めかし込んだのは、あなたとさよならするために

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めかし込んだのは、あなたとさよならするために

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瀬戸遥(せと はるか)は、神崎奏人(かんざき かなと)のSNSの投稿写真を見つめていた。そこには、別の女性の指に輝くダイヤモンドの指輪が写っ...

Chương (1)

第1章

瀬戸遥(せと はるか)は、神崎奏人(かんざき かなと)のSNSの投稿写真を見つめていた。そこには、別の女性の指に輝くダイヤモンドの指輪が写っている。 彼女の指先は、画面の上を彷徨うように行き来する。 「遥、サインしてくれ。これからは俺と結奈の邪魔をしないでほしい」 奏人は離婚協議書を彼女の前に滑らせた。その瞳は、骨の髄まで凍りつくほど冷たかった。 彼女は冷ややかな笑みを浮かべ、ペンを走らせて署名した。「神崎さん、あなたとの十年、結局は無駄だったわね」 八歳になる息子の、「結奈さんがママならいいのに」という一言が、ナイフのように心を抉る。 アシスタントの策略、愛する人の裏切り……彼女は覚悟を決め、足の不自由の億万長者、桐山蒼真(きりやま そうま)のもとへ嫁ぐ道を選んだ。 「少なくとも、あの人は私に『妻』という立場をくれるから」 鏡に向かって化粧を直すが、目尻から溢れる涙はどうしても隠せない。 結婚式当日、目を赤くした奏人が、教会の外で彼女を引き留めた。「遥、俺が間違っていた。一緒に帰ろう!」 蒼真は車椅子から立ち上がり、彼女を背に庇う。「神崎さん。遥は今、僕の妻だ」 第1話 瀬戸遥(せと はるか)は神崎奏人(かんざき かなと)の投稿を見つめ、指先を画面の上で長く彷徨わせた。 画面に並ぶ言葉は、猛毒を塗った針のようだ――【運命の愛、君にすべてを捧ぐ】 写真の中で、彼の節くれだった手が別の女性の手首を掴んでいる。本来なら遥のものであるはずのダイヤモンドの指輪が、相手の指で誇らしげに輝いている。 事情など露知らず、友人からLINEが届いた。 【神崎先生の投稿、超ラブラブじゃん!奥さん、披露宴はいつ?】 遥は唇を噛み締め涙を拭うと、震える指で文字を打った。 【確かに結婚するわ。でも、相手は彼じゃない】 午前二時、奏人のアシスタントから電話がかかってきた。 「神崎先生が飲みすぎちゃって。迎えに来ていただけませんか?」 遥は冷ややかな笑みを浮かべた。 ――行ってやる。ちょうどいい、十年間の青春について、けじめをつけてやろうじゃないか。 現場に到着すると、遠目にも奏人の黒いSUVが見えた。 近づくと、車が暗闇の中でリズミカルに揺れているのに気づいた。 窓ガラスは曇り、中からは女性の甘い声が漏れ聞こえてくる。 昨日のSNSに写っていた黒木結奈(くろき ゆいな)だ。 不意に、結奈が隙間から視線を上げた。その純真そうな顔に驚きの色はなく、むしろ挑発的な笑みをこちらに向けてくる。 その笑みはナイフのように、遥の胸を鋭く抉った。 遥はようやく悟った。奏人の周りの人間は、アシスタントを含め全員が結奈の味方であり、結託して自分を嵌め、わざとこの光景を見せつけたのだと。 彼女は背を向けて走り出した。ヒールの音が地面を叩き、慌ただしいリズムを刻む。 タクシーの中、窓を流れるネオンの光が目に痛い。 十年前、彼女は瀬戸家の令嬢、彼は神崎家の御曹司として、大学法学部のディベート大会で出会った。 肯定側の主弁士だった遥と、否定側のリーダーだった奏人…… 試合では激しく対立した二人が、プライベートでは恋に落ち、誰もが羨むキャンパス公認のカップルとなった。 卒業後、奏人は家業を継ぐことを拒み、自力で道を切り拓くことを選んだ。その代償として、実家とは絶縁状態になった。 