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春の約束は、まだ果たされず
婚約者の藤原蓮(ふじわら れん)には、18年間も大切にしている女の子・藤原光希(ふじわら みつき)がいた。 私たちの婚約を知った途端、光希...
Chương (1)
第1章
婚約者の藤原蓮(ふじわら れん)には、18年間も大切にしている女の子・藤原光希(ふじわら みつき)がいた。
私たちの婚約を知った途端、光希は私にちょっかいを出すようになった。
彼女は庭のバラを引っこ抜いて菜の花に植え替えたり、新居のオートロックの暗証番号を勝手に自分の誕生日に変えたりした。
でも、私はいつも笑って許してあげていた。
だって、蓮がいつもこう言っていたから。
「光希はまだ若い。君に俺の愛情を全部取られちゃうんじゃないかって、不安なだけなんだよ」
そして、月日は流れて、光希は大人になった。
彼女のせいで、蓮は私たちの結婚式を100回もドタキャンした。しかも、その理由はいつも信じられないようなものばかりだった。
1回目は、光希とディズニーランドの花火を見に行かなくちゃいけないって。
33回目は、光希とS国へ海を見に行く約束をしたからって。
そして99回目。バージンロードを歩き始めたまさにその時、病院から電話がかかってきた。光希が急性盲腸炎で倒れた、と。
……
ついに、100回目。光希がポップアップストアに行きたいと言い出して結婚式をすっぽかしたせいで、蓮はまたしても式を延期した。
彼は去る際に、本当に申し訳なさそうな顔でこう言った。
「次は、次は絶対に光希に時間通りに来るように言い聞かせるから。だから、怒らないでくれ」
私は静かに微笑むだけで、何も答えなかった。
もう次はない。100回目の結婚式は、これでおしまい。
蓮との関係も、もうこれ以上続ける意味なんてない。
第1話
栗原翠(くりはら みどり)が5年間待ち望んだ結婚式は、藤原蓮(ふじわら れん)の義理の妹・藤原光希(ふじわら みつき)の欠席によって、またしても延期となった。
翠はこれまでの99回と同じように、段取り通りに招待客を全員見送った。
彼女はふと、なんだかもう疲れてしまった。
蓮は申し訳なさそうに翠に言った。「翠、光希はポップアップストアに行ってるみたいなんだ。たぶん忘れてたんだろう。結婚式はまた今度にしよう」
翠は黙って頷いた。これまで99回、光希はいつも奇妙な理由で欠席してきたからだ。そして、藤原家には、結婚式には家族全員が出席しなければならないという伝統があった。
仕方なく、翠は立ち上がった。「母を見送ってくるよ」
式場の入口で、母親の栗原絵美(くりはら えみ)は目を赤くし、娘の手を何度も強く握りしめた。「翠、この結婚……」
「もう、やめる」翠は穏やかに絵美の言葉を続けた。その口元には、どこか吹っ切れたような笑みさえ浮かんでいた。「お母さん、お父さんと先に帰って。蓮との共有口座解約して、荷物をまとめたら、私もすぐに家に帰るから」
絵美はきょとんとした。まさか娘がこんなにあっさりと諦めるとは思っていなかったようだ。
母の気持ちを察して翠は絵美の手の甲を軽く叩き、静かな口調で言った。「私も、もういい加減、目が覚めたの」
絵美は何か言おうと口を開いたが、結局、深いため息を一つついて車に乗り込んだ。
翠は両親の車を見送ると、会場へと引き返した。
蓮はスマホに目を落とし、眉間にしわを寄せていた。翠が戻ってくると、彼は慌ててスマホをしまい、少しおざなりな口調で言った。「翠、光希が買い物をしすぎたみたいでね。迎えに行かないと」
翠は静かに彼を見つめ、ふと口を開いた。「蓮、100回目の結婚式がダメだったら、私たちはもう終わりにしょうって約束したよね」
彼女は少し間を置いて続けた。「その約束、守ってくれる?」
蓮は一瞬きょとんとしたが、すぐに呆れて笑った。「記憶違いだよ。100回目なんて経ってないだろ?」彼は翠の髪をくしゃっと撫で、軽い口調で言った。「次は光希にちゃんと時間通りに来るように言っておくから。安心して」
そう言うと、蓮は振り返りもせず足早に去っていった。その急ぐ後ろ姿には、その場に立ち尽くす翠を気遣う様子すらなかった。
彼女はその場に立ち尽くしたまま、ふと笑った。それはひどく切ない笑顔だった。
翠はスマホのメモ帳に記録された、結婚式の回数に目を落とした。
そうか、蓮はこれが100回目だなんて、まったく覚えていなかったんだ。
翠は何かに導かれるように、彼の後を追った。
彼女は車を走らせ、蓮の車の後ろを少し離れてついていった。彼の車は、話題のポップアップストアの前で停まった。
