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101回目のプロポーズ
私、藤堂亜衣(とうどう あい)は、恋人の渡辺颯太(わたなべ そうた)から、これまでに九十九回プロポーズされてきた。そしてそのたびに、彼の...
Chương (1)
第1章
私、藤堂亜衣(とうどう あい)は、恋人の渡辺颯太(わたなべ そうた)から、これまでに九十九回プロポーズされてきた。そしてそのたびに、彼の幼なじみである葉山鈴(はやま すず)は、決まってうつの発作を起こしたのだ。
颯太が百回目のプロポーズをしてきたときも、その構図は変わらない。
彼はいつものように唇の端に甘ったるい笑みをにじませながら、鈴からの電話に出た。そして、ため息まじりに私のほうを見て言う。
「鈴の具合がまた悪くなった。今日のプロポーズは中止だな」
今日が私の誕生日だってことなんか気にも留めず、彼はテーブルに並んだ料理を手慣れた様子で次々とテイクアウト用に包んでいった。
怒りをぶつけられるのを恐れているくせに、その瞳にはどこかうんざりした色が浮かんでいて、私に向かって説教を始める。
「お前が鈴を妬んでるのは分かってる。でもあっちは病人なんだぞ?
お前は軍人なんだし、鈴に譲ってやるのが当たり前だ」
彼は、鈴が箸をつけて残した料理を「全部食べろ」と命じた。さらに、夜中の三時に山を登って、ひ弱な鈴に防寒コートを届けろと私を無理やり行かせた。
鈴のSNSには、颯太と抱き合う写真が挑発するように並んでいる。それでも颯太の口から出てくるのは、やはり私を責める言葉だ。
「そこまで追い詰めないと気が済まないのか?鈴をうつに追い込んで楽しいのか?これが軍人の品位かよ。お前のその意地の悪さ、本当に気持ち悪い」
こうして彼は何度も何度も、私の人間性を疑い、道徳心を踏みにじってきた。
けれど最後の一度だけ、私はただ、手の中の軍の特殊部隊から届いた極秘任務の召集令状に視線を落とし、一言も発さなかった。
颯太は、何も分かっていない。
今度は、私が彼を切り捨てる番だ。
第1話
花束が床に叩きつけられ、渡辺颯太(わたなべ そうた)は、私には一瞥すらくれずに踵を返して出て行った。
私は藤堂亜衣(とうどう あい)。彼と付き合って、もう五年。プロポーズされた回数は、これでついに百回目だ。
周りはみんな、さすがに今度こそはゴールインだろうと思っていた。
日にちだって、私の誕生日に合わせてわざわざ選んだ。
友だちがそろって二時間も待っていたのに、彼が遅れてきた理由は、彼の幼なじみである葉山鈴(はやま すず)が映画を観たいと駄々をこねたから。
バンと、扉がまた乱暴に開け放たれ、溶けかけていた生クリームのケーキがドサッと床に崩れ落ちた。彼はそれを一顧だにせず、私の大好物のローストビーフだけを、全部持ち帰り用に包ませた。
さすがにその場の、私を気の毒がるような空気が気になったのか、彼は言い訳めいたことを口にする。
「ほら、あいつ最近ずっと情緒不安定だろ。どうせプロポーズなんて、もう何回目か分かんないくらいやってるし、今回くらい別にいいだろ?
