あの人は、遠い時の中に

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結婚式まであと五日。林詩織(はやし しおり)はパソコンで「結婚式のサプライズゲーム」を調べていた。そのとき、画面の右下に、LINEの新着通知...

Chương (1)

第1章

結婚式まであと五日。林詩織(はやし しおり)はパソコンで「結婚式のサプライズゲーム」を調べていた。そのとき、画面の右下に、LINEの新着通知が表示される。 【私、もうすぐ結婚するんだ。後悔してる?】 【綾香、今の俺はお金も地位も手に入れた。もう一度俺を見てくれ。 君さえ望めば、新婦なんて今からでも替えられる】 …… どのメッセージも、全部彼女の婚約者――瀬川湊(せがわ みなと)が送ったものだ。 しかも、その送り相手は他でもない。 彼女の義姉――林綾香(はやし あやか)。 たぶん湊は、まだ自分のLINEがノートパソコンでログインしっぱなしになっているのを知らなかったのだろう。 詩織は、そのやり取りを呆然と見つめている。 自分より七つ年上で、いつも自信に満ちて落ち着いた湊が、別の女性の前では、まるで子どもみたいに執着と未練をぶつけている。 画面いっぱいに並ぶ長文のメッセージは、婚約者が義姉に抱いてきた、報われない愛と苦しみのすべてを語っていた。 第1話 結婚式まであと五日。林詩織(はやし しおり)はパソコンで「結婚式のサプライズゲーム」を調べていた。そのとき、画面の右下に、LINEの新着通知が表示される。 【私、もうすぐ結婚するんだ。後悔してる?】 【綾香、今の俺はお金も地位も手に入れた。もう一度俺を見てくれ。 君さえ望めば、新婦なんて今からでも替えられる】 …… どのメッセージも、全部彼女の婚約者――瀬川湊(せがわ みなと)が送ったものだ。 しかも、その送り相手は他でもない。 彼女の義姉――林綾香(はやし あやか)。 たぶん湊は、まだ自分のLINEがノートパソコンでログインしっぱなしになっているのを知らなかったのだろう。 詩織は、そのやり取りを呆然と見つめている。 自分より七つ年上で、いつも自信に満ちて落ち着いた湊が、別の女性の前では、まるで子どもみたいに執着と未練をぶつけている。 画面いっぱいに並ぶ長文のメッセージは、婚約者が義姉に抱いてきた、報われない愛と苦しみのすべてを語っていた。 詩織はそっとチャット画面を閉じ、今度は自分を傷つけるように、二人の過去の痕跡を探し始める。 クラウドの隠しアルバム。中には2376枚もの写真が入っていた――全部、湊と綾香だけの思い出。 そこには、彼女が知らない時間が詰まっていた。 たとえば、高校時代。グラウンドでふざける綾香を、湊がカメラ越しに優しく見つめているスナップ。 大学の雪の夜。二人で同じ黒いダウンコートにくるまり、綾香は湊のマフラーに顔をうずめて、目だけがくしゃっと笑っている。 …… 最後の一枚は、去年の大晦日だった。綾香が花火の下で立っている後ろ姿。写真の片隅には、湊の手がそっと、けれど距離を隔てて、彼女の頭の上にかざされている。 写真のタイトルには、ただ一言。【さよなら】とだけ。 その日、詩織は湊と一緒に婚約パーティーを終えたばかりだった。 湊は「これで本当に過去に区切りをつける」と言っていたけれど、結局その写真も全部、秘密のアルバムにロックをかけて隠していた。まるで、誰にも見つからないように。でも肝心な痕跡は、片付けきれずに残したままだった。 付き合い始めの頃、詩織は何度も「一緒に写真を撮ろう」と頼んでいた。でも湊はいつも「写真は苦手だから」と断っていた。 だから彼女たちのちゃんとしたツーショットは、一枚もなかった。 結婚写真だけは絶対に、と何度もスタジオを回ったけれど、「最近プロジェクトが忙しいから」と、どんどん先送りにされていった。 詩織の胸は、痛みと苦さでいっぱいだった。それでも自分に言い聞かせてしまう。「湊は写真が苦手なだけ、私が嫌いなわけじゃない」――そうやって何度も心の中でごまかしてきた。 でも、いまアルバムを見てしまった。 雪の夜、綾香と並んで笑う湊。写真一枚のために鼻先を真っ赤にしながらも、嬉しそうに彼女に寄り添っている。 その瞬間、詩織ははっきり分かった―― 湊は、写真が嫌いなんじゃない。私と一緒に写真を撮りたくなかっただけなんだ。忙しいんじゃない。私との未来なんて、最初から考えてもいなかった、と。 綾香とは七年間、燃えるように愛し合ってきた。 一番熱いあの時期には、「恋人の100のやりたいことリスト」も全部一緒に叶えた。満天の星空の下でキスしたり、彼女のために高所恐怖症を乗り越えてバンジージャンプに挑戦したり――本当に、誰よりも激しくて純粋な恋だったんだ。 詩織はそっとパソコンを閉じる。指先が目元に触れて、気付けばもう、涙が流れている。目頭をぬぐうと、知らないうちに涙が流れていた。 カーペットに座り込んで、頭の中はぐちゃぐちゃだ。 そのとき、玄関の鍵が開く音がした。 詩織は慌てて涙を拭い、無理やり平静を装った。でも、すぐに湊の冷たい目と視線がぶつかる。 湊は酒と夜風の匂いを纏いながら、彼女をリビングのテーブルの上にそっと抱き上げる。指先で彼女の目尻に触れて、「どうして泣いてる?」と囁く。 問われた途端、胸の奥で我慢していたものが決壊する。 涙が止まらなくなる。ぽろぽろと湊の手の甲に落ちていく。 湊は詩織の腰をそっと抱きながら、黙って見つめてくる。 喉を鳴らして、かすかに笑い声を漏らした。その声は酒の匂いと一緒に彼女の耳元にかかる。 