光希が、ふわふわの可愛らしいスカートを纏って、ぴょんぴょん跳ねながら蓮の胸に飛び込んだ。すると蓮の顔に、ぱっと笑顔が咲いた。それは翠が一度も見たことのない、心からの安らぎと愛情に満ちた表情だった。
翠は呆然とそれを見つめていた。心臓を見えない手にぎゅっと掴まれたようだった。
光希は蓮の手を引いて店に入り、ふわふわのうさ耳カチューシャを無理やりつけさせて、スマホで自撮りを始めた。
蓮は困った顔をしながらも、されるがままになっていた。そして彼女が甘えると、キラキラしたシールを自分の頬に貼らせてあげていた。
それを目にした翠は無意識のうちに、ハンドルを強く握りしめていた。
この5年間、自分が旅行先での結婚式や、シンプルなガーデンウェディングを提案するたびに、蓮は眉をひそめて断った。「藤原家の結婚式は、伝統に則って行う。それが決まりだ」と言った。
それなのに今、彼は光希に付き合って、子供っぽくてバカバカしいことばかりしているのだ。
蓮は堅物でも、頭が固いわけでもなかったのだ。ただ、自分のために特別になるのが嫌だっただけ。
翠は一日中、二人の後をつけた。
彼女は、蓮が光希と一緒に人気のドリンクを買うために列に並ぶのを見た。甘えて彼に信号を背負って渡らせるのも。蓮は光希の荷物を持ち、汗を拭き、しゃがんで靴紐まで結んであげていたのをすべて目に留めた。
そういうことを、彼は自分にしてくれたことなんて一度もなかった。
空が暗くなり始めた頃、翠はついにアクセルを踏み、車をUターンさせてその場を去った。
もう、これ以上見ていたくなかった。
心臓を無数の細い針で刺されたように、ちくちくと痛んだ。その痛みで、彼女は息もできないくらいなった。
自宅マンションの入口まで戻ってきたが、翠の車ではゲートが開かなかった。
彼女は数秒呆然として、ふと思い出した。前回、光希が家に来てかんしゃくを起こし、自分のカップを割った時のことだ。自分が思わず注意すると、光希は泣きながら飛び出していった。
その日の夜、蓮は光希をなだめるため、自分の車のナンバーをゲートのシステムから削除してしまったのだ。
「どうせ普段は俺の車に乗るだろ」彼はその時、当たり前のような口ぶりでそう言った。
そう思い返しながら翠は力が抜けたように笑い、車を路肩に停めて歩いて中に入ることにした。
夜風は冷たかった。彼女は腕を抱きしめ、歩道に足を踏み入れた途端、眩しいヘッドライトが横から突然差し込んできた。
ドンッ。
凄まじい衝突音が響き、翠の体は、まるで壊れた人形のように宙を舞った。
意識が途切れる最後の瞬間、彼女のかすむ視界に映ったのは、運転席で慌てふためく光希が蓮の胸に飛び込む姿だった。そして蓮は、心配そうな顔で光希を強く抱きしめていた。
第2話
翠が目を覚ますと、そこは真っ白な病室だった。
麻酔が切れかかり、体中が痛み始めた。とっさに身動きしようとしたが、右足にはギプスがはめられ、左腕は包帯でぐるぐる巻きにされていることに気づいた。
ドアの外から、聞き覚えのある声がした。
「お兄さん、本当にわざとじゃなかったの!」光希の泣きじゃくる声が聞こえた。「あんな急に飛び出してくるなんて、思わないじゃない」
「もう、泣くな」蓮の低く、優しい声が響く。「俺がいるから、大丈夫だ」
翠は天井を見つめたまま、ふっと口の端を引きつらせた。
ベッドの縁に手をつき、激痛をこらえながらゆっくりと体を下ろす。そして、壁づたいにドアまで歩くと、勢いよくドアを開けた。
廊下では、光希が蓮の胸に顔をうずめ、彼の服をぎゅっと掴んでいた。
そして蓮は、まるでおびえた子猫をなだめるように、優しく彼女の背中を叩いていた。
物音に気づいて、二人は同時に振り返った。
光希は涙を浮かべたままだったが、翠の姿を見ると、一瞬うんざりしたように顔をそむけた。
蓮ははっとした様子で、すぐに光希から体を離すと、翠に駆け寄り支えようとした。「翠、どうしてベッドから降りたんだ?先生が――」
「平気よ」翠は彼の手を振り払い、光希を冷たく見つめた。「それより、光希は私に怪我をさせておいて、一言も謝らないのかしら?」
蓮は眉をひそめ、光希の方を向いた。「光希、翠に謝って」
「なんでよ?!」光希は目を丸くした。「わざとじゃないって言ってるでしょ!」
彼女は地団駄を踏みながら、声を張り上げた。「お兄さん!昔はこんなふうに、私に謝れなんて言わなかったじゃない!」
「昔は昔」翠は静かに、しかしはっきりとした口調で言った。「今、私はこうして病院にいる。それなのにごめんの一言も言えないなんて、あまりにも礼儀がなってないんじゃない?」
蓮もまた顔がこわばらせて言った。「光希、謝るんだ」
光希は唇を噛みしめ、みるみるうちに目に涙を浮かべた。
