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愛は枯葉のごとく静寂に散りゆく
へき地での教育支援活動を終え、南都に戻って三年目のこと。 私は病院で元夫と偶然再会した。 簡単な挨拶を交わす間、彼の視線が私の手にある...
Chương (1)
第1章
へき地での教育支援活動を終え、南都に戻って三年目のこと。
私は病院で元夫と偶然再会した。
簡単な挨拶を交わす間、彼の視線が私の手にある処方箋を捉え、何かを悟ったように言った。
「まだ胃の具合が悪いのか?」
私は礼儀正しく頷いた。
「ええ、いつものことで」
「そうか。じゃあ、この保温ポットを持って行きな。チキンスープが入っている。本来なら玲奈に精をつけさせてやろうと思って……」
彼がなおも言葉を続けようとするのを、私は反射的に断った。
「結構よ」
彼の声がピタリと止まり、一瞬の間を置いて、深いため息に変わった。
「あの時、お前がもっと早く折れていれば、今頃こうして一人でいることもなかったのにな」
私は笑って、何も答えなかった。
その時、少し離れたところから小さな姿が、おぼつかない足取りで走ってきた。頬には涙の跡が残っている。
私は両手を広げて翔太を抱き上げた。彼の視線が何気なくそちらに向けられる。
「どうしたの?」
「ママ、優子さんがチョコ食べちゃダメって言うんだ」
その瞬間、保温ポットを持っていた彼の手から力が抜けた。
「アン、お前……もう子供がいたのか?」
第1話
へき地での教育支援活動を終え、南都に戻って三年目のこと。
私・高橋杏(たかはし あん)は病院で元夫・瀬川蓮(せがわ れん)と偶然再会した。
簡単な挨拶を交わす間、彼の視線が私の手にある処方箋を捉え、何かを悟ったように言った。
「まだ胃の具合が悪いのか?」
私は礼儀正しく頷いた。
「ええ、いつものことで」
「そうか。じゃあ、この保温ポットを持って行きな。チキンスープが入っている。本来なら玲奈に精をつけさせてやろうと思って……」
彼がなおも言葉を続けようとするのを、私は反射的に断った。
「結構よ」
彼の声がピタリと止まり、一瞬の間を置いて、深いため息に変わった。
「あの時、お前がもっと早く折れていれば、今頃こうして一人でいることもなかったのにな」
私は笑って、何も答えなかった。
その時、少し離れたところから小さな姿が、おぼつかない足取りで走ってきた。頬には涙の跡が残っている。
私は両手を広げて翔太(しょうた)を抱き上げた。彼の視線が何気なくそちらに向けられる。
「どうしたの?」
「ママ、優子さんがチョコ食べちゃダメって言うんだ」
その瞬間、保温ポットを持っていた彼の手から力が抜けた。
「アン、お前……もう子供がいたのか?」
ガシャーン!
病院のロビーにその音が響き渡り、スープが床に広がった。
いつもなら何事にも冷静な彼が、ズボンの裾についたシミなど気にも留めず、ただ呆然と私を見つめていた。
「ええ、そうよ」
彼は唇を引き結び、矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。
「相手は何をしてる奴だ? 出会って数ヶ月でスピード婚でもしたのか?
