君のいない世界で、橙は鮮やかに色づく

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君のいない世界で、橙は鮮やかに色づく

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十八歳の誕生日。 転校生の不良少女・上村清良(うえむら きよら)が全校生徒の面前で、伊東礼司(いとう れいじ)に愛を叫んだ。 礼司は眉一...

Chương (1)

第1章

十八歳の誕生日。 転校生の不良少女・上村清良(うえむら きよら)が全校生徒の面前で、伊東礼司(いとう れいじ)に愛を叫んだ。 礼司は眉一つ動かさず、突きつけられたラブレターを冷淡に引き裂く。 「汚ねえな。興味ない」 その言葉に逆上した女は、衆人環視の中で私・坂口橙子(さかぐち とうこ)の胸ぐらを掴み上げた。 「あんたの好きなこの口の利けない女なら綺麗だって?だったら、いっそもっと汚してやろうか!」 「死にたきゃ、やってみろ」 その日の午後、清良は学校から警告処分を受け、炎天下の掲揚台の下で一日中立たされる羽目になった。 それ以来、彼女と礼司は犬猿の仲となった。 彼女は私をいじめて礼司を挑発し、礼司はその倍返しで報復する。 やられたらやり返す。端から見れば賑やかなものだ。 あの日。路地裏で彼女たちが私を囲み、服を引き裂いて動画や写真を撮り始めるまでは。 駆けつけた礼司は、血走った目で狂ったように彼女を男子トイレへと引きずり込んだ…… 第1話 十八歳の誕生日。 転校生の不良少女・上村清良(うえむら きよら)が全校生徒の面前で、伊東礼司(いとう れいじ)に愛を叫んだ。 礼司は眉一つ動かさず、突きつけられたラブレターを冷淡に引き裂く。 「汚ねえな。興味ない」 その言葉に逆上した女は、衆人環視の中で私・坂口橙子(さかぐち とうこ)の胸ぐらを掴み上げた。 「あんたの好きなこの口の利けない女なら綺麗だって?だったら、いっそもっと汚してやろうか!」 「死にたきゃ、やってみろ」 その日の午後、清良は学校から警告処分を受け、炎天下の掲揚台の下で一日中立たされる羽目になった。 それ以来、彼女と礼司は犬猿の仲となった。 彼女は私をいじめて礼司を挑発し、礼司はその倍返しで報復する。 やられたらやり返す。端から見れば賑やかなものだ。 あの日。路地裏で彼女たちが私を囲み、服を引き裂いて動画や写真を撮り始めるまでは。 駆けつけた礼司は、血走った目で狂ったように彼女を男子トイレへと引きずり込んだ。 「撮れよ。別に構わない。 ねえ礼司、私の体で見てない場所なんてないでしょ? 昨日ベッドで約束したじゃない。今回は私の好きにさせてくれるって!」 耳の奥がズキズキと痛む。 それは八歳の時以来、初めて私の世界に届いた「外」の音。 氷の洞窟に突き落とされたかのような悪寒。全身の震えが止まらない。 追いかけっこに興じているうちに、礼司の心はとうに道を踏み外していた。 * 「清良、いい加減にしろ! これ以上やるなら、俺にも考えがあるぞ」 途切れ途切れに鼓膜を叩くその声には、威圧感の欠片もない。 返ってきたのは、少女の鈴を転がすような笑い声だけ。 「考えがあるって、またベッドの上でいじめる気? 礼司ったら、本当に悪い人ね。 大事な『橙子ちゃん』は知ってるの?あんたのそんな顔」 清良は爪先立ちし、礼司の腕に絡みつく。 会話が途絶え、やがて少女の耳障りな吐息だけが漏れ聞こえてきた。 しばらくして、清良の弾むような声が響く。 「今回は私の勝ちね。 次はあの子に何をしてあげようかしら?」 礼司の足音が近づいてくる。 