Đang tải thông tin quảng bá...
愛の終わり、帰る日のない場所へ
響音寺の境内は、読経の響きと人々の熱気で満ちあふれていた。 そんな中、望月明日香(もちづき あすか)も本堂の座布団にひざまずき、ひたす...
Chương (1)
第1章
響音寺の境内は、読経の響きと人々の熱気で満ちあふれていた。
そんな中、望月明日香(もちづき あすか)も本堂の座布団にひざまずき、ひたすらに祈りを捧げいた。
「私、望月明日香は聖地へ向かいます。聖山を守り、二度と北嶺山地からは出ないことを誓います!」
その傍らで住職の藤原宗道(ふじわら そうどう)は質素な衣をまとう明日香を見つめた。「聖山朝霧は、最後の浄土だ。足を踏み入れるなら、執着を捨て、人の情けも欲もすべて断ち切らねばならぬ」
それを聞いて、明日香の瞳がわずかに揺れる。だがその奥にあるのは、すべてをあきらめたような静けさだった。
「はい、もう結婚も子供も望まない。すべての未練を捨てて、この身を捧げる覚悟はできているから!」
そんな彼女を見て宗道は目に憐れみの色を浮かべて言った。「聖山は空気も薄く、一年中凍えるほどの寒さだ。それだけ生活環境も厳しく、一度入れば、命尽きるまで聖地を守り続けねばならないのだ。
明日香、本当に覚悟はできているのか?」
だが、明日香は深くうなずいて言った。「はい。私は命あるかぎり一生を聖地に捧げるつもりよ!」
彼女の決意が固いのを見て、宗道もそれ以上引き止めなかった。「では3日の間、身を清めて待てなさい。その後、地元の者に聖山へ送らせよう」
明日香が向かう聖山朝霧は、仏教の聖地で、部外者が足を踏み入れることは許されていないのだ。
一旦聖地を守るために山に入れば、外の世界とは完全に切り離されてしまうことになる。
それはつまり、青木涼太(あおき りょうた)とも、もう一生、二度と会えなくなるということだった。
第1話
響音寺の境内は、読経の響きと人々の熱気で満ちあふれていた。
そんな中、望月明日香(もちづき あすか)も本堂の座布団にひざまずき、ひたすらに祈りを捧げいた。
「私、望月明日香は聖地へ向かいます。聖山を守り、二度と北嶺山地からは出ないことを誓います!」
その傍らで住職の藤原宗道(ふじわら そうどう)は質素な衣をまとう明日香を見つめた。「聖山朝霧は、最後の浄土だ。足を踏み入れるなら、執着を捨て、人の情けも欲もすべて断ち切らねばならぬ」
明日香が向かう聖山朝霧は、仏教の聖地だ。一旦聖地を守るために山に入れば、外の世界とは完全に切り離されてしまうことになる。
それはつまり、青木涼太(あおき りょうた)とも、もう一生、二度と会えなくなるということだった。
……
明日香は幼い頃に両親を亡くし、響音寺で育った。
5歳の時だった。両親とお参りに来た際に、恨みを持つ者の襲撃を受けたからだ。
あの時両親は暴漢に殺されたが、彼女は仏像の台座の下に隠れて、奇跡的に助かった。
ひとりぼっちになった明日香を見て、宗道が不憫に思い、引き取って育てあげた。
18歳のとき、明日香は涼太と出会い、一目で恋に落ちた。
当時、涼太は親が決めた政略結婚から逃げるため、北嶺山地へやって来て修行生活を送っていた。
ある夜、明日香はこっそりと彼の部屋の扉を開けた。
涼太は座布団の上で、数珠を指で繰りながらお経を唱えていたのだったが、その冷ややかで禁欲的な姿が、かえって彼女の心をかき乱した。
明日香は思い切って涼太の膝にまたがると、白い指先で強引に彼の顎を持ち上げた。
彼女のまとっている赤いドレスは薄く、なまめかしい身体のラインが透けて見えるほどだった。
数十年も「いい子」として生きてきたけれど、彼女は一度だけでいいから、羽目を外してみたかったのだ。
「青木さん、あなたはまだ未練があるでしょう?これでは、お経を読んでも心は静まりませんね」そう言って明日香は声をかけた。
一方の涼太の目線は、雪山のように冷たく鋭く、どこか触れることさえためらわせるような威圧感があった。
彼は瞳の色を少し沈め、低い声で警告するように言った。「神聖な場所で、罰当たりな真似はやめなさい。恥ずかしいと思いませんか?」
しかし、そう言われても明日香はしなやかな身体を寄せ、艶めかしく涼太の腰に腕を回す。「人には愛も欲も、喜びも悲しみもあるもので、どうして恥ずかしがる必要があるんですか?」
18歳といえば、恋に憧れ、夢を見たくなる年頃だ。
ずっと響音寺で育ってきた明日香は、外の世界に強い憧れを抱いていた。
だが、そんな艶めかしい姿を見せる彼女を目の前にしても、涼太の表情には波ひとつ立たず、目線も冷え切ったままだ。
すると、明日香はゆっくりと甘い言葉をささやいた。「青木さんは政略結婚の犠牲になりたくないのですが、家族とも揉めたくないので、ここへ逃げてきたんでしょう?
