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散りゆく愛の果てに
高度一万メートルを越えた空で突如として乱気流に巻き込まれ、機長・高橋隆司(たかはし りゅうじ)は危うい状況のさなか、パートナーである白...
Chương (1)
第1章
高度一万メートルを越えた空で突如として乱気流に巻き込まれ、機長・高橋隆司(たかはし りゅうじ)は危うい状況のさなか、パートナーである白石美月(しらいし みつき)へと告白した。
二人が互いの想いを打ち明け合う一方で、隆司の妻・萩原凛(はぎわら りん)が同じ機内にいることには、誰ひとり気づいていなかった。
愛情のこもった隆司の声は、凛の耳に鋭く突き刺さる。
「結婚しよう、美月」
ちょうどそのとき、凛の前に座っていた息子・高橋翔太(たかはし しょうた)も、露骨な嫌悪を滲ませながら口を開いた。
「あんなママなんて大嫌い!美月さんにママになってほしい」
凛の心は深い絶望に沈み、悲しみは絶え間なく流れ続けた。飛行機が無事に着陸すると、彼女は震える指でアシスタントに電話をかける。
「仮死薬の被験者になるわ。夫も息子も、もういらない」
そして凛は、結婚記念日に死ぬことを静かに決めた。
すべての準備を終えたあと、凛は淡々と仮死薬を服用した。
次に目を覚ますときには、新しい人生が始まっているはず。
その後、隆司に届いた妻の死の知らせは、彼を狂乱の涙に沈ませた。
第1話
高度一万メートルを越えた空で突如として乱気流に巻き込まれ、機長・高橋隆司(たかはし りゅうじ)は危うい状況のさなか、パートナーである白石美月(しらいし みつき)へと告白した。
二人が互いの想いを打ち明け合う一方で、隆司の妻・萩原凛(はぎわら りん)が同じ機内にいることには、誰ひとり気づいていなかった。
愛情のこもった隆司の声は、凛の耳に鋭く突き刺さる。
「結婚しよう、美月」
ちょうどそのとき、凛の前に座っていた息子・高橋翔太(たかはし しょうた)も、露骨な嫌悪を滲ませながら口を開いた。
「あんなママなんて大嫌い!美月さんにママになってほしい」
凛の心は深い絶望に沈み、悲しみは絶え間なく流れ続けた。飛行機が無事に着陸すると、彼女は震える指でアシスタントに電話をかける。
「仮死薬の被験者になるわ。夫も息子も、もういらない」
そして凛は、結婚記念日に死ぬことを静かに決めた……
*
「社長、おめでとうございます。仮死薬の研究開発がついに成功しました。ただ……なかなか被験者が見つからなくて」
アシスタントは困惑を隠せない表情を浮かべたが、凛の瞳には揺るぎない決意が宿っていた。
「二、三日したら会社に戻るから、私がその被験者になる」
ソファにもたれかかった凛の目は、涙で曇りかけていた。
電話越しに、アシスタントの驚愕した声が再び響く。
「来月は坊ちゃまの卒業式ですが……本当にそうされるおつもりですか?それに、高橋機長が結婚記念日にサプライズを用意している、と」
サプライズ?
凛は苦々しく自嘲めいた笑みを漏らした。ショックの間違いではないだろうか。
三日前、彼女は大きなプロジェクトを成功させたばかりで、夫の隆司と息子の翔太と久しぶりにゆっくり羽を伸ばしたいと願っていたのだ。
こっそりと隆司が操縦する便の航空券を買い、手にはふたりへのプレゼントを抱えていた。
飛行機が航路の半ばに差し掛かったころ、突然、強烈な乱気流が発生した。
緊迫した空気が機内を満たすなか、機内放送から隆司の声が響く。
「当便機長の高橋隆司です。必ず皆様を無事に目的地へお送りします」
張り詰めていた凛の胸は、次第に落ち着きを取り戻していった。彼なら必ずやり遂げると信じていた。
だが、放送は切れず、再び隆司の声が重く響いた。
「もし俺たちが今回生きて帰れたら……結婚しよう、美月」
凛は目を見開き、胸の奥底から激しい怒りが込み上げた。
白石美月――この便の副操縦士であり、隆司にとって完璧なパートナーだ。
二人は共に千回以上のフライトをこなし、隆司が彼女と過ごす時間は、本妻である自分より圧倒的に長かった。
乗客たちは依然として危険の最中にあったが、図太い学生が茶化すように声を上げた。
「機長さんがああ言ってるんだから、俺たち絶対無事に帰れるよな」
「美月って人、マジで羨ましい。高度一万メートルを越えた空であんなプロポーズされるなんて、死んでも悔いないわ」
凛は両手で固くシートベルトを握りしめ、操縦室の方をじっと見つめた。
しばらくして、飛行機はようやく安定した飛行を取り戻した。
耳に入るのは、九死に一生を得た喜びと祝福の声ばかり。
凛の涙は堰を切り、視界の端に息子・翔太の姿が揺らいで映った。
彼の隣には、美月の母・白石加奈子(しらいし かなこ)が座っていた。二人は親しげに、着陸後に美月の誕生日をどう祝うか話し込んでいる。
「おばあちゃん、美月さんはもうすぐ僕のママになるの?」
加奈子は笑みを浮かべ、翔太の髪を優しく撫でた。
「翔太ちゃん、本当に美月ちゃんにママになってほしいの?じゃあ、自分のママはどうするの?」
翔太は激しく首を振り、全身で拒絶の意を示した。
そして凛からもらったお守りを乱暴に取り出し、力任せに引き裂いて粉々にする。