詩織は思わず顔を上げて、しゃがれた声で責める。「何が可笑しいの?」 彼を突き放そうとしたけど、手首を掴まれる。 熱い掌で彼女の手を自分の腰に回し、指先が手の甲を優しく撫でる。まるで「大丈夫」と言うみたいに。 「君のことを笑ったわけじゃない」湊は詩織の額をそっと額に寄せ、温かな息が唇にかかる。「ただ……可愛いなって思っただけ」 そう言って、湊はそっと詩織の唇に触れた。まるで探るように、ためらいがちに。 詩織は全身がこわばる。熱い唇がもうすぐ自分の口元に落ちそうになった瞬間、思わず顔をそらす。「やめて……」 それでも湊は動きを止めない。鼻先が彼女の頬をなぞる。呼吸はどんどん熱を帯びていく。「こうしたいんだ」 その時、詩織のスマホが鳴る。 スマホの画面に【母さん】と表示される。彼女は反射的に通話ボタンを押した。 「詩織、あと五日で結婚式でしょ。明日は二人で実家に帰ってきなさい。親戚や友達にもちゃんと挨拶して、ご飯でも食べましょう」 詩織は思わずスマホを強く握りしめる。断ろうとした瞬間、湊が彼女のスマホを横取りする。 「お義母さん、明日は詩織と一緒に伺います」 詩織はその横顔を見つめながら、この人が自分と一緒にいる理由が、全然わからなくなる。 私と一緒にいるのは、本当に私のことが好きだから?それとも、綾香さんがいるから? 今まで言われてきた優しい言葉も、愛されてきた記憶も、どれだけ本当だったんだろう。 思い切って訊ねようと唇を開きかけた瞬間、今度は湊のスマホが鳴る。 彼は電話に出て、険しい顔で何も言わず、そのまま玄関に向かって出て行く。 昔は、こんな態度を取る人じゃなかった。 あの頃の湊は、どんなに忙しくても、どんなに急な用事でも、必ず詩織のことを気遣ってから出かけていった。 それがいつからか、心ここにあらずな態度が増えた。彼女の前ではどこか上の空で、遠い人になっていく。 どうして湊が、自分の義姉とこんなにも関わりを持つようになったのか――詩織にはまったくわからなかった。この数年、湊が綾香に特別冷たかったわけじゃない。でも、妙に他人行儀だった。 その空気が変わったのは、たぶん半年前。兄が事故で突然亡くなった、あの日。 葬儀の最中、綾香が泣き崩れて倒れたとき、今までずっと距離を置いていた湊が、一番に駆け寄って彼女を抱き上げた。 そのときの湊の目には、今まで見たことのないほどの優しさと心配が滲んでいた。あとで「母親がひとりで子どもを育てるのは大変だと思っただけ」と説明してくれたけど、湊が母子家庭で育ったことも知っていたから、詩織は特に疑わなかった。 二人に過去があるのは気にしていなかった。 でも、その過去がまだ終わっていないのが、どうしても受け入れられなかった。 詩織はスマホを握りしめた。このまま誤魔化して結婚なんてできない。ちゃんと話さなきゃ、逃げずに向き合わなきゃ。 コール音が四回鳴ったあと、電話に出たのは幼い女の子。「もしもし?しおりちゃん、みなとくんならね、今ママの看病してるよ」画面には、ウサギのパジャマを着た詩織の姪の林杏奈(はやし あんな)が映っている。 カメラがぐらりと揺れ、次の瞬間、寝室の映像に切り替わった。湊がいた。 カーペットに片膝をつき、片手で綾香の首筋を優しく支え、もう片方の手で体温計を握っている。熱で真っ赤になった綾香の顔を、食い入るように見つめていた。 「まだ熱が下がらない……」聞いたことのないほどかすれた声だった。焦りが滲んでいる。「病院、行こう」 綾香は弱々しく手を振って拒み、そのまま意識を落とした。 湊は氷枕を替え、汗を拭き、濡れた髪を耳の後ろへそっとかき上げる。触れる指先は、まるで壊れ物を扱うみたいにやさしい。指が耳たぶをなぞった瞬間、綾香は無意識に湊の胸元へ寄り添った。 湊の意識は、完全に綾香だけに向いていた。迷いと葛藤と、それでも消えない気持ちが全部あらわになっている。 そして――彼はそっと身をかがめ、綾香の唇の端に触れるようなキスを落とした。 その瞬間、通話はぷつんと切れた。 詩織は、タップする指先が震えているのに気づいた。 四年も付き合ってきたのに、どうして気づかなかったのだろう。婚約者が本当に愛していたのは――自分ではなく、義姉だったなんて。 可笑しくなって、思わず笑みが漏れた。でも、その笑いはすぐに涙に変わった。 泣いて、泣いて、もう何も出なくなった頃、詩織は結婚式場の番号を押した。 「……結婚式、キャンセルでお願いします」 第2話 彼女は向こうの声を待つことなく、電話を切った。 すぐに湊から着信が入る。 詩織はスマホに手を伸ばさず、呼び出し音だけが部屋に響く。やがて自動で切れ、もう一度鳴ることはなかった。 ベッドに横になると、スマホが震えているような気がして、何度も画面を確認する。けれど、そこには何も表示されていない。 苦笑いしながら、スマホの電源を落とした。寝返りばかり打ち、夜が明けるまでほとんど眠れなかった。 ようやく浅い眠りに落ちたとき、詩織はとても長い夢を見る。 ――湊と初めて会った日の夢。 あの日、詩織は大学一年生で、湊は「業界で注目されている若手」として母校に講演に来ていた。 白いシャツに気取らない雰囲気。けれど、目だけはまっすぐで、どこか冷たい鋭さがある。 教室の最前列で湊と目が合った瞬間、心臓が跳ねた。 講演が終わると、女子学生たちが一斉にサインをもらいに押し寄せる。詩織も人混みに紛れて、汗ばんだ手でノートを差し出した。 自分の番になり、湊がノートに書かれた名前を見たとき、不意に動きが止まる。 顔を上げた湊の目から、さっきまでの笑顔がわずかに消えていた。