いつか白髪になる日まで

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いつか白髪になる日まで

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斉藤若葉(さいとう わかば)は、地震で半身不随になった白石翼(しらいし つばさ)を、60年ものあいだ介護した。天真爛漫だった女の子は、すっ...

Chương (1)

第1章

斉藤若葉(さいとう わかば)は、地震で半身不随になった白石翼(しらいし つばさ)を、60年ものあいだ介護した。天真爛漫だった女の子は、すっかり白髪になっていた。 若葉は、翼が自分と結婚し、養子を二人迎えたのは、心から愛してくれているからだと思っていた。そして、あの地震の時、命がけで彼を助けた自分の恩に報いてくれたのだと信じていた。 しかし死の間際になって、翼は最後の力を振り絞って彼女の手を振りほどいた。代わりに彼は一本のペンを胸に抱き、それに愛おしそうな眼差しを向けたのだ。 「若葉、君が俺を助けたと嘘をつき続けたことは許してやる。君のせいで、俺の人生は台無しになった。来世では頼むからもう俺を解放して、薫のそばにいかせてくれないか? だって、俺の本当の命の恩人は、彼女なんだからな!」 そして若葉が手塩にかけて育てた養子たちまでが、翼の側に立ち、諭すように言ったのだ。 「おばさん。血は繋がってないけど、僕たちはおじさんを本当のお父さんだと思ってる。だから、お願い、おじさんを、僕たちの本当のお母さんと一緒のお墓に入れてあげて!」 「そうよ、おばさん。あの時、おじさんが母の足手まといになりたくないと思わなければ、あなたと一緒になるはずなかったの。私たちを養子にしたのもそのため。そのおかげで、あなたも私たちにそばにいてもらえたんだから、感謝すべきじゃない?まだ満足できないの?」 そうか。自分が彼の命の恩人だと言っても、翼は一度も信じてくれていなかったんだ。 60年以上も続けた自分の献身的な介護は、彼が落ちぶれていた時に初恋の人がくれた、たった一本のペンに比べても劣るということなのか。 自分が母として注いできたつもりの愛情でさえ、病弱な初恋の人では子供を育てられないと心配した彼の計算ずくによるものだったなんて。 その瞬間、若葉は一生をかけて注いできた深い愛情がすべて踏みにじられたような気分になった。 彼女は、ひと口の血を吐き出すと、無念のあまり、目を開いたまま息絶えた。 第1話 斉藤若葉(さいとう わかば)は、地震で半身不随になった白石翼(しらいし つばさ)を、60年ものあいだ介護した。天真爛漫だった女の子は、すっかり白髪になっていた。 若葉は、翼が自分と結婚し、養子を二人迎えたのは、心から愛してくれているからだと思っていた。そして、あの地震の時、命がけで彼を助けた自分の恩に報いてくれたのだと信じていた。 しかし死の間際になって、翼は最後の力を振り絞って彼女の手を振りほどいた。代わりに彼は一本のペンを胸に抱き、それに愛おしそうな眼差しを向けたのだ。 「若葉、君が俺を助けたと嘘をつき続けたことは許してやる。君のせいで、俺の人生は台無しになった。来世では頼むからもう俺を解放して、薫のそばにいかせてくれないか? だって、俺の本当の命の恩人は、彼女なんだからな!」 そして若葉が手塩にかけて育てた養子たちまでが、翼の側に立ち、諭すように言ったのだ。 「おばさん。血は繋がってないけど、僕たちはおじさんを本当のお父さんだと思ってる。だから、お願い、おじさんを、僕たちの本当のお母さんと一緒のお墓に入れてあげて!」 「そうよ、おばさん。あの時、おじさんが母の足手まといになりたくないと思わなければ、あなたと一緒になるはずなかったの。私たちを養子にしたのもそのため。そのおかげで、あなたも私たちにそばにいてもらえたんだから、感謝すべきじゃない?まだ満足できないの?」 そうか。自分が彼の命の恩人だと言っても、翼は一度も信じてくれていなかったんだ。 60年以上も続けた自分の献身的な介護は、彼が落ちぶれていた時に初恋の人がくれた、たった一本のペンに比べても劣るということなのか。 自分が母として注いできたつもりの愛情でさえ、病弱な初恋の人では子供を育てられないと心配した彼の計算ずくによるものだったなんて。 その瞬間、若葉は一生をかけて注いできた深い愛情がすべて踏みにじられたような気分になった。 彼女は、ひと口の血を吐き出すと、無念のあまり、目を開いたまま息絶えた。 それなのに養子たちは、待ってましたとばかりに彼女の遺体を火葬し、遺灰を海に撒いた。自由にしてあげた、などという聞こえのいい言葉を添えて。 怨霊になりかけた若葉は、心の中で誓いを立てた。