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自閉症の嘘と遅すぎた悔い
私は汐見秋穂(しおみ あきほ)。息子の倉沢直輝(くらさわ なおき)は、自閉症だと診断されていて、いつしか夫の倉沢暁人(くらさわ あきと)...
Chương (1)
第1章
私は汐見秋穂(しおみ あきほ)。息子の倉沢直輝(くらさわ なおき)は、自閉症だと診断されていて、いつしか夫の倉沢暁人(くらさわ あきと)の亡くなった初恋の女性――小山由香(こやま ゆか)を、実の母親だと思い込むようになった。
直輝の病状をどうにか抑えるために、私は六年ものあいだ、夫の初恋を演じ続けてきた。
好きでもない服を身につけ、鏡の前で何度も由香の笑い方や仕草をなぞる。そうしているうちに、私はすっかり自分を失い、彼女の残像の中に自分を埋もれさせていた。
ところがある日、私は思いがけず暁人と直輝の会話を聞いてしまった。
「やっぱりパパの作戦ってすごいよね。僕が自閉症のふりをしてれば、おばさんは僕に気を遣って、ちゃんとママみたいになってくれるんだもん」
「いつまでもおばさんなんて呼ぶなよ。お前は俺と由香の体外受精で生まれたにしても、実際に腹を痛めて産んだのは秋穂なんだ」
六年間も私を縛りつけてきた自閉症は、最初から存在しなかった。それどころか、十か月もお腹で育てて産んだこの子でさえ、私の子どもじゃなかったのだ。
全身が一気に冷え込み、私は震える指で、大富豪の息子に電話をかけた。
「あなた、前に『ママになってほしい』って言ってたわよね。いいわ、なってあげる」
第1話
私は汐見秋穂(しおみ あきほ)。息子の倉沢直輝(くらさわ なおき)は、自閉症だと診断されていて、いつしか夫の倉沢暁人(くらさわ あきと)の亡くなった初恋の女性――小山由香(こやま ゆか)を、実の母親だと思い込むようになった。
直輝の病状をどうにか抑えるために、私は六年ものあいだ、夫の初恋を演じ続けてきた。
好きでもない服を身につけ、鏡の前で何度も由香の笑い方や仕草をなぞる。そうしているうちに、私はすっかり自分を失い、彼女の残像の中に自分を埋もれさせていた。
ところがある日、私は思いがけず暁人と直輝の会話を聞いてしまった。
「やっぱりパパの作戦ってすごいよね。僕が自閉症のふりをしてれば、おばさんは僕に気を遣って、ちゃんとママみたいになってくれるんだもん」
「いつまでもおばさんなんて呼ぶなよ。お前は俺と由香の体外受精で生まれたにしても、実際に腹を痛めて産んだのは秋穂なんだ」
六年間も私を縛りつけてきた自閉症は、最初から存在しなかった。それどころか、十か月もお腹で育てて産んだこの子でさえ、私の子どもじゃなかったのだ。
そのすぐあと、暁人の気だるげな声がまた聞こえてくる。
「お前はこのまま病気のふりをしてろ。秋穂を、お前の母さんそっくりの女に作り替えるんだ。
そうだ、一か月後はお前の母さんの誕生日だ。秋穂を使って派手な結婚式を挙げて、昔お前の母さんが願っていた俺との結婚って夢を、きっちり叶えてやらないと。
誕生日が終わったら、おばさんじゃなくて、ちゃんと恩をわきまえて、ママって呼べよ」
人は悲しみの極みに達すると、もう泣くことすらできない。膝から力が抜け、私はその場に崩れ落ちる。こみ上げる吐き気を必死に手で押さえたとき、その音に気づいたのか、中から男の声が飛んできた。
「誰だ?そこにいるのは」
刃物のような鋭い視線が、警戒心むき出しのまま私を貫く。
父子の前に出ていくと、「今来たばかりで、何も聞いていないのか」と何度も確かめられた。
私が同じ答えを何度も繰り返したあとで、暁人はようやく胸をなでおろした。
「どうした?転んだのか?」
「うっかり足をくじいただけ……」
そして、彼は私の膝をすくうように腕を差し入れ、そのまま軽々と抱き上げて、捻った足首の手当てをしに連れて行った。
何千億円もの売り上げを誇る会社の社長が、こんなふうに自分の手で世話を焼いてくれることを、以前の私は幸せだと錯覚していた。けれど今は、胸の奥がむかつくだけだ。
直輝が良くなりそうな治療の糸口を見つけるたびに、暁人は必ずそれを止めに入った。
「自閉症は病気じゃない。生まれつきの神経発達の問題で、簡単に治るものじゃないんだ。お前がそんなことで無理をすると、俺のほうがつらくなる。
直輝がどうであっても、俺はあいつを愛してる。俺たちの愛の証だからな。一生かけて、俺が守ってやる」
あの自閉症にほころびがあったことなど、ずっと前から気づけたはずだ。
でも私は、甘い恋の夢に浸っていた。暁人がつくり上げた嘘を疑おうともしなかった。
「今回のことが片付いたら、もう外には出るな。家で直輝の面倒だけ見ていればいい。
怪我なんかしていたら、由香みたいに見えないだろ。直輝が見たらショックを受ける」
しゃがみ込んだ暁人が、そっと私の足に靴を履かせる。そのまま見上げてくるまなざしは、まるで神様でも拝むように熱くて、深い愛情と執着が混じっている。
けれど、私の胸に浮かんでくるのは、ただ一つの問いだけ――あなたが怖いのは、本当に直輝がショックを受けること?それとも、私が由香の輪郭から外れるのが怖いだけ?
