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高杉達也(たかすぎ たつや)がいちばん貧しかった頃、客の接待で無理やり酒を飲まされ、腹の中は酒でいっぱいだった。 家に帰ったときにはも...

Chương (1)

第1章

高杉達也(たかすぎ たつや)がいちばん貧しかった頃、客の接待で無理やり酒を飲まされ、腹の中は酒でいっぱいだった。 家に帰ったときにはもう足元もおぼつかず、それでもふらつきながらポケットの中をまさぐって、溶けかけたチョコレートを二つ取り出した。 「なあ、これ食べて。君の好きなやつだ」 その後、何度も言い争いをした日々の中で、私はいつもあの二つのチョコレートを思い出していた。 だからこそ、何度も譲ってしまった。彼のために仕事を辞め、妊娠し、そして流産した。 けれど、さっき、彼のパソコンに開かれたままのチャット画面を見てしまった。 チャットの中で、彼の友人が言っていた。【春奈さんが会社に入ったこと、奥さんはまだ気づいてないよな?】 【春奈さんが海外に行った年、達也さん、街中を探し回ってさ。春奈さんの好きなチョコレートをどうしても見つけたくて、あのとき、結局引き留められなくて、泥酔して泣きながら帰ってきたよな】 【その時、俺は思ったんだ。達也さんはもうあの人なしじゃ生きられないって】 第1話 【達也さん、まだ来ないのか?春奈さんがもう待ちくたびれてるよ】 【この前、ちゃんと満足させてやらなかったんじゃないのか?】 高杉達也(たかすぎ たつや)のパソコンに開きっぱなしになっていたチャット画面が、私の視線を釘づけにした。 野原飛雄(のはら とびお)のアイコンが、次々と点滅を続けていた。 【春奈さんが会社に入ったこと、奥さんはまだ気づいてないよな?】 【達也さんもよくやるよな、そんなことで春奈さんを何日も泣かせて】 【覚えてるか?春奈さんが海外に行った年、達也さん、街中を探し回ってさ。春奈さんの好きなチョコレートをどうしても見つけたくて、あのとき、結局引き留められなくて、泥酔して泣きながら帰ってきたよな】 【あの時、俺は思ったんだ。達也さんはもうあの人なしじゃ生きられないって】 【でもよかったな、また戻ってきたんだから】 【達也さん、二人が一緒にいる限り、俺はまだ愛を信じられるよ】 私はその場に立ち尽くした。口の中で甘かったチョコレートが急に苦く変わった。 私は甘いものが得意ではない。けれど、このブランドのチョコレートだけは別だった。 三年前、達也がたった二粒のチョコで私を嫁に迎え入れてくれたのだ。 あの頃、彼は何も持たず、実家から追い出されて、苦しい思いで起業していた。 客に付き合って酒を飲まされ、泥酔して帰ってきたときにはもう立つのもやっとだった。 それでもポケットの中をまさぐって、苦労して取り出したのは溶けかけたチョコレートが二つ。 どこで買ったのかと尋ねても、まともに答えられず、ただひたすら口に入れようとばかりしてきた。 「なあ、食べて!君の好きなやつだ!」 チョコレートはもうべたついて、ひとかたまりに溶けていた。 彼の顔は汗で濡れて、間の抜けた笑みを浮かべていた。 それでも、胸の奥がふっと温かくなった。 翌年、私たちは結婚し、彼の事業も成功した。 そして最初にしたことが、倒産寸前のチョコレート工場を買い取ることだった。 それから、私は好きなだけ甘いものを口にできるようになった。 けれど今、その甘さはまるで毒のように喉に絡みつき、息ができないほど苦しかった。 胸の奥がつまって、息をするのも痛かった。 鼻の奥がつんと熱くなり、涙がこぼれそうになったそのとき―― 玄関のほうから、達也の声が聞こえてきた。 「馨ちゃん、何見てるの?」 第2話 彼が歩み寄ってきて、顔色を変えた。 「どうした?泣いてるのか?」 モニターにはさっきまで開いていたチャットが消え、代わりに私の検査結果が映っていた。 達也はすぐに不安そうに私を抱きしめた。 「馨ちゃん、どうしたんだ?」 私は彼を見つめたまま、涙がぽろりと落ちた。 「今月も、ダメだった」 彼は報告書に目を通し、ほっと息をついた。 「なんだよ、驚かせるなって。 言っただろ、子どものことは焦らなくていいって。そんなに急がなくてもいいじゃないか」 深く澄んだその瞳に、甘やかな愛情が溢れていた。彼は私の頬を軽くつまんで笑った。 