月の下で、すれ違うふたり

Đang tải thông tin quảng bá...

月の下で、すれ違うふたり

GoodNovel Hoàn thành

「一回百万円。俺が飽きたら出ていけ」 神谷蓮(かみや れん)は厚い札束を神谷美咲(かみや みさき)(旧姓:藤谷)の顔に叩きつけた。 美咲...

Chương (1)

第1章

「一回百万円。俺が飽きたら出ていけ」 神谷蓮(かみや れん)は厚い札束を神谷美咲(かみや みさき)(旧姓:藤谷)の顔に叩きつけた。 美咲は黙ってかがみ、床に散らばった札を一枚ずつ拾った。 蓮は突然、狼のような勢いで飛びかかり、彼女の喉をつかんだ。 「美咲、お前はどこまで堕ちれば気が済む。金のためなら何だってやるんだな。 そんな見栄と金に取りつかれた女は、十八の頃に消えてればよかった」 蓮にとって、美咲はこの世でいちばん卑しい女だった。 金のために彼を捨て、金のために戻ってきた女。 蓮は知らない。七年前、美咲が自分の命を代わりに差し出したことを。 そのとき負った傷は深く、ずっと死と隣り合わせだった。 蓮が冷酷に踏みにじる日々の中で、美咲は静かに、自分の残された日数を数えていた。 第1話 「一回百万円。俺が飽きたら出ていけ」 神谷蓮(かみや れん)は厚い札束を神谷美咲(かみや みさき)(旧姓:藤谷)の顔に叩きつけた。 美咲は黙ってかがみ、床に散らばった札を一枚ずつ拾った。 蓮は突然、狼のような勢いで飛びかかり、彼女の喉をつかんだ。 「美咲、お前はどこまで堕ちれば気が済む。金のためなら何だってやるんだな。 そんな見栄と金に取りつかれた女は、十八の頃に消えてればよかった」 蓮にとって、美咲はこの世でいちばん卑しい女だった。 金のために彼を捨て、金のために戻ってきた女。 蓮は知らない。七年前、美咲が自分の命を代わりに差し出したことを。 そのとき負った傷は深く、ずっと死と隣り合わせだった。 蓮が冷酷に踏みにじる日々の中で、美咲は静かに、自分の残された日数を数えていた。 …… 「藤谷さん、本当に死後の臓器提供にサインしますか?」 診断書を握る美咲は、決意したようにうなずいた。 「お願いします」 診断書にははっきりと記されていた。脳内の血腫が視神経を圧迫しており、まもなく脳幹まで及べば助からない―― 余命は一か月。 病院を出た瞬間、美咲のスマホが震えた。 藤谷澪(ふじたに みお)からだった。 【お姉ちゃん、蓮さんのスラックス汚しちゃって。予備をオフィスに届けて〜】 語尾には、わざとらしく照れた顔文字が添えられていた。 こんなメッセージは何度も受け取っている。 美咲は無表情のままスマホをしまった。 二歩ほど進んだところで、今度は蓮から電話が来た。 「何してる。澪からのメッセージ見ただろ」 「見たわ」 「家からスラックスを持ってきて。すぐに」 蓮は一方的にそう言い、冷たく電話を切った。 半時間後、美咲は神谷グループ本社に着いた。 社長室には蓮の姿はなく、ソファには脱ぎ捨てられた灰色のスラックス。 白い跡が斑点のように浮き、部屋には淫らな匂いがこもっている。 美咲の胸は強く殴られたように痛む。身体をこわばらせたまま、汚れたスラックスをつかんで袋に入れた。 そのとき扉が開き、澪がゆったりと入ってきた。唇には自信たっぷりの笑みが浮かんでいる。 「お姉ちゃん、遅すぎ。蓮さんの会議、潰れるとこだったんだから。 でも、幸いにも蓮さんの予備のスラックスがあった……お姉ちゃん、その予備のスラックスがどこから来たか知ってる?」 澪は美咲の耳元に近づき、甘く囁いた。 「数日前、お姉ちゃんの誕生日の夜に、蓮さんがうちに泊まったときのもの」 美咲の顔色が瞬時に青ざめる。 澪はさらに嬉しそうに続けた。 「ちゃんとクリーニング出したのにね、さっき蓮さんが言ってたの。チャックに、あの夜の私の口紅が少し残ってたって…… クリーニング屋が雑だって怒ってたよ。どう思う?お姉ちゃん」 美咲の胸がきゅっと締め付けられた。 「……もういいでしょ。終わったなら帰るわ」 彼女が歩き始めた瞬間、澪は入口の方をちらりと見た。 そこには蓮が立っていた。会議を終えて戻ってきたのだ。 澪は焦って追いすがり、大げさに叫んだ。 「お姉ちゃん、ごめんなさい!怒ってもいいけど、蓮さんを責めないで…… きゃあっ!」 悲鳴が響いたその瞬間、美咲は何が起きたのか理解できなかった。気づけば、澪の身体が壁に叩きつけられていた。 ちょうどその場面を目にした蓮が、怒りに我を失って飛び込んできた。そして澪を勢いよく抱き寄せた。 「美咲、また何をした!」 第2話 美咲は、蓮の焦りと気遣いをちゃんと見ている。喉まで出かかった言い訳は、もう口にする意味をなくしていた。 彼女は何も言わず背を向けた。そのまま出ていこうとしたとき、蓮の前を通り過ぎざまに、手首をつかまれた。 「謝れ、美咲。澪に謝れ」 「嫌よ。