過ぎ去った時間は戻れない

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過ぎ去った時間は戻れない

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業界の誰もが知っている。御曹司・細川裕司(ほそかわ ゆうじ)は独占欲が強く、何よりも恋人を見せびらかすのが好きな男だ。 だが、伊佐山晴...

Chương (1)

第1章

業界の誰もが知っている。御曹司・細川裕司(ほそかわ ゆうじ)は独占欲が強く、何よりも恋人を見せびらかすのが好きな男だ。 だが、伊佐山晴美(いさやま はるみ)が拉致事件に遭ってから、彼はようやく愛する人を人目に触れずに守るべきだと思い知らされた。 それ以来、彼の執着は病的なものへと変わっていった。 晴美がトラウマで失語症を患うと、裕司は世界トップクラスの心理療法士を自宅に呼び寄せ、彼女の治療に専念させた。 晴美が外出を望めば、彼女のために設備の整った城を一から建て、まるで小さな都市のような新居を作った。 皆が噂した――裕司は、言葉を失った愛する妻を軟禁しているのだと。 けれど晴美だけは信じている。彼がそうしてしまったのは、あの事故のせいで、ただひたすらに失うことを恐れているからだと。 丸五年もの間、彼女は彼の完璧すぎる守りの中で、外の世界と切り離されて生きてきた。 失語症が治ったことに気づいたその日、晴美は初めてこっそりとあのお城を抜け出した。 会社へ向かうタクシーを拾い、裕司を驚かせようと思っていた。 だが、市の中心部に入ったところで、警察に呼び止められてしまった。 第1話 夫に閉じ込められてお城で生活して五年目、伊佐山晴美(いさやま はるみ)は偶然、夫が外に自分の身代わりを見つけたことを知った。 その身代わりは晴美とよく似た容姿で、妻として公の場に姿を見せ、つまり晴美を守る盾のようなものだという。 晴美の最初の反応は、信じられないというものだった。 細川裕司(ほそかわ ゆうじ)は極端なまでに独占欲が強く、彼女が外出することすら許さないほどの執着ぶりだ。そんな彼が身代わりを用意するなんて、どう考えてもあり得ない。 ちょうどその頃、長らく続いていた失語症が思いがけず治ったことに気づき、晴美はそれを口実に、五年ぶりに厳重に閉じ込められたお城を抜け出すことにした。 彼女はタクシーを拾い、裕司の会社へと向かい、真相を確かめようとした。 だが、市の中心部に入ったところで、警察に行く手を遮られた。 「本日、細川社長が全ての幹線道路を貸し切って、世紀の結婚式を挙げています。関係者以外は迂回してください」 晴美は戸惑いの表情を浮かべた。「どの細川社長ですか?」 「田舎者だったのか?もちろん細川裕司若様に決まってるだろ!」 警察は怪訝そうな顔で彼女を見つめた。 「細川社長は奥さんと五年前にすでに婚姻届を出してるんだが、式は五十二回も延期されていてな。今回は細川社長が特別に市全体の警備を動員して、万が一のことがないよう厳重に護衛してるんだ……」 その言葉はまるで雷鳴のように晴美の耳を打ち、頭の奥まで痺れるような痛みが走った。 結婚式? 裕司からそんな話、一言も聞いていない。 この一週間、彼はずっと会社の仕事で忙しいと言い続け、家に帰る暇さえなかった。 胸の奥で、疑念が静かに広がっていく。 これまで裕司が何度も結婚式を延期してきたのは、いつも式の前日に彼女が事故に遭っていたからだった。 1回目、結婚式の前夜、彼に甘い言葉でなだめられ、ちょっとだけ遊ぼうと言われたはずが、結局はジェルを十本も使い果たしてしまい、そのせいで結婚当日の朝は寝過ごしてしまった。 2回目、結婚式の朝に飼い犬が突然死してしまい、予定されていた結婚式は葬儀へと変わった。 そして52回目の結婚式では、彼女を式場へ送るためのウェディングカーが事故に遭った。彼女は全身に二十二か所の骨折を負い、三度も救急救命室へと運ばれる重体に陥ったが、辛うじて一命を取り留めたのだ。 「見て!細川社長と奥さまが来た!」 報道陣が溢れる通りを隔てて、晴美の目に、向こうから近づいてくる華やかなパレード車の上に、彼女が誰よりもよく知る、凛とした姿が立っているのが映った。 裕司は完璧に仕立てられたスーツに身を包み、自信に満ちた表情を浮かべている。 その隣には、彼の腕にしっかりと手を添える女性がいた。彼女が身にまとっているのは、かつて晴美が自らデザインしたウェディングドレスだ。 そして、その女性の顔は、自分と実によく似ている。 「キスして!キスして!」 野次馬たちが一斉に囃し立てる中、裕司は目を細めて笑い、ためらうことなく隣の女性の唇に身をかがめて口づけた。 周囲は瞬く間に歓声に包まれたが、晴美の世界だけが一瞬で音を失ったようだった。 「あ……」 唇が微かに動いた。遠くにいる裕司を呼び止め、いったい何が起きているのか、あの女は誰なのか――問い詰めたいと思った。 しかし、失語症が再発し、言葉は喉の奥に詰まったままだった。 現場の喧騒はあまりにも激しく、彼女のか細い嗚咽はすぐに飲み込まれてしまった。 人が多すぎてごった返しの中、晴美は人混みの端に離されて、結婚式のすべてを見届けることになった。 裕司が花嫁にキスをし、司会者の前で永遠の愛を誓い、ペアの指輪を交換するのを、彼女はただ見ているしかなかった。 すべてのプロセスは、彼ら二人が当初計画していた結婚式とそっくりそのままだった。 ただ一つ違っていたのは、新婦が彼女ではないということだけ。 