眉がほんの少し動き、何かを確かめるような仕草。 だが、それもほんの一瞬だけ。 ノートを返すとき、指先がかすかに触れ合う。 湊は微笑み、「いい名前だね」と呟いた。 その後、湊のアプローチは本当に勢いがあった。少女漫画みたいな展開に、詩織は夢を見ている気持ちになっていた。 けれど夢の最後には、執着と未練のまなざしで、湊が綾香にキスしようとする場面が浮かぶ。 目が覚めると、枕はびっしょりと濡れていた。 ぼんやりした頭で、湊が部屋に入ってきたことにも気づかなかった。 「どんな夢を見てたの?そんなに泣いて……」 ベッドの脇で湊が詩織を覗き込む。 詩織は無言でその視線を受け止める。 まだ現実に意識が戻りきらない彼女の様子を見て、湊は静かに笑い、そっと顔を近づけてキスしようとする。詩織は反射的に顔を背けた。 湊は気にした様子もなく、軽く笑う。「結婚式キャンセルしたって、担当者から聞いたよ。そんなにやきもち焼く?」 「昨夜、杏奈ちゃんから電話があったんだ。『ママが熱を出して寝込んでる』って聞いて、手伝いに行っただけさ。シングルマザーで大変そうだったから、君の顔を立てて動いただけだよ。そんなことで怒る?」 詩織は話題をそらすように、「今日は実家に行く約束だったよね?」と言う。 湊を押しのけて、ベッドから抜け出す。もう、これ以上くだらない茶番に付き合うつもりはなかった。 夕方六時、二人は林家の邸宅に着く。 親戚たちと形式的な挨拶を交わし、席に着いた。 湊は相変わらず気が利いていて、料理を取り分けてくる。だが、綾香の好きな海鮮ばかり、さりげなく彼女の前に並べる。その一方で、詩織の皿には苦手なエビがいくつもよそわれていく。 本当は海鮮アレルギーなのに。 ――すべて、もっと早く気づいていればよかったのかもしれない。 詩織は何も言わずに、エビをそっと皿の隅に寄せる。 「詩織、オーダーしていたドレスが届いたわよ。明日、お義姉さんと一緒に試着しに行かない?」母・林佳乃(はやし かの)が声をかける。 「……もう、結婚はしない。私と湊は――」 最後まで言い切る前に、父・林誠一(はやし せいいち)の大きな声が響く。「ふざけるな!結婚は子どものワガママで決めていいものじゃない。湊君、詩織は小さい頃からわがままだから、気にしなくていい」 湊は椅子にもたれて、どこか他人事みたいに笑っていた。「お義父さん、大丈夫ですよ。俺のせいです。詩織が怒ってるだけですから、すぐに機嫌は直ります」 詩織が何か言い返そうとすると、親戚たちが間に割り込んできて、彼女の言葉は全部飲み込まれてしまう。 宴会が進むほど、詩織の居場所はどんどんなくなっていく。 ――もう、これは詩織と湊だけの問題じゃない。 家同士の結びつき。湊じゃなくても、誰かとこうして「家族のため」に結婚する運命だったのかもしれない。 それでも、昔は「その相手が湊でよかった」と思っていた。 でも、その幸せを感じた分だけ、今はただ惨めだ。 最初から好きじゃなかったなら、まだ救われた。最初から嘘を抱えていたなんて、そのほうがずっと辛い。 湊は、詩織がさっき言ったことなんて気にも留めていない様子で、テーブルの下で詩織の手をそっと握る。 まるで、わがままを言う子どもをあやすみたいに、指先をやさしくなぞる。 詩織はその手を思いきり振り払って、席を立つ。そのまま何も言わずに、階段を上って寝室へ向かった。 すぐに父の怒鳴り声が響くけれど、詩織は足を止めずに二階の寝室に向かい、ドアに鍵をかけた。 バルコニーの椅子に座る。窓の外はもう暗くなっているけれど、灯りもつけずに、ただ闇に身を沈めている。 風が肌寒くて、そろそろ部屋に戻ろうと立ち上がる。 その時、下の庭で誰かが駆け足でやってくる足音がした。息を切らした声が混じる。 次の瞬間、はっきりとした平手打ちの音が響いた。 「湊、どうかしてるの!?」 「おかしいさ……」湊の声は低くて、どこか自嘲的だった。 「君が金のために俺と別れたあの日から、俺はずっとおかしい。何もかも手に入れようと頑張ったけど、最後には君を恨むことすらできなかった。もう諦めるよ、綾香。君が望むものなら、今の俺ならなんでもあげられる。やり直さないか?」 その必死な声に、綾香は呆然としていた。 しばらくして、かすれた声が返ってくる。「湊……私は確かに会社のために林家と結婚した。でも、結婚してから夫の大輝(だいき)はすごく優しくしてくれたし、詩織ちゃんもいい子よ。もう私のことは忘れて。あなたには詩織ちゃんがいるじゃない。今日のことはなかったことにして、詩織ちゃんと幸せになって」 「やってみたさ」 湊はウッドデッキの柱にもたれてタバコをくわえる。しばらく無言のまま、静かに煙を吐き出した。 やがて、ぼそりと呟く。「でも毎晩、気が狂いそうなほど君を思い出す」 その言葉には、剥き出しの執着がにじんでいた。 綾香は驚いたように湊を見つめる。「そんなこと言って、詩織ちゃんのことはどうするの?もうすぐ結婚するんだよ。彼女のこと、本当に何とも思ってないの?」 湊は静かに笑う。「綾香、俺は詩織のことを妹みたいにしか思ってない。彼女と一緒にいるのも、君に当てつけるためだし、堂々と君に会いたかったからなんだ。君がいない日々には、もう耐えられなかった」 手にしていたタバコを指先で消し、本能的に身を乗り出す。「昨日言ったことは全部本気だよ。君さえうなずいてくれれば、新婦は今からでも替えられる。他の誰のことも気にしなくていい。君がどうしたいかだけ考えてくれればいい。あとのことは全部、俺がなんとかするから」 綾香は湊を突き放す。「ダメ!