あれをやったのは私じゃない……」 言い終える前に、頬に焼けつくような平手打ちが飛び、美咲は信じられない思いで頬を押さえた。 「蓮、なんで叩くの」 「俺はお前の夫だ、美咲。夫として命令してる。今すぐ澪に謝れ」 美咲は目の前の男を見つめた。心はもう痛みを通り越して、何も感じない。ただ、ふっと笑った。 「わかった。謝るよ。悪いのは私。澪にひどいことをしたのは、私でいい」 蓮を見上げる声は、どこまでも空っぽだった。 蓮はなぜか、心臓をぎゅっとつかまれたように息が止まった。 「蓮、これで満足?……もう、行っていい?」 美咲は彼の脇をすり抜け、ドアノブに手をかけた。 その背中が扉の向こうに消えかけたとき、蓮は腕の中の澪をぱっと放し、美咲を追った。 「蓮さん、どこ行くの!?」 澪は焦ってその場で叫んだが、誰も答えない。ドアがバタンと閉まり、澪は悔しそうに足を踏み鳴らした。 廊下に出た途端、美咲は後ろから腕を引かれ、よろめいて蓮の胸に倒れ込みそうになる。 「離して」 美咲は彼を突き放した。 蓮はその拒絶を見て、目の色をさらに冷たくした。 「美咲、いい加減にしろ」 「蓮、もう私を放して。あなたと澪の邪魔はしないから」 その一言に、蓮の表情がすっと陰る。目の奥に、誰にも読めない色がよぎった。 「美咲、それが……お前の言いたいことか?」 「そうよ」 美咲は爪が食い込むほど掌を握りしめながら、無理やり声を落ち着かせた。 「蓮、お願い……もうお互い傷つけ合うのはやめよう。一か月でいいから、私に一か月だけ……」 「美咲、お前にそんなことを言う資格があるのか」 蓮は奥歯が砕けそうなほど噛みしめ、目の奥にひび割れたような激情がにじんだ。 「七年前、俺がお前に一か月だけ待ってくれと泣きついたとき、お前は、待ってくれたか?」 美咲は言葉を失い、蓮の声とともに、意識が一気に七年前へ引き戻される。 あの頃、彼と美咲は誰もがうらやむ恋人同士だった。蓮は貧しくても、美咲を宝物のように大事にした。自分がどれだけ苦労しても、彼女には一つの辛い思いもさせまいとしていた。 なのに、彼がいちばん何も持っていなかった年、美咲は彼を捨て、宿敵の男の車に乗り込んだ。 別れの日は土砂降りだった。蓮はずぶ濡れのまま、その車をどこまでも追いかけた。雨の中で声が枯れるまで叫んだ。もう少しで成功する、だからあと一か月だけ待ってくれ、一か月後にはお前の欲しいものを全部やる、と。 それでも、美咲は一度も振り返らなかった。 その後、蓮はついに成功の頂点へと駆け上がり、名声と欲望が渦巻く世界のど真ん中に立つ男になった。そして、彼が真っ先にしたのは、宿敵を刑務所に叩き込み、美咲を力ずくで自分の妻にすることだった。 周囲はこう噂した。蓮は美咲を狂おしいほど愛しているから、手段を選ばないのだと。 だが、それがどんな愛かを知っているのは、美咲だけ。結婚したその日から、蓮は毎晩のように別の女を家に連れ込み、美咲の目の前で抱き合い、考えつく限りのやり方で彼女を辱め続けた。 閉じ込め、痛めつけ、壊そうとしたのは、あのときの裏切りへの復讐でしかなかった。 けれど蓮は知らない。あの日、美咲が彼を捨てたのには、どうしても言えない事情があったことを。 拉致事件のとき、彼を救ったのは美咲だった。そして美咲は、その報復として、ビルの屋上から突き落とされた。一命は取り留めたものの、治らない病を抱えた。もう長くは生きられない。その現実から、彼を巻き込みたくなかっただけなのだ。 第3話 激しい痛みが身体を襲い、美咲は意識を現在に引き戻した。彼を押しのけて立ち上がり、その場を出ようとする。 「もう帰る」 蓮はその冷たい反応を見て、顔をさらに暗くした。 「美咲、そんなに俺の顔を見るのが嫌か。帰りたいなら帰ればいい。ただし、その前に一つやってもらうことがある」 「何」 美咲の額には大粒の汗がにじむ。痛みのせいで声まで震える。 だが怒りに燃える男は、それにまったく気づかない。冷たく口の端を吊り上げて言った。 「澪がな、俺への記念日のプレゼントにランジェリーを買いたいって言ってる。さっきまで俺に付き合って疲れてるから、休ませてやりたい。だから、お前が買ってこい。 よく覚えておけ。澪が気に入るまで何度でもだ。気に入るまで延々と買ってこい」 美咲は全身に走る激しい痛みに耐えながら、唇を噛みしめ、血がにじみそうになる。 「もし、行かなかったら?」 「お前は行く」 蓮は美咲に目もくれず、カードを一枚取り出して、そのまま彼女の顔に投げつける。 「一回で200万円、二回で400万円。美咲、お前は金が大好きだろ。金のためなら体だって平気で売る女だ。 よく考えろ。身体売って稼ぐより、ずっと楽だろ」 蓮の言うとおりだった。結婚してからの三年間、彼が彼女に触れるたび、事が終わるといつも百万円が投げつけられた。 それは、美咲を抱くための「代金」だと蓮は言った。夫婦であるはずなのに、彼は彼女に値段をつけていた。 