妊娠七ヶ月、夫がナイトランにはまっちゃった

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妊娠七ヶ月、夫がナイトランにはまっちゃった

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夫の佐藤隼人(さとう はやと)が私・佐藤恵美(さとう えみ)にマタニティオイルをゆっくり塗ってくれているあいだ、何気なく開いたSNSで、妙な...

Chương (1)

第1章

夫の佐藤隼人(さとう はやと)が私・佐藤恵美(さとう えみ)にマタニティオイルをゆっくり塗ってくれているあいだ、何気なく開いたSNSで、妙な投稿が目に入った。 【妻が妊娠後期で一人でいられない。なのに外の若い子がやたらまとわりついてきて……マジで困ってる。どうしたらいいんでしょう?大至急アドバイス求む】 そんなクズみたいな書き込みに、コメント欄は案の定、罵倒であふれている。 それでも、なぜか得意げに「助言」をしている人までいた。 【筋トレって言っとけば? 夜の八時ぐらいに外で会って、十時ぐらいに帰っていい旦那の顔しとけばバレないよ。 妊婦なんて鈍くなるし、絶対気づかないって】 コメントを読んだ瞬間、なぜかその奥さんの姿が自分と重なって、胸がぎゅっと痛んだ。 妊娠後期なんて、心も体もいちばん弱くなる時期なのに。 そんなときに、いちばん信じたい相手に裏切られるなんて…… 「ねぇ、この投稿——」 隼人に見せようと顔を上げた瞬間。 ——スポーツウェア姿の彼が、目に飛び込んできた。 「恵美、今日からナイトランしようと思って……」 ……えっ? 第1話 夫の佐藤隼人(さとう はやと)が私・佐藤恵美(さとう えみ)にマタニティオイルをゆっくり塗ってくれているあいだ、何気なく開いたSNSで、妙な投稿が目に入った。 【妻が妊娠後期で一人でいられない。なのに外の若い子がやたらまとわりついてきて……マジで困ってる。どうしたらいいんでしょう?大至急アドバイス求む】 そんなクズみたいな書き込みに、コメント欄は案の定、罵倒であふれている。 それでも、なぜか得意げに「助言」をしている人までいた。 【筋トレって言っとけば? 夜の八時ぐらいに外で会って、十時ぐらいに帰っていい旦那の顔しとけばバレないよ。 妊婦なんて鈍くなるし、絶対気づかないって】 コメントを読んだ瞬間、なぜかその奥さんの姿が自分と重なって、胸がぎゅっと痛んだ。 妊娠後期なんて、心も体もいちばん弱くなる時期なのに。 そんなときに、いちばん信じたい相手に裏切られるなんて…… 「ねぇ、この投稿——」 隼人に見せようと顔を上げた瞬間。 ——スポーツウェア姿の彼が、目に飛び込んできた。 「恵美、今日からナイトランしようと思って……」 ……えっ? 頭がうまく回らなくて、彼の言いたいこともまだよく飲み込めないうちに、彼はフルーツの盛り合わせを運んできて、皮をむいたぶどうを一粒、さりげなく私の口元に差し出してきた。 酸味が舌に触れた瞬間、ぱっと私を現実に引き戻された。 スマホの画面を消して、私はゆっくりと体を起こした。 「そんな急に……どうかした?」 「出産まであと二ヶ月だろ? 君にはちゃんと休んでほしいから、夜中の授乳もオムツ替えも、全部、俺がやろうと決めたんだ。 だからその前に、ちょっとでも体力をつけておこうと思ってさ」 その言い方は、やけに滑らかで、迷いがない。 まるで——あらかじめ用意していたネタみたいに。 いや、それどころか……まるで「ここで感動してくれ」というような期待まで、彼の瞳に、微かに浮かんでいたような気がした。 「……行かないと、ダメなの?」 私は思い切って、そう口にした。 彼の笑顔も、そこでぴたりと固まった。 