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ただ神宮寺楓(じんぐうじ かえで)(旧姓:桜庭)がSNSに投稿した写真に、たまたま月城美波(つきしろ みなみ)のペットの犬が発情している様子...

Chương (1)

第1章

ただ神宮寺楓(じんぐうじ かえで)(旧姓:桜庭)がSNSに投稿した写真に、たまたま月城美波(つきしろ みなみ)のペットの犬が発情している様子が映っていただけで、楓はAIで誰でも抱ける女のように加工された画像をネット中にばらまかれた。 楓は警察に通報し、相手のデマを訴えたが、「現在対応中です」と何度も返されるだけだった。 絶望した楓は、三年間結婚している夫・神宮寺律(じんぐうじ りつ)に電話をかけた。「それ、AIだろ。お前じゃないなら何を焦ってる」律の声は冷たかった。 だがその後、律はわざわざ記者会見を開き、美波の犬についてだけはしっかりと弁解した。 同じ頃、義兄の桜庭悠真(さくらば ゆうま)からメッセージが届いた。【あと一ヶ月で、俺たちの約束は終わる。一ヶ月後、どうするか自分で決めてくれ】 【出ていく】今回、楓は一切迷わずそう返した。 【三年も結婚して、本当に律に少しも感情がないのか?】悠真は驚きながらも、どこかほっとしたようだった。 みんなは楓が律に底なしに尽くしていると思っていた。 【うん、彼を愛していない】……悠真、あなたのことも。 第1話 ただ神宮寺楓(じんぐうじ かえで)(旧姓:桜庭)がSNSに投稿した写真に、たまたま月城美波(つきしろ みなみ)のペットの犬が発情している様子が映っていただけで、楓はAIで誰でも抱ける女のように加工された画像をネット中にばらまかれた。 楓は警察に通報し、相手のデマを訴えたが、「現在対応中です」と何度も返されるだけだった。 絶望した楓は、三年間結婚している夫・神宮寺律(じんぐうじ りつ)に電話をかけた。「それ、AIだろ。お前じゃないなら何を焦ってる」律の声は冷たかった。 だがその後、律はわざわざ記者会見を開き、美波の犬についてだけはしっかりと弁解した。 同じ頃、義兄の桜庭悠真(さくらば ゆうま)からメッセージが届いた。【あと一ヶ月で、俺たちの約束は終わる。一ヶ月後、どうするか自分で決めてくれ】 【出ていく】今回、楓は一切迷わずそう返した。 【三年も結婚して、本当に律に少しも感情がないのか?】悠真は驚きながらも、どこかほっとしたようだった。 みんなは楓が律に底なしに尽くしていると思っていた。 【うん、彼を愛していない】……悠真、あなたのことも、もう愛していない。その後半の言葉は口に出さなかった。 空には渡り鳥の群れが南へ飛んでいく。楓は顔を上げて、ほっとしたように笑った。 やっと離れられる。律からも、悠真からも。 三年前、桜庭家の資金繰りが行き詰まり、破産寸前だった。唯一の打開策は、星ヶ丘市で一番の名家・神宮寺家と縁談を結ぶことだった。 悠真が楓のもとにやってきて、片膝をついた。「楓、頼む、今回だけでいい。桜庭家を助けてくれ。兄として頼む」 楓は心が痛んだ。「でも、悠真、私が好きなのはあなただって知ってるのに、どうして他の男に嫁げって言うの?」 悠真は目をそらした。「俺たちは兄妹だ。無理なんだ。律は金も権力もある。楓なら幸せになれるよ」 楓は冷たく笑いながら、どうしようもなく涙が頬を伝った。 そう、律は金も権力もある。しかもまるで人を惑わすような美しい顔をしている。けれど、誰もが知っている。律の心には、ずっと「初恋の人」がいる。 律と美波は幼なじみで、誰もが二人は結婚すると思っていた。だが美波の家は一晩で破産し、【私は、ただの籠の鳥にはなりたくない】それだけを置き手紙に残して、彼女は彼の世界から消えた。 美波がいなくなってから、律は毎日酒浸りになった。神宮寺家はそんな律を心配し、楓との縁談を決めた。 だが、結婚してからも律は美波の「替え玉」を探し続け、楓を見ようともしなかった。新婚初夜ですら、律は彼女を無視して、替え玉の女を寝室に連れ込んだ。 律が楓を見てくれなければ、桜庭家が立ち直るはずもなかった。 悠真は何度も楓の前に来ては頼み込んだ。楓はプライドを捨て、必死に美波の真似をして律の好みに合わせた。 美波が好きなスカイダイビング――楓は高所恐怖症を押して飛んだ。 美波が好きな酒――酒アレルギーなのに、体中に抗アレルギー薬を注射して律に付き合った。 美波が好きな料理――フランスまで修行に行った。 努力の甲斐あって、律はようやく他の「替え玉」を全て切り捨て、楓のそばにいるようになった。 一度だけ、律は楓の唇にキスして言った。「お前はお前のままでいいんだ」 周囲は「律もようやく過去を乗り越えた、二人はきっと幸せになる」と思った。 