「暁人、あなた、本当に私のことを愛してるの?
まだ……亡くなった由香を想ってるんじゃないの?」
私がそんなことを口にするとは、暁人も思っていなかったのだろう。これまで私は、彼の「愛してる」という言葉を、一度も疑ったことがなかったのだから。
少し間をおいてから、暁人は少し拗ねたような色を帯びた視線で私を見つめる。
「俺が愛してるのはお前だよ。もうこの世にいない人間なんて、比べるまでもないだろ。
この何年、俺がどうお前に向き合ってきたか見てきたはずだろ?それでもまだ、俺の愛が信じられないのか?」
暁人が私に一目惚れしたのは、二十歳のときだった。
母のお墓の前で、誰にも言えない愚痴をぶちまけて、ひとりで帰り道を歩いていたとき、突然、空が裂けるような土砂降りの雨が降り出した。
理由もなく、私は涙が止まらなくなっていた。
そのとき、不意にひとつの影が視界に飛び込んできた。顔を上げると、そこには若く気品をまとった暁人が立っていた。失っていたものをようやく取り戻したような視線が、まっすぐに私を捉えていた。
女の子をどう慰めていいのか分からなかったのだろう。彼はポケットや鞄をまさぐり、差し出せるものを探した。そして、ようやく見つけた傘と花を、そっと私へ差し出した。
「その目は、とてもきれいだ。だからもう泣かないで」
その日を境に、暁人は、容赦がないほど熱心に私を追いかけてきた。ギャンブルに溺れた父の借金を一人で背負っていた私を、何度となく救い上げてくれた。
第2話
私たちは、ごく自然な流れで結婚した。結婚してからも、暁人の私への情熱は冷めるどころか、増す一方だった。
私と目がそっくりだという初恋の人の存在を知ったとき、暁人は一切ためらわず、由香にまつわるものを全部消し去った。さらに、車の事故では、身を張って私への愛を示した。
もし直輝の自閉症がなければ、もしあの子が、暁人の手元に残っていた由香の最後の写真を見つけなければ。私はきっと、世界でいちばん幸せな女だった。
けれど、世の中にもしもなんて存在しない。溢れるほどの愛だと思っていたものは、すべて暁人が綿密に仕掛けた罠にすぎなかった。
すべては、彼の初恋を蘇らせるためだ。私の腹で、由香との子を産ませるためだ。
「悪かった。俺が不安にさせたんだよな。
来月、お前のために世間が羨むような盛大な結婚式をしてやる。そのときになったら、もう俺の気持ちを疑ったりしないだろ?」
私がしばらく黙り込んでいると、暁人はそっと立ち上がり、なだめるように軽くキスをしてきた。
彼はキスが上手い。ひやりとした感触が鼻先に触れた瞬間、抑えようとしていた鼓動が、一気に速くなっていく。
「ここに、ホクロをひとつつけようか。お前の鼻、すごくきれいだからさ」
バケツ一杯の冷水をぶちまけられたような気がして、私は勢いよく暁人を突き飛ばした。
由香の鼻先には、人を惹きつける小さな美人ほくろがあったのだ。
その瞬間、私は暁人に対して、きれいさっぱり心が死んだ。頭に浮かぶのは離婚の二文字だけだ。
それでも、直輝のことだけは、心のどこかで手放せずにいた。
さっき滑らかに言葉を話す彼を実際に見たって、焦点の定まらない目のまま一言も発せずにいた直輝の姿が、やはり焼きついたまま頭から離れない。
私は、海外でようやく手に入れた高級パズルを抱え、涙を拭って直輝の病室に入った。
「直輝、見て。ママ、こんなの買ってきたんだ。一緒に遊ぼう」
直輝は私を一瞥することもなく、ベッドの上で黙々とルービックキューブをいじっている。
キューブを揃えるその速さは、とても普通の自閉症の子どもにできるものとは思えなかった。
前の私は、直輝は高機能自閉症なんだと信じていて、いつかきっと治ると期待していた。