逃げるのは臆病者だけがすることで、強い人は運命を範疇に収めるために自ら立ち向かうものです!」
本来なら、涼太は寺という静寂の地に逃げ込むことで、世俗の煩わしさから離れられると思っていたのだ。
だが今、彼は明日香の言葉を聞いて、彼女の耳元に顔を寄せ、熱い吐息が吹きかけた瞬間、平常心は音を立てて崩れ去ったようだ。
その晩、蝋燭の炎が揺れ、窓のカーテンがふわりと舞う中、
部屋は甘く、濃厚な空気に満たされていった。
第2話
初恋を知った明日香。彼女は外の世界の華やかさに、すっかり目を奪われていた。
そのまま宗道に別れを告げて、涼太と共に東都へ旅立つことにしたんだ。
宗道は明日香を引き留めようとした。「外の世界は誘惑ばかりで、欲望に飲み込まれて、本当の自分を見失ってしまうことがある。
ここでの暮らしも悪くないし、外の世界が想像ほど素晴らしいとも限らないんだぞ」
でも、明日香の決意は揺るがなかった。「大丈夫。また、時間ができたら、会いに戻ってくるから!」
こうして、彼女は涼太に青木家へ連れて行かれ、何不自由のない贅沢な暮らしをさせてもらった。
このことは東都の社交界でも噂となって、なにやら涼太が美人を囲んでいるなどと広まっていたのだ。
それからの5年間。涼太はとことん明日香を甘やかして、大切にしてきた。
彼女が機嫌を損ねれば、数億円の商談なんて放り出して、海外から夜通し飛行機を飛ばして、ご機嫌を取りに戻ってくるほどだ。
ある日、明日香が事故でプールに落ち、重い肺炎にかかってしまった時のこと。医師には「覚悟をしてください」とまで言われた。
涼太は土砂降りの雨の中を飛び出し、彼女の命をつなぐお守りを求めるために観音寺へ走った。
何百段の階段を、一段進むたびに深々と祈りを捧げて登りきると、彼の足はガクガクになっていたのだった。
そして、涼太は20億円を投じて小惑星の命名権を買い、そこに明日香の名前を付けたりもした。
さらに、愛染堂という縁結びに縁がある名所では敬虔に祈りを捧げ、二人の名前を刻んだ縁結びの錠を自らの手でかけたこともある。
だから、周りの人も皆、涼太が明日香に心底惚れていると言っていたのだ。
しかし、5周年の記念日。プレゼントを用意して涼太の元へ向かった明日香は、友人たちと談笑する彼の声を耳にしてしまうのだった。
「霞は海外で療養してるけど、随分良くならないんだ。彼女の最大の願いは、俺との結婚式だからさ。とびきり盛大な式を挙げてやるって約束したよ」
すると友人たちがからかうように尋ねた。「明日香さんに知られたら、大変なことになるんじゃないか?」
すると、涼太は気だるげに瞼を上げた。「明日香は嫉妬深いからな。お前らも口裏を合わせて、上手く隠し通してくれ」
それを聞いて友人は更に囃し立てた。「あなたたちの婚姻届が本当は手続き行われていなかったなんて知ったら、彼女はショックで倒れちまうだろうな!」
それを聞いて、明日香は息が詰まり、あふれ出る涙をどうしても抑えることができなかった。
金田霞(かねだ かすみ)こそが、涼太の心に住み着く「高嶺の花」であり、永遠の想い人なのだ。
霞と涼太は若い頃に愛し合ったが、家族が猛反対し無理やり別れさせようとした。
そのために、生まれつき心臓に病気を持っていた霞を、青木家は療養名目で海外へ追い出したのだ。
そして、そんな幼なじみである彼女の高額な治療費を、涼太がずっと肩代わりし続けているのだった。
一方で涼太は友人の言葉など全く気にしていないようで、逆にとろけるような優しい目で言った。「霞は賑やかなのが好きだからさ。結婚式の日は、お前ら絶対盛り上げに来いよ!」
「明日香さんはお前にベタ惚れで、この5年間ずっと尽くしてきたってのになぁ」
その言葉に周囲は下卑た笑い声が響いた。「あんな極上の女だ、ベッドの上じゃさぞかし楽しんだろうな?」
すると、涼太は腕の数珠ブレスレットを弄りながら答えた。「霞は体が弱いから、指一本触れるのも惜しい。だから俺は、抑え込んだ欲求を全部、明日香にぶつけて処理してたんだよ。
あいつは何でも受け入れるからな。ベッドでの趣向も豊富で、ありとあらゆる体位を試させてくれたぜ!」
それを聞いて、明日香は奈落の底に突き落とされたような気分だった。そして息がつまり、呼吸ができなくなるほどになった。
すると今度は友人たちが涼太に知った風な口調で忠告した。「涼太、あんまり感情を入れ込みすぎるなよ?潔く別れるのが難しくなるぞ」
だが、涼太は眉を軽く上げた。「明日香が毎日飲むミルクに、俺がこっそり避妊薬を混ぜてるんだ。子供なんてできないし、あと腐れになることもないさ」
一方でそれを聞いていた明日香は、思わず結婚指輪が皮膚に食い込むほど手をぎゅっと握りしめ、その突き刺す鋭い痛みを感じた。
涼太の今まで自分に向けた優しさはすべて、計算ずくの偽りだったなんて。
そう思うと、明日香は指輪を引き抜くと、変形するほどの力を込めて、ゴミのように放り投げた。
それから彼女がドアを勢いよく開けると、個室に響いていた笑い声がピタリと止んだ。
第3話
片や、明日香が入ってくるのを見て、涼太は近づき、自分の体温が残る上着をふわりと肩に掛けてあげた。「外は雨なのに、どうしてここへ?」
明日香は喉まで出かかった問い詰めたい言葉を飲み込んで、こう答えた。「今日は、7回目の結婚記念日だから」
「結婚」という言葉に、彼女はことさら力を込めながら言った。
だが涼太の口調は、相変わらず優しかった。「ごめん。最近、接待で忙しくてプレゼントを用意し忘れてたよ。
