遥かなる距離、残り愛の温もり

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遥かなる距離、残り愛の温もり

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私が再び産科医として働き始めてから、最初に担当することになった胎児エコーは、自分の夫とその昔の恋人の子どもだった。 資料の配偶者欄には...

Chương (1)

第1章

私が再び産科医として働き始めてから、最初に担当することになった胎児エコーは、自分の夫とその昔の恋人の子どもだった。 資料の配偶者欄には、夫と同じ「三上重人」という名前が記されている。 重人が大城菜月の膨らんだお腹に耳を当て、胎児の心音を聞いている写真を見た瞬間、私の瞳孔は一瞬で縮んだ。 そして菜月の後ろに立つあの子は、紛れもなく幼い頃の私そのものではないか! でもあの時、重人は私の子供が死産だったと言ったはずだ! 「おめでとう、重人さん。菜月さん、妊娠したよね。でもさ、当時君が、結菜は死んだって小栗に嘘ついて、実際は菜月さんに預けたんだろ。今さらどうする気なんすか」 「そのまま育てればいい。三上家は金に困らない」重人の声は淡々としていた。「菜月は昔、祖母を助けるために体を張って、その結果もう妊娠しづらい。だから柚希に産ませた。菜月に子どもを返すために必要だっただけだ」 第1話 小栗柚希(おぐり ゆずき)が再び産科医として働き始めてから、最初に担当することになった胎児エコーは、自分の夫とその昔の恋人の子どもだった。 彼女は妊婦のデータを凝視し、震える声を必死に抑える。「前田看護師、この妊婦の旦那さんって……三上重人ですか。システムの不具合じゃありませんか」 看護師がそっと顔を寄せ、小声でささやいた。「その三上家の御曹司ですよ。ここは三上家のプライベート病院で、院長ですら大城菜月のことを丁寧に奥様と呼んでます。間違えるはずありません」 そして看護師がスマホを差し出しながら、頬をほんのり染めて言った。「ほら、めっちゃ甘くないですか」 三上重人(みかみ しげと)が大城菜月(おおしろ なつき)のふくらんだお腹に耳を当て、胎動を楽しむ写真を見た瞬間、柚希の瞳孔はすっと縮む。 産科主任がからかうように笑った。「大城さんは妊娠四カ月だけど、三上社長は健診に一度も遅れたことがないんです。奥さん命ってこういう人のことですね」 柚希の耳の奥がじんじんと鳴り続け、頭の中が真っ白になる。 「大城さんって本当に幸せですよね。旦那さんはイケメンでお金持ちで、家庭円満。いいなあ」羨ましそうな看護師が言った。「ね、小栗先生もそう思いますよね」 柚希はぼんやりと返事をし、白衣を握りしめる指先が震えた。 自分の夫が、昔の恋人と結婚して、しかももう子どもまでいる。 生まれて初めて、三上夫人という自分の立場に疑いが芽生える。 結婚して五年、柚希はようやく子どもを亡くした悲しみから立ち上がれた。 なのに重人は一年間の海外赴任に出てしまい、柚希は距離を縮めるため、こっそりM国の病院に応募してやって来た。 けれど、今の状況を見る限り、自分の存在は完全に余計だ。 菜月がなかなか現れず、柚希は落ち着かない息を何度も吐いた。 彼女が重人に確認の電話をしようとした瞬間、ドアノブが回り、ボディーガードたちが一列に並ぶ。 大勢に守られた菜月が、申し訳なさそうに微笑みながらお腹を優しくなでた。 「夫が急に会議で、付き添えなくて。駄々をこねられて二時間も遅れちゃいました。皆さんのお時間、取らせてしまって」 目が合った瞬間、柚希の全身の血が凍りつく。 柚希は一目で分かった。菜月が重人の財布に入っていた写真の女性だ。 健診が始まり、柚希は震える手を必死で押さえ込む。 しかし冷たいプローブがお腹に触れた瞬間、菜月が鋭く息を吸い込み、尖った爪が柚希の手首を掴み、赤い痕がくっきり残る。 「ごめんなさい。今までの健診はいつも夫が一緒で、今日はちょっと慣れなくて」 柚希は胸の奥の苦みを飲み込み、無理に笑顔をつくった。「旦那さんとは、とても仲が良いんですね」 その言葉に、菜月の耳がふっと赤く染まる。「私と重人は幼なじみなんです。子どもの頃から、いつか私をお嫁さんにすると指切りしてくれて。 大学の頃、私がレースにはまっていた時は、告白のために国際大会で優勝して、表彰台の上から九十九回、私に愛してるって叫んだんですよ。 プロポーズの年は、ヴェルサイユ宮殿をまるごと貸し切って、庭園で片膝をついて、ウィンストンのブルーダイヤを私に嵌めてくれて。 妊娠してからは、国内の仕事を全部放り出して、毎日マッサージしてくれるし、ご飯も全部食べさせてくれて」 自分が知らないところで積み上げられてきた甘い思い出が、柚希の胸に細かい痛みとなって染み込んでいく。 