目の前の光景があまりにも眩しく、晴美の目からは痛みに耐えきれず涙がこぼれ落ちた。 裕司の瞳に宿る愛情は、偽りではない。 ましてや、その優しく甘やかな眼差しは、かつては彼女だけのものだった。 ぼんやりとした意識の中で、晴美は五年前の出来事を思い出した。 拉致事件に遭って以来、彼女は心的外傷による失語症を患い、裕司は世界屈指の心理士を自宅に招き、彼女の治療に専念させた。 さらに裕司は、彼女のために設備の整ったお城を建て上げた。それはまるで小さな町のようなものだ。 世間では皆、裕司が口のきけない愛人を軟禁状態にしていると言っている。 だが晴美はずっと信じていた。彼はただ、一度の事故をきっかけに、失うことを極端に恐れるようになってしまったのだと。 丸五年もの間、晴美は裕司の徹底した守りのもと、外の世界から孤立した生活を送っていた。 だが――あの時、自ら守ると約束したのも裕司だった。 そして今、身代わりを用意して裏切ったのも彼なのだ。 裕司が新婦の手を引いて細川グループの本社ビルに入っていくのを見て、晴美は目を赤くしながら、そっとその後を追った。 社長室の前で、半開きのドアの隙間から、裕司と連れの友人たちの会話が聞こえてきた。 「お前、前にわざと事故を起こして結婚式を延期させたよな。あの時なんて、晴美さんを死の淵まで追いやったじゃないか。今日、身代わりと式を挙げるって知ったら、彼女、本当にお前のもとを去るかもしれないぞ?」 「なら、一生内緒にしておくさ。 お城の中に届く情報は、すべて俺が確認したのだ。彼女は何も知らないままだ。これからもずっとお城の中で大人しく過ごし、俺の姫様でいてくれればいい」 裕司は煙を吐き出しながら、ゆっくりと指先の煙草の火を消し止めた。 「それに、結婚式のように人前に出る行事じゃ、晴美が誰かに狙われる可能性だってあるさ。本当に危険だよ」 その何気ない口調が、晴美の胸を鋭く突き刺した。 直ちに、彼女の血の気が引き、四肢の先まで氷のように冷たくなった。 あの数々の事故は、すべて彼女が最も愛した夫の仕業だったのか。 彼の言う守るという言葉は、愛を名目にした支配だった。 オフィスの中では、会話がまだ続いている。 「……お前は嫁さんをお城に閉じ込めたのは守るためだと言ったが、本当のところは、あの拉致事件で彼女が一晩中辱めを受けたことを、どうしても忘れられないからじゃないのか?」 心の奥底に埋められていた痛みが掘り起こされ、晴美の心は引き裂かれるように血肉が滲むほどだ。 オフィスの空気は、長い間沈黙に包まれた。 息が詰まりそうなほどの沈黙だった。 しばらくして、裕司はかすれた声で答えた。 「そうだ、俺は気にしてるんだ。 でも、俺は晴美を深く愛している。彼女を守るのは、罪悪感だけじゃない。子どもの頃から身に染みついた習慣なんだ。 晴美が表に出て、穢れた者だと噂されるくらいなら、替え玉を正妻として仕立て上げ、あの汚らわしい噂はすべてそちらに引き受けさせた方がましだろう」 その正義ぶった言葉を聞いた瞬間、晴美はふっと笑った。 笑いながら、気づけば目に涙がにじんでいた。 五年前、彼女は裕司に弁当を届けに行く途中で拉致された。 裕司のビジネス上のライバルは、彼女の命と引き換えに、細川グループの千億規模のプロジェクトを要求してきたのだ。 あの夜の穢れは、たとえ雨が降ろうと決して洗い流されることはない。 傷だらけの彼女が逃げ出したときに身に付けていたのは、男物の服一枚だけだった。 誰も彼女の潔白を信じようとはしなかった。 失語症で言葉を発せない彼女は、涙に濡れた目でただ首を振ることしかできなかった。 その必死の否定も、裕司の目には無言の肯定と映った。 いつも冷静で自制心の強い男が、狂ったように彼女を抱きしめ、ごめんと何度も繰り返した。 彼は言った――彼女は自分の中で永遠に清らかで汚れのない存在だと。 そして、これから一生大切に守り抜くと。 だが今、裕司は愛していると口にしながら、世間に出せない彼女をあのお城に閉じ込め、外の世界へ出せないようにした。 結局のところ、最初から最後まで、裕司は彼女を信じていなかったのだ。 彼は彼女を穢れていると軽蔑している。 晴美は背を向けると、逃げるようにその場を離れた。目にたまっていた涙がついにあふれ出し、腕を伝って落ちるたびに、熱く感じられた。 裕司が人前で代わりの女を傍に置くというのなら、もう彼の歪んだ愛など欲しくはない。 隠し通すことが得意な男なのだろう? ならば、失語症が治ったことも、身の潔白の真実も、もう彼に告げる必要はない。 第2話 細川グループ本社ビルの外では、夜空に次々と華やかな花火が打ち上がった。それは、かつて晴美が好きと口にした種類のものばかりだ。 次の瞬間、ポケットのスマホが突然バイブした。 画面には裕司からのメッセージと、高層階の大きな窓から撮られた花火の写真が添付されていた。 【晴美、今夜は花火大会だ。きれいだろ?】 【会社の仕事でまだ忙しいけど、お前に会いたい。今夜サプライズも用意したよ】 スマホを握る晴美の手に力がこもり、胸の奥がぎゅっと痛んだ。 この五年間、裕司はいつもこんなふうに、まめに連絡をくれて、彼女に安心を与えてくれていた。 もし今も何も知らないままだったなら―― きっと彼のこのメッセージだけで、一日中幸せな気持ちでいられるのだろう。 けれど今の彼女は、すべてを知っていた。 この五年間、裕司がかけてくれた甘い言葉のうち、いったいどれが本当で、どれが嘘だったのか。 考えることすら恐ろしい。 