「好きにしろ」 その冷淡な一言が、爆弾のように私の耳元で炸裂した。 私は思わず視線を落とす。足元の景色が涙で歪んでいく。 音が聞こえるというのは、これほどまでに苦痛なことだったのか。 礼司はいつものように、私の頭を撫でようと手を伸ばす。 だが今回、私はそれを避けた。 行き場を失った彼の手が空中で止まり、瞳の奥が揺らぐ。 [怖くないよ] [彼女には俺から罰を与えておいた。もうお前に手出しはさせない] 同じ言葉。もう数え切れないほど聞いた。 けれど清良の報復が止むことはなかった。 節くれだった綺麗な指が、慣れた手つきで手話を紡ぐ。 八歳のあの日、大爆発事故で私の両親は礼司を救うために火の海へ消えた。 両親が焼死する光景を目の当たりにした私は重度のPTSDを患い、一時は五感すべてを失った。 伊東家は恩に報いるため奔走し、私の視力だけは戻った。 その後、礼司は私のために必死で手話を学んでくれた。 あの頃の彼の真心は、今思い返せば笑い話でしかない。 今の私の目に映るのは、礼司の首筋に生々しく残るキスマークだけ。 この瞬間、心の中を照らしていた潔白な「光」は、完全に消え失せた。 私は顔を上げ、強気な眼差しを彼に向ける。 [警察に行く。先生にも言う] 震える両手で必死に訴える。瞳から涙が溢れ落ちた。 礼司は背を向けた私の腕を掴む。そこに私への憐れみはない。 その焦燥の色はすべて、清良のためのものだ。 [もう話はつけた] [清良はこれ以上問題を起こせば退学になる。そうなれば彼女の人生は終わりだ] [それに、事を荒立てるのはお前のためにならない] 彼の手話を冷ややかに見つめる。心が少しずつ死んでいく。 何の反応も示さない私に、礼司は微かな苛立ちを滲ませた。 [全部お前のためなんだ。お前を守るために、俺はあえて清良を手なずけてるんだ。でなきゃとっくに倍返しにしてる!] [もういいだろ、わがまま言うな。もうすぐテストだ、教室に戻るぞ] 私は無意識に拳を握りしめ、心の痛みを爪の痛みに変える。 礼司、あんたは私のためなんかじゃない。 自分のため、そして清良のためにやっているだけだ。 操り人形のように、私は彼に連れられ教室へ戻った。 チャイムが鳴る頃、清良が悠々と現れる。 礼司の横を通る際、彼女の指先が意味ありげに彼の服をなぞった。 その仕草は、あまりに親密で、不気味だった。 試験の最中、突然私の足元に紙切れが投げ込まれた。 背後から清良の声が響く。甲高く、神経を逆なでするような声だ。 「先生、カンニングです」 心臓が跳ねる。反射的に振り返ると、そこには清良がいた。 同時に、私と礼司の視線が空中で交差した。 第2話 試験監督が眉をひそめ、こちらへ歩いてくる。 彼女は屈んで紙切れを拾い上げ、広げて私の目の前に突きつけた。 「あなたのですか?」 私は黙っていた。 「もう一度聞きます。この紙はあなたのもの?カンニングをしたんですか!」 先生の声が荒らげられる。 彼女は他学年の担当で、私のことも、私が耳が聞こえず話せないことも知らない。 怒りを露わにし、携帯電話で担任を呼び出し始めた。 「先生、その子はうちのクラスの『お姫様』なんですよ。 プライドが高いから、カンニングなんて死んでも認めませんよ。 あ、そうそう。それに彼女、耳も聞こえなきゃ口もきけない障害者で……」 清良の言葉に、周囲からドッと笑いが起きる。 顔が一気に熱くなる。私はすがるように礼司を見た。 彼は冷たい表情で清良を睨みつけていた。 分かってる。これも清良の新しい手口だ。礼司との「追いかけっこ」の新章なのだ。 担任が駆けつけた頃には、事態は最悪の空気になっていた。 「伊東さん、坂口さんに聞きなさい。