「あんなママなんて大嫌い!僕の勉強のことばっかり口出ししてくるし……やっぱり美月さんの方が優しい。僕、美月さんが好き。パパも美月さんが大好きなんだ」
そう言うと、彼は腕に抱えた美月へのプレゼントへ目を落とし、嬉しそうに微笑んだ。
凛は静かに視線を戻し、胸の奥が深い苦味で満たされていくのを感じていた。
翔太を妊娠した年、彼女は安産を願って病院を駆け回り、昼夜を問わず薬を飲み続けた。
体型は崩れ、難産の末に大量出血し、病院で死にかけたことさえある。
命がけで産んだ子供が、今では自分の母親にふさわしくないと公言しているのだ。
一筋の涙が頬をつたって落ち、やがて再び目を開いたとき、凛の瞳には固い決意が宿っていた。
飛行機が無事に着陸すると、空港は取材の準備をする記者たちでごった返していた。
凛は人混みに押しやられ、隆司たちは彼女の姿にまったく気づかなかった。
「高橋機長は卓越した技術で全乗客を救われましたが、今のお気持ちは?」
隆司は薄い笑みを浮かべ、隣の美月を皆の前へ引っ張り出した。
隠すそぶりすら見せず、宝物を見せびらかすかのような眼差しで説明する。
「すべて美月のおかげです。彼女という幸運の女神が毎回のフライトで私を支え、細やかな問題点を分析してくれるからこそ、今回もこれほどスムーズに運んだのです」
照れ隠しに、美月はぶりっ子めいた表情を浮かべつつ、専門用語を交えて説明を付け足した。
拍手は耳をつんざくほどで、人混みはすぐに四方へ散っていった。
インタビューが終わったあと、隆司はようやく凛の寂しげな姿に気づいた。
彼はまず凛が空港に来ていることに驚き、続いて、なぜか平然と落ち着いた表情に戻る。
「凛、わざわざ迎えに来てくれたのか?」
凛はまるで他人を見るような冷たい視線で彼を見つめ、その眼差しには氷のような温度しかなかった。
隆司はそれに気づかないふりをするかのようだ。しかし急に、焦りをにじませた顔を見せた。
携帯の着信音がひっきりなしに鳴り、彼は落ち着かない様子で腕時計を何度も見た。
凛は深く息を吸い込み、ゆっくりと口を開く。
「他に用事があるの?」
隆司が返事をするより早く、整えられた制服姿の美月が愛嬌たっぷりに彼の隣へ歩み寄った。
「隆司さん、今夜の打ち上げパーティー、あなたが主役よ。欠席なんて許さないんだから。ごめんね、凛さん、今夜は旦那さんを私が預かりますから……ね?」
第2話
美月は柔らかく微笑んでいたが、隆司の目には、それが気の利いた物分かりのよい態度に映っていた。
しかし凛にとって、その笑みは挑発以外の何物でもなかった。
背後から翔太の声が聞こえた。凛の姿を認めた瞬間、翔太の顔から笑みはすっと消え失せる。
「どうしてここにいるの?仕事が終わるの、すごく遅くなるって言ってたじゃないか」
凛は飛行機での翔太の言葉を思い出し、思わず両手を固く握りしめた。胸の内では感情が渦を巻き、行き場を失っていた。
息子が自分の登場を歓迎せず、むしろ彼らと美月の時間を邪魔されたと感じていることが、痛いほど伝わってきた。
短い沈黙ののち、凛は冷え切った声で言った。
「出張があるの。たまたま空港にいただけ。あなたたちは、ご自由にどうぞ」
そう告げると、凛は未練の欠片も見せず、くるりと背を向けて立ち去った。
今夜が彼らの打ち上げであろうと、美月の誕生日祝いであろうと、もはや凛にはどうでもよかった。
いずれにせよ、もうすぐ自分とは無縁になる世界なのだから。
凛は一人で帰宅し、前もって用意していたプレゼントをすべてゴミ箱へと放り込んだ。
ぼんやりとした意識の中、視線はリビングに飾られた家族写真に向けられる。
仲むつまじかった家族は、いつからバラバラになってしまったのだろう。
それとも、自分だけがずっと知らないまま取り残されていただけなのだろうか。
彼女はソファに崩れ落ちるように座り込み、頭の中では飛行機内での光景が何度も蘇った。
アシスタントからの電話を切ったあと、凛は浴室で簡単にシャワーを浴び、寝室へ戻ったものの、一睡もできないまま夜が明けた。
空が白みはじめた頃、隆司が酒の匂いをぷんと漂わせながら翔太を連れて帰ってくる。
彼は酔った勢いのまま凛の隣へ倒れ込み、その首筋にははっきりとキスマークがついていた。
「凛、すごく気分が悪いんだ……」
凛は胸の奥で込み上げる吐き気を必死に押し殺し、彼から顔を背けた。
その仕草に気づいた隆司は身を起こし、かすれた声で尋ねた。
「どうしたんだ?会社で何かあったのか?」
会社の話題となると、どれほど酔っていても彼は意識を取り戻す。
隆司はもともと金遣いが荒く、おそらくここ数年の給料の大半は美月のもとへ流れていたのだろう。
凛の会社がプロジェクトを成功させるたび、隆司は当然のようにボーナスを要求してきた。
凛は体をこわばらせながらも、探るようにゆっくりと口を開いた。
「会社に問題なんてないわ。それより……今日、あなた、危ない目に遭いそうになったって聞いたけど?」
隆司は一瞬表情を強張らせたが、すぐに凛を抱きしめ、きっぱりと言い切った。
「そうなんだ。一番怖かったのは、もし俺に何かあったら……お前と翔太はどうなるんだろうってことさ」
その言葉には真実と嘘が半分ずつ混じり、凛をどう扱えば思い通りに動かせるかを、彼は心得ていた。
凛は微笑みを浮かべたものの、その両手は止まらない震えを隠すことができなかった。