晴美はメッセージに返信はせず、代わりにスマホを持ち上げて一つの番号へ電話をかけた。 相手はほとんど瞬時に出て、低くて魅力のある声が受話器越しに響く。 「おやおや、伊佐山お嬢さん、自らご連絡とは。あの狂気じみた旦那に嫉妬されるのが怖くないのか?」 「冗談はいいから、一週間後、私の誕生日に、死を装うための段取りを頼む」 裕司の宿敵・平山圭司(ひらやま けいじ)は、明らかに一瞬言葉を失った。 「お前は裕司の最愛の人だろう?あの小山巧美って女はただの社長補佐に過ぎない。お前の細川夫人の立場を脅かす存在じゃない。そこまでして、なぜなんだ?」 彼の声には、さらにからかうような色が混じった。 「五年前、犯人からお前を助けたのは義理ってやつだ。だが今回はリスクが大きすぎる。俺にどんな得がある?」 晴美の声はかすれていたが、その口調は驚くほど冷静沈着で淡々としていた。 「あなたも知ってるでしょう。私は細川グループの二番目の株主よ。私名義の四十パーセントの株を、すべてあなたに譲るわ」 圭司は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに口元をゆるめて笑った。 「いいだろう。成約だ。七日後、迎えに行く」 電話を切ると、晴美は正面の大型スクリーンを見つめた。 そこに映っているのは、細川夫妻の結婚写真。だが、その花嫁は彼女ではない。 小山巧美(こやま たくみ)という女は、体つきも顔立ちも、あまりにも彼女に似すぎている。 裕司が以前、会社の話をしていたとき、確かにその名前を口にしていた。 あの夜もそうだった。深夜、接待を終えてお城に戻ってきた彼のシャツの襟にはファンデーションがつき、身体からはかすかに慣れない香水の匂いがした。 そのとき、晴美は初めて胸の奥に疑いを抱いた。 けれど裕司は、彼女の前にひざまずき、天に誓うように絶対に裏切らないと言い切った。怒って背を向けた彼女を、子どもをあやすように何度も抱きしめて宥めた。 彼の話では、新しく雇った社長補佐はとても有能で、簡単にはクビにできないそうだ。 二人はただの上司と部下の関係だと彼は言った。 晴美は心の底から、疑うことなく信じた。 この五年間、彼女の世界には裕司しかいなかった。 彼が浮気するなんて、一度も考えたことがなかった。 だが今から思えば、彼女はただの阿呆で、彼の思惑通りにいいように踊らされていたのだ。 「細川夫人、ご主人から五年間も違法に監禁されていたとの噂がありますが、本日こうしてご登場され、それについてどのようにお考えですか」 その時、突然、どこからともなく記者たちが押し寄せ、晴美をぐるりと取り囲んだ。 黒々としたカメラのレンズとマイクが一斉に彼女へ向けられ、マイクは今にも顔に触れそうなほど近い。 長い間外の世界と接していなかったせいか、晴美の喉はきゅっと詰まり、しばらく声が出なかった。 周囲には見物人がどんどん集まり、指を差しながらひそひそと囁く。 「細川社長は奥さんをお城に五年も閉じ込めてたんだってさ。名門がこっそり愛人を囲ってるのと何が違うんだ?もしかして外にも別の女がいるんじゃない?」 「しっ、声が大きい!前にそんなこと言った人、舌を切られたって噂だよ」 「そうそう、細川社長って業界でも清廉潔白で有名なのよ。あんなに一途な男が浮気なんてするわけないじゃない。ウェディングフォト見たか?細川夫人の首にキスマークがあったのよ。ファンデでも隠せないくらい濃いやつ……」 晴美は爪が掌に食い込むほど力を込めたが、痛みはまるで感じなかった。 裕司はやっぱり外では社長補佐を愛人扱いし、本当の妻を家に閉じ込めていたのだ。 他人には一目でわかる真実を、彼女は五年もかけてようやく見抜いた。 「細川グループの入り口で騒ぎ立てて……ここを市場と勘違いしているのか?」 その瞬間、ざわめいていた人々が一斉に息を呑み、道を開けた。 裕司が大股で歩み寄り、冷ややかな視線を記者たちに向けた。 その場にいた全員が冷や汗をかいた。妻を溺愛するあの男が激怒し、今すぐにも自分たちの口を縫い合わせるんじゃないかと恐れたのだ。 空気が一瞬で凍りつく。 安堵の感情が反射的にこみ上げ、晴美は思わず男に助けを求めるような視線を向けた。 だが次の瞬間、裕司の目は氷のように冷たく彼女を刺した。 「取材相手を間違えている。彼女は俺の妻じゃない」 第3話 「隣にいるのが、俺の妻だ」 裕司はぐいと巧美を抱き寄せ、さっきまで冷たかった声が一瞬で柔らかくなる。 「伊佐山家のお嬢さん、伊佐山晴美こそが本物の細川夫人だ。 そして――」 驚きの視線を無視して、裕司は一拍置き、顔面蒼白の晴美をちらりと見やった。 「彼女は俺の社長補佐で、小山巧美だ。ただ妻に似ている身代わりだ。 そばに置いて遊んでるだけさ。目の保養にはなるけどな」 その言葉が落ちた瞬間、場内がざわめきに包まれた。 説得力を増すかのように、裕司は突然身をかがめ、巧美に深く口づけた。 記者たちに見せつけるように。 二人の唇と舌が絡み合い、とろけるような淫らな糸を引いていた。 晴美は信じられないままその場に立ち尽くし、まるで雷に打たれたようだった。 だが、憎らしい失語症が喉を締めつけ、反論も問い詰める言葉も出てこない。 巧美は挑発的な視線で彼女を一瞥して、笑みを浮かべた瞳には隠しきれない得意が滲んでいた。 「裕司、ここ風が強いわ。帰りましょう?」 頬の紅潮がまだ引かず、巧美は甘えるように裕司の腕に絡みつく。 「昨夜は夜中まで私を相手にしてくれたでしょ?