あの誠実で優しくて、自分だけを見てくれていたはずの重人が、同じ温もりを別の女性にも注いでいた。 彼との結婚は、すでに形だけになっていた。 柚希が何か言おうとした瞬間、重人が菜月に電話をかけてきた。 「菜月、健診は終わったかな。フレンチを予約したよ。君の好きなチェリーのフォアグラがある。今から迎えに行く」 その声を聞いた菜月は、目尻を柔らかく上げ、唇を隠しながら微笑む。 「それと、結菜はどうしてる。君を困らせたりしてないだろうね」重人が聞いた。 途端に、菜月の表情が凍りつき、その冷たい視線が部屋の隅へ突き刺さった。 柚希はその時ようやく気づいた。そこに、やせ細った小さな女の子が立っていた。 女の子はおずおずと影から出てくる。顔立ちが自分と驚くほど似ていて、柚希の呼吸が止まりそうになる。 結菜(ゆいな)は震える指でスマホを受け取り、小さく言った。「重人さん、私、いい子にしてるよ」 電話が切れた途端、菜月は彼女の耳を思い切りつねりあげた。「親に捨てられた野良の子のくせに、哀れっぽい顔で同情でももらいたいの」 そして菜月は結菜を乱暴にボディーガードへ押しつけ、冷えた声で言った。「隔離室へ。今日は夕食抜き」 泣き腫らした目で、それでも声を殺して耐えようとする女の子の姿が、柚希の胸を鋭く締めつける。 柚希が手を伸ばしたが、指先は女の子の髪に触れただけだ。 その時、ぼんやりした意識を断ち切るようにスマホが震える。重人からのメッセージだ。 【柚希、ご飯はちゃんと食べた。会いたいよ】 彼はすぐに位置情報が送られてきた。 【君が気に入ると思う店だよ。今度一緒に来ようね】 添えられた写真には、綺麗に盛りつけられたフォアグラ。そしてワイングラスに映り込んだドレスの裾は、菜月が着ていたものだ。 柚希は唇を噛みしめ、休暇を取ってレストランへ急いだ。 走りながら、二人の出会いが脳裏に鮮やかによみがえる。 当時、彼女は南国で医療交換プログラムに参加していて、飛行機の中で臨月の妊婦を救った。 その姿をファーストクラスから見ていた重人は、一目で彼女に心を奪われ、激しいアプローチを始めた。 彼は柚希の名義で現地に巨額の寄付をし、ただ彼女の生活環境を良くしたいという理由だけで行動した。 マラリア感染の危険を冒しながら、彼女のそばを片時も離れず、疫病地域の子どもたちを救う活動にも同行した。 草原で動物の大移動を見に行き、毒蛇に噛まれた彼女の傷口から、彼は迷わず毒を吸い出してくれた。 結婚してからの彼は、さらに行動で愛を示してくれた。 彼は夜ごと、耳元で甘くささやいた。「柚希、愛してるよ。俺に子どもを授けてほしい」 だが出産の日、柚希は激痛の中で気を失い、目が覚めた時には子どもが死んだと告げられた。それ以来、彼女は重人の優しさを受け止められなくなった。 そして四カ月前、二人は別居状態になっていた。 レストランに着いた頃、重人は席を立って電話を受けていた。柚希はそっと柱の陰に身を隠す。 「おめでとう、重人さん。菜月さん、妊娠したよね。でもさ、当時君が、結菜は死んだって小栗に嘘ついて、実際は菜月さんに預けたんだろ。今さらどうする気なんすか」 「そのまま育てればいい。三上家は金に困らない」重人の声は淡々としていた。「菜月は昔、祖母を助けるために体を張って、その結果もう妊娠しづらい。だから柚希に産ませた。菜月に子どもを返すために必要だっただけだ」 「でも、なんでよりによって小栗なんだ。医者だよ。気づかれたらどうする」 重人は笑ったように見えた。だが、その次の言葉は柚希を氷の底に沈める。 「彼女は産科医だ。胎児の扱いをよく知っている。最高の器なら、菜月に健康な子どもを渡せるだろう。 それに、俺たちの婚姻は偽物だ。もし気づいたところで、彼女に何ができる」 ひとつひとつの言葉が、刻みつけるように柚希の心を深く刺し貫く。 重人にとって、彼女はただの出産装置だ。 そして彼女の大切な実の子は、菜月に虐げられ続けていた。 震える指で録音を停止した瞬間、画面に世界保健機関からの通知が飛び込んでくる。 【小栗柚希様、国境なき医師団の一員として、ぜひ参加していただきたい】 柚希は迷わずに、すぐに返信した。 【参加します。一週間後、日陽国本部でお会いしましょう】 第2話 柚希はふらふらと病院へ戻り、気力だけで二つのことを済ませる。 一つは退職願を提出すること。 もう一つは結菜の髪を持って、親子鑑定に出すこと。 柚希はその報告書をぼんやりと見つめ、冷たい指先が小さく震える。 鑑定結果にはこう記されている。柚希は結菜の生物学的な母親である。 薄い報告書がひらりと床に落ち、柚希は拾い上げるだけでも全身の力を使い果たしたように感じる。 どれだけ滑稽なのだろう。 