この紙は彼女のものかと」 礼司が立ち上がり、手話で問いかけてくる。 私はただ彼をじっと見つめた。以前の彼なら、教師に合わせて私を尋問したりしなかった。 誰が何と言おうと、私がカンニングなどする必要はないと断言してくれたはずだ。 けれど今、彼は清良のゲームに合わせ、衆人環視の中で私に罪を問うている。 「橙子は……自分のものだと言っています」 礼司は私に背を向け、そう告げた。 その瞬間、心臓に冷たい風が吹き荒れた気がした。 私は言いかけた彼の袖を掴み、期待に満ちた周囲の視線の中で、深く、重く頷いてみせた。 礼司の端正な顔が歪む。 [お前のじゃないだろ、なんで認めるんだ?] 投げやりな私の態度に、彼の中で何かが欠け落ちたようだった。 私は何も答えず、計算用紙にペンを走らせる。 【先生、ごめんなさい。紙は私のものです】 顔面蒼白になった担任に連れられ、私は退室した。 清良でさえ呆気にとられ、立ち尽くしている。私が素直に認めるとは思わなかったのだろう。 礼司の体がわずかに揺らぎ、動揺が見て取れた。 一連の騒動の結果、全科目の成績は無効となったが、担任の必死の擁護により処分は免除された。 オフィスで担任は教頭に対し、私が普段いかに大人しく、優秀かをとつとつと語っていた。 「坂口さんは本当にそんな子じゃないんです。来年の受験でプレッシャーがあったのかもしれません。教頭、どうか記録に残すのだけは…… 反省文を書かせますから……」 廊下でそれを聞きながら、私は日差しを浴びていた。 陽光は暖かいのに、体の芯まで凍えそうだ。 礼司、あんたと彼女のゲームは、私が終わらせてやる。 昼になり、ようやく教室へ戻る許可が出た。 戻るなり、清良が先陣を切って囃し立てる。 「あらあら、礼司のお姫様のお帰りよ。 これでお姫様も前科持ちね。いい子ぶった優等生様じゃいられないわね!」 「いい加減にしろ!」 礼司が勢いよく立ち上がり、私の机の前へ来た。 [大丈夫だ、橙子] [記録に残ったって関係ない。俺たちは留学するんだ、ここの処分なんて痛くも痒くもない] 彼は私を慰めている。これまで清良にいじめられた時と同じように。 以前なら、私はそれに感動していただろう。 彼が清良と揉めないよう、私が我慢すればいいと自分に言い聞かせただろう。 だが今ならわかる。これもすべてゲームの一環だ。 私は機械のように無表情に頷いた。 試験の二日間は、嵐の前の静けさのように過ぎた。 最終日の午後、私は礼司に尋ねた。 [まだ私と一緒に大学へ行きたい?] 彼は一瞬呆気にとられ、すぐに返した。 [当たり前だろ、俺たちの約束だ] その返答はあまりに早く、自然で、欺瞞の欠片も見当たらないほどだった。 私は頷き、担任の元へ向かった。 志望校の申請用紙をもらい、そこに東都市の大学を二つ記入した。 【伊東さんと留学するんじゃないの?】 私は首を振る。 【もう一緒には行かない】 私と礼司は、もう別の道を歩んでいる。 彼は、私とは違う、華やかで生命力に溢れた清良に恋をした。 認めたくはないが、彼の心はとっくに変わってしまったのだ。 もしかしたら、告白されたあの日から、彼の心は揺らいでいたのかもしれない。 角を曲がったところで、清良の弾んだ声が聞こえた。 「ねえ、今日は一緒に買い物行きましょ! あんな不自由な女のことなんて放っといてさ、ねえってば!」 足音が遠ざかるのを確認し、私は外へ出た。 その瞬間、頭から麻袋を被せられた。 「んっ!」 湿った場所へと引きずり込まれる。耳元で清良の声がした。 「やっちまいな!こいつは耳が聞こえないし、誰だかわかりゃしないわ! それにこの口じゃ、助けも呼べないしね!」 第3話 清良は私が聞こえないと思い込み、傍らで汚い言葉を吐き散らかしている。 