遥も家族の反対を押し切り、彼のために専業主婦になりながら、共に法律事務所を立ち上げた。 やがて事務所は軌道に乗り、互いの実家との関係も修復された。 息子の神崎陸(かんざき りく)も生まれた。順当にいけば、次は結婚し、一生を共にするはずだった。 しかし、奏人はいつまで経ってもプロポーズしてこなかった。 息子が一歳になった頃、遥はプライドを捨てて結婚を切り出した。 だが、彼は眉をひそめて言った。「俺は非婚主義なんだ」 今ならわかる――彼の非婚主義は、自分に対してだけのものだったのだと。 帰宅すると、室内は真っ暗で、陸の部屋からだけ微かな光が漏れていた。 彼女は声を押し殺して言った。「陸、もう遅いわよ。寝なさい」 「うるさいな!」 八歳の少年は顔も上げない。ゲームの爆音が鼓膜を震わせる。「結奈さんは一度だって僕に指図しなかった!限定スキンだってプレゼントしてくれたんだ!」 遥がスマホを取り上げた瞬間、陸は喚き声を上げて彼女を突き飛ばした。 「あっち行け!ママなんて最低だ、大嫌い!結奈さんのほうが一千倍も一万倍もいい、結奈さんに僕のママになってほしい!」 遥は雷に打たれたような衝撃を受けた。結奈がこれほどまでに深く入り込んでいたとは。 涙をこらえ、スマホを握りしめた。その声は震えているが、意志は固い。「今はまだ私があなたの保護者よ。好き勝手はさせない」 陸の泣き叫ぶ声を背に、遥は子供部屋を出た。 バスルームに閉じこもり、鏡に映る蒼白な顔を見つめながら、父に電話をかけた。 「お父さん、桐山蒼真(きりやま そうま)と結婚するわ。手配をお願い」 瀬戸隆(せと たかし)は安堵の笑みを漏らした。 「遥、よく考え直したな。桐山家の御曹司は……その、少し体に不自由があって、夜の営みは難しいかもしれないが、治療法がないわけじゃないし……」 「わかってる」 彼女は蛇口を閉めた。「少なくとも、あの人は私に『妻』という立場をくれるから」 上流階級で、遥が十年間も男に尽くして笑い者になっていたことは、誰もが知っている。 だがこれでいい。足の不自由の億万長者・桐山蒼真と結婚すれば、瀬戸グループを救えるし、奏人にも見せつけられる。 ――彼がいなくても、自分は雲の上に立てるのだ。 やらない理由はない。 第2話 翌日、奏人から母校のカフェに呼び出された。 遥は三十分も早く到着し、窓際のいつもの席をとった。 テーブルの上の青いキキョウは少し萎れている。遥は初デートのことを思い出した。 あの時、彼女が不意打ちでキスをすると、彼は耳まで真っ赤にして平静を装おうとし、立ち上がった拍子に花瓶を倒してテーブルを水浸しにしたのだ。 ドアベルの軽快な音が、遥の思考を断ち切った。 顔を上げると、奏人が入ってくるところだった。その後ろには結奈が続いている。 遥は掌に爪を食い込ませた。 別れ話にまでその女を連れてくるとは、奏人は本当に情け容赦がない。 結奈は気を利かせて隣のテーブルに座るが、二人の会話は丸聞こえの距離だ。 「これが協議書だ。目を通してくれ」 奏人は鞄から書類を取り出し、差し出した。 「事務所の君の持ち株は現金化して買い取る。それから、俺名義の不動産の半分を慰謝料として譲渡するし、陸の養育費も一括で支払う。 署名したら、もう俺と結奈には関わらないでくれ」 遥は中身も見ずに最後のページを開き、さらさらと署名した。 そのあまりにあっさりした態度に、奏人は少し意外そうに眉を寄せる。「遥、変な策略はするなよ」 「署名したのに、どんな策略ができるって言うの?」 遥は鼻で笑い、隣の結奈を一瞥してから問いかけた。「あの女のどこがそんなにいいわけ?」 奏人は眉をひそめた。「大事なことか?」 遥は頑なに彼を見つめる。「私にとっては大事よ」 自分がどこで負けたのか、どうしても知りたい。 「半年前、母校で講演をした時、結奈が学生代表として花束をくれたんだ」 普段は無口な奏人だが、愛する人のこととなると饒舌になる。