けれど今は、はっきり分かっていた。芝居じみた病気には、もともと治しようがない。
私がどれだけ必死に頑張っても、彼の目にはすべて、ただの笑い話にしか映らない。
それでも諦めきれず、私はパズルを直輝の目の前にそっと置いた。彼が私の子どもではないと知っても、一度でいいから「ママ」と呼んでもらいたかった。
「直輝、こっち向いてくれる?こんなに離れてたから、ママ、すごく会いたかったのよ」
けれど、返ってきたのは、直輝が突きつけてきたハサミだ。
「ママじゃない……ママ、白、着る」
引きつった笑みを浮かべたまま、母が生前、たった一枚だけ私に残してくれたミントグリーンのワンピースが、直輝のハサミで一刻みずつ切り裂かれていく。
胸元からは血がつっと流れ落ちていたのに、痛みを感じる余裕すらなく、私は何度目かも分からないほど繰り返して、直輝に言い聞かせる。
「ママは緑が好き。ママは白なんて好きじゃない」
そして、これもまた何度目か分からないパターンで、私は絶叫して暴れ出した直輝に病室から追い出された。
私が彼のために選んだマグカップが、私の額に叩きつけられて砕け散る。視界が一瞬真っ暗になる。
「ママ」と呼ばれることは、最後までなかった。胸を波立たせながら、直輝は言い放つ。
「一生、嫌い……悪いおばさん、ママじゃない!」
血の跡を洗い流そうと浴槽に足を入れた瞬間、火傷しそうなほどの焼ける痛みがふくらはぎを走り、私は思わず水面から跳ね上がった。
けれど、浴室の仕切り越しに小さな影がちらついているのが見えて、私はそのまま、刺激の強い液体が傷口に染み込む痛みに耐え続けるしかなかった。
直輝は男女の区別なんてこれっぽっちもなく、踏み台によじ登ると、私が用意していた服を片っ端からハサミで切り裂き、最後に一枚だけ、真っ白なワンピースを残した。
そして、陰気な声で告げる。
「着るの、白だけ……トウガラシ水、罰!」
驚きと怒りで体が震えるほどだったのに、直輝に頭からバケツ一杯の氷水をぶちまけられ、私はもうどうすることもできない。
結局、仕方なく真っ白な格好で浴室を出ることになった。
「おばさん」
ひとしきりお仕置きを終えて落ち着いた直輝が、ずきずき痛む胸元に日記帳を押しつけてくる。
「物語……読んで」
何事もなかったかのように素直な表情を浮かべるその顔を見つめながら、心の中はいくつもの感情でかき乱された。
それでも結局、怒りよりも母性のほうが勝ってしまった。
第3話
私は直輝の肩を持つように、自分に言い聞かせた。悪いのは、服を間違えた私だと。いつもなら、彼に会う前にちゃんと白いワンピースに着替えていたのに。
けれど、読み進めるうちに、物語の文面とともに私の顔色はどんどん青ざめていく。
「パパはママのことが恋しすぎて、毎日ママのお墓に通っていた。そして、ある日、パパは、ママに目がそっくりな女の人を見つけた……」
直輝が持ってきた日記帳にあるその物語は、「パパ」が「ママ」をどれだけ愛しているかで埋め尽くされ、さらに、私という「おばさん」が子どもを産むためだけの替え玉だともはっきり書き込まれていた。
もうどうしても読み続けることはできないのだ。直輝が、私の二の腕に青あざができるほど力をこめてつねり上げても、もう無理だ。
私は本を閉じて立ち上がり、その場を離れようとした。だが、直輝が私の腕をつかむ。
どこか壊れたような、ねじれた響きの声で、まるで私の運命を宣告するかのように物語の結末を告げる。
「最後はね、おばさんが交通事故で記憶をなくすの。おばさんは自分のことを全部忘れちゃう。そしたらやっと、『ママ』が僕たちのところに帰って来るんだよ!」
悪魔だ!