彼女は翠を睨みつけると、突然スマホを掴み、床に叩きつけた。
「絶対に嫌!」
光希が走り去ろうとしたその時、翠が冷たく言った。「彼女を止めて」
すると廊下の突き当りには、いつの間にか二人のボディーガードが立っていて、光希の行く手を阻んだ。
蓮はきょとんとした。「翠、これはどういうことだ?」
「こんなに常識がないのなら」翠は、たちまち慌てふためく光希の顔を見ながら、一語一句はっきりと告げた。「お行儀が良くなるよう躾けてもらわないとね」
「お兄さん!」光希は金切り声をあげた。「行きたくないよ!お父さんとお母さんに、ずっと私の面倒を見るって約束したでしょ!」
蓮は思わず何か言いかけた。しかし、包帯だらけの翠の腕に目を落とすと、ぐっと言葉を飲み込み、ただ静かに言った。「行って。ちゃんと学んだら、戻ってくればいい」
光希は信じられないというように目を見開き、大粒の涙をこぼした。だが、今回ばかりは蓮も甘い顔をしなかった。
ボディーガードに両脇を抱えられて光希が去っていくと、廊下はようやく静けさを取り戻した。
それから数日間、蓮は片時も離れず病室で翠に付き添った。
彼が自ら水を飲ませ、顔を拭き、夜中に翠が痛みで目を覚ませば、すぐにナースコールを押して医師を呼んだ。
翠は、甲斐甲斐しく動き回る蓮の姿を静かに見つめながら、ふと五年前のある冬の夜を思い出していた。
残業で深夜まで働き、胃が痛くって冷や汗をかいていた。そのとき、蓮が大雪のなか車を飛ばし、食べ物と薬を持ってきてくれたのだ。
彼は自分の冷たい手を両手で包み込み、言った。「これからは俺がいる。もう一人で辛い思いはさせない」
この言葉があったからこそ、これまで99回も結婚式が延期されても翠は耐えてこられたのだ。
「翠?」蓮の声に、翠ははっと我に返った。「まだ痛むか?」
翠は首を横に振った。
蓮は彼女の手を握り、申し訳なさそうに言った。「君が元気になったら、今度こそ光希を無理やりにでも連れてきて結婚式を挙げる。絶対に延期させたりはしないから――」
「共有口座のことだけど」翠は突然、蓮の言葉を遮った。「名義の解除って、どのくらい時間がかかるの?」
蓮の動きが止まった。「なんだって?」
「ただ、聞いてみただけ」翠の口調は穏やかだった。
蓮は数秒間彼女を見つめ、ごくりと喉を鳴らした。「七日だ」
翠はうなずき、それ以上は何も言わなかった。
部屋は、しんと静まり返った。
しばらくして、蓮は立ち上がった。「会社で少しやることがあるからまた明日来るよ」
「うん」翠は短く返事をすると、彼がドアの方へ歩いていくのを見つめ、不意に言った。「蓮」
蓮が振り返った。
「なんでもないの」翠はそれ以上何も言わなかった。
蓮の背中が一瞬こわばったのが分かった。しかし、彼は振り返ることなく、静かにドアを閉めて出ていった。
第3話
翠が退院した日、蓮は現れなかった。
彼女はまだ治りきっていない体を引きずり、まっすぐ銀行へ向かった。
窓口の職員は翠の身分書類を受け取ると、キーボードを数回叩き、にこやかな営業スマイルを浮かべた。「栗原さん、共同名義口座の解約手続きが完了するまで一週間ほどかかります。その間は、お二人とも口座を操作できませんのでご了承ください」
「分かっています」翠は落ち着いてサインをした。「ではお願いします」
家に帰ると、翠はゆっくりとダイニングテーブルの前に座った。傷の痛みで、彼女の額にはじっとりと冷や汗がにじんでいた。
水を一杯飲もうとした、その時だった。玄関のドアが、大きな音を立てて蹴り破られたのだ。
蓮が、光希を抱きかかえて飛び込んできた。
翠は、きょとんとした顔になった。
光希は全身を震わせていた。高価なワンピースはしわくちゃで、むき出しになった腕は青黒いあざだらけだった。
彼女の視線は定まらず、口の中では何かをぶつぶつと呟いている。ひどいショックを受けた様子だった。
「満足か?」蓮は氷のように冷たい声で言うと、光希を翠の目の前に突き出した。「これが君が望んだ結果だ!」
翠は立ち上がった。「何のことだか分からないけど」
「とぼけるな!」蓮はダイニングテーブルを力任せにひっくり返した。グラスが床に叩きつけられ、破片が飛び散った。「彼女をどんな場所に送ったんだ?!電気ショック、絶食、精神的虐待――これが、君の言っていた躾をさせるってことか?」
光希は突然甲高い悲鳴をあげると、頭を抱えてしゃがみこんだ。「やめて!電気ショックしないで!言うこと聞くから!言うこと聞くから!」
翠はショックを受けて光希を見た。「私が手配したのは、都市の中心にあるちゃんとした施設よ」
翠が言い終わる前に、蓮は彼女の顎をぐっと掴んだ。「防犯カメラには、送ったその日の夜に別の場所へ移されたことが映っていた!君の差し金じゃないとでも言うつもりか?」