ずっと胸の奥で恋い焦がれていた娘を、重人は菜月に媚びるための道具のように扱っていた。 柚希は感覚の抜けた足取りで診療科へ戻り、ゆっくり荷物をまとめる。 院長は彼女が退職することを知り、残念そうに声をかけた。「聞いたところによると旦那さんのためにここへ来たらしいのに、どうして急に辞める?」 柚希の目が少し陰り、苦い笑みが浮かぶが目元までは届かない。「彼はもう……夫ではない」 彼女は唇をきゅっと結び、深く頭を下げて別れを告げ、院長の驚いた視線を背に病院を出る。 あてもなく街を歩き、子ども服の店の前を通ったとき、ショーウィンドウに並ぶ繊細なワンピースが目に入り、柚希は思わず足が止まる。 結菜の服に油汚れがついていた姿を思い出し、彼女は目の奥が一気に熱くなる。 本来なら誰より愛され、大切にされるはずの娘が、そんな乱暴な扱いを受けるなんて、柚希の胸は裂けそうになる。 彼女は足取りを固めてその店に入り、結菜のためにあのワンピースを買い付けると同時に、結菜を必ず自分の元に連れ戻すと心に決める。 だが少し離れたマタニティショップの前で、重人と菜月の姿を見つけてしまう。 重人は菜月をしっかり庇い、片手で彼女の腹を支え、もう片方で落ちた髪を耳にかけてやる。 菜月が少しでも目を向けた品物は、彼は迷いなく全部買っていく。 彼の視線は菜月だけに注がれ、柚希に気づいたのは、ほとんどぶつかりそうになってからだ。重人は眉をひそめ、叱ろうと顔を上げる。 しかし目が合った瞬間、菜月の手をつないでいた彼の指が条件反射のように離れ、喉仏が強く上下する。「柚希……ここで何をしている」 涙がこぼれそうになるが、柚希は指先を掌に押し込み、無理に唇を持ち上げる。 「あなたに会いたくて、S市までサプライズしに来た」 けれど重人にとって、この再会は驚喜ではなく驚愕だけだ。 ビジネス界では冷徹さで名を馳せる男なのに、このときばかりは口の開き方すら分からないように沈黙する。 沈黙が流れる中、菜月はお腹を撫でながら、まるで所有権を示すかのように柚希の前に立ちはだかった。「小栗先生がいつも重人の口にしている奥さんだよね」 そして菜月は歩み寄り、親しげに柚希の手を握った。「せっかく来たんだから、何日かゆっくりしていってよ。重人にちゃんと案内させるから」 その笑みには挑発の色が滲む。 まるで本物の妻であるかのように、一言一言で立場を誇示する。 昨日まで、柚希は彼女の健診を担当していたのに、今、知らないふりをしている。 柚希は淡々と返事をし、眉をひそめて手を引っ込めようとした。 力は入れていないのに、菜月の身体は大げさに後ろへよろける。 重人が大股に歩み寄り、菜月をしっかりと支えた。彼の目の慌ては一瞬で消え、代わりに怒気が滲む。「見えないのか?菜月は妊娠中だ!」 柚希の顔色が一瞬で青ざめた。彼の問い詰める口調は、彼女の心をえぐるように痛んだ。 そうだ、彼の愛する妻が、彼の子供を身ごもっているのだから。 自分はただ都合よく利用されただけの、部外者でしかない。 「なぜそこまで必死なの」柚希は鼻の奥がつんと痛む中、問い返した。「彼女はあなたの子を身ごもっている?」 重人の表情が一瞬で固まり、黒い瞳に動揺が走る。 そのとき菜月が慌てて手を振り、震える声で否定する。 「小栗先生、私と重人はただの友人で、ひとりで身重な私を気遣ってくれているだけだ」 菜月が必死にかばえばかばうほど、重人の唇は固く結ばれ、眉間に陰が落ちる。 柚希には分かる。彼は怒っている。菜月があまりにも急いで自分との関係を否定したからだ。 次の瞬間、重人は腕を伸ばし、柚希を抱き寄せ、そのまま菜月の前で唇を奪う。「柚希、家に帰ろう」 その意地のようなキスに、柚希は一瞬だけ意識が白む。 かつてはすべての感情が自分に向けられていると信じていた。 患者の家族に刃物で脅されたとき、彼はその男の指を十本折り、彼女のために怒りをぶつけた。 子どもを失った彼女を嘲った相手に、すぐさま巨大な取引を切り捨て、業界から実質的に追放した。 産後うつで泣き続ける夜は、いつもそばで優しく抱きしめ、何度も眠りにつくまであやしてくれた。 しかし別荘の前に立ったとき、彼が菜月のために邸宅を買っていたことを知る。 しかも、とっくに一緒に暮らしていた。 重人は彼女をゲストルームに通し、仕事が片付いたら行くと言った。 だが夜が更けても現れない。 赤い木の床に裸足を乗せたとき、柚希は隣の主寝室から微かな音が聞こえる。 耳を壁に寄せると、重人のくぐもった声と、菜月の息の詰まった甘い声が、はっきりと響いてくる。 第3話 菜月は縋るように押し返しながら囁いた。「やめて……奥さんが隣の部屋にいるのよ」 「彼女?奥さん?」重人は菜月の腰を抱き上げ、そのまま壁に押しつけた。「そんなに俺と線を引きたい?」 