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私が研究枠を後輩に譲った後、彼は取り乱した
南極観測隊のメンバー名簿が公表されたその日、私は土屋時彦(つちや ときひこ)が残り一枠を彼の後輩の森紗月(もり さつき)に与えるのを目に...
Chương (1)
第1章
南極観測隊のメンバー名簿が公表されたその日、私は土屋時彦(つちや ときひこ)が残り一枠を彼の後輩の森紗月(もり さつき)に与えるのを目にした。
紗月は弾むように尋ねた。
「じゃあ、夏川さんはどうするの?夏川さんはこの機会のために三年も準備してきたんだよ」
時彦は微笑みながら言った。
「君が初めて南極に行くんだから、むしろ君にこそこのチャンスが必要だ。俺には来年も再来年も南極に行くから、その時に彼女を連れて行けばいいさ」
だが、そもそも南極へ一緒に行ってクジラを撮ろうと言い出したのも、時彦だった。
三日間徹夜して彼の論文の校正を終えたばかりのその画面を見つめながら、私はふと虚しさを覚えた。
泣きもしなかったし、騒ぎもしなかった。ただ、その論文を紗月に送り、ついでにメッセージを添えた。
【時彦の最終稿です。あとは任せます】
それから背を向け、熱帯雨林プロジェクトの責任者のオフィスの扉を叩いた。
【中世古(なかせこ)教授、ぜひチームに参加させてください】
その間、時彦はずっと私にメッセージを送っていた。
【南極観測隊の件、帰ったら話すよ。どんなケーキが食べたい?】
私は返さなかった。ただ、中世古教授からの応募用紙を受け取っただけだった。
南極は氷と雪の世界だ。寒すぎる。もう行きたくない。
第1話
南極観測隊のメンバー名簿が公表されたその日、私は土屋時彦(つちや ときひこ)が残り一枠を彼の後輩の森紗月(もり さつき)に与えるのを目にした。
紗月は弾むように尋ねた。
「じゃあ、夏川さんはどうするの?夏川さんはこの機会のために三年も準備してきたんだよ」
時彦は微笑みながら言った。
「君が初めて南極に行くんだから、むしろ君にこそこのチャンスが必要だ。俺には来年も再来年も南極に行くから、その時に彼女を連れて行けばいいさ」
だが、そもそも南極へ一緒に行ってクジラを撮ろうと言い出したのも、時彦だった。
三日間徹夜して彼の論文の校正を終えたばかりのその画面を見つめながら、私はふと虚しさを覚えた。
泣きもしなかったし、騒ぎもしなかった。ただ、その論文を紗月に送り、ついでにメッセージを添えた。
【時彦の最終稿です。あとは任せます】
それから背を向け、熱帯雨林プロジェクトの責任者のオフィスの扉を叩いた。
【中世古(なかせこ)教授、ぜひチームに参加させてください】
その間、時彦はずっと私にメッセージを送っていた。
【観測隊メンバーの件、帰ったら話すよ。どんなケーキが食べたい?】
私は返さなかった。ただ、中世古教授からの応募用紙を受け取っただけだった。
南極は氷と雪の世界だ。寒すぎる。もう行きたくない。
……
どうやら熱帯雨林への出発準備をやり直さねばならなさそうだ。
中世古教授のチームによるオンライン会議が終わり、参加者たちは互いに挨拶を交わしながら退出していく。
そのとき、部屋の外から鍵の開く音が聞こえてきた。
「どうして返事をしない?優未、俺が十件以上送ったのに、君は一つも返してこないのか」
時彦は眉間にわずかな苛立ちを滲ませていた。
私は携帯の画面を消して、淡々と口を開いた。「さっき忙しかったの。マナーモードにしてたわ」
私の閉じていないドキュメント画面に視線が落ちると、時彦の声は少し柔らかくなった。
「君が徹夜で俺の論文の校正を手伝ってくれたことを思えば、この件は水に流す。俺が急ぎすぎただけだ」
これは中世古教授のチームから送られてきた資料で、彼の論文はすでに紗月に引き渡してある。
もういい、誤解なら誤解で構わない。
彼は私の隣の椅子を引き、腰を下ろしてため息をついた。
「観測隊メンバーの件は俺が悪かった。君が気分を害したことは分かってる。
紗月も直前になって行きたいと言い出してな。初めて南極で研究するんだから、何も分からないんだ。俺は多めに面倒を見るのは当然だろう。
それに君も知ってるだろう、紗月の父親は俺が博士課程の時の指導教官だ。俺が研究所に入れたのも、彼女の父親に随分助けられた。
先生がわざわざ直接電話をかけて頼んできたんだ。簡単に断れる話じゃない」
時彦は言葉を切り、どこか不安げに私を見つめた。