「礼司を独り占めしやがって、この役立たずが! 十年前の爆発で死んでりゃよかったのよ!」 十年前の事故のことは、誰も知らないはずだった。 礼司が彼女に話した。 涙が溢れ出し、酸欠のような苦しみが胸を切り裂く。 背中に棒が振り下ろされ、肋骨が砕けるような鈍い音が体内で響いた。 悪臭を放つ冷水が、次から次へと浴びせられる。 清良は私を引きずり、袋を被せたまま頭をトイレの汚水タンクへと押し込んだ。 鼻を突く悪臭に意識が遠のく。必死にもがき、叫ぼうとするが、手足は屈強な力で押さえつけられている。 「礼司……」 口から漏れたのは不明瞭な音だったが、無意識に彼の名を呼んでいた。 廊下から足音が近づいてくる。 次の瞬間、礼司の声がした。 「今夜は付き合ってやる。 言っとくけど、最近あいつ情緒不安定なんだ。あんまり刺激すんなよ」 その声には冷酷なまでの無関心さが漂っていたが、清良は怯むどころか笑い飛ばした。 「礼司ったら、あなただって楽しんでるくせに」 礼司は冷ややかな目で、清良の背後でもがく人影を一瞥した。 「いじめるのも程々にしろ。大事になったら誰も庇いきれないぞ」 「礼司がいるじゃない」 清良は跳ねるように礼司の懐へ飛び込み、強引に口づけを交わす。 そして、礼司は去っていった。 囃し立てる声が響く中、礼司はもう一度だけ、汚水タンクの縁で揺れる私の足を見た。 「行くぞ」 彼は抱きついた女を引き剥がし、振り返ることもなく出て行った。 清良は顔を出し、取り巻きたちに後始末を命じる。 「まったく、礼司ってばツンデレなんだから。最初から相手してくれるって言えば、こんなことしなくて済んだのに。 手が汚れちゃったじゃない? 私は先に行くから、あとはよろしく」 取り巻きたちが笑いながら同意する。 「あんな喋れない女より、男なら誰だって清良を選ぶよ」 連中は笑いながら、パラパラと散っていった。 あとに残ったのは水滴の落ちる音だけ。それが私の心を穿つように響く。 私は汚れた床に崩れ落ちる。全身が押し潰されたように痛んだ。 視界の隅でスマホが光った。通知画面に並ぶ文字の一つ一つが、鋭い棘となって心臓を突き刺した。 【橙子、今夜は先に帰っててくれ】 まぶたが重くなる。視界が闇に沈んでいく。 その瞬間、私はまるで十年前の爆発の中に放り込まれたような感覚に陥った。 十年の歳月が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。礼司の誓いの言葉が耳元で蘇る。 「橙子ちゃん、俺がお前の目になり、耳になり、口になる。俺が世界を見せてやる」 「橙子ちゃん、俺がお前の通訳になってやるから」 「一生、お前を守るから」 ……嘘つき。 意識が戻りかけた時、言い争うような喧騒の中で、礼司の声が聞こえた。 「恩返し、恩返しって……俺の十年をあいつに捧げても、まだ足りねえのかよ! 一生あんな口もきけねえ、耳も聞こえねえ女の介護させられる身にもなれよ!俺には自分の人生を生きる権利もないのか! こんなことになるなら、俺があの爆発で死んでた方がマシだ!」 自分の心臓が止まる音がした。 掌に爪が食い込む。痛みだけが、現実だった。 「なんてことを言うの!亡くなった橙子ちゃんのご両親に顔向けできると思ってるの! もしあの子に聞こえていたら、どれほど傷つくか……!」 礼司の母・伊東幸枝(いとう ゆきえ)が、悲痛な面持ちで息子を叱責する。 「『もし』なんてねえよ。あいつには聞こえねえ。一生聞こえないままだ!」 パァン! 乾いた音が響く。平手打ちだ。 「上村清良とかいうあの女ね!あんな性根の腐った子と付き合うのは許さないぞ! これ以上続けるなら、明日にも海外へ送り出すからね!」 