私は恐怖と戦慄で、全身の震えが止まらない。直輝に対してかすかに残っていた期待も、その瞬間に完全にすり減って消えた。私は、逃げ出すようにその私立病院を後にした。
直輝はきっと、私がすべてを聞いていたことに気づいている。そうなれば、暁人の耳に届くのも時間の問題だ。
――今すぐ、この親子から逃げなければならない。
私は、ファレン国一の大富豪の息子に電話をかけた。
「凛斗、前に言ってたお礼、まだ有効かな?」
ファレン国で直輝の主治医になってくれそうな医者を探していたとき、私は地震に巻き込まれた星野凛斗(ほしの りんと)の命を救った。
それ以来、彼はずっと私に「僕のママになってほしい」とねだってくるのだ。
私からすれば、あれはほんのささいな親切にすぎない。だから彼が申し出てくる恩返しは、これまで全部断ってきた。
今になってその恩にすがろうとするなんて、さすがに自分でも図々しすぎるんじゃないかと思う。
「じゃあ、汐見おばさん、僕のママになってくれるってこと?」
私はしばらく黙り込み、凛斗の父とはまったく縁もゆかりもないことを思い出して、結局、離婚を手伝ってほしいなんてお願いは、飲み込んでしまった。
バスに揺られ、A市からずいぶん離れた場所へたどり着くころには、直輝からの着信はもう数えきれないほどになっていた。暁人からも、【サーモンのフルコースを結婚式に用意した】とメッセージが来た。
けれど、私は海鮮アレルギーだ。サーモンが好きで、魚料理を好んでいたのは、由香のほうだ。
私はそっと目を閉じて、本性を知ってなお、つい恋しがってしまう二人の連絡先をブロックした。強く噛みしめたせいか、口の中には、血の鉄臭い味が広がっていた。
「向こうからの虐待が証明できれば離婚できるって聞いたんですけど、精神的な虐待も、対象になりますか?」
どうすれば暁人と離婚できるか、弁護士に相談していたそのときだった。夢の中でしか聞こえないはずの「ママ」という声がして、私は全身の血が一気に冷えた。
私は驚いて振り返った。そこには、全身をほこりまみれにした直輝が、涙で顔をぐしゃぐしゃにして立っていた。その口ぶりには、自閉症らしさなんてかけらもない。
「ママ、僕を置いてこんな遠くまで来ちゃって……もう、僕のこといらないの?」
その真っ黒な目は、獲物を値踏みする冷血な獣のように私に貼りつく。法律事務所の中で、私のことをひそひそと噂する声が一斉に湧き上がる。
「離婚したいからって子どもまで捨てるなんて、これじゃ悪いの、むしろ奥さんのほうじゃない?」
「こんな遠くまで、息子が追いかけてくるくらいなのに、母親は真っ先に隠れようとするなんて」
「このお母さんのほうが、別の男でも作って夫と子どもを捨てるつもりなんじゃないの?」
私の離婚相談を受けている弁護士も視線が冷たくなり、「証拠がないなら、むやみに離婚を申し立てないほうがいいですよ」と冷やかに告げた。
「ママ、一緒におうちに帰ろ?パパも、ママに会いたがってるよ」
直輝が私の服の裾をつかんで離さない。私は血の気の失せた唇で思わず一歩退いた。そのとき、彼が持ってきた録音機から、暁人の弱々しい声が流れ出してくる。
「秋穂、ごめん。最近、会社の資金繰りが苦しくてさ、約束した結婚式、来週にはちゃんと挙げてやるから、怒って家出なんかしないでくれよ、な?」
この録音が流れた時点で、周りはもう、何をどう受け取ればいいか決めてしまった。
私はたちまち、「何もないのに騒ぎ立てている、性格の悪い女」に仕立て上げられ、ここで離婚の相談を続ける余地は、完全になくなった。
さらに、直輝が連れてきた屈強なボディーガードたちに取り囲まれ、逃げ場もなくなってしまう。
あの見慣れすぎていて、今では恐ろしいとさえ感じる倉沢家に着くまで、直輝は、私が逃げ出さないようにと、ずっと私の手をぎゅっと握りしめて離さなかった。
子どもの力なんて、大したことはない。私はその手を振りほどき、いったん部屋に戻って対策を練り直そうとした。
第4話
まさか直輝に突き飛ばされるとは思ってもみなかった。
平手打ちが雨あられのように体に降り注いだとき、私を真っ先に襲ったのは、肌に走る鋭い痛みではなく、胸の内側をかきむしられるような激しい心の痛みだった。
「おばさんは優しくもないし、従順でもない。少しでも思いどおりにならないと、すぐ逃げ出そうとする。自分のことしか考えてなくて、いつまでたっても直らない!