「私と翔太のこと?生死の境で私たちを気にかけてくれるなんて、ありがたいことね」
凛は歯を食いしばり、一言一句を搾り出すように吐き出した。隆司は、凛がただ拗ねているのだと勘違いしたらしい。
彼は力強く凛を抱き寄せ、顔を寄せて眉間にわずかな皺を刻む。
「凛。俺がこの人生でいちばん愛してるのはお前だけだ。家族三人、これからも無事で幸せに暮らしていけるさ」
凛はふっと微笑のような息を漏らし、にっこりと問いかけた。
「じゃあ、もし私に何かあったら……あなた、別の女と結婚するの?」
その言葉に隆司は一気に酔いが覚め、瞳には鋭さと固い決意が宿る。
「凛、誓うよ。俺の妻はお前一人だ。誰かに何か言われたのか?俺たちは幼馴染で一緒に育ってきたんだ。この絆は、誰にも壊せない」
凛は深く曇った眼差しでしばらく彼を見つめ、それから静かに視線を逸らした。
隆司は彼女の表情が変わらないのを見ると、ついに眠気に負け、ベッドに倒れ込むようにして深い眠りへ落ちていった。
凛はしばらく隆司を見つめ、そのポケットからそっとある物を取り出す。
こみ上げる吐き気を必死に押し殺し、その三角形のパンツを、凛は震える指で再びポケットに押し戻した。しわくちゃになったスーツには、ねっとりとした感触がまだ残っていた。
凛は口を押さえて寝室を飛び出し、ドアにもたれかかって大きく息をつく。
爪が掌に食い込み、滲んだ血が指先を伝って落ちていった。
凛は翔太の部屋へと歩み、扉の隙間から息子の寝顔を覗き込む。
胸を鷲掴みにされたような痛みに襲われ、凛はソファで身体を丸めたまま、一晩中眠れずにいた。
翌朝早く、凛は何事もなかったかのように落ち着いた手つきで朝食を整えた。
翔太は意外そうにそれを見ていたが、やがて何か思いついたように、おずおずと口を開く。
「今日は日曜日だよ。友達と遠足の約束してて……パパが送ってくれればいいよ。ママは……どうせ、忙しいでしょ」
隆司はその言い方に眉をひそめ、「お母さんに対してその口の利き方はなんだ」と低く叱った。
翔太はわずかに俯き、箸でご飯をかき混ぜながら、不機嫌を全身でまとっていた。
凛は目玉焼きをひとつ翔太の茶碗に入れ、淡々と言う。
「いいのよ。お父さんに送ってもらいなさい。それに、これからはあなたの成績にも口出ししないわ。翔太も大きくなって、善悪の区別くらいつくでしょう。これ以上押しつけても、私が悪者になるだけだもの」
翔太ははっと顔を上げ、まるで凛の中身が別人にすり替わっているかのように、怪訝な目で母を見つめた。
そのとき、翔太のスマートウォッチが突然鳴り響き、けたたましい着信音が三人の視線をさらう。
翔太は背を向けてこっそり電話に出たが、美月の声ははっきりと聞こえてきた。
「翔太くん、もう準備できたわよ。いつ出発する?」
第3話
隆司と翔太の体は途端に強張り、凛が何の反応も示さないのを確認すると、そっと安堵の息を漏らした。
翔太は適当に返事をして通話を切り、隆司をちらりと見上げると、二人そろって箸を置いた。
隆司は食器を片付け終えると、エプロン姿の凛を抱き寄せ、親しげな口調で言った。
「じゃあ、先に息子を遠足に送ってくるよ。夜、迎えに来るのを待ってて。会社の親睦会で、家族同伴が必須なんだ」
凛は頷き、ふと振り返って何気なく尋ねた。
「あなたの同僚はみんな来るの?白石さんも……来るの?」
隆司は一瞬きょとんとし、彼女の鼻先を指で軽くかすめて、照れ隠しのように笑った。
「美月も俺の同僚で、パートナーでもあるし、もちろん来るよ。どうした、やきもちか?」
隆司は口角を上げてからかうように言いながらも、胸の奥は奇妙な満足感で満ちていた。
――凛が嫉妬してくれる、それは、彼女がまだ二人の関係を大事に思い、どこかに危機感を抱いている証だ。
一方で凛は、伏し目のまま黙り込んでおり、心中には一片の波も立っていなかった。
彼女はさりげなく隆司の腕に新しい腕時計をつけた。斬新なデザインだ。
隆司は気づいていないが、その内部には盗聴器が仕込まれている。
凛と隆司の離婚はもはや避けられず、そのためには隆司が以前から美月と不倫していた証拠を、前もって集めておく必要があった。
隆司は手首を軽く回し、嬉しげに目を細めた。
その後、彼と翔太が簡単に凛へ別れを告げると、広々とした部屋には凛ひとりが取り残された。
凛は俯いて自分の姿を一瞥し、そのままバッグをつかんでデパートへ向かった。
彼女の行動は淀みなく、夕方にはもう家に戻り、隆司の帰宅を待っていた。
部屋の明かりはついておらず、帰ってきた隆司はまだ電話を耳に当てていた。
「美月、翔太をそっちに預けられるなら安心だ。明日迎えに行くよ。ああ、それから夜の親睦会、忘れるなよ。君のあの白いワンピース、いちばん好きだ。すごく似合ってる」
ふざけた声音が途切れることなく続く中、凛が咳払いを一つすると、空気は瞬く間に氷点下まで冷え込んだ。
「どうして今頃帰ってきたの?翔太は?」
凛の問いに、険しく寄っていた隆司の眉がわずかに緩む。
彼は申し訳なさそうな声音で早足に凛へ近づき、言った。
「今夜は帰りが遅くなるかもしれないから、友達の家に泊まらせることにしたんだ」
凛は胸の内に渦巻く問いただしたい思いを抑え、苦々しい笑みを浮かべた。
「そう、わかったわ。翔太、最近私にすごく不満があるみたいだけど……理由、知ってる?」