「ただ、小栗先生に誤解されてあなたが困るのが怖いだけ……本当は誰より苦しいの……」菜月は涙を含んだ声で訴えた。「あなたを失いたくないだけ」 重人の喉が上下し、次の瞬間、彼は彼女の唇を深く塞ぐ。菜月の甘い声が途切れなく漏れる。 彼は低く笑い、息を荒くした。「ここがいい?」 菜月はかすれた艶を帯びた声で言った。「だめよ……お腹に赤ちゃんがいる」 「妊娠中でもできる」重人の声には濃い欲が滲む。「優しくするから、俺を放っておくな」 壁一枚隔てた向こうで、菜月の声はますます甘く、必死の懇願に変わる。 しかし重人はやめる気配もなく、壁は激しく揺れる。 柚希はその場に座り込み、呼吸すら痛みを伴う。 彼がベッドではいつも紳士で、少しでも眉を寄せればすぐ動きを止め、何度も優しく体勢を変えてくれたことを覚えている。 なのに今の彼は、あんな乱れた言葉で、別の女を激しく求めている。 もう聞いていられなくて、柚希はふらつきながら立ち上がり、逃げるように部屋を飛び出す。 豪奢な別荘はどこを見ても菜月への愛情で満ちている。 柚希はすぐに道に迷うが、歩くほどに目に映る高価な品々が妙に見覚えのあるものばかりだと気づいた。 菜月が冷えないようにと敷き詰められた敷物は、柚希が記念日に重人から贈られた手袋と同じ素材だった。 菜月のコレクションルームに並ぶ宝石の数々。柚希は何度も自分から口にして、やっと婚約指輪をもらったのに。 廊下に飾られた、重人が菜月のために描いた肖像画。柚希との結婚写真は、頼み込んでやっと撮ったものなのに。 胸の鼓動は乱れ、肋骨にぶつかるたび痛みが走り、柚希の目元が熱くなる。 自分が宝物だと思っていたものは、全部菜月のお下がりだった。 朦朧と歩き続けていると、廊下の奥からかすかな音が聞こえる。 何かと思い近づいた瞬間、小さな影が飛び込んできた。 月明かりが映したその顔を見て、柚希の涙が一気に溢れた。 結菜、彼女の娘だ。 結菜は警戒した目で柚希を見つめ、カビたパンを背中に隠した。 抱きしめようと手を伸ばすと、結菜はすぐに膝をつき、額を床にこすりつけて懇願した。 「ごめんなさい、シロちゃんのドッグフードを盗み食いしたの! 重人さんには言わないで、閉じ込めないで!」 彼女の着ているサイズの合わない寝巻きの、だぶついた襟元からは、アザと打ち身の痕が広がっていた。 柚希は結菜の手を取り部屋へ入る。そこでは菜月の犬がふかふかのベッドで眠り、結菜は段ボールに丸まって寝ていた。 結菜の腫れた額に触れた瞬間、柚希は胸の内側が酸っぱく痛む。 ポケットに残っていたわずかなキャンディを探し出して結菜に差し出すと、結菜の瞳がぱっと輝く。 「ありがとうお姉さん!ほかの子はみんなママが買ってくれるけど、私は初めてなの」 柚希の目には心痛い思いが溢れていた。「それじゃあ……これからは私があなたの面倒を見る、いい?」 血のつながりが自然と心を寄せたのか、結菜は唇を震わせたあと、勢いよく抱きついて泣き出した。 「ママがほしい、もう叩かれたり怒鳴られたりしたくない」 柚希の胸がぎゅっと縮み、視界が涙で霞む。 重人、自分の娘まで菜月に虐げさせるのか? 彼女は結菜を抱いてゲストルームに戻り、優しく背中をトントンと叩いて眠りにつかせた。 娘の安らかな寝顔を見つめ、彼女はこれまでにないほど強く、ここを離れようと決意した。 どうやって結菜を連れて行くか考えていると、重人がドアを開けた。 彼は湯気の立つココアを手に、柚希の枕元へ置こうと身を屈める。「柚希、君が眠れないか心配で、特に淹れて……」 言葉の途中、彼は結菜が柚希の腕の中で眠っているのを見て、コップを落としそうになる。 「なんで……」彼の声は張り詰めている。「なぜ結菜と一緒にいる?」 柚希は分かっている。彼は真実がばれるのを恐れている。 しかし彼は、彼女がココアアレルギーであることを忘れ、それでも彼女を騙し続けようとしている。 「結菜がお腹を空かせて倒れていたのに、誰も面倒を見ない」柚希は静かにカップの中の泡をかき混ぜ、目を伏せた。「結菜は……誰の子なの?」 第4話 その言葉を聞いた瞬間、重人はほとんど気づかれないほど、ふっと息を吐いた。 彼は柚希の肩を抱き寄せ、低い声で説明する。「菜月は心根の優しい子なんだ。小さい頃から結菜を引き取って育ててきた。でも妊娠してからは思うように動けなくて、どうしても世話が行き届かない時がある」 そのとき、結菜は悪夢を見ているかのように、小さな声で「ママ」と繰り返していた。 重人の大きな掌が、彼女の背をやさしく撫でる。まなざしには温もりしかない。 月明かりが、三人の上に柔らかく降りそそぐそれは、柚希が何度も夢に見た光景だった。 「もし私たちの子がまだ生きていたら、きっと今ごろ同じくらいの年だったよね」彼女の声は、かすかに震えていた。 