だが、断りにくいことは、一つや二つではなかった。
紗月が何度も私の目の前で時彦の腕に絡みついた時、彼は拒まなかった。
研究室の会食に行った時、紗月が身を傾け、時彦の口元のクッキーの欠片を拭ったときも、彼は拒まなかった。
恋人同士のように親密で。
それらを、私はかつて気にして、ぶつけたこともあった。
結局返ってきたのは、「紗月はまだ小娘みたいなもんだ。君は何をそんなに気にするんだ」という言葉だけだった。
でも今は、もうどうでもよかった。
私は小さく頷き、静かに言った。「あなたには返さなきゃいけない恩があるんでしょ。彼女にも確かに必要な機会だし、理解してるわ」
この従順さは、時彦を満足させた。だが、何かが足りないようでもあった。
時彦は眉根を寄せ、苛立ちを押し殺すように続けた。
「君は大人しくしていろ。出発前に余計な騒ぎを起こすな。来年、来年は北極行きの機会がある。俺は必ず君を連れていく」
また、来年。
二年前も、彼は同じことを言った。
あの時、時彦は私の手を取って、パソコンに映る一枚のクジラの写真を指差し、その目は驚くほど眩しく輝いていた。
「優未、まだ記録に載っていないクジラを撮れたら、俺たちにはその名前を付ける権利がある。
その時は、そのクジラに、君の名前、夏川優未(なつかわ ゆみ)って名をつけよう」
その瞬間だけ、私は彼の目の中の海を確かに占めていた。
だが今は。
「じゃあ今回、紗月を連れてクジラを撮りに行くつもりなの?」
私が静かに問うと、時彦の体は、はっきりと強張った。
第2話
時彦の視線が一瞬泳ぎ、最後にはどこか不機嫌な様子で身を起こした。
「今回は氷山の状態を調査しに行くんだ。時間も足りないし任務も重い。仕事で手一杯で、そんなことをしている暇はない。俺が積極的に彼女を連れて行くことはない」
分かった。
積極的に、ではない。つまり、紗月が涙ぐみながら「土屋さん、私、初めて南極に来たんです。クジラを見てみたいです」と言えば、時彦は必ず連れて行く。
毎回、彼女の頼みを断らなかったように。
でも、もう関係なかった。
「分かったわ」
私は頷いた。
いつものような言い争いも、問い詰めも、何もなかった。
時彦は眉をひそめた。この静けさが、彼をどこか落ち着かなくさせるらしい。
「優未、俺は……」
「南極はとても寒いし、風も強いわ。行く時はしっかり防寒しなさい」
その言葉に、時彦の眉間は少し緩んだ。だが私は続けた。
「長焦点レンズは一本何十万円もするんだから、低温で壊さないようにね」
時彦の顔は一瞬で暗くなった。
彼は、私が彼自身を心配すると思っていたのだろう。
まさか、私が気にするのが何十万円もするレンズだけだとは思わなかったのだ。
「優未、君は本当にどんどんつまらなくなっていくな」
時彦は立ち上がり、わざとらしく息を吐き捨てると、そのまま側の寝室へと向かい、ドアを乱暴に閉めた。
私はむしろ、ようやくひと息つけた気がした。体全体が、やっと軽くなったようだった。
私はスマホの画面に指を触れた。そこには、熱帯雨林調査隊のメンバー表。
私の名前が、静かにそこに並んでいる。
……いいね。
いつの間にか、私は眠っていた。
翌日、私がオフィスに着くと、時彦はすでに来ていた。
腰を下ろした途端、彼は分厚い資料を机に置き、当然のように口を開いた。
「これは前回の氷床コア採取データだ。俺が出発する前に報告書を見せてくれ」
私はその資料を見つめたまま、動かなかった。
以前なら、私はきっと黙って仕事を始めていただろう。
だが今、私はすでに別のチーム。彼の業務を手伝う義務などない。
私はその資料を、静かに押し戻した。
「紗月こそあなたの新しいチームメンバーよ。こういう仕事は彼女に頼みなさい。プロジェクトに早く慣れさせた方がいいわ」
時彦の顔はたちまち険しくなり、苛立ちが眉間に滲む。
だが、口元には微かに愉悦が浮かんでいた。
「優未、君は行けないから気に食わないんだろうが、今は嫉妬して駄々をこねる時じゃないだろう。
昨日俺は言ったはずだ。来年連れていくと。仕事は仕事だ。君はそれを感情で……」
「南極は通信が弱いわ」私は再び言葉を遮った。
「衛星電話でしか連絡できないし、遅延も多い。時彦、私が遠隔でずっとデータ処理を手伝えるわけがないでしょう」
私は彼を見つめ、わずかに微笑んだ。
「それに、紗月はあなたが自ら選んだメンバー。彼女の能力を信じるべきじゃない?」
時彦は、またしても言葉を詰まらせた。
その時、紗月がコーヒーを二杯持って近づいてきて、可愛らしく微笑みながら言った。