蓮は翠を振り払うと、ドアの外に向かって鋭く言った。「誰か来い!」
黒いスーツを着たボディーガードが二人飛び込んできて、翠の両腕を掴んだ。
「君は、こういうやり方がいい教育だと思ってるんだろう」蓮は、光希が床に落とした施設のパンフレットを拾い上げると、翠の顔に叩きつけた。「だったら、君も体験してこい」
翠は激しく抵抗したが、乱暴に車へ押し込まれた。その時、彼女は見たのだ。蓮の胸に隠れる光希が、口の端を吊り上げているのを。
暗闇。
それが、翠が「しつけ教室」に入れられて感じた、ただ一つのことだった。
翠が「処置室」へと突き飛ばされた時、すでに右足の傷口は開いてしまっていた。
どす黒い血がズボンに滲み、一歩進むごとにナイフの先を踏むような激痛が走った。
しかし、後ろにいた教官は気にも留めない。翠の歩みが遅いのを見ると、容赦なく膝の裏を蹴り上げた。
「ああッ!」
翠は勢いよく膝から崩れ落ちた。コンクリートの床に膝を打ち付け、目の前が真っ暗になるほどの痛みを感じた。
だが、息をつく間もなく、頭皮が引きちぎれるような激痛が走った。
教官が翠の髪を掴み、無理やり電気椅子まで引きずっていった。
「藤原家の嫁なんだってな?」教官は意地の悪い笑みを浮かべながら、彼女の手足を縛り上げた。「どうだい、旦那さんに直々、躾けさせるように入れられた感想は?」
冷たい電極パッドがこめかみに貼られ、翠は全身を震わせた。
「違う、私が手配したのはこんなのじゃない」彼女の声はかすれていた。「こんな場所なんて、本当に知らなかった」
「黙れ!」教官は平手打ちを食らわせた。「ここのルールは、口答えしないことだ!」
翠は殴られた衝撃で顔を背けた。口の中に、一瞬で鉄の味が広がった。
そして目の前がチカチカした。朦朧とする意識の中、教官がトランシーバーに向かって話すのが聞こえた。「藤原社長、奥さんがあまり協力的ではありません。特別なコースを追加しますか?」
トランシーバーの向こうは数秒黙り、やがて蓮の冷酷な声が聞こえてきた。「好きにしろ」
翠は、はっと目を見開いた。
電流が全身を貫き、彼女は悲鳴をあげることさえできなかった。
体中を、焼けた無数の針で突き刺されるようだ。筋肉は痙攣し、ちぎれてしまいそうだった。
翠は唇を強く噛みしめた。口の中が血まみれになるまで耐え、なんとか泣き声が漏れないようにした。
深夜、翠は独房に放り込まれた。
二畳ほどの空間には硬いベッドが一つあるだけ。便器の悪臭が部屋に充満していた。
彼女は隅で体を丸めていた。右足の傷はすでに化膿しており、少し動かすだけでも、えぐられるような痛みが走った。
翠は高熱を出した。
傷口からの感染で体は燃えるように熱い。意識が朦朧とする中、鉄のドアが蹴り開けられる音を聞いた。
「翠?翠?」
第4話
翠は蓮に抱きかかえられ、「しつけ教室」から運び出されたが、痛みですでに意識が朦朧としていた。
彼女の体は燃えるように熱く、右足の傷は黒ずんで化膿していた。医師が麻酔を打とうとすると、蓮は冷たく言い放った。「必要ありません。これで少しは懲りるでしょう」
皮膚を針と糸が貫く激痛に、翠は目の前が真っ暗になった。彼女はきつく唇を噛みしめ、やがて顎から血が滴り落ちた。
涙がとめどなく溢れ、翠は震える手で蓮の袖口を掴んだ。「どうして、こんな酷いことをするの?」
蓮は眉をひそめて手を振り払った。「誰が光希をあんな場所に送れと言った?」彼は翠の顎を掴んで屈み込んだ。「まだ藤原家の人間でもないくせに、俺の妹に手を出すとはな。これはほんのお仕置きだ」
翠は突然、涙を流しながら笑った。「分かった」
「分かればいい」蓮の声は少し和らぎ、医師に手当てを続けるよう目配せした。「愛しているが、光希は俺の最後の砦なんだ。今回は彼女の気が済むようにすれば、結婚式も滞りなく挙げられる」
「結婚式?」翠の声はかすれていた。「もう結婚式なんてすることがないから」
蓮は一瞬きょとんとした顔で何かを言いかけたが、医師がその言葉を遮った。「藤原社長、傷の感染が深刻です。今夜は高熱を出す可能性があるので、誰かがそばについている必要があります」
「俺が残ります」蓮は有無を言わせぬ口調で言うと、翠に向き直り、優しい声で言った。「眠るといい。俺がどこにも行かないから」
医師と看護師が病室から出ていくと、彼は椅子を引き寄せてベッドのそばに座り、翠の冷や汗で濡れた前髪をそっとかき分けた。
翠は一瞬戸惑った。そして、こんな状況には似つかわしくない昔の出来事を思い出した。
五年前にひどい風邪をひいた時も、蓮はこうして自分の部屋のベッドのそばに座って、不器用な手つきで暖かい飲み物を作り、スプーンで一口ずつ飲ませてくれた。
