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もう、会いもしない、想いもしない
松島玲子(まつしま れいこ)は二十歳のときに陸奥昌彦(むつ まさひこ)と恋に落ち、二十二歳で一生をともにすることを誓い合った。結婚して五...
Chương (1)
第1章
松島玲子(まつしま れいこ)は二十歳のときに陸奥昌彦(むつ まさひこ)と恋に落ち、二十二歳で一生をともにすることを誓い合った。結婚して五年、子どもはできなかったが、陸奥家からの重圧に耐えながらも、彼は表情ひとつ変えずに彼女を抱きしめ、「愛している」と言い続けた。当時、誰もが「玲子は昌彦の命そのものだ」と言い、彼女もまたそれを疑わなかったが、昌彦に婚外子がいるというニュースが世間に広まるまでは。
その日、彼は土砂降りの雨の中、一日中跪いていた。「あの夜、俺は嵌められたんだ。麻里子が俺に薬を盛ったからさ……だから麻里子のことをお前と勘違いしてしまった。玲子、信じてくれ。愛しているのはお前だけだ。これからもずっとお前だけを愛する。頼むよ、俺を置いていかないでくれ」
玲子は彼の言葉を信じて、陸奥家が提示した「母を追い出し、子は残す」という条件付きの提案を受け入れた。
だがその後、白石麻里子(しらいし まりこ)が陸奥家に住み込みで妊娠生活を送り始めた頃から、あの自分しか愛さない人は麻里子のために千億に及ぶ重要な会議をすっぽかした。さらに二人の情熱が最高潮に達しようとしていたその時、ドアの外で麻里子が「暗いのが怖い」と呟くと、昌彦は迷うことなく玲子を置き去りにし、麻里子の元へ向かい、その夜は彼女のそばで過ごした。
玲子はその変化に気づいた。初めて、彼女は離婚届を差し出した。その日のうちに、昌彦は結婚指輪を握りしめたまま浴室で手首を切った。資産数億の社長が遺書に記されていたのは、たった一行の言葉だった。【玲子と添い遂げられぬなら、死を選ぶ】
二度目の時、彼女が口を開こうとした瞬間、昌彦は麻里子からの電話を切った。そして、二人が愛し合っていた頃に訪れた場所をすべて巡りながら、「俺の人生にお前は必要だ」と宣言した。一度、二度、三度……と、それを繰り返すうち、彼の態度は次第に形だけのものと変わっていった。九十九回目となると、彼女は荷物を持って家を出た。が、彼はもう追いかけもせず、謝りもすることはなかった。
「玲子は甘やかされすぎなんだ。あんなに騒いでも、本気で別れたことなんて一度もない。放っておけ。そのうち頭が冷えたら、また戻ってくるさ」だが彼は知らなかった。あの雨の夜、家を出た玲子が、二度と帰らなかったことを。次に目を開けたとき、玲子は昌彦に婚外子がいると知った、あの日に戻っていた。
……
第1話
松島玲子(まつしま れいこ)は二十歳のときに陸奥昌彦(むつ まさひこ)と恋に落ち、二十二歳で一生をともにすることを誓い合った。
結婚して五年、子どもはできなかったが、陸奥家からの重圧に耐えながらも、彼は表情ひとつ変えずに彼女を抱きしめ、「愛している」と言い続けた。
当時、誰もが「玲子は昌彦の命そのものだ」と言い、彼女もまたそれを疑わなかった。
――あの日、昌彦に婚外子がいるというニュースが世間に広まるまでは。
その日、グループ内で絶対権を握る冷徹な「閻魔」と呼ばれた男が、土砂降りの雨の中、一日中跪いていた。
「あの夜のことは、母が仕組んだんだ。孫が欲しくてたまらなくて、俺に薬を盛ったからさ……だから麻里子のことをお前と勘違いしてしまった。玲子、信じてくれ。愛しているのはお前だけだ。これからもずっとお前だけを愛する。頼むよ、俺を置いていかないでくれ」