もし来世があるなら、二度とあんな恩知らずな家族のために、馬鹿な献身などするものかと。 …… 「若葉さん、その仕事、本当に白石さんの友人に譲るつもりなの?よく考えたの?」 製鉄所のオフィスで、主任の山田静香(やまだ しずか)は手元の書類を見ながら眉をひそめた。 彼女にはまったく理解できなかった。若葉ほどの優秀な大卒の女性が、なぜ半身不随の男の世話のために、自分の仕事を投げ出そうとするのか。 一方、向かいに座っていた若葉は、一瞬、きょとんとした顔になった。 静香? 彼女は20年も前に亡くなったはずではなかったか? 静香の艶やかな黒髪を見て、若葉の心臓は突然、激しく鼓動し始めた。 まさか、自分、タイムスリップでもしたの? そう思って、若葉はとっさに壁のカレンダーに目をやった。 「60年前……」 彼女はそう呟くと、今度ははっきりと、固い決意のこもった口調で言った。 「山田さん、私がどうかしていました。この仕事は、両親が残してくれた大切なものですから、誰にも譲りません」 彼女その言葉を聞いて、静香はようやくほっと息をついた。 「そう。じゃあ、この書類は見なかったことにするね。若葉さん、この仕事は誰にでもできるものじゃないのよ。すべてはあなたのご両親がこの製鉄所のベテランだったからこんなチャンスがあるのよ。だから、おせっかいだと思わないで聞いてほしいのだけど…… 今あなたが想ってるその人は、あなたと結婚もしてないし、それで軽々と仕事を譲れなんて言ってくること自体、私には良い相手だとは思えないわ。 工場からJ市への研修に一人行けることになったの。もうあなたの名前を書いておいたから。出発は来週よ。 若葉さん、あなたも決断をする前に自分のためを考えて動かないと」 静香の心のこもった言葉に、若葉の鼻の奥がツンとなった。 「はい、本当にありがとうございます」 第2話 静香のオフェスを出ると、若葉は自転車に乗って家に帰った。 帰り道、彼女はずっと昔の記憶を思い出していた。 かつての人生では、静香の忠告を聞き入れず、翼に頼まれて仕事をやめてしまった。そして、自分の仕事を菅原薫(すがわら かおる)に譲ったのだ。 安定した仕事を失ってからは、両親が残してくれた遺産で二人の生活を支えるしかなかった。それだけでは足りず、彼女は家政婦などのアルバイトをして家計を助けていた。 翼は毎日車椅子に座って、本を読んだりお茶を飲んだりするだけ。なのに、彼はいつも自分のことをみっともないとか、薫を見習えとばかり言っていた。 そんなふうに毎日見下されて、若葉は自分が製鉄所で一番期待されていた若手だったことを忘れかけていた。 自分は翼のために将来を捨てたのに。彼に自分をどうこう言う資格なんてあるの? そう思いながら、若葉は自転車に鍵をかけると、深く息を吸い込んで、家のドアを開けた。 この家は両親が残してくれたもの。でも、家の中には招かれざる客がいた。 薫が翼の足元に寄り添って、二人で親密そうに同じ本を読んでいた。 翼が怪我をしてから、若葉はあんなに近くに寄れたことなんて一度もなかった。 物音に気づいた薫は瞬きをすると、若葉の落ち込んだ様子には気づかないふりをして、待ちきれない様子で尋ねてきた。「若葉さん、仕事の件、どうなった?私、明日からでも出社できるわ」 だけど、若葉は何も言わずに、部屋に増えている荷物に目を向けて、眉をひそめた。 彼女の顔色が良くないのを見て、薫はまたぺろっと舌を出した。 「ごめん、若葉さん。翼さんからもう聞いた? 私の家、製鉄所からめっちゃ遠くて、だから翼さんが、私が長い距離を通勤するのを心配してくれて。ここに住みなよって言ってくれたんだけど……迷惑じゃないよね?」 彼女がそう言うと、若葉が答える前に、車椅子に座った翼が口を挟んだ。 「大丈夫だよ、薫。若葉は気にしないさ。 君は俺の命の恩人なんだ。この家も寂しいもんだから、君みたいな明るい子がいてくれたら、若葉だって嬉しいに決まってる」 そう言って若葉に視線を移すと、翼の声は少し冷たくなった。 「若葉、そこでぼーっと突っ立ってないで、さっさとご飯の支度をしろ。お客さんが来てるんだぞ」 かつての人生でも、彼はいつもこんな口調だった。 「若葉、俺の服が汚れてるのが見えないのか?」 「若葉、腹が減った。飯はまだか?」 「若葉、布団と敷いてくれ!」 若葉と翼は、幼なじみだった。 あの事故が起こるまで、翼はとても優しい人だった。 若葉が生理で辛い時は、わざわざお店に並んで、彼女のためにいろいろ世話をしてくれたりもした。 道端にきれいな野の花が咲いているのを見つけると、顔を赤らめながら、大切そうに彼女に差し出してくれた。 だから、二人が恋人になるのは自然な流れだったし、婚約した時も、両方の家族が心から喜んでくれた。 しかし、あの大地震で、翼は両足、若葉は自分の両親を失った。 