そのあと身体まで拭いてくれて、自分は一晩中眠れなかったのに……もう風邪ひいちゃうわよ」 巧美の言葉には、どこか誇らしげな響きがあった。 二人が去る直前、晴美はふと裕司と一瞬だけ視線を交わした気がした。ほんの一瞬、彼の漆黒の瞳に、言葉では言い表せないような謝罪の色が浮かんだ。 野次馬たちは気まずそうに顔を見合わせ、去っていった。 中にはわざとらしく大声で話す者もいる。 「どうせあの女、自分から細川夫人に似せて整形したんでしょ?体でのし上がったんだよ、汚い女、ほんとに恥知らず……」 悪意の視線が雨のように降り注ぎ、無数の鋭い針となって、晴美の傷だらけの心を容赦なく突き刺した。 晴美の目が一瞬で赤くなり、唇の端に自嘲の笑みが浮かんだ。 あの拉致事件の後、彼はこれまでと普通通りに接すると、あれほど強く誓ってくれたというのに。 なのに今、裕司は守るという芝居のために、わざと事実をすり替えている。 ありもしない罪を、彼女の頭にかぶせたまま。 ドンッ! 突然、晴美のすぐそばで、ガス漏れで爆発が起こった。 熱い炎が一気に立ち上り、灼けるような熱風が彼女の腕の肌を焼く。瞬く間に広がる水ぶくれが目に痛いほどだった。 「火事だ!逃げろ!」 人混みは一斉に混乱し、四方へと散り逃げた。 押し合いへし合いの波に押し流されて、晴美は地面に倒れ込んだ。 火傷した手が地面に擦れ、血が滲み出る。痛みが骨の髄まで突き刺さった。 慌てふためく人々の足が、次々と彼女の細い体を踏みつけていく。 涙で滲んだ視界の先――裕司が少し離れた場所で立ち止まり、何度も振り返っている。 晴美は彼の名を呼ぼうとした。 けれど、再発した失語症が彼女の声を奪い、助けを求める声は喉に引っかかったまま出てこない。 声帯が裂けそうなほど痛むのに、漏れたのはかすかな息の音だけだった。 その時、巧美はわざと足首を押さえ、甘えた声で叫んだ。「裕司、足をひねっちゃったの、すごく痛い!」 その声が、裕司の注意を一瞬で奪った。 彼は勢いよく巧美を横抱きにし、瞳の奥に焦りと心配の色が浮かんだ。 まるで、かつて拉致された晴美を見つけた時と同じようだ。 「道を開けろ!けが人だ!」 晴美の全身に痛みが走り、心臓までもが無数の針に刺されたように疼いた。 彼女の視線は、裕司の背中を必死に追い続ける。 ぼんやりとした意識の中で、彼の姿が、記憶の中でいつも自分を守ってくれた少年の影と重なった。 高校時代、裕司は晴美をいじめた不良少女に復讐したため、校外の青年たちに殴られ、左手を骨折したことがあった。 彼女がバカと責めたとき、彼は笑いながら彼女の涙を拭い、「晴美、泣くなよ。俺は痛くない」と言った。 五年前、彼はたった一人で拉致犯の拠点に駆けつけ、全身傷だらけになりながらも歯を食いしばって彼女を背負った。怖がるな、俺は絶対にお前を一人にはしないと言った。 でも、裕司――あなたは約束を破った。 最初から最後まで、彼は彼女が怪我をしていることに気づかなかった。視線さえ一度も向けなかったのだ。 晴美はふらつきながら人混みをかき分け、通りすがりの人を呼び止めて、必死に手話で救急車を呼んでほしいと伝えようとした。 だが次の瞬間、誰かに乱暴に突き飛ばされた。 「汚いな!どけよ!」 ガラスに映った自分の姿を見て、晴美はようやく気づいた。 顔中が埃にまみれ、高価な服もすっかり汚れてしまった。 彼女は唇をぎゅっと噛みしめ、こらえきれない涙がぽろぽろと落ちた。悔しさとやりきれなさが一気にあふれ出し、心の糸がぷつりと切れた。 誰もが、声を出せない彼女をいいように扱っていた。 そのとき、背後から裕司の焦った呼び声が響く。 「晴美!」 晴美はわざと聞こえないふりをして、一台のタクシーを止めた。 甲高いブレーキ音とともに、黒いマイバッハが目の前にぴたりと止まった。 裕司は長い脚で運転席から降り、自分のジャケットをそっと彼女の肩に掛けた。 「まず車に乗って。話がある」 第4話 「ごめん、さっき巧美がケガして……焦ってて、お前がいるのを忘れてたんだ……」 裕司の腕が晴美の腰をしっかりと抱き寄せ、温かな掌が彼女の腰に触れた。 まるで宥めるようでもあり、当たり前のように自分のものだと主張しているようでもあった。 彼は慎重に彼女の体を確かめ始める。その仕草は、まるで昔の彼そのものだ。 「どこか痛めてない?今すぐ家に連れて帰るから」 晴美はそっと傷ついた腕を隠し、目を赤くしながら首を横に振った。 距離は近いのに、心だけがこんなにも遠くに感じたのは初めてだ。 彼女が助手席のドアを開けたときには、すでに巧美がそこに座っていた。 「あらやだ、うっかり裕司さんの奥さん専用シートに座っちゃったみたい。でも晴美さんは普段ほとんど外に出ないんでしょう?気にしないですよね?」 彼女は舌をちょこんと出しておどけてみせたが、席を譲る気配はまるでなかった。 「大丈夫、彼女は気にしない」 晴美が首を振るより早く、裕司が先に答えた。 彼は後部座席のドアを開け、優しく宥めるように言った。 「巧美はいつもわがままに育ったから、今回は足をくじいて動くのも大変なんだ」 晴美は何も言わず、静かに後部座席に腰を下ろした。 「晴美、彼女とはただの演技だ。嫉妬する必要なんてない」 裕司は気もそぞろにハンドルを握り、バックミラー越しに何度も彼女を見やった。 「外にお前を狙う男はうようよしている。俺は心配でたまらない。だから、彼女を盾にさせてもらうのが一番安心なんだ、わかるだろ?」 裕司が説明を重ねるたびに、晴美の胸はさらに痛んだ。 彼女は以前のように手話で返すこともせず、ただ黙り込んでいる。 