何が欲しい?シャネルの新作バッグ?それとも、カルティエのネックレスかな?」
彼は嘘をつくのが本当にうまい。あまりに自然で、疑う余地もないほどだ。
今まで、この人は自分にどれだけの嘘を重ねてきたんだろう。
明日香はバッグの中で、妊娠検査の結果用紙を強く握った。サプライズにするつもりだったけれど、もう必要ないみたい。
そう思うと急に、胃の奥から強烈な吐き気がこみ上げてきた。
すると、彼女はトイレに駆け込み、視界がくらむほど激しく嘔吐した。
だが、それを目の当たりした涼太は逆に眉をひそめ、じっと明日香の顔色を窺った。「もしかして、子供ができたのか?」
明日香は顔面蒼白のまま、首を横に振った。「ううん。なにか悪いものでも食べたみたい」
それを聞いて、涼太はあからさまにホッとした顔を見せ、彼女を支えようと手を伸ばした。「病院まで送るよ」
だが、明日香はその手をそれとなく避けた。「薬を買って飲めば治るから、大丈夫」
外は土砂降りだったけれど、彼女はそう言うと構わず雨の中へと飛び出した。
雨の中で走りながら、彼女は顔を濡らすのが雨なのか涙なのか、もうわからないほどになっていた。
そして、あっという間に、全身がずぶ濡れになった。
そこ頃、東都はもう冬に入っていて、骨の髄まで凍えるほど寒かった。
道端にしばらく立ち尽くしてから、明日香はふらふらと薬局に入った。
店員を見つけ、感情のない声で告げる。「ミフェプリストン錠を一箱ください」
店員は怪訝そうに彼女を見た。「ミフェプリストンは中絶薬で、初期の妊娠を終わらせるための薬ですよ。
どういう薬か、わかってますよね?」
明日香はお腹に手をあてた。そこには今、小さな命が確かに宿っている。
なかなか声が出なかったけれど、ようやく言葉を絞り出した。「一箱ください。これで妊娠を、終わらせたいんです」
涼太と一緒になって5年、ずっと子供ができなかった。
やっと授かった奇跡のような命だ。ありったけの愛を注いで、大切に育てたかったのに。
でも残念なことに、この子の父親は……この子の誕生なんて望んでいないのだ。
彼はあの「忘れられない人」と家庭を作るつもりなんだ。そしたら、自分たち母子の居場所なんてなくなってしまうだろう。
薬を飲んでしばらくすると、下腹部に重い痛みが走り始めた。
何とか立ち上がろうとした瞬間、滝のように血が溢れ出すのがわかった。
そして足の間を、真っ赤な血が流れていった。
一歩動くたびに、耐え難い激痛が体を貫いた。
それはまるで体を真っ二つに切り裂けられるような痛みだった。
結局、自分が夢見た美しい愛も、泡となって消える運命だったんだ。
そう思いながら、明日香は震える手で涼太に電話をかけた。「涼太、私、家に帰りたい」
涼太は彼女の声の異変を敏感に感じ取り、急いで家に戻ってきた。
彼女は血の海に倒れていた。その体の下から広がるのは、異様な赤だった。
それを見た涼太は息を呑み、心臓が早鐘を打つのを感じた。
彼は青ざめた顔で明日香を抱き上げ、大急ぎで病院へと向かった。
すると、医師が同意書を差し出してきた。「青木さん、奥さんの子宮内に組織が残っていて、すぐに除去手術が必要です。
今すぐ、ここにサインをお願いします!」
手術台の上で、まぶしいライトが点灯した。
冷たい器具が体の中をかき回し、身を引き裂かれるような激痛に、明日香は意識が飛びそうになった。
目尻から涙がこぼれ落ちる。彼女は痛みに耐えながら、ぎゅっと瞳を閉じた。
お腹の中が空っぽになった瞬間、明日香の心も空洞になった気がした。
そして、手術が終わった後、彼女は廊下のベンチで長いこと座り込んだ。
どれくらい経っただろう。明日香はスマホを取り出し、ずっと連絡していなかった相手に電話をかけた。
「外の世界での遊びは疲れた。私、もう、家へ帰りたい」
第4話
宗道の言っていた通りだ。人の心ほど、推し量るのが難しいものはない。
涼太がどうしても「あの人」を忘れられないのなら、自分は身を引くつもりだ。泣きわめいたりもしないし、騒ぐこともしない。
彼女にとって彼が自分を愛していないことも、あの女を愛していることも受け入れることはできる。でも、自分に深い情があるふりをしながら、裏であの女とつながっているのだけは許せなかった。
彼は本当に好きな人がいるくせに、自分には心にもない甘い言葉を囁いた。そんな態度に、自分は心を動かされてしまった。
だけど、涼太はこの関係からいつでも綺麗さっぱり抜け出せるだろう。一方で残された自分は、底なし沼にはまったように動けなくなってしまうのだ。
手術を終えた明日香が、ふらふらの体を引きずって家に帰ると、信じられない光景が待っていた。自分の居場所はすでに奪われていたのだ。
そこには、涼太の後ろにおどおどと隠れる霞がいた。けれど彼女のその目から、はっきりとした挑発が見て取れた。
そして、涼太は冷たく言い放った。「霞は帰国したばかりで、泊まるところがないんだ。だから主寝室を彼女に明け渡して、君は一旦ゲストルームへ移ってくれ」
それを聞いて、使用人の北条恵(ほうじょう めぐみ)は小声で独り言をつぶやいた。「お客さんが主寝室を使って、主人がゲストルームだなんて、そんなのおかしいわよ」
一方で、霞がこちらに向ける視線には、隠しきれない軽蔑の色が混じっていた。
彼女は涼太の頬を痛ましげに撫でてみせた。「涼太、愛してもいない人と一緒に暮らすなんて、きっと辛かったでしょ?