若葉はずっと、翼の性格が変わってしまったのは、突然の不幸でショックを受けたせいだと思っていた。だから、彼が自分を使用人のようにこき使うのも、仕方がないことなんだと思っていた。 それに、60年あまり連れ添って、辛い思いばかりをしなかったわけでもなかった。 だから彼女は、その楽しかった頃の思い出を支えにして、涙をぐっと堪えてきた。そして、性格が一変した愛する人のために、精一杯の優しさを注いできたのだ。 でも、翼が薫を甘やかすのを目の当たりにして、若葉は初めて気づいた。昔の自分が、どれだけ愚かだったのか。 翼は性格が変わったわけじゃなかった。 彼は心が変わってしまったんだ。 若葉は、はっきりさせておくべきことがあると思った。 翼は薫のことを命の恩人だと言うけれど、おかしい。田舎に住んでいる薫が、どうして都合よく地震の日に翼の家のそばにいて、彼を助けられたっていうの? 「翼、あなたを瓦礫の下から掘り出したのは、本当は……」 第3話 「翼さん、私、どのお部屋使えばいい?」 若葉の声は、突然大声で尋ねてきた薫の声にかき消された。 翼はすぐに車椅子を動かして、薫と一緒に部屋を選び始めた。 「この部屋がいいね。日当たりもいいし、君にぴったりだ」 「本当?翼さん、どうして私がこの部屋を一番気に入ったって分かったの?」 薫は嬉しそうに言うと、ドアを開けて中に入っていった。 その瞬間、若葉は全身の血が頭に逆流するような感覚に襲われた。 そこは、自分の亡くなった両親の部屋だったからだ。 ダメ、絶対にダメ。 若葉は狂ったように部屋に駆け込んだ。でも薫は、彼女が宝物のように大切にしていた家族写真を、すでに手に取っていた。 「早くそれを置いて!」 だけど、薫は若葉を一瞥すると、わざとらしく手を滑らせた。 すると、写真立ては床に叩きつけられて粉々になった。そして、飛び散った破片の一つがちょうど薫のすねをかすめた。 薫は悲鳴をあげた。「きゃっ、足から血が!」 それを見て、翼はすぐに我を忘れて車椅子を動かした。そして、床に落ちた写真をそのまま踏みつけていった。 「薫、大丈夫か。今すぐ病院に連れて行っててやる!」 彼はそう言って慌てて薫を連れて出て行った。その傍らで取り残されて呆然としている若葉には、まったく気遣うことなく。 若葉はゆっくりと床に膝をついた。鋭いガラスの破片が散らばっているのも構わず、両親と写ったたった一枚の写真を拾い上げた。 若葉は必死で写真を拭いた。でも、優しい両親の顔には、車輪の跡が二本、黒く残ってしまっていた。 「お父さん、お母さん、ごめん!」 若葉は写真を抱きしめ、誰もいない家で、子供のように泣きじゃくった。 でも、彼女を一番愛してくれた二人は、ただ写真の中から、優しい眼差しを向けてくるだけだった。 それから、若葉は一人で部屋の惨状を片付けた。彼女は破片を一つ一つ拾い集めて綺麗にすると、ドアにしっかりと鍵をかけた。 もう二度と、誰にも両親の安らかな眠りを邪魔させない。 すべてを終えてから、若葉は自分の足もガラスで切れていることにようやく気が付いた。 血がだらだらと流れていて、見るからに痛々しい傷だった。 彼女が自分の部屋に戻って手当てをしようとしていると、翼がまた慌てた様子で飛び込んできた。 彼は若葉の足の酷い傷には目もくれず、いきなり引き出しを開けて中を探し始めた。 「翼、何してるの?」 翼は顔も上げずに、手慣れた様子で彼女の通帳を取り出した。 「薫が怪我をしたんだ。少しお金をおろして、数日入院させた方がいい。そうしないと心配で」 若葉はあまりのことに、言葉を失った。 「翼、それは私が貯めたお金よ!」 それを聞いて、翼は苛立ったように言った。 「若葉、どうせ俺と結婚するんだろ。そんなにケチケチしないでくれないか? 薫が怪我したのは、君が突然大声を出して彼女を驚かせたせいじゃないか。たかが写真一枚で、何をそんなに騒いでるんだ。これは君の代わりに俺が罪滅ぼしをしてやってるんだぞ!」 そう言い終わると、彼もさすがに言い過ぎたと思ったらしい。 「そういう意味じゃない。ただ、君のご両親はもう亡くなったんだから、生きている人間の方が大事だろ」 若葉はもう何も言わなかった。 両親が生きていた頃、翼とこっそり付き合っていることを知って、「翼は本当の息子みたいだ」と笑っていた時のことを思い出すと、ただ皮肉にしか感じられなかった。 目の前にいるこの男は、もうかつて両親の前で胸を叩いて「絶対に彼女を悲しませません」と誓った男ではないのだ。 若葉の失望しきった眼差しに、翼の胸がチクリと痛んだ。 翼は少し間を置いて、苛立ちを抑えながら彼女を説得しようとした。 「若葉、薫は俺の命の恩人なんだ。放っておくわけにはいかない」 「前に言ったでしょ、あなたを助けたのは私だって」 しかし若葉の言葉を聞いて、翼は突然笑い出した。 