そんなの詩織ちゃんがかわいそう。もう二度と、こういうこと言わないで!」 「綾香、これが最後のチャンスだ。詩織と結婚したら、もう君のもとには戻らない。よく考えて」 第3話 分かっていたはずのことでも、実際に耳にすると心が痛む。 詩織は、いつの間にかこぼれていた涙をぬぐい、自分のふがいなさにそっと舌打ちした。 彼女と会いたいなら、そのためには誰かを踏み台にすることも、愛していない人と結婚することさえ厭わない。本当に立派な男だ――と皮肉が心に浮かぶ。 でも、なぜ彼は、自分が言い出せば私が大人しく従うと思っているんだろう? 林家の名を使って、私を縛ろうとするつもり? だったら、その思い通りにはさせない。 詩織はスマホを開き、連絡先のブラックリストから名前を解除した。 長いこと悩んで何度も文章を消しては書き直し、結局送ったのは一行だけだった。 【私と結婚しない?】 すぐに返信が届く。【は?】 【詩織、好きなときだけ呼び出して、いらなくなったらポイって、そんな扱いされる気はない】 【ちゃんと理由を言え!】 【分かったよ、目的はどうでもいい。でも遊び半分なら許さない。俺をバカにしたら、結婚式場をぶっ壊すからな】 詩織は滲んだ視界のまま、画面に指を走らせた。【明日、九時に役所前で待ってる】 もう結婚式がキャンセルできないなら、相手を変えればいい。 新郎が湊じゃなきゃいけない決まりなんて、どこにもない。 スマホの画面を消すと、下の階にはもう誰もいなかった。 体の力がすっかり抜けて、手足まで冷たく痺れる。 詩織は力の入らない足取りでベッドに倒れ込んだまま、深夜まで眠れなかった。その夜、湊は一度も帰ってこなかった。 夜が明けて、詩織はゆっくりと体を起こした。 階段を下りると、ダイニングテーブルにはすでに湊と綾香が座っていた。 綾香はにこやかに声をかける。「おはよう、詩織ちゃん。朝ごはんが終わったら、一緒にドレスショップへ行こうか?」 湊は新聞を置き、階段を降りてきた詩織を見上げる。「おはよう。ご飯を食べて、あとで車で送るから」 「大丈夫、今朝は友達と約束があるから。ドレスは自分で見に行くよ」 そう言って、詩織はそのまま家を出る。 玄関に出てから、父親を送って行ったばかりで運転手がいないことに気づいた。タクシーアプリを開くが、どの車も捕まらない。 困って立ち尽くしていると、一台の黒いベンツが目の前に止まった。 窓が開き、湊が無表情で声をかけてくる。「乗れ。友達とどこで会うんだ?送るよ」 詩織はスマホを見て迷ったが、何も言わずに車に乗り込んだ。 助手席に座ったとたん、後ろの子どもを抱いて座っている綾香に気づいた。杏奈がシート越しに顔を出し、「しおりちゃん、美味しいもの食べに行くの?連れてって!」とはしゃぐ。 詩織は頭をなでて、「また今度ね」とやさしくあやした。 その後は窓の外を見つめたまま、車内には杏奈の声だけが響いている。 やがて車が停まる。 詩織はふと湊のほうを見る。湊はグローブボックスから酔い止め薬を取り出し、水のボトルを開けて後部座席の綾香に手渡した。「これを飲めば、少しは楽になるよ」 綾香は青ざめた顔で薬を受け取り、水で流し込む。湊は何も言わず、彼女の手から飲み残した水のボトルを受け取ってキャップを閉めた。 その一連の動きがあまりにも自然で、そこには、他人が入り込めないほどの深い信頼と慣れが感じられた。 この瞬間、詩織は気付く。 湊が車酔いしないのに、いつも車に酔い止め薬を常備していた理由――それは全部、綾香のためだった。 湊に本気で愛される人は、きっと幸せになれるんだろう。 でも、その幸せは自分には関係ない―― そう思うと、詩織はふっと苦笑いを浮かべた。 「みなとくん、ママにあげたお菓子、杏奈もほしい!」 湊は杏奈の頭を軽くなで、「ママは体調悪いからね。杏奈ちゃんにはあとでお菓子を買ってあげる」と優しく答えた。 「やった!」 詩織はシートベルトを外す。「ここで大丈夫。ちょうど友達が近くまで来てるから」 そう言って、逃げるように車を降りた。 少し歩いてから、詩織はそっと振り返る。けれど、湊の車はもう、彼女がその場を離れた瞬間にはすでに走り去っていた。 しばらくすると、黒いスポーツカーが目の前に静かに停まる。 詩織が顔を上げると、運転席にはあまりにも整った横顔があった。 「それが、お前が俺と結婚したい理由?」 第4話 篠崎悠生(しのざき ゆうき)の車はずっと後ろからついてきていた。詩織が車の中で耐えているのを、悠生は全て見ていた。その姿に、なぜか胸の奥がざわつく。 「お前、俺の前だとあんなに強気なのに、なんで湊の前だと急におとなしくなるんだ?何、昔なんかやらかしたのか?」 詩織はその話題を避けたくて、声を落とす。「もし後悔したなら……」 「乗れ」 悠生が遮るように言い、目を赤くした詩織をじっと見つめた。声はどこか冷たさを帯びている。「俺に後悔なんて言葉はない。そっちこそ、今さら後悔したって遅い。最初に誘ったのはお前だろ」 スポーツカーは役所へと一直線に走り出す。 まるで、少しでも遅れれば、彼女が逃げ出してしまうのを恐れているかのように。 役所の前で婚姻届受理証明書を受け取った詩織は、一瞬現実感を失いそうになる。 婚約してからというもの、詩織は99回も入籍の予約を入れたのに、湊には99回も理由をつけて断られた。だから、もうすぐ結婚式なのに、まだ籍が入っていなかった。 今日になって、やっと分かった。本当は、入籍なんてこんなに簡単なことだったのだと。 婚姻届受理証明書をバッグにしまいかけたそのとき、詩織の視線が向かいのウェディングドレス店に引き寄せられる。 