視線を逸らし、隼人は後ろ首をかきながら誤魔化そうとする。 「ほんとうは、家にいたいんだけど…… でも部長がね、健康診断の結果がやばくてさ……それで毎晩みたいに筋トレやってて、それに付き合わないと…… 子どもを育てるのにお金もかかるし、昇進も……ね?」 確かに、言っていることだけ聞けば筋は通っている。 けれど彼は昔から、忖度なんて大嫌いで、「上司にもう少し合わせなよ」と言っても、逆にむっとするタイプだった。 家族が増えると、人って丸くなるものなのかな。 ゆっくりと息を吐き、きれいに片付いたリビングを思わず見回した。 私のことを過保護なくらいに気遣って、どんな小さな用事も「俺がやる」と言ってきた人が……あの投稿のようなことをするなんて、そんなはず……ない、よね? 「わかった。じゃあ気をつけて……」 そう言うと、額にそっとキスを落とされた。 「帰ったら足のマッサージもしてあげるから。待っててね」 と、彼はどこか嬉しそうに微笑んだ。 静まり返った部屋で、胸のざわつきが消えないまま、もう一度あの投稿を開いた。 「筋トレと言っとけ」と書かれたコメントには、すでに「ベストアンサー」のマークがついていた。 【その案マジで最高!助かった!ほんとサンキュー!! それに疑うどころかナイトランに気をつけてって心配してくれてるし、妊婦ってマジでチョロいんだよね(笑) さんざん文句言ってるのってどうせ女だろ?すぐキレるくせに自覚ゼロでマジ草。 妊婦って臭いって知らねーの?マジできついんだよ。外の子と遊ばねえとストレス溜まって無理】 画面が、一瞬で冷たく凍りついたように見えた。 第2話 胸の奥が、きゅっと痛んだ。 「いい匂いがして、すごく落ち着く」 隼人はよく、丸く膨らんだお腹に頬を当てて、嬉しそうに言っていたのに。 「今日はこれ読もう、胎教も大事だから」 そして毎晩のように、童話の絵本も開いたのに。 画面をスクロールするほど、胃の奥が冷えていく。 指先が震え、スマホも落としそうになる。 【俺のこと責めるのはまだわかるけど、外のあの若い子には関係ないだろ? 赤ちゃんが生まれたらちゃんと別れるって約束もしてくれたし、絶対に迷惑かけないって向こうから言ってんの。 どうよ、めっちゃいい子だろ?】 さらに、一つの動画まで添付されていた。 ——高いポニーテール。 ——若くて、柔らかい笑顔。 ——すき焼きのたまごを真剣に混ぜる横顔。 ——それに、浅く浮かぶえくぼ。 胸の奥が、刺されたみたいだった。 社会人になりたてで、仕事がつらかったあの頃のことを思い出した。 電話で泣き崩れた私のために、隼人は重要な会議を抜けて、何時間もかけて迎えに来てくれた。 「すき焼き、食べに行こう」 気づけば、たまごを混ぜながら、ほっと笑っていた彼。 「恵美の……笑みを守るために、俺は頑張るよ」 その時の言葉を思い出した途端、ぽたりと、涙が画面に落ちた。 どうして—— どうして隼人が…… 高校、大学、そして仕事で離ればなれになった三年間さえ、一度も手放さなかった彼が…… どうしてこんな形で裏切るの? 女の子の手首には、なにかが光っていた。 あれはブレスレット——私が選んで、隼人に贈ったものだ。 あの女の子の正体も、私が知っている。 篠原つきよ(しのはら つきよ)だ。 私たちの新居マンションを案内してくれた、不動産営業だった。 あの頃、仕事に追われていた。早朝でも深夜でも、少し時間が空くと、無理をして物件を見に行くしかなかった。 相手だって休みたいはずだと分かっていたから、彼女に連絡するのがいつも少し気が引けた。 それなのに、いつ連絡しても、彼女はすぐ返してくれた。 どれだけ物件を回っても、嫌な顔ひとつ見せなかった。 毎回内見が終わる頃には、いつもすっかり夜も更けていて、私は毎回、隼人と一緒に彼女を家の近くまで送っていった。 