そして今まではいつも、美咲は蓮の目の前でかがみ、床に散らばった札を一枚ずつ拾ってきた。 高額な輸入薬が必要だから。美咲は、生きたかった。 いつか医学の奇跡が起きて、医者が「すっかり治りましたよ」と告げてくれる日を、ずっと夢見ていた。 そのときこそ、あの誤解を全部、自分の言葉で説明できると思っていた。 けれど診断書は、すでに彼女に死刑を言い渡していた。美咲に残された時間は、一か月だけ。 今回は、今までとは違った。美咲はゆっくり首を振った。 「もうお金はいらない」 蓮は訝しげな視線で美咲を見つめ、それからふいに目を細めて笑った。 「どうした。やっと金より大事なものができたか?そんなに澪が憎いのか? まあ、実の妹だもんな」 おかしな話だった。結婚して三年、美咲が彼に逆らったのは初めてなのに、蓮は不思議と腹が立たなかった。 むしろ少しだけ満たされた。美咲が澪を憎んでいるというなら、それはまだ自分のことを気にしている証だ。 だが次の瞬間、美咲の一言が、その笑みを凍りつかせた。 「蓮、一回400万円。払うなら、行ってくる」 血の気のない唇がかすかに震えている。けれど、その瞳には揺るぎない決意が宿っていた。 彼女は蓮に、ずっと自分を憎んでいてほしかった。そのほうが、自分が死ぬときに蓮が痛まなくて済む。どうせこの数年、彼は美咲を憎み続けることに慣れてしまっているのだから。 蓮は一気に感情の制御を失った。 「出ていけ!今すぐ買ってこい!澪が満足するまで、今日は帰ってくるな!」 美咲は床に落ちたカードを拾い、そのまま背を向けた。 いつの間にか、外は雨になっていた。 美咲は十数回も店を往復し、最後には髪の一本一本から水が滴り落ちるほどになった。澪が試着に飽きて疲れ、満足するまで解放されなかった。 家に戻るなり、美咲は熱を出した。体温は四十度にまで上がり、意識も朦朧としていく。 その朦朧とした意識の中で、美咲は十八歳の冬に戻っていた。 あの頃、彼女も蓮も貧しい学生だった。生活は苦しいが、蓮は心から彼女を愛していた。 真冬には、一度に五つもバイトを掛け持ちし、手にはひび割れができても自分の手袋は買わず、そのお金でブランド物のマフラーを美咲に買ってやった。 ふわふわと温かいウールのマフラーを首に巻いた瞬間、美咲はわっと泣き出した。自分なんか、こんな高いものに似合わないと言い、蓮を本当にバカだと責めた。どうして節約して、自分の手袋を買わないのかと。 蓮の手にはひどいあかぎれがあった。それを見るたび、胸が締めつけられた。 けれど蓮は、美咲の目をまっすぐ見て言った。 「美咲は世界で一番いい子だ。美咲には、一番いいものが似合う。俺はこれからも頑張って稼ぐ。稼いだ金は全部、お前に使わせる」 そして蓮は、本当にそのとおりにした。大金を稼ぎ、もう一度美咲を手に入れた。 だが――その金は、美咲に一番いいものを買うためではなく、札束のまま顔に叩きつけ、彼女を辱めるために使われた。 第4話 「……痛い」 美咲は布団の中で身体を丸くしていた。じっとり汗が浮かび、胸の奥で熱が渦を巻く。現実と夢が混じり合い、どちらにも引き裂かれているような感覚。 ――七年前の「あの日」がまた始まる。 廃工場で、蓮は縄で縛られていた。目隠しをされ、屋上へ引きずられる。ビルの端で、誰かに突き落とされそうになっている。 美咲は、咄嗟に大きな音を立てた。犯人の気を、自分へ引き寄せるためだった。 ――次に覚えているのは、蓮が警察に救い出されていた場面。自分が呼んだ警察だった。 その報いが美咲に降りかかる。彼女だけが、屋上から突き落とされた。 命はなんとか助かった。でも、もう元の身体には戻れなかった。脳に残った血腫は消えず、この数年は薬に頼りながら、なんとか生きてきた。 耳元で、冷たい声が落ちる。 「美咲、今度はどんな芝居だ?」 ゆっくりと目を開ける。ぼんやり霞む視界の先で、蓮がこちらを見ていた。その顔を見ただけで、なぜか安堵してしまった。思わず、微笑みがこぼれる。 「蓮……よかった……生きてて……」 蓮の表情が、一瞬だけ止まった。 美咲がこの人の前で素直に笑ったのは、いったいいつぶりだったか。胸の奥が、熱いものでぎゅっと掴まれる。 気づけば、蓮が身をかがめて口づけてきた。 本当はただ触れるだけのつもりだった。でも、美咲が拒まなかったから、堪えていた理性があっけなく消えた。気づいたときには、手が服のすそへと滑り込んでいる。 その瞬間、美咲は現実へ一気に引き戻された。 「やめて……」 力いっぱい、蓮を突き飛ばす。 蓮はバランスを崩し、ベッドの端に座り込む。その顔に、陰が落ちる。 「美咲……」 ちょうどそのとき、蓮のスマホが鳴る。ディスプレイに、澪の名前。 電話越しから、泣きじゃくる声が響いてくる。 「蓮さん……今日、来てくれないの……?外、雷が鳴ってて……怖い……」 窓の外で稲妻が走った。そのすぐあと、雷の音が部屋を揺らす。 美咲は小さく震え、耳をふさいで布団にもぐり込む。 ――雷が怖い。 幼い頃、雷の鳴るなか家へ帰ると、両親は中毒で息絶えていた。あの日から、姉妹は児童福祉施設に送られることになった。 雷の音がするたび、必ずあの記憶が蘇る。 蓮は、そのことを知っているはずだった。 ふたりがまだ恋人だった頃。雷が鳴る夜は、蓮がどこにいても駆けつけてくれた。ぎゅっと抱きしめて、「大丈夫だ、一生守る」と耳元でささやいてくれた。 ――でも、今はもう違う。蓮は、布団の中で怯える美咲をただ見下ろしているだけ。 電話の向こうで澪のすすり泣きが続く。 「蓮さん……聞こえてる?本当に怖いの……家で待ってるから……早く来て……」 蓮は美咲を見下ろし、口元に冷たい笑みを浮かべる。 「怖いのか?美咲。……だったら言えよ。『残って』って。今夜、お前がそう言うなら、行かない」 美咲は首を振った。 さっき澪が言った、「家で待ってる」という言葉が胸に刺さる。 蓮は澪に大きな家を買い与えた。そこで一緒にご飯を食べ、映画を観て、眠って――雷の夜にはそばにいてやる。昔、美咲にしてくれたように。 視界が滲む。 「……もう、いい。行ってあげて」 蓮の顔に、読めない影がさす。しばらく黙ったあと、かすかに笑った。自嘲めいた笑みだった。 蓮は電話に向き直る。「大丈夫だ、泣くな。すぐ行く」 そう言って、美咲の方を一度も見ずに部屋を出ていった。 閉まったドアを見つめながら、美咲はそっと布団に顔を埋める。泣いているのか、自分でも分からないほど静かに、涙がじんわりと溢れた。 第5話 数日後の夜空に花火が上がる。まるで、誰かの幸せを祝福しているみたいだった。 神谷グループのビルには、巨大なLEDスクリーンで【R&M、一生を共に】の文字が輝いている。 このビルは、街でいちばん目立つランドマークだ。あの言葉は、誰の目にも入る。 美咲のもとに、大学時代の友人からメッセージが届いた。 【美咲、神谷さんの公開プロポーズ見たよ!話題になってるよ。あんなに大勢の前で「一生を共に」なんて……本当に愛されてるんだね】 【美咲がうらやましいな。あんなイケメンでお金持ちの旦那さん、最高のサプライズじゃん】 美咲は、うまく笑えなかった。スクリーンの「M」が自分じゃないことを知っているから。 今日は蓮と澪の記念日。蓮は堂々と澪へ愛を示し、彼女のご機嫌をとっている。 スマホを置こうとしたそのとき、新しいメッセージが届く。 送り主は蓮。 【この住所に来て。あの赤いドレスを着てきて】 蓮はよく美咲を社交の場に同伴させて、「理想の夫」を演じていた。だから、こうして誘いが来ても、美咲はもう驚かなかった。 ただ、今日が蓮と澪の記念日なのに、なぜ澪のそばにいないのかだけが引っかかった。 疑問を抱えながらも、指示通りに赤いドレスを身にまとい、指定された会場へ向かう。 到着してすぐ、胸の奥がざわついた。 今夜の会場には、見覚えのある顔がいくつもあった。さっき美咲にお祝いのメッセージを送ってきた大学時代の友人まで、そこにいた。 「見て、主役が来たよ!」 誰かが声をあげ、一斉に視線が美咲に集まる。 美咲は戸惑い、立ち尽くす。 「蓮は?一緒じゃないの?」 「今日は一緒じゃないの?さっき、スクリーンで愛の告白してたのに……」 そのとき、会場の入口がざわついた。 美咲もみんなの視線を追って振り返る。入ってきたのは、蓮と澪だった。 二人は親しげに腕を組み、まるで本当の夫婦みたいだった。 澪は蓮の耳元に顔を寄せて、そっと何かをささやいている。 蓮の視線が美咲を射抜く。そして彼女のドレスを見た瞬間、顔色がみるみる険しくなった。 ――美咲の着ているドレスは、澪と全く同じ。 蓮は澪の手を引き、美咲の目の前に立った。 「お姉ちゃん、なんで来たの?今日は蓮さんと私の記念日だよ、あんたには関係ないでしょ。 来るだけでも図々しいのに、わざわざ私と同じドレス着てきて……何考えてるの?私に恥かかせるつもり?」 澪の声は、勝ち誇ったように高い。 美咲は、すべてを悟った。メッセージは蓮からではなく、澪が彼のスマホを使って送ったものだ。 澪は、最初から美咲を笑い者にするつもりだった。 でも、目の前で腕を組むふたりを見ても、もう何も言い返したくなかった。ぼんやりと、ただ蓮を見ていた。 今日は二人の記念日。 蓮はちゃんと、澪のそばにいる。みんなの前で、澪を大事にしていると見せつけている。 美咲は小さく息を吐き、皮肉な笑みを浮かべる。 「ごめん、邪魔したね。すぐ帰るから」 「ちょっと、まだ話は終わってないでしょ。蓮さん、見てよ、この人……!」 誰かに手首をつかまれた。振り向くと、そこには冷たい目の蓮が立っていた。 「美咲、説明してもらおうか。黙って帰れると思うな」 第6話 美咲の心が、ざっくりと切り裂かれたような痛みに襲われる。 必死に腕を振りほどこうとするけれど、どうにもならない。諦めて顔を上げると、蓮と目が合う。その目は、どこまでも冷たい水のようだった。 「何を言わせたいの?蓮。 