「お休み」蓮はささやき、翠の髪を指でゆっくりとすいた。「そばにいるから」
その声は低く優しく、先ほど冷酷に命令していた男とはまるで別人だった。
翠はぼんやりとした意識の中で、徹夜で自分を看病してくれた蓮の姿を思い浮かべた。自分が「胃が痛い」と一言つぶやいただけなのに、夜中の三時に都市の中を走り回って薬を買ってきてくれた、あの頃の蓮を。
初めて食中毒になった時は、病院の廊下を自分を抱きかかえて必死に走ってくれた。
徹夜で仕事をして熱を出した時は、自分の冷たい足を自分の胸に抱いて温めてくれた。
スキーで怪我をした時は、一週間も毎日、自分を背負って階段を上り下りしてくれた。
意識よりも先に体が限界を迎え、翠のまぶたはだんだんと重くなっていった。
夢うつつの中、蓮が優しく背中をたたき、かすかな子守唄を口ずさんでいるのを感じた。
いつものように、彼の気配と歌声に包まれて、翠はゆっくりと意識を手放し、暗闇に落ちていった。
真夜中、翠は激しい痛みで目を覚ました。
体はまるで焼かれているかのように熱かった。
かすむ視界の中、翠はか細い声で呼びかけた。「蓮」
がらんとした病室に、彼女の声だけが響き渡った。
ナースコールに手を伸ばそうと必死にもがいたが、どうしてもボタンを押すことができなかった。
喉はカラカラに乾ききっている。翠はなんとか起き上がろうとしたが、車椅子に触れた途端、床に崩れ落ちてしまった。
「誰かいませんか?」ドアに向かって這っていくと、廊下から若い看護師たちの話し声が聞こえてきた。
「病院中の先生たちが、みんな特別病室に呼ばれてるんだって!」
「ええ、患者さんが目を覚ましてからずっと泣き止まなくて、藤原社長が慌てて専門の先生たちをみんな集めたらしいわよ」
翠は目の前が暗くなったが、それでも壁に手をついて特別病室のエリアへと進んだ。
医師を見つけなければならない。
特別病室のドアは、少しだけ開いていた。
ドアをノックしようとしたその時、隙間から蓮がベッドの前にひざまずいているのが見えた。彼は震える手で光希の顔を包み込むと、そして……
そっと唇を重ねた。
翠は、まるで雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
そういうことだったのか。
この男が何度も光希のために特別扱いをしていたのは、兄妹の情が深いからではなかった。そうではなくて……
「誰だ?!」蓮は勢いよく振り返り、翠の姿を認めた瞬間、顔色を変えた。
彼は飛び出してきて、翠の首を強く掴んだ。「何を見た?」
翠は何も言えず、ただ涙を流すだけだった。
「いいか」蓮は彼女を病室に引きずり込み、冷たい声で言った。「もし光希の前で余計なことを言ってみろ、君を死ぬほど辛い目にあわせてやる」彼はボディーガードに振り向き、命令した。「こいつを見張れ。誰も出入りさせるな!」
絶望の中、翠は病室に閉じ込められた。体は衰弱しきっており、抵抗する力など残っていなかった。
翌日、翠は激しい痛みの中で目を覚ました。
口を開けてみたが、声は出なかった。
パニックになってナースコールを押すと、入ってきた医師は診察を終えて首を振った。「高熱で声帯が傷ついてしまったようです。もう、話すことはできないかもしれません」
部屋に入ってきた蓮は、その場で凍りついた。
第5話
「どうして先生を呼ばなかった!」蓮はそばにいたボディーガードの襟首を掴み上げた。
ボディーガードは震えながら言った。「先生は全員、光希さんのところへ行かせております。社長ご自身の命令じゃないですか」
蓮の手が止まった。彼はベッドに横たわる翠に視線を移した。
翠は静かに枕に体を預けていた。その目は虚ろで、窓の外をぼんやりと見つめている。蓮の怒りなど、まるで気にも留めていないようだった。
「翠」蓮はベッドのそばに腰掛け、彼女の手に触れようとした。「君のことは、必ず治してやる」
翠はゆっくりと手を引っ込めた。彼の方を見ようともしなかった。
「昨日のことは……」蓮は声を潜めた。「忘れろ。そうすれば、また前みたいに戻れる」
その時、突然病室のドアが開けられた。
光希が駆け込んできた。「お兄さん!先生がね、もうすっかり良くなったって!」
蓮は元気いっぱいの妹と、虫の息の翠を見比べた。そして眉をひそめて言う。「本当か?じゃあ、なんで翠はあんなにひどい怪我を負ったんだ?」
光希は一瞬、目を泳がせた。そして、急に泣き出した。「お兄さんは、私が元気になったら嫌なの?」
「そんなことはない」蓮は眉間を揉んだ。「今夜はパーティーがあるんだろう?先に戻って準備して」
光希は涙を拭いながら、笑顔を見せた。そして、ちらりと翠に目をやる。「翠さんも、もちろん来るわよね」
