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弟のメスで死んだ日
院長でもある母さんは、研修医になったばかりの弟・久遠修斗(くおん しゅうと)に少しでも場数を踏ませたい一心で、勝手に俺・久遠蒼一(くお...
Chương (1)
第1章
院長でもある母さんは、研修医になったばかりの弟・久遠修斗(くおん しゅうと)に少しでも場数を踏ませたい一心で、勝手に俺・久遠蒼一(くおん そういち)の脳腫瘍の手術を任せてしまった。
俺は「これが本当に最後のチャンスなんだ、執刀医を替えてくれ」と母さんにすがって頼んだ。
なのに母さんは俺の頬を平手打ちし、「どうしてあんたみたいな自己中の出来損ないを産んじゃったんだろうね。弟はやっと研修に入ったばかりなのに、少し腕を磨かせてやるくらいで死ぬわけないでしょ!」と怒鳴りつけた。
やがて手術は失敗に終わり、俺はそのまま息を引き取った。母さんは、その夜のうちに髪が真っ白になるほど一気に老け込んだ。
第1話
院長でもある母さんは、研修医になったばかりの弟・久遠修斗(くおん しゅうと)に少しでも場数を踏ませたい一心で、勝手に俺・久遠蒼一(くおん そういち)の脳腫瘍の手術を任せてしまった。
俺は死んだ。弟のメスの下で。だが予想外だったのは、死んだあと、俺の魂は母さんのそばへ引き戻された。
そのとき母さんは、修斗を必死になだめていた。「大丈夫よ、修斗。蒼一はしぶといんだから、そう簡単に倒れたりしないわ。まずは家に帰って、ゆっくり休みなさい」
母さんが修斗のほうを見るその目には、溢れんばかりの愛おしさと痛ましさが宿っていた。生きていた頃、一度も向けられたことのない優しさだった。
ここ何年も、母さんが俺に向けるのはいつだってうんざりしたような態度で、口を開けば苛立ちがにじんでいた。
普段の俺は何でもないふりをして、へらへら笑ってごまかしていたけれど、本当は何も気にしていなかったわけじゃない。ただ、弱いところを誰にも見せたくなかっただけだ。
もう死んでしまった今になって、胸の底に溜め込んできた苦さが、抑えきれなくなってあふれ出す。
家に戻った途端、母さんのスマホがけたたましく鳴り出した。
電話口で病院の医者が、俺がもう亡くなったと告げると、母さんは食い気味に言い返した。
「ありえないわ!あの子の病気なんて、大したことないでしょ?腕のいい先生がいくらでもいる病院で助けられないはずがないじゃない。
どうせ修斗に手術なんてさせるから拗ねて、あんたたちと組んで私を脅かそうとしてるんでしょ。そんな安っぽい芝居、私が騙されると思わないで!」
電話を切ったあとも、母さんは最後まで全部俺の我がままだと信じて疑わない様子で、むしろ自分を責めるように顔を歪めた。
「修斗、ごめんね。全部お母さんが悪いわ。怖い思いさせちゃって。蒼一が帰ってきたら、お母さんがきつく叱ってやるからね」
言い終えたそのとたん、また母さんのスマホが鳴った。
さっきまで優しい声を出していた母さんは、画面を一瞥すると眉間にしわを寄せ、露骨にうんざりした口調になった。「さっきはっきり言ったでしょ。蒼一に伝えて。死にたいならさっさと一人で死ねって。いちいち何度も私を巻き込まないでって!」
しばらく沈黙が続いたあと、電話の向こうの声が慎重に名乗った。「久遠さんですね。私どもは警察です。久遠修斗さんが医療事故に関与している可能性がありまして、ご本人と連絡がつかないため、少しお話をうかがいたいのですが」
母さんはそこでとうとう堪忍袋の緒を切らした。「さっきから医者だの警察だのって、今度は何なのよ。あんたが誰だか知らないけど、でたらめ言うのはやめてちょうだい。いい加減なこと言ってたら、ただじゃ済まないわよ!」