彼女の家があるのは、細い路地ばかりで車が入り込めないような古い住宅街で、車を降りるときの彼女の顔には、いつもどこか気まずさと寂しさが浮かんでいた。 頑張り屋の彼女に、つい自分を重ねてしまった。 あの大都会で生き残るために、必死で働いてきた頃の自分を。 親近感すら、私は勝手に抱いていた。 でもどうやら、その思いは、私だけのものではなかった。 …… 動画の中。 何枚かのバラ肉を、当たり前のように隼人の皿へ置くつきよ。 「隼人さんは、本当にエリートですよね。こんな若さで家まで買って、奥さんにもあんなに優しくて……私にも、隼人さんみたいな彼氏がほしいな——」 そして軽く笑いながら、彼女は続けた。 「奥さんが子どもをほしがるのも分かります。逃げられないように、ですよね?」 仕方なさそうに、隼人はその額を指でつついた。 「黙って食べな」 その言葉に、つきよは頬をふくらませた。 「奥さんに、私なんて全然敵わないですよ」 冗談めかして言ったが、その目には一瞬だけ、本気の色がよぎった。 それを察したのか、隼人は思わず指輪を擦る。沈黙が落ち、やがて疲れたように声が漏れた。 「……もうできちゃった子供は、仕方ないだろ。いらないなんて言えないし……」 第3話 指先に力が入りすぎて、爪の色まで変わっていた。下腹も、きゅっと痛んだ。 子供ができたとき、あんなに喜んでくれたのに…… 高級ホテルでお祝いまでしてくれて、私への気遣いだって、それまでの何倍も増えていったのに…… だから、本気で信じていた。 彼も同じ気持ちで、この子の誕生を待っているのだと。 けれど、私は間違っていた。 あれはただ、裏切りのあとに残った、罪悪感のほころびにすぎなかった。 ベッドに倒れ込んだまま、涙が後から後から溢れ続けた。 大きく張ったお腹に手を添えながら、今までにないほどの絶望感を味わっている。 「……ママは、どうしたらいいの?」 情けない考えが、ほんの一瞬だけ胸をかすめた。 もし、あの二人がまだ、「最後の一線」を越えていなかったら……と。 そんなわずかな期待も、次の投稿であっさりと打ち砕かれた。 【妻に悪いとは思ってるよ。でも十ヶ月とか、さすがに我慢できないだろ?? しかもあの若い子が甘えてくるし、妻と電話してるときもいつも抱きついてくるし…… あんなの断れねーよな??分かるだろ(笑)】 文字を読んだだけで、胃がひっくり返った。 洗面所へと駆け込むなり、ひどくみっともない音を立てて吐いた。 ——思い当たる。 電話の途中で、彼が急に黙り込むときがあった。 理由を聞けば、「何でもないよ。帰ったら何作ろうかなって考えてた」と、いつもの優しい声音で言う。 彼の嘘が、そんなにもうまかった。 赤ちゃんのために選んだものを嬉しそうに話していたその裏で、彼は別の女の機嫌を取っていたのだ。 怒りも、悲しみも、全部通り越して—— 胸の奥が、静かに、冷たく沈んでいく。 コメント欄は、みるみるうちに荒れていった。 【クズ。ほんと消えてほしい】 【奥さん気づいて!!マジで見てられない】 【最低。なんでバレないと思えるわけ?】 三十分ほど経って、隼人がまた返信を送ってきた。 【俺との結婚は両親に反対されたんだけど、嫁は勝手に婚姻届出したんだよ。 妊娠七ヶ月じゃ中絶なんて無理だし、離婚しても実家は絶対助けない。 母子家庭でどうやって生きてくんの? だから万が一バレたとしても、ひとしきり泣いて騒がせてやればいい。俺がしっかり謝れば済むことだ。 安心して家庭に戻るために、あの若い子にもマンション買ってやるつもりだ。604号室、ちょうどあいつの誕生日な。それが今まで付き合ってくれたお礼だ。 両方にちゃんと筋通してんだし、俺ってむしろいい男じゃね?(笑)】 この何年間、積み上げてきたすべてが、音もなく崩れ落ちてゆく。 私の弱さも。 私の愛情も。 