第4話 「冗談はやめろよ、若葉。君はご両親に甘やかされて育ったお嬢様じゃないか。力仕事もできないのに、俺を助けられるわけがないだろ? あの地震の時、君は出張で遠くに行ってて、戻ってこなかったはずだ。もし薫が何度も外で歌ってくれなかったら、俺はもうダメだった。 彼女は自分の危険も顧みずに俺の命を救ってくれたんだ。君は、その恩まで横取りするつもりか?」 そして、自分の言い方が少しきつかったと気づいて、翼はこめかみを揉みながら、一歩下がったように言った。 「まあいい。俺が薫を気にかけているからって、君は嫉妬してるんだろ。考えすぎるなよ。 俺の両親も亡くなる前に、君のことを大事にしろって言っていたし、君との結婚は予定通りするからさ」 若葉は、ただ心が冷えていくのを感じた。 長年の付き合いなのに。翼は、薫の隙だらけの嘘を信じて、自分のことは信じようとしない。 若葉ははっきりと覚えている。翼が瓦礫の下敷きになったと聞いて、自分は無我夢中で夜通し駆けつけた。 崩れ落ちた壁を見て、転んでできた体の傷も構わずに、素手で瓦礫を掘り起こし始めた。 白くきれいだった両手は、あっという間に傷だらけになって血が滲んだ。それでも、自分は決して諦めなかった。 ようやく翼の弱々しい声が聞こえると、自分は二人が子供の頃に聞いた童謡を何度も歌った。声がかすれるまで歌い続け、とうとう気を失ってしまった。 しかし、自分が目を覚ました時に、翼は薫の手を握って彼女が命の恩人だと言ったんだ。 あの時翼が薫に向ける眼差しは、感謝に満ちていた。そればかりか、言葉にできないような優しささえも含まれていた。 あの日から、翼はまるで別人のようになってしまった。 同じ足の怪我にしても、薫のはただの小さなかすり傷だ。なのに、彼はこんなにも慌てているなんて。 自分の足にはいくつも傷があるというのに、翼はそれを見ようともしない。 昔は、自分が少し皮を擦りむいただけでも、翼は心配してくれたのに。 自分が15歳の時、学校の同級生数人にいじめられたことがあった。 その子たちは、花壇のバラの棘を摘んで、自分のカバンに入れたんだ。 自分は気づかずに、指を刺してしまった。 その日、いつもは模範生だった翼が、喧嘩で退学になりかけた。 彼が顔中あざだらけで自分に会いに来た時、まだ無邪気に笑っていた。「若葉、もう怖くないよ。これからは誰も君をいじめさせたりしないから」 そう思いながら若葉は、目の前にいる男の冷たい後ろ姿を見て、目を赤くした。 うそつき。 翼は、うそつきよ。 彼以上に、こんなにひどく自分を傷つける人なんていないだろう。 一方で薫の足はただのかすり傷だったから、大騒ぎしたけれど、病院では相手もされなかった。 二人が帰ってきた時、若葉はちょうど食事の準備をしていた。 テーブルに一人分の食事しか置かれていないのを見て、翼は思わず眉をひそめた。 「食事は?」 若葉は彼を一瞥して言った。「ないわ」 翼は、きょとんとした。 若葉は自分に対して、いつも優しくて献身的だった。 自分が事故で足が不自由になってからは、なおさら自分の言うことなら何でも聞いていた。 翼はこんなに冷たい若葉を初めて見て、胸の奥が少しざわついた。 しかし、隣にいた薫が突然泣きながら口を開いた。 「若葉さん、私のこと、やっぱり嫌いなの? 私が田舎出身だから、嫌われるのは分かってる。親に結婚を押し付けられそうだからって怖くて、翼さんに助けを求めるべきじゃなかった。ごめんね。私、もう帰るね」 翼はかわいそうに思いながら彼女の涙を拭ってやると、振り向きざま、若葉に怒鳴った。 「もうやめろ、若葉!そんな顔をしかめて、なんだその態度は? たかが食事くらいで。君が作りたくないなら、薫を連れて外で食べてくるさ! 行くぞ、薫!あんなやつは放っておけ。レストランに行こう!」 それを聞いて、薫は若葉に挑発的な笑みを見せると、背を向けて翼の後を付いていった。 そして彼女はぼそっと呟いた。「翼さん、本当に優しいのね。でも、若葉さんとそんな風に喧嘩して、彼女が怒っちゃわない?」 しかし、その声は小さくなく、明らかに若葉にわざと聞かせているようだった。 すると、翼も、同じように声を潜めなかった。 「あいつのことなんか気にするな。俺にベタ惚れで、絶対に離れられないんだ。怒ったってどうってことない。どうせ後で、素直に謝ってくるさ」 彼の声には確信がこもっていて、若葉は思わず笑ってしまいそうになった。 でも、手を伸ばして顔を拭うと、涙で濡れていた。 彼女はしばらく立ち尽くしたが、やがて黙って腰を掛けると、しょっぱくて苦い、涙味のご飯を食べ終えた。 それから、部屋に戻ると、若葉はこれまで翼にもらったプレゼントを全部引っ張り出した。 彼女が何気なく素敵だと言ったヘアピンのような小さなものから、婚約の時に翼がはにかみながらくれた銀のネックレスまで。 