今はどこに住んでる?」
「あなたには関係ないわ」私は静かに彼を一瞥した。
「アン、俺たち、元夫婦だろ。俺はただ……お前が変な男に捕まってないか心配なだけで」
失言だと気づいたのか、彼は少し口調を和らげた。
「私たちはとっくに離婚したのよ。
それに、最初に心を許す相手を間違えたんだもの。同じ過ちは二度と繰り返さないわ」
そう言い捨ててバッグを持ち直し、私は一刻も早く立ち去ろうとした。
彼は数秒口ごもり、とっさに私を引き止めようと手を伸ばした。
その手が私の左腕にある褐色の傷跡に触れ、彼の表情が複雑に歪む。
「ここは……まだ痛むのか?」
「もう治ったわ」
私は後ずさりして彼の手を避け、袖を下に引っ張って傷を隠した。
あの日、彼は相原玲奈(あいはら れいな)を庇おうとして、私を突き飛ばした。
その拍子に突き出た鉄筋で腕の骨を砕かれ、血が止まらなかった。
その傷が何度も化膿し、夜も眠れないほどの激痛に襲われ、大量の鎮痛剤に頼るしかなかった日々。
当時は、もう二度と普通の生活なんて送れないと思っていた。
けれど、あの抉れた肉もいつしか癒え、傷跡になった。
雨の日に時折うずく程度で、後遺症らしい後遺症もない。
愛だって、同じこと。
心から愛した人を切り離す過程は、骨を削られるような激痛を伴う。
けれど、本当に手放してしまえば、どうということはない。
「俺が悪かったよ。あの時は、やり方が強引すぎた」
彼の瞳に後悔の色が浮かぶ。
「お前と玲奈なら、本当は上手くやれたはずだったんだ。
それに、長年俺を支えてくれたお前の苦労も、分かっているつもりだよ」
私は薄く笑った。
「昔話をする必要はないわ。
あなたとは、これ以上話すことなんてないもの」
翔太を抱きしめ、私はもう彼を見ることなく背を向けた。
彼はその場に立ち尽くし、何か言いたげに口を動かしていたようだが、聞き取る気にもなれなかった。
歩きながら、ふと彼が玲奈のことを「あの子」と呼んでいた時の、あの甘ったるい口調を思い出した。
玲奈が現れてからというもの、彼はいつも私にこう言っていた。
「アン、大目に見てやってくれよ。あの子はまだ若い、何も分かってないんだから」
けれど今、私の心は凪のように静かだ。
死に物狂いで生きたあの日々を忘れそうになるほどに。
最後の希望すらも無残に踏みにじられたことさえ、忘れそうになるほどに。
愛も、憎しみも。
十数年にわたる因縁の果てに。
残ったのは、ただの無関心だけだった。
病院を出ると、アシスタントの川村優子(かわむら ゆうこ)が車で待っていた。
車が走り出すと、冷たい風と共に私の意識も過去へと引き戻されていった。
学生時代、私と蓮は六年間も席を並べた仲だった。
彼は理系が得意で、私は典型的な文系だった。
私たちは正反対だったけれど、誰よりも相性の良いパートナーでもあった。
高校一年の時、うちの会社が突然経営破綻し、ショックを受けた両親は毒を飲んで自殺を図った。
第2話
瞬く間に、私は愛される令嬢から、誰もが関わりたくない厄介者へと転落した。
悪意、嫌がらせや暴言は、日常茶飯事となった。
けれどその度、彼は黙って私の前に立ち、自分の未来さえも賭けて、全てを引き受けてくれた。
鉄パイプを手にした不良に囲まれた時。
彼は躊躇なく飛び出し、私を庇ってその身を盾にした。
握りしめていた航空学校の願書も、血で赤く染まった。
あの日、彼は手術を受けなければならないほどの大怪我を負い、その怪我が原因でパイロットへの道を閉ざされてしまった。
それでも彼は、私の涙を優しく拭い、何でもないことのように言った。
「大丈夫だよ、生き方は一つじゃないから」
翌日、学校から学費の督促が来ると、蓮のお母さんが私の分まで払ってくれた。
私はうつむいたまま、申し訳なくて彼女の目を見ることができなかった。
彼女は私の肩を叩いて言ってくれた。
「いいのよ、これは蓮が選んだことなんだから。あなたは悪くないわ」
後で知ったことだが、蓮は貯めていたお金を全て差し出し、一晩中お母さんに頼み込んだそうだ。