「若くて、綺麗で、純粋だ。とても気に入った。彼女をひと目見た瞬間、絶対に妻にしたいと思ったんだ」 遥の胸が鈍く痛んだ。 十年の青春も、子供を産み育てた日々も、他人の一目惚れには敵わない。 彼女は立ち上がった。「私の家にまだあなたの荷物があるわ。なるべく早く取りに来て。ついでに陸とも話して」 午後六時、学校から帰ってきた陸を、奏人と遥がリビングで待ち受けていた。 奏人は単刀直入に切り出した。「陸、パパとママは別れることにした。でも、お前を愛していることに変わりはない」 それを聞いた陸は、悲しむどころか目を輝かせた。 「パパ、結奈さんと結婚するの?僕も一緒に住める?」 遥の手からティーカップが滑り落ち、粉々に砕けた。彼女は腹を痛めて産んだ息子を信じられない思いで見つめ、声を震わせた。 「陸、ママの何がいけないの?」 「うるさいんだよ!」 陸は声を張り上げた。「あれこれ指図ばっかりして、本当にうざい! 結奈さんは唐揚げを作ってくれるし、コーラも買ってくれるし、ゲームだって教えてくれる。最新のゲーム機も買ってくれるって約束したんだ!」 陸は興奮してまくし立てる。「結奈さんが言ってたぞ、ママが僕にいちいちうるさいのは、仕事がなくて暇人だからだって!」 奏人は冷ややかに傍観していたが、やがて無表情に告げた。「陸が俺と来たいと言うなら、そうさせる。結奈は子供好きだし、陸の面倒もよく見てくれるはずだ。安心しろ」 その夜のうちに、奏人は陸を連れて家を出て行った。 遥は窓辺に立ち、息子がさよならの一言もないまま、振り返りもせずに車に乗り込むのを見送った。 深夜、ガランとした家の中で、遥のスマホに奏人のSNS更新通知が届いた。 写真には、奏人と結奈に挟まれた陸が、三人で豪華なケーキにナイフを入れる様子が写っている。 【新しい生活、新しい始まり】という一文が添えられていた。 背景には、奏人の両親や親族の姿が見える。 全員が満面の笑みを浮かべ、ごくありふれた幸せな家族の集まりのようだ。 まるで……彼女など最初から存在しなかったかのように。 遥は子供部屋に入り、息子がよく遊んでいた恐竜のぬいぐるみを抱きしめて声を上げて泣いた。 三日後、遥のもとにパーティーの招待状が届いた。 すぐに父から電話が入る。「桐山家の御曹司もそのパーティーに参加するそうだ。会ってきなさい。結婚前に親睦を深めるんだ」 彼女は空っぽの部屋を見渡し、承諾した。 当日の夜、黒いロングドレスを纏い、完璧にメイクを施した鏡の中の自分は、まるで中身のない抜け殻のようだ。 煌びやかな会員制クラブに一人で足を踏み入れると、四方八方から冷ややかな視線が突き刺さるのを感じた。 明らかに、奏人が若い女子大生のために彼女を無残に捨てたという噂が広まっているのだ。 その時、ホールの入り口がにわかに騒がしくなった。 振り返ると、結奈を連れた奏人が入ってくるところだった。その後ろには、子供用のスーツを着て得意げな顔をした陸が続いている。 陸は彼女を見つけると、嫌悪感を露わにした。「ママ、なんでここにいるの?」 何か言おうとした瞬間、奏人に手首を掴まれ、低い声で警告された。「言ったはずだ、俺たちの生活を邪魔するなと」 第3話 遥は怒りを通り越して笑い出しそうになった。「まだ私があなたに未練があると思ってるの?」 彼女の手首を握る奏人の手に、さらに力がこもった。「違うのか?カップルだらけのこの場に一人で来るなんて、結奈に恥をかかせるつもりだろう」 「婚約者に会いに来たのよ」と言いかけたが、視界の端に、結奈に手を引かれてデザートを食べる陸の姿が映った。 口元にクリームをつけた子供の笑顔には、奏人と瓜二つのえくぼが浮かんでいる。それを見た瞬間、言葉が喉に詰まった。 こんな場所で、母親が再婚することを知られたくない。 「私には私の用事があるの。