あんなにたくさんの素敵な思い出があったのに。残念だけど、それももうただの思い出でしかない。 ぎっしりと詰まった大きな箱をゴミ箱に捨てると、若葉の心にあった靄も、少し晴れたような気がした。 彼女は静香がくれた推薦状を撫でながら、その瞳に宿った決意はだんだんと確たるものへと変わった。 翼は、思い違いをしていた。 誰かを離れたからって生きていけないなんてことは、この世に存在しないのだ。 第5話 一方で、翼は薫を連れて、午後いっぱい街を散策した。 暗くなる頃、二人はたくさんの買い物袋を手に下げて帰ってきた。 薫は午後の口論なんてすっかり忘れた様子で、家に入るなり若葉のそばに駆け寄り、甲高い声でまくし立てた。 「若葉さん、このネックレス、すっごく綺麗でしょ。翼さんが買ってくれたの! このワンピースも!すごく似合うって言ってくれたんだけど、本当に私に似合ってるか、見てくれる?」 薫の子供じみた挑発を、翼は分かっていながら止めようとしなかった。ただ、愛おしそうに彼女を見つめるだけだ。 二人とも、若葉が怒り、取り乱し、ヒステリーを起こすとでも思っていたのだろう。 翼は、ポケットに小さな箱を忍ばせていた。薫にネックレスを買ったついでに手に入れた、銀のピアスだ。 若葉が癇癪を起こしたら、これを渡して機嫌をとるつもりだった。そうすれば、今日の気まずさも帳消しにできるはずだ。 しかし、若葉は彼らの予想に反して、騒ぎ立てることはなかった。 彼女は薫が見せびらかすネックレスとワンピースにちらりと目をやり、ただ静かに「いいじゃない、すごく似合ってるわ」とだけ言った。 そう言われて、薫はまるで相手にされなかったように感じで、すっかりつまらなくなった。 そして、彼女はまたふと何かを思いついたように、わざと若葉の前にぐっと身を乗り出した。 「じゃあ、若葉さん、この腕輪も見て。翼さんのお家に代々伝わる宝物なんだって。特別に貸してもらったの!」 その言葉に、若葉の表情が初めてかすかに揺らいだ。 薫がつけているその腕輪には、見覚えがあった。 以前は翼の母親がつけていたものだ。代々、嫁に受け継がれる大切な品だと聞いていた。 自分もそれとなく欲しいと何度も伝えたが、翼はいつも話をはぐらかした。しまいには、腕輪は失くしてしまったとまで言っていたのに。 なるほど。本当に結婚したい相手に、とっくに渡していたというわけか。 翼も、若葉があの腕輪の意味を理解していると分かっていた。だから、慌てて口を開こうとした。 「若葉、誤解するな。これはただ薫に貸してやっただけで……」 しかし次の瞬間、薫が後ろに大きくよろめいた。 その倒れ方は、まるで誰かに突き飛ばされたかのようだった。 彼女は床に強く体を打ち付け、不満そうに声を上げた。 「若葉さん、どうして私を押すの?翼さんから借りた大事な腕輪が、割れちゃったじゃない!」 薫の手のひらにある腕輪の破片を見て、翼は怒りに燃え上がった。 「若葉、そんなに嫉妬深いのか?薫に貸しただけなのに、どうして壊したりするんだ!」 若葉は眉をひそめた。身に覚えのないことで濡れ衣を着せられ、腹が立って仕方がなかった。 「押してなんかないわ!」 しかし、そう言った後、若葉はまたそれが皮肉なことだと感じた。 言い訳したって、何の意味があるというの? どうせ翼は信じてくれないだろう。 案の定、翼の怒りは彼女の言葉で収まるどころか、むしろ一層激しくなった。 「まだしらを切る気か!今日、薫が来てからずっと、君は彼女に嫌がらせばかりしているじゃないか!若葉、君には本当にがっかりだ!」 翼は怒りにまかせて、そばの棚にあった置物を手当たり次第に若葉へと投げつけた。 そのうちの一つの土人形が、運悪く若葉の額に当たってしまった。 パリンという音と共に、人形は粉々に砕け散った。 若葉はめまいを感じ、一度目を閉じてから再び開けると、視界が真っ赤に染まっていた。 手で額に触れると、べっとりと血がついていて、その痛みで、涙がこぼれそうになった。 まさか、翼が自分に手を上げるなんて、若葉は夢にも思わなかった。 さらに笑えないことに、その土人形は、自分が12歳の誕生日に翼が手作りしてくれたプレゼントだった。 さっき捨て忘れていたものが、今、自分を傷つける道具になってしまったなんて。 一方で、若葉が怪我をしたのを見て、翼の心にもかすかな後悔が芽生えた。 車椅子を動かして彼女の様子を見に行こうとした矢先、薫が「転んだせいで、頭がクラクラする」と声を上げた。すると翼は、すぐに若葉のことなど忘れてしまった。 「薫、大丈夫か?しっかりしろ、病院に連れて行くから!」 一日のうちに、薫は二度も病院に運ばれた。 翼は置き去りにしてきた若葉のことなどすっかり忘れ、ベッドで青ざめている薫を見ながら、若葉のやり方に腹をたてていた。 