父親を早くに亡くなり、決して裕福とは言えない家庭だったはずなのに。
彼ら親子は、私に救いの手を差し伸べてくれたのだ。
その後、遠距離恋愛になっても、何千キロほどの距離を隔てても、私たちの想いは変わらなかった。
ただ顔を見るためだけに、十数時間も車に乗ることさえ厭わなかった。
彼に出会えて本当によかったと、数え切れないほど思ったものだ。
瀬川家から受けた恩は、決して忘れてはいけない。
だから彼が建築業界で生きていくと決めた時、私は迷わず彼について南都へ来た。
貧乏な若造に成功などできるはずがないと、誰もが思っていたとしても、私の決意は揺るがなかった。
最も苦しかった四年間、私たちは六畳のボロアパートで肩を寄せ合って暮らした。
揺れる裸電球の下、私たちはカップラーメンをすするだけの毎日を送っていた。
彼はいつか自分たちだけの家を建てると言い、その夢の設計図に二人で細かな修正を加えていった。
その一枚の図面には、未来への全ての期待が込められていた。
四年が経ち、生活がようやく上向き始め、彼は小さな会社を立ち上げた。
ただ不運なことに、蓮のお母さんがアルツハイマー病を患ってしまった。
彼を仕事に専念させるため、私は家事も介護も全て引き受け、身を粉にしていた。
長期間の過労がたたり、私たちは最初の子供を失ってしまった。
その夜、事実を知った彼は、初めて私の前で子供のように泣きじゃくった。
「アン、もう少しだけ待っててくれ。必ずお前を幸せにするから」
それからしばらくして、私は玲奈に出会った。
彼女は道端でうずくまり、途方に暮れていた。卒業したばかりでブラック企業に騙され、なけなしの所持金を全て失ったのだという。
かつて孤立無援だった自分を思い出し、私は彼女を蓮の会社に紹介した。
彼女は涙を拭い、何度も頭を下げた。「杏さん、安心してください。私、絶対に頑張りますから」
インターンから秘書へ、彼女は異例の速さで昇進していった。
彼女から良い知らせを聞くたび、私は自分のことのように喜んでいた。
会社も数人規模から百人を超えるグループ企業へと成長し、蓮は南都で一目置かれる存在になり始めた。
彼は真っ先に私を新居に迎え入れてくれた。私は感極まって涙を流し、ようやく苦労が報われたのだと思った。
それ以来、彼はほとんど家に帰ってこなくなった。
広いリビングは、私の呼吸音しか聞こえないほど静かだった。
仕事に夢中で食事を忘れているのではないかと心配になり、私は激しい雨の中、会社へ向かった。
ドアを開けると、床には女性の下着が散乱していた。
彼は玲奈をソファに押し倒し、二人は我を忘れて口づけを交わしていた。
手にした弁当が音を立てて落ち、私は震えが止まらず立っていられなかった。
彼は振り返ると、かつて私を守った時のように、彼女を庇うように立ちはだかった。
「アン、今回は俺が誘惑に負けたんだ。玲奈を責めないでやってくれ。彼女はまだ若い、悪評が立ったらおしまいだ」
あまりにも身勝手な言い分に、私は全身が凍りつくのを感じた。
成功を手にしたその瞬間、彼が真っ先に切り捨てたのはあろうことか、私だった。
……
「杏さん、講演会の会場に着きましたよ」優子の声が耳元で響いて、私を思い出から現実に引きずった。
第3話
私は頭を振って我に返った。
車を降りると、見覚えのある姿が目に入った。蓮だ。
「どうしてここに?」
優子以外、チャリティー活動をしていることは誰にも話していないはずだ。
蓮は手にしたカードを軽く振って見せ、申し訳なさそうに言った。
「アン、後をつけるつもりはなかったんだ。これ、落としたぞ」
「場所が書いてあったから、届けに来たんだ」
彼はゆっくりと近づいてきた。その瞳には、複雑な感情が揺らめいている。
「チャリティー基金の設立は、俺たち二人の夢だったよな。
まだ覚えていてくれたんだね」
私は彼を見つめ返したが、心は少しも揺れなかった。
「勘違いしないで。私はただ、自分のやりたいように人助けをしているだけです」