あなたには関係ないわ」 彼女は奏人の手を振りほどいた。シャンパングラスを握る指先が白くなるほど力がこもる。 人のいない隅のソファへ逃れる背中に、ダンスフロアから奏人が結奈に向ける優しい笑い声が聞こえてきた。 かつては自分に向けられていたその優しさが、今は鼓膜を刺す痛みとなる。 「あれが神崎先生の新しい彼女?確かに瀬戸さんより若いな」 「瀬戸は十年も追いかけ回して、子供までダシに使ったのに、結局神崎家には入れなかったんだろ?」 …… 周囲のひそひそ話が止むことはなく、彼女の肌をちくちくと刺した。 遥はシャンパンを煽り続けた。やがて父から「桐山の若様は体調不良で欠席だ」という連絡が入った。 テーブルに手をついて立ち上がり、帰ろうとしたその時、腰に汗ばんだ手が絡みついた。 顔を上げると、松村浩司(まつむら こうじ)がニヤニヤと笑っていた。八年前のあの夜の酒の臭いが、不意に蘇る。 当時、奏人は事業を始めたばかりで、松村グループの顧問弁護士の座は、どの事務所も喉から手が出るほど欲しい案件だった。 奏人を助けるため、妊娠五ヶ月だった彼女は、彼に隠れて松村グループの会長・松村浩司に会いに行った。 浩司の屋敷のソファに押し倒され、酒臭い息が迫ってきた時も、彼女の頭にあったのは「神崎のために契約を取る」ことだけだった。 「彼女を放せ!」 爪が掌に食い込む中、奏人の怒号が聞こえた。 浩司は手を離し、ゆっくりと袖のボタンを外した。 「おやおや……神崎先生じゃないか。新しい女を抱いてるくせに、俺が使い古した女の心配をする余裕があるのか?」 その言葉が奏人の逆鱗に触れた。 あの年、血まみれで屋敷から運び出された遥。救急救命室の前で見た、奏人の白いシャツに飛び散った血痕が、妖艶な花のように見えたことを覚えている。 今、彼は目を見開き、浩司の顔面に拳を叩き込んだ。 浩司はよろめいて壁に激突し、鼻血が顎を伝って滴り落ちた。 「奏人!」 傍らにいた結奈が悲鳴を上げた。 しかし奏人は既に理性を失っていた。浩司のネクタイを掴み、膝を腹に叩き込む。二発目の拳が振り下ろされた時、その拳は既に血に染まっていた。 浩司も負けじとフックを放ち、奏人の頬をかすめたが、すぐに地面に組み伏せられた。拳が雨のように胸や腹に降り注いだ。 「もう別れたんだろ?なんでこんなアマを庇うんだ?」 浩司は血の混じった唾を吐き、息も絶え絶えに笑った。「こいつが腹を大きくして俺のベッドに這い上がってきた時……」 言葉は鈍い音と共に遮られた。 奏人の肘が顔面に直撃し、血まみれの歯が二本床に転がった。浩司はようやく静かになった。 宴会場は墓場のように静まり返り、全員の視線が遥の背中に突き刺さった。それは無数の針のようだった。 警備員に引きずられていく間も、浩司は喚き散らしていた。 奏人が口元の血を拭うと、結奈が目を赤くして飛びつき、彼の顔の傷に触れながら取り乱した様子で何かを言った。 遥はシルクのハンカチを差し出した。「拭いて」 しかし、ハンカチは奏人の手で地面に払い落とされた。 奏人は純白の絹を靴で踏みにじり、氷のように冷たい言葉を吐き捨てた。 「汚くて使えないな」 第4話 「汚い」と言われた瞬間、遥は悟った。奏人はあの時のことを、何一つ許してはいなかったのだ。 だが事実、彼女と浩司の間には何もなかった。 あの日、浩司が強引に迫ってきた時、彼女は涙目でボイスレコーダーの再生ボタンを押したのだ。 「松村社長、この録音がマスコミや奥様に渡ったら、どうなると思いますか?」 浩司は逆上し、彼女の手首を掴んでソファの隙間に押し付けた。彼女は死に物狂いで抵抗し、流産しかけた。浩司は大事になるのを恐れて妥協したのだ。 一週間後、奏人の事務所は松村グループの法務代理権を獲得し、危機を脱した。 八年もの間、奏人はこの件に触れようとしなかったが、彼女を信じたことも一度もなかったのだ。 