玲子は彼の言葉を信じて、陸奥家が提示した「母を追い出し、子は残す」という条件付きの提案を受け入れた。
だがその後、白石麻里子(しらいし まりこ)が陸奥家に住み込みで妊娠生活を送り始めた頃から、何かが少しずつ狂い始めた。
「子どもがパパに会いたい」と一言つぶやけば、昌彦はすぐに国際会議をすっぽかして彼女のもとへ飛んでいった。
彼女にうつの傾向があるとわかると、昌彦は空港で玲子を置き去りにし、麻里子を連れて気分転換の旅に出た。
二人の情熱が最高潮に達さんばかりのその時、ドアの外で麻里子が「暗いのが怖い」と呟くと、昌彦は迷うことなく玲子を置き去りにし、麻里子の元へ向かい、その夜は彼女のそばで過ごした。
玲子はその変化に気づいた。
初めて、彼女は離婚届を差し出した。
その日のうちに、昌彦は結婚指輪を握りしめたまま浴室で手首を切った。
資産数億の社長が遺書に記されていたのは、たった一行の言葉だった。【玲子と添い遂げられぬなら、死を選ぶ】
二度目の時、彼女が口を開こうとした瞬間、昌彦は麻里子からの電話を切った。そして、二人が愛し合っていた頃に訪れた場所をすべて巡りながら、「俺の人生にお前は必要だ」と宣言した。
一度、二度、三度……と、それを繰り返すうち、彼の態度は次第に形だけのものと変わっていった。
九十九回目ともなると、彼女は荷物を持って家を出た。が、彼はもう追いかけもせず、謝りもすることはなかった。
「玲子は甘やかされすぎなんだ。あんなに騒いでも、本気で別れたことなんて一度もない。放っておけ。そのうち頭が冷えたら、また戻ってくるさ」
だが彼は知らなかった。あの雨の夜、家を出た玲子が、二度と帰らなかったことを。
次に目を開けたとき、玲子は昌彦に婚外子がいると知った、あの日に戻っていた。
……
「編集長」彼女の声は穏やかだった。「この前、おっしゃっていた、あの戦場記者のオファー……お受けします」
電話の向こうが、少しの間、沈黙した。
「松島さん、本気か?これは遊びじゃないぞ。それに契約上、派遣期間中は外部との連絡が一切取れない。君の夫、陸奥さんは……」
「分かっています」玲子は彼の言葉を遮った。
窓の外の漆黒の夜に目を向けながら、相手を安心させようとするように静かに言った。
「彼とは離婚することにしました。一週間後、予定通りに出発します」
彼女が求めていたのは、この契約書にある「連絡が一切取れない」ということだ。
昌彦に、二度と自分を見つけられないようにするために。
……
誰もが思っていた。昌彦は玲子を心の底から愛している、と。
もしあの出来事がなければ、玲子自身も死ぬまでその愛を信じていたに違いない。
だが現実は、いつだって想像よりも残酷だ。
再び目を開けたとき、彼女は別荘の扉を押し開ける瞬間に戻っていた。
「ね、玲子さん……どうして急に来たの?」昌彦の親友の湯川明司(ゆかわ めいじ)が慌ててソファから立ち上がった。
玲子の視線は彼の肩越しに、その向こうにある中庭へと移った。そこでは、彼女の夫である昌彦が、親友の麻里子の口元へ、スプーンですくった一口のスープを優しく運んでいる。
その仕草はまるで恋人同士のように親密で、目には限りない優しさが宿っている。明司は彼女の後を追い、焦った声で言った。
「玲子さん、勘違いしないで!あれはね、全部あなたのためなんだよ!昌彦さんがしたことは、全てあなたを思ってのことなんだ!」
――私のため?