相手はあわてて言い返す。「久遠さん、なにか誤解があるのかもしれませんが、私たちも法律に則って捜査を――」
母さんは、そばで怯えきった顔をしている修斗を一瞥し、露骨にうんざりした声で怒鳴った。「もういい!蒼一に伝えて。いい加減、こんなくだらない騒ぎはやめなさいって!修斗がどれだけビクビクしてるか分かってるの!」
言いたいことだけ言うと、母さんはまた一方的に通話を切った。
俺が倒れて入院してからというもの、母さんはずっと機嫌が悪かった。こんな程度でわざわざ病院にいる必要なんてないと決めつけて、俺が構ってほしくて騒いでいるだけだと思っていた。
その横で修斗が涙を浮かべ、いかにも心細そうに母さんを見上げる。「僕、怖いよ、お母さん。兄貴に本当に何かあったら、どうしたらいいの?」
母さんの目は冷え切っていた。「あの子は最初から私に見せつけたくて大げさにやってるだけよ。それに、途中でちゃんと病院で一番腕のいい先生にメスを渡したんだから、事故なんか起きるわけないでしょ。そんなことまでネタにして騒ぐなんて、本当に図に乗りすぎよ」
まだ死んだばかりの俺に向けられるこの冷たさを目の当たりにして、胸の奥がすうっと冷えていく。これまでどれだけ母さんの愛情を、哀れなくらいに一かけらでも求めてきたかを思い出すと、そんな自分が情けなくて、笑えてくる。
第2話
少し前、俺は母さんが働いているこの病院で、脳腫瘍だと診断された。
情けないことに、院長である母さんはそのことを知ろうともしないどころか、俺のことを「また大げさに騒いでいるだけだ」と決めつけていた。
診てくれた担当医は、今の俺の状態はかなり危険だと言い、「もし全国的に名の知れた脳腫瘍の権威・倉田教授に執刀してもらえれば、まだ助かる見込みがあります」と教えてくれた。
しかも、その倉田教授は、母さんの学生時代の同期で、今も付き合いのある友人だという。
俺は何度もカルテを握りしめて母さんのところへ行き、助けてほしいと頭を下げた。
けれど母さんはカルテに目もくれず、書類を床に叩きつけて言い放った。「私は忙しいのよ。いい加減、毎日こんな茶番に付き合わせるのはやめてくれない?」
そのうち俺の病状はみるみる悪化し、視神経が圧迫されたせいでついには失明してしまい、毎日ベッドに寝たきりで、痛みだけを黙って耐える日々になった。
見かねた担当医が母さんのもとを訪ね、「院長、蒼一くんは本当に危険な状態です。どうか助けてあげてください」と訴えてくれた。
母さんは顔を上げもしないで、氷のように冷たい声で答えた。「あの子に何を渡されたの?そこまでして私を騙す芝居に付き合って、楽しい?
どうせ私の気を引きたいだけでしょ。脳腫瘍だなんて、それらしい病名まで持ち出してさ。本当に脳腫瘍だったら、それはそれで静かになってくれて助かるくらいよ。
これ以上あの子の茶番に付き合うなら、あなたごとクビにするわよ。さっさと出て行きなさい!」
医者はまだ何か言おうとしたが、微動だにしない母さんの横顔を見て、諦めたようにそっと首を振った。
倉田先生に頼むことはできなかったが、もうこれ以上は待てないほど、俺の病状は限界まで進んでいた。
そこで主治医は仕方なく、せめてもの手として、この病院で一番腕の立つ脳外科医に、先に執刀を依頼する段取りをつけてくれた。
手術の前に、俺は担当医に頼み込んで、母さんにビデオ通話を繋いでもらった。もう両目は見えなかったけれど、それでも母さんの声が聞きたかったし、最後の最後でもう一度だけ、本当に病気なんだと信じてほしかった。
なのに返ってきたのは、やっぱり母さんの嘲りだった。「あら、今度は新しいネタ?今度は目が見えないフリまでして。そんな芝居で、私が信じるとでも思ってるの?