翌日、一人で若葉とちゃんと話し合おうと思っていた。しかし、薫がどうしても若葉に謝りたいと言い張った。 「翼さん、あんなに私の肩を持ってくれたから、若葉さんはきっと怒ってるわ。私が悪いの、二人が喧嘩する原因になっちゃって……だから、私も一緒に連れて行ってくれないかな?」 キラキラと輝く薫の瞳に見つめられ、翼は断ることができなかった。 ちょうどいい機会だから、薫に製鉄所を見せて仕事に慣れさせようと考え、翼は二つ返事で承諾した。 そうして翌日。若葉が自転車で製鉄所に着くと、待ち構えていた二人と鉢合わせてしまったのだった。 第6話 若葉の額に巻かれたガーゼを見ると、翼の硬い表情が少しだけ和らげて言った。 「若葉、昨日は俺がカッとなりすぎた。たいしたことなくてよかったよ。 でも、最近の君はちょっとやりすぎだ。俺たちはどうせ結婚する仲なんだし。薫は命の恩人で、これからは本当の妹みたいに大切にするって、前に話しただろ。 だからもう少し大人になって、彼女に意地悪するのはやめてくれないか?」 そう言う翼は、声のトンを下げてはいなかった。 するとそれを聞いた行き交う同僚たちが、若葉に奇妙な視線を向けてきた。その視線に、若葉はちくちくと胸が刺されたようだった。 そして、周りのひそひそと話の声も、彼女の耳に入ってきた。 「若葉さんって、こういう人だったんだ。そんな風に見えなかったけど、本当は嫉妬深いんだね」 「そうよね、命の恩人まで目の敵にするなんて、ちょっとひどすぎるわ」 「普段は猫をかぶってるだけかもね。だから私たちには本性が見えないんだわ。なんたって、翼さんは彼女と20年も付き合ってるんだから」 幼馴染で婚約者でもある翼が、他の女のために若葉の評判を落とすようなことをするなんて、誰も思わなかった。 若葉の耳に入る声は、当然、翼にも聞こえていた。 でも、翼は何も説明しようとはしなかった。明らかに、彼女に灸を据えるつもりなのだ。 そして、隣にいた薫も口を開いた。 「翼さん、若葉さんを責めないで。たぶん、仕事を私に譲りたくないだけだから。若葉さんの気持ちも分かるし、大丈夫、私が我慢をすればいいだけだから」 薫の健気な言葉を聞いて、製鉄所の男性同僚たちが次々と彼女の肩を持ち始めた。 「若葉さん!たかが仕事一つのために、こんなか弱い子をいじめるのかよ!」 「そうだそうだ。仕事を彼女に譲ったって、どうってことないだろ。あなたは金持ちなんだから、食いっぱぐれる心配もないだろう」 若葉は、彼らの醜い顔を見て、クスっと笑った。 「仕事一つだって?そんなに気前がいいなら、あなたたちの仕事を譲ってあげたらいいじゃない? 仮に彼女が人助けをしてたとしても、相手は翼でしょ。私に何の関係があるの?なんで私が仕事を譲らなきゃいけないわけ?」 その言葉を聞いて、さっきまでのひそひそ話がぴたりと止んだ。 若葉の言うことにも一理ある、と多くの人が思った。確かに自分だって、簡単に仕事を他人に譲ったりはしないだろう。 それに、若葉と翼はまだ結婚しているわけでもないのだから、彼のために何かの責任を負う必要もないはずだ。 すると、製鉄所の中でも若葉と仲の良い同僚が彼女をかばい始めた。 「翼さん、恩返しするなら、他人を巻き込むんじゃない!誰もあなたに借りなんてないんだから!」 「そうよ。普通なら、人に仕事を譲れなんて言われても断るわよ。あなたが恩返しをしたいからって、他人に無理強いするのはずいぶん図々しいんじゃない?」 それを聞いて、翼の顔色は険しくなり、若葉をきつく睨みつけた。 「若葉、仕事を薫に譲ると約束したのは君自身だろうが。人をからかってるのか? そんなことをするなら、こっちにも考えがあるからな!」 若葉は彼の捨て台詞を気にしなかった。翼が薫を連れて去っていくのを見送ると、製鉄所に新しく入った機械の研究を続けようとした。 でも、翼の報復は、思いがけず早くやってきた。 あの後、彼女が作業場に入って機械を起動させたとたん、轟音とともに機械が丸ごと爆発した。 ものすごい威力で、若葉の体は吹き飛ばされ、壁に強く叩きつけられた。 強い衝撃に彼女は体中が痛くなり、息をするだけでも血の味がするようだった。 必死にこらえていた若葉だったが、とうとう「うわっ」と鮮血を吐き出してしまった。そこに、駆けつけた静香は、それを見て息をのんだ。 「一体どうしたの、機械がどうして急に爆発なんて……」 若葉は痛みで声も出せなかった。ただ、隅に転がっている見慣れない部品に目をやった。それには、父親が作った特注品だという印が付いていた。その瞬間、まるで氷水に浸されたように、彼女は震えが止まらなくなった。 この部品のありかを知っているのは、自分以外では翼しかいない。 そういうことだったのか。翼のあの言葉は、こういう意味だったんだ。 