先に鈴の機嫌を取ってくる。お前はここでみんなの相手してて。夜、様子見て戻れそうなら戻るから。誕生日プレゼントは、そのとき改めて渡す。
そうだ、このスペアリブ、まだ誰も箸つけてないよな?これも持ち帰るから、お前らもう一皿頼んで」
友だちの誰かが、私の代わりに怒ろうとしてくれた。でも私は逆に張り切って、彼を手伝い、ついでにほかに欲しいものがないかまで聞いてしまう。
彼が指で軽くテーブルを示すと、その一帯の料理はきれいにごっそり、持ち帰り用の袋に消えた。
「悪いな。鈴、潔癖だからさ、他人が箸つけたものの持ち帰りは無理なんだ」
彼は、忙しく立ち働く私の様子を見て、どこか満足げにうなずく。
「今日は珍しく、全然キレないんだな。その調子で、これからも頼むよ」
前の私なら、必ず颯太を問い詰めていた──私と鈴、どっちが大事なのかって。
そのたびに喧嘩になって、傷つくだけ傷ついて、最後は彼が腹いせに鈴の家へ泊まりに行くのがお決まりだった。
けれど、今日はもう、本気でどうでもよくなっていた。
颯太が大きな紙袋を両手に提げて店を出ていくと、友だちが怒りに任せてテーブルを叩いた。
「てっきり、あいつはテイクアウトなんか絶対しないタイプだと思ってたのに!」
彼は付き合いの飲み会も多くて、外での集まりにはしょっちゅう顔を出す。一方の私は、仕事で深夜まで残業なんてざらだ。
それでも彼はいつも「持ち帰りなんて、ダサい」と言って、私のためにわざわざ一皿注文してくるようなことは一度もなかった。
たった一度だけ、友人が「犬に食べさせる」と言っていたテイクアウトの残り物を、私に押しつけたことはある。あのとき颯太は、私が箸をつけるのを渋っただけで、ひどく怒鳴った。
「昔なんて、ろくなものも食べられなかったんだぞ。ちょっと残り物食べるくらいで何を気取ってんだ?」
今になって思えば、彼はただ、私のことで自分の顔をつぶしたくなかっただけだ。
私は友だちと食事を終えるまで笑顔で場をつなぎ、店を出た。空は雲ひとつない快晴なのに、胸の中だけが妙に冷え切っている。
スマホを開くと、ちょうど鈴がSNSを更新したところだった。
【プロポーズを放り出してまで、こんなにたくさんおいしいものを打ち上げしてくれた颯太にありがとうね。残念ながらお腹が限界で、ほとんどゴミ箱行きだけど】
その直後、颯太からのメッセージもポン、と通知に浮かぶ。
【テイクアウト、だいぶ余ったからな。明日のお前の昼飯な】
しばらく考え込んだ末に、私は通話ボタンを押した。
「隊長、私やっぱり部隊に戻りたいです」
部屋の中を片づけていたら、気づけばもう深夜になっていた。
颯太はまだ帰ってこない。でも、もういちいち驚くようなことでもない。
なのに、スマホだけは容赦なく鳴り響く。
「今すぐ、家にある登山用の装備一式を、鈴の家まで持ってこい」
第2話
私は一瞬きょとんとして、思わず「ないよ」と口をついて断ってしまった。
というのも、前に何度か私が一緒に山登りに行こうと誘ったとき、颯太は決まって「仕事で手一杯だ」「もう年だし、そんなところに割る体力はない」と断ってきたからだ。
「チッ……」
受話口の向こうで彼が舌打ちし、装備のある場所を詳しく告げてきた。
「鈴、気分が落ちててさ。山登りすると気晴らしになるんだよ。いいから早く装備持ってこい。俺たち、これから日の出見に行くから」
クローゼットを漁っていると、おそろいで買ったペアルックの登山ウェアが二着、奥から出てきた。胸のどこかを、誰かに鷲づかみにされたように痛んだ。
彼はソフト開発の仕事で、いつも忙しくて姿さえろくに見えない。
私がウイルスに感染して三日も高熱でうなされていたときでさえ、彼は冷たい顔で「病院に付き添う時間なんかない」と言い放った。