いい加減にしなさい。その程度ならちょっとした手術で終わるんだから。いつまでくだらない騒ぎばかり起こしてるのよ!」
俺が言葉を探しているあいだに、別の患者に呼ばれたらしく、母さんは通話をぷつりと切ってしまった。
ところが、夜になって思いがけないことが起きた。母さんが俺の病室に現れて、手作りの栄養たっぷりな夕食を差し出してきたのだ。
俺が倒れてからずっと顔も見せなかった母さんが、病室に来てくれたのはこれが初めてだった。
胸が少しだけ軽くなりかけたところで、母さんは何でもないことのように言った。「そうそう。あんたの執刀医、修斗に替えておいたから」
その一言で、頭が真っ白になった。有名な専門医に頼めなかっただけでも十分きついのに、よりによって、まだ研修中の修斗を執刀医に据えるなんて――それはつまり、俺に死ねと言っているのと同じだった。
俺は必死で母さんにすがりついた。「母さん、お願いだから……修斗に手術なんてさせないでくれ。これが本当に、俺が生き延びられる最後のチャンスなんだ。生きたいんだよ、俺は。土下座だって何だってするから、どうか考え直して」
けれど母さんは代わりに俺の頬を思いきりひっぱたき、怒鳴りつけた。「どうしてあんたみたいな自己中の出来損ないを産んじゃったんだろうね!修斗はやっと研修に入ったばかりなんだよ?少し腕を磨かせてやるくらいで死ぬわけないでしょ!」
俺は涙声で何度も叫んだ。「嫌だ……母さん……お願いだよ……本当に生きていたいんだ。生きていられるなら、どんなことだってするから……」
それでも母さんはまるで聞く耳を持たず、持ってきた料理をさっさと片づけながら言い捨てた。「まったく、素直にしてればいいものを。たかがこれくらいのことで、いつまで大げさに騒いでるつもり?もう決めたことよ。これ以上ゴネたって、何も変わらないから」
そう言うと母さんは荷物をつかみ、振り返りもしないで病室を出て行き、俺はただ、終わりの見えない暗闇と絶望の中にひとり取り残された。
第3話
手術の日、母さんは手術室の前でそわそわしながら中の様子をうかがっていた。
けれど、母さんが気にかけていたのは俺じゃなく、初めてメスを握る修斗のほうだった。
臆病な修斗は、俺の頭にメスが入ったその瞬間から、ずっと手を震わせていた。
そばにいた指導医が「もうここまでにしろ」と止めたのに、修斗はそれでも「自分の力を証明したい」と言い張った。
手術が始まって間もなく、彼のミスが原因で俺の心拍は一気に危険なラインまで落ち込んだ。
慌てた別の医師が、修斗の手からメスをもぎ取るように取り上げた。
修斗はひどく取り乱し、そのまま手術室を飛び出して母さんのところへ走って行った。
だが母さんは、命の危機にある俺のことなどまるで眼中になく、ひたすら修斗をなだめ続けるばかりだった。
そのうえ母さんはわざわざ休みを取って、怯えきった修斗に付き添うため、家で一緒に過ごすことにした。
俺が死んだあとも、病院の医者や警察が何度も母さんに電話をかけてきたが、母さんは全部途中で切ってしまった。
数日後、修斗は「精神的にもう限界で、メスなんて握れない。どこかへ行って気分転換したい」と言い出した。
母さんはすぐさまモルディブ行きのチケットを予約し、修斗の付き添い役として一緒に旅行へ出かけた。
俺が生きていた頃、何度か母さんに「家族でどこかに旅行に行きたい」と言ったことがある。母さんとちゃんと向き合って過ごせる数日が欲しかったのだ。
けれどそのたびに、母さんは冷たく言い捨てた。「私は毎日、忙しくて死にそうなのよ。あんたの遊びに付き合ってる暇なんかあると思う?」
後になって分かったのは、母さんがそこまで断り続けた理由はただ一つ、病院に入ったばかりの修斗が心配で、少しでも長くそばにいてやりたかったからだということだった。