玲子は心の中で冷笑した。
なんて滑稽な言い訳。前世でも、まったく同じ言葉を聞いた。
前世、麻里子が大きなお腹を見せて現れたとき、昌彦も同じように、そう言っていた。
彼女はそれを信じた。
だがその代償は、彼が麻里子と子供に優しく笑いかけ、自分には日増しに冷たくなるばかりだった。最後には、彼に離婚を切り出しに行く途中で、命を落とした。
「玲子さん……」
「黙りなさい」
彼女はその仲睦まじい二人を見据え、結婚指輪を地面に投げ捨て、背を向けて去っていった。
家に戻ったばかりで、玄関の灯りをまだ点けていない。その瞬間、背後の扉が外から勢いよく押し開けられた。
前世と同じように、彼が口を開けば最初の言葉はそれだった。「玲子、説明を聞いてくれ」
「説明?」玲子がようやく口を開いた。かすれた声で続ける。
「麻里子が、どうしてあなたの子を身ごもっているのか、その説明?」
昌彦は一瞬黙り込み、やがて低い声で言った。
「母さんが子どもを欲しがっているんだ。彼女の願いを叶えれば、俺たちはずっと一緒にいられる」
彼が手を伸ばした瞬間、玲子は反射的に手を引いた。
昌彦はポケットから小さな箱を取り出す。
「玲子、約束する。たとえ子どもができても、お前は永遠に俺の唯一無二の妻だ」
箱の中には、とんでもない価格で競り落とされた「唯一無二」のダイヤネックレスが静かに横たわっている。玲子の胸中に、冷ややかな嘲笑が湧き上がってくる。前の人生で、このネックレスの持ち主は麻里子だった。
それを今、彼は愛人に贈ったものを、平然と自分に差し出しているのだ。昌彦、あなたの「唯一無二」って、本当に安っぽいわね。
彼女はそのまま彼にネックレスをかけさせた。冷たいダイヤが肌に触れた瞬間、こみ上げてきたのは吐き気だけだった。
昌彦は「三人家族」の未来を描くように語った。「子どもは生まれたら家政婦に任せる。二人の時間を邪魔させない。お前は永遠に俺の唯一無二の玲子だ」
その時、テーブルの上のスマホが震えた。画面には麻里子からのメッセージが表示された。【昌彦さん、買ってくれたパジャマ、着てみたよ。いつ帰ってくる?】
添付写真には、黒のシースルーのマタニティウェア姿の彼女が映っていた。
彼はほとんど反射的にスマホの画面を消し、ためらいがちに彼女を見た。「玲子、会社で急な用事ができたんだ。ちょっと片付けてくる」
立ち上がると、彼は一言を言い残した。「早く休んで。待たなくていいから」
ドアが勢いよく閉まった。
去っていく昌彦の背中を見つめながら、玲子はネックレスを引きちぎり、ゴミ箱へ放り込んだ。まるで、それがただのガラクタでしかないかのように。
「残念だわ、昌彦。前世なら、もしかすると泣いたかもしれない……けど、今さらあなたの『唯一無二』なんて、要らないのよ」
第2話
翌朝早く、玲子は耳障りなギシギシという音で目が覚めた。
リビングでは、数人の作業員が乱暴に壁から彼女と昌彦の結婚写真を外しており、額縁のガラスが床に長い傷を残していた。
「何をしてるの?」
玲子は眠くてかすれた冷たい声で問いかけた。
一人の作業員がぞんざいに答えた。
「陸奥さんのご指示です。新しい妻が入居されるので、壁に他人の写真があるのは気に入らないそうです」
新しい妻?