巧美も口を挟んだ。 「そうよ、私は走ることも叫ぶこともできる健康な体。晴美さんの代わりに外の攻撃を受け止めるくらい、全然平気ですもの」 彼女はわざと裕司に顔を寄せ、甘えるように彼の腕をつかんだ。 「毎日細川社長のそばにいるから、何曜日にどんな色のパンツを履いてるかまで知ってるのよ。そんな私が下心なんて持つわけないじゃない?私たちは純粋な親友関係よ。 細川社長がこの前、接待で間違って偽物の酒を飲んじゃったときも、病院まで送ったのは私なの。晴美さん、奥さんとして家に閉じこもって、それ知ってました?」 巧美の言葉には優越感とわざとらしい探り入りがにじんでいた。裕司は軽く咳払いをして、少し気まずそうな様子を見せた。 「晴美、彼女の言うことなんて気にするな。巧美はいつもああいう調子で、男女の節度っていうものが全然ないんだから」 晴美は拳をぎゅっと握りしめた。腕の傷が力みすぎて再び裂け、血が滲み出した。 もし車に乗ったとき、座席の隙間から自分のものではないレースの下着を見つけなければ、彼女はまだ、この二人の言い訳を信じるかもしれない。 だが今、裕司の目にも一瞬、動揺の色がよぎった。 「社長、会社で至急確認しなきゃいけない書類があるんです」 巧美は片手にスマホを持ち、もう片方の手を裕司の腿にそっと置いた。指先がかすかに敏感な部分をかすめた。 彼女はわざと困ったように後部座席の晴美を一瞥した。 「晴美さんが車にいらっしゃると、ちょっと不便じゃないか。どうせ機密書類だから……」 「晴美、ちょっと車を降りて待っててくれ」 裕司は喉仏を上下させ、わずかに表情を変えたが、声はあくまで落ち着いて自然だった。 「いい子にして、すぐ終わるから」 晴美は小さく頷き、素直にドアを押して外に出た。 だが、降りた途端、マイバッハが一定のリズムで揺れ始め、かすかに女の吐息と男の荒い息づかいが漏れて聞こえてきた。 晴美は目を俯せて、自嘲の笑みを浮かべた。 やはり見間違いではなかった。巧美のスマホにあったのは「書類」なんかじゃなく、彼女が下着姿で写っているセクシーな写真だったのだ。 「美ちゃん、声を抑えて……妻がまだ外にいる……」 車内から裕司の押し殺した声が微かに響く。 抱き合ったときには、裕司によく美ちゃんと呼ばれていた。 今ごろ、彼はあの名前で、別の女を呼んでいる。晴美の胸の奥に鋭い痛みが走り、思わず目頭が熱くなった。 唇を噛みしめ、喉の奥の苦さを無理やり飲み込む。指先で、薬指の指輪をそっとなぞった。 五年もの間、彼らの結婚指輪を一度も外したことがない。 長い年月のせいで、指には深い赤い痕が刻まれている。 「裕司、もう少し優しくして……そこはダメ……」 巧美の甘く色っぽい声が、耳にまとわりつくように響いた。 晴美は今すぐにでも逃げ出したかった。けれど、ここは海を渡る橋の上。タクシー一台すら捕まらない。 逃げ場のない彼女は、ただ黙って車内の滑稽な茶番が終わるのを待つしかなかった。 思い出したのは、細川家の厳しい家訓。結婚するまでは肉体関係を持たないという掟。二人もまた、その一線を決して越えたことはない。 彼は新婚の夜まで貞節を守ると約束した。 だが、あの突然の拉致事件が結婚式を引き延ばし、新婚の夜までも奪ってしまった。結局、二人は一度も夫婦として結ばれることがない。 その日以来、晴美はまた肝心な時になるたび、恐怖に震えるようになった。 愛し合う最中でさえ、かすかな嗚咽しか漏らせなかった。 裕司はそんな彼女を気遣い、いつも冷たいシャワーで欲を抑え込んでいた。 彼は無理はさせない、受け入れられるまで待つと言ってくれた。 ──けれど、その約束も破られた。 彼はついに、彼女の目の前で別の女に欲をぶつけたのだ。 もしかすると裕司の目には、巧美が晴美とどこか似て見えたのかもしれない。 清らかな身体に、優しい声。まるで昔の彼女そのもののように。 だからこそ、彼がそんな女に惹かれてしまっても不思議ではなかった。 どれほどの時間が過ぎたのか。 巧美はゆっくりと車の窓を下げ、まだ紅潮の残る頬に満足そうな笑みを浮かべた。 「晴美さん、話は終わりました。車に乗ってください」 晴美が車に戻った途端、あの石楠花のような匂いが鼻を突いた。 胃の奥がひっくり返るようにむかつき、胸の痛みはもう感覚がなくなるほどだった。 巧美を病院まで送り届ける間、裕司は一言も口を開かなかった。 お城に戻ると、彼は何も言わずに晴美を抱き上げ、そのまま寝室へ向かった。 裕司は覆いかぶさるようにして彼女を押し倒し、暗い光を宿した瞳のまま、長い指で彼女の唇を何度もなぞった。 「晴美、今日どうしてこっそりお城を抜けて、会社まで来たのかは追及しない」 裕司は片手でスマホを掲げ、証拠を見せつけた。 「けど、なぜ俺の宿敵と連絡を取った?理由を言ってくれ」 晴美の顔色が一気に真っ白になり、喉までこみ上げた言葉を必死に飲み込み、手話で伝え始めた。 [私の通話記録を監視してたの?] 「先に言うことを聞かなかったのはお前だろう」 裕司は手を伸ばし、晴美の衣服の中へと滑り込ませた。熱を帯びた大きな手が敏感な場所をなぞる。 「言っただろう、お前が外に出るのは嫌だって。また誰かにお前を奪われはしないかと、怖いんだ」 その言葉と同時に、彼は薄い布切れを乱暴に引き剥がし、身を沈めた。 裕司の動作に優しさは微塵もなく、晴美は嗚き声をあげて抵抗し、両手で彼の胸を押しのけようとした。 しかし、その仕草がかえって、彼の内なる野獣のような独占欲を刺激した。 視界の端に、真っ白なシーツに滲む赤が映る。