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愛人を家に連れ込んだ夫を刑務所送りにした話
妊娠が判明したその日、私・吉野柚木(よしの ゆずき)は、何気なく夫・高城渉(たかぎ わたる)の車載レコーダーを確認すると、映し出されたの...
Chương (1)
第1章
妊娠が判明したその日、私・吉野柚木(よしの ゆずき)は、何気なく夫・高城渉(たかぎ わたる)の車載レコーダーを確認すると、映し出されたのは――彼と、あのヨガインストラクターとの、車中での情事だった。
画面の中の渉は、私が聞いたこともないような卑俗な言葉を、興奮に任せて吐き散らしている。
映像を見せて問い詰めた。彼は一瞬たじろいだが、すぐに言い訳めいた口調に変わった。
「医者に言われただろ?妊娠の安定期まではダメだって。君と赤ちゃんのことを思えばこそ、外で解決したんだ!
所詮はその場限りの遊びだよ。俺の心はいつだって、君だけに向いているんだから……」
この、開き直ったような口ぶりに、吐き気がこみ上げてきた。
この腹の中の命を、私を縛る鎖にしようというのか。
そっと手を下腹に当て、俯いたまま薄く笑った。
「うん、わかった。信じるから」
遊びたいなら存分に遊べばいい。私が、とことん付き合ってやる――心の中で、静かに、そう呟いた。
第1話
妊娠が判明したその日、私・吉野柚木(よしの ゆずき)は、何気なく夫・高城渉(たかぎ わたる)の車載レコーダーを確認すると、映し出されたのは――彼と、あのヨガインストラクターとの、車中での情事だった。
画面の中の渉は、私が聞いたこともないような卑俗な言葉を、興奮に任せて吐き散らしている。
映像を見せて問い詰めた。彼は一瞬たじろいだが、すぐに言い訳めいた口調に変わった。
「医者に言われただろ?妊娠の安定期まではダメだって。君と赤ちゃんのことを思えばこそ、外で解決したんだ!
所詮はその場限りの遊びだよ。俺の心はいつだって、君だけに向いているんだから……」
この、開き直ったような口ぶりに、吐き気がこみ上げてきた。
この腹の中の命を、私を縛る鎖にしようというのか。
そっと手を下腹に当て、俯いたまま薄く笑った。
「うん、わかった。信じるから」
遊びたいなら存分に遊べばいい。私が、とことん付き合ってやる――心の中で、静かに、そう呟いた。
渉は一瞬呆然としたが、すぐに大喜びで私を腕の中に引き寄せた。
彼の体に染みついたタバコの匂いと、濃厚なクチナシの香りが混ざり、甘ったるくて胸がむかむかした。
私は吐き気をこらえ、うなずいた。
「ええ、赤ちゃんのためなら、何でも我慢する」
渉は私を離し、さっきの口論で乱れたネクタイを直した。
「やっぱり君はしっかりしてるよな!ちょうどよかった、サプライズを用意してたんだ」
彼は振り返り、外に向かって呼びかけた。
「真凛、入ってきて」
ドアが開き、タイトなヨガウェアに身を包んだグラマラスな女性が入ってきた。
正にあの録画の主役、青沼真凛(あおぬま まりん)だ。
彼女は着替えていなかった。はだけた胸には無数のキスマークが生々しく、頬の赤みもまだ引いていない。どんなに強い香水も、あのいやらしい情事の匂いを消しきれない。
真凛は私を見つめ、挑発と得意げな表情を隠そうともしない。
渉は彼女の手を取って、あっけらかんと紹介した。
「君のために、特別にプロのマタニティヨガインストラクターを手配したんだ。
こちらは青沼真凛さん、これから、指導しやすいようにうちに住み込んでもらうんだ」
手のひらがじんと痛んだ。
愛人を家に連れ込み、しかも私のためだと言い張った。
渉、あなたは「厚かましい」の極みだね。
真凛は腰をくねらせて私の前に歩み寄り、上から下までじろりと見下ろした。
目線はまだ膨らんでいない私のお腹で止まり、軽蔑混じりの笑みを浮かべた。
「柚木さん、お顔色があまり良くないようですね。これからは私の指導通りにしていれば、きっと高城社長の大事な赤ちゃんを、丈夫にお産みになれますから」
彼女は特に「高城社長の大事な」という部分に強くアクセントを置いた。
まるで、この腹の中の子が私の子供ではなく、彼女が渉に功績をアピールするための道具であるかのように。
渉がそばで調子を合わせた。
「そうなんだよ、真凛は本当にプロだから。さっき車の中でも……君の体調に合わせた細かいプランについて、真剣に話し合ってくれてたんだ」
どこまでが「話し合い」で、どこからが「授乳体験」だったの?