「うちには君がいるだけで、もう十分だよ」 私は黙り込んで、何も言えなかった。 彼はそっと私の涙を拭い、さりげなくパソコンを閉じた。そして私の手を引いてリビングへ連れていった。 「そろそろ生理だろ。オーバーシーツは出してベッドの横に置いておいた。 今日は牛肉と豚レバーを用意したから。鉄分と血を補うから、ちゃんと食べるんだよ。 それから栄養スープもある。保温ポットに入れておいたから、ちゃんと飲んでくれ。夜帰ったらチェックするからな」 私はそれでも何も言わなかった。 彼はそっと私の額にキスして、子どもをあやすように微笑んだ。 「今回は砂糖を多めに入れたから、飲みやすいはずだよ」 結婚して三年。彼はいつも優しく、ほとんど執拗なほど私に何もさせようとしなかった。その視線はいつだって、愛しさでいっぱいだった。 私は気づかなかった。彼の心がいつから私から離れていったのか。 私をソファに座らせると、彼は気だるげに部屋着を脱いだ。 背を向けてシャツを取るとき、彼の背中の下のほうにうっすらと赤い痕が見えた。 服を着終えてから、ようやくそれが何かに気づいた。 ――あれは、引っかき傷だ。 私のじゃない。 ほかの女のものだ。 達也は車のキーを手に取り、出かける準備をしていた。 振り返って私を見た。 「馨ちゃん、おいで」 私は機械のように立ち上がり、彼のもとへ歩み寄った。 彼は私の頭を軽く撫でて言った。 「家で余計なこと考えるなよ。退屈だったら買い物でも行ってこい。 今日は客先があるから、帰りは遅くなる。待たなくていいからな。 薬はちゃんと飲めよ。帰ったら確認する」 距離が近づくと、彼の胸ポケットに古い万年筆が差さっているのが見えた。 眉がぴくりと動いた。 彼は万年筆を面倒くさがって、もう長いこと使っていなかった。ここ二年ほどはずっとボールペンばかりだった。 その万年筆のキャップはもう色あせて、古びたものだった。 ふと、昔、彼が折り紙の星にメッセージを書いてくれたことを思い出した。私が「字がきれい」と褒めると、彼は少し遠い目をして言った。 書道を教えてくれた土屋先生は本当にすごい人で、「娘の字よりもお前のほうが上手だって言われたんだ」と笑っていた。 娘の名前は―― 土屋春奈(つちや はるな)。 そうか。春奈。 達也との婚約を破棄した、あの元恋人。 第3話 スマホの画面が光って、誰かから急かすようなメッセージが届いたらしい。彼は少し焦ったようで、いつもの別れのキスさえ忘れて、軽く私を抱きしめただけで出て行った。 そのとき、彼は無意識に左胸の万年筆を手で押さえていた。 私に気づかれるのが怖かったのか、それとも――私に触れられるのが嫌だったのか。 ドアノブを握る手に力が入り、指の関節が白くなった。 長年の愛がただの欺きだったなんて、信じたくなかった。 けれど、目の前に突きつけられた現実を見ないふりもできなかった。 もっと確かめなきゃと思った。 ドアを開けて後を追おうとしたその瞬間、ドアが向こうから開いた。 達也が戻ってきてた。私がまだ玄関にいるのを見て、少し驚いた顔をした。 「出かけるのか?」 私は二秒ほど言葉を失ったまま、「ゴミを、捨てに行こうと……」と答えた。 彼は私をソファに押し戻した。 「あとでお手伝いさんが来るから、そんなことしなくていい」 何かを忘れたようで、部屋に戻るとすぐに出てきて、また慌ただしく出て行った。 私は今度こそ、その後を追った。 彼はいつもより速いスピードで車を走らせ、私は少し遅れながらもついて行った。 彼の会社近くのマンションに着き、地下の駐車場へと入っていった。 彼は隅のほうに車を停め、降りてすぐ隣の赤いミニクーパーの後部座席に乗り込んだ。 その瞬間、車内では茶色の巻き髪の女が、待ちきれないとばかりに彼の首に腕を回し唇を寄せていた。 私はハンドルを握りしめ、全身がこわばり、呼吸が荒くなった。 二人が絡み合うたびに、車が大きく揺れた。 そのときようやく気づいた。 ――彼がさっき家に戻って、わざわざ取りに行ったもの。 寝室に置いてある、コンドームだった。 達也は決まったブランドしか使わない。 あれはなかなか手に入らないもので、デリバリーでも一時間はかかる。 だから、待てなかったのだ。 私の目の前を堂々と通って、私が買ったそれを持ち出し、別の女と使うために。 達也の手が車の窓に強く当たり、指の関節が浮き上がった。