玲子は思い出した。前世、彼女が目を覚まして自分と昌彦の結婚写真が作業員によって外されているのを目の当たりにした後、泣き叫びながら作業員たちに止まるよう懇願した。
その直後、麻里子と昌彦の二人から、ここに住み込むと突然知らされた。その上、麻里子は彼女に目を覆いたくなるような写真をありったけ送りつけてきた。それらが原因で、彼女は当時、現実を受け入れることなど到底できなかった。
だから、昌彦が麻里子を連れて家に入ってきたとき、彼女はまるで狂ったようにヒステリックに叫び散らし、見苦しいほどに取り乱した。結局、返ってきたのは昌彦の嫌悪と、麻里子の勝ち誇った笑みだけだった。
そして今、かつては宝物のように大切にしていたそのウェディングフォトが、ぐしゃぐしゃに丸められ、ゴミ袋に突っ込まれているのを見ても、彼女の心は微動だにしなかった。むしろ、滑稽にすら思えた。
あの胸を引き裂かれるような痛みも、一度経験してしまえば、結局はこの程度のものなのだ。
そのとき、ポケットの中のスマホが震えた。
麻里子からだ。
次々と写真が送られてくる――昌彦が麻里子のふくらんだお腹を優しく撫でる姿。キッチンで麻里子のために料理を作り、手を拭きながら気遣う姿。ソファで寄り添い、麻里子の頬がほんのり赤らんでいる様……
右下のウォーターマークの日付は、いずれも彼の「出張」や「会議」とぴたり一致していた。
最後には、挑発的な一文が添えられていた。
【玲子さん、昌彦さんがね、私のお腹が大きくなってきたから、外で暮らすのは不便だって。だから今日、『私たちの家』に迎えに来てくれるの】
画面が再び光り、昌彦からのメッセージが表示された。前の人生とまったく同じ文面だ。
【玲子、今日麻里子を連れて帰る。主寝室を片づけて、麻里子をそこに泊まらせてやってくれ。彼女は今、妊婦なんだ。少し気を遣ってやってほしい】
ふん、やっぱり。
玲子はメッセージを削除し、静かにソファに腰を下ろした。
ドアが開き、昌彦が麻里子を連れて入ってきた。彼は反射的に麻里子を背後にかばった。玲子は鼻で笑った。
「……玲子?」昌彦は眉をひそめた。「部屋を片づけておけって言っただろ?主寝室はどうなってる?」
玲子の視線は、ふくらんだ腹に落ちた。――彼女の記憶では、この子は結局、生まれてこなかった。
「玲子さん、怒らないでください……」
麻里子は玲子を見た途端、すぐに目に涙を浮かべた。「私はただ、玲子さんと昌彦さんのところに少しの間、寄り添わせていただきたいだけなんです。子どもを産んだらすぐに出ていきますから……玲子さん、どうかこの私に情けをかけて、少しの間だけ置いて頂けませんか?」
哀れっぽく訴える麻里子の姿を見て、玲子はふっと笑った。その笑みは、どこか不気味なほど穏やかだった。
昌彦は一瞬、言葉を失った。用意していた言い訳が喉で詰まった。彼は玲子がヒステリックに怒鳴り出すものだと思っていたのに――まさか、笑うなんて。
「もちろんいいわ」玲子はうなずき、思いがけないほどの優しい声で言った。「麻里子さん、妊娠中で大変でしょう。すぐに主寝室を片づけるからね」
麻里子の顔に浮かんだ得意げな表情は、玲子の予想外の反応によって一瞬で崩された。これは彼女の想定とは遠く離れたものだった。
昌彦はさらに困惑した顔をした。「玲子、お前……本当に大丈夫か?」
「別に何もないわよ」玲子は首をかしげて彼を見た。その目には、測りきれない深い光が揺れていた。「あなたたち、すぐ出て行くって言ったじゃない。ただ待ってるだけでしょ」
彼女が振り返ってゲストルームに向かうとき、口元の笑みがほんのり深まった。背後からは、昌彦と麻里子のひそひそ話が聞こえてくる。二人は彼女の反応の意味を推し量っているようだ。
その夜、玲子がちょうど風呂から上がったところで、ゲストルームのドアが静かに開いた。
昌彦は彼女が起きているのを見て一瞬動きを止め、足音を忍ばせながら近づく。「玲子……昼間のこと、本当に気にしてないのか?」
彼はためらいがちに手を伸ばし、抱き寄せようとした。玲子は避けず、むしろ自分から少し身を寄せた。「何を気にするの?あなたがちゃんと片付けるって言ったじゃない。私は信じてるわ」
昌彦の胸の奥に、言いようのない不安がふと湧き上がった。玲子の従順な態度は、彼に違和感を覚えさせた。
玲子は彼の腕の中に身を委ねたまま、心だけが死んだように静かだった。戦場記者として旅立つ準備は最終段階にあった。もうすぐ、彼女と昌彦の間に永遠の別れが訪れる。
第3話
翌朝、昌彦がゲストルームから起き上がり、洗面所から聞こえる音に気づいてドアを開けると、玲子が洗面台で苦しそうにえずいていた。
「どうした?」昌彦は駆け寄った。「気分が悪いのか?」
玲子は顔色が悪く、彼を取り合う様子もなく、「大丈夫、ただ少し吐き気がするだけ」と答えた。
昌彦は彼女の背中を優しくなで、息が整うのを待って、複雑な表情で口を開いた。「玲子、昨日母が、お前が麻里子の存在を知っていると知ってね。隠し事はやめろと言われたんだ」
玲子は鏡に映る彼を見上げた。
「母がさ、今日はみんなで本家に戻って来いって。麻里子も連れて、家族で食事をしようって話なんだ」
家族?