だが、美波が戻ってきた。 律は楓をやたらと連れ回し、周囲には「夫婦仲がいい」と思わせていたが、実際は美波に焼きもちを焼かせるためだった。 楓を会員制クラブに一人で残し、律は美波とトイレで抱き合っていた。新作のドレスを全部買い与え、試着室では美波と関係を持っていた。楓の誕生日会ですら、律にとっては美波に会う口実でしかなかった。 楓はすぐに「ただの道具」になった。でも、気にしていない。 なぜなら、楓は最初から律を愛したことがなかったからだ。 十年前、母が再婚し楓は桜庭家に来たが、母はすぐに病で亡くなった。桜庭家は楓を厄介者として見ていた。唯一優しくしてくれたのは、義兄の悠真だけだった。 悠真はまるで父であり、母であり、兄でもあり……初めて生理が来た日も、顔を赤くして教えてくれ、濡れた下着も洗ってくれた。 タブーに苦しみながらも、どうしても悠真を好きになってしまった。 悠真のためなら、何でも捨てる覚悟だった。 つらい970日間、悠真の優しさだけが楓の支えだった。 あの日、楓は悠真の大好きなおにぎりを握って、家の外から様子をうかがっていた。 「みんな楓が律に夢中だと思ってるけど、本当に好きなのはお前だろ」 悠真の声は、いつもの優しさとはまるで違って軽薄だった。「ちょっと優しくしただけなのに、ここまで執着されるとは思わなかった」 「もうすぐ千日の約束が終わるけど、もし楓が本気で離婚したら、悠真、お前が引き取るのか?どうせあいつがこんなにボロボロになったのは全部お前のせいだろ」 「ありえないよ。あんなふうに使い古された女、欲しいならくれてやる」 手の中の温かいおにぎりが、ぽろりと落ちた。楓は全身の血の気が引いた。 ――全部、ただの茶番だったんだ。 「じゃあ、なんでずっと誰とも付き合ってないの?」 その場がしんとなる。楓は呼吸を止めて様子をうかがった。 しばらくして、悠真はぽつりと言った。「……いい人がいなかっただけ」 楓はまるで死刑宣告された囚人みたいに、肩で大きく息をしていた。 その時、電話が鳴った。 「もしもし、楓さんでいらっしゃいますか?実のお父さまが、今ちょっと危険な状態でして……ほかにご家族がいらっしゃらないので、相続人は楓さんだけです。遺産はおよそ四千億円になります。ただ、条件として戸籍とお名前を元に戻していただく必要があるんです」 第2話 楓が承諾すると、1ヶ月後にリヴィエール行きのプライベートジェットの搭乗案内がすぐにスマホに届いた。 ネットにあふれていたAI画像も、父の手によって全部消された。 でも、楓は知っていた。自分が受けた傷はもう一生消えないってことを。 気持ちを整理して、散歩に出かけた。 けれど道端では、知らない人たちが楓を指さしてひそひそ話している。 「あの人が、最近ネットで話題のあの女じゃない?」 「本人、けっこう可愛いな。いくらくらいで遊べるんだろ」 「やめとけって。ああいう女、タダでも要らないわ」 楓の胸が苦しくなり、うつむいたまま早足でその場を離れた。 会社の前まで来て、ちょっと休憩がてら夜になるまで中で過ごそうと思った。 でも、不思議なことに、広いオフィスには誰の姿もない。 エレベーターで最上階の社長室へ直行すると、ドアの向こうから人の声が聞こえてきた。 パーン! クラッカーが頭上で鳴った。 律がケーキを押して入ってきて、後ろの社員たちは色とりどりのプレゼントを持っていた。 オフィスの中はまるでおとぎ話の城みたいに飾り付けられている。 楓が入ってきた瞬間、全員がぴたりと静まり返る。律の顔がみるみる不機嫌になる。「なんでお前なんだよ」 楓が何も言わないうちに、もうひとつのエレベーターが開いた。 美波が嬉しそうに飛び出してきた。「わぁ、全部私のため?」 律の顔は一瞬で優しくなった。「そうだよ。うちの可愛いお姫様の誕生日だからな」 みんなが祝福の言葉をかけ、美波にプレゼントを手渡していく。 その楽しげな光景を見ながら、楓はふと思い出した。結婚一年目、律は仕事で家にいない日が続いた。 楓は毎日、手作り弁当と果物を会社に届けては、夜遅くまで律に付き添っていた。自分の誕生日ですら例外じゃなかった。 友達が0時にケーキを届けてくれたが、律はそれを無造作にゴミ箱へ。「ここは会社だ。誕生日祝いしたいなら家でやれ」 突然、オフィスの照明が落ちた。 みんながハッピーバースデーを歌う中で、美波は目を閉じて願いごとをしている。 その隣で、律の目はとろけるような優しさに満ちていた。楓を見る目とはまるで別人のようだった。 楓は誰にも声をかけず、冷たく笑ってその場を後にした。 タクシーで桜庭家へ向かう。 家には明かりがついていたけれど、自分のために灯されたものは一つもなかった。 にぎやかな話し声も、楓がドアを開けた瞬間にピタリと止まる。みんなが楓を見て黙り込む。 