薫の気を晴らそうと、自分に命を落とさせることだって厭わないというのか。 第7話 結局若葉は、ひどい怪我で気を失ってしまった。 次に目を覚ました時、そこは病院だった。 彼女は震える手で、ガーゼに覆われた自分の顔にそっと触れた。 じんわりとした痛みで、自分の顔はもう元には戻らないのかもしれない、とはっきりと分かった。 「若葉……」 翼の声に、若葉は顔を向けた。彼は車椅子に座っていて、申し訳なさそうな顔をしていた。 「よかった、目が覚めたんだな。3日間も意識が戻らないから、本当に心配したんだぞ」 翼は若葉の手を強く握りしめた。その目元には、彼女を失わずに済んだという安堵の表情が浮かんでいた。 隣のベッドにいた中年女性が、その様子を見てにこやかに話しかけてきた。 「あなたが事故にあったあと、この子は寝ないでずっと看病してくれてたのよ。 本当にあなたのことを大事に想ってるのね。私たちが見てても感心するくらいよ」 でも若葉は、翼に握られた手をさっと引き抜いた。そして、そばにあったハンカチで、汚いものでも付いたかのようにゴシゴシと手を拭いた。 それを見て翼の表情は暗くなった。それでも、彼は無理に笑顔を作った。 「若葉、俺が悪かった。もう分かってる。 もう日取りも決めたんだ。来週、結婚しよう。結婚してくれたら、後はもう好きなように俺を責めてくれていいからさ。な? 薫はちょっとどうかしてただけなんだ。ほんの些細な間違いなんだよ。だから、嘆願書にサインしてくれないか?」 若葉は聞き返した。 「彼女は、逮捕されたの?」 翼はしばらく黙り込んだ。そして、言いにくそうに口を開いた。「あれは誤解なんだ、若葉。俺が部品をいじってたら、薫がうっかりいくつかに触っちゃって…… ほんの、ちょっとしたいたずらのつもりだったんだ。まさか、こんな大ごとになるなんて思わなかった。 でも、君はもう大丈夫なんだし。薫もまだ子供なんだから、何も分かってなかったんだ。だから、許してやってくれないか?」 翼のあまりに身勝手な言い分に、若葉は鼻で笑った。 彼が忘れているみたいだけど、自分と薫は同い年で、たった数ヶ月、自分が先に生まれただけだ。 それに、自分たちとももう20歳を過ぎているのに、どこが「子供」だっていうのだろう。 若葉がなかなかうんと言わないので、翼は少しイライラし始めた。 薫は連行される時、わざとじゃない、と泣きじゃくっていた。 あのおびえて、助けを求めるような姿を思い出すと、翼は胸が締め付けられるようだった。 目の前でガーゼに巻かれている若葉に目をやり、翼は歯を食いしばると、意を決したように言った。 「若葉!嘆願書にサインしないなら、おじさんの形見の懐中時計、捨ててやるからな!」 若葉は心臓が止まるかと思った。信じられない思いで、翼を見つめた。 「翼、なんてこと言うの!昔、機械に巻き込まれたあなたを助けて、父は左手をなくしたのよ! なのに今、あなたは父の形見で私を脅すっていうの?」 若葉の目がみるみる赤くなっていくのを見て、翼は一瞬ためらった。でも、薫のことを思うと、彼は心を鬼にした。 「そんなの大したものでもないだろ。薫を助けるためなら、なんだって構わないさ! それに薫だって、俺の命の恩人なんだ!」 それを聞いて、若葉は翼が完全に変わってしまったんだと感じた。 そして彼女は息を深く吸い込むと、周りの同情的な視線を背にゆっくりと頷いた。 「分かったわ、サインする。だから、懐中時計を返して!」 すると途端に翼の顔がぱっと明るくなった。彼は急いで車椅子を動かすと、すぐに紙とペンを持ってきた。 そのはしゃぎようを見て、若葉は婚約した日のことを思い出していた。 あの時も、翼はこんなふうにそわそわしていた。 当時彼は「もっと早く結婚できたらいいのに。君が誰かに取られちゃいそうで、怖いんだ」とまで言っていた。 でも今の翼は、嘆願書を手にすると、かつて宝物だと言っていた懐中時計を無造作に自分の胸に放り投げた。そして、ためらうことなく、別の女を助けに行ってしまった。 第8話 若葉はさらに2日間入院した。会社からはひっきりなしにお見舞いの人が来たけど、あの日病室を出ていった翼だけは、全く顔を見せなかった。 連日お見舞いに来てくれた静香は、翼が来ないことに腹を立てていた。 「若葉さん、あんな連中のせいで顔にひどい怪我までしたのに、どうして嘆願書になんてサインしたの?」 それを言われ、若葉は力がぬけたように笑いながら、翼に返してもらった懐中時計を撫でた。 「山田さん、もうそんなことはどうでもいいんです」 静香は一瞬きょとんとしたが、すぐに若葉の言いたいことを察したようだ。 「そうね。どうせ、もうすぐここを発つんだものね」 その時、ドアの外から翼の声が聞こえた。その声は、なぜかひどく慌てていた。 「発つ?どこへ行くんだ? 