玲子は声もなく笑った。なるほど、昌彦の心の中では、麻里子ももう「家族」の一員なんだ。
彼女は前世のあの本家での家族の食事会を思い出した。食事会の後、彼らは交通事故に遭い、麻里子は子供を失った。その後、昌彦は罪悪感を理由に麻里子をあらゆる方法でいたわった。今思えばなんて滑稽なんだろう、あれは罪悪感なんかじゃない、明らかに彼は麻里子に本当の愛情を抱いていたんだ。
「気分が悪いなら、少し休んだら。後で運転手に迎えに来てもらうから」
昌彦はそう言い残して洗面所を出た。
結局、彼女は陸奥家の本家へ行くことになった。
陸奥家の本家。
玲子が玄関に足を踏み入れた瞬間、姑の陸奥恵美(むつ めぐみ)が麻里子のご機嫌を取っているような笑い声が聞こえてきた。
メイドの里美(さとみ)がいち早く入り口の玲子に気づき、「ご主人、奥様、若奥様お見えです」と小声で知らせるまで、誰も彼女の存在に気づかなかった。
リビングの笑い声がぱったりと止んだ。
恵美が彼女に目を向けると、笑みがたちまち引っ込み、涼しい口調で言った。「来たなら、さっさと席に着きなさい。すぐに食事が始まるから」
玲子は一番遠い席に座った。豚の角煮のむせ返るような香りが鼻を突き、彼女は口を押さえてえずいた。
「どうしたの?うちの料理がそんなにお口に合わないの?」恵美の口調は刺々しく、「本当にお嬢様で気難しいんだから。麻里子とは大違いよ。麻里子は何でもよく食べるし、見るからに子宝に恵まれそうな、健康そのものなんだから」
そう言いながら、更に麻里子のお皿におかずをたっぷりと取り分けた。「だって麻里子こそが陸奥家の一番の功労者なんだからね。赤ちゃんが生まれたら、私が直接面倒をみてあげるわ」
麻里子は照れくさそうにうつむき、儚げな目で昌彦を一瞥し、「ありがとうございます、おばさま」と優しく呟いた。
バン!
昌彦が箸を食卓に叩きつけ、険しい表情で言った。「母さん!何度も言ってるだろ、俺の妻は玲子だけだって!」
麻里子の顔が一瞬で青ざめた。
玲子は俯いて冷笑した。
結婚したあの日、彼も同じことを言っていたのを思い出した。なのに今、彼にはもう新しい女がいる。
前世も含めても、まだ七年も経っていないというのに。
食事中の気まずさに、誰もが食事を味わう心境にはなれなかった。
ドアを出ると、昌彦は数歩大股に歩いて玲子に追いつくと、声を潜めて慰めた。「玲子、母さんはああいう性格なんだ。気にしないでくれ」
玲子は黙ったままだった。
車のそばまで来ると、彼女は無意識に後部座席のドアを開けようとしたが、ドアは内側から押し開けられた。
中に座っていた麻里子が、無邪気な笑みを浮かべて言った。「玲子さん、私、ちょっと車酔いしやすくて……昌彦さんが後部座席に座るように言ってくれたの」
昌彦は少し気まずそうな表情で言った。「玲子、彼女は妊婦だから、後部座席の方が安全なんだ」
玲子は空中で手を止めたが、すぐに何事もなかったように手を引っ込め、助手席のドアを開けて乗り込んだ。
車内は重い沈黙に包まれていた。麻里子が突然顔を寄せて玲子の視線を捉えた。「昌彦さん、車の中、ちょっと息が詰まりそう……」
そう言いながら、彼女はわざと襟元を引っ張り、首に深く刻まれた、目を刺すようなキスマークを見せた。
玲子は無表情だったが、その視線が麻里子の首元にあるプラチナ製のアイリスと葉のネックレスに落ちた瞬間、瞳孔が急に縮んだ。
前世でも本家に戻る車中で、麻里子の首には何もなかったはずだ!なぜ今世では、彼女がこのネックレスをしているのか!?