悠真が咳払いをして沈黙を破った。「楓、どうしたんだ」 楓はみんなの視線を無視して言った。「前に、全部終わったら一つだけお願いを聞いてくれるって言ってたよね。まだ有効?」 「もちろんだよ」悠真は眉をひそめる。「でも、無理なことはダメだぞ」 言わなくても、楓には悠真が何を気にしているのかわかっていた。どうせ自分がこれを口実に、無理やり結婚を迫るとでも思っているんだろう。 自分が、彼にとってどれだけ安っぽい存在なのか、よくわかっていた。 「名前を滝川楓に戻したい。それから、新しい戸籍を作りたい」 名前を変える手続きは自分だけでできる。でも、戸籍を移すには色々と面倒な手続きがいる。楓はどうしても悠真に相談するしかなかった。 悠真は一瞬驚いたが、すぐに頷いた。 家を出ると、部屋の中でひそひそ声が聞こえてきた。 「結局、楓は家を出て悠真と正式に一緒になりたいだけなんじゃないの?」 「ほっとけよ。俺は絶対、あいつとは結婚しない」 楓は自嘲気味に口元を上げて微笑んだ。どうでもいい。もう興味もなかった。 家に戻ると、律が黒いレザーソファに足を組んで座っていた。ドアの音に気づくと、だるそうに顔を上げた。 「こんな夜中にどこ行ってた?」 律は楓がどこで何をしてたかなんて興味もない。楓は適当にごまかした。「実家に寄っただけ」 律は目を細めたが、追及しなかった。「明日のコンサート、美波も出たいって」 楓はプロのチェリストで、学生時代から有名だった。明日のコンサートは、自分が準備してきた「お別れ会」でもある。 これが終わったら、名前も人生も新しくやり直すつもりだった。 もう一人くらい伴奏が増えてもいい。どうせもう終わりだし、これ以上ややこしいことを増やしたくなかった。そう自分に言い聞かせて、うなずいた。 律は少し意外そうにした。こんなに素直に承諾するとは思っていなかったのだろう。 律は今日の午後、友人から言われた言葉を思い出す。 「律、本当に羨ましいよ。家には何でもしてくれる奥さんがいて、外には初恋の人がいる。 初恋は世の中にたくさんいるけど、楓みたいな女は世界に一人しかいないよ」 友達が羨ましがるのが普通なら嬉しいはずなのに、楓のことをそう言われると、どうしても胸がざわつく。 帰宅したばかりの楓が、休む間もなく夕飯の支度をしている姿を見て、律はふっと眉を上げた。 もし、美波が自分の命の恩人じゃなかったら、自分は楓に夢中になっていたかもしれない――そんなことを、何度も考えた。 でも、そんな「もしも」はこの世にない。 律は、美波に渡すはずだったプレゼントを楓に差し出した。「これ、お前にやるよ。明日のコンサート、恥だけはかかせるなよ」 律は楓の目の前で、彼女の首にネックレスをかけてやる。二人の間に、一瞬だけ甘い空気が漂った。 楓が驚いて何か言いかけた時、美波専用に設定された着信音が突然鳴り響いた。 「律くん、酔っちゃった。会いたいよ」 電話の向こうから甘えた声が響く。律は無意識に喉を鳴らし、そのまま部屋を出ていった。 楓は、ドアが閉まる音を聞くと、無表情で包丁を置き、書斎に向かった。明日の演奏の練習を始めるためだ。 ふと、本棚の一角にある「機密書類」が目についた。 今までなら律に関する物なんて見向きもしなかったのに、今日はなぜか手が伸びる。 書類を開いた瞬間、思わず笑ってしまった。 律が美波に何年も執着してきたのは、彼女を命の恩人だと勘違いしていたからだった。 でも同じ日、同じ場所で自分も人を助けていた。その証拠の感謝状は、今も引き出しの中にある。 今日はなぜか、律がこの真実を知る日が楽しみで仕方なかった。 楓は三年前に交わした契約書と感謝状を手に取り、笑いながら宅配センターに預けた。「これ、1ヶ月後に神宮寺律に届けてください」 その契約書には、【乙・神宮寺楓は、桜庭悠真への恩返しのため、神宮寺律と1000日間の結婚生活を自ら望んで契約する】とはっきり書かれていた。 第3話 翌日の夕方、楓は予定通り音楽ホールに到着した。舞台のいちばん目立つ場所には、美波のピアノがすでに置かれている。 最初はリハーサルのためかと思い、特に気にしなかった。自分の演奏会なのに、美波がそこまで目立とうとするとは思っていなかった。 ところが、そのピアノは開演しても片付けられなかった。楓が美波に問いただそうとした瞬間、スタッフに連れられて楽屋に閉じ込められてしまう。 やっと解放されたときには、演奏会はすでに終わりかけていた。 急いでスタッフに自分のチェロをステージまで運ばせると、舞台に立った瞬間、観客席から怒号が飛んできた。 「返金しろ!返金しろ!」 怒号とブーイングの嵐が矢のように楓の心を貫く。ふと見ると、律のために用意していた特別席は、すでに誰もいなかった。 何ヶ月も準備してきた演奏会は、あっけなくめちゃくちゃにされた。