謝罪?いいよ、謝る。澪にごめんなさいって。 それとも、祝福して欲しいの?いいよ。あなたと澪が、一生幸せでありますように。 もしかして、もう一発ビンタしないと気が済まない?好きにして。叩きたいなら早くして。私、もう帰りたいから」 美咲はそう言って顔を仰向け、目を閉じた。まるで本当に、平手打ちをじっと待っているみたいだった。 蓮は呆然としたまま、しばらく何も言えない。 会場全体が、息をひそめたように静まりかえる。 そのとき、突然ひとりの女性が群衆をかき分けて前に出てきて、美咲の前に立ちはだかった。蓮に向かって指を突きつけ、怒鳴りつける。 「蓮、あなた、それでも男なの?女に手を上げるなんて! あんたが何も持ってなかったとき、美咲がどれだけ支えたか分かってる?あの頃は、ハイスペックな男たちが何人も美咲を追いかけてたのに! 浮気だけならまだしも、堂々と愛人連れて奥さんを踏みにじるなんて、男の恥よ!」 美咲は思わず目を開けて、その女性を見た。 それは大学時代、いちばん仲が良かった友人・西崎佳織(にしざき かおり)だった。義理堅くて、短気な性格は変わらない。 美咲は、ただならぬ雰囲気をすぐに察した。 案の定、蓮の表情はますます険しくなる。あんな顔を見るのは初めてだ。 彼が何も言わないうちに、澪が泣き声を上げる。 「誰が愛人だって!?」 佳織は怯まずに言い返す。 「澪、あんたのお姉ちゃんは奨学金を自分のために使わず、全部あんたの学費に回してたのよ。あんたが大学に行けたのは、美咲のおかげでしょ?その恩をどう返したの?自分のお姉ちゃんの旦那さんを奪って、平気な顔してるをしてるわけ?」 「ふざけたこと言わないで!もう一言でも変なこと言ったら、どうなっても知らないから!」 佳織はまだ何か言いかけたが、美咲が慌てて彼女を引っ張って後ろに隠す。 「もういいの、佳織……」 美咲は、蓮がかつて自分の敵を刑務所送りにしたところを見ている。彼の冷酷さは、誰よりも知っている。もし本気になれば、佳織だって無事じゃすまない。 「蓮さん、見てよ、あの人たち!あんなに私をいじめて……私の味方になってよ……!」 澪は涙に濡れた顔で、さらに訴える。 美咲は一歩前に出る。 「澪、佳織のことは私が謝る。どう罰されても構わない。でも、これ以上、関係ない人を巻き込まないで」 「美咲!」 佳織は苛立って足を踏み鳴らす。 「美咲、ちょっとは自分を大事にしなよ!そんなふうにあのクズ男にしがみついてたら、いつか本当にダメになるよ!」 「お願い、佳織……もう何も言わないで」 美咲は自分が罰せられることなんて気にしない。もうすぐ死ぬ身に、怖いものなんて残っていない。ただ、生きている人を巻き込みたくなかった。 「もう知らない!勝手にして!」 佳織はそう叫んで、怒ったまま人混みに消えていく。 美咲は彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送り、ようやくほっと息をつく。 でも、澪はまだ収まらない。 「蓮さん、早くあの女の人を止めて!なんでそのまま行かせるの?さっき私のことあんなふうにバカにしたのに、まだちゃんと謝ってもらってないんだから!」 蓮の視線が、ずっと美咲から離れない。 美咲は、他人には驚くほど優しいのに、自分には一度だってそんな顔を見せたことがない。 蓮の表情はますます陰を深くしていく。 「美咲、澪の言うとおりだ。さっきの女の人はもういないけど、その分の責任は誰が取るんだ?」 「私が取る」 美咲は赤くなった目で、蓮を見上げる。 ――分かっている。蓮は絶対にこのまま終わらせない。彼はいつも、澪の味方をする。 第7話 「蓮、あなたたちが私をどう罰しても構わない。でも、佳織には手を出さないと約束して」 澪は目を輝かせて聞き返す。 「本当に、何でもいいの?」 「ええ」 「じゃあ、いま着てるそのドレス、ここで脱いで」 その言葉に、会場中が一斉に息を呑む。 今夜のパーティーは大規模で、千人を超える招待客が集まっていた。その前で服を脱げだなんて―― 蓮の目に一瞬だけ迷いが浮かぶが、何も言わず、美咲をじっと見ている。 蓮は、美咲が口を開くのを待っている。ひと言でも頼られれば、ほんの一瞬でも助けを求める目を向ければ、その時は必ず庇ってやるつもりなのだ。 美咲は顔を伏せ、しばらく黙ったあと、静かに「いいよ」とだけ言った。 ゆっくり手を後ろに回し、ドレスのファスナーを下ろし始める。 男性客たちは慌てて目をそらす。 いくら蓮に放っておかれているとはいえ、美咲は蓮の妻だ。勝手に見ていい相手じゃない。 蓮は、美咲がゆっくりとドレスを脱いでいくのを、ただ黙って見つめていた。中には薄い黒のインナーだけで、身体の線をほとんど隠せていなかった。 その姿を見た瞬間、蓮の拳が静かに強く握られる。目の奥に、抑えきれない怒気がひそんでいた。 美咲は、みんなの前で辱めを受けることを選んでまで、自分に助けを求めようとはしなかった。 