裕司は一瞬、動きを止め、驚いたように息を呑んだ。 彼は興奮のあまり声が詰まり、震えが混じっていた。 「ベッドに血が……まさか、お前は……初めてだったのか?」 第5話 晴美は涙をたたえた目で、自分の上に覆いかぶさる裕司を睨みつけた。 胸の奥から、復讐したいという衝動が一気にあふれ出す。 彼女は傷だらけの腕を持ち上げ、半乾きの血痕をわざと見せつけて真実を覆い隠した。 [私がどうして純潔を失ったのか、もう忘れたの?] 晴美の唇が自嘲めいた笑みを引きつらせた。彼女は自ら身体を引き離し、絶え間なく手話を打った。 [全部、あなたのせいよ] 裕司の身体がびくりと震えた。 脳裏にあった喜びは、一瞬で痛ましい記憶に覆われた。 「俺を責めてるのか?」 裕司の目が血走り、彼女の言葉に完全に怒りが引き出された。 「もし五年前、お前がこっそり俺に会いに来なければ、あんなふうに拉致されることも、他の男に汚されることもなかったんだ!」 寝室の明かりが強すぎて、彼の目に浮かぶ嫌悪の感情の微細な表情まではっきり浮かび上がった。 燃えるような二人の視線がぶつかり合い、空気が凍りつく。 晴美はその目の奥に、愛と憎しみが絡み合っているのをはっきりと見て取れた。 彼女は、かつて自分を守れなかった彼に後悔という罰を与えたい。 そして、今はもう自分をそれほど愛していない彼にも。 だが、鋭い言葉を吐き出した瞬間、麻痺していた心がなぜか再び激しく痛みだした。 しばらくして、晴美は震える手で手話を打ち、空気の中に壊れた弧を描いた。 [この五年間、あなたはずっと、私が汚れたと思っていたんでしょう?] 別荘の中は恐ろしいほど静まり返り、骨董品の掛け時計のカチカチという音だけが響いてる。 数秒の沈黙の後、裕司は声を柔らかくして答えた。 「……そんなつもりじゃない」 その話を聞くと、晴美は笑った。 あの数秒のためらいこそが、彼の本心だった。 彼女はもっと早く気づくべきだったのだ。 そのとき、場違いなタイミングでスマホの着信音が鳴り響く。 裕司が眉をひそめる。「巧美?」 スピーカー越しに、泣き声まじりの甘えた声が聞こえた。 「先生がね、足の骨まで傷ついたって……手術が怖いの……」 「すぐ病院へ行くから」 裕司の表情が一瞬で和らいだ。その目の奥に宿る焦りが、晴美の胸を鋭く刺した。かつてそれは、彼女だけのものだったのに。 しかし今、彼の心の中で最優先される人は、とっくに彼女ではなくなっていた。 裕司は素早く服を整え、冷静な声で言った。 「一緒に行こう。お前を家に一人にしておくのは心配だ」 その落ち着いた態度は、さっきまで彼女を押し倒し、狂ったように求めていた男とはまるで別人のようだ。 だが病院に着くなり、晴美は巧美のボディーガードへと放り出された。 「おとなしく待っててね。すぐ戻るから」 彼女はその場に立ち尽くし、裕司が病室のベッド脇にしゃがみ込み、巧美の足をためらいもなく手に取って傷を確かめているのを見つめた。 ――彼の潔癖症は、自分にだけ向けられたものだった。あの根拠のない汚れを理由にして。 呆然としていたその瞬間、背後から誰かが晴美の口と鼻を塞いだ。 五年前の拉致の恐怖が、一瞬で理性を飲み込んだ。 体が強張り、彼女は暗い標本室へと引きずり込まれた。 扉の隙間から漏れる灯りの中で、晴美ははっきり見えた。 自分を拉致したのは、裕司が巧美につけたボディーガードだったのだ。 「これは巧美さんのご命令です」 その言葉と同時に、ボディーガードは晴美をホルマリン液槽へと放り込んだ。鼻を刺すような薬品臭が口と鼻に流れ込み、周囲には吐き気を催す人体標本が浮かんでいた。 両目は針で刺されるような鋭い痛みに襲われ、焼けるように熱く、血の涙が流れ出そうだ。 「今のあなた、本当にみじめね」 そのとき、本来なら手術室にいるはずの巧美がドアを押し開けて入ってきた。 足取りは軽く、まるで怪我などしていないかのようだった。 「細川社長は、私のために十キロも離れた街までケーキを買いに行ったの。あなたがいなくなったことすら気づいてないわ」 彼女は狡猾に笑い、寵愛を受けていることを鼻にかけたような得意顔を隠そうともしなかった。 「認めなさいよ。あなたの愛しい夫は、とっくに私に夢中なんだから。清潔で、ちゃんと話ができて、寄り添ってあげられる私に。 あなたのように大勢の汚らわしい男にやられた女が、とっくの昔に細川夫人の座を明け渡すべきだったんだ!」 巧美の整った顔が一瞬で歪み、険しい形相を浮かべた。 晴美の視界が何度も暗転した。 彼女は喉元にかけたルビーのネックレスを必死に握りしめる。そこには裕司が埋め込ませてもらった極小のカメラがあり、映像をリアルタイムでクラウドに送信できる。 あの時、「お前の生活をいつでも見てさえいれば安心だ」と彼は言った。 けれど今の裕司の心は、すっかり他の誰かに向いていて、もう長いことこの映像を開いてもいないのだろう。 「まさか本当に喋れないなんてね」 薬剤の中でもがく晴美を見て、巧美はつまらなそうに吐き捨て、ボディーガードを連れて出ていった。 重い扉が勢いよく閉まり、唯一の光が断たれた。 どれほどの時間が経ったのか分からない。 晴美の全身の皮膚は薬品に侵食され、赤く腫れあがり、灼熱の痛みがじっとうずいていた。 意識は次第に遠のいていく。意識が遠のきかけたその瞬間、誰かが勢いよく標本室の扉を蹴り開けた。 「晴美!」 第6話 その後の三日三晩、晴美は高熱にうなされ、意識が戻らなかった。 彼女は何度も十八歳だった頃の裕司の夢を見た。 