もし最初におじさんが反対しなかったら、私たちは世界一幸せなカップルになれたのにね!」
明日香は中絶手術を受けたばかりだったから、壁に手をついていなければ、まともに立っていられないほど弱っていた。
涼太の言葉に彼女はまるで笑いものになったかのようにただ呆然と立ち尽くしていた。
そして深夜にふと目を覚ますと、隣の部屋から物音が聞こえてきた。
そこでは、霞はしなやかな体で、涼太にぴたりと抱きついて、まるで熱愛をしているカップルかのように絡み合い、口づけを交わしていた。
そして二人は久しぶりの再会に酔いしれながら、お互いの愛を確かめ合っているのだった。
「誰にも邪魔されたくないの」霞が涼太の胸にもたれかかり、甘ったるい声でおねだりしていた。「ねえ、彼女を追い出してよ」
そんな彼女に涼太は甘い声で答えた。「先生も君には静養が必要だと言っていたし、明日あいつには出て行ってもらうよ」
その一連を明日香はドアの前で長い間立ち尽くして聞いていたが、彼女はあふれそうな負の感情をなんとか飲み込んだ。
そして彼女が部屋に戻った後しばらく経ってから、突然ドアが開いて涼太が入ってきた。
さっきまで霞といちゃついて甘い言葉を交わしていた彼が今度は、すごい剣幕で明日香を問い詰めに来たのだ。
「おい、どうして妊娠したことを黙ってたんだ?」
明日香の顔は青白かったが、目は鋭かった。「妊娠したのは私なんだから、産むか産まないか決める権利も私にあるわ」
それを聞いて、涼太は手に持っていた数珠ブレスレットを引きちぎった。「あれは青木家の大切な跡継ぎなんだぞ!なのによくも俺に黙って、勝手に堕したな!」
そう言う彼の瞳には激しい怒りが宿っていた。「ひと言くらい相談すべきだっただろう!」
それを聞いて、明日香は震える唇を噛みしめた。「私が毎日飲まされていたミルクから、避妊薬の成分が出たの。もし産んでも、五体満足で育つ可能性は低かったわ」
避妊薬を長期間飲み続けることには副作用がある。女性の体に、取り返しのつかないダメージを与えることだってあるのだ。
医師にも言われた。卵巣機能が衰えていて、今回妊娠できたこと自体が奇跡だったと。
そして、今回おろしてしまった以上、もう二度と子供を望むことはできないだろう。
それを聞いて涼太の目に、わずかな罪悪感の色が浮かんだ。「とりあえず体を休めろよ。子供なら、また作ればいいさ」
だけど、明日香は魂が抜けたように、うわ言を漏らした。「もうできないから」
第5話
涼太は一瞬きょとんとして、眉をひそめたが、きっと、これも明日香の強がりだと思って気に留めなかった。
「霞は生まれつき心臓が悪くて、誰かがついてなきゃいけないんだ。外に住まわせるのは心配だからな。
彼女は静かなのが好きで、騒がしいのは苦手なんだ。郊外に別荘があるだろ、君は明日そっちへ移ってくれ」
それを聞いて、明日香は素直にうなずいた。「うん、明日そっちに行くね」
だが、彼女のその態度に涼太の目には、信じられないという色が浮かんでいた。泣きわめかれるとばかり思っていたのに、彼女があっさり引き下がったからだ。
「物分かりのいいふりをする必要はないぞ。明日にでも、郊外の別荘の名義を君に書き換えてやる」
彼は後ろめたさがあるから、そうやって埋め合わせをしようとしているのかもしれない。
だが、明日香はもとより、霞に部屋を奪われること自体は気にしていなかった。彼女が気にしているのはただ、それを許している涼太の態度なのだ。
「青木家のことは、ずっとあなたが決めてきたもの。誰を受け入れて、誰を追い出すかは全部あなたの一存でしょ?」
それを聞いて涼太は探るような目線を明日香に向け、まるでどうせわざと言っているのだろう、とでも言いたげだ。
「君のいいところは、引き際を心得ている点だ。頼むから物分かりよくしてくれよ。病人に嫉妬なんかするな」
しかし、そう言われても明日香は、彼に本心を話してもらいたかったから、尋ねた。「ねえ、涼太。私たち、これからの関係を考え直すべきじゃない?