礼司の父・伊東史朗(いとう しろう)が手を上げたのだ。 だが、脅しも警告も暴力も、礼司の心を縛ることはできなかった。 彼は冷ややかに嘲笑う。その目はどこまでも冷たい。 「付き合って何が悪い?この十年来、俺に『生きてる』って実感を……世界はこんなに色鮮やかなんだって教えてくれたのは彼女だ。 父さんたちと、そしてあいつと一緒にいる限り、俺の世界は永遠に灰色なんだよ!」 礼司が両親と喧嘩するのを初めて聞いた。 そして初めて、彼の本音を聞いた。 そうか。この十年間、彼は私のせいでそれほど辛い思いをしていたのか。 目尻から涙が伝う。その瞬間、私の心は完全に死んだ。 病室に静寂が戻る。 翌日、目を覚ますなり私は退院の手続きをした。伊東夫婦は礼司の話を避けた。 私もまた、暗黙の了解で何も触れなかった。 いじめの件で学校に乗り込もうとする彼らを、私は止めた。 自分の手で片付けなければならないことがある。 清良。あんただけは、絶対に許さない。 礼司が一週間も帰ってこない。幸枝が躊躇いがちに私の前に立った。 [橙子ちゃん、礼司を探しに行ってくれないかしら?] その名前が、ひどく他人のもののように感じられた。 私は顔を上げ、従順な人形のように頷いた。 金曜の放課後。学校近くのバーが並ぶ路地裏で、たむろする群衆の中に礼司を見つけた。 白いシャツの彼は、不良たちの中でひどく浮いて見えた。 煙草の煙が漂う中、路地の入り口に立つ私と礼司の目が合った。 彼の手から煙草が落ち、灰が舞う。彼は反射的にそれを踏み消し、こちらへ歩いてきた。 第4話 [なんでここに?] 酷い暴言を吐いた自覚があるのか。私が聞こえないと知っていても、彼は気まずそうに視線を逸らした。 私は何事もなかったように振る舞い、ティッシュで彼の服についた灰を払う。 [お母さんが心配してる] 事実だけを伝えた。余計な感情は乗せない。 礼司が綺麗な眉を顰め、何か言いかけようと手を上げた時、背後から清良の声が飛んできた。 「ちょっと礼司、行かないでよ! あんた、その口の利けない女と何話すことがあるわけ?」 私は体側で拳を握りしめ、震える手で礼司の袖を掴んだ。 [帰ろう] 礼司は板挟みになり、困り果てた表情を浮かべた。 [橙子、先に帰っててくれ。夜には帰るから] 彼は私の指を一本ずつ引き剥がし、宥めるように頭を撫でようとした。 私はまた、それを避けた。 礼司の瞳に深い憂色が宿る。喉仏が動いたが、結局何も言わなかった。 [礼司、私は清良が嫌い] [もし今日礼司が行くなら、私たちはもう二度と会わない] 初めて突きつけられた絶縁の言葉。礼司は驚愕し、目を見開いた。 [よせよ、お前はずっと聞き分けのいい子だったじゃないか] [清良はそんなに悪い奴じゃないんだ。ただちょっとヤンチャなだけで……] 「いい子」、「聞き分けがいい」。それは礼司が私を縛り付ける呪いの言葉。 今となっては、二択の末に私を切り捨てるための、都合のいい言い訳にすぎない。 あまりに皮肉だ。 私は力なく口角を上げ、小さく頷くと、迷いなく礼司の手を離した。 手の平から温もりが消える。礼司は虚ろな目で、私の華奢な背中を見つめていた。 背後では清良がヒステリックに「行かないで」と叫んでいる。 ついに礼司が忍耐を切らし、「いい加減にしろ!」と怒鳴る声がした。 車の中でバックミラー越しに揉み合う二人を見つめながら、私は微かに笑った。 数分後、礼司が車に乗り込んできた。 [行こう、家へ] バックミラーの中、清良が地団駄を踏んで泣き叫んでいるのが見えた。 私が勝った。清良。 * 清良の報復は迅速だった。翌日、クラスのグループチャットが爆発した。 