全部、彼に都合よく使われていたのだ。 その投稿の中でも、一文だけはどうしても引っかかった。 「ひとしきり泣いて騒がせてやればいい」? そんなもので何が済めると思うの? 第4話 手すりを握りしめ、なんとか身体を起こした。 この手すりも、隼人が取り付けてくれたものだ。 「お腹が大きくなるとバランス崩しやすくなるだろ? 床も滑りやすいし、掴まれるところがあったほうが安心じゃないかって思ってさ。 ……それに、歳を取って足腰が弱くなったら、また使えるし」 嬉しそうに工具を持っていた、あのときの彼の姿が、一瞬よぎる。 ——笑わせないで。 あまりの皮肉に、思わず小さく息が漏れた。 私は拳を握り、すべてを怒りにまかせて、このステンレス製の手すりを何度でも叩き込んだ。 どれほど血が滲んでも、胸の奥に沈む痛みは少しも薄れなかった。 そのとき、ドアノブが回る音がした。 「今のは……?何かあった!?」 隼人が慌てて駆け込んできた。 平然と立っている私を見て、ほっと息をついたその直後、私の指先の血に気づいたらしく、隼人は青ざめた顔で私の手を取ろうとした。 「……どうしたんだ!?転んだのか?どこか痛めた!?」 鼻につく、ほのかな香水の匂いが。 その匂いだけで、喉の奥がぐっと詰まる。 全力で、その手を振り払った。 「触らないで」 彼の手が途中で止まって小刻みに震えた。無理やり作った笑みも、痛々しいほど歪んでいた。 「なんで……そんなに怒ってるの? もしかして、ナイトランに行って君をひとりぼっちにしたせいで? だったらもう行かないから……そんな顔しないで」 いつも落ち着いている彼の目に、不安の色が滲んでいるなんて。 思わず、向こうの鏡を見やった。 映っているのは赤く腫れた目、濡れて乱れた髪——まるで化け物みたいな自分だ。 隼人はゆっくりと近づき、そっと私を抱き寄せた。 くぐもった声音で、彼は静かに言う。 「赤ちゃんのせいで、またしんどくなっちゃったんだよな…… 俺がちゃんとそばにいるべきだった。ごめん。 だから、こんなふうに自分を追い詰めないでほしい」 少し間をおいて、隼人は続けた。 「俺が悪かったところ、言ってみ? 全部直すから。 恵美のためなら、なんだってするから……な?」 静かに彼を押し返した私は、その目をまっすぐに見つめた。 「……なんでもしてくれる?」 「……ああ」 それ以上、彼は聞いてこなかった。 ……いや、むしろ聞けなかったと言うべきだ。 寝室の中、隼人はひとつひとつ、傷の手当てをしてくれた。 黙ったままの彼が何を考えていたのか、私はそのひとかけらすら知らない。 恋人として、そして夫婦として、何年も一緒にいたのに。 こんなに近くにいるのに、どうして、こんなにも遠い。 その夜、私は一睡もできなかった。 …… 翌朝。 出勤しようと車に向かう隼人を、私は玄関で呼び止めた。 「……南ヶ丘レジデンスまで送って」 「いいよ。乗って」 一拍をおいて、彼は不思議そうに私を見つめた。 「……は?」 運転席に座りかけたまま、私の言葉を飲み込んだように固まった。 「み、南ヶ丘って……なんで?」 勝手にシートベルトを締め、私はゆっくりと顔を上げた。 「赤ちゃんのために、新しい家を買うの……嫌?」 「いや、嫌なわけじゃ……」 そう言っておきながら、エンジンボタンに触れた隼人の指先は、ぴくりとも動かない。 口が乾いているのが分かる。 「今の体調で……無理しない方がよくない……? 産んでからでも遅くないよ、家探しなんて……」 必死に笑おうとしている隼人。その目の奥に潜んでいる焦りだけは、どうしても隠しきれなかった。 第5話 「そういえばさ、部長からまた仕事振られてて…… だ、だから……今日休んだら、ちょっとマジで怒られるかも……」 隼人は、明らかに動揺している。 