ここ何年も、母さんはそのほとんどを修斗に費やしていて、俺が学会で賞を取ったときでさえ、祝うどころか一分たりとも時間を割こうとはしなかった。
母さんにとって俺は、ただの厄介者で、余計な手間を増やす面倒な存在でしかなかった。
それなのに今、その「忙しくて死にそう」が口癖だった母さんが、修斗の気晴らしのために一ヶ月も仕事を休んで、一緒にのんびり旅に出ている。
飛行機が着陸した途端、修斗は大きく伸びをして言った。「やっぱり場所を変えるとさ、気分がだいぶ楽になるね。……でもさ、母さん。これ、兄貴が知ったら怒るかな?ずっと旅行に行きたいって言ってたじゃん?」
母さんは俺の名前が出た途端、あからさまに不機嫌そうな声になった。「なんでわざわざあの子の話なんかするの?あの子に怒る資格なんてないでしょ。あんたがトラウマになるまで怖い目にあったのも全部あの子のせいよ。あんたが本当に二度とメスを握れなくなったら、そのときはあの子の手を折ってやるから」
修斗はうつむいたまま、どこか自分を責めながらも理不尽さをこらえる顔でぽつりと言った。「ごめんね、母さん。全部僕がドジだから悪いんだ。兄貴みたいに優秀じゃないし、あんな若さで皆に持ち上げられるような執刀医には、どうせなれないし」
母さんは修斗の頭を本当に愛おしそうに撫でて言う。「何言ってるの、ばかね。あの子なんて、あんたほど出来た子じゃないわよ。ただあんたよりちょっと早く現場に出ただけ。みんながちやほやするのだって、母さんに気を使ってるだけなんだから」
俺は思わず口をゆがめた。院長になる前の母さんは、国内でも有名な心臓外科のエース執刀医で、子どもの頃の俺にとっては、ずっと背中を追い続けたい憧れそのものだった。
なのに、俺が医者を目指し始めてからの母さんは、一度も手を貸してくれないどころか、「あんたには向いてない」と何かあるたびに水を差してきた。
学会で賞を取ったときでさえ、人前で「本当に自分の実力なの?」なんて平然と言ってのけて、俺の顔に泥を塗ったこともある。
修斗はといえば、昔からちゃらんぽらんで、医学部に進んだのも、いずれ母さんのポストを継ぎたいという打算があったからに過ぎない。
そのうえ、俺とは別の脳外科を選んだのも、同じ分野で比べられて俺より劣っていると思われるのが嫌だっただけだ。
それでも母さんは、国内の名だたる専門家たちに頭を下げて回り、修斗のために脳外科の個人レッスンまで用意してやった。
けれど修斗は母さんに甘やかされて育ったせいで、少しの苦労にも耐えられず、そのくせ早く結果だけは欲しがっていた。
そして、その歪んだ親子の期待と焦りの行き場は、決まって俺という都合のいい生け贄に向けられるのだった。
第4話
母さんが修斗ばかりを可愛がるのには、ちゃんと理由がある。
小さいころ、修斗がビン一つまるごと飴を盗み食いして、母さんにお尻を叩かれたことがある。
その翌日、母さんが俺と修斗を連れて遊びに出たとき、信号待ちの横断歩道で、根に持っていた修斗がいきなり母さんの背中を突き飛ばした。
修斗はまだ小さくて、力なんてほとんどなかったのに。
それでも、不意を突かれた母さんはよろめき、そのまま車道の端に倒れ込んだ。
倒れた拍子に思わず差し出した手を、猛スピードで走ってきた車に踏みつけられて、骨が砕けた。
母さんが振り返って俺たちを見たとき、母さんをつかもうとして伸ばしていた俺の両手は、まだ宙に残ったままだった。
その瞬間から、母さんの中で俺は「生まれつき性根の悪い子ども」として刻み込まれてしまった。
自分の明るい将来を潰したのは俺だと、本気で思い込んだのだ。