それは玲子の十八歳の誕生日の贈り物で、父が自ら彼女の首にかけてくれたものだった。「玲子もすっかり大人になったね」母は笑いながら、「これはパパとママからの大人への第一歩のお祝いよ。いつまでも幸せにね」と言った。
それは両親が彼女に残した、たった一つの形見であり、この世界で唯一の心の支えだった。
玲子は突然振り返り、声を震わせて問うた。「そのネックレス……なぜあんたが?
返して!」
麻里子は驚いて胸元のネックレスに手を当て、昌彦に向けて哀れっぽく訴える。「何の話か分からない……昌彦さんがくれたのよ」
昌彦が渡した。
玲子は眼前の男を見つめ、ただただ無性に別人のように感じた。
彼はこれが彼女の最も大切なものだと知っていたはずだ。
前世ではあれほど関係が悪化しても手を出すことはなかったのに、今世では……まさか彼女の宝石箱から取り出し、自らの手で麻里子に渡したなんて!
玲子はもう我慢できず、シートベルトを勢いよく外すと、助手席から後部座席に身を乗り出し、麻里子の首からネックレスを引きちぎろうとした。「これは私のものよ!」
「きゃあ――っ!」麻里子が悲鳴をあげた。
耳をつんざくタイヤのきしむ音とともに、車は路肩に停まった。
「玲子、勘弁してくれよ!ただのネックレスだろうが?俺はとっくに『唯一無二』のネックレスをお前に譲ったんだ。これはお前がずっと使い古したような古い品だ。麻里子が気に入ったからあげただけだ。本人も何とも思ってないのに、なぜそんなことで大げさに騒ぎ立てるんだ?」
「あ……お腹がすごく痛い……」昌彦の腕の中で、麻里子は泣きじゃくりながら息も絶え絶えに訴えた。「昌彦さん、私のお腹が……」
昌彦は顔色を一変させ、玲子に冷たく言い放った。「降りて。タクシーで帰ってくれ」
もう一度胃が逆流しそうな感覚とともに、下腹部をのた打ち回るような痛みが襲った。血の気が引いた顔で、玲子は腹を押さえ、ようやく絞り出すように言った。「昌彦……私も……すごく気持ちが悪い……」
「玲子、もういい加減にしろ!」昌彦は苛立たしげに彼女を遮った。
車のドアが無情に開けられた。
玲子は彼に車外へ引きずり出された。
昌彦は前方の運転手に告げた。「山田、病院へ!」
「承知しました、社長」山田(やまだ)は車の向きを変え、病院の方へ走り去った。
黒いベントレーは跡形もなく走り去り、巻き起こった風が彼女の髪を乱した。
人通りが多い道端に立ち、下腹部の痛みはますます激しくなり、目の前が何度も真っ暗になった。
彼女はタクシーを呼ぼうとしたが、腕を上げる力さえもない。ついに、体の力が抜け、完全に意識を失った。
再び目を覚ますと、病院の強い消毒液の匂いが鼻をついた。
医師は非難がましい口調で言った。「目が覚めましたか?貧血に加えて情緒不安定で気を失ったんです。ところで、ご主人は?妊娠六週目なのに、どうしてそんな無責任にあなた一人で外出させるんですか」
妊娠六週目……
第4話
「先生……ま、間違ってませんか?」
玲子の声は抑えきれない震えを帯びていた。彼女は真正面に立つ白衣の男をじっと見つめていたが、目の前が何度もかすんでいた。
「そんなはず……私……」
前世には、この子はいなかった。
医師はこの反応に慣れているようで、無表情のままエコー写真を彼女の前に差し出した。
「松島さん、妊娠六週目です。間違いありません。エコーでもはっきりと確認出来ていますよ」
少し間を置き、医師は彼女の血の気の引いた顔を見て、声を和らげた。だがその言葉はなお残酷だった。
「今回は切迫流産の兆候がかなり強いです。流産予防の薬を出しますから、絶対に安静にしてください。この子を守れなければ、あなたの体では今後の妊娠は難しくなるかもしれません」
玲子の視線は静かに下り、平らかな腹の上で止まった。思わずそっと手を重ねる。そこには小さな命が宿っている――この予期せぬ出来事は、転生以来ずっと静まり返っていた彼女の心の湖面に、初めてさざ波が立った。
病院を出ると、真夏の陽射しが目に刺さり、涙が滲んだ。
玲子は無意識のうちにスマホを取り出し、昌彦とのチャット画面を開いた。そこは新しい情報がないまま。入院していたこの数日、彼は前世と同じように、一度も電話もメッセージも寄こさなかった。
伝えるべきだろうか。私たちに子どもができたって?