そんな人が、今は女の子と二人きりで、夜通し山を登る時間ならあるらしい。
しかも、明日はどうしても外せない大事な会議が入っているはずなのに。
電話は切れないまま繋がっている。
その向こうから、鈴のとろけるような声が流れ込んでくる。
「颯太、もしかして亜衣は、ヤキモチ焼いてるんじゃない?それなら、一緒に連れてきてあげれば?」
「連れて行くわけないだろ。あいつなんて邪魔にしかならねぇよ。今の俺の任務は、お前の機嫌を直すこと」
二人の息づかいが近く重なり合っているのが、電話越しにも伝わってくる。私は慌てて通話を切り、登山用の物一式を代行サービスの配達員に託した。
ふだんから私は、鈴のために書類を取りに走り回り、話題のスイーツや限定コスメを買うために行列に並び、夜中に呼び出されては、泥酔した彼女を迎えに行っている。
颯太はいつも、「義姉なんだから、鈴の面倒を見るのは当たり前だろ」と言う。
でも、私はまだ一度だって、正式にプロポーズなんて受けていない。
午前四時、スマホに一枚の写真が届いた。画面の中で、颯太が鈴をしっかりと腕の中に抱き寄せている。
【亜衣、寒いから颯太がこうして温めてくれただけだよ。一応、報告ね。変なふうに思わないで】
いつもの挑発じみたやり口だ。颯太は、それを見ても「鈴は可愛いな」としか思わない。
私は短く一行だけ返した。
【二人とも、楽しんで】
夜になって、颯太はガタガタ震えている鈴を連れて帰ってきた。
「鈴が冷えちゃってさ、風邪引いたっぽい。悪いけど、何日か看病してやってくれ」
鈴は、いつものように勝手知ったる家のつもりでリビングに入ってきたが、床に散らかった荷物につまずきかけた。
「亜衣!家の中をこんなに散らかして、鈴をわざと転ばせる気か!」
颯太は弾かれたように飛び出してきて、鈴を抱きとめる。その反動で、私は強く弾き飛ばされ、ローテーブルの角に脇腹をぶつけた。あまりの痛さに、私の顔から一気に血の気が引く。
それでも彼は、私のほうを一度も振り返らなかった。
鈴は彼の胸に寄りかかり、涙目でか細くつぶやく。
「亜衣は、きっと私がプロポーズの邪魔したって怒ってるよね……」
「颯太、あなたに大事な話がある。二人きりで話したい」
颯太が何か言いかけるより早く、私は言葉を差し込んだ。すると、彼は反射的に抱き寄せていた鈴を少し離した。
そして、鈴が甘えた声で鼻を鳴らした。
「颯太、私、お腹すいちゃった」
それを聞いた颯太は、すぐさま鈴のほうを向き直り、優しい声で宥める。
「ちょっと待ってろ。今から何か作ってやる」
そう言ってくるりと背を向けた。さっきの私の一言なんて、もう完全に記憶の外だ。
鈴はこっちにいたずらっぽく変顔を投げてから、「颯太、颯太」とベタベタ呼びながら、彼の後ろをついていく。
私は苦笑いして首を振った。もう、わざわざ話す必要もなさそうだ。
私が寝室の片づけを終えて戻ると、二人はダイニングテーブルでイチャイチャしている。
颯太は、スプーンのスープをふうっと冷ましてから鈴の唇の前に差し出し、とろけそうな眼差しでじっと見つめていた。
鈴は頬を赤く染めて、わざとらしく身をよじる。
「やだぁ、今はスープ飲みたい気分じゃないの」
「ほら、いい子にしてろ。風邪のときは、温かいスープたくさん飲むのが一番効くんだ」
彼は、まるで貴重な宝石でも扱うみたいに、鈴の後頭部にそっと手を添える。
おかず三品とスープ一品から、食欲をそそる香りが立ちのぼっている。
彼はいつも「俺は理系だから、料理とかは無理」と言い張っていた。
だから、彼が家で休んでいる日でも、残業帰りの私が台所に立つしかなかった。
一度、あちこち出張で飛び回ってさすがに限界で、「今日は鍋だけでも作って」と甘えてみたことがある。
そのとき彼は、あからさまにうんざりした顔で怒鳴った。