【うわ、これ例の『お姫様』じゃね?】 【ヤバ、露出度高すぎだろ!普段ツンとしてるくせに裏ではこんなことやってんの?】 【エッロ!抜けるわー!もっと貼れよ!】 見るに堪えない写真や動画が、一夜にして学校中に拡散された。 私は車の中でリュックを抱え、流れるチャットログを見つめながら、全身の震えを抑えていた。 [どうした?] 礼司がドアを開け、不思議そうに覗き込んでくる。 私は彼に見られる前に画面を消した。 [ううん、なんでもない] 何事もなかったかのように、いつものように礼司と校門をくぐる。 周囲のひそひそ話や好奇の視線。すべて聞こえないふり、見えないふりをした。 だが礼司は違う。数歩歩くたびに振り返り、みるみる顔色を悪くしていく。 教室に着くや否や、彼は無言で清良の手首を掴み、連れ出した。清良はずっと泣いていた。 「私じゃない! 本当に私じゃないの、信じてよ!」 誰も信じない。礼司は尚更だ。 清良が私を見る目は、生きたまま私を食い殺そうとしているようだった。 彼女は再び仲間を連れて、私を女子トイレに追い詰めた。今回はもう、猫被りをかなぐり捨てていた。 「あの写真が私がやったんじゃなくても、見てて気分がいいわ! あんたのその澄ました高慢なツラ、見てるだけで吐き気がするのよ! 裸見られて、まだそんなプライドがあるわけ? 礼司とのゲームの内容、教えてあげようか?『どっちがあんたを先に泣かせるか』よ!あいつが一番嫌いなのは、その能面みたいな無表情なの! 私があんたをいじめるたび、あいつは喜んでたわ!だってあんたは足手まといで、お荷物で、厄介者なんだから!」 ビリッという音と共に、制服がまた引き裂かれる。 自分が厄介者だなんて、とっくに知ってる。 でも他人の口から聞かされる言葉は、釣り針のついた棘のように心を抉る。 覚悟していたはずなのに、涙が勝手にこぼれ落ちた。 人の心は変わりやすい。でも礼司だけは例外だと思っていた。 けれど彼は、誰よりも残酷で、誰よりも私を絶望させた。 痛みが増し、私は床にうずくまる。 礼司が女子トイレに飛び込んできたのはその時だった。 「クソが!」 怒号と共に清良を突き飛ばし、私を抱き寄せる。 その腕は相変わらず温かいのに、私には何の温度も感じられなかった。 涙が止まらず、彼の胸を冷たく濡らしていく。 礼司の声が震えている。 「清良、ゲームオーバーだ。 こいつに何かあったら、お前の命はないと思え!」 礼司は私を抱き上げようとした。 私は手を伸ばし、彼の胸を押し返した。 拒絶。 首を振りながら後ずさる。涙が顔中を覆う。 [私とあんたも、これで終わり] [私が足手まといだと言ったのね。安心して、これからはもう邪魔しないから] 誰も反応できない隙に、私は踵を返し、一直線に窓へと走った。 迷いなく、三階の窓から身を投げた。 「橙子!」 ドンッ、という鈍い音。 誰もが顔を覆い、後ずさりする。 礼司の心臓は、胸を突き破るほど激しく鼓動していた。 私は再び入院し、礼司は私の荷物を整理するために学校へ戻った。 彼は私の鞄の中から大学の志願票を見つけ、そこに書かれた「東栄大学」の文字を見て硬直した。 震える手で志願票を掴み、担任を問い詰める。 担任の先生はそれをちらりと見た。 「ああ、坂口さん、留学はしないそうよ。 聞いてなかったの?」 その時、彼の携帯がけたたましく鳴った。 「礼司!橙子ちゃんが……橙子ちゃんが聞こえるようになったって! 医者の話じゃ、とっくに聴力は回復してたらしいのよ!」 電話口の声は喜びに満ちていたが、礼司は携帯を握りしめ、指先を白く震わせていた。 何か決定的なものを失ったかのように、心にぽっかりと風穴が開いた気がした……