彼が言う夢とは、「夫婦でやりたいことリスト100」に書かれていたものだ。
あの頃、私たちは一つずつゆっくり叶えていこうと約束していた。
けれど丸五年の間、チェックがついたのは最初の一つだけだった。
その項目は、記念日に、二人で思い出の場所にもう一度行くことだった。
五周年の記念日、私たちは役所で顔を合わせた。
ただし、それは離婚届を出すためだったが。
「瀬川社長、寄付するおつもりがないなら、お引き取りください」
近くから機材調整の音が聞こえてきた。
私は襟を正し、立ち去ろうとした。
彼はまだ信じられない様子で、言葉を選びながら口を開いた。
「アン、離婚してたった五年で、五歳くらいの子供がいるなんて、つじつまが合わない。
もし本当に俺の子なら、責任を取らせてほしい」
私は皮肉な笑みを浮かべた。
「責任を取る? また私にお金を投げつけるつもりですか?」
それは、二度目の妊娠が分かった時のことだった。
……
妊娠をきっかけに、私は彼とやり直せるかもしれないと期待した。不安な気持ちで十数回も電話をかけたが、二日間ずっと繋がらなかった。
私はコートを羽織って慌てて家を飛び出し、制御を失ったトラックにはねられた。
下腹部から鮮血が溢れ出し、目の前が暗くなった。
医者には、体質が弱いため今後妊娠するのは難しいと告げられた。
絶望の中で一晩中病院で待っていると、彼が玲奈の手を引いて姿を現した。
彼女はてへっと舌を出して言った。
「杏さんごめんなさ〜い。蓮さんが山へホタルを見に連れて行ってくれたんですぅ。
昨日私の誕生日でしょう? 蓮さんったら『主役が一番だ』って、言い出したら聞かなくて」
私は手近なコップを掴み、彼女に投げつけた。
悲鳴と共に、私は蓮に頬を強く打たれた。
彼は眉を寄せて私を見た。
「アン、たかが体調不良だろう? 大げさに騒ぐなよ!」
「私たちの子供だったのよ! あなたは何とも思わないの!?」
私は掠れた声で叫んだ。あまりの激痛に、心が麻痺して感覚がなくなっていくのを感じた。
おそらく蓮は玲奈と寝すぎて、自分の記憶さえ曖昧になっていたのだろう。
私たちはその一ヶ月前、何度か体を重ねていたのに、私の妊娠にも気づかなかったのか?
「金が欲しいならそう言え。茶番に付き合う暇はない」
紙幣がひらひらと舞い落ちる中、私は涙を拭った。
ふいに、どっと疲れが押し寄せてきた。
……
しかし、彼は私の今の言葉の意味が分からず、怪訝な顔をした。
「アン、あの時はお前に非があったんだ。子供とは関係ないだろう」
「どうとでも思えばいいわ」私は淡々と言った。
優子が急いで駆け寄ってきた。「杏さん、高木部長が探していましたよ」
「瀬川社長、失礼します」
度重なる「瀬川社長」という他人行儀な呼び名に、彼はついに諦めたようで、黙って私の背中を見送った。
「杏さん、あんな人相手にする必要ないですよ! 殴ってやらなかっただけ慈悲深いってもんです!」
私と優子はプライベートでも仲が良く、彼女は蓮との事情を大方のところ知っている。
「そのような必要がないわ」私は笑った。
「あんなクズ男、八つ裂きにしても足りないくらいですよ! 杏さん、大人しすぎると損しますって」
彼女は顔を真っ赤にして怒っていた。
実は彼女は知らないのだ。離婚前、私と蓮の間でどれほど激しい争いがあったかを。
抵抗しなかったわけではない。
けれど、当時の彼が持つ権力の前では、現実はあまりに残酷だった。
私はあまりにも無力だった。
彼の浮気を知った翌日、私は会社の防犯カメラの映像を手に入れようとした。
だが、用心深い彼のことだ。映像はとっくに削除され、痕跡など何ひとつ残っていなかった。
第4話
当時、蓮のお母さんの病状は悪化し、寝たきりで言葉さえ失っていた。
離れることなどできず、私は最後の執念だけで、ギリギリのところで持ちこたえていた。
けれど、彼が自ら業者を呼び、私たちの家を取り壊させた時、私の心は完全に折れた。