重人の手が空中で止まり、瞳の奥に一瞬だけ罪悪感が過った。 「生まれ変わったら、誰かが必ずあの子を大事にしてくれる」そう言って彼は柚希の手を握り、柔らかく慰める。「俺の責任は君を守ることだ」 柚希は彼の瞳を見上げた。深く、揺るぎなく自分を見つめてくるその眼差し。 しかし彼女の胸の中の虚しさは、どうしても消えなかった。 「じゃあ、大城のことは?」彼女は一本一本、彼の指をほどくように離していく。「大城のこともあなたは守るの?」 重人は数秒きょとんとし、すぐに彼女の嫉妬だと決めつけたように、甘く微笑んだ。 「俺と菜月はただの友達だ。彼女は身重で、しかも独り身だ。当時、祖母を救ってくれた恩人でもある。慣れない異国で頼る場所もない。世話をしないわけにはいかないだろう」 ベッドの中まで世話する? 柚希は喉までこみ上げた反論を、ぎゅっと飲み込んだ。 もうすぐ出て行くつもりの自分が、何を言い争う必要がある? 重人は彼女の疲れた表情を見て、そっと眉間に口づけ、明かりを一番弱い光に落とした。 「寝ろ。俺がそばにいる」 柚希は結菜を抱きしめ、目を閉じて眠ったふりをする。 そのとき、突然の轟音が耳元に響き、彼女の身体がびくりと震えた。 稲光が走り、白い光が重人の冷たい横顔を切り裂く。直後、隣室から甲高い悲鳴が聞こえ、彼の冷静さは完全に砕け散った。 柚希の静かな寝息を確かめると、彼は身を起こし、彼女と結菜の布団を丁寧にかけ直し、慌ただしく部屋を出た。 扉がそっと閉じられた瞬間、柚希の唇の端を、涙が静かに伝った。 翌朝、彼女が目を開けた途端、重人は彼女の腕を掴み、容赦なくベッドから引きずり落とした。 抱いていた結菜の小さな身体も、その拍子に放り出され、額をベッドサイドに激しく打ちつける。 重人は冷ややかな目で柚希を睨みつけ、喉元を掴み上げるようにして怒鳴った。「俺は何度も言った!俺と菜月の間には何もないと!なのにどうして菜月の犬を殺した?俺に手を上げさせたいのか!」 重人の指が徐々に締め付けていき、窒息感が柚希の全身を瞬時に襲った。彼女の顔は紫がかった青色に変わりながらも、重人の瞳に心配は一欠片もなかった。 結菜は血のにじむ額を押さえ、膝から崩れ落ちるように彼の脚にしがみついた。 「重人さん!柚希さんは、犬を殺してない。私がお腹すいて、犬のエサを食べた!全部、私のせい!」 彼女は震える手でポケットからドッグフードを取り出し、必死に重人へ差し出した。 だが、重人の視線は後ろでかすかに泣き真似をしている菜月に、すべて奪われた。 「小栗先生、あなたが私を嫌っているのも、私と重人の関係を疑うのもわかる。でもシロちゃんは母の形見で、幼いころからの相棒なんだ。それを殺されて私、どうやって生きていけば……」 彼女はわざとらしくよろめき、そのまま重人の腕の中に倒れ込んだ。泣き声は今にも途切れそうで、まさに守ってあげたくなる弱さ。 「お医者さんから胎児が不安定だって、悲しむと流産の危険があるって。あなたも母親だったんでしょ?どうしてそんな酷いことを……」 震える背中を見た瞬間、重人の目が痛みを帯びる。彼は菜月をより強く抱きしめた。 「大丈夫だ。俺が必ず、君のためにケリをつける」 そして振り返った瞳は、鋭く柚希を射抜いた。彼の目には失望があふれている。 「柚希、過ちを犯したなら、罰を受けるべきだ」重人は冷たい口調でボディーガードに命じた。「彼女を墓地へ連れていけ。跪かせて悔い改めさせろ。ルールだ」 結菜は恐怖で泣き叫び、その場に跪いて懇願した。 「重人さん!シロちゃんを殺したのは私!処罰なら私に!ムチは皮が裂けるほど痛い」 重人は不快そうに眉をひそめ、家政婦に結菜を連れ出させた。 「柚希、どんな過ちがあろうと、子供に手を上げるべきではなかった」彼は静かに柚希を見つめた。「そんな残忍さで、母親の資格があるというのか」 では彼にこそ……父親の資格があるのだろうか。 柚希の白い首には、指の跡がくっきりと残っていた。空気を貪るように呼吸しながら、彼女は言葉も出せず、胸だけが痛んだ。 土砂降りの雨の中、柚希は薄着のまま菜月の母の墓前に跪いていた。ボディーガードの鞭は容赦なく、一度よりも一度と激しく彼女を打った。 一回目、膝に溜まっていた雨水が、血に変わって、痛みで身体が折れ曲がる。 自分が妊娠したと知ったあの日、重人は喜びで目の隅を赤らめ、お寺に行き、彼女のためにお守りを求めていた。 あの時、彼のひざは赤く腫れ、ただれていたが、それでも笑って言った。「あなたと子供のためなら、どうなってもいい」 二回目、柚希の体は今にも崩れ落ちそうに揺れ、痛みで意識が遠のいていく。 彼が自ら子供用の靴や服を準備し、彼女を抱きしめた。