「夏川さんの言う通りですよ」
紗月は当然のようにコーヒーを時彦の机に置き、彼の腕に絡みつき、体をぴたりと寄せた。
時彦にウインクを送り、そして私へ挑発的な視線を向けた。
「私は土屋さんが手塩にかけて育てた大学院の後輩ですよ。私の能力を信じないんですか?」
時彦は反射的に腕を引こうとした。
だが、視界の端に私が映った瞬間、動きが止まった。
そしてわざとらしく手を持ち上げ、紗月の手の甲を軽く叩いた。
「そうだな。紗月は才能もあるし、仕事も丁寧だ。間違いない」
まるで、「俺の選択が正しかった」、と見せつけるように。
私はただ頷き、淡々と言った。「それは良かったわ。おめでとう、時彦。いい助手が見つかったみたいで」
怒りも、嫉妬もなかった。
時彦はまた言葉を詰まらせ、苦しげに何か言おうとした。
その時、オフィスのドアから中世古教授が顔を覗かせた。
「優未、ちょっと会議だ。君を待ってる」
「はい教授、すぐに伺います」
そう言って、私は振り返ることなく歩き出した。一切の未練もなく。
ふと振り返ると、時彦の視線が、釘のように私の背中に打ち付けられていた。
第3話
少しばかり、無視された後のような不安がそのまま滲んでいた。
紗月はそれを見るや、慌てて彼の腕を揺らした。
「土屋さん、ねえ、この関数、ちょっと見てくれない?」
呆然と立ち尽くしたままの時彦は、半ば強引にして紗月のデスクへと引きずられていった。
会議室のドアを閉め、私は全神経を会議に集中させた。
会議が終わると、中世古教授が先頭に立ち、熱帯雨林プロジェクトのメンバーたちが小さな送別会を開いてくれた。
皆とても熱心で、少し酒も入って、雰囲気はとても良かった。
酒の匂いをまとって家に戻った時には、すでに夜の十一時近くだった。
リビングの灯りがついていた。
時彦は真っ黒な顔でソファに座っていた。まるで門番みたいに。
「どこ行ってたんだ?こんな遅くまで帰らない上に、酒まで飲んで?」
彼はすぐに立ち上がり、声には抑えきれない怒気が満ちていた。
「明日俺は出発だぞ。早く帰ってきて荷物の準備くらい手伝ってくれてもいいだろ!」
酒は臆病者を強気にすると言うけれど、いま目の前にいる時彦を見ていると、私はただただ疲れ果てて、言葉を発する気力すら湧かなかった。
静かに息を吐いた。
「時彦、何度も調査に行ってるんだから、あなたのほうが経験は豊富でしょ。何を持っていくべきで、何が要らないのか、あなた自身が一番分かってるはず」
私の静かな声に刺されたのか、時彦の声音は思わず荒くなった。
「前はいつも君がやってくれただろ!」
そう、前は全部、私だった。
その頃の私は、彼が道中でどんなトラブルに遭うかと気が気でなく、飢えたり、凍えたり、少しでも辛い思いをするのが怖くてたまらなかった。
長い時間離れることを思うだけで、胸がぐしゃぐしゃに軟らかくなってしまった。
家中のもの全部を、彼のスーツケースに詰め込みたかった。
できることなら──私も一緒に行きたかった。
でも、いまは……
「あなたはもう大人でしょ。子供じゃない。これくらい、自分でできると私は思ってる」
真剣な眼差しと信頼の響きは、今の彼には刃のように刺さったらしい。
時彦は私を睨み付け、その視線はまるで私の顔に穴を開けようとしているみたいだった。
「いいだろう、優未。やれるものならやってみろ。後悔するなよ!」
そう言い捨てて、ソファの上の上着を掴み、ドアを思いきり叩きつけるように閉めて出て行った。
こめかみを押さえながら、私は彼を追うことなく、熱帯雨林プロジェクトの資料整理を続けた。
それほど時間も経たないうちに、スマホが狂ったように鳴りはじめた。
消音にして、目の前の作業を終えてから、ようやく画面を開いた。
全部、時彦からだった。
彼と紗月がアウトドア用品店にいる写真。写真の中で、紗月はつま先立ちして彼のハードシェルジャケットの襟を整えている。
二人の距離は近く、姿勢は親しげだった。
さらに、紗月が二色の保温ボトルを手に持ち、首を傾げながら満面の笑みを浮かべている写真もあった。
正直に言えば──どっちの色もなかなか可愛い。
ショッピングサイトで売っているか調べようとした瞬間、時彦のメッセージが飛び込んできた。
【君が一緒に装備を買いに行ってくれないからだぞ。仕方なく、夜遅くに紗月に付き合わせるしかなかったんだ】
どことなくにじむ責め口調。
だけど、買い物が嫌いで、女の買い物は面倒くさいって、そう言ったのは、ほかならぬ彼自身だった。
今さら私のせい?