翠は激しく首を横に振った。しかし蓮は頷いて答える。「当たり前だ。もちろん行くさ」
光希が部屋を出ていくと、蓮は翠の布団を直そうと身をかがめた。「光希のご機嫌をとっておけ。俺たちの結婚式を、無事に挙げるためだ」
彼は少し間を置いて続けた。「もう俺と結婚したくないのか?」
翠は目を閉じた。蒼白な顔に、長いまつ毛が影を落としていた。
「光希への想いは……」蓮が、不意に低い声で囁いた。「この先もずっと、心の中にしまっておく」
それを聞いて翠の口元が、皮肉っぽく引きつらせた。
パーティー会場は、大勢の招待客で賑わっていた。
翠は黙って隅の席に座り、周りのひそひそ話に耳を傾けていた。
「彼女は藤原家に嫁ぎたくて、藤原家のお嬢様をひどい目に遭わせたらしいわよ」
「厚かましいのね。結婚式だって、もう何回延期されたことか」
翠はドレスの裾を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込むほどに。
みんなの目には、自分こそが悪者のように映っているのだ。
その時、視界の隅に、ある光景が映った。光希が、こそこそと蓮のグラスに何かを注いでいる。そして、そのグラスを彼に手渡したのだ。
まもなく、蓮が千鳥足で階段を上がっていった。その後を、光希がこっそりと追いかけていった。
翠は目をそらし、席を立ってトイレへと向かった。
彼女がトイレのドアを開けた途端、強い力で隣の部屋に引きずり込まれた。
「きゃっ!」
よろめきながらもなんとか体勢を立て直す。しかし、目の前の光景に翠は凍りついた。
大きなベッドの上で、光希が裸で縮こまり、涙を流していた。隣にいる蓮の顔は、異常なほど赤く火照っている。
「翠さん、どうして私をここに呼んだの?もう、死んでしまいたい」
蓮が勢いよく体を起こした。そして、ベッドサイドのグラスを掴むと、力いっぱい翠に投げつけた。
パリン。
生々しい血が、翠の顔を伝って流れ落ちた。
「俺に薬を盛ったのか?」蓮の目は、真っ赤に充血していた。「その上、光希まで呼び出すとは、彼女の人生をめちゃくちゃにする気か!」
翠は必死に首を横に振った。だが、声が出せない彼女の態度は、何より雄弁な「罪の告白」に見えた。
蓮は優しく光希に上着をかけてやった。「先に出て行ってくれ。あとは俺が何とかする。安心しろ、誰にも知られないようにするから」
部屋に二人きりになると、蓮は翠の顎を掴んだ。「お前のことを見損なったぞ」
彼はドアの外に向かって、冷たく言い放った。「残りの薬を持ってこい」
ボディーガードが翠の口をこじ開け、薬を流し込む。彼女は必死にもがいたが、無駄だった。
「そんなに媚薬が好きなら……」蓮は翠の腕を掴んで、外へ引きずり出した。「冷凍庫で思う存分、楽しんでくればいい」
マイナス二十度の冷凍庫で、翠は隅にうずくまっていた。
体の中で薬が効き始めた。まるで無数の蟻が血管を這い回るようだ。
涼を求めて襟元をかきむしる。しかし、剥き出しになった肌は、冷たい空気ですぐに霜が降りてしまう。
「はぁ……はぁ……」
口を開けて喘ぐと、白い息がすぐに凍りついていった。
熱さと寒さという二重の苦しみの中、翠は朦朧とする意識で、初めて蓮に会った時のことを思い出していた。
その日はよく晴れていた。桜の木の下に立つ蓮が、自分に言ったのだ。「翠、君を世界で一番幸せな人間にしてみせる」と。
なのに今、自分は死のうとしている。全部、彼のせいだ。
第6話
冷凍庫のドアが乱暴に蹴破られると、中では翠が凍えて意識を失っていた。
眩しい光の中に、蓮の大きな影が立ちはだかる。彼は革靴のつま先で丸まる翠の体を軽く突き、「自分が何をしたか、分かったか?」と冷たく言った。
翠のまつ毛についた氷の粒が、パラパラと落ちた。彼女はゆっくりと、やっとのことで頷いた。
蓮は満足そうに屈むと、翠を抱き上げた。しかし、手のひらに伝わる肌の熱さに、一瞬動きを止め、「君はまだ薬が効いているのか?」と訊ねた。
後ろについてきていた医師が、おそるおそる口を開いた。「飲まされた薬と低体温症が重なって……体が温まると、血の巡りがよくなり、薬の効果がさらに強まってしまいます」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、翠は寝室の大きなベッドに投げ込まれた。
蓮はネクタイを緩めながら彼女に覆いかぶさる。そして熱い息を耳元に吹きかけながら、「俺が楽にしてやる」と囁いた。
翠はありったけの力で彼を突き放した。
「嫌だと?」突き飛ばされてよろめいた蓮は、途端に鋭い目つきになる。「いいだろう」彼はドアを乱暴に閉めて出ていく前に、医師に向かって冷たく言った。「鎮静剤を打って、ここで死ななければそれでいい」