「男の子でも女の子でも、君が産んだ子なら何でも好きだ」 九回、三十六回…… 鞭を打たれた九十九回目、背中は血と泥で真っ赤に染まり、彼女の顔色は雪のように白い。 最後の一撃が振り落とされる瞬間、誰かが彼女の前に飛び出しその罰を代わりに受けた気がした。だが、柚希はもう目を開ける力さえ残っていなかった。 第5話 結菜はいつの間にかついてきて、小さな体で柚希を必死に守っていた。 しかし最後の一発は容赦なく重く、結菜はまるで布切れのように空中に投げ飛ばされる。 痛みに声を上げる力もなく、意識を失って倒れた。 柚希は身の重みがなくなったことに気づき、辛うじてまぶたを開けると、結菜が血の海の中に倒れ、背中から鮮血が流れているのを見た。 慌てて近づこうとするが、ボディガードに心臓のあたりを蹴られ、髪を掴まれ、仰向けにされて菜月が指示した映像を見せられる。 画面の中では、重人が片膝をつき、真剣な表情で彼女の腫れた足首を揉んでいる。 菜月はそのサービスを心から楽しんでいるかのように、可愛らしく微笑む。 柚希は顔を背けて見たくなかったが、ボディガードに平手打ちされ、無理やり見せられる。 彼がぶどうを剥いて自分で菜月に食べさせたこと、胎児に早期教育の読み聞かせをしていること、菜月が「あなた」と呼ぶたびに彼がキスをすること。 一枚見るごとに、柚希の心は刃でえぐられるように痛む。 雨は唇の血を洗い流し、重人への最後のわずかな愛情も消し去る。 それも当然だ、自分と結菜の命は、重人にとって一匹の犬よりも価値がないから。 ボディガードが突然手を離し、柚希は泥に倒れ込む。しかし痛みを感じることもなく、結菜を抱きしめ続ける。 結菜の熱い額に触れ、指先は震えが止まらない。抱きかかえながら低く身をかがめ、謝り懇願するが、誰一人として救急車を呼んでくれず、解熱薬さえ渡してくれない。 結菜の呼吸は弱くなり、絶望の中、電話が鳴る。 相手は菜月で、嘲笑の声で言った。「この子を死なせたくないなら、おとなしく私の前に来なさい」 柚希は彼女の悪意を理解しつつ、結菜の青ざめた顔を見て、泥の中を必死に踏みしめながら抱えて走り出した。 温かいベビールームで、菜月はお腹を撫でながらマタニティ運動をしている。「パパはママの細い腰が一番好きって。ママは体型を維持してパパを喜ばせなきゃ……」 柚希が泥だらけで現れると、菜月は嘲るように笑った。 「あなたとこの子の命もなかなかしぶといわね。でもあなたが罰を受けている間、重人は私の雷が怖いのを心配して、一晩中私と赤ちゃんをあやしてくれたのよ」 柚希は結菜を抱き締め、声を震わせながら行った。「結菜を助けて」 菜月は手にした薬瓶を弄び、ゆっくり揺らして言った。「じゃあ私にお願いする?」 唇を歪め、彼女は楽しげに笑いながら言った。「小栗先生は人を助けたいね、この子のために三回頭を下げるくらい、文句はないでしょ?」 柚希は喉を詰まらせた。「結菜もあなたの子よ」 「誰が母親のいない子なんてほしいのよ!」菜月は顔をしかめる。「幼い頃から、彼女は実母に捨てられたゴミだと教えてきたの」 「小栗先生がそんなにこの子を気にかけるなんて、まさか実母なの?」何かを思いついたように、菜月は突然残酷な笑みを浮かべた。「迷っている暇はないわ。あなたの娘は死にそうよ」 菜月は薬を足で潰し、三粒だけ残す。「一回頭を下げれば一粒あげる、下げなければ死ぬのを見てなさい」 柚希は弱った結菜を抱きしめ、赤く腫れた目で膝を地面に叩きつける。 傷口が裂け、血が菜月の白いドレスを覆った。 菜月は口元を歪めた。「親の心って本当に哀れよね」 彼女は手を伸ばし、薬を柚希に渡そうとした。「でも彼女は私の子じゃないの」 言い終えると、菜月はくるりと背を向けた。 ぽとん! 薬はゴミ箱に落ち、跡形もなく消えた。 柚希は唇を噛み締め、膝で這いながら拾おうとするが、扉が勢いよく開いた。 重人が入り口に立ち、険しい表情を浮かべている。 「柚希、何をしている!」彼は厳しく詰問した。 菜月は瞬時に弱々しくなり、泣きながら彼の胸に飛び込んだ。「重人、結菜が病気になるか心配で、わざわざ小栗先生に薬を渡したのに、薬をひっくり返してゴミ箱に捨てて、余計なお世話って怒ったの……」 彼女はすすり泣きながら、血で赤く染まったスカートの裾を引っ張り、打ち砕かれたように哀れな様子を見せた。 柚希は重人を見つめ、信じられないという様子で言った。「彼女が嘘をついてる」 だが彼は柚希の手首を強く握り、怒りを滲ませた。「菜月は妊娠しているのに、手を出せるのか?」 柚希の細い肩は激しく震え、涙が重人の手に落ち、彼は思わず手を緩める。「柚希、君……」 「重人、お腹が痛い」菜月は急に腰を曲げ、腹を押さえ苦しそうに言った。「小栗先生が押し倒しそうになったけど、赤ちゃん大丈夫かしら」 柚希は涙で目を真っ赤にし、首を振り続ける。 