「……それに、海が見える部屋、たしかに好きだって言ってたよな? だったら……ベイフロントタワーのほうが、よくない?」 わざとらしく、私は微笑んだ。 「何でもするって、昨日言ってたじゃない」 隼人が何かを言いかけたその瞬間、私は彼の言葉を遮った。 「もしかしてあそこに……なにか隠してるんじゃないよね? バレたらまずいってこと? ただ内見しに行くだけなのに……どうして、そんなに焦ってるの?」 そう言われた瞬間、隼人は自分の失態に気づいて、笑いですべてをごまかした。 ハンドルを握り直すと、そのまま何も言わずに、ただひたすら車を走らせた。 途中で助手席から、彼を横目でずっと見つめていた。 スマホに触れるタイミングを、彼は何度も伺っている。 送るべき相手が誰なのか、言わずとも分かる。 …… 隼人の腕をつかんだまま、私は不動産会社へと足を踏み入れた。 受付の隣で、モデルルームのジオラマを整えていたつきよが、何かを察したようにふと顔を上げる。 隼人を目にした瞬間、その頬がふわりと赤くなった。 対する隼人は、わずかに肩が跳ねて、つきよと目が合うや否や、反射的に視線を逸らした。 左へと、隼人が避けようとする気配がした。 私はあえてその腕を引き寄せ、右──つきよの真正面へと歩み寄った。 「あら……奇遇だね」 柔らかく笑いながら、私はつきよに声をかけた。 「ねえ、覚えてるよね?つきよさん……ほら、前の新居を担当してくれたあの子だよ。あ・の・子」 にっこり微笑んで、やさしく思い出を探るように、私は隼人へそっとヒントを与えた。 なのに、隼人は嬉しいどころか、その瞬間、顔から血の気がすうっと引いてしまった。 まるで、石像みたいに、ぴたりと固まっている。 その固まった腕にそっと手を添え、わざと首をかしげながら、私は不思議そうな声音で続けた。 「え——?まさか、覚えてないの?」 「い、いや!ぜ……ぜんぜん覚えてないっ! 担当者なんて山ほどいたし、俺は物件しか見てなかったから……!」 隼人の声は、情けないほど裏返っていた。 つきよの手が、パンフレットを握り潰しそうなほど震えた。 「あら……顔色が悪いよ?仕事、そんなに大変?」 気遣うふりをしながら、柔らかく声をかけた。 「お金を稼ぐのに、みんな必死だったんだね。隼人も、前の新居を買ったばかりなのに、今度は私と赤ちゃんのために、またマンションを買おうって決めてくれたし……」 つきよの瞳が、大きく揺れた。 それに乗って、私は追い打ちをかけた。 「つきよさん、こんなに一生懸命働いてきたんだもん、貯金もだいぶ貯まってるよね? 自分の家も、そろそろ買った方がいいよ」 唇を噛み、つきよは必死に笑顔を作ろうとしていた。 「私なんて……えみさんみたいに恵まれていませんから。生活費でいっぱいいっぱいで……」 彼女の瞳には、涙がとうににじんでいた。それでも口だけは、繕おうとしていた。 そのあとの内見では、つきよの表情はずっと崩れたままだった。隼人も、彼女を見ないように、ひたすら地面だけを見つめて歩いていた。 そして—— 604号室の前で、私は静かに足を止めた。 「この部屋にしよう。この番号も、気に入ってる。 604って、つきよの誕生日だよね?」 つきよはなにも答えられず、ただ深くうつむいた。隼人もまた、言葉を探すように唇をわずかに震わせたあと、きつく結び、そのまま飲み込んだ。 空気が重く張りつめ、三人の呼吸だけが異様に大きく響いた。 ……面白い雰囲気だ。 やがて、隼人が折れたように言った。 「……わかった。この部屋でいい」 つきよが信じられないように彼を見つめた。 「そんな……約束が……」 声は涙で震えていた。 それ以上耐えられないように、彼女は駆け足でその場を離れた。 横目でその背を見送った私は、口角を思わず浮かべた。 ——もう耐えられなくなったの?まだ始まったばかりなのに。 本番は、ここからだ。