楓はただ、ファンに申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。 警備員に守られながら、なんとか暴徒と化した観客の中を抜けて帰宅した。 玄関のドアを開けると、家の中は真っ暗で、空気がひどく冷えきっていた。 律はソファに深く腰掛けて、目の奥は真っ暗で何も見えなかった。律をよく知る人間なら、今この人が本気で怒っているのがわかる。賢い人なら絶対に近づかないはずだ。「お前、俺の書類を動かしたか?」 楓は一歩も引かず、素直にうなずいた。 律は一瞬驚き、そして皮肉な笑みを浮かべた。「知ってもどうせ無駄だ。お前はただの政略結婚の道具、死んでも美波には勝てない」 楓は静かに律を見つめ返して、何も言わなかった。 律は一瞬だけ戸惑いを見せたが、その時、主寝室のドアが勢いよく開いた。 美波が楓のパジャマを着て、眠そうに目をこすりながら出てきた。 楓はふと思い出した。律は小さい頃から、何もかも手に入れてきた人間で、他人の気持ちなんて気にしたことがなかった。 だから、楓が重い病で寝込んでいたときでさえ、律は平気で家でパーティーを開いていた。 「頭が痛い」と訴えても、律はただ一言――「俺には関係ない」 それなのに今は、美波が寝ているからと家中の電気を全部消し、誰にも声を出すなと命じている。 律は面倒くさそうに手で合図し、楓に命じた。その顔には、楓が悔しそうに表情を歪めるのを期待している色が浮かんでいた。「今夜は美波がここで夕飯を食べていく。用意しろ」 でも、楓は律が期待しているようには怒らない。ただ、おとなしく立ち上がり、キッチンへ向かった。 楓の背中が遠ざかっていくのを見送りながら、律は無意識に自分の指先をさすっていた。さっき感じた、言葉にできない違和感がまた胸に浮かぶ。 女を家にまで連れ帰っても、楓は文句ひとつ言わずに料理を作る。こんなにも自分に尽くしてくれるなんて、もしかしたら美波への愛よりも、楓の献身のほうがずっと無償なんじゃないか――そんな思いが、ふと頭をよぎった。 キッチンで、楓は慣れた手つきで食材を取り出し、洗って切り始める。数年前まで包丁すら握ったことのないお嬢様だったなんて、今の楓からは誰にも想像できない。 「楓さん、私も手伝うね」 楓の手にあった包丁が、突然奪われた。美波は無害そうにふわりと笑うと、次の瞬間には包丁の刃先を自分の腕へ向けていた。 白い腕に、瞬く間に赤い血がにじむ。 楓が反応するより早く、すさまじい力が横から飛び込んできて、美波の手から包丁をはじき飛ばした。 包丁は弧を描いて飛び、楓の顔すれすれをかすめて壁に突き刺さった。 心臓が一瞬止まったみたいだった。遅れて、鋭い痛みが頬を走る。そこから温かいものがすっと流れ落ちていく感覚がした。 ようやく律がこちらに気づき、楓を見て一瞬だけ罪悪感を浮かべた。「悪い、楓。わざとじゃない」 楓が何か言おうとしたとき、美波が口をはさんだ。 「律くん、私、ただ楓さんと一緒にご飯作りたかっただけなのに、彼女……」言葉を途中で止めたが、その表情だけで何もかも伝わる。 律の罪悪感はすぐに消え、冷たい声に戻る。「つまり、お前が美波をわざと傷つけたってことか?」 楓が弁解する間もなく、後ろで律が壁に刺さった包丁を抜き取った。律は奥歯を噛みしめて、じっと楓を睨んだ。 「たかが、お前の演奏会で何曲か弾かせてもらっただけで、まさか人を傷つけてまで仕返しするとはな」 楓は必死に否定する。「違う、私じゃない。彼女が自分で」 律は鼻で笑う。「美波はピアニストだぞ。一番大事にしてるのは自分の手だ。そんな美波が、自分で自分を傷つけるなんて、信じろっていうのか?」 楓は負けじと顔を上げ、律の目をまっすぐ見つめて、もう一度はっきりと言った。「そう。彼女が自分でやった」 楓は大きく息を吸い込んでから言った。「私もチェリストだよ。もし私が、自分の手を平気で傷つけられる人間だったら……そのときは、私の言うことを信じてくれる?」 楓は、律に誤解されても別に気にしない。でもだからといって、好き勝手に罪をなすりつけられていいわけじゃなかった。 律は言葉を失った。まさか楓がそんなことを言うとは思っていなかったのだ。「お前……」 律が反応するより早く、楓は包丁をつかみ上げ、歯を食いしばって自分の手のひらに刃を走らせた。 血が床にしたたり落ちる。 律があわてて手を伸ばした瞬間、美波が言った。 「楓さん、そんなことしなくていいのに。私を傷つけるために、自分まで傷つけるなんて」 その言葉と同時に、律の表情はみるみる冷え込んだ。 刃先がわずかに震え、楓は絶望のままそっと目を閉じた。 激しい痛みに襲われて、楓の意識はゆっくりと遠のいていく。完全に意識が落ちる直前、律の冷たい声が耳に届いた。 