隆司は息子の勉強には一切口出しせず、夫婦はそれぞれ「厳しいママ」と「優しいパパ」という役を演じていた。
その結果、凛は息子の中で嫌われ役となり、隆司は息子の味方という立場を得ていた。
彼の返事を待つことなく、凛は玄関へ歩き、背中越しに促した。
「早く行きましょう。遅れてしまうわ」
隆司は一瞬戸惑いを見せたが、すぐに足を速めて彼女の後に続いた。
すぐに二人はパーティー会場の入るビルの前へと着いた。凛は込み上げるような吐き気に耐えきれず、先にトイレへ駆け込んだ。
痛みがようやく引きはじめたところで外に出ると、そこで隆司と美月が口づけを交わしている場面に、真正面から鉢合わせてしまった。
周囲では、彼らの同僚たちが歓声を上げ、二人を取り囲んでいた。凛だけが何も知らず、ほかの全員はとうに二人の関係を把握していたのだ。
「隆司、そんな派手にやってさ、奥さんにバレるのが怖くないのか?」
「だよな。お前、奥さんがいない時だけ羽伸ばしてんだろ」
「美月ちゃんは俺たちのマドンナなんだから、絶対裏切んなよ」
美月は恥じらうように隆司の胸へ身を寄せながらも、穏やかな声で同僚たちをたしなめる。
「みんな、隆司さんにあんまりプレッシャーかけないで。家のことは、彼がちゃんと片づけるから」
隆司は大きな手で彼女の艶やかな髪をやさしく撫で、その目は甘さを湛えていた。
「ああ、うちの嫁は会社と金が命より大事でさ。息子にまでガチのプレッシャーで、翔太なんて、もう鬱っぽくなってるんだよ。
俺たちは幼馴染なんだけど、気がつけば仕事一辺倒の人間になっちまって……今はすっかり、ルームシェアしてる他人みたいな感じだよ」
その言葉が胸に突き刺さり、凛の瞳はみるみる赤く染まる。
雷に打たれたように、足が床に縫いとめられたかのように動かなかった。
隆司があんな表情を見せるのも、あんな言葉を口にするのも初めてだった。
心のどこかで薄々察していたことのはずなのに、現実として目にすると、その衝撃は想像の何倍も重かった。
同僚たちと軽く挨拶を交わしたあと、隆司と美月は並んでレストランの個室へ入っていく。
凛は隣のトイレに身をひそめ、個室から漏れる二人の声が完全に聞こえなくなるまでじっと耐え、そして一度も振り返らずその場を離れた。
隆司と結婚したばかりの頃、二人はまさに裸一貫のスタートだった。
凛は契約の獲得と資金集めに奔走し、会社を一歩ずつ育ててきた。
その道のりで、土下座をしたことも、頬を叩かれたことも、酒の席で胃から血を吐いたことさえあった。
そんな苦しみも痛みも、泣き腫らした顔のまま、すべて自分ひとりで飲み込んできた。
だが結局、凛がこの家庭のために積み重ねてきたすべての努力は、たったこういう言葉に変わってしまった。
――仕事一辺倒の人間。
第4話
凛は全身を震わせながらレストランを飛び出し、そのままタクシーを拾って家へ戻った。
隆司は姿の見えない凛を案じ、すぐに彼女の携帯へ電話をかけてきた。
「凛、どこへ行ったんだ。ウェイターがお前がタクシーで帰ったって言ってたけど……具合でも悪いのか?俺が戻ってそばにいようか」
がらんとした部屋に、彼の心配そうな声が虚しく響く。凛は吊り下がるように肩を落とし、かすかに声を絞り出した。
「……会社に、急用ができたの。皆さんには謝っておいて」
返事を聞く前に、通話終了のボタンを迷いなく押した。
間もなく、アシスタントからメッセージが届いた。
【社長、仮死薬の用意ができました】
凛は携帯を強く握りしめ、低く息を吸って答えた。
「……今、家にいるの。持ってきてくれる?」
了承の返事ののち、アシスタントは説明書類をすべて揃え、休む間もなく駆けつけた。
しかし到着すると、アシスタントは迷っている様子で、差し出した薬を思わず引っ込めてしまう。
「社長……やはり、ほかの方にお任せになるべきでは?何といっても、会社の舵取りをできるのは社長しかいらっしゃいません」
凛はゆっくりと首を振り、仮死薬を受け取ってポケットへしまった。
ちょうどその時、玄関から慌しい物音が響く。隆司が帰ってきたのだ。
その後ろには美月がついており、手にはレストランのテイクアウトの箱を提げていた。
凛とアシスタントが何かを話し込んでいる様子を見ても、隆司は気を利かせて口を挟まなかった。しかし、その視線はなぜかアシスタントに釘付けになっている。
凛は軽く手を振り、アシスタントに退室を促した。
三人だけが残された部屋で、美月は上品な笑みを浮かべながら歩み寄る。
「凛さん、白石美月です。隆司さんの……パートナーです」
凛は美月を一瞥し、視線を隆司へ戻した。
「どうして急に帰ってきたの?それに……パートナーを連れて来るなんて、どういうつもり?」
隆司はその場にしゃがみ込み、慈しむような眼差しで凛の顔を覗き込む。
「凛……夜、何も食べてなかっただろう?胃を悪くしないか心配でさ。美月はこういうことに詳しいから、どうしてもついて来て、お前の面倒を見たいって言うんだ」
凛が黙って頷くと、隆司は安心したようにキッチンへ向かい、料理を温め始めた。
隆司の姿が見えなくなった途端、美月の表情は豹変した。
彼女はまるでこの家の主であるかのように室内を見回し、それから凛へ冷ややかな視線を向ける。
「凛さん、私と隆司さんがキスしてるところ……見てましたよね?