夜、翠は廊下の物陰に立っていた。
寝室のドアの隙間から漏れる暖かい光。その中で、蓮はベッドの上で膝をつき、光希の写真を握りしめながら、苦しそうに喘いでいた。
「光希、光希」
彼の手の動きは、喘ぎ声とともにどんどん速くなっていく。
翠は静かにその様子を見ていた。心が痛すぎて限界を超えると、人は本当に何も感じなくなるのだと、彼女はその時初めて知った。
「お兄さん」
突然、肌が透けるようなネグリジェを着た光希が部屋に飛び込んできた。
翠はとっさに角を曲がって身を隠す。中からは、衣擦れの音が聞こえてきた。
「私はいいの」光希は泣きじゃくりながら言った。「お兄さんが私のことを好きなのは知ってる。結婚式に私が出なかったのは、他の人のものになるあなたを見たくなかったからよ」
「黙れ!」蓮はしゃがれた声で彼女を突き放した。「俺たちは兄妹だ」
「血は繋がってないじゃない!」
何かがベッドに倒れ込む鈍い音がして、蓮の抑えのきかない低い声が聞こえた。「今回だけだ。次、俺と翠の結婚式には必ず出てくれ。もう彼女を裏切れない」
ベッドが壁に激しく打ち付けられる音が響く中、翠はスマホを構えた。
高画質のカメラが、絡み合う二人の体を正確に捉えた。光希の紅潮した顔が、まっすぐこちらを向いていた。そして、情欲に歪む蓮の表情もはっきりと見えた。
そして翠は、連絡先リストの一番下にあった番号を選んだ。
【西村社長、少し興味深いお取引ありますがいかがですか?】
【蓮を社会的に抹殺するチャンスを、提供させてもらいます】
【条件は、腕のいい喉の専門先生を見つけてくださることです】
すると、相手からはすぐに返信があった。【明日の午前10時、華央病院で会いましょう】
翠はスマホの画面を消すと、部屋のドアを最後にもう一度だけ見た。
翌日、翠は診察室に座っていた。そして西村樹(にしむら いつき)が連れてきたベテラン医師が、ちょうど彼女の口から器具を抜き取るところだった。
医師は眉をひそめて首を横に振りながら言った。「声帯の神経がかなり傷ついていますが、まだ助かる見込みはあります」
窓際に寄りかかっていた樹が、ニヤリと笑った。「さあ、次は君が約束を果たす番ですね」
翠はうつむいてスマホに文字を打ち込むと、その画面を彼に向けた。
そこには、ベッドで絡み合う蓮と光希の姿が、はっきりと写っていた。
樹は眉を上げた。「みんな君が一途だと言ってたが、本当ですね。ここまで我慢して、最後の最後で切り札を繰り出すなんて」
翠は黙ってうつむいた。自分が馬鹿だったのだ。もっと早く気づいていれば、こんなことにはならなかったのに。
突然、診察室のドアが開けられた。
凍てつくようなオーラを放ちながら、蓮が部屋に飛び込んできた。彼は樹の姿を見ると、その視線を急に冷たくして言った。「なぜあなたがここに……」
翠はとっさにスマホをロックし、顔を上げて蓮を見た。
彼の表情には見慣れた心配の色が浮かんでいた。だが今の翠の目には、それが皮肉にしか映らなかった。
「帰るぞ」蓮が彼女の腕を掴もうと手を伸ばす。しかし、手首の包帯に触れたところで一瞬ためらい、少し声を和らげた。「俺がやりすぎたのは分かってる。だが、光希は俺の妹だ。あの子を巻き込むようなことはするな」
翠は勢いよくその手を振り払うと、嘲るように口の端を上げた。
帰りの車の中、蓮はハンドルを強く握りしめた。「今夜のオークションに、伝説の薬草が出るらしい。声が出なくなる症状に効くそうだ」
彼は横目で翠を見ながら、「必ず君のために競り落とす」と言った。
翠は窓の外を見つめたまま、静かに頷いた。
しかし夜になり、オークション会場の隅に立っていた翠は、蓮が光希の腕を組んで入場してくるのを見て、やはり胸がずきりと痛んだ。
「お兄さん、あのブルーダイヤモンドのネックレス、すっごくきれい!」光希が蓮の袖を引いておねだりした。
蓮はためらうことなく札を上げた。「6000万円」
「あの真珠のイヤリングも素敵!」
「1億円」
蓮が光希のために次々と大金を投じるのを見て、翠はなんだか可笑しくなってきた。
なぜ自分は、今頃になってようやく目が覚めたんだろう。本当に馬鹿みたいだ。
第7話
「続きまして、今夜の目玉商品でございます」オークショニアは小槌を鳴らし、スタッフに精巧な木箱を運ぶよう合図した。
「百年生の薬草です。声帯の損傷に、特別な効果があるとされています。スタート価格は1億6000万円です」
蓮が札を上げようとした時、光希が突然その手を押さえた。「お兄さん、今夜はもう予算オーバーよ。私のネックレスにブレスレット、それにあのイヤリング。全部合わせたらもう4億円近くになるじゃない」