だが、もうどうでもいいことだ。 今、奏人と結奈は愛し合っており、遥もまた桐山家に嫁ぐ身だ。本来ならもう赤の他人であるはずなのに、遥がワインを手に取った時、奏人が口を開いた。 「誤解するなよ。殴ったのはあいつに反吐が出るからだ。それに、お前は陸の母親だからな……」 「分かってるわ」 遥はグラスを揺らしながら微笑んだ。「黒木さんに説明してあげて。私には必要ないから」 男の喉仏が動いた。しばらくして彼は言った。「来週、陸の学校で親子運動会がある。忘れずに来い」 言い終えると、奏人と結奈は陸を連れて立ち去った。 親子運動会の日、朝日小学校のトラックには万国旗がはためいていた。陸は彼女を見ると、表情を強張らせた。「なんで来たの?」 子供の視線を追うと、奏人が結奈のヘアバンドを直してやっているところだった。 二人は同系色のスポーツウェアを着ており、実にお似合いだった。 遥はこんな状況になるとは想像もしていなかった。奏人があの日わざわざ来るように言ったのは、彼ら「親子三人」の幸せな姿を見せつけるためだったのか? 遥は奏人のそばに行き、声を潜めて言った。「彼女が来るなんて聞いてないけど」 奏人は眉をひそめた。「結奈は今日講義がないから、陸と一緒にいたいと言ってついて来たんだ」 競技前のウォーミングアップ中、陸が急に地面に寝転がって駄々をこね始めた。「結奈さんがいい!ママより足が速いもん!ママはいやだ!ビリになるのは嫌だ!」 遥は心が引き裂かれるような思いだった。 以前、奏人と三人で走った時は、息子は手が熱くなるほど強く握ってきたものだ。今、彼は結奈の懐に飛び込み、その表情からは親愛の情が溢れている。 結奈は申し訳なさそうな顔をしたが、口元の笑みは隠しきれていなかった。「子供の言うことですから、瀬戸さん、気にしないでくださいね」 「本当のことだもん!」 陸はしゃくり上げながら叫んだ。「結奈さんがいい!」 遥は諦めて観客席に退いた。奏人がしゃがみ込み、結奈の足に二人三脚の紐を結ぶのを眺めた。 スタートの合図が鳴ると、三人は息の合った走りで飛び出し、すぐにリードを奪った。陸の笑い声が会場に響く。 陸の楽しそうな横顔を見つめる遥の胸は、締め付けられ、張り裂けそうだった。 急に、アクシデントが起きた。 カーブで隣のレーンの保護者が大きく踏み出し、陸たちにぶつかったのだ。陸はバランスを崩し、トラックに激しく転倒した。 「陸!」 陸の膝が地面に打ち付けられた瞬間、遥は既に走り出していた。 「見せて」 彼女は熱い地面に膝をつき、慎重に傷を確認した。「よかった、擦り傷だけね。保健室で手当てすれば大丈夫」 「ママはいやだ!」 陸は彼女の手を振り払い、奏人の胸に縮こまった。「パパと結奈さんがいい!」 それでも遥はついて行った。 保健室の外のベンチで待っていると、十分ほどして結奈が一人で出てきた。 「陸は?」 遥はすぐに立ち上がった。 「疲れて眠っちゃったわ。奏人がついてる」 結奈は微笑んだ。「瀬戸さん、少し歩きましょ。話があるの」 二人は校庭の隅にある木立の方へ歩いた。結奈は相変わらず満面の笑みを浮かべている。 「そんなに悲しまないで。子供なんてそんなものよ、誰でも優しくしてくれる人に懐くんだから」 遥は拳を握りしめた。「一体何が言いたいの?」 「私と奏人、もうすぐ結婚式を挙げるの」 結奈の声は優しく、しかし残酷だった。「私が陸の正真正銘の母親になる。本当にあの子を愛してるなら、祝福すべきじゃない?いつまでもつきまと……んぐっ!」 言い終わらないうちに、木の陰から黒い手袋をした手が伸び、結奈の口を塞いだ。 別の黒い革手袋の大男が背後から現れ、遥の口と鼻を力任せに押さえつけた。 遥が「助けて」と叫ぼうとした瞬間、首筋に冷たいものが走り、エーテルの臭いが鼻腔を満たして意識を奪っていく。