若葉、出張でもあるのか?」 静香は、翼が何も知らないことに驚いて、思わず彼の方を見た。 でも若葉と目が合うと、すぐに彼女の考えを理解した。 「ええ、そうなの。彼女は、もうすぐ出張に行くことになってるのよ」 それを聞いて翼はほっと息をついた。彼が何かを言いかける前に、車椅子を押していた薫が口を挟んだ。 「若葉さん、嘆願書のこと、ありがとう。 私、とっても怖かったの。だから翼さんが慰めるために、K市に海を見に連れて行ってくれるって。綺麗な貝殻、お土産に持ってくるね!」 彼女は無邪気で明るい口調で、それが自慢だと気が付いていないようなふりして言った。 翼は軽く咳払いをすると、まだベッドに横になっている若葉に目を向けた。 「若葉、君も体が良くなったら、海へ連れて行ってあげるよ。 安心して。旅行は3日間だけだから。帰ってきたら、結婚の準備をしよう」 静香は呆れて、何か言おうとしたが、若葉に腕を引かれて口をつぐんだ。 「行ってらっしゃい。楽しんできてね」 若葉の言葉を聞いて、翼もずいぶん気が楽になったようだった。 「若葉、なんだか前より物分かりが良くなったな」 若葉はただ微笑むだけで、何も言わなかった。 物分かりがいい? 泣きも喚きもせず、翼に八つ当たりすることもなく、彼と薫のすることに無関心になったのは、ただ愛が冷めてしまったからだ。 これから赤の他人になる男のために、自分の感情をすり減らす必要なんてないから。 それに、自分だって、もうすぐここを離れるのだ。 翼は事故の後ずっと自分の家に住んでいた。彼がもう少し気を配っていれば、自分がすべての荷物をまとめ終えていることに気づいたはずだ。 そして、あの家もすでに静香に頼んで、売却の手続きを進めてもらっている。 旅立ちの日、若葉は朝早くに退院手続きを済ませた。 運命のいたずらのように、翼と薫がK市へ出発するのも、ちょうどその日だった。 薫は新調したワンピースを着て、翼から贈られたアクセサリーを身につけていた。かつての田舎くさい雰囲気はもうどこにもなかった。 彼女は玄関に立つ若葉を、勝ち誇ったような目で見下ろして言った。 「あなたじゃ私には勝てないわ。 翼さんは私が好きなのよ。立場をわきまえて、自分から身を引いたらどう? さもないと、あなたを死ぬほど辛い目にあわせる方法なんて、いくらでもあるんだから!」 薫の脅し文句を聞いても、若葉は馬鹿馬鹿しいとしか思えなかった。 「相手に婚約者がいるって分かってて、割り込んでくることがそんなに得意気なの?」 それを聞いて薫は悔しそうに足を踏み鳴らした。「でたらめ言わないで!割り込んだりしてないわ。私と翼さんこそが、本当の愛で結ばれてるの! 知らないでしょ?翼さんはとっくに言ってたわよ。あなたのあの生気のない顔を見てると、気分が悪くなるって!」 だが、若葉はもう、そんな心ない言葉で傷つくことはなかった。 確かに自分は内向的だけど、それは今に始まったことじゃない。 昔はそんな自分を好きだと言っていたのに、今は嫌いだなんて。それはただ、翼が心変わりしただけだし、彼がクズなだけで、自分の性格とは何の関係もないはず。 それに、嘘をついてでものし上がろうとする見栄ぱっりな薫と、心変わりを認めようともしない恩を仇で返すような翼はまさにお似合いのカップルじゃないか。 若葉が悲しむ様子を見られなくて、薫はなんだかすっきりしない気分だった。 彼女がまだ何か言いたそうにしていると、翼が急かしてきた。 「薫、荷物の準備はできたかい?忘れ物はないようにね」 薫はもう一度若葉を睨みつけると、不満そうに口をつぐんだ。 車椅子で出てきた翼は、ドアのそばに寄りかかる若葉を見て、突然優しく言った。 「若葉、病院で安静にしてなくていいのか?わざわざ俺たちを見送るために退院してきたのか?」 若葉が答える前に、彼は自分勝手に話を続けた。「そうか。それなら、君が俺に折れたってことだな。 若葉、家でおとなしく待ってるんだぞ。薫の気晴らしに付き合ったら、すぐに帰ってきて君と結婚するから。 そうすれば君は俺の妻だ。養子を二人もらって、幸せに暮らそう」 翼の口調は、未来への希望に満ちていた。 しかし若葉は、これまでのことを思い出し、ただただ不愉快な気分になった。 二人の後ろ姿を見送ると、彼女も部屋に戻り、とっくに準備してあった荷物を取り出した。 翼が帰ってきて結婚するのを待つ?養子を二人もらうのを待つ? もう、そんなのはごめんだ。 男なんて他にいくらでもいるし、自分だって子供産めるんだから。 若葉はすべての真相を知った瞬間から、彼と別れて互いが別々の道を進むことを決めてたのだ。 ほどなくして、駅のホームで、南へ向かう電車と北へ向かう電車が、ゆっくりと離れていった。 そして自分もまた、翼から遠く離れ、二度と会うことはない運命になるだろ。