眼前の息の合った破廉恥な二人を見つめ、心底では憎悪が猛り狂っている。
だが、顔には作り笑いを浮かべ、声は普段通りを保った。
「青沼さん、これからはよろしくお願いします」
渉はそっと私の頭を撫でた。
「そうこなくちゃ。いい子だ」
まるで、わがままを言うペットをなだめるように。
「真凛はまだ食ってないから、何か作ってきて。あっ!味は薄味でな。彼女、体づくりしてるから脂っこいのはNGなんだ」
渉は当然のように指示し、私が妊婦だということも、ましてや今がつわりで最も辛い時期だということも、完全に忘れている。
当然のように、私に愛人のための食事の支度をさせる。
憎しみをぐっと飲み込んだ。いつか必ず、この恨みが彼を斬る刃になる。
「うん、わかった」
私は振り返り、キッチンへと向かった。
背後から、真凛の甘えた声が聞こえてきた。
「奥様って、本当に言われた通りに動くわね。社長の言うことには、まるで忠犬みたいに従順なんだもの。まさか、夜の生活でも、そのままなんだか?!つまんないな~」
渉がクスリと笑った。声には侮蔑がにじんでいる。
「あいつはベッドではラブドール以下だよ。君みたいな小悪魔ちゃんとは比べ物にならない。俺が干からびそうになるほど貪りやがって……」
服が裂ける音とともに、真凛が小さく喘いだ。「社長……奥様が近くにいるのに……」
「知ってて誘惑してくるからだろ……」渉は声を潜めたが、むせ返るような濃厚なキスの音はむしろ大きく響いた。
真凛の淫らな喘ぎ声はますます大胆になり、激しい動きに合わせて途切れ途切れになっている。「ねえ……奥様……気づいたり……しない……?」
「あいつに、そんな度胸はないさ」
私はキッチンのシンクの前に立ち、蛇口をひねった。
流れ出る水が両手を洗い流すが、心に染み付いた嫌悪は洗い落とせない。
彼が言ったのは「気づかない」でも「見逃す」でもなく、「度胸がない」だった。
彼は私が彼から離れられないと、心底から信じ切っている。だから、何の遠慮もない。
度胸がない?
私は蛇口を閉め、手を拭いた。
そんなに役者じみたことが好きなら、最後まで付き合おう。
スマートフォンを取り出し、産婦人科の田中(たなか)医師に電話をかけた。
「先生、あの計画を始動させてください――」
第2話
その夜、私は食卓に料理を並べた。
真凛が、ブロッコリーを一箸、渉の茶碗によそった。
かつて大嫌いだったブロッコリーを、今では彼は美味しそうに食べている。
「料理の腕、上がったな」
渉は真凛に料理を取り分けながら、私におざなりな褒め言葉をかけた。
真凛は甘えた笑みでそれを受け、そして私を見て眉をひそめた。
「柚木さん、お料理の腕は確かですけど……このエビ、剥き方が雑ですね」
そう言うと、エビをお皿に戻し、嫌そうな顔をした。
渉はすぐに表情を引き締め、私を責めるような口調で言った。
「柚木、どういうことだッ!?エビ一匹も、きちんと剥けないのか?」
私はうつむき、皿に戻されたそのエビを見つめた。
それは、渉が以前、こだわって食べていたエビの塩茹でだった。
付き合っていた頃、エビを食べる時はいつも彼が剥いて、私の口に運んでくれた。
「君の手は絵を描くためのものだ、エビ剥きみたいなことは、夫の役目だ」と。
今、その絵を描く手はエビを剥き、さらにけなされるまでになった。
夫という存在は、無言のまま愛人の傍に立ち、私を辱めた。
「……もう一度、剥き直す」
私はもう一匹のエビを取り、鋭い殻の縁が指先を切った。
鮮明な痛みが、混濁した思考を引き裂いた。
真っ赤な血のしずくがにじみ出て、白いエビの身を染めていった。
私は指先の痛みを感じ、無意識に手を振って、その血のついたエビ肉を彼の前に投げてしまった。渉は眉をひそめ、顔に嫌悪を浮かべた。
そしてため息をつき、ティッシュを差し出した。
「どうしてそんなに不注意なんだ。次からこんな手間のかかるものは作るな。最初から剥きエビを買ってくればいいのに」
上辺だけの心遣いだった。
渉は忘れている。昔、「剥きエビは鮮度が落ちる」と彼自身が言ったことを。
渉は忘れている。「これからずっと、エビは俺が剥く」と約束したことを。
彼の愛情は、剥きエビよりも早く鮮度が落ちた。口先の約束だけが、いつまでも重くのしかかる。
かつての私は、彼の口から出る「一生」という言葉を、愚かにも信じ込んでいた。
私は紙でその血まみれのエビを包み、ゴミ箱に捨てた。彼が触れた手の甲を、こすりながら拭った。
彼は私の感情にまったく気づかず、真凛に優しい笑みを向けた。
「柚木は過保護に育てられてきたもんで、こういう手の込んだものが苦手なんだ。君にまで粗末なものを食わせて悪かったな……外に食べに行こう!真凛が好きなあの店を予約してあるんだ」
その言葉を聞いて、私は思わず渉を見上げた。
彼をますます理解できなくなっていると感じた。最初からお店を予約したのなら、なぜわざわざ私をこんな風に苦しめる必要があるのか?