視界がゆっくりと暗転していく…… 第5話 頭から冷水を浴びせられ、遥は激しく咳き込みながら意識を取り戻した。 辛うじて顔を上げると、向かい側では結奈もずぶ濡れになって目を覚まし、震えながら部屋の隅に縮こまっている。鉄の鎖が床を擦り、不快な音を立てた。 「起きたか?」 闇の中から男が現れ、ブーツで水たまりを踏みつけた。 遥は息を呑んだ。大岩剛(おおいわ つよし)だ。かつて傍聴席で、凶悪な視線を投げていたあの男。 彼の恋人がルームメイトを毒殺した事件で、奏人が徹底的に追い詰め、死刑判決を勝ち取ったのだ。 「神崎のせいで俺の女は人生を奪われた」 剛は鉄パイプを振り上げ、そばの鉄枠に叩きつけた。轟音が反響する。「今度はあいつに、自分の女が目の前でなぶり殺される様を見せてやるんだ」 そう言って彼は獰猛に笑い、ビデオカメラを設置した。録画中の赤いランプが不気味に点滅する。 「全て記録してやる。あいつにたっぷりと鑑賞させるためにな」 結奈が急に発狂したように暴れ出し、鎖が鉄枠に当たってガシャンと鳴った。「殺すならこいつを殺して!神崎は私なんて愛してない!」 彼女の声は耳をつんざくほど甲高い。「こいつは神崎との間に息子がいるのよ!私はただの遊び相手!早くこいつを殺して!」 遥は結奈を睨みつけ、爪が掌に食い込むほど強く拳を握った。 剛は腹を抱えて大笑いし、カメラをポンポンと叩いた。「焦るな。誰を愛するか、しないかはどうでもいいか、あいつ自身に選ばせてやる」 そう言って彼はスマホを取り出し、ビデオ通話をかけた。 画面が点灯した瞬間、奏人の顔は血の気が引いて蒼白だった。レンズ越しに惨めな姿の遥と結奈を見て、その切れ長の瞳は氷のように冷え切っている。 「二人を放せ。さもないとただじゃおかないぞ!」 「おや、神崎先生ともあろうお方が、随分と取り乱していらっしゃる」 剛はナイフの切っ先を二人の喉元に交互に突きつけた。「子供の母親と婚約者、選べるのは一人だけだ。生きて連れ帰るか、死体にしてドブネズミの餌にするか」 「遥だ」 奏人は絞り出すように言った。喉仏が激しく動く。「俺は彼女を愛している。彼女を生かしてくれ!」 その声は枯れていたが、一言一句が重く、遥の胸に激震を走らせた。 奏人は自分を憎んでいると思っていた。息子の親子行事に結奈を連れてきて当てつけにするほどに。 しかし今、男の目に浮かぶ充血は、八年前に彼女が松村邸から運び出された時よりも濃かった。 剛は急に爆笑し、鉄パイプを壁に叩きつけて火花を散らした。 「そんなに愛してるなら、あえて目の前で死ぬところを見せてやるよ!」 彼はカメラを叩いた。「安心しろ神崎先生、後でノーカットの動画を送ってやる。存分に楽しんでくれ。俺は忙しいんでな、通話はここまでだ」 そう言うと彼はSIMカードを抜き、そばのストーブに投げ込んだ。 続けて彼は遥の襟元のボタンを引きちぎり、ナイフの先を鎖骨の上で滑らせた。「まずはこの顔をズタズタにして、それから切り刻んで犬の餌に――」 それを聞いた結奈が悲鳴を上げた。 「どういうこと?約束が違うじゃない、奏人が愛してる方だけ傷つけるって!彼は私を愛してないって言ったでしょ、なんで私を放してくれないのよ?」 剛は鼻で笑った。「気が変わったんだよ。文句あるか?神崎の女は一人残らず始末してやる!」 結奈は恐怖のあまり、涙と鼻水を垂れ流した。 「お願い!助けて!死にたくない……彼女を殺して、私は助けて……」 「うるせえ!」 剛はぼろ布を掴んで結奈の口に押し込み、遥の方を向いた。「さて、瀬戸さん、始めようか」 話している間に、冷たいナイフの先が遥の胸元に押し当てられた。 「いい体だ。神崎先生もなかなか目が高い。じゃあ、ここからいくか……」 第6話 左胸が切り裂かれ、肉がめくれ上がり、血の雫が肋骨を伝って滑り落ちた。 遥は痛みに息を呑んだ。 剛のナイフが右の鎖骨に狙いを定めた瞬間、鉄の扉が鈍い音を立てた。