「料理なんて女の仕事だろ。いい年して若い子みたいに甘えてんじゃねえよ。恥ずかしくないのか?」
結局のところ、彼にご飯を作ってもらうほどの存在じゃないだけだ、私が。
胸の奥で渦巻く余計な考えを押し込めて、私は黙って自分のために水を一杯注いだ。
そのタイミングで、颯太がふいに声をかけてくる。
「お前も、少し食べるか?」
私は首を横に振った。だって、鈴は、潔癖症で、人の箸がついたものなんて絶対に口にしないんだもの。
前に一度、鈴のために颯太がはちみつ生姜湯を作ったことがある。ちょうど生理中でお腹が痛かった私は、それを少しだけ分けてもらって飲んだ。
そのせいで、残った半分が、そのままゴミ箱に捨てられた。そして彼は、鈴の飲み物に勝手に口をつけた私を、さんざん罵ったのだった。
第3話
「頭おかしいのか?自分で作ればいいだろ。よりによって鈴の飲み物なんか飲んで、彼女のうつを悪化させたいのか?」
そのことで、私たちは一か月近く、ほとんど言葉を交わさなかった。そしてその間に、颯太は鈴へ五回も求婚していた。
もう、そこまでして振り回される気力なんて残っていない。
そう思った瞬間、彼が不意に私を呼び止めた。どこか言いにくそうな濁った目をしている。
「亜衣、お前もこっち来て一緒に食べよう。ちょうど話がある。鈴の部屋の契約が切れるからさ、しばらくうちに住むことになる。お前は、できれば身を引いてやってくれ」
鈴は、甘ったるい笑顔を浮かべて言う。
「亜衣、私がうつ病なのは知ってるよね?それに、颯太を誰かとシェアするのも無理で……同じ屋根の下なんて、想像しただけで気持ち悪くなっちゃう」
颯太は、どこか気まずそうな顔をしながらも、鈴の口元にかかった髪をそっと耳にかけてやった。
胸のど真ん中にいきなり針を一本刺されたみたいで、目の奥までじんと痛んだ。
この人のこういう突然の優しさには、いつだって見返りがセットになっている。
前にも、彼が一度だけ朝ごはんを作ってくれた代わりに、私は「鈴に九十九回プロポーズする権利」をあっさり承諾してしまったのだ。
私はもう、本当に疲れてしまった。冷えた声で、明日には出ていくとだけ告げた。
颯太は、ほんの少し意外そうな顔をして、確かめるように言葉を足す。
「たぶん二か月くらいは住むことになると思う。お前のほうで、もう一部屋探してくれ」
あと二日で私は部隊に戻る。二か月どころか、一生ここを空けるんだって構わない。
私は自分から、リビングのソファに寝床を移した。
最初、颯太は、私は彼と同じ部屋で寝ればいいと提案しようとしていたが、鈴の頬が真っ赤になっているのを見ると、その言葉を飲み込んだ。
その夜、半ば眠りかけていた私は、いきなり乱暴に腕をつかまれ、力ずくで引き起こされた。
「お前さ、ただ鈴に寝室を譲ってやればよかっただけだろ?どうしてそんなに意地悪なんだ!彼女はもともと風邪をひいてるんだぞ!」
颯太の怒鳴り声が、頭の奥に響く。
私の寝室の窓は壊れていて、閉めても隙間風が入る。そのせいで、夜中の冷たい風に当たった鈴の体は、すっかり冷えきって震え出したらしい。
でも彼は忘れている。一か月前、私が寒さで風邪をひいたときに、この窓の不具合ははっきり伝えたはずなのに。
「お前はタフなんだから、布団を一枚足しときゃいいじゃん」と言って、取り合ってくれなかった。
私も外回りの取材に追われ、原稿締め切りにも追い立てられ、窓の修理は気づけば放りっぱなしになっていた。
でも明らかに、今の彼は私の言い分を聞く気なんてない。
鈴は颯太の胸にしがみつくように体を寄せていた。彼は車の鍵をつかむと、そのまま病院へ飛び出していった。
外は土砂降りの雨。
私も前に、一度だけ同じような雨の夜に「病院まで送って」と頼んだことがある。でもあのとき彼は、「大げさなんだよ」と一言で切り捨てた。