実は、見られてるって分かった上で、わざとやったんです。
あなたたち、結婚して長いんでしょう?隆司さんはもう、とっくに飽き飽きしてるんですよ。
色気も何もない女に、夫の心が繋ぎ止められるわけないじゃない。
それに翔太くんなんて、いつも私に『ママになってほしい』って言うんです。ほんと、あの親子って考えることがそっくり。
隆司さんが私と結婚するのは時間の問題です。私があなたなら、とっくにここを出ていきますね。あまりうろつかれても……目障りですから」
急にキッチンから顔をのぞかせた隆司は、美月がにこやかにしているのを見て、二人が和やかに話しているのだと勝手に思い込んだ。
隆司がまたキッチンへ引っ込むと、美月は挑発的に口角を上げ、わざと聞こえるような声で呼びかけた。
「隆司さん、凛さんはもう大丈夫みたいだから、私そろそろ帰るわね。明日の夜、一緒に乗るフライトのこと、忘れないでね」
その声を聞いた隆司は、名残惜しげに美月を階下まで送りに行った。
二人は我慢しきれず、廊下でしばらくいちゃついてからようやく別れた。
戻ってきた隆司は、美月の匂いをまとったまま、凛を腕に引き寄せた。
「凛、明日は休みを取って、お前の健康診断に付き合おうか。
それか、二人きりでどこか出かけよう。翔太が生まれてから、俺たちだけの時間なんて、ほとんどなかっただろう?」
しかし凛はそっと彼の手を押し返し、その申し出を静かに断った。
息子の存在はただの口実に過ぎない。隆司には何度も機会があったはずだ。ただ、その二人きりの相手が凛ではなかっただけ。
夫婦の真似事を繰り返したところで、とうに失われた愛情が戻るはずもない。
凛は適当に言い繕って早めに寝室へと下がった。明日、やるべきことは山ほどあるのだ。
夜が白み始めるころ、隆司は先に家を出て行ったが、凛は行き先を尋ねようともしなかった。
彼女は車で会社へ向かい、全役員を招集して午前いっぱい会議を開いた。
業務整理を終えると、アシスタントがすべての保険証券を並べて差し出した。
凛は一枚一枚を丹念に確認し、利益が自分に戻るものだけに署名した。
その他の保険はすべて前倒しで解約。自分の仮死で隆司親子に漁夫の利を与えるつもりは、毛頭なかった。
夕暮れ、凛は再び足早に帰宅し、記念品も衣類も、思い出のすべてを次々と火に投じた。
この縁を断ち切るためには、一片残らず焼き払うしかない。
凛はこれまで、一度たりとも恋愛のために取り乱すような人間ではなかった。
かつて隆司にも何度も言ったことがある。愛が消えたなら、正直にそう言ってくれれば、自分は潔く去ると。
もっと大人の別れ方があったはずなのに。こうして裏切りに気づき、胸の底からえぐられるような不快感に沈む必要など、本来なかったのだ。
炎が勢いよく燃え上がる中、帰宅した隆司はその光景に目を見張った。
隆司は蒼ざめた顔で声を張り上げ、ある考えが胸いっぱいに広がった。
「どうしたんだ、凛」
凛はちらりとも動揺を見せず、冷ややかに言い放った。
「いらないものを燃やしてるだけよ。大げさに騒ぐことじゃないわ。それと、次に帰ってくる前に、せめて身だしなみはちゃんと整えてきて」
白いシャツには、濃淡さまざまな口紅の跡。だが隆司は、まるで気づかなかった。
「今日は上司と昇進の話をしてて、ちょっと飲みすぎたんだ。これからはもう、あちこち飛び回らなくてもよくなる。凛と翔太と、一緒に過ごす時間が増えるよ」
隆司の瞳はきらきらと輝いていた。しかし凛の視界に映るのは、欺瞞と嘘だけだった。
仮死薬を握りしめた手に力がこもり、目尻が赤く染まる中、凛は感情のない声で応じた。
「ええ」
第5話
心が遠く離れたまま、同じ布団を分け合っているというのに、まるで他人同士のように一夜を過ごした。空がすっかり明るくなる頃には、凛はすでに目を覚ましていた。
凛は早朝から不動産販売センターのサービスを予約しており、今の家を売却する準備を整えていた。
女性マネージャーと手続きを進めていると、廊下の向こうから隆司と美月がふざけ合う声が聞こえてきた。
ちょうど柱が視界を遮り、その姿は見えない。
無視するつもりだったが、避けて通れるものではなかった。
隆司は甘やかな声で、美月に優しい眼差しを向けながら約束する。
「美月、どの家が気に入った?好きなのを選んでいいよ。