そんなおばさんなんか、ぼくのママじゃない!」
この体から産み落としたはずの子が、またしても言葉で私の古傷を容赦なくえぐり返す。
もう、前みたいに黙って我慢なんかしていられない。私は起き上がって、馬乗りになっていた直輝を押しのけた。
「私なんか、あなたのママにふさわしくないよ。だったら、もう放して!
どうして、そこまでして無理やり連れ戻したりしたの?」
床に倒れ込んだ直輝は、呆然とした顔で私を見上げた。自分を何より大事にしてきたこの私が、反撃してくるとは思いもしなかったのだろう。
けれど、彼が逆上するより早く、暁人が私の下腹を容赦なく蹴りつけてきた。その衝撃で、私は床に転がる。
「よくも直輝を傷つけたな!
直輝は、由香がこの世に残していったたったひとつの形見なんだぞ。それをお前が傷つけるなんて、許せるわけがない!」
暁人の目の奥に渦巻く激しい怒りと、愛した女への未練を見ていると、蹴られて悪化した持病の胃の痙攣さえ、もうほとんど感じなくなっている。
私はただ呆然としたまま、暁人が執事に「代償を払わせろ」と言いつけるのを見ていた。そして、箸ほどの太さの針が指先に突き立てられ、バットが何度も背中に振り下ろされても、そのすべてを、成り行きに任せるように受け入れるしかなかった。
「なぜ声も上げないの?痛いよね?」
罰が終わると、暁人はまた、あの見せかけだけの優しさをまとった声でそう言った。
けれど、私はもう取り繕う余裕なんて一ミリも残っていない。
「痛いなんて叫んだら、由香のことを思い出して、かわいそうになって手が止まるからでしょ?
ねえ、暁人、あなたは私を何だと思ってるの?
出来損ないの代役?それとも、あなたと由香の子どもを宿すためだけの器?」
暁人の表情に、ほんのわずかな動揺が走った。あの日、本当のことを私が全部聞いていたなんて、想像もしていなかったのだろう。彼はしばらく言葉を失って、黙り込んでいる。
けれど、私はもう黙っていられなかった。この痛みを言葉にしなければ、代わりに涙になってあふれ出てしまう。
「お願い……私は何年も、あなたと直輝を本気で大事にしてきたじゃないか、それに免じて、もう私を解放して。
私は何もいらない。だから、離婚して」
その言葉を聞いた途端、暁人と直輝の顔色が同時に曇った。
「離婚?そんなの、夢にも見るな」
心も体もボロボロになった私は、そのまま意識を手放した。
次に目を覚ましたとき、手足は拘束帯でぐるぐると固定されていて、体中には細い針がびっしりと刺さっている。
「本当に秋穂の記憶まで消すの?今の性格だって悪くないし、もう何年も一緒にいて慣れているじゃないか?」
「でも、彼女はどうやってもママみたいになれないよ。自分勝手で、全然悪いと思ってないし、僕たちにだって、前よりずっと冷たくなってる」
暁人が口をつぐむと、直輝はさらに言葉を重ねる。
「パパは、本物のママがほしくないの?おばさんはどれだけママに似てても、それは見た目だけだよ。記憶を消して性格を作り直さないと、本当のママは戻ってこないんだ」
足音が近づいてくる。暁人が、正体の知れない薬剤の入った注射器を手に、私のそばに来る。
「やめて……」
涙がこめかみを伝い落ちて耳元の髪を濡らし、私は必死で首を振る。
「由香は、あなたたちが思っているような、そんな完璧な人じゃない。お願い、一度でいいから、ちゃんと調べてみて。お願いだから、私を、別の誰かに作り替えないで」
由香の存在を知ったときから、私は密かに彼女のことを調べていた。
彼女の死には不自然な点が多くて、その人柄だって、倉沢父子が思い描いているような完璧なものではなかった。
私はこれまで、遠回しな形でそれを何度も伝えようとしたが、二人は一度たりとも信じようとはしなかった。
追い詰められた今になって、私が差し出せる最後の切り札は、それしかない。どうか気持ちを変えてほしいとすがりついていた。
だが、今度もこれまでと同じ結末に行き着く。倉沢の父子にとって、この世でいちばん大事なのは、いつだって由香だけなのだ。
暁人の目に、一瞬だけためらうような色がよぎった。
「もう、無駄なあがきはやめろ。由香を貶めれば貶めるほど、俺たちはますますお前が嫌いになるだけだ」
「お前ら、僕のママを放せ!」
薬剤が押し込まれようとしたその瞬間――ひゅっと風を裂く音とともに、一丁の折り畳みナイフが飛び込み、注射器のチューブを斬り裂いて、そのまま壁に深々と突き刺さった。