私は苦笑して首を振り、ドアに鍵をかけて、今度こそ何も考えずにぐっすり眠った。
その夜のうちに、鈴はまたSNSを更新していた。
【今日も颯太にプロポーズされちゃった。点滴は痛いけど、心はぽかぽか】
その手首には、渡辺家に代々伝わる家宝のブレスレットが光っている。正式な嫁と認めた相手にだけ渡す品だと聞いていた。
私は自分の手首の安物に目を落とし、それを外すと、ためらいなくゴミ箱へ放り込む。
彼は、いつか功成り名を遂げたその日に、このブレスレットを皆の前で堂々と私に渡すと言っていた。
けれど結局、それが収まったのは、別の女の手首だった。
外に出る準備をしながら、私は、隊の上官と電話で予定の最終確認をしている。
「はい、問題ありません。明日には必ず着隊できます」
そこへ、珍しく颯太が家に戻ってきた。
私の手のスーツケースをひと目見るなり、彼の胸の奥に、ふと不安の予感がこみ上げた。
彼は少し不機嫌そうな声で尋ねてくる。
「出張?そんな話してなかったよな。どこ行くの?送っていこうか。明日ちょうど代休なんだし」
一瞬、頭がぼんやりした。こんなの、彼の性格じゃない。
「鈴はまだ病院なんでしょ。私のことで気を散らさなくていいから」
そう返すと、彼はどこか気まずそうに、また珍しく言い訳を口にした。
「昨日の夜は、本当に鈴の具合がひどくてさ、俺だってどうしようもなくて、ああやって機嫌をとるしかなかったんだ。
安心しろ。いざ結婚ってなったら、あのブレスレットは取り返して、お前に渡すから」
おそらく、私が鈴をブロックしたことに気づいたのだろう。
でも、ここを離れる前に揉め事は起こしたくなくて、私はただ黙ってうなずいた。
私のその反応が意外だったのか、彼は少し戸惑ったようだ。そして、いきなりギフトバッグを差し出してくる。中身は、前から私が欲しがっていたブランドのリュックだった。
「遅くなったけど、誕生日プレゼントの埋め合わせ」
付き合って五年になるけれど、誕生日プレゼントをもらえたのはの一年目だけだ。
そんな彼が今日は妙に違っていて、さすがに私も意外だった。
彼は腕時計を指先で軽く叩きながら、ためらいがちに言い続ける。
「鈴さ、休み過ぎで会社クビになったんだよ。病院で死ぬだなんだって騒いでて、さっきようやく寝かしつけてきた」
一ヶ月のうち半月も休みを取る社員を、ここまでクビにしなかった会社の方が、むしろ情け深い。
第4話
「でもさ、鈴はもともと体が弱いんだぞ?どう考えても会社が嫌がらせしてるだろ。
お前、記者なんだから、記事一本くらい書けるだろ?このブラック企業を晒してやれよ!」
彼は正義感を振りかざしている。まるで鈴が本当に被害者であるかのようだ。
私は黙って彼を見つめる。心の中は、すっかり冷え切っていた。
たった一つの誕生日プレゼントでさえ、見返り込みで扱われるようになっていた。
そして、そんなことをすれば私の一線を踏み越え、仕事人生にまで傷がつくと知っていながら、彼は何ひとつ気にしていない。
それでも彼が口にした以上、私は真面目に引き受けるふりをした。
どうせ、もう退職届は出してある。
この原稿が世に出ることも、最初からありえない。
彼の目に、一瞬ぱっと喜びの色が走った。
「本当か?マジで書いてくれるのか?ただの愚痴のつもりだったんだけどさ……」
こんなことで、私たちは過去に何度も言い合いになっていた。
颯太はよくわかっているのだ。私が私情で筆を曲げる人間じゃないってことを。
私は作り笑いを浮かべながら答えた。
「鈴はあなたの幼なじみで、家族みたいな存在でしょ。早く良くなってほしいし、私も力になりたいから」
彼は勢いよく何度もうなずき、私に向かってあからさまな感謝の色を浮かべた。
「そう考えてくれるなんて、本当によかった!