「美波を真似してなかったら、お前なんか見向きすると思うか?」 第4話 律は楓の言うことを聞かなかった罰として、一晩で桜庭家と手を組んでいたすべての契約を打ち切った。 楓は激しいスマホの着信音に叩き起こされた。痛む体を押さえながら電話に出ると、悠真の声が聞こえた。 「楓……お前が頼んだ戸籍の手続き、もう提出した。でも、また問題を起こせば撤回する」 楓の体中の血が一瞬で凍りついた。「やめて。そんなのひどいよ。約束したじゃない……!」 あと一歩で全部終わるのに。ここで全てが無駄になるなんて絶対に許せない。 電話の向こうで、悠真は疲れきった声で言った。「なら、最後の一ヶ月は大人しくしていろ。律にちゃんと従え」 電話が切れると同時に、部屋のドアが突然開いた。 律が冷たく命じる。「美波がお前と仲直りしたいってさ。今からバンジージャンプに行くぞ。五分で支度しろ」 そう言い捨てて、ドアをバタンと閉めた。 本当はバンジージャンプなんて嫌いだし、美波と関係を修復したいとも思っていない。でも、また逆らえばどうなるか分かっている。 楓は無表情でそっと目を閉じた。 返事をする間もなく、五分後、ボディーガードがドアを蹴破り、楓を無理やり車に乗らせた。 リムジンの窓際で、楓は一人腕を抱えて目を閉じていた。 今日はまだ傷の手当てもできていない。痛みを我慢しながら、眠ればマシになると自分に言い聞かせ、やがて車の揺れの中で眠りに落ちた。 反対側の席では、律と美波がまるで他に誰もいないかのように親しげに寄り添っている。 前の座席で、運転手と秘書がひそひそと話していた。 「奥さま、かわいそうだな。あんなことされても怒りもしないなんて……」 「奥さまは律さまのことが好きなんだよ。離婚さえしなきゃ何でも我慢できるって聞いたことあって」 律はぼんやりと楓を見つめる。窓辺で縮こまる楓は、小さな猫のように従順だった。 彼も人間だ。この何年も、楓の思いやりや尽くし方を見ていなかったわけじゃない。 ずっとこうしてくれるなら、彼女に妻という立場を与え続けてもいい――ふと、そんなことまで思ってしまう。 でも、その陰で美波の目は鋭く光っていた。 どれくらい時間が経っただろう。車がようやく停まった。 どこまでも深く落ちていきそうな崖を見下ろし、楓は思わず歯を噛みしめ、震える自分を必死に抑えた。 美波が大きな目をぱちぱちさせて律に甘える。「律くん、久しぶりのバンジーだし、ちょっと怖い……一緒に飛んで?」 律は優しく美波の頭をなでて、ゆっくりと答えた。「いいよ」 律は美波の腰を抱き寄せ、そのまま目も閉じずに飛び降りた。女の叫び声と男の低い笑いが谷底へ吸い込まれていく。 二人は恋人同士のように、興奮の中で愛を確かめ合った。 「律くん!私、律くんのこと愛してる!」 「俺もだよ、美波」 運転手がちらりと楓を見て、同情の色を浮かべる。でも、楓は無表情だった。むしろ、このまま二人が永遠に幸せになればいいのにとさえ思った。 もう少しだけ耐えれば、この二人と自分は何の関係もなくなる。 スタッフが楓に装備を着せる。楓は眉をひそめてためらった。 「やっぱり今日はやめ……」そう言いかけた瞬間、誰かが強く背中を押した。 「悪いね。美波さんにとって、あんたは邪魔なんだ」 楓はぎゅっと目を閉じ、体が宙に投げ出される感覚に全身が凍りついた。冷たい汗が背中をつたう。 谷底に近づいたとき。 バンッ! ロープの一本が突然切れた。 心臓が喉までせり上がる。「律、助けて!」 だが、律は彼女に背中を向けて、美波の後頭部にそっとキスを落としていた。 楓の視界の端で、美波が微笑みながら手に持ったナイフを振る。 ……美波がロープを切ったのだ。 一本だけ残ったロープでは、もう体を支えきれない。楓が祈る間もなく、体は大きく振れて、鋭い岩肌に叩きつけられた。 頭が割れるような衝撃。生ぬるい血が目に流れ込む。 震える手で傷を探ると、固い骨に触れた。 ぼやけた視界の中で、律がようやく振り返り、崖の縁に駆け寄ってくるのが見えた。 楓はゆっくりと目を閉じる。 大丈夫だよ、律。あなたはただ、私を愛していなかっただけ。あなたは何も悪くない。私も、あなたが私を愛しているかどうかなんて、もうどうでもいい。 私が唯一憎いのは悠真だけ。「愛」という名のもとで、私をこの深い闇に突き落としたのは彼だから。 第5話 楓が次に目を覚ましたとき、そこはもう病院だった。 ベッドの横では、律がみっともないほど乱れた姿で楓の脚元に突っ伏していた。 額に走る激しい痛みに、楓は思わず小さくうめいた。 その声に、眠っていた律が飛び起きる。赤く血走った目はひどく疲れている。 律は楓の手を強く握りしめた。「楓、どうだ。どこか痛むところは?」 楓は痛みをこらえて小さく首を振った。ただ、律の不安そうな目を見た瞬間、動きが止まる。 律の髪は乱れ、無精ひげが薄く伸びていた。