「もういい…… やめろ。これ以上は脱がなくていい、分かったか?」 美咲はその声を聞いても、手を止めない。 ついにドレスを脱ぎ、床に落とすと、澪をまっすぐ見つめて言う。 「これで満足?」 澪は唖然としたまま、声も出ない。 美咲は背を向けて会場を出ていく。最後まで一度も蓮を見なかった。 すれ違う女性たちが、さまざまな視線を投げかける。 「信じられない、あの人、本当にドレス脱いだよ。だから蓮さんにも捨てられるんだよ」 「それだけじゃないよ。昔、櫻木悠真(さくらぎ ゆうま)と寝たことまであるって」 「蓮さんに刑務所送りにされたあの櫻木悠真?……どうして蓮さんがあんな女を妻にしたのか、理解できない」 外に出ると、冷たい空気が一気に押し寄せてくる。 美咲はふらりと歩き出す。 そのとき、鼻血がすっと流れるのを感じる。 手で拭ってみるが、視界がかすみ、そのまま倒れ込む。 美咲が目を覚ましたとき、そこは病院のベッドだった。 向かいのソファには澪が座り、上機嫌で鼻歌を歌っている。美咲が目を開けたのに気づくと、満面の笑みを浮かべて言った。 「お姉ちゃん、いいニュースがあるよ。お医者さんが、もうすぐ死ぬって言ってた」 心臓が一瞬止まりそうになる。澪が知ったのなら、蓮にも―― すると澪はさらに楽しそうに笑って、続ける。 「大丈夫、蓮さんには絶対バレてないよ。お医者さんを買収して、『お姉ちゃんは健康そのもの』って言わせてあるから。 蓮さんにお姉ちゃんの病気なんて知られたいわけないでしょ。可哀想だとか、同情されたくないもん」 美咲はもう何も話したくなくて、目を閉じる。 それでも澪はベッドのそばに寄ってきて、耳元で囁いた。 「お姉ちゃん、せっかくだから一つ秘密を教えてあげる。あの日、どうしてお父さんとお母さんが中毒死したか知ってる?」 美咲は一気に目を見開く。 両親が中毒死したあの日、警察は「誤って殺鼠剤を料理に混ぜてしまった」と説明していた。 けれど、美咲の記憶には家に殺鼠剤なんてなかった。あの薬は、一体どこから来たのか―― 澪は、まるで他人の話でもしているみたいにニヤニヤ笑っている。自分の親のことを語っているとは、とても思えない表情だ。そして、そのあとに続いた言葉は、美咲の背筋を凍らせる。 「だって、お父さんとお母さんってお姉ちゃんばっかり可愛がってたでしょ。お姉ちゃんは『美しい白鳥』で、私は『醜いアヒルの子』なんだって。それを偶然、ドアの外で聞いちゃったの……だから、殺鼠剤を買ってきて、ご飯に混ぜたの。ねえ、お父さんとお母さんって、自業自得だよね?」 第8話 美咲は信じられない思いで澪を見つめる。 「澪……」 「うるさい、まだ全部言ってないよ」 澪はにこにこと、まるで他人事のように語りはじめる。 「児童福祉施設に送られたとき、本当に嬉しかった。やっと、偏った両親から解放されたから。 でも、いいことなんてなかった。ひどい場所から、また別の泥沼に落ちただけ。 十二歳のとき、私は施設の警備員に襲われたんだよ」 澪は、悔しさで奥歯を噛みしめている。 美咲は息が詰まりそうになりながら、やっとの思いで口を開く。 「そんなことがあったの、どうして私に言ってくれなかったの……力になれたのに!」 「あんたに?助けてもらう?」 澪は、信じられないほど可笑しい話を聞いたみたいに、腰が折れるほど笑い転げている。 「あんたは知らないでしょうけど、私の不幸は全部あんたのせいなんだよ! 警備員に襲われたときだって、『妹は姉には敵わない』って言われたんだから。『姉の方を手に入れるのは難しい』って……」 美咲は言葉を失う。驚きと動揺で、受け入れることができない。 まさか妹が、こんなにも自分を憎んでいたなんて。しかも、ずっと前から―― 「男なんて、ろくなものじゃないとずっと思ってた。でも蓮さんに出会ってから、初めて本物の男を知ったの。 蓮さんはイケメンで、責任感もあるし、きっと大物になるって分かってた。でも、どうしてそんな彼があんたの恋人だったの?」 澪の声には、隠そうともしない嫉妬がにじんでいる。 美咲は、今まででいちばん妹を遠く感じて、何も言えない。 澪は不敵に口元をゆがめる。 「蓮さんのまわりにはこれまで何人も女がいたけど、一年以上そばにいられたのは私だけ。なんでだか分かる? だって、私が蓮さんにこう言ったの。『七年前、警察に通報して蓮を助けたのは私だよ』って」 美咲は驚きで息をのむ。七年前、蓮を救ったのは―― 「もちろん本当はお姉ちゃんだって知ってるよ。私の姉ちゃん」 澪は誇らしげに笑う。 「でも、蓮さんがその話を信じると思う? お姉ちゃんがあのとき大けがをして、蓮の足手まといになりたくなくて身を引いた……そんな話、蓮さんが信じると思う? 櫻木悠真と何もなかったって、清らかな関係だって、蓮さんが本気で信じると思う? 絶対にありえないよ」 澪のその自信満々な表情は、美咲にとってまるで死刑宣告のようだった。 