「君は家で食ってろ。もったいないから、残すな」
彼は私を一瞥し、立ち上がると、丁寧に真凛の椅子を引き、二人は親密に寄り添いながら去っていった。
最初から最後まで、彼は一度も私を見ようとはしなかった。
代わりに真凛が振り返り、挑発的に私に向かって声にならない言葉を口にした。
「あなたの負けよ」
ドアがバタンと閉まった。彼らの去っていく背中が、視界から消えた。
ふと、全ての辻褄が合った。そうか、こういうことだったのか。
真凛は若くて不安を抱えている。
渉は、私のお腹の子を手放せず、かといって真凛を傷つけることも忍びない。
だからこそ、彼は真凛のわがままを黙認し、あの醜い芝居を通じて、ただ一つのメッセージを送ろうとしたのだ――「柚木なんかより、真凛の方がずっと大切だ」と。
私は食卓に並んだ料理と、指先の小さな傷を見つめた。
この瞬間、泣かなかった。ただ、あまりに荒唐無稽で笑える、と感じた。
彼は最も優しい口調で、最も傷つく言葉を口にし、最も思いやりのある仕草で、最も残酷なことをした。
ふと目を上げると、ソファの上に置かれたレースのパンティーがひときわ異様に目に飛び込んできた。
心底、吐き気がする。
私はすっかり食欲を失い、テーブルの上の料理をすべてゴミ箱に捨てた。
そしてスマートフォンを取り出し、一本の電話をかけた。
「父さん、私、会社に入りたい」
電話の向こうで、父は長い間沈黙した。
「……あいつが、柚木を傷つけたのか?」
父の声には、抑えきれない怒りが込められている。
私はたまっていたものを吐き出すように話し始めた。声にはわずかな震えがあったが、それ以上に冷たい決意が滲んでいる。
「父さん、彼、浮気している。それだけじゃない……こっそり、うちの会社を乗っ取ろうとしてるんだ。彼の会社で現在進行してる新プロジェクトを調べたら、全部――!うちの資金を食い物にした企みだった!」
電話の向こうから、何かが握りつぶされるような鈍い音がし、続いて父の怒涛のような怒りが爆発した。
「あの……卑劣な裏切り者めーー!すぐにでもあいつとの取引を全部ぶった切る!離婚?!そんなのは当然だろッ!父さんが迎えに行くから!」
「それじゃ……彼には安すぎるくらい」
私は、氷のように冷静に言い切った。
「父さん、彼に代償を払わせたい。すべてを……」
「わかった!柚木、父さんにできることがあれば、何でも言ってくれ」
ベッドサイドに飾られた、幸せだった頃のウェディングフォトが目に入った。手を伸ばし、躊躇いなく、ばったりと伏せた。
今度こそ、こっちがすべてを取り戻す番だ。
第3話
渉と真凛が戻ってきたのは、翌日の昼過ぎだ。
真凛の手には、高級ブランドの紙袋がずしりと下がっており、その顔には満ち足りた笑みを浮かべている。
ソファに座っている私を見ると、彼女はわざわざ袋を目の前に差し出した。
「あら、柚木さん。見てください、社長がこれ全部私に買ってくださったんです。こんなにたくさん持っても使いきれませんけど。フフフッ、せっかくですから、柚木さんも一つお選びになりません?私、気前よくプレゼントしますから」
それは私が以前「いいな」とつぶやいた、シーズン限定のバッグだった。
あの時、渉はなんと言ったっけ?