ここで長い時間、ずっと看病していたのだとわかった。 楓はためらいながら聞いた。「……ずっと、ここにいたの?」 律は一瞬だけ硬直し、気まずそうに顔をそらした。「誤解するな。これは美波の代わりに、お前の面倒を見てやってるだけだ。今回の件は……俺たちがバンジーに誘ったせいだしな」 その答えを聞いた瞬間、楓は胸の奥でほっと息を吐いた。 ――よかった。律が情を持ったわけじゃない。 もう三角関係に巻き込まれるつもりはない。 だが律は、楓から目を離さなかった。楓が高所恐怖症なのを知っている。それでも、美波を喜ばせるために命を投げ出した。 律は思わず、美波の愛と楓の愛を比べてしまう。どんなに自分をごまかしても、結論だけは出せなかった。 ――もし楓が、自分の命の恩人だったなら。 従順に眠る楓の横顔を見ていると、律は無意識に手を伸ばし、その白い頬に触れようとした。 その瞬間、病室の扉が勢いよく開いた。 悠真が入ってくる。 律はハッと我に返り、慌てて手を引っ込めて眉間を押さえた。 ――俺は何を考えてるんだ。 律は楓を見ないまま、足早に病室を出ていった。 悠真は楓の頭の傷など一切見向きもせず、真っ先にこう言った。 「楓、今回よくやったな。律が罪悪感を持ったおかげで、桜庭家への投資が増えた」 楓は黙って聞いていた。 「それと、お前の改名の手続きも俺が通しておいた。あと数日で完了する」 そのとき、扉が乱暴に開いた。 律が立っていて、声は氷のように冷たい。「つまり……全部お前が仕組んだってことだな」 悠真は青ざめて立ち上がる。「違う……!ちがうんだ、これは……」ちらりと楓を見て、逃げるように言った。「もう帰る。あとは楓が話してくれるから」 律は足元の点滴スタンドを勢いよく蹴り倒した。点滴の針が楓の腕を引き、血が逆流する。 楓は痛みに小さく息を漏らした。「……違うの」 律は皮肉に笑って言った。「いいさ。じゃあ一つ聞く。改名の手続きってどういう意味だ?」 楓の心臓が跳ねた。喉がひどく乾く。「……私、名前を美波さんに寄せた方が、あなたが喜ぶと思って」 律の長いまつ毛が微かに震え、次の瞬間、冷たい笑みが浮かぶ。「ふざけるな。たとえお前が美波と同じ顔に整形したって……お前を愛することは絶対にない」 扉が叩きつけられるように閉まった。 看護師たちは全部聞いていたが、誰も近づけなかった。 楓は泣きも怒りもせず、無表情で横を向いて目を閉じた。 ――愛なんて、最初からいらない。 額の傷はまだ治っていない。それでも、律の誕生日が来た。律の妻として、どうしても出席しなければならない。 誕生日パーティーでは、律と美波がまるでペアルックのような服で並んでいた。楓の存在など最初からいないかのように、堂々と人前でイチャついている。 周囲の客は笑いをこらえながら、軽蔑するように楓を見ていた。 やがて、律の父と母に呼び出され、書斎へ連れて行かれる。 扉が閉まるなり、律の母・神宮寺涼子(じんぐうじ りょうこ)が楓の頬を叩いた。 「律があの女を忘れるために、あんたを嫁にしたのよ?三年も経つのに、まだこの程度?あの女を超えられないの!?」 楓は眉ひとつ動かさず、静かに立っていた。 ――改名できるなら、思い切って「滝川遥(たきがわ はるか)」にしようか。遠くまっすぐ続く未来と夢に向かって生きていきたい。そんなことをぼんやり考えていた。 沈黙のあと、律の父・神宮寺雅人(じんぐうじ まさと)が口を開いた。「律の心が手に入らないなら、離婚しろ。別の家の娘とやり直す」 彼は一枚の書類を楓の前に置いた。「これは離婚届だ。律はもうサイン済みだ。ただ……何にサインしたかは、あいつは知らない」 第6話 楓の手がかすかに震えながら、離婚届に自分の名前を書いた。ペン先が止まった瞬間、ぽたりと涙が書類に落ちた。 涼子は鼻で笑う。「本当に哀れだわね。あれほど律を愛してるくせに、一度も振り向いてもらえないなんて」 雅人は、さすがに気の毒そうに楓を見た。「結局、うちはお前に負い目がある。何か償いが欲しいなら言いなさい」 楓は涙を拭いながら、かすれた声で言った。「……最後に、律と一週間だけ一緒に過ごさせてください。この離婚届は、一週間後に渡してほしいんです」 「いいだろう」 部屋を出た瞬間、楓は堪えきれず泣き崩れた。胸が熱くなり、全身が興奮で赤く染まっていく。 三年耐え続けて、ようやく手に入れた「離婚届」だった。 もっと苦戦すると思っていたのに―― 涙は途切れず流れ、心臓が痛いほど跳ねる。 ――神さまが、あまりにも惨めな私を哀れんでくれたのかもしれない。 悠真との約束まで、あと一週間。一週間後、すべてが終わる。 楓は深呼吸して、徐々に気持ちを落ち着かせた。 その時、隣の部屋から甘い声が漏れてきた。 