次の瞬間、重人は柚希を振り払い、菜月の前に走り寄り、横抱きで抱え、秘書に低く命じる。「車を用意して、病院へ行く」 抱えた結菜を守るため、柚希は倒れ、肘を地に打ち付け、後頭部から血が首を伝う。 彼女は結菜を産んだ日を思い出す。重人は産室の外で、信仰のない男が何度も祈った。「柚希、母子の無事だけが欲しい」 痛みに気を失う直前、彼女は重人が菜月を抱えて去る姿を見て、慎重に、心配そうに見つめる。 柚希は床に縮こまり、指先で結菜の鼻息を探る。 かすかな呼吸はほとんど消え、柚希の瞳は瞬時に縮んだ。 第6話 柚希は結菜をしっかり抱き締め、恐怖で頭が真っ白になりながら、途切れ途切れに声を絞り出した。「だれか……だれか、この子を助けて」 広い部屋には、そのか細い声さえ空気に吸い込まれてしまうほど心細さが漂う。 彼女は歯を食いしばり、嵐の中を駆け抜けるように、青ざめた顔の結菜を抱え、病院へと走る。 産婦人科専門の病院は三上家の私立病院だ。入口に立つ警備員が彼女を制し、きつい声を上げる。「三上夫人が切迫している。三上様の指示で部外者は入れない」 「黙りなさい」入口を見張っていた重人の秘書が状況を察し、慌てて走り寄り、警備員を蹴り倒した。 「こいつ、新人で何もわかってないんです」秘書がは気が引けたように笑った。「奥さまとお嬢さんを中へご案内します」 柚希は込み上げる痛みを飲み込み、焦りのまま手術室の外に待機する。すると少し離れた場所で、重人が菜月と指を絡めている姿が目に入った。 十数人の主任医師が菜月を囲み、気遣いの言葉をかけている。 重人は眉を寄せ、医師に何度も再検査を求めている。 柚希は痛む胸を押さえ、無意識に一歩後ずさりしたが、バランスを崩して階段から転落してしまった。 そして結菜の救命が失敗する悪夢にうなされながら目を覚ました。 跳ね起きた彼女は、自分が病室のベッドに横たわっていることに気付いた。少し首を傾けると、結菜が全身に医療機器をつけて眠っている。 体を起こそうとするが力が入らず、倒れ込みそうになった瞬間、温かい掌が彼女の腰を支える。 「柚希、気がついたんだね」重人がベッドの背を上げ、声には失ったものを取り戻した喜びがにじんでいた。「よかった。君も結菜も無事で」 柚希はゆっくり顔を上げ、彼の切なげな視線とぶつかる。 彼はシャツ姿で、上着は柚希の体に掛けられている。 意識を失う前、彼女は重人の恐怖に満ちた瞳と、彼がこの上着で自分をしっかりと包み込んだことを覚えていた。 「菜月は……」重人は一瞬言葉を止める。「妊娠中なので気持ちが揺れやすいんだ。君も、あんな態度はよくないよ」 懐かしい杉の香りを感じながら、柚希の心は少しずつどん底に落ちていった。 「菜月は優しい人だ。君を責めたりしない」重人は彼女を見つめながら言った。「ただ、君が産科医だと知って、しばらくそばで世話をしてほしいらしい」 涙が柚希の目にじわりと溜まる。 「もし……私が断ったら」 「これは決定事項で、相談じゃない」重人はゆっくり立ち上がり、怒気を隠しきれない目で彼女を見る。「彼女を傷つける者には、代償を払ってもらう。幸い赤ん坊は無事だし、血で償えなんて言わないだけ、彼女は寛大なんだ」 言い過ぎたと気付いたのか、重人は唇を引き結んだ。「柚希、俺を困らせないでくれないか」 柚希は視線を落とし、目尻が赤く染まる。 「私からも一つだけ条件がある」彼女は顔を上げ、一語一語を区切って言った。「結菜の里親を、私に変更して」 あと一週間でここを離れなければならない。 手放せないのは、ただ娘だけ。 重人は驚き、喉がかすかに動く。「急にどうしたんだ」 「結菜のことが好きなんだ」柚希は隣のベッドに目を向け、静かに言った。「大城さんは妊娠中で手が回らないし、私はもうすぐ帰国する。あなたがいない間、あの子がいれば心強い」 隙のない理由に、重人は反論できない。 彼はゆっくりうなずき、低い声で言った。「わかった」 だが胸には小さな違和感が残り、病室を出ても消えなかった。 その後数日、菜月の柚希への当たりはさらに激しくなる。 「私は一日八回、少量ずつ食べたい。全部あなたが作って。 小栗先生、ひざまずいて足を洗ってマッサージして。嫌じゃないわよね。 またあなたの服に吐いちゃった。ごめんねえ」 柚希は黙って受け流しながら、結菜と自分の荷物を少しずつまとめていく。 世界保健機関が帰国の準備を整えてくれていた。 あと三日で彼女たちはここを離れられる。 しかし、その日の明け方、菜月が不機嫌になり騒ぎ出した。 「毎日あっさりしたものばかりで、もう我慢の限りよ」彼女は頬をふくらませ、柚希を見る。「小栗先生、ブルーベリーケーキを作って」 柚希はため息をつき、仕方なくオーブンを温める。 焼き上がったばかりの生地を取り出し、これから飾り付けようとした瞬間、家政婦が勢いよく皿をひっくり返し、叫び声を上げた。