ってきた。 「桐子、この二日ほど用事があって、海外に行かなきゃならないんだ」 桐子は少し驚いて、「そんなに急なの?」と問い返した。 信之は足を止めることなく、あっという間に荷物をまとめてしまった。 「取引先が急いでるんだ。桐子は家でいい子にして、俺の帰りを待っててね」 そう言うと、信之はしゃがみ込み、桐子のお腹にそっと手を当てた。 「赤ちゃんもいい子にしててね。パパは数日で帰ってくるから、その間ママを困らせちゃだめだよ」 そう言い終えると、信之は立ち上がり、桐子の額にキスを落とした。 「俺を待っててね」 信之が背を向けたその瞬間、桐子は彼の腕を掴んだ。「信之、誕生日の日には帰って来られるの?」 信之は一瞬きょとんとしたが、少し考えたあと、にこりと笑って言った。「帰ってくるよ」 桐子はうなずいた。 「必ず帰ってきてね。あなたのためにサプライズを用意したの」 信之の笑顔はさらに明るくなった。 「本当?楽しみにしてるよ!」 桐子は口元を引き上げたが、目が全く笑っていなかった。 「私も楽しみにしてるわ」 信之は桐子の表情の変化に気づかず、ただ彼女を抱きしめた。 「桐子、ごめん。この二日間はそばにいられないけど、帰ったら必ず埋め合わせするから」 桐子は信之を押しのけた。「いってらっしゃい」 そのときになってようやく、信之は桐子の様子がおかしいことに気づいた。 不安そうに、彼は急いで桐子の手を握りしめた。 「桐子、家で待ってて」 桐子は何も答えず、ただ信之に早く行くよう促した。 冷たく光る桐子の瞳を見て、信之の胸に一瞬、不安が走る。 「桐子……」 何か言おうとしたその時、信之のスマホが鳴った。 通話をつなぎ、数言だけ応じると、彼は心配そうに再び桐子を見つめた。 「桐子、やっぱり……」 信之は言葉を途切れさせ、何を言えばいいのか分からないようだった。 桐子はふっと微笑み、信之の前に歩み寄る。 この三年間いつもそうしてきたように、彼の襟元を優しく整えながら言った。 「お客様のことが大事でしょう。早く行ってあげて。誕生日の夜には必ず帰ってきてね」 信之のスマホは、途切れることなく震え続けていた。 桐子に特に異常が見られないのを確認すると、信之は足早にその場を後にした。 去り際、彼はもう一度だけ振り返った。 すると、桐子が玄関口に立ち、穏やかに微笑んでいるのが見えた。 その瞬間、信之の胸がきゅっと締めつけられた。まるで、このまま行ってしまえば二度と桐子に会えないような気がしたのだ。 頭を振ってその不安を追い払い、彼は小さく自分に言い聞かせた。 「桐子は俺のためにバースデーサプライズを用意してくれてるんだ。変なこと考えるな。それに、桐子は遥の存在なんて知らない。彼女が俺から離れる理由なんてないじゃないか」 そう思い直した信之は、ようやく心を落ち着けた。 信之を見送ったあと、桐子はスマホを開いた。 そこには、今朝遥から送られてきたメッセージが表示されていた。 ――信之が彼女と一緒に海外で結婚式を挙げるという内容だった。 桐子の口元に、冷たい笑みが浮かぶ。 そして短く【おめでとう】と返信した。 ダイニングに戻った桐子は、ゆっくりと朝食を食べ終えた。 そのあと、自分の荷物をまとめ始めた。 クローゼットに入って、いちばん奥の扉を開けると、目の前に精巧な仕立てのウェディングドレスが現れた。 彼女は、信之がこのドレスを見せてくれたときの得意がる表情を、今でもはっきりと覚えている。 信之は桐子の手を取りながら、ドレスの細部を嬉しそうに説明していた。 「見てごらん、桐子。ここには最高級のシルクとレースを使っているんだ。それに宝石やクリスタルもたくさんあしらってある。 イタリアで一番有名なデザイナーに特注して、手縫いで仕上げてもらったんだ。たった今空輸されたばかりで、世界に一着しかないんだよ!」 そのとき桐子は甘く笑って冗談を言った。 「そんなに豪華だと、重くて歩けないんじゃない?」 「俺がいるから大丈夫さ!」 あの時の光景は今も鮮やかに思い出せる。 けれど今の信之は、きっと遥のために、また新しいウェディングドレスを丁寧に用意しているのだろう。 桐子は視線をそらし、ウェディングドレスの隣に置かれたプラチナのティアラを見つめた。 三年の時を経ても、その美しさに心を奪われる。 彼女はそっとティアラを手に取った。 宝石の中には、歪んだ自分の姿が映り込んでいる。 桐子はそれ以上見つめることなく、ティアラを箱に戻した。 そして、信之がこれまでに贈ってくれたアクセサリーも一緒に収めた。 そのあと、彼女は執事を呼びつけた。 桐子はウェディングドレスとアクセサリーの箱を指差した。 「これらを全部売って、そのお金を寄付してちょうだい」 執事は少し驚いたように目を見開いた。 「奥様?」 桐子は穏やかに微笑んだ。 「普段使うこともないし、誰かの役に立てばいいと思って」 執事は黙ってうなずくしかなかった。 執事が部屋を出ようとしたとき、桐子がふと思い出したように声をかけた。 「そういえば、信之の誕生日パーティーの準備はどうなっているの?」 「すべて以前のご指示どおりに進めております」 「うん、残りは私が直接手配するわ」 信之の誕生日パーティーまで、あと三日だった。 桐子はレストランの譲渡手続きを済ませると、信之の誕生日パーティーの準備に専念した。 「招待客のリストを少し調整したの。招待状をもう少し多めに印刷して。 会場には大型スクリーンを用意して。当日は映像を流す予定よ。 今回の誕生日パーティーは、会社のチャンネルを使って全部ライブ配信にして」 執事は特に疑問を抱くこともなく、桐子の指示どおりにすべての準備を進めた。 時はあっという間に過ぎ、信之の誕生日パーティー当日がやってきた。 桐子は自ら信之に電話をかけた。 「いつ帰ってくるの?」 「桐子、今ちょうど飛行機を降りて、ホテルに向かっているところだ。焦らないでくれ」 信之は少し苛立っていた。 この数日、遥がしつこく付きまとってきたため、帰国の予定を何度も延ばすしかなかったのだ。 ようやく誕生日パーティー当日に間に合って戻ってきた。 「信之」 桐子の声は静かで優しかった。 「桐子、少しだけ待っててくれ。もうすぐ着く」 桐子は空港の外に立ち、信之が遠くから慌ただしく外へ出てくるのを見つめていた。 彼女の唇に、冷ややかな笑みが浮かんでいる。 「信之、そんなに急がなくてもいいわ。あなたのために用意したサプライズは、ちゃんとそこにある。逃げたりしないから」 電話を切ると、桐子は一度も振り返らずに搭乗口へと歩き出した。 「私が用意したサプライズを気に入ってくれるといいけど。 さようなら、小山信之!」