何かが激突したような、狭い空間が揺らぐほどの衝撃が走る。 「もう来たのか?さすが神崎先生、やるな」 男は血の混じった唾を吐き捨て、ナイフを振り上げ、遥の心臓を突き刺そうとした。 間一髪のところで、鉄の扉が轟音と共に倒れ込んだ。 警官隊がなだれ込み、その中の一人が素早く剛の手首を撃ち抜く。鋭利な刃物が金属音を立てて落下した。 剛は瞬く間に制圧され、危機は去った。 遥は瞼が重くなるのを感じた。視線を落とすと、上半身が血で赤く染まっている。 女性警官が直ちに傷口を押さえて止血し、上着を脱いで彼女の肩にかけた。 警官隊の後ろから駆け込んできた奏人は、血を流す遥に見向きもせず、真っ直ぐに結奈を抱きしめた。 結奈は無傷だったが、彼の首筋に顔を埋めて震えながら泣いていた。「来るのが遅いよ……もう二度と会えないかと思った……」 「ごめん、遅くなった!」 奏人の声はとろけるように甘く、先ほど画面越しに「遥を愛している」と叫んだ時とは別人のようだった。 結奈は何かを思い出したように彼を突き飛ばし、すすり泣きながら言った。「一番愛してるのは遥なんでしょ?どうして私を抱きしめるの?」 「何を馬鹿なことを」 奏人は彼女の顎を指先で持ち上げ、あやすように軽く振った。 「あいつを選ばなきゃ、犯人はお前を先に刺していただろう。お前が傷つくのをただ黙って見ているわけがない」 ――そういうことか、そういうことだったのか…… 遥は血を吐き出し、目尻から涙が止めどなく溢れた。 彼は結奈を愛している。だからあの男の前で芝居をしただけなのだ。 自分は危険を引き寄せるための盾であり、奏人の計算の中で最も価値のない捨て駒に過ぎなかった。 激痛が全身を襲い意識が遠のく中、遥は奏人が警察に指示する声を聞いた。「先に黒木さんを病院へ。彼女は強い精神的ショックを受けている」 入院して半月、奏人の姿は結奈の病室の前で見かけるだけだった。 看護師たちが噂している。神崎先生は婚約者に三人の専属看護人を雇い、自分も二十四時間付き添っている、羨ましい限りだと。 一方で、遥を気にかけてくれるのは、両親を除けば、まだ会ったことのない婚約者、桐山蒼真だけだった。 彼は遥が一番好きな青紫のキキョウの花束を届けてくれた。カードには【一日も早い回復を祈る】と記されている。 文字は美しく、力強くも飄々としており、本人の気骨がうかがえた。 遥はこの結婚に、微かな期待を抱くようになっていた。 その日、病室のドアが開き、奏人が入ってきた。手には同じくキキョウの花束が握られている。 サイドテーブルにある、ほぼ同じ花束を見ると、彼は眉をひそめ、持っていた花を部屋の隅に放り投げた。 「またどこかの男からの贈り物か?」 彼は鼻で笑った。「八歳の子持ちのくせに、まだ男に媚びを売っているのか」 遥はカードを掌で握りしめ、淡々と言い放った。「神崎さんは、お見舞いに来たの?それとも私を侮辱しに来たの?もし後者なら、さっさと出て行って」 「結奈に謝ってこいって言われなきゃ、誰が好き好んでこんな所に来るかよ」 彼は不機嫌そうに、スーツの内ポケットから招待状を取り出してテーブルに叩きつけた。「来月の十五日、俺と結奈の結婚式だ。彼女がお前に来てほしいそうだ」 遥は招待状の日付に目を走らせた。十五日。 彼女は心の中で呟いた。行くことはできないだろう、と。 なぜならその日は、彼女と蒼真の結婚式の日でもあるからだ。 第7話 退院後、遥は急ピッチで結婚式の準備に取り掛かった。 わずか三日で、双方の両親が式場から招待状のデザインまで、すべてを取り決めてしまった。 遥は指輪を選び、ウェディングドレスを数着試着するだけで、花嫁としての務めを終えたことになった。 桐山家の御曹司は体が不自由で外出できないため、彼女は一人でドレスショップへ試着に向かった。 そこで思いがけず、見覚えのある二人の姿に出くわした。 「瀬戸さん?」 