土砂降りの中、いつも片方の肩を濡らしながら、車の流れの外側を歩く彼の姿。 そして、いつも自分の笑顔を映してくれたあの瞳…… だが夢の終わりには、すべての幸福が泡のように消えていった。 二十八歳の裕司。彼は何度も巧美のほうへ歩いていき、二人の手を取り合った背中は、どんどん遠ざかっていった。 晴美は声を張り上げて呼び止めようとするのに、喉からは何ひとつ音が出ない…… 悪夢にうなされて目が覚めたとき、晴美の耳には裕司の怒鳴り声が響いていた。 「……どうしてまだ目を覚まさないんだ!」 ぼやけた視界の中、彼は病室の扉の前に立ち、真っ赤な目で院長に怒声を浴びせていた。 「彼女がこれ以上目を覚まさなかったら、この病院は閉めろ。あの無能な医者どもを連れて京西市から出ていけ!」 視界の隅で晴美のわずかな動きを捉え、裕司は矢のように病床へ駆けつけた。 「晴美、目が覚めたのか?」 彼の目の下には深い隈が刻まれ、声もかすれていた。「どうして緊急連絡先に電話しなかった?」 晴美の胸の奥が一瞬、震えた。 ぼんやりと、幼い頃に熱を出した時のことを思い出した。あの時も裕司はこうして傍にいて、焦りながらも優しく見守ってくれていた。 けれど、甘い記憶はすぐに意識を失う直前の光景にかき消された。 晴美は身を起こそうとしながら、急いで手話を打った。[巧美がボディーガードに命じて拉致したの。警察に通報しないと] 「わかってる」 裕司の瞳が、深く沈んだ光を宿した。 「でもこれは、巧美の子どもじみた悪ふざけにすぎないんだ。もう自分の過ちもわかって、お前に謝りたいって俺に頼んできた」 彼の口調は淡々としていて、それはまるで子供の取るに足らない喧嘩について話しているかのようだ。 晴美は怒りで目を真っ赤にし、手の動きがあまりに速くて点滴の針が抜けそうになる。血が逆流して点滴袋の中に入り込んだ。 [もし私がどうしても責任を追及すると言ったら?] 「もう彼女には罰を与えた」 裕司の眉間に不快の色が滲んだ。「あの子は度を越した。だから外出禁止にして、一日中家で反省させている」 晴美は一瞬、呆然としたかと思うと、次の瞬間には怒りに震えながら笑いをこぼした。その笑いの度に、全身の傷が疼いた。 [私は腐食性の液体に投げ込まれて、体中傷だらけになったのに――その張本人の罰は、たった一日の外出禁止? あなたは本当に彼女を罰したの?それとも、私が彼女に手を出すのを恐れて、庇っているの?] 彼女の手話は速く、閉じ込められた蝶がもがくように羽ばたいた。 裕司の目の奥に、ほんのわずかなためらいがよぎった。思わず手を伸ばし、晴美の頭を撫でて慰めた。 「おとなしく入院してろ。余計なことはするな」 だがその声には、かすかな脅しが混じっていた。 「俺が一言圧力をかければ、この国中でお前の案件を引き受ける弁護士なんて一人もいなくなる」 晴美は拳をぎゅっと握りしめ、爪が掌に食い込み、血がにじんだ。 やっぱり。彼はいつだって、善悪も見ずにあの女の味方をする。 そのとき、裕司のスマホが振動した。 晴美の視線が、まだ光る画面に向けられた。そこにはメッセージがびっしりと並んでいる。差出人が誰かなんて、見るまでもなくおおよその見当がついていた。 「会社で急用ができた。少し遅れてまた来る」 裕司の声は淡々としていたが、背を向けた瞬間、その瞳の奥に隠しきれない欲の色が滲んだ。 カチリ―― 病室のドアが閉まった瞬間、晴美は自嘲気味に笑った。 瞳の中の最後の光が、完全に消えた。 彼女はスマホを開いて時間を確認する。偽装死まで、残り三日。 巧美が3分前にSNSに上げた最新投稿は、9枚組みの写真だ。どうやら贈り物のようで、どれもこれも高級品ばかり。 添えられたコメントには―― 【後ろ盾があるって最高。あなたの果てしない愛に感謝〜】 どの写真にも、彼女と男が指を絡めた手が写っていて、ペアの結婚指輪がいやに目立つ。 晴美は、その男が裕司だとわかっている。そして巧美が自分をフレンドに追加した理由も、見せつけるためだと理解していた。 それに、巧美の指には、彼女とまったく同じ指輪が光っていた。 晴美は写真の中のそのダイヤの指輪を、長い間じっと見つめていた。 この芝居を完璧に演じるために、裕司は結婚指輪まで同じものを二人分用意した。 そして彼の愛も、きっと同じように二つに分けられていたのだろう。 ただ、一方には多く、他方には少なく、それだけの違いだった。 ぼんやりとした意識の中で、晴美はあの日のプロポーズを思い出した。裕司が彼女の前に跪いて言った言葉。 「晴美、結婚しよう。これからの人生、全てをお前に捧げる」 けれど、彼の、これからの人生は、たった五年しか続かなかったのだ。 晴美は口角をかすかに引き上げ、ためらうことなく指から億単位の価値があるダイヤの指輪を外し、医療廃棄物のゴミ箱へと放り込んだ。 裕司、今度は私のほうからあなたを捨てるわ。 第7話 入院している間、裕司は一度も姿を見せなかった。 彼から届いたのは、素っ気ない一通のメッセージだけ。 【今出張中。プレゼント、何が欲しいかはアシスタントに言いなよ。全部買い与えるよ、お詫びの気持ちでね】 晴美は返信しなかった。 巧美が毎日欠かさず更新するSNSには、裕司との旅行写真ばかりが並んでいた。 この期に及んで、まだ嘘をつくのか。 晴美は一人で入院し、一人で食事をし、一人で薬を塗った。 退院の日、それはちょうど晴美の誕生日であり、偽装死計画を実行する日でもある。 「乗って。誕生日パーティーに連れて行く」 黒いマイバッハの傍らで、裕司はスーツ姿で背筋を伸ばして立っていた。 