蓮は眉をひそめた。「これは絶対に落札する。翠の喉にはこれが必要なんだ」
「彼女の喉なんて、一日や二日で治るものじゃないでしょ」光希は唇を尖らせ、彼の腕を揺すった。「また今度?来月にはもっと良いのが出品されるって聞いたよ」
蓮は一瞬ためらったが、きっぱりと手を振り払った。「いや、今日じゃないとダメだ」彼は番号札を掲げた。「2億円」
会場では何人かが競り合ったため、価格はあっという間に2億4000万円まで跳ね上がった。
「3億円」蓮は顔色一つ変えずに値を吊り上げた。
オークショニアが小槌を振り下ろした。「落札!」
それを目の当たりにした、光希の顔はみるみるうちにこわばり、翠をきつく睨みつけた。
「光希、受け取ってきてくれ」蓮は落札者カードを差し出した。
光希はしぶしぶそのプレートを受け取ると、ハイヒールを鳴らして壇上へと向かった。
翠のそばを通り過ぎて戻ってくる時、光希は突然「きゃっ」と声をあげ、前のめりに倒れ込んだ。手にした木箱は音を立てて床に落ちた。
精巧な箱は壊れて開き、中の薬草はあたりに散らばって、たちまち輝きを失ってしまった。
「ごめん、お兄さん!」光希は慌てふためいてしゃがみ込み、砕けた破片を拾おうと手をばたつかせた。「床が滑りやすくて……わざとじゃないの」
蓮は早足で駆け寄り、散乱した惨状を見て顔をしかめた。「どうしてそんなに不注意なんだ?」
「本当にわざとじゃないの」光希はたちまち目を潤ませ、涙声で言った。「なんなら、私が彼女に弁償すればいいんでしょ」
蓮はため息をつき、翠に向き直った。「翠、次はもっと良いものを探してやるから」
翠はただ静かにその光景を眺めていた。その口元には、かすかな嘲笑が浮かんでいた。
こうなることは、とっくに分かっていた。
光希がさらに何か言おうとしたその時、突然、会場中から息を呑む音が響き渡った。全員の視線が、巨大スクリーンに釘付けになった。
スクリーンに映し出されていたのは、なんと蓮と光希がベッドで密着している写真だった。それは、光希の肩にあるホクロまではっきりと見えるほど鮮明なものだった。
「いやあああ――」光希は甲高い悲鳴をあげた。「消して!早く消して!」
蓮の表情が激変した。彼は厳しい声で叫んだ。「すぐにスクリーンを消せ!」
しかしスタッフが慌てて機材を操作するものの、写真は消えるどころか、さらに過激な次の写真に切り替わってしまった。
会場はたちまち騒然となり、あちこちでひそひそ話が始まった。
「あれって、藤原社長と、彼の妹じゃないか?」
「うわ、最悪」
「だからずっと結婚しなかったのか」
光希は顔を覆い、震える声で言った。「もう生きていけない!死んでやる!」彼女はそう言うと、ドアに向かって駆け出した。
蓮は慌てて追いかけようとしたが、ぴたりと足を止め、翠を睨みつけた。その目は、狂暴な光を宿していた。「君の仕業か?たかが薬草一つのために?どうしても彼女を破滅させたいのか?」
蓮はネクタイを乱暴に引きちぎり、失望に満ちた声で言った。「これでもう結婚する必要はないな!」
言い終わると、彼は振り返りもせずに光希を追って走り去った。
翠はその場に立ち尽くし、ドアの向こうに消えていく男の背中を見ながら、力が抜けたように笑った。
そうね。確かにもう結婚する必要はないよね。
その時、スマホが一度震えた。
取り出して見ると、銀行からのメッセージだった。【お客様の共同名義口座は、解約手続きが完了いたしました】
翠が顔を上げると、二階の貴賓席が見えた。樹がガラス張りの壁の向こうに立ち、彼女に向かってワイングラスを掲げていた。
翠は迷わず踵を返し、通用口からオークションホールを後にした。
ほどなくして、車は静かに病院へと向かっていた。車内はしんとしていた。
そして、手術は無事に終わった。
麻酔が切れると、喉が焼けるように乾いて痛んだ。
スマホを返してもらったが、蓮からのメッセージは一件もなかった。
ニュース速報の通知がポップアップした。
藤原グループの社長・蓮とその義理の妹・光希が、オークション会場で感動的なドラマを演じた。
報道によれば、光希はプライベート写真の流出というアクシデントで精神的に追い詰められ、飛び降り自殺を図ったが、駆けつけた蓮に救助されたという。
翠は空っぽのトーク画面とニュースの写真を見比べ、言いようのない皮肉を感じた。
だが未練を感じることもまったくなかった。彼女は簡単な荷物を手にすると、病院を出た。
朝の光は眩しかったが、翠は初めて、呼吸が楽になったように感じた。
停まったタクシーに、彼女はドアを開けて乗り込んだ。
「空港までお願いします」
車はメイン道路にでると、翠は蓮のいない、全く違う未来へと走り出した。