大きなショーウィンドウの前に、綾香がマーメイドラインの真っ白なドレスを身にまとって立っていた。ドレスのウエストやヒップラインは、綾香の美しさを最大限に引き立てていた。まるで、彼女のために作られたみたいだった。 杏奈が駆け寄り、綾香の脚にしがみついてはしゃぐ。「ママ、すごくきれい!」 湊がソファから立ち上がり、そっと綾香の肩に手を伸ばしてベールを整える。口元にはやわらかな微笑みが浮かび、そのまなざしは思わず見とれてしまうほどだった。 横でドレスショップのスタッフが、夢中で携帯のシャッターを切りながら声を上げた。「綾香さん、湊さんって本当にあなたのこと、よく分かってるんですね!このウェディングドレス、湊さんがデザインから関わって、仕上がるまで半年もかかったんですよ。本当にぴったりで、女神みたいです!」 詩織はうつむいて、小さく笑った。 このドレスのデザイン画を、昔、湊の書斎で見かけたことがある。そのときは自分へのサプライズだと信じて疑わなかった。 でも、今ははっきり分かる。最初からこのドレスは、自分のものじゃなかった。 ふいに視界が遮られる。 悠生が下を向いて、詩織を見下ろしている。「羨ましいのか?お前だって負けてない。安心しろ、俺がお前に北湖市で一番盛大な結婚式を用意してやる」 詩織は首を振った。「結婚式はノーザリアで挙げたい。親戚も友達も呼ばなくていい。二人だけで挙げたい。それと、私たちが籍を入れたことは、しばらく誰にも言わないでほしい」 その言葉に、悠生の表情が一気に曇る。「どういう意味だ?俺は人前に出せない相手なのか?」 睨みつけるような視線に、詩織は急いで説明する。「違う。私たちの結婚式の日、湊にとびきりのプレゼントを渡したいの」 言い終わるか終わらないかのうちに、背後から聞き覚えのある声が飛んできた。「詩織、俺にどんな贈り物をくれるつもり?」 心臓が跳ねる。 詩織が振り返ると、いつの間にか湊が立っていた。ショップの中には、すでに綾香と杏奈の姿はなかった。 湊がどこまで聞いていたのか分からず、詩織は言葉を失う。 突然、腰に腕が回される。湊が軽く引き寄せ、そのまま悠生に会釈する。「今晩は家族の集まりがあるから、先に失礼するよ」 悠生は一瞬、表情を強張らせるが、詩織が「お願い」と目で訴えているのに気づいて、黙ってその場をやり過ごした。 湊に肩を抱かれたまま、詩織は待機していた車のほうへ歩いていく。どうしても振り返らずにはいられなくて、そっと後ろを見やった。悠生は車のドアにもたれ、無造作に顎を上げてみせる。いつもの余裕ある仕草のはずなのに、どこか寂しげな影が見え隠れしていた。 その姿を見た瞬間、心臓が思いがけずチクリと痛む。 その理由を考える暇もなく、詩織は湊に助手席へ押し込まれる。 車がしばらく走ったあと、湊が低い声で口を開く。「詩織、約束を覚えてる?もう彼とは関わらないって言ったよね?」 第5話 「彼、ただ新婚祝いとしてプレゼントを渡したかっただけなのに……」 詩織が言いかけたところで、湊が遮る。「そんなのいらない。これからは彼とは距離を置いてくれ。ああいう、何かあったらすぐ手を出すような男に近づくのは危ないから」 詩織は今でも、なぜ悠生が兄の葬儀で突然湊に殴りかかったのか分からなかった。 その後、湊は悠生を訴え、悠生の家族は示談を望んだが、湊は一歩も引かなかった。 結局、間に入った詩織の説得で湊は訴えを取り下げたが、条件は「これからは悠生ときっぱり縁を切ること」だった。 しばらく沈黙が続き、湊が横顔を向けて詩織を見る。詩織はその視線に小さくうなずいた。 車が一軒家の前に止まると、湊は詩織の手を引いて中へ入る。 玄関を入った途端、小さな影が駆け寄ってきて、湊の足にしっかりとしがみついた。「しおりちゃん、みなとくん、私の誕生日プレゼントは?」 湊は笑いながら杏奈を抱き上げる。 詩織はあらかじめ用意しておいたバービーの人形を手渡す。杏奈は嬉しそうに声を弾ませて「ありがとう!」と言い、ぎゅっとプレゼントを抱きしめた。 キッチンからは焼き上がりのステーキのいい香りが漂い、親戚や友人たちが台所のまわりで賑やかに手伝っている。家中に、暮らしのぬくもりと笑い声があふれていた。 綾香がちょうど出来たてのミネストローネをテーブルに運んでくる。器の縁にはうっすらと湯気がのぼっている。詩織は思わず手を伸ばした。 そのとき、綾香の足元が何かにつまずき、手元がぶれる。 二人の手がすれ違った瞬間、熱いスープが詩織の手の甲に思いきりかかる。 火傷の痛みで思わず手を引っ込めると、指先から手の甲まで真っ赤に腫れて、一気に水ぶくれが広がる。痛みで全身が小さく震えた。 器がガシャンと音を立てて床に落ち、割れた破片が周りに飛び散る。熱いスープが少しだけ綾香の足にもかかった。 詩織が痛みで動けないでいると、湊は抱えていた杏奈をそっと下ろし、いきなり綾香の元へ駆け寄った。そのまま綾香を抱き上げ、今まで見たことがないほど切迫した声をあげる。「またドジして……大丈夫?火傷してない?」 綾香は湊の腕の中でもがきながら、小さく言った。「平気、ちょっとかかっただけ。早く下ろして、詩織ちゃんに見られたらどうするの?」 けれど湊は歩みを止めず、綾香を抱えたまま浴室へと向かう。詩織の横を通り過ぎるとき、彼女には目もくれなかった。 すぐに浴室からはシャワーの音が聞こえてくる。 リビングでは、綾香の友人たちが呆然とその場に立ち尽くしていた。誰かが詩織にも「手を冷やした方がいいよ」と声をかけようとしたが、浴室の湊が呼びかけた。