もし終わりにしたいなら、私から出ていくわ。絶対に未練がましくしないから!」
だけど、涼太は冷ややかな顔つきで言った。「子供を失ったばかりなんだろ。これ以上、言い争いたくない」
そして、彼はドアを荒々しく閉め、部屋を出ていった。
明日香が家を追い出された件は、人づてに噂となり、さらに大げさに広まっていった。
涼太に捨てられたのだと、誰もが言っていた。
そんな中、彼女は片道のチケットを予約した。北嶺山地へ帰るためのチケットだ。
この数年、明日香は必死に自分を抑えて、涼太のいい妻でいようとしてたんだ。
出発前、彼女は荷物をまとめた。持っていけるものはカバンに詰め、そうでないものは処分することにした。
そしてアトリエを整理している時、ある一枚の絵画を見つめながら、明日香はぼんやりと思いにふけっていた。
絵の中の男は、数珠を手に目を閉じ、まるで俗世に降りた仏のようだった。その腕の中抱かれていた、艶めいた瞳をした女の流れるような赤いドレスと、男の着ている青い法衣が絡み合い、見る者の想像をかき立ていた。
それは明日香が一番気に入っている絵で、アトリエの大切な宝物としてしまってあったものだ。
そこに突然、霞が押し入ってくると、その絵を引きちぎり、ビリビリに破り捨てた。
そして絵は紙吹雪のように破片となって舞い散り、床に無惨な姿で散らばった。
霞は病弱で青白い顔を真っ赤にして叫んだ。「涼太が北嶺山地で修行してた時、恥知らずにも誘惑したんでしょ?」
大切にしていた絵を粉々にされ、明日香の目は瞬く間に赤くなった。
彼女は霞の髪を掴み上げ、冷たい声で言い放つ。「誰が私の絵に触っていいと言ったの?」
だが、霞は顎を上げて彼女に言い返した。「私が傷一つでもついたら、涼太が絶対にあなたをただじゃおかないから!」
そう言われたが、明日香は怯むことなく彼女を床に押さえつけた。その力は指の関節が白くなるほど強かった。「破いたその絵、拾って元通りにして!」
それを聞いて、霞は呆れたように目をむいた。「たかが紙切れじゃない?大した価値もないくせに」
霞は知らないのだ。この絵を仕上げるために、明日香が3ヶ月も費やしたのだ。
それは彼女の最高傑作であり、普段は誰にも触らせないほど大切にしてきたものだった。
霞が軽くあしらっていると、明日香は、ゾッとするような目つきで彼女を睨んだ。「さっき、どっちの手で破いたの?」
その視線に背筋が凍り、霞は泣きわめきながら暴れ出した。
二人がもみ合っていると、「明日香!何をしている!」涼太の怒声が背後から響いた。
そして、凄まじい力が襲いかかり、明日香は激しく床に突き飛ばされた。
霞は涼太の胸に飛び込んで、大粒の涙を、彼の腕にぽたぽたと落としながらいじらしく泣きじゃくった。
一方で、明日香は唇を強く噛みしめた。「彼女が私の絵を破ったの。だから元に戻せと言っただけよ。それが間違ってる?」
だが、涼太は事情も聞かずに彼女を責め立てた。「霞がわざとやるわけないだろ。何もそこまで追い詰めなくたっていいじゃないか」
その傍らで霞は、まるでひどい被害でも受けたかのように、声を押し殺して泣いているのだ。
それを見た、明日香は力いっぱい叫んだ。「涼太、あなたの目は節穴なの?彼女はわざとやったのよ。そんなことも分からないわけ?」
これほど下手な芝居なのに、彼は見抜けずにいるのだ。
そして、涼太は、まるで極悪人でも見るかのような冷ややかな目を明日香に向けた。
「霞は心臓が悪いんだ。繊細で傷つきやすいんだぞ。少しは大目に見たっていいだろ?そんな細かいことは気にするな」
第6話
それを聞いて、明日香は苦々しく笑った。「もし私が彼女の大切にしてる何かを壊したら、あなたは彼女にも『気にするな』って言える?」
そう言われ、涼太は引き裂かれた絵を一瞥した。そしてその瞬間、彼の封印されていた記憶が一気によみがえようだった。
彼はライターで火をつけると、散らばった紙くずを跡形もなく燃やし尽くした。
その揺らめく炎が、涼太の表情を冷酷に照らし出す中、明日香は震えあがった。いつも冷静な涼太が、こんなにも激しい怒りを見せるなんて初めてだったからだ。
そう感じた彼女は胸を無理やり引き裂かれたような、鋭い痛みを覚えた。
5年間も恥を捨ててこの男に尽くしてきた。それだけの時間があれば、どんなに冷たい相手だって情が湧くはずだと思っていた。
だから、彼女は涼太も本当は自分が好きなのかもしれない、なんてそんな馬鹿なことを、本気で信じてやまなかった。
だが、自分が思っていたあの運命的な出会いは、彼にとっては恥ずべき過去であり、消し去りたい汚点だったのだ。
一方で、涼太は優しく霞の涙を拭ってあげながら言った。「泣かないでくれ、霞。
君が泣いて目を腫らしていると、俺の心が痛むんだ」
その夜、涼太は別荘で歓迎会を開き、親しい友人たちを招いた。
彼の友人たちは霞とも古くからの知り合いで、二人の絆を見守ってきた証人のような存在だ。
だが事情を知らなかった明日香にとっては、これまで彼らの前で涼太と仲良く振る舞っていたことはまさに、恥をさらになっていたのだ。
そして涼太の友人たちにとっても、そんな姿を晒す彼女はまさに滑稽なピエロでしかなかったのだろう。
そして、涼太には長年想い続ける女性がいて、周囲もそれを知りながら、口裏を合わせて明日香を騙していたのだ。
一方で、霞は今日彼女の清純さをいっそう際立たせる白いワンピースを纏って、とても愛らしく着飾っていた。
その周りを男たちが次々と近寄ってきて、親しげに彼女を囲んだ。
「霞、あなたが留学した後、涼太の奴ひどかったぜ。胃が出血するほど毎日浴びるように酒を飲んで、荒れてたんだ」
「北嶺山地にこもって修行僧みたいな真似までして、家族と縁を切るなんて大騒ぎしてたよな!」
「これであなたも戻ってきたことだし、もう、二人を邪魔するやつはいないだろう!」