「律くん……ダメ……声、大きい……誰かに聞かれちゃう……」美波の半分抗うような甘え声が、壁越しに生々しく響いてくる。 「聞こえても構わないだろ。誰に文句が言える」律の低い声と荒い息づかいが、耳に刺さった。 やがて女の喘ぎ声は大きくなり、ベッドが壁にぶつかる音が規則的に続いた。 ここは本来、楓のための寝室だった。それを二人は、ためらいもなく密会の場所にしていた。 楓は乾いた笑いをもらし、帰ろうと扉に向かった。その瞬間――扉が勢いよく開いた。 律は、不倫を見られてもまるで動じない。 むしろ邪魔されたと言わんばかりに眉をひそめた。「……なんでお前がここにいる」 中から、美波のとろけた声が響く。「家政婦さん?ねぇ律くん、服持ってきてもらって?」 律が返答しようとした瞬間、楓が口を挟んだ。「持ってきます。美波さん」 律の視線を避け、楓は奥へ入った。ベッドは乱れ、まだ乾ききっていない痕跡が残っている。 楓は見なかったことにしてクローゼットを開け、ドレスを一着取り出して美波に渡した。 そのドレスを見た瞬間、律の呼吸が止まった。 それは、結婚三周年を忘れた律が「罪滅ぼし」に楓へ贈ったものだった。楓はそれさえも、ためらわず美波に差し出したのだ。 律は楓の顔に残る、くっきりした平手打ちの跡にも気づいた。誰がやったか言われなくてもわかる。 そして悟った。 今日、自分がしたことは全部、楓への当てつけだったのだと。なのに、自分の母に叩かれ、自分の不倫を見せつけられても、楓は怒らず、受け流し、黙って許してみせる――こんなにも、自分を愛していたのか。 心が乱れ、律は居心地悪そうに目をそらして部屋を出た。 その間も、楓は一度も律を見なかった。 美波はドレスのすそを整えながら、楽しげに言った。「もし昔なら、楓さんが余裕ぶってるって思ったよ。自分が勝ってるって、得意になってるんだって」 楓はきょとんとして美波を見る。 「でも、今は違う」美波は脚を組み替えて笑う。「楓さんの目には、もう律くんへの愛がひと欠片もない」 遥は思わず固まった。周りにいる仲睦まじい夫婦たちが互いを見るときの「眼差し」を、一組ずつ思い返してみる。どれだけ思い返しても、その中に「美波が律を見るときの眼差し」だけは存在しなかった── 遥はゆっくりと顔を上げ、何かに気づいたように美波を見つめる。だが美波は、その視線を受けてもただ意味深に口元をゆるめただけだった。 そして、次の瞬間。彼女は窓に背を向け、そのまま軽やかに身を翻して飛び降りた。 「きゃあっ!律くん助けて!!」 楓の思考が真っ白になる。背後から扉が乱暴に開いた。 「美波!!誰か!医者を呼べ!!」律は顔を真っ赤にして叫び、必死に外を覗き込む。 しかし、楓と目が合った瞬間――その眼差しは怒りと憎悪に燃えた。「楓……お前、演技がうまかったんだな。今まで優しい妻を演じるの、さぞ疲れただろう?」 律は唇を歪めて言い放つ。「祈っておけ。もし美波に何かあれば……お前には、生き地獄を味わわせる」 第7話 美波は、最初から窓の外が一面の芝生だと知っていた。だから少し擦り傷を負っただけで済んだ。 それでも律は、片時も美波のそばを離れず、ずっと付き添っていた。 自分でスープを作り、ウサギの形にリンゴを切り、体を拭くのも律の役目だった。 「羨ましいよね、あの美波さん。あんなにイケメンで優しい旦那さんがいてさ」 「だよね。この前の楓さんなんて、あれだけひどい怪我したのに、数日経ったら誰も見舞いに来ないって」 「でもそれも自業自得だよ、見る目がなかっただけ。クズ男と結婚したんだから」 ドアの外で聞こえてくる看護師たちの会話に、律の顔が一気に険しくなった。 バンとドアを開け、鋭い声で言い放つ。「また陰口叩いてるの聞いたら、ただじゃおかないぞ」 看護師たちは驚いて慌ててその場を離れた。 律は、あの日楓が見せた強い目を思い出していた。どうしても心が落ち着かなかった。 眉間を押さえてイライラと呟く。「美波……あの日、本当は何があった?どうして窓から落ちたんだ?」 美波は一瞬で涙を浮かべ、潤んだ目で律を見上げる。「何度も言ったよ、律くん。楓さんが、私たちが関係を持ってるのを見て怒って、私を突き落としたの。信じてくれないの?」 愛する女の涙で、律の苛立ちは一気に消えた。そっと美波の涙を拭いながら、優しく言う。「もちろん信じてるよ、美波」 美波は涙ぐんだまま上目遣いで言う。「少しだけでいいから、楓さんに罰を与えたいの。手伝ってくれるよね?」 律はしばらく黙った後、静かにうなずいた。 その頃、別荘で楓の携帯に【戸籍・改名手続き完了】のメッセージが届いた。 楓は勢いよく立ち上がり、家の荷物をまとめ始めた。 「家」と言っても、最初からここを出るつもりで物を増やさなかったので、持ち物は最小限。小さなキャリーバッグすら埋まらなかった。 