「ねえ、蓮さんがあんたと櫻木悠真のこと、どれだけ気にしてるか知ってる? 私なんて、蓮さんのために処女膜の再生手術までしたのにさ。私たちが初めて一緒に過ごした夜、蓮さんは私を抱きながら『美咲』って呼んだんだよ。『美咲が、永遠に俺だけのものだったらよかったのに』って……」 澪は笑いながら涙をこぼす。その笑いはゆがんでいて、日ごろの「可憐な妹」の面影はもうどこにもない。 そのとき、病室のドアがノックされ、看護師が昼食を運んできた。看護師がお粥の入ったお椀を取り出すと、澪の目が、一瞬きらりと光る。 「それ、ちょうだい」 「熱いので気をつけてくださいね」 看護師が食事を置いて部屋を出ていく。ドアが閉まった瞬間、澪はお椀を持ち上げ、美咲に向かって不気味な笑みを浮かべた。 「ねえ、お姉ちゃん。どうせもうすぐ死ぬんでしょ?だったら、死ぬ前に最後にひとつだけ……私の頼みを聞いてよ」 その言葉と同時に、澪は腕を振り上げ、熱々のお粥を美咲の太ももめがけてぶちまける。 「きゃっ!」 美咲は激しい熱さに跳ね起き、ベッドから転げ落ちる。床に倒れ込んだまま、痛みに顔をゆがめる。 澪は、肩を震わせて笑い続ける。 「お姉ちゃん、その格好……ほんと笑える……」 だが突然、澪の笑いがピタリと止まる。視線がドアへと向かう。病室のドアが開き、そこには蓮が立っている。 第9話 「どうしたんだ?」 「蓮さん……」 澪はすぐに蓮のもとへ走り寄り、泣きそうな顔で彼の胸に飛び込む。 「私、お姉ちゃんにお粥を食べさせてあげようとしたのに、お姉ちゃんが急に怒ってお椀をひっくり返しちゃったの。見て、私の手、こんなに赤くなっちゃった……」 蓮は澪の手をひと目見て、すぐに顔をしかめる。 「美咲、お前はまた何をやってるんだ?澪に当たるなんて、どうかしてるぞ。美咲、お前が意識を失っていた間、澪がどれだけ心配してたと思う? 澪はずっとお前のことを心配していた。それなのに、お前は妹を傷つけて……お前は本当に姉なのか?」 心の痛みは限界を超えて、もう何も感じない。 美咲は何も言わず、焼けつくような痛みに耐えながら、ゆっくりと立ち上がり、バスルームへと向かう。 蓮は美咲の冷たい背中を見つめている。 「美咲、お前……」 「蓮」 美咲は足を止め、蓮には見えない位置で目を赤くしながら、それでも静かに言葉を返す。 「私が一番会いたくないのはあなたなの。お願いだから、ここから出ていって」 背後で、怒りに任せてドアを叩きつける音が響く。 美咲は振り返り、蓮が去っていった方向を見つめる。結局、涙がこぼれてしまった。 ―― 美咲は病院に一週間ほど入院し、ようやく退院の日を迎える。 退院前に、主治医の曽根(そね)先生を訪ねた。 曽根先生は少し同情するような目で美咲を見つめる。 「美咲さん、あの臓器提供の同意書ですが、もし気が変わったら、いつでも取り消せますよ」 美咲はただ静かに首を振る。 「先生、ひとつお願いがあるんです」 「何でしょう?」 「私が心臓を提供すること、誰にも知られないようにしてもらえますか?」 曽根先生は少し困ったような顔をしながら答える。 「それは……絶対に隠し通せるとは言い切れませんが、できる限り努力します」 「ありがとうございます、先生」 病院を出た美咲は、街の道をゆっくり歩く。 街角にあるウェディングドレスショップのガラスに、自分のやつれた顔が映っている。 ふと思い浮かぶのは、何年も前、蓮と一緒にこの店の前を通った日のこと。 当時、店の中に並ぶ美しいウェディングドレスは、二人にとって手の届かない贅沢品だった。 でも、蓮は世界で一番自分を愛してくれた。 「いつかお金ができたら、一番盛大な結婚式をして、お前を誰よりも美しい花嫁にするよ」彼はそうやって美咲の手を握りしめてくれた。 その約束を思い出して、美咲は思わず微笑む。けれど、すぐに目頭が熱くなる。 たしかにその後、美咲は蓮と結婚した。 けれど、結婚式はなかった。白いドレスも着られなかった。彼女はこの世で一番惨めな花嫁になった。 新婚初夜、蓮は他の女を二人の新居に連れてきて、その女と抱き合う声を美咲に聞かせた。そして朝には、その女の世話まで美咲にさせた。 この三年間、蓮は考えつく限りの方法で美咲を辱め続けた。 そのとき、美咲のスマホが鳴る。 画面を見ると、見知らぬ番号だった。 「もしもし、美咲さんですか?」 「はい、そうです」 「神谷蓮さんの奥様でいらっしゃいますか?」 「はい、どうかしましたか?」 「ご主人が交通事故に遭われ、救急車で第一病院に搬送されました……」 美咲の頭が一瞬真っ白になる。 スマホを落としそうになりながら、慌てて外へ駆け出し、タクシーをつかまえる。 「お願いします、第一病院まで!」 ―― 急救室の前で、美咲は曽根先生を見つけて声をかける。 「蓮は……蓮は無事なんですか?」 「神谷さんは失血が多くて、いま適合する血液型を探しています」 「私の血を使ってください!