そんな中、明日香は部屋の隅に身を隠していたが、それでも辺りから向けられる冷ややかな視線からは逃れられなかった。
そう感じた彼女は胸が鷲掴みにされたようで苦しくて、息ができなくなっていた。
そうしていると霞がグラス片手に近づいてきた。そしてその拍子に、彼女の首元からパワーストンのペンダントがちらりと見えた。
滑らかな光沢を放つその石は、厄除けや健康のお守りとして、体の弱い女性には最適なものだとされているだった。
それは涼太がいろいろを探し回り、ようやく手に入れた最高級の品で、わざわざ腕利きの職人に頼んで彫らせたものらしい。
以前、溺れて以来病弱になった明日香は、あのペンダントは涼太が自分のために探してくれたものだと、能天気に思い込んでいた。
そう思っていると、霞は勝ち誇った顔で言った。「私がいない間、涼太の世話をしてくれてありがとうね」
一方でそう言われた明日香は胸に鋭利な刃物でひと突きされたような衝撃が走った。
そして霞は更に少し嫉妬の混じった声で続けた。「絵の才能があるそうね。涼太が個展まで開いてあげたらしいじゃない。
でも、もし手が怪我をして、二度と絵が描けなくなったら、どうなるのかしら?」
そう言いながら、霞は突然悲鳴を上げ、後ろのプールへと倒れ込んだ。
そして、水面を激しく叩きながら、彼女は助けを求めて叫び声をあげた。
すると、その場は一瞬にして騒然となった。
涼太は顔色を変え、ためらいなくプールに飛び込んだ。
周囲にいた男たちも一斉に明日香を睨みつけて口を揃えて問いただした。「明日香さん、何をしているんだ?」
一方で、涼太は霞をプールサイドに引き上げると、すぐに救命措置を始めた。
人工呼吸と心臓マッサージを繰り返したおかげで、ようやく霞は息を吹き返すことができた。
そんな霞を涼太はきつく抱きしめながら、まるで大切な宝物を取り戻したように言った。「霞、無事でよかった!」
その傍らで明日香は立ち尽くし、震える声で訴えた。「彼女が自分で落ちたの。私は指一本触れてないわ」
しかし涼太の眼差しは氷のように冷たく、彼女は震えあがった。
「霞は体が弱いんだ。ただの風邪だって、彼女には命取りになりかねないんだぞ!
君を陥れるために、霞が命をかけるとでも思ったのか?自分にそんな価値があるとでも思っているか」
第7話
それを聞いて明日香の心はさらに震えあがった。弁解しようとしたけれど、苦い思いが喉に詰まって声にならない。
霞が泣きついてきた。「明日香さんがペンダントを奪おうとしたの。渡さないって言ったら、プールに突き落とされた!」
明日香は口を開こうとした。でも、どんな言葉も言い訳にしか聞こえない気がして、彼女は力が抜けたようだった。
そして、霞はさらに被害者ぶって声をあげた。「明日香さん、欲しいものなら何でもあげるわ。でも、あのペンダントは涼太がくれたの。世界に一つだけなのよ!」
涼太が冷たく告げる。「明日香、人の物を無理やり奪おうとするなんて」
その氷のような声に、明日香の心は鋭く突き刺されたようだった。
そうこうしていると、霞が焦った声で言った。「涼太、お願い、ペンダントを見つけて!」
それを聞いて、涼太は暗い瞳で明日香を睨みつけた。「それなら、なくさせた人間に責任を持って探してもらえばいい」
揺れる水面を見て、明日香の胸に恐怖が走った。「涼太、私、水が怖いの!」
3年前、明日香は溺れかけたことがある。それ以来、水への恐怖心が消えないのだ。
息ができなくなる絶望感。それが悪夢のように彼女を苦しめ続けていたのだった。
だが、涼太は冷めた目で明日香を見据え、一言ずつ噛みしめるように言った。「飛び込んで、ペンダントを拾ってこい!」
それは議論の余地を与えない、完全な命令口調だった。
明日香は彼の服の裾をぎゅっと握りしめて言った。「信じて。私は彼女を突き落としてなんかいない!」
しかし、涼太の眼差しは冷え切っていた。明日香の言葉なんて、何一つ耳に入らない様子だ。
そして、大事な霞の敵を討つかのように、彼は自らの手で明日香をプールへと突き落とした。
プールの中でもがく明日香はもがきながら言った。「涼太、助けて……」
しかし、水が口や鼻から入り込み、彼女の助けを呼ぶ声はかき消されていくのだった。
最後の力が尽き、彼女は自分が水底へと沈んでいくのをただ感じていた。
そこをようやく友人たちが水面の異変に気づいて慌てた。「おい涼太、これマジでやばいぞ。死ぬって!」
だが涼太は、氷の彫像のように動かない。「放っておけ。少し痛い目を見ないと、こいつは反省しないからな!」
時間が少しずつ過ぎていった。
1分。
2分。
3分が経過した……
ついに涼太の顔色が変わり、水の中へ飛び込んだ。それにつられるように周りの友人たちも慌ててプールに飛び込んでいった。
「呼吸してない!脈もないぞ!」
しかし、それを聞いても涼太は明日香の芝居だと思っていた。「おい明日香。死んだふりをして同情を買おうとしても無駄だぞ。
霞を突き落としたこと、ちゃんと謝れ!」
だけど、明日香の目は固く閉じられ、美しい顔からは完全に血の気が引いているのだ。
すると、周りにいた人々は慌てた。「涼太、早く救急車だ!」
霞も慌てたふりをしつつ、火に油を注ぐようなことを言った。「明日香さんはわざとじゃないの。きっと、あなたを愛するあまりしてしまったことよ。
だから涼太、彼女を怒らないであげて?」
それを聞いて涼太は心配そうに霞を見た。「君は殺されかけたんだぞ。それなのになんでこいつを庇うんだ。
こいつが死んだとしても、自業自得だ」
だが周りの友人たちは最悪の事態を恐れ、急いで救急車を呼んだ。
明日香が目を覚ますと、そこは病院のベッドの上だった。
医療機器の電子音が、一定のリズムで響いている。
その傍らで涼太が彼女を見下ろしていた。その表情はわずかな温かみもないものだった。
「君が突き落としたせいで、霞は熱を出した。彼女に謝るなら、今回のことは許してやる」