画像をスライドさせると、また新しいメッセージが続いた。
【まあ、別に大したことじゃない】
【明日、ちゃんと見送りに来るなら、君が今日拗ねてることは全部許してやる】
【今回は化石を一つ持って帰ってやるよ。絶対に見たことないやつ……紗月も持ってないやつを】
第4話
付き合い始めた頃、時彦は、私がさまざまな化石を集めるのが好きだと知っていた。
しかし、彼が野外から持ち帰った化石は、毎回、紗月の手に渡った。
私は怒ったこともあるし、「これは私のためじゃなかったの?」と聞いたこともあった。
だが、紗月が目を赤くして、申し訳なさそうに謝り、返すと言いながらしょんぼりと肩を落とすと、時彦は眉をひそめて私に、譲れと言った。
ケチだな、妹分相手に物を取り合うなと。
そして、次はもっといいものを持ってくると言った。
そのうちに、私は欲しいと思うこと自体、やめてしまった。
その「自惚れた優しさ」の言葉にも、もう何の魅力もなかった。
私は返事をせず、携帯を切り、そのまま眠りに落ちた。
翌朝目を覚ますと、リビングはぐちゃぐちゃで、いくつものクッションが床に投げ出されていた。
明らかに、昨夜、時彦は帰ってきたらしい。
テーブルの上には一枚のメモが残っていた。
【優未、最後のチャンスをやる。午後二時、空港に来て見送れ。俺は待ってる】
乱れた筆跡、紙を破りそうなほど力強い字。
子供染みた脅しのようだった。
子供か?
ため息をつき、私はその紙をゴミ箱に放り込んだ。
そして黙って腰をかがめ、床のクッションを一つずつ元の位置に戻した。
調査隊は明日まず飛行機で南米へ向かい、それから船でアマゾンへ向かう。
そろそろ、私自身の荷物もまとめる頃だった。
……
二日後、南米・ウシュアイアの港。
時彦は落ち着かない様子で埠頭を歩き回り、苛立ちを抑えられないでいた。
二日間だ。丸々二日。
空港で優未を最後の最後の瞬間まで待ち続け、影一つ見えないまま出発する羽目になっただけでなく、この二日間、優未からは一通のメッセージも、一本の電話もなかった。
まさか、今回ばかりは、南極から戻るまで冷戦を続けるつもりなのか?
「土屋さん、どうしたの?顔色すごく悪いよ」
紗月が近づき、額に手を伸ばそうとした。
「何でもない」
時彦は苛立ちを隠しきれずに避け、気のない声で答えた。
視線は人の群れへ向けられたまま、絶えず探していた。
そして突然、彼の視線は止まり、柔らかく揺らいだ。
少し離れたところで、優未が軽装のアウトドアウェアを身に着け、キャリーケースを引きながら港へとゆっくり歩いてくる。
時彦の胸は、一瞬で歓喜に満たされた。口では偉そうなことを言っても、結局こうやって追って来るじゃないか、と。
全ての苛立ちと不安が一気に吹き飛び、時彦は大股で優未へ向かって歩き出した。
歩きながら、こっそり襟を整えたりして。
ついに人の波を抜け、時彦は優未の目の前に立ち、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「やっぱり俺のところへ来たんだな。
優未、やっぱり俺のこと、惜しいと思ってるんだろ」