一方で、本当の張本人である修斗は、その場に突っ立ったまま大声で泣きじゃくり、それがまた母さんの胸を締めつけた。
母さんは、その涙は自分を心配してのものだと信じて疑わなかった。
でも、本当に母さんの未来を壊したのは、誰より可愛がっている末っ子の修斗だってことを、母さんは知らない。
幸い、あの事故で母さんの命までは奪われなかった。
手術のおかげで手そのものはなんとか残ったが、心臓外科医としてメスを握る力は二度と戻らなかった。
ちょうどその頃、病院の院長が引退することになり、そのポストは腕のいい母さんに回ってきた。
けれど母さんの夢は、世界トップレベルの心臓外科医になることだった。若くして一介の公立病院の院長で終わるなんて、とても受け入れられる話じゃなかった。
それからの母さんは、毎日ふさぎ込んでは、ふとした拍子に激しく怒りを爆発させるようになった。鍋も食器も、冷蔵庫もテレビも、目につくものは何でも次々と叩き壊された。
父さんも何度か母さんをなだめようとしたが、聞く耳を持たないどころか、ときにはそのまま父さんまで殴りつけた。
父さんの顔や体には、なだめようとして逆に引っかかれた爪痕がいくつも残っていた。
最初のうち、父さんは「自分が辛抱強く寄り添っていれば、そのうち妻も立ち直ってくれる」と信じていた。
けれど、穏やかなはずの父さんも、あるとき錯乱した母さんに振り回された包丁で手首を切られ、危うく命を落としかけた。
そこまできて、さすがの父さんも限界を迎え、ついに離婚を切り出した。そして俺と修斗を母さんに託したまま、家を出て二度と戻らなかった。
それからは、母さんが仕事をこなしながら俺と修斗を養うことになり、生活は一気に苦しくなった。
父さんがいなくなってから、母さんの俺への憎しみはさらに深まった。自分の輝かしいはずだった人生を台無しにした元凶が俺だと、ますます確信したのだ。
母さんはよく「あんた、本当にお父さんにそっくりね」と言ったが、その目に宿っていたのは愛情じゃなく、じわじわとした嫌悪だけだった。
それに対して、修斗は母さんが踏ん張って生きていくための、唯一の支えになっていった。
母さんはよくこう口にした。「修斗がいなかったら、私きっと今ごろまで自暴自棄のままだったわ。修斗はね、天使みたいに、いつも私をあったかくしてくれるのよ」
でも母さんは知らない。父さんが出て行ってから毎日のご飯を作っていたのは、学校帰りの俺で、母さんが俺を嫌っているのが分かっていたから、できあがる頃に呼びに行く役目だけは、いつも修斗に任せていたことを。
家の掃除をしていたのも全部俺で、洗濯して干すのも、毎日踏み台に乗って物干し竿にかけていたのも俺だった。母の日のプレゼントや、何でもない日に用意したささやかなサプライズ、花瓶に絶やさず生けてあった花束だって、全部、小さい頃からこつこつ貯めた小遣いで俺が買ったものだ。
なのに、そういうことの全部を、母さんは修斗の手柄だと思い込んでいる。ただ、俺が言葉にするのが下手だというだけで。
あの時の事故のことも、いつかちゃんと母さんに説明しようと何度か口を開いたことがある。けれど母さんは、そのたびに「また可哀想ぶって修斗のせいにするつもり?ふざけないで」と、うんざりした顔で俺の言葉を遮った。
何度か食い下がったあと、母さんは「いい加減にしなさい。この減らず口、ここで叩き直してやる」と言って、俺を容赦なく殴りつけた。
それ以来、俺はもう二度と余計なことを言えなくなった。
修斗も、自分がどれだけ母さんに贔屓されているかちゃんと分かっていて、母さんの前では甘えながら「いい子」のふりをしつつ、さりげなく俺の悪口を差し込んでくるようになった。
そのたびに、殴られるのは決まって俺のほうだった。
第5話