助手席に座る巧美は真っ赤のドレスに身を包み、紅い唇をわずかに吊り上げ、妖艶な笑みを浮かべていた。 「晴美さん、今日はフォローをよろしくね。代役として、こんな高級なパーティーに出るのは初めてなんだ」 その光景を目にして、晴美はふと自分の身にまとった純白のドレスを見下ろし、すべてを悟った。 裕司が彼女のために用意したドレスは、巧美とまったく同じデザインだ。 ただ一つ違うのは、巧美のそれがより鮮やかな赤だったこと。 自分の誕生日でさえ、晴美は小山巧美という身分で、ただ傍観するしかない。 豪華に飾られたクルーズ船の宴会ホールでは、高価な贈り物が小山のように積み上げられ、大スクリーンには裕司が晴美のために直筆で綴ったラブレターが流れている。 しかし、晴美の心は既に麻痺していた。 裕司は「伊佐山晴美」という名前を使って、華やかなヒロインを演じさせた。 けれど、本人である彼女自身は結局、何者でもなかった。 宴会中、晴美はまるで部外者のように、目立たない隅の方に立っていた。 裕司が巧美を抱き寄せ、夫婦として客を迎える姿を、晴美はただ黙って見つめるしかなかった。まるで、あの婚約パーティーの再現のように。 ぼんやりしていると、トレイを持った男性スタッフが通りかかり、うっかり晴美の肩に触れた。 はっとして手元を見ると、いつの間にか一枚の小さな紙切れが握られていた。 そこには、見覚えのある、どこか懐かしい筆跡でこう記されていた。 【今夜八時、お前を連れ出す】 「どうした?」 いつの間にか背後に立っていた裕司が、不機嫌そうに眉をひそめた。 「さっきのスタッフ、お前に何をした?」 男の声には、どこか嫉妬じみた響きが混じっていた。 晴美は首を横に振り、何事もなかったように紙片を手のひらに隠した。 裕司は目の前の彼女をじっと見つめ、胸の奥に言葉にできない違和感を覚えた。 彼女が……どこか変わった気がする。 さらに問いただそうとしたその時、背後から再び客たちの挨拶の声が響いた。 裕司は短く言葉を残し、足早にその場を離れた。 「ここは人が多いから、大人しくしていろ」 晴美は壁の時計の針に目をやった。 海に飛び込み、偽装死をするまで――あと十分。 彼女は一人、誰もいないデッキに来て、海に飛び込む時を待っている。 その時、背後から名前を呼ぶ声がした。 巧美が笑顔で近づいてきた。 「今日はあなたの誕生日でしょ。私からも特別なプレゼントを用意したの」 言い終えるや否や、彼女の背後から業界でも名の知れた数名のドラ息子が飛び出し、わざとらしく彼女を捕まえようとした。 「あなたたち誰?私を離して!」 その光景が、ちょうど声を聞きつけて駆けつけた裕司の目に映った。 巧美は彼の胸に身を寄せ、震える声で言った。 「晴美さん、この前は本当に私が悪かったの。あなたがこんな苦しみを味わったのに、どうしてそんな卑劣な手で私を罰しようとするの?」 裕司は目を曇らせて、場にいた男たちを一瞥した。 彼らは女遊びで有名なドラ息子ばかりだった。 巧美が上流社会の御曹司たちと関わる機会などなかったことを思い出し、裕司は彼女の言葉をすっかり信じ込んでしまった。 その瞬間、彼の晴美を見る目は、冷たく、まるで別人のようだ。 「嫉妬してるのか?」 裕司の瞳には、複雑な感情が入り混じっていた。 「俺のことを気にしてくれるのは嬉しい。でも、こんなやり方は本当に気持ち悪い。ちゃんと反省しろ」 裕司は巧美の手を取ると、ためらうことなくその場を後にした。 巧美は心配そうなふりをして言った。 「晴美さんを一人にして大丈夫かしら?」 「何が起こるっていうんだ?どうせあの連中は彼女が呼んだんだろう。誰も手出しなんてできないさ」 裕司の背中が迷いなく遠ざかっていくのを見つめながら、晴美は口角をわずかに引き、静かに呟いた。 「裕司……今日のこと、後悔しないでね」 折りしも潮風が吹き荒れ、晴美のささやくような声をかき消した。 裕司の足が一瞬だけ止まり、胸の奥に得体の知れない不安が広がる。 だが、晴美が失語症を抱えていることを思い出し、自分の聞き間違いだと無意識に思い込み、そのまま歩き続けた。 二人が宴会場へ戻った途端、ドラ息子たちが晴美の腕を乱暴に掴み、いやらしい笑みを浮かべた。 「いい体してるな。何人の男に触られた?」 晴美が必死にもがくうちに、首元のルビーのネックレスが何かに引っかかって切れ、ヒリヒリと疼く赤い痕が残った。 床に落ちたネックレスの中で、極小のカメラが赤い光をちらりと放った。 その光は、今の一部始終を記録し続けていた。 彼女が言うことを聞かないと見るや、連中は低く罵り続けた。 「体を使って出世した社長補佐が、今さら清純ぶるなよ。細川社長にはとっくに飽きられてるくせに!」 ちょうど八時の鐘が鳴り響く。海に飛び込み、偽装死をする予定の時刻だ。 晴美は自分を拘束していた男の腕に思い切り噛みつき、その隙を突いて手すりへと駆け出した。暗がりに停められた救命ボートを見つけた彼女は、迷うことなく身を躍らせた。 ドラ息子たちは驚き、慌てて後ずさりながら逃げ出した。「うそ!あの女、海に飛び込んだぞ!」 その瞬間、夜空に花火が咲き乱れている。 一方その頃、裕司はどこか上の空で、視線の隅で晴美が宴会場に戻ってきたかどうかを何度も探していた。 ふとした拍子に視線がフロアの大きな窓をかすめ、そこで白い影が海へと飛び込む瞬間を目撃した。 たった一瞬――裕司の心は粉々に砕け散った。 息が止まり、手にしていたワイングラスが床に落ち、酒が四方に飛び散った。 晴美が……海に飛び込んだ?