「大城様、食べないでください」 第7話 二百度に熱した皿が柚希の前腕に落ち、容赦なく重く叩きつけられ、真っ赤な水ぶくれが浮かび上がる。 何があったのかという声とともに、重人が足早に入ってきた。 彼は柚希に視線を向けることもなく、菜月のもとへ一直線に進み、心配を滲ませる。 菜月は見開いた瞳を無邪気に揺らした。「わからないわ……」 重人が家政婦に向き直り、彼女の動揺した表情を見て眉をひそめた。「手に何を隠している?」 家政婦は隠そうとするが、菜月が腹を抱えながら前へ出た。 家政婦の手から物を取り上げた瞬間、菜月は青ざめ、思わず数歩後ずさりし、重人の胸にぶつかった。 「経口中絶薬!どうしてこれを? 誰に命じられてこんな真似をしたの!」 家政婦は口を押さえて泣きながら首を振るが、重人の冷酷な眼光に膝から崩れ落ち、床に額をつけるようにひれ伏した。 「小栗先生の仕業です!私に大城様が食べるケーキに薬を混ぜるよう強要しました!あの子は父親のいない出来損ないで、大城様が小栗先生と三上様の仲を邪魔しているから始末しろと! 私がためらうと、両親に手を出すと脅し、大城様は誰もが蔑む愛人に過ぎないから、真実を口外するなと……」 菜月は重人の胸に伏せて、息もつけないほど泣きじゃくった。「重人、小栗先生の言う通りよ、全部私が悪いの。私と子供がいなくなればいい」 そう言うと彼女は重人を押しのけ、拳で自分の腹を強く叩き始めた。「私が小栗先生の邪魔になるのが悪いんだ……」 柚希は思わず弁解しようとするが、重人の凍りつくような眼差しが言葉を奪う。 額の血管が浮き上がり、重人はゆっくり近づいてくる。大きな手が彼女の喉元を締め上げる。 「柚希、言っただろう。菜月に一指でも触れば、容赦しないと」 菜月は彼の背後で挑発的に口元を歪め、しかし泣きながら必死に彼の腕を押さえて制止するふりをする。 「小栗先生がシロちゃんを殺し、結菜に私の悪口を仕込んだとしても、それに……中絶薬を盛ろうとしたとしても」彼女は苦い笑みを浮かべた。「彼女はあなたの妻で、私はただお婆様を救っただけ。私の子供がどれだけ大事でも、あなたに正義を求める資格はない」 彼女は自分の腹に手を当て、深い痛みを宿した目を伏せる。 その言葉に、重人の罪悪感が溢れ落ちそうになる。 彼は指先に力を込め、柚希を見つめる瞳は血走り、まるで鬼のようだ。「国に帰れ。二度と菜月の前に現れるな。 そんな冷酷な妻を、この三上重人には務まらん」 柚希はボディーガードに両脇を抱えられ、別荘の外へ放り出された。 結菜は必死に叫んだ。「ママ、置いていかないで」 しかし菜月は人目を盗んで二度も結菜を蹴りつける。結菜は地面に倒れ、厚い包帯から血が滲み出た。 柚希は縛られた腕を振りほどこうとするが、ボディーガードはすでに買収されている様子で、彼女を数人の男たちへ放り投げた。 路地裏に引きずり込まれ、彼女は狂ったようにもがき叫んだ。「離して!私の夫は三上重人よ!後悔するわ」 しかし男たちは微動だにせず、彼女の頬を平手打ちし、邪悪に笑いながら服を引き裂こうとした。「三上夫人なら、俺たちを雇ったのは誰だと思うか?」 その言葉に、柚希の腕が力なく落ちる。 そうだ。彼女は重人の妻ではない。ただの他人でしかなかった。 男たちが手を出そうとした瞬間、菜月が姿を現し、彼女がなぶられる様を満足げに眺める。 「小栗先生、実はとっくに気づいていたでしょ?重人と私こそ本当の夫婦で、あなたこそが本当の邪魔者だって。 本当のことを教えてあげるわ。結菜という小娘は重人があなたに生ませた、私への贈り物みたいな存在。あの子は見れば見るほど嫌いだから、死ぬほど痛めつけてやったの」 菜月の鋭い爪が柚希の頬を撫で、深く引っかいた。 三本の鮮やかな赤い傷跡が、柚希に激痛と涙をもたらした。 知っていたはずの真実のはずなのに、改めて突きつけられると心が裂かれるほど痛い。 菜月は立ち去る前に、指先をハンカチで拭いながら言う。「重人がいない数ヶ月、男に飢えていたでしょ。礼はいらない。存分に楽しんで」 絶望した柚希が目を閉じたその瞬間、男たちの悲鳴が上がる。 結菜が物陰から飛び出し、小さな牙で彼らの腕に噛みついた。 男たちは怒り、ナイフを取り出して結菜を強く刺した。 血溜まりが広がり、彼らは逃げ去った。しかし結菜は、その場で息絶えた。 柚希は呆然と這い寄り、結菜を抱きしめ、血の海の中で揺らしながら何度も子守歌を歌い続け、やがて意識を失った。 彼女は心の中でかすかに呟いた。「重人、私は一生あなたを許さない」 意識が途絶える直前、ぼんやりした影が彼女と結菜を抱き上げるのが見え、現場には血の跡だけが残された。 こうして二人は、生きても死んでも再び会うことはなかった。