ここにある物件は全部俺の名義なんだ。誕生日プレゼントは家だって約束したし、必ず君が満足するものを選んであげる」
美月は恥じらうように微笑み、販売員に向かって「一番いい物件を紹介して」と指示した。
凛は雷に打たれたように立ち尽くし、震える両手を抑えることもできなかった。
この物件は──かつて凛が、隆司に贈った誕生日プレゼントだった。
二年もの歳月を費やし、彼のために一つひとつ心を込めて設計した。
一つ一つのデザインが、隆司への溢れるほどの愛情だった。
だというのに、隆司はその誓いも思い出も簡単に踏みにじり、別の女に与えようとしている。
凛の異変に気づいた女性マネージャーが声をひそめた。
「社長、私のほうからあの方に注意いたしましょうか?」
凛は小さく手を横に振った。しかし鼓動は荒れ狂い、胸の奥で何かがきしむように痛んだ。
やがて隆司と美月は手続きを終え、販売員がそばで調子のいい声を上げる。
「奥様は本当にお幸せですね。これほどまでに尽くしてくださる旦那様なんて、そうそういませんよ」
美月は隆司の腕に寄りかかり、抑えきれない笑みを浮かべていた。
一方、凛の手続きもほどなく完了した。彼女の後ろには十数人のスタッフが丁寧に並び、見送りの列を作っていた。
その物々しさが、ついに隆司たちの注意を引いた。
販売員はちらりと凛を見ただけで、軽蔑したように吐き捨てた。
「また家を売る方?どうせ家庭のことで疲れ切った冴えないおばさんなんでしょ」
凛の足が止まり、氷のように冷たい沈黙が落ちた。
直後、女性マネージャーが販売員の前に歩み出て、鋭い音を立てて頬を打った。
「高橋様のことを、あなたみたいな人間が口にできると思ってるの?来月から来なくていいわ。今日限りでクビよ」
販売員はその場に崩れ落ち、泣きながら許しを求めた。
「見る目がありませんでした!高橋様、どうか今回だけはお許しください!」
凛は沈黙を保っていたが、隆司がすぐに割って入る。
「別にこの子は間違ったことをしたわけじゃないだろう。大目に見てやれよ。大人なら穏便に──」
美月もか弱い声で販売員をかばい始めようとしたが、凛の一睨みに口をつぐんだ。
それでも美月は怯んだふりをして、しおらしく問いかける。
「凛さん、私に何か偏見でも?この販売員さん、私のせいでひどい目に遭ってるみたいですけど」
隆司は公の場で美月を庇い切ることはしなかった。凛に不倫を悟られるのを恐れているのだろう。
女性マネージャーは冷静に販売員へ私物の整理を命じ、その後すべての契約書を凛に手渡して場を離れた。
隆司は凛の手にある書類に気づき、眉をひそめた。
「家を売ったのか?どうして俺に相談しなかったんだ?これからどこに住むんだ?翔太だって学校があるんだぞ。ちゃんと説明してくれよ」
隆司の声には、困惑と苛立ちが入り混じっていた。
だが凛の瞳は一片の感情も映していなかった。
「ただ、住み飽きただけ。新しい環境を試したいと思って」
それは、あまりにも淡々とした口調だった。隆司は呆然とし、言葉を失った。
いつから凛は、彼に説明する気力すらなくしてしまったのだろう。
隆司は途方に暮れたように手を伸ばし、凛の手を掴もうとしたその瞬間。
視界に飛び込んできたのは、何もはまっていない凛の薬指だった。
ーー凛はいつから結婚指輪を外したのだろうか。
第6話
隆司が呆然としている隙に、凛はそっと一歩下がり、その場を離れた。
一日中、会社に閉じこもっていた凛がふと顔を上げると、外はすでに深夜になっていた。
隆司からは何度も電話が鳴り、メッセージも途切れることなく届いている。
【凛、いつ帰ってくるんだ。お前の好物を作ったんだよ】
【翔太が今日、満点を取ったんだ。ママに褒めてもらいたいってずっと騒いでる】
【今夜も残業なのか?じゃあ、先に翔太と寝るよ】
【帰りを待ってる】
苛立ちのあまり、凛は眉間を揉みしだき、胃の奥がじくりと痛み始めた。
引き出しを開けると、胃薬の箱はもう空になっていた。
仕方なくパソコンの電源を落とし、薬を買うために階下へ降りることにした。
会計を待っていたその時、不意に美月から友達申請が届いていることに気づいた。
断ろうと画面に指を伸ばした刹那、突然飛び出してきた子犬に驚かされ、震えた指先が誤って「同意」をタップしてしまった。