「紗希(さき)さん、テレビ台の下に火傷用の薬があるはず、持ってきて」 指名された友人が動きかけると、詩織がそれを止めた。「私がやるよ。薬はそこじゃなくて、玄関の棚にあるから」 詩織は、以前使ったときそのまま置いていた薬を取りに行き、浴室の前まで運んだ。 綾香は詩織の気配に気づくと、思わず足を引こうとするが、湊はしっかりと彼女の足首を掴んで離さない。 その様子は、他の誰も入り込めない空気が漂っていた。 詩織が薬を差し出すと、湊は顔を上げずに受け取り、綾香の足を自分の膝に乗せて、丁寧に薬を塗り始める。彼女の足が濡れていても、湊はズボンの汚れなんて気にせず、ただ静かに薬を塗り続けていた。 その姿を見て、詩織の脳裏に昔のことがよみがえる。付き合い始めの頃、キッチンで鍋をひっくり返して手首を火傷したときも、湊は真っ先に駆け寄ってきて、「痛くない?薬、持ってくる!」と慌てて水道の下で冷やしてくれた。 だけど薬を取りにリビングへ行くと、電話がかかってきて、そのまま三十分も電話で話していて戻ってこなかった。結局、薬を塗ってくれることもなく、最後は薬のことを忘れて出かけていった。 詩織はそっと手首の古い火傷跡に触れる。もう色も薄れているが、その隣には新しくできた水ぶくれができていた。 ――どんなに心配しているふりをしても、本当に心までは騙せない。 でももう、そんなことに心を痛めることもない。 第6話 「まだ痛む?」 湊の優しい声が、詩織の思考を現実に引き戻した。 綾香は首を振り、ふと詩織の水ぶくれだらけの手の甲を見て、複雑な表情を浮かべる。何か言いかけたが、湊がすでに彼女を抱き上げてテーブルへ連れ戻していた。 みんなも席に戻る。 詩織は場の空気を壊さないように痛みをこらえ、杏奈の誕生日が終わるまでは帰るまいと決めた。 これが彼女に贈る最後の誕生日になるかもしれない。 食卓では、湊はほとんど食事をとらず、酒を飲むか綾香の世話ばかりしていた。 綾香がふと顔を上げるだけで、湊はすぐに彼女の欲しいものや、食べたい料理、好きなお菓子、必要な紙ナプキンまで察して用意してくれる。 綾香が何かを少しでも長く見つめていると、次の瞬間にはその品がすぐ手元に差し出される。 二人の仲の良さに、食卓のみんなが思わず和やかに笑ってしまう。 一方で、詩織を気遣うような視線を送る人もいた。 詩織は気付かぬふりをして、無言で茶碗のご飯をかきこんでいた。 やがて、杏奈の誕生日を祝う時間になる。 みんなに囲まれて、杏奈は目を閉じて願いごとをする。 誰かが冗談めかして声をかける。「うちのお姫さまは、どんなお願いごとをしたの?ここにいるお兄さんもお姉さんも叔父さんも叔母さんも、みんな魔法使いだから、きっと願いを叶えてくれるよ」 杏奈はぱっと大きな目を開き、驚きながら言った。「本当?じゃあ、みなとくんにパパになってほしい!」 杏奈は詩織のほうを見て、無邪気に尋ねる。「しおりちゃん、みなとくんをママに譲ってくれない?みなとくん、ママと私のことが大好きだもん」 その言葉にみんなが一斉に笑い出した。 湊は困ったように杏奈の鼻先をつつき、照れくさそうに微笑んでいる。 大人たちは「子どもって素直だな」と微笑ましく見守っていた。 けれど、本当に子どもは大人よりずっと本心を見抜いている。 詩織は微笑んで、「みなとくんも杏奈とママのことが大好きなら、二人に譲ってあげる」と返した。 子どもの言葉でも、大人が口にすれば重く響く。 その一言で、場の空気が一瞬で凍りつく。 まるで今まで隠していた秘密のベールが剥がれたような、重苦しい沈黙が流れた。 綾香の顔色がさっと変わる。 湊は眉をひそめて「詩織、子どもの冗談を真に受けるな」と口を挟んだ。 詩織は軽く笑って返す。「どうしたの?私も冗談で言ってるだけだよ」 しばらく気まずい沈黙が流れたが、気を利かせた誰かが話題を変え、みんなもそれに乗じて場を和ませた。 パーティーの終わり際、詩織は綾香に別れの挨拶をしようと近づく。すると、ベランダの方から誰かの声が聞こえてきた。 「綾香、どう見ても湊は、まだあんたのことを忘れられてない。大輝が亡くなって半年経ったんだし、もう一度よりを戻すつもりはないの?私、あんたの部屋にあるウェディングドレスも見たよ。湊がまだその約束を覚えてたんだね。あんなお金持ちでイケメンで、しかも一途な男を、本当に簡単に手放せるの?」 綾香は目を伏せて、答えた。「未練があっても仕方ないよ。だって湊と詩織ちゃんはもうすぐ結婚する。もし別れるとしても、私のせいにはできない。私はずっと詩織ちゃんの義理のお姉さんだから。きっといつかはまた誰かと結婚すると思う。でも、その相手が湊じゃいけないんだ」 紗希はため息をつく。「本当にあんたは責任感が強すぎるよ。恋愛ってそう割り切れないでしょ。湊が本当に未練あるのは詩織ちゃんじゃなくて綾香なのに、三人とも苦しむだけじゃない。そこまで我慢してどうすんの?」 綾香は何も答えず、ただ視線を落としたまま黙っていた。 そのとき、ふと顔を上げると、入口に詩織が立っていることに気づいた。 綾香の瞳が一瞬で驚きに染まる。 「詩織ちゃん、いつからそこにいたの?」 第7話 詩織は微笑みながら、「綾香さん、もうかえるね」と声をかけた。 綾香はほっとしたように「外はまだ雨だし、今夜はみんなお酒も飲んでるし、明日の朝までゆっくりしていけば?」と勧める。 その時、湊がベランダの角から現れ、綾香に向かってわざと距離をとった声で言った。「それじゃ、お邪魔しますね、お義姉さん」 その呼び方に、綾香の顔色が一瞬で変わった。 湊が詩織と同じように「お義姉さん」と呼ぶことなんて、今まで一度もなかったからだ。