私は蓮と同じ血液型です」 「だめです、美咲さん。今のあなたの体では、輸血はできません……」 「曽根先生、お願いします!」 美咲は、今にもひざまずきそうな勢いで頼み込む。 「私、もう長くは生きられません。でも、お願いです、どうか蓮を助けてやってください……」 第10話 曽根先生は、しぶしぶうなずくしかなかった。 美咲の主治医として七年、彼女の性格はよく分かっている。 輸血室で、美咲は、自分の腕から抜かれていく暗い赤色の血を、ただじっと見つめている。 何度も目まいが襲うが、心だけは不思議と静かだった。 「美咲さん、少しでも気分が悪くなったらすぐ言ってください。あなたの体は本当に無理がきかないんですから……」 「曽根先生、私はまだ大丈夫です。続けてください」 やがて蓮に必要な量の血がそろうと、美咲は「これで終わりにしてください」と言って立ち上がる。だが、足元がふらつき、今にも倒れそうになる。 曽根先生は怒りと心配の入り混じった顔で言う。 「美咲さん、あなたは自分の体をなんだと思っているんですか……」 「曽根先生、どうか蓮のもとへ急いでください、お願いします」 美咲は曽根先生が自分の血を急救室に運んでいくのを見届けて、ようやくほっと息をつく。 もう限界で、壁にもたれて座り込もうとした瞬間、そのまま意識を失って倒れてしまう。 意識が途切れる直前、澪が病院に駆けつけてくるのが見えた気がした。 美咲は、今度こそこのまま死ぬのかと思ったが、目を開けると病室のベッドの上だった。 すぐに看護師を呼び止めて尋ねる。「蓮は、蓮はどうなったんですか?」 「神谷さんですか?手術は無事に終わりましたよ。昨日にはもう目を覚まして、今は隣の病室で休んでいます」 その言葉に、美咲はやっと肩の力が抜ける。 若い看護師がしみじみと言う。 「本当に運が良かったんですよ。血液庫の血が足りなかったところで、ちょうど献血してくれる人が現れて……どなたか分かりませんけどね」 若いナースにそう聞かれても、美咲は何も答えない。 美咲が献血したことを知っている人はごくわずかだ。本来、彼女の体は献血できる状態ではなく、曽根先生に迷惑がかかるのを恐れて、みんなで秘密にしているのだった。 そのとき病室のドアが開き、美咲が顔を上げると、蓮が入口に立っている。 彼の顔色はひどく悪い。 「美咲、少し来てくれ」 「どうしたの?体調が悪いの?」 「俺じゃない。澪だ」 澪?どうして? 蓮は不安そうな顔で、苛立ちも隠さず説明する。 「澪が俺を助けるために、無理してたくさん血を抜いたせいで、今は体がもたなくなってる。 美咲、お前たちは実の姉妹で血液型も合う。だから今度は、お前が澪に血をあげてくれ」 美咲は、もう何も言えなかった。蓮に輸血したのは自分なのに、なぜ澪が倒れるほど献血したことになっているのか。 美咲が返事できずにいると、蓮の顔がさらに暗くなる。 「美咲、澪はお前の妹だぞ。見殺しにするつもりか?」 美咲は口を開くが、どう説明していいのか分からない。 今度また血を抜かれたら、本当に二度と目覚めなくなってしまう。 そのとき病室のドアが開き、看護師に付き添われた澪が入ってくる。 美咲の唇はすっかり血の気を失い、顔色もひどくやつれている。まるで本当に大量の血を抜かれた人のようだ。 だが、それは澪自身が丁寧に作り込んだ化粧の成果だった。 「蓮さん、お姉ちゃんが嫌ならいいよ。私は大丈夫。ただ……」 澪はお腹に手を当て、はにかむような甘い笑みを浮かべる。 「私のお腹の中の子、無事でいられるかな……」 美咲は、心の奥で何かが静かに砕ける音を聞いた気がする。 澪は妊娠している。蓮の子を。 蓮にはもう子どもがいる。だったら、自分は妻として一体何なのだろう。 今にも涙がこぼれそうになる。 蓮の声がさらに冷たくなる。 「美咲、今日だけは絶対に澪に献血してもらう。お前の同意は関係ない」 美咲は赤い目で蓮を見上げる。 「もし私も体調が悪いと言ったら、それでも私に献血させるの?」 「美咲、お前が欲しいのは金だろ?いくらでも出す。二千万円で足りるか?足りないなら四千万円でも、一億円でも……」 美咲は絶望的な気持ちで目を閉じる。 しばらくして、静かに目を開け、わずかに笑って言う。 「二億円ほしい」 その一言で、蓮の顔色がさらに暗くなる。 「やっぱりな……さっきのは全部口実か。美咲、お前は結局、金が欲しいだけだ」 「そうよ。私はお金に目がくらんだ女。あなた、ずっと知ってたでしょ?」 美咲はかすかに笑い、冷たく言い放つ。 「蓮の子どもなんだから、そのくらいの価値はあるんじゃない?」 蓮の奥歯が砕けそうなほど強く噛みしめられる。 「分かった。二億円だな。今日は澪が満足するまで絶対に帰さない!」 そう怒鳴り捨てると、蓮は勢いよくドアを叩きつけて出ていった。 美咲はその背中を見送りながら、心の中で静かに呟く。 ――さよなら、蓮。 もう二度と会わない。ここで、すべて終わりにしよう。