中絶手術の直後に溺れた明日香の体は、ボロボロだった。「それで、あなたは彼女の看病もしないで、私を責めに来たわけ?」
それを聞いて涼太の目に怒りが宿った。「霞の体調が悪いと知っていながら突き落としたんだろう。殺人未遂だぞ!」
明日香も負けじと睨み返す。「私が水を怖がってるって知ってて突き落としたくせに。あなたのほうこそ人殺しじゃない?」
彼女は続けた。「やってない罪を私になすりつけようなんて、絶対に許さない!」
本来なら、プールサイドには監視カメラがあるのだから、調べればすぐに真実はわかるはずだ。
それなのに涼太は、霞の言葉だけを信じて、真実を知ろうともしない。
涼太は、明日香が点滴中であることなどお構いなしに、彼女をベッドから無理やり引きずり下ろした。
第8話
すると、点滴の針が抜けて、すぐに赤い血がにじみ出した。
そこへ見かねた看護師が慌てて駆け寄った。「やめてください!先生がやっとのことで助けたんです。これ以上乱暴するのは危険です!」
明日香の顔は真っ青だったけれど、涼太にはそれすら演技に見えた。
彼は冷たく嘲笑って言った。「本来なら5歳で君の両親と死んでるはずだ。むしろ、君が疫病神だから彼らは殺されたんじゃないか?」
その言葉は再び鋭い刃物のように、明日香の心を深くを突き刺した。
明日香は信じられない思いで涼太を見つめた。そして目の前の男が、急に赤の他人のように思えてきた。
かつて一番辛い過去を打ち明けた時、涼太は優しく抱きしめて慰めてくれたのだった。
「君は運がいい子だ。これからは悪いことなんて起きない。ずっとずっと幸せになれるよ!」
そう言って、彼は自分が安心できる温かい居場所をくれた。
けれど人生はまるで三流映画だ。いつどこで、最悪の展開になるかわからない。
あの優しかった涼太は、この瞬間音を立てて崩れ去ってしまったのだ。
そして涼太に霞のところへと連れて行かれ、突き飛ばされた明日香は無様に床へ倒れ込んだ。それはすぐには起き上がれないほどの衝撃だった。
一方で、霞は、わざとらしい寛大な態度を見せた。「涼太、ペンダントは見つかったんだからもう、明日香さんを責めないであげて。
5年も一緒にいた仲じゃない。そんなひどいことをしたら、可哀想よ」
だが、涼太の決意は固かった。「彼女は間違いを犯したんだから、罰を受けるべきだ」
そう言って、彼は明日香の白くて細い手をじっと見つめた。「どっちの手で、霞を池に突き落とした?」
それを聞いて、明日香は恐怖に目を見開き、涙声で訴えた。「涼太、私は彼女を突き落としてなんていない!お願い、信じて!許して!」
絵の才能があった明日香にとって、手は命よりも大切だった。F国の皇室美術学院に入るのが長年の夢なのだ。
けれど今霞の嘘のせいで、涼太は彼女の大切な手を潰そうとしているのだ。
彼は周りにいたボディーガードたちに明日香を押さえつけさせると、ゾッとするような声で言った。
「過ちを犯した人間は、相応の報いを受けなきゃな」
明日香は泣きじゃくりながら叫ぶ。「怪我をしたら、もう二度と筆が持てなくなるの!絵が描けなくなるのよ!」
涼太は優しく彼女の涙をぬぐった。「明日香、絵なんて描けなくていい。俺が一生、面倒を見てやるから」
彼はそう言って自らの手で明日香の「希望」を打ち砕いて、彼女を歪んだ愛の檻に閉じ込めようとしているのだ。
そして、男の行動は冷酷で、一瞬の迷いさえなかった。
明日香が弁解しようとしたその時、彼女の手はすでにあり得ない方向へとねじ曲げられていた。
凄まじい激痛が走り、明日香の喉から鋭い悲鳴がほとばしった。
その瞬間、彼女の努力も、ずっと抱いていた夢も、一瞬にして粉々に砕け散った。
明日香は全身の力が抜け、泥のようにその場へ崩れ落ちた。
一方の霞は得意満面だった。彼女は自分の言いなりになって男に成し遂げさせた残酷な「結末」に満足しているらしい。
その瞬間明日香の目に、激しい憎悪が宿った。「涼太、あなたを一生許さない、恨んでやる!」
その瞳は絶望に染まっていた。「私が一体何をしたっていうの?これでもう筆も持てない。二度と絵が描けないのよ」
それを見た涼太は少し焦ったように言った。「そんなに泣くなよ。たとえ不自由な体になっても、俺が一生、面倒を見てやるから」
しかし、そう言われた明日香の瞳からは大粒の涙がぼろぼろと溢れ出した。
愛の誓いも、幸せだった結婚生活も、全部が偽物だ。何もかも、すべてが嘘だったんだ。
第9話
そう思うと明日香は涙が出るほど笑った。「涼太、私がいつまでも、あなたを愛し続けるとでも思ったわけ?」
それを聞いて涼太の表情がこわばった。「霞は心臓が悪くて、もってあと2年だ。彼女は式を挙げたがってた。俺はただ、彼女の最期の願いを叶えてやりたかっただけだよ」
そして彼はさらに諭すように言った。「いい子で待っててくれ、式場で騒ぎをたてるなよ。2年の辛抱だ、そうすれば君はずっと俺の妻でいられる」
そして涼太はさらに余裕しゃくしゃくに続けた。「君は俺に惚れ込んでるから、俺から離れられるわけないだろ?」
そう言われて明日香は黙ったまま、彼に抱きしめられた。
けれど、彼女の腹は決まっていた。
ここを出て行って、もう二度と戻らないと。
こうして結婚式当日になった。
ピンクの薔薇が会場を埋め尽くし、まばゆい照明が夢のような光景を作りだしていた。
そんな中、挙式が行われているチャペルには多くの人が集まり、会場も満席だった。
涼太は客への挨拶に追われていたが、その顔は意気揚々とした喜びにあふれていた。
友人たちは次々に祝福の言葉をかけ、彼が愛する女性と結ばれたことを祝った。
その途中で、涼太は会場をぐるりと見回したが、明日香の姿はどこにもなかった。
すると、友人の一人が胸を叩いて言った。「涼太、俺たちが見てるから大丈夫だ。明日香さんのことを心配しないで!