きっと、さっきの話を聞いていたのだろう。 綾香が何か言いかけたが、湊はもう詩織のそばまで歩いてきて、肩に頭をもたれかける。「詩織、なんだか頭がくらくらする。もう部屋に戻ろう」 湊が近づいた瞬間、詩織は強いお酒の匂いを感じ取った。 けれど、普段の湊なら、この程度で酔うはずがないとすぐに気づく。 詩織が押し返そうとしたその手を、湊は当たり前のように握り返した。 綾香の表情が一瞬曇り、無意識に湊の名前を呼びかける。 湊は詩織の腰に手をまわして、迷いもなく寝室へ向かった。 しばらくしてみんなが帰り支度を始めると、部屋の中も一気に静かになった。 詩織はベッドの上で悠生からのメッセージに返信していたが、隣で眠っていたはずの湊が突然、腰に手を回してくる。 「こんな時間まで、誰とやりとりしてるの?」 湊の熱い息が耳元にかかり、詩織は戸惑って聞き返した。「え……何のこと?」 湊は返事もせず、そのまま詩織の上に覆いかぶさり、腕で彼女をベッドの隅に閉じ込める。 部屋は薄暗いが、湊の瞳には明らかな独占欲と、どこか危うい情熱が宿っていた。 詩織の体がこわばる。 抵抗する間もなく、湊は強引に唇を塞いでくる。 彼の体からは冷たいお酒の香りが立ちのぼり、詩織の頭がぼんやりしていく。 必死に胸元を押し返そうとするが、湊はその手をしっかり押さえつけて、ベッドの頭側に固定した。 目を伏せたまま、湊は低く呟く。「何をそんなに避けるんだ?」 「やめて、ここはお兄ちゃんと綾香さんの部屋だよ!」 詩織が顔をそむけたその瞬間、湊は彼女の首筋をぐっと押さえ、熱い息が耳元をかすめた。「それなら、よけいに燃えるだろ?」 湊の動きは荒々しく、まるで自分の中の何かをぶつけるようだった。 詩織は必死に逃げようと手を振りほどく。そのとき、火傷の水ぶくれがつぶれ、血と膿が手の甲を伝った。 思わずうめき声をあげると、湊も異変に気づいて手を離す。 詩織の手が血で濡れているのを見て、湊は眉をひそめて何か言いかけた。 その瞬間、ドアが勢いよく開き、綾香が立ち尽くしていた。 手には酔いを覚ますためのお茶を持ったまま。 「ご、ごめんね……詩織ちゃん、湊さんに酔い覚ましのお茶を持ってきたかっただけで……こんなことになるなんて……」 綾香の声は震えていて、涙をこらえているのがわかった。 言葉も最後まで言えないまま、綾香は走り去っていく。 湊はすぐに立ち上がり、綾香を追いかけて部屋を飛び出した。 詩織はベッドを降りて窓辺に立つ。窓の外では、綾香が迷いなく雨の中に飛び出していくのが見える。 湊は大股で駆け寄り、綾香をぐいっと腕の中に引き寄せた。 その顔には、ほっとしたような安堵と、どこか吹っ切れた表情が浮かぶ。「綾香、もう認めればいいじゃないか。まだ俺のこと、忘れられないんだろ?」 綾香は唇を噛みしめ、目に涙をためて叫ぶ。 「わざとでしょ?どうして私の目の前で、詩織ちゃんとそんなことするの? どうして私を追い詰めるの?……ひどいよ、湊のバカ!」 湊は「何もしてない。泣かないで」とそっと言う。 そしてお互いに額を寄せる。 「無理に迫ったりしない。君の言う通りにする。俺は詩織と結婚するし、ちゃんと責任も取る。でも……心のどこかで、まだ俺のこと想ってくれてるなら――」 言い終わらないうちに、綾香が湊の胸元を掴み、激しくキスをした。 湊は一瞬驚いたものの、すぐに綾香の首筋を腕でしっかりと引き寄せ、今度は自分からも深くキスを返す。 まるで失ったものを取り戻すように、激しく、抑えきれない想いが溢れていた。 隣のベランダから、抑えきれない歓声が上がる。「やば!今キスしたよね!?まさかこのタイミングで復縁!?やっぱ湊って腹黒だわ~わざと綾香に仕掛けてるって……でも、推しカップル復活、最高!」 もう一人の女の人がため息まじりに言う。「七年越しの恋だもんね。そりゃあ簡単に終わるわけないよ。みんな卒業したら絶対結婚するって思ってたのに。まさか今になってまた……本当、ドラマみたい」 「でも、まだ問題山積みじゃん。湊には婚約者がいるし、綾香も簡単に踏み出せるタイプじゃないし」 「てかさ、あの婚約者、そろそろ身を引いてくれればいいのに。なんであんなにしがみついてんの?今日だってさ、湊は綾香の火傷はすぐ気にしてたのに、あの子の手があんな状態でもスルーだったじゃん。それでも我慢してるって、あの女も相当、湊に惚れてんだろうね。自分から身を引くなんて、絶対無理でしょ」 詩織は自分の傷だらけの手を見つめて、少しだけ笑った。「しがみついてる?」 ――違う。詩織は、ちゃんと愛せるし、手放すこともできる。でも、もし傷つけられたなら、必ず報いは受けてもらう。 もし湊が堂々とした態度で自分を向き合ってくれたら、綺麗に身を引くこともできた。でも、彼が自分を犠牲にして「恋」を貫こうとするなら―― その代償はきっちり払ってもらう。 そして、詩織は――すぐに二人を思い通りにしてやるつもりだった。 第8話 湊は一晩中帰ってこなかった。 朝早く、詩織は静かに目を覚ます。 ゲストルームの前を通ると、中から女の人の興奮した声が聞こえてきた。「ねえ、正直に言って、昨日の夜どこ行ってたの?……ねえ?」 綾香は顔を赤らめて、「もう、聞かないで」と控えめに答える。 「ちょっと、気になるってば!私はずっと二人のカップル推しなんだから、教えてよ〜お金払ってでも聞きたい!」 しばらくして、綾香が小さくぽつりと答える。「……車の中」 「うそ!やば!刺激的すぎ!」 友達はキャーキャーとはしゃぎ、いたずらっぽく笑う。「じゃあ、これで復縁ってこと?