運転手が慌ててブレーキを踏み、沈んでいた回想から一気に現実へ引き戻された。
男の運転手は気まずそうに母さんを振り返り、「すみません、危うく通り過ぎるところでした」と頭を下げた。
いつもなら相手を言い負かすまで引き下がらない母さんも、今は頭の中が修斗のことでいっぱいらしく、運転手にはろくに返事もせず、荷物だけつかむとさっさと車を降りた。
俺も外を見回してみて、思わず目を見張った。ここは前に母さんに話したことのある、あの豪華なオーシャンビューの部屋だった。
本当は、母さんがまとまった休みを取れたときに、ここ数年働いてコツコツ貯めた金で、母さんと修斗をこのホテルに連れて来るつもりでいた。
結局こうして二人と一緒に来ることにはなったけれど、ここにいるのは生身の俺じゃない。ただの、さまよっている魂だ。
見栄っ張りの修斗も、目の前に広がる景色にはさすがに圧倒されたようで、スマホを取り出しては何度も自撮りして、インスタに立て続けに投稿していた。
母さんと修斗はモルディブに着いてからというもの、ついこの前手術を受けたばかりの俺のことなんて、すっかり頭の外に追いやってしまったようだった。
毎日、ビーチで日光浴をするか、あちこちで飲んだり食べたりして遊び歩いている。
俺の体調を気にして電話一本かけてくるわけでもなく、会話の中で俺の名前が出ることさえ、一度もなかった。
そんなふうに鬱憤ばかりが溜まっていった頃、なんと主治医の綾野文江(あやの ふみえ)が、わざわざここまで彼女たちを追いかけて来た。
母さんは、こんな南の島でまで顔を合わせることになった文江に目を丸くし、「ちょっと、あんた、なんでここにいるの?」と眉をひそめた。
文江は目を赤く腫らしたまま母さんを見つめ、「院長、もう何日も病院に戻ってきていませんよね。蒼一くんが、その……」と言った。
母さんは、文江が何を言い出すのかおおよそ察していたらしく、最後まで言わせる前に遮った。「蒼一が死んだ、でしょ?その話、もう耳にタコができるほど聞かされてるの。いい加減、違うネタを持ってこれないわけ?」
文江はどうすれば母さんに信じてもらえるのか分からず、いても立ってもいられない様子で、「院長、今回だけでいいですから、私の言うことを信じてください。蒼一くんのご遺体は、もう一週間も霊安室に安置されたままなんです。あとは、院長が引き取りに来てくださるのを待っているだけで……」と、何度も繰り返し説明した。
母さんは空を仰いで笑い飛ばした。「遺体の引き取り?冗談じゃないわよ。本当に死んでるんなら、むしろ盛大にお祝いしてあげないとね。派手な葬式でもして、思いっきり送り出してやるわ」
文江がなおも何か言おうと口を開いた瞬間、母さんの表情が一変して険しくなった。「もういいって言ってるでしょ。蒼一が日頃から嘘ばっかり並べ立てるのはまだしも、なんであんたまで一緒になってそんな茶番に付き合うわけ?
一体、何をもらったら、こんな遠くまで来て私を騙そうなんて思えるの?もしかして、本気であの子のことが好きなの?ははっ、この世には本当に見る目のない人もいるのね!」
すぐそばで聞いていた修斗も面白がって近づいてきて、「あれ、綾野先生じゃないですか。兄貴、先生にどんな魔法をかけたら、そこまで入れ込んで味方してもらえるんです?」と言った。
「先生が前から兄貴のこと気に入ってるのは知ってますけど、だからって、うちの母さんをここまで脅かすのはさすがにやりすぎじゃないですか?」
母さんと修斗から浴びせられる嘲りに、文江の顔は怒りで真っ赤になり、もう穏やかに説得するのをやめて、きっぱりと言い放った。「蒼一くんのご遺体は、今も病院の霊安室にあります。信じるかどうかは、ご自分の目で確かめてください。その代わり、あとから後悔しても知りませんから」