凛は頭を抱えながら美月のプロフィールを開いた。そこに広がっていたのは、信じがたい光景だった。
美月は今、凛の家におり、不動産権利証と、まるで三人家族のように寄り添う写真を載せている。
キャプションにはこう記されていた。
【私が言ったこと、彼は全部覚えててくれるの。私、きっとずっと幸せになれる】
コメント欄は祝福の言葉で溢れ、その中には隆司と翔太のコメントもあった。
【俺の女に辛い思いはさせない】
【ママが一番きれい!】
ほどなくして、美月は再びタイムラインを更新した。文章のどこを取っても自慢話ばかりだ。
【親子二人が私のことで喧嘩しそうになっちゃった。みんな、どっちの味方をすればいいか教えて】
文末にはいたずらっぽく笑う絵文字。その下には、面白半分の友人たちのコメントが並んでいる。
凛が見落としたかと思って、美月はわざわざ凛にメッセージを送りつけた。
【凛さん、お仕事、本当に忙しすぎますよね。ちょうど私に暇があったから、親子二人の遊び相手をしてあげたんです】
苦いものが、凛の胸の奥に絶え間なく広がっていく。
無視すると、美月はますますつけあがり、ひっきりなしにメッセージを送りつけてきた。
深夜、突然、一時間近い動画が凛のスマホに届いた。
魔が差したように再生すると、目に飛び込んできたのは吐き気を催すほどの光景だった。
艶めかしい声が絶え間なく耳に流れ込み、隆司の低い声が、何度も美月の名前を呼んでいる。
凛には分かっていた。あの声は、彼が情に溺れた時だけに出すものだと。
動画を閉じた瞬間、押し込めていた胃の痛みが再びせり上がってきた。
汗が髪を濡らしても、凛は一言も声を漏らさなかった。
凛はいつもそうだった。あらゆる苦しみも涙も、すべて自分ひとりで飲み込んできた。
かつて隆司は言ったことがある。女なのだから、そんなに強くならなくていい、と。
後ろには俺がいるんだから、頼っていいんだ、と。
だが、隆司は凛のことを何ひとつ理解していなかった。今、彼がその「優しさ」を向けているのは、別の女だ。
凛はオフィスでそのまま夜を明かし、翌日には風邪をひいてしまった。
病んだ身体を引きずって帰宅すると、美月はすでに帰った後だった。
家の中は塵ひとつなく整っており、隆司が周到に片づけたのが一目で分かった。
凛の姿を見た瞬間、隆司の心臓がどきりと跳ねた。
言葉にはできないが、凛がどこか以前とは違って見えたのだ。
青ざめた顔で、凛は淡々と口を開いた。
「昨日は、ずいぶん楽しかったでしょうね」
隆司は表情を固め、気まずそうに頭を掻きながら答えた。
「凛が帰ってこないから、昨夜は眠れなかったよ。これからは、どんなに遅くなっても、会社まで迎えに行くよ。どうかな?」
言葉には問いかけと気遣いがあった。だが、夫婦の情だけがなかった。
凛は隆司の顔から何か別の感情を探そうとしたが、残念ながら、彼は見事に自分を偽っていた。一点の綻びも見当たらない。
昨夜、美月と情事を交わしながら、今日、何事もなかったように凛の前に現れる――隆司にはそれができた。
でも凛には、できない。
彼女は隆司を避け、そのまま真っすぐ寝室へ向かった。
清潔なシーツを目にした途端、あの動画の光景が脳裏に蘇る。
凛は咄嗟に口を押さえ、トイレに駆け込んだが、胃の中は空っぽで何ひとつ吐き出せなかった。
凛の苦しむ姿を見た隆司は、思わず手を伸ばし慰めようとする。
「凛、病院に行ってみないか」
凛は手をひらりと振り、冷たく言い放った。
「平気よ」
第7話
その言葉が終わるやいなや、凛は視線をカレンダーの日付へと落とした。
翌日は翔太の誕生日だった。その事実が胸の奥をかすかに和らげ、彼女は伏し目がちに口を開いた。
「明日、時間ある?翔太の誕生日だから、お祝いのパーティーを開いてあげたいの」
隆司はすぐに頷き、嬉しげに言った。
「それはいいね。翔太はずっと、誕生日にみんなを招待したいって言ってたんだ。お前たち親子は、同じことを考えていたんだな」
凛は黙って頷き、ゆっくりと立ち上がった。
そのとき隆司が、何か思わせぶりに懐からアクセサリーケースを取り出した。
形からして、指輪が入っているのは明らかだった。
彼は凛の瞳をまっすぐに見つめ、穏やかな声で告げた。
「お前の結婚指輪がなくなっているのに気づいたんだ。きっと失くしたんだろう?