湊のあの婚約者のこと、どうするつもりなんだろう?」 綾香は首を振る。「ちゃんと話し合ったよ。昨日の夜は過去へのけじめだったの。 でも、私の実家と林家って長年ずっと縁が深いし、大輝が亡くなってからまだ半年だし、今このタイミングで林家を離れるなんてできない。湊の会社も最近は勢いがあるけど、まだ新しいし、やっぱり大きな後ろ盾がないと安定しないの…… だから、私たち二年だけ待つことにしたの。二年経ってもまだお互いに想い合っていたら、その時は一緒になろうって」 その友達は深くため息をつく。「やっぱり大人の世界は、若い頃の恋に勝てないのか。私の推しカップル、またバッドエンドかあ……」 綾香は窓の外を見つめて、黙ったままだった。 廊下の詩織は、それを聞いて冷たい笑みを浮かべる。 本当に、計算高い人たち。 でも、人の心をもてあそぶ人は、いつか自分も誰かに振り回される――そう思った。 詩織は気を取り直し、主寝室のドアをノックした。「綾香さん、起きてる?」 綾香はゲストルームから出てきて、詩織と目が合った瞬間、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべる。 その空気を察して、詩織が先に口を開いた。「綾香さん、湊は?」 「昨日、会社で急な仕事が入ったって言うから、先に帰らせたの。詩織ちゃんに伝えてって頼まれたけど、夜遅かったから起こしたくなくて……」 詩織はうなずく。「……じゃあ、運転手さんに家まで送ってもらえる?明日はいよいよ結婚式だから、ちょっと家で休んでおきたくて」 「もちろん」 綾香はそっと詩織の耳元の髪を撫でながら、やさしく言った。「詩織ちゃん、絶対に幸せになってね。お兄ちゃんも、生きていたらきっと一番喜んでくれたと思う。うちの末っ子が、とうとうお嫁に行くんだもん」 詩織は笑顔で「うん」と返事をした。 そう微笑み返してから、詩織の目には冷たい光が浮かぶ。 帰宅すると、湊がちょうどバスルームから出てきたところだった。 詩織の姿に気づくと、湊は慌ててシャツを羽織る。 ボタンは半分しか留めておらず、鍛えた胸元と、真新しいキスマークがちらりと見えた。 「おかえり」湊は鏡越しに詩織を見て、やわらかい笑みを浮かべる。「明日はいよいよ結婚式だし、このあと役所に行って入籍しよう」 詩織は、その優しげな眼差しを見つめながら、どこか皮肉な気持ちになる。「式が終わってからでいいよ」 「どうしたの?」 湊は歩み寄って詩織の腰に手を回す。「昨日はわざわざ会社で残業して、今日の予定を空けたんだよ?いつも俺が忙しくしてるって文句ばっかり言うくせに、今日に限って全然急がないんだな……もしかして、マリッジブルーってやつ?」 湊は顔を近づけてからかうように笑う。「バカだな、明日は美味しいものいっぱい食べて、思い切り幸せになろうな。俺がいる限り、詩織はずっと子どものままでいい。これからは俺が守ってやるから」 詩織はうっすらと微笑む。 ――もう、そんな未来は来ない。 これからは、湊を自分の世界から消し去るだけだ。 湊は詩織の元気のなさが気になったのか、さらに何か言いかけたが、その時スマホにメッセージが届いた。 ちらりと内容を確認すると、口元に微かな笑みを浮かべ、ジャケットを羽織って玄関へ向かう。 「入籍は、君がいいって思うタイミングでいいよ。今日は友達が用意してくれた独身最後のパーティーがあるから、ちょっと顔出してくる」 詩織はうなずいた。「いってらっしゃい」 湊は微笑んで、「今日はやけに素直だな。あとで夜食でも買って帰るよ」と言う。 詩織は軽く「うん」とだけ返事をした。 湊が出ていこうとした時、玄関に掛けてあったバッグをうっかり倒し、中身を床にぶちまけてしまう。 詩織が何気なく落ちた物を拾おうとしたその瞬間、床に転がったのは、「婚姻届受理証明書」の書類だった。 湊が拾い上げようと身をかがめた瞬間、詩織は勢いよくそれを奪い取り、バッグに押し込む。 湊はその様子に一瞬、眉をひそめる。「……そんなに慌ててどうしたの?」 詩織が答える前に、湊のスマホが再び鳴る。湊はそれ以上追及せず、電話を取りながらそのまま出て行った。 湊の車が走り去ったのを見届けると、詩織は物置から準備していたスーツケースを取り出し、タクシーで空港へ向かった。 移動中、詩織はグループチャットを開き、手配の最終確認をする。 【明日、各メディアの皆様は必ず時間通りにご参集ください】 メッセージを送り終えた途端、湊からLINEが届く。 【今夜は友達が開いてくれる独身最後のパーティーで、帰りはいつになるかわからない。今夜は一緒にいられなくてごめん】 詩織は湊にメッセージを送った。【うん、明日のお迎えもナシで大丈夫だよ。私たちの結婚式、どっちかが待つだけじゃなくて、ちゃんとお互いに向き合える日にしたいから。明日はあなたにサプライズがあるよ。泣かないでね】 湊からすぐに返信が来る。【分かった。全部、詩織に合わせるよ。明日のサプライズ、楽しみにしてる。じゃあ、式場で】 詩織はその画面を見つめて、かすかに苦笑いを浮かべた。 ――もう、二度と会うことはないよ、湊。 …… 華やかな結婚式場には、ドレスアップした招待客が集まり、詩織と湊――名家の娘と新進気鋭の実業家――その話題の結婚式をひと目見ようと、上流社会の人々がこぞって押しかけていた。会場はきらびやかな雰囲気に包まれ、まるで映画のワンシーンのよう。 今回の結婚式には、どのメディアも招待されていなかった。だからこそ、突然ライブ配信チームが機材を持って入ってきたとき、湊は思わず足を止め、驚きに目を見張った。