「玲奈がカフェをやりたいって言うんだ。若いんだから、色々挑戦させてやりたいだろ?」
二人で作ろうと約束した、私たちだけの家。
彼はその約束よりも、玲奈の気まぐれを優先し、自らの手で全てを破壊したのだ。
私は「瀬川蓮の妻」という名前でSNSのアカウントを作り、彼らの不倫を全て暴露した。
投稿はすぐに拡散されたが、一日も経たないうちに全て削除された。
そして、彼が離婚届を持って家に乗り込んできた。
「アン、認めるよ。俺は玲奈に惚れてる。若くて活発な彼女こそ、俺にお似合いだ。
これ以上騒ぎを大きくしても、お前のためにならないぞ」
私は彼の目の前で離婚届を破り捨て、署名を拒否した。
「私が死なない限り、離婚はしないわ」
彼は脅しを実行に移した。偽造した診断書を使って、私を精神科病院へ強制入院させたのだ。
丸三ヶ月間、私はありもしない病気の治療を強いられ、心に消えない傷を負った。
退院の日、私の目は死んでいた。震える手で、突きつけられた離婚届にサインをした。
本来もらえるはずだった慰謝料も、玲奈が騒いだせいで無しになった。
五年間、文句一つ言わずに尽くしてきた専業主婦の末路は、無一文だった。
……
「杏さん、スピーチの出番ですよ」
「はい」私は返事をし、優子と共にステージへ向かった。
講演会が終わっても、蓮はまだその場に残っていた。
近づくと玲奈も一緒で、彼の腕にぶら下がるようにして甘えていた。
「ねぇ~、もう行こうよぉ。こんなイベント、何が面白いの~」
彼女は私に気づくと、目の奥が笑っていない笑顔を向けた。
「あら、杏さんもいたんですね」
彼女は少し膨らんだお腹を撫でながら、私の全身を値踏みするように見回し、鼻で笑った。
「やっぱり女は、男の人に愛されてないと綺麗でいられませんよねぇ」
「玲奈、よせ」蓮がたしなめる。
「なによぉ。蓮さんだって言ってたじゃない。『あいつは枯れ木みたいで女としての魅力がない』って」
彼女は唇を尖らせた。
「でも感謝しなきゃね。杏さんがいなくなってくれたおかげで、こんなお金持ちの旦那様をゲットできたんだから」
蓮の顔色が青ざめた。彼は慌てて弁解した。
「アン、あの子の言うことは気にするな」
私はどうでもいいという風に笑った。
「それはおめでとう。お似合いのゴミ同士ね」
彼が私のことをどう言っていたかなんて、知っていた。
一番耳にしたのは、「お前にはもう飽きた」という言葉だ。
ちょうどいい、私も同じだもの。
玲奈は顔を真っ赤にして何か言い返そうとしたが、彼に強引に連れて行かれた。
遠く離れても、彼女の甲高い声が聞こえてくる。
「何よ今の態度! そんなに後ろめたいわけ? まだあんな女に未練があるの!?」
……
「そういえば、あのボロ家売ったわよ。お義母さんも死んだのに、いつまでも持ってるなんて縁起悪いし……
売ったお金は私がもらっていいの? じゃあ、今回のことは許してあげる……」
私の無関心なところで、蓮と玲奈のあいだでは何かが起きていて、蓮はまた何かに気づいたようだった。
……
一週間後の昼下がり、突然インターホンが鳴った。
私が考える間もなく、翔太がドアを開けてしまった。
蓮は前回よりもさらにやつれていて、赤くなった目で哀願するように私を見た。
「アン、少し話せないか?」
「どうやって私の住所を嗅ぎつけたのか知らないけど」
私は一呼吸置き、冷たい視線を向けた。
「帰ってちょうだい!」
彼は閉まりかけたドアを手で押さえ、声を詰まらせた。
「少しだけでいい、話しが終わったらすぐ帰るから」
私が黙っていると、彼は数秒口ごもり、ようやく口を開いた。
「俺が悪かった。本当にすまない。
どうして……どうして黙ってたんだ。いじめられても、どうして一言も言ってくれなかったんだよ」
私は黙って彼を見つめた。心は凪のように静かだった。
「実家を売り、母さんの遺品を整理していたんだ。
これを見つけるまで、俺は……自分がとんでもない過ちを犯していたことに気づきもしなかった」
彼は震える手を開き、握りしめていたものを見せた。