ちょうどもうすぐ結婚記念日だし、新しいダイヤの指輪をペアで買ったんだ。俺たちの永遠の愛の象徴として」
澄んだ水のようなその眼差しに、凛はまたもや心を揺らされそうになった。
凛は細めた目で彼を見つめ、思わず問いかけた。
「隆司は、私のどこが好きなの?」
隆司はほんの一瞬だけ考え、いつもの調子で答えた。
「凛、俺たちは互いに初恋同士で、幼馴染でもあるんだぞ。まだ俺の気持ちを疑うのか?」
この問いをするたび、隆司は決まって同じことを言う。
きっと、二人の間に愛などとうになく、ただ「家庭として都合がいい」という理由だけが残されているのだろう。
そこへ翔太の声が突然割り込んできて、二人を驚かせた。
「パパ、明日の誕生日の予定はどうなってるの?」
凛の姿を見た瞬間、翔太は露骨に嫌悪を浮かべ、一瞥して言い放った。
「明日、ママもいるの?忙しいなら来なくてもいいのに」
凛は引きつるように口角を上げ、低く答えた。
「いるわよ。翔太の誕生日だもの」
そしてそれは、おそらく凛が息子と過ごす最後の誕生日になる。
誕生日当日。凛は部屋を丁寧に飾りつけた。
ようやく華やかさが整った頃、ケーキ屋へ向かう準備を始める。
毎年のバースデーケーキは凛の手作りで、今年も例外ではない。
今年は少し大きめのケーキを――成人までのすべての歳月をひとつに込め、それを別れのしるしにしようと考えていた。
手間のかかる作業を終えた頃には、空はゆっくりと暮れかけていた。
完成したケーキを車に積み込み、凛は急いで家へと車を走らせた。
だが、玄関に着いた瞬間、散乱した靴と騒がしい声が目に飛び込んできた。
その景色に、凛の心は一瞬で底へと落ちていった。
耳に刺さるように、翔太の声がはっきりと聞こえてくる。
「美月さんこそが僕のママなんだ。みんな、間違えないでね。これから僕のママはこの人だけだから」
隆司は目に笑みを浮かべ、美月は翔太を親しげに抱き寄せている。
三人は翔太の誕生日を前祝いしていたらしい。凛に、一言の連絡もなく。
凛は踵を返し、ケーキをそのままゴミ箱に捨て、心が空洞になったようなまま車に戻った。
しばらくすると、翔太のクラスメートたちが一人、また一人と帰っていく姿が目に映る。
やがて美月が凛の車に気づき、わざとらしいほど甘えた声を隆司に向けて発した。
「隆司さん、ずっとあなたたちと一緒にいたいな」
隆司は美月を包み込むように抱き、優しい声で応じた。
「もうすぐだよ。このフライトが終わったら、凛にちゃんと話すから」
凛は深く息を吸い込み、ポケットから仮死薬を取り出し、じっと見つめた。
――そうだ、もうすぐだ。もうすぐ自分はここを去る。
あの二人の邪魔をすることも、二度とない。
薬を握りしめたまま、凛はしばし考え、そして母に電話をかけた。
第8話
「お母さん、二日後に私の遺体を引き取りに来て」
凛の母、萩原理恵(はぎわら りえ)はその言葉を聞いた瞬間、呆然と立ち尽くした。
しばし沈黙が続き、やがて理恵は心配そうな声で問いかけた。
「本当に……全部吹っ切れたの?翔太くんはまだあんなに小さいのに」
凛はふっと微笑し、どこか遠いところを見るような目で答えた。
「とっくに吹っ切るべきだったのよ。もしかしたら、私の訃報を聞いて……あの二人は喜ぶかもしれないし」
理恵は何も言い返せず、娘の選択を尊重するしかなかった。
凛は仮死の日を、あえて結婚記念日に決めた。
隆司が「サプライズを用意している」と言っていたのだから、自分が「お返し」をするのも筋だと思えた。
当日。凛は隆司の選んだドレスをまとい、静かに家で記念日のディナーを待っていた。
仮死薬はすでに服用済みで、薬が効き始めるのをはっきり感じ、まぶたがやけに重くなっていた。
隆司は「丸一日一緒に過ごす」と約束していた。
だが、一本の電話がその約束をあっけなく破る。
受話器を置くと、隆司は焦るように口を開いた。
「凛……美月が交通事故で運ばれたんだ。一人で心細いはずだ。同僚としても友人としても、様子を見に行かないと」
凛が黙っていると、彼はどこか言い訳がましく言葉を続けた。
「すぐ戻る。今日の予定には影響させない。信じてくれ!」
その声は震えていた。凛はゆっくりと彼を見上げ、静かな声で問いかけた。
「もし私が『行かないで』と言ったら、そばにいてくれる?隆司、一度でいいから、私を選んでくれない?」
その目は決意に満ち、隆司に理由のない不安を抱かせた。
彼がためらった瞬間、美月から再びメッセージが届いた。
痛々しい傷口の写真が、隆司の決心を固めさせた。
そして、凛にも同時に届いたのは、美月からのメッセージ――ピースサインの絵文字。
凛は小さく苦笑した。また美月の手口だ。
隆司にとって自分こそが最も大切な存在だと示したいだけなのだ。
深いため息をつき、凛は失望を滲ませて言った。
「もう行っていいわ。帰ってきたら……またお祝いしましょう」
――私たちの別れの、お祝いを。
隆司は重い足取りで、それでも急ぐように家を出ていった。
ドアが閉まった瞬間、凛の口から鮮血が溢れた。
まだ動けるうちに、凛は手早くすべての手配を済ませ、アシスタントにメッセージを送った。
【薬が効く過程は苦痛が伴うため、今後の改良が必要】
アシスタントから返信を受け取ると、凛はゆっくりと目を閉じた。
次に目を開けるとき、きっと新しい一日を迎える。
そして自分は、生まれ変わった凛になるのだ。
その頃、病院へ急いだ隆司は、ようやく美月と対面していた。
彼女は無傷のまま立ち、涙を浮かべて言った。
「隆司さん、やっと来てくれた……怖かったんだから。先生がね、赤ちゃんができたって」
隆司は息を呑んだ。このタイミングで妊娠――あまりに都合が悪い。
困惑の中で口を開こうとしたその時、携帯が鳴った。表示されたのは義母の名前。
「隆司くん?今どこにいるの?」
胸の奥に嫌な予感がせり上がり、隆司は控えめに答えた。
「お義母さん……同僚が事故に遭ったので、お見舞いに……」
その瞬間、理恵は息を呑み、次いで泣き叫んだ。
「凛ちゃんが家で亡くなったのに、同僚の見舞いに行ってる場合なの!?」
凛ちゃんが――亡くなった?その言葉を聞いた瞬間、隆司の頭の中は轟音とともに真っ白になった。