そんなに物分かりのいいお前のためにさ、来月俺が昇進した日に、正式にプロポーズしてやるよ」
来月――その頃には、私はもう携帯すら触れない生活に入っているはずだ。
私は曖昧に笑ってごまかした。すると彼は、さらに図に乗る。
「なあ、この前も言ったけどさ。鈴ってずっと記者になりたがってたろ?今ちょうど無職だし、お前のコネでお前のいる部署に入れてやれない?」
鈴は、専攻にしても性格にしても、記者には向いていない。そもそも、私にだって、そんなコネを利かせられるほどの力はない。
けれど、どうせ私はもうすぐここを離れる。今さら何を頼まれようと、全部「はいはい」で流してしまえばいい。
颯太は、ほっぺたが割れそうなほど上機嫌になり、さらに念を押してくる。
「鈴さ、ほんと打たれ弱いからね、何かあったら全部、お前がかばってやってくれ。
それと、あんまりきつい仕事はさせないで。最初は良い記事だけ書かせて、上の連中にも同僚にも気に入られるようにしてやって」
その目には、鈴の明るい未来しか映っていない。たとえ、その栄光の一本道が、私を踏み台にしてできている道だったとしても。
平然とした顔を崩さない私を見て、彼は興奮気味に身を乗り出し、私の額に軽くキスを落とした。
「亜衣、本当に助かった!マジでありがとう!明日、絶対送るからね!」
そう言い残して、彼は嬉々としてこの朗報を鈴に伝えようと部屋を出ていった。
私は、額についた彼の唾を、嫌悪感とともに拭き取る。
あれほど望んでいたはずの愛が、今はただ、吐き気を催すだけのものになっていた。
翌日、彼は位置情報アプリで私のホテルを確認し、本当に朝からロビー前で待ち構えていた。
車のドアを開けると、車内は花で埋め尽くされている。
「サプラーイズ!」
彼が声を張り上げると、通りすがりの人々の視線が一斉にこちらへ振り向く。
そのまま彼はダイヤの指輪を取り出し、その場で片膝をついた。
「やっぱりさ、出張に行く前にプロポーズしておこうって決めたんだ。
亜衣、俺と結婚して……」
その先の言葉が続く前に、電話の着信音が場の空気を切り裂いた。
彼は画面に表示された番号を一目見ただけで、迷いなく通話ボタンを押す。
鈴が、また病院で自殺騒ぎを起こしている。
「颯太、つらいよ。なんでそばにいてくれないの?やっぱり亜衣のことが好きなんだね?じゃあ私、死ぬね。もう二人のこと、邪魔しないから」
颯太は取り乱した様子で、すぐにそちらへ行くと声を荒らげた。
けれど、車に乗り込む前に、ちらりと私を見て躊躇する。
「先にこっちの段取りだけ済ませるよ。どうせ病院には医者がいるし」
私は小さく笑って、逆に背中を押す。
「人の命がかかってるんでしょ。早く行きなよ。こっちも時間ないから」
彼はほっと大きく息を吐き出す。
「お前、本当に聞き分けがよくなったよな。帰ってきたらちゃんと報いてやるからさ」
彼はアクセルを思いきり踏み込み、花だらけの車とともに走り去った。残されたのは、事情も分からずぽかんとしている野次馬たちだけ。
私は笑いながらタクシーを拾う。どうせ、こんな途中で終わるプロポーズには、とっくに慣れている。
飛行機を降りたあと、携帯をつけると、颯太からの不在着信がいくつも並んでいた。
私はそれらをすべて無視し、電源を落として、出迎えに来ていた担当者に携帯を預けた。