「こんなバッグ、見栄えだけだ。君は外出も好きじゃないんだから、買っても無駄だよ」
その「無駄」なバッグが今、真凛の腕に掛かっている。
ちらりと見ただけで、私は言った。
「いいですね。青沼さんに似合ってます。
シーズン限定ですから、欠陥品か何かじゃない限り、中古市場にはまず出回らないんですよね。
青沼さん、そういう『訳あり品』を見つける嗅覚、さすがですね」
真凛の笑みが引きつり、目尻が一瞬で赤くなった。
「ごめんなさい、柚木さん……だって、これは社長が……私がトレーニングで大変なのをわかってくれて、心を込めて選んでくれたものなんです!もし私のことで柚木さんがお気を悪くされるなら、私は……」
彼女は唇を噛み、深く傷ついたような表情を見せた。
「……でもお願い!せめて社長の心だけは、踏みにじらないでくださいませんか」
渉の表情が暗くなり、車のキーをガシャンとテーブルに叩きつけた。
「柚木、何をでたらめ言ってる!これ、正規店で買ったんだ。レシートだってある!」
私は無邪気に目を瞬かせた。
「あなた、怒ってるの?
でも、私ただ何気なく言っただけよ。だって青沼さんって雰囲気……確かに、地に足がついていらっしゃるもの。
てっきり、倹約家の方かと」
真凛は辱められながらも涙をこらえる様子を見せた。
渉は彼女をぎゅっと抱き寄せた。
「妊婦とやり合わなくていい。あいつ、今はホルモンのバランスがおかしいんだから」
そう言うと、彼は私を振り返り、失望に満ちた目を向けた。
「柚木、人の好意を、わざわざ悪く取る必要あるか?」
私はうつむき、目元の冷たさを隠して従順に振る舞った。
「ごめんなさい。ただ一人で家にいると、つい考えすぎちゃって……」
そして、何げなく切り出した。
「ねえ……渉の会社で働いていい?あなたの役に立ちたいな」
渉は一瞬たじろぎ、眉をひそめた。
「そんなことしなくていい。赤ちゃんのことを考えて、ゆっくり休んでろ」
彼のそばに寄り、袖を軽く引っ張った。
「でも医者が、妊婦も適度に外に出たほうがいいって言うの。ずっと家にこもってるのは良くないって」
渉はまだ首を縦に振らなかった。
私は、媚びるような口調でねだった。
「あなた、お願い。行かせてよ。ただあなたの側にいさせて。お茶入れたり、何か手伝ったりするから。ね?」
明らかに、彼はその態度を気に入った。
かつての私は、誰もが手の届かない吉野家の令嬢だった。
何不自由なく、人に仕えられて育ってきた。
だが今、彼に仕えることを哀願している。
この優越感が、渉を満たしたようだ。
それに、私を会社に置いておけば、家で真凛にちょっかいを出す心配もないと思っているようで、しばらく考えた後、渉はしぶしくうなずいた。
「……わかった。ただし、会社ではしっかりしろ。上司と部下の区別はつけるんだ!
無理あるなら、やめて家に帰ってもいいから、体を壊すなよ」
私は嬉しそうに何度もうなずき、目を輝かせた。
「ありがとう!絶対役に立つから!」
渉は軽く鼻で笑うと、二階へと上がっていった。
彼の背中が見えなくなるのを待ち、私の笑顔は消えた。
そばにいるだけ? 渉、すぐに思い知るだろう。
自分が、いったいどんな危険を呼び込んだのかを。
第4話
渉は、私に何らまともな仕事を与えなかった。
フロアの片隅に、ただ小さなデスクを一つ置いただけ。
彼のオフィスからは遠く、入り口には近い。
知らない人が見たら、新人の警備員かと思うだろう。
意外だったのは、真凛までもが会社に入ったことだ。
「プライベート・ヘルス・コンサルタント」という肩書で入社したが、実質的には渉の秘書のようになっている。
体の線がくっきり浮き出るスーツに、腿の付け根すれすれのスカート。
一日中、腰をくねらせて渉のオフィスに出入りしている。
オフィスのドアはほとんど閉め切られたまま。
それでも、中から漏れる真凛の甘えた声や、戯れ合う音は、なぜかいつも外まで聞こえてくる。
以前はサボり気味だった社員たちも、私と真凛が来てからは、好奇心に目を輝かせている。
たまに仕事で中に入る社員は、皆、気まずそうな顔で出てくる。
そして、私の方へちらちら視線を送ってくる。
同情、嘲笑、そして茶番を見物するような面白がりの視線だった。
「上流階級って大変ね。公然と浮気する旦那様と、じっと見て見ぬふりする奥様。こんな忍耐力があれば、何だって成功するわね」
「吉野家はもう高城家には敵わないって聞いたよ。資金繰りが危ないらしいし」
「政略結婚に愛なんてあるわけないでしょ。所詮は利益の交換だし。あの子も、本当に社長の子かどうか……」
給湯室で、女社員数人が声を潜めて噂話に花を咲かせている。
私はドアの外に立ち、コーヒーカップを手にしている。
吉野家の資金繰りが危ない?