先に口を開いたのは結奈だった。 彼女はこれ見よがしに奏人の腕に指を絡ませ、目尻を上げて値踏みするような視線を向けた。「奇遇ですね、あなたもドレスを見にいらしたんですか?」 奏人は、彼女の純白のカシミヤコートに視線を走らせ、眉をひそめて冷ややかに言った。 「どうしてどこにでも顔を出すんだ?」 「奏人、そんな言い方しないで……」 結奈は彼の耳元に唇を寄せたが、その声はわざとらしく周囲に響いた。「瀬戸さんは一人でドレス選びなんて、ただでさえ可哀想なんだから……」 その言葉は波紋のように広がり、周りでドレスを試着していたカップルたちが次々と好奇の視線を向け、ひそひそ話がそこかしこで始まった。 遥は口元に薄い笑みを浮かべ、ディスプレイされたレースの裾を指先でなぞった。 「神崎さん、この店を買い取りでもしたの?私がドレスを試着するのに、いちいち許可が必要なのかしら?」 結奈は言葉に詰まった。 奏人は冷ややかな視線で彼女を睨みつけ、棘のある口調で言った。「そんなに結婚を焦っているのか?俺に捨てられたからって、手当たり次第に男を見繕ったのか?」 「誰が……」 遥が怒りを露わにしようとしたその時、店長がタイミングよく歩み寄ってきた。「瀬戸さん、試着室の準備が整いました」 特別試着室には、サテンのウェディングドレスが静かに掛けられていた。腰回りのラインストーンは夜空に散りばめられた星のように、照明の下で柔らかな輝きを放っている。 遥がそのドレスを身に纏って試着室から出てくると、周りの人々は思わず息を呑んだ。 少し離れた場所に立っていた奏人は何気なく視線を向けた瞬間、手に持っていた経済誌を取り落とした。 彼の視線は遥に釘付けになり、無意識に喉仏が動いた。 「奏人?」 結奈の声が静寂を破った。奏人の視線を追った彼女の顔から、瞬く間に笑みが消えた。 彼女は慌てて近くの店員の腕を掴んだ。「瀬戸さんが着ているあれ、私も気に入ったわ。試着させて」 店長は困惑した表情を浮かべた。 「申し訳ございません。こちらは桐山家の若様がミラノで特注された一点物で、裏地には瀬戸さんのお名前が刺繍されております。もしよろしければ、似たデザインのものをご紹介いたしますが」 奏人は勢いよく顔を上げ、驚愕に目を見開いた。「桐山家の若様だと?桐山蒼真のことか?」 「ええ」 遥はドレスの裾を払った。薬指のダイヤの指輪が冷たい光を放つ。「私、蒼真と結婚するの」 奏人は彼女を見つめた。その瞳の奥には激しい感情の波が渦巻いている。 信じがたい事実、欺かれたことへの怒り、そして自分でも認めたくない一抹の動揺。 「いつ桐山と知り合ったんだ?」 遥は肩をすくめた。「少なくとも、あなたと別れた後よ。どこかの誰かさんみたいに、二股をかけるような真似はしないわ」 彼女は意味ありげに結奈へと視線を流した。 結奈は顔を赤らめたり青ざめさせたりした後、たまらず声を絞り出した。「奏人とあなたの間にはとっくに愛なんてなかったじゃない。私たちは真実の愛で――」 「シーッ」 遥は人差し指を唇に当てた。 「黒木さん。あなたたちが車の中で楽しんでいた前の晩、彼は私と息子と一緒に食事をしていたのよ」 彼女の口調は穏やかだったが、その言葉は鋭い針のように急所を突いていた。「略奪愛なんて、言い訳すればするほど墓穴を掘るだけよ」 奏人は目の前の彼女を見つめながら、ふと大学時代、赤いドレスを着て弁論大会に出ていた彼女の姿を思い出した。棘のある薔薇のように、鋭い才気を放っていたあの頃を。 結奈が反論しようとしたのを遮り、奏人が先に口を開いた。「俺への当てつけのために、あんな桐山家の病人と結婚する必要があるのか」 「病人には病人の良さがあるわ。少なくとも一途だもの」 遥は涼しい顔でレースの手袋をはめ、綺麗に整えられた眉を少し上げると、バッグから金箔押しの招待状を取り出した。 「今月の十五日、お二人ともぜひ見にいらして」