薬指の結婚指輪が私の目に刺さるように光っていた。 私は顔をそむけて涙をぬぐい、ぼんやりと隣の車の空っぽの運転席を見つめていた。 どれほど時間が経ったのか分からない。再び視線を戻したときには、すべてが終わっていた。 女は後部座席から降り、運転席に移った。 白くて、少し紅潮した整った顔立ちを見た瞬間、私は思い出した。 ――この顔、見たことがある。 第4話 三年前、私が達也と結婚した日。 彼女はひとりで隣のホールに座り、私たちの結婚式を最初から最後まで見ていた。 そこで私は達也に尋ねた。 「あの人、あなたの親戚?」彼はちらりとその女を見て、しばらく黙ったあと、「さあ……知らない人だよ」と答えた。 彼女のあまりにも虚ろな表情を見て、私はてっきり失恋でもしたのだと思った。だから、気の毒になって、祝福のキャンディとケーキを分けてあげた。 まさか、その失恋の相手が――私の夫だったなんて。 私は視線を落とし、ふと笑ってしまう。 私が大切にしてきたこの愛は、最初から嘘にまみれていたのだ。 スマホが急に震えた。 画面を開くと、達也のオフィスのデスクの写真が送られてきた。 【馨ちゃん、会社に着いたよ。この書類の山、見えるか?君の旦那さん、もう死にそうに疲れてる。元気を出すためにキスしてくれない?】 私は力が抜け、シートの背にもたれたまま、顔を手で覆って力なく笑う。 ――そうね。確かに、疲れてるでしょうね。 でも、その力を注いでいるのは仕事じゃない。 春奈は車を走らせて出て行った。私もあとを追う。 知るべきことはすべて知ってしまった。もう、尾ける気力もなかった。 それなのに、あの車が偶然にも私と同じ道を走り続けていた。 十字路で信号が赤に変わり、私たちは並んで停まる。 彼女はちらりと私のほうを見た気がする。 信号が青に変わり、私は前を見据えたまま、何もなかったようにアクセルを踏んだ。 数秒後――車体が突然、激しく衝撃を受けた。 頭がフロントガラスにぶつかり、車はそのまま大型トラックに突っ込んだ。 耳を裂くようなクラクションの中で、激しい痛みが私の意識を奪っていった。 第5話 目を覚ますと、全身が痛んでいる とりわけ、腹の痛みがひどかった。 達也がベッドの前に立っている。 無精ひげを生やしたやつれた顔で、目の下には深い影が落ちていた。 かすれた声で、彼が私の名を呼んだ。 「馨ちゃん……」 力が入らず、私はか細い声で尋ねた。 「……どれくらい寝てたの?」 彼は私よりも弱々しい声で答えた。 「一日だ」 たった一日。 その姿を見た瞬間、私はてっきり三日も四日も経っているんだとさえ思った。 彼はゆっくりと私の手を握り、震える声で言った。 「馨ちゃん……無事でよかった…… 本当によかった……俺を置いて行かなくて……」 彼は言葉にならないほど喉を詰まらせ、私の手のひらに顔を深く埋めた。 私は天井の白い蛍光灯を見つめながら、静かに言う。 「でも、あなたは――私を置いて行ったじゃない」 彼は慌てて顔を上げた。 「違うんだ!馨ちゃん、誤解だ、説明する! 彼女はただの友達だ。ちょうど帰国したばかりで、うちの会社に入りたいって言われただけだ! 断ったら、せめてご飯だけでもって言われて……でも何もなかった! 本当に昔の友達なんだ! 聞きたいことがあるなら、直接俺に聞けばいいじゃないか。なんで尾けてまで自分を傷つけるんだ! 俺は絶対に君を騙したりしない!」 彼は理性を失い、稚拙な嘘を並べている。 私は静かに彼を見つめた。もう怒りも悲しみも湧いてこなかった。 ようやく、はっきり分かったのだ。 変わったのではなく――彼は最初から、そういう人間だった。 達也は、生まれながらの嘘つきだ。 この愛は、最初から彼が見せた蜃気楼にすぎなかった。 三年前のあの日、私はなんて愚かな選択をしたのだろう。 でも今、死の淵から戻った私はその過ちを正すだけだ。 激しく痛む腹部を押さえながら、私は一語一語、はっきりと告げた。 「達也、離婚しましょう」 彼の体がびくりと震え、呆然と私を見つめた。 「どうして?」 顔は血の気を失い、額の汗がこめかみを伝い、髪が張りついていた。その姿は壊れそうなほど弱々しかった。 私は小さく息を吐き、手を伸ばして、彼のポケットに指を差し入れた。 指先で軽く引っかけると、ベージュのストッキングが一枚出てきた。 そこには、かすかに残る汚れの跡。 「達也……あなたの芝居、もう昔みたいには上手くないのね」