渉が、都合のいい噂を流しているらしい。
私が彼なしでは生きていけないと、皆に思わせるためだ。
そうすれば、たとえどんなに辱められても、私が我慢するのは当然だという空気になる。
私はドアを押して中に入った。
噂話はぱったりと止んだ。
女社員たちは慌てて散り散りになり、忙しいふりを始めた。
オフィスの前に戻り、ドアをノックしようとしたその時、中から、真凛の甘ったるく、わざとらしく嬌声が聞こえた。
「社長……もう、ゆっくり……ゆっくりして……柚木さんが外で聞いちゃう……あっ!」
「わざとこんな格好して、こうなるの望んでただろ?この小悪魔が!」
渉の荒い息遣いに、真凛の震える声が混じっている。
私は手を上げたまま、固まった。ドアを叩くことも、立ち去ることもできずに。
昔の渉が、こんなに肉欲的な男だったとは、知らなかった。
しばらくして、渉の興奮した唸り声とともに、世界は静かになった。
ドアが内側から開いた。
真凛は唇を腫らし、息も整わぬまま現れた。鎖骨にはっきりと残った歯形を、誇示するように露わにしている。
私がコーヒーを持って立っているのを見て、彼女は一瞬驚いたが、すぐに道を空けた。
真凛の顔には甘ったるい笑みを浮かべているが、目は冷たいままだ。
「柚木さん、ちょうど良かったですね。社長が喉が渇いたって言ってたんです」
そう言うと、彼女は入り口の布巾を持ち、中に戻って革ソファの湿り気を拭き始めた。
渉は椅子にもたれ、事後の倦怠感を顔に浮かべている。
書類で山積みのデスクの上、彼の手元に、破れた股開き黒ストッキングが無造作に置かれている。
渉は私を見上げ、そのストッキングをごみ箱に投げ捨てた。少しも後ろめたさのない口調だ。
「入れ」
私はコーヒーをテーブルに置いた。
手が震え、熱いコーヒーがこぼれ、彼のデスク上の書類の山にかかった。
渉が飛び上がるように立ち上がり、書類を引き剥がした。その顔は嫌悪に歪んでいる。
「柚木!こんな簡単なこともできないのか?わざとだろ!」
彼は何枚もティッシュを引きちぎり、机を拭きながら、まるでゴミを見るような目で私を見た。
私は縮こまった。
「ごめんなさい……わざとじゃないの……
ただ……お腹が、ちょっと痛くて……」
私はお腹を押さえ、顔色が青褪めていく。
これは演技ではない。
さっきの光景は、確かに私の胃を痙攣させるほど不快だった。
渉の手が宙に止まった。
私の苦しそうな様子を見て、彼の目に一瞬の迷いが走った。
彼が心配していたのは私ではない。
この腹の中の「継承権」に、万一のことがあっては困るからだ。
「もういい!」
彼は苛立ったように手を引くと、ティッシュを抜き取って書類を拭き始めた。
「気分が悪いなら、休憩室に行ってろ」
私はよろめくようにオフィスを飛び出した。
ちょうど私が振り返り、ドアを閉めようとした瞬間、真凛の甘ったるい声が背後から、鋭くはっきりと響いた。
「社長、そんなに怒らないでよ。彼女のことでお体を壊したら、もったいないですから……」
「早く産んで、さっさと離婚しちまえよ。まったく!わがままがひどくなる一方だ……」
カチリ。
私は静かにドアを押し閉めた。渉の、いっそう耳障りな愚痴も、これで遮られた。
壁にもたれ、さっきまでの怯えた表情は跡形もなく消えた。
スマートフォンを取り出し、父とのチャット画面を開き、メッセージを送信した。
【準備は整った。父さん、始めよう】