きっと今頃、どこかに隠れて泣いてるんだろう?」
それを聞いて、涼太は皮肉っぽく口角を上げた。「明日香は最近、聞き分けが悪いんだ。俺が甘やかしすぎたせいで、すっかり図に乗ってる。
少し頭を冷やさせてやった方がいい。そうしなきゃ、自分の過ちに気づかないだろうからな!」
それにしても、今日の明日香は不気味なほど静かだった。いつものように騒ぐこともなく、まるで別人だ。
一方で、純白のドレスを纏った霞は、地上に降りた天使のように美しく、誰もが目を奪われた。
男たちは口々に囃し立てた。「霞、あなたは本当に美しいな!」
「愛する二人はついに結ばれるは本当にめでたいよ!」
そう言われて霞は何気ない様子で尋ねた。「あの、明日香さんは来ていないの?」
そして、彼女は少し寂しそうな顔をした。「私、明日香さんにも祝福してほしかったな!」
男たちは肩をすくめる。「来ない方がいいって。せっかくの空気が台無しになるからさ!」
涼太もスマホを取り出し、式場に来て騒ぐなと明日香に釘を刺そうとした。
だが、メッセージは送れない。ブロックされていたのだ。
その頃、北嶺山地行きの飛行機が空港に降り立っていた。
響音寺の境内に、厳かな読経の声が響き渡る。
そんな中、明日香も本堂の座布団にひざまずき、ひたすらに祈りを捧げいた。
「私、望月明日香は聖地へ向かいます。聖山を守り、二度と北嶺山地からは出ないことを誓います!」
その傍らで住職の宗道は質素な衣をまとう彼女を見つめた。「聖山朝霧は、最後の浄土だ。足を踏み入れるなら、執着を捨て、人の情けも欲もすべて断ち切らねばならぬ」
それを聞いて、明日香の瞳がわずかに揺れる。だがその奥にあるのは、すべてをあきらめたような静けさだった。
「はい。すべての未練を捨てて、この身を捧げる覚悟はできているから!」彼女はそう言って宗道に、剃髪をしてほしいとまで頼んだ。
仏教の教えによれば、髪には人の執念が宿るという。
それを剃り落とすことは、俗世への未練を断ち切る証だ。
5年前、初めて恋を知った明日香は涼太に一目惚れし、彼のために髪を伸ばし始めた。
そして5年後の今、愛に傷つき疲れ果てた彼女は、すべてを忘れるためにその髪を切る決心をした。
そんな彼女を見て宗道は目に憐れみの色を浮かべて言った。「聖山は空気も薄く、一年中凍えるほどの寒さだ。人が生きるにはあまりに厳しい。一度入れば、命尽きるまでそこで聖地を守り抜くことになるのだ」
だが、明日香に迷いはなかった。「はい。私は命あるかぎり一生を聖地に捧げるつもりよ!」
彼女の決意が固いのを見て、宗道もそれ以上引き止めなかった。「では3日の間、身を清めて待てなさい。その後、地元の者に聖山へ送らせよう」
明日香が向かう聖山朝霧は、仏教の聖地で、部外者が足を踏み入れることは許されていないのだ。
一旦聖地を守るために山に入れば、外の世界とは完全に切り離されてしまうことになる。
それはつまり、涼太とも、もう一生、二度と会えなくなるということだった。
宗道は剃刀を手にし、明日香の美しい黒髪をすくい上げた。「明日香、後悔するなら今のうちだぞ。
剃髪を行ったら、もう後戻りはできん!」
それでも明日香は毅然と言い放った。「うん、後悔はしないから、始めていいよ!」
剃刀が動くのにつれ、黒髪がぱらぱらと床に落ちる音が、耳にはっきりと響いた。
それから彼女は言いつけ通り、毎日精進潔斎を行った。
そして3日後。地元の案内人に導かれ、明日香は聖山の麓に立った。
目の前にそびえる白銀の山を見上げ、彼女は振り返ることなく歩き出した。
次第に俗世の喧噪が遠ざかっていくのにつれ、すべては、これで終わったのだ。