三年過ごしたこの家に、ほとんど思い出も未練もなかった。必要最低限だけを詰めて、虚しく笑う。 三年いても、こんなに荷物が少ないなんて、自分でも呆れるくらいだ。 ドアの外で物音がして、荷物を隠す暇もなく律に手首をつかまれた。 律の顔は不機嫌で怒りを隠そうともしなかった。「美波はまだ病院にいるのに、お前は旅行か?少しは思いやりってもんがないのか」 楓は律が「旅行」だと誤解したことに、内心ほっとした。静かに手を引き抜く。「……私が突き落としたんじゃない」 ここまで来て、もう我慢する気はなかった。 真っすぐに律を見つめる。「私は一度も美波さんを傷つけていない。全部、美波さんの自作自演だよ」 律はあきれたように乾いた笑いを浮かべる。「そうか、じゃあ俺が間違ってたんだな」 その目が急に冷え切り、嵐の前の静けさに変わる。「誰か、楓を車に乗せて美波のところに連れて行け」 車は病院には向かわなかった。 市の中心にある、国内で最も高いタワーの回転レストランに連れていかれた。 美波は車椅子で運ばれ、頬にはまったく病人らしさがなく、むしろ前よりも元気そうだった。 ボディーガードに粗末に投げ出されても、律は一瞥もしない。美波の肩にそっと毛布をかけ、優しく声をかける。「退院したばかりなんだから、もっと暖かくしろよ。こんな高いところは風も強いし」 律は美波を押して楓の前まで連れてきた。「ほら、楓を連れてきたよ。好きにしたらいい」 美波は笑いながら言う。「楓さんは律くんの奥さんだから、あまりひどいことはできないけど……窓の外で一時間だけ吊るしておくくらいで十分かな」 その言葉に、楓は顔を上げて絶句した。ここは地上600メートル以上の高さ。普通の人でも気絶しかねない場所だし、楓は重度の高所恐怖症だ。 「律、私たちはもう離婚したの。あなたにこんなことをされる筋合いはない」 本当は家を出てから、律の母・涼子から彼に離婚のことを伝えてもらうつもりだった。でも、今言わないと、楓はこのまま心臓発作で死んでしまうかもしれない。 だが律は冷たく鼻で笑うだけだった。「俺のサインなしで離婚できると思ってるのか?お前の口から真実が出たためしがない」 その時、律の父・雅人が言っていた言葉が頭をよぎった。律は、自分が何の書類にサインしたか分かっていなかったのだ。 楓は絶望で目を閉じ、体が震えだした。「律、こんなことされたら……私、本当に死ぬかもしれない」 律は見下ろして言い放つ。「お前は美波を窓から突き落とした時、死ぬかもなんて思わなかったんだろ? 心配するな。お前なら耐えられる。自分から来たいって言い出したんだろ?」 そのまま律は躊躇いなく、ボディーガードに命じて楓を窓の外へ吊らせた。 足元600メートル下の景色に、楓の心臓はトラックに轢かれたように痛む。 これが、彼の復讐だということに気づいた。楓が「美波が怪我をしたのは自作自演だ」と言ったから、彼は「自分から来たいと言ったんだろ」と言い訳して、彼女をビルの屋上から吊るしたのだ。 こんなに長く結婚して、愛がなくても多少の情はあると思っていたけれど、それすら自分の勘違いだった。 律は誕生日も記念日も覚えてくれなかったし、自分のアレルギーすら知らない。唯一覚えていたのは「高所恐怖症」だけ。それすら、ただ傷つけるために使った。 全身の血の気が引いて、肌は死人のように青白くなる。遠くの青空を見上げ、楓は必死に拳を握った。明日……明日には全部終わる…… あと一時間。律の気が済めばすべて終わる。そう信じて、楓は歯を食いしばった。 吊られている間、心臓は爆発しそうで、何度も止まりそうになりながら、それでも必死に耐え続けた。 向かいのビルの巨大な時計が、静かに一度だけ鐘を鳴らした。ようやく一時間が経過した。 荒い息をつきながら、窓の内側に叫ぶ。「律!もういい、降ろして!」 しかし、誰もいなかった。美波は律に送られて先に帰り、楓は600メートルの高さで朝から晩まで吊されたままだった。 レストランの閉店時間になり、ようやく地上に降ろされたときには、全身が汗と嘔吐物でぐしゃぐしゃだった。 全身は見るも無惨なほどで、顔色は真っ青だった。 足を床につけた瞬間、膝が抜けてそのまま座り込む。 そのとき、スマホが震えた。律からのメッセージだった。【明日、美波と旅行に行く。おとなしくしていろよ】 返事はしなかった。震える手で財布からマイナンバーカードを取り出す。 もう……何もいらない。この場所に、もう二度と戻らないと決めた。 電話を一本かけると、すぐに頭上からヘリの音が響いた。 プライベートジェットが目の前に降り立ち、制服姿のスタッフが声をかける。「神宮寺さんですね?どうぞご案内します」 楓はスマホとSIMカードをそのままゴミ箱に投げ捨て、顔を上げると、瞳は眩しいくらいに輝いていた。 「いえ、これからは滝川と呼んでください」