その考えが浮かんだ瞬間、彼女は自分でその思いを強く押し殺した。胸の奥に、何度も踏みにじられたような鈍い痛みが広がる。
彼に伝えたところで、いったい何になるのだろう。彼にはもう子どもがいるのに。
もしかしたら、私が愛を奪おうとして嘘をついたと思うかもしれない。
そんな賭け、玲子にはする勇気もないし、したくもないのだ。
玄関に入った途端、二階から女の喘ぎと男の荒い息遣いという、淫らで耳をつくような音が聞こえてきた。
玲子は靴を脱ぐ手を止めたが、顔には何の驚きも浮かばなかった。
一歩、また一歩と階段を上がる。音は次第に鮮明になり、やがて彼女はベビールームの前で足を止めた。
ドアの隙間から、麻里子はスカートを乱れて脚にまとい、昌彦の胸先でもだえるようにぐったりとしていた。面差しにはたっぷりとした紅潮が漂い、目尻に淫らな艶をたたえている。
その二人の下にあるのは――玲子が自分たちの未来の子のために、自ら選んだ子供用ベッドだった。
玲子の胃の中がぐるぐると渦巻き、耐えきれない吐き気が襲ってきた。
「昌彦さん、この部屋すごく気に入った。これから私たちの赤ちゃんの部屋にしていいか?」麻里子の声は、激しい愛し合いの後のかすれを帯びていた。
「でも、この月の形のランプ、先がちょっと尖ってるんだ。替えてもいい?」
「いいよ」。昌彦は少し困ったような口調だったが、甘やかす気持ちは変わらない。「前に適当に飾っただけだ。もし嫌なら、明日、全部替えてもらう」
――適当に飾っただけだって……
玲子の脳裏に、昌彦があの月の形のランプを抱えて嬉しそうに帰ってきた日の光景が一瞬でよみがえった。
まるで宝物を見せびらかす子どものように。
「玲子、見て。これがあれば、俺たちの赤ちゃんはもう暗闇を怖がらないよ」
彼女が一瞬ぼうっとしている間に、昌彦の視線は麻里子の下腹部へと落ちた。その眼差しには、玲子が今まで見たことのないほどの優しさと愛情が満ちていた。
「麻里子、安心して。世界で最高のものを、俺たちの赤ちゃんにあげるよ」
その言葉が終わらないうちに、麻里子は突然顔を上げ、昌彦の肩越しに、ドアの隙間に立つ玲子の冷たい視線をぴったりと合わせた。
麻里子の唇が一瞬、得意げに歪んだかと思うと、すぐに昌彦の胸に顔を埋め、声を震わせた。その様子はよわよわしく、いかにも哀れを誘うものだった。
「昌彦さん、ずっと私に優しくしてくれるよね?私、ずっと心配してるの……
玲子さんは体調がずっと優れないって聞いたが。お医者さんも、妊娠は難しいって言ってるみたい……
もし、万一の話だけど、玲子さんにもし子供ができた場合、あなた、私たちの赤ちゃんのことを可愛がってくれなくなるんじゃないかと……」
昌彦は麻里子の背中を軽くたたきながら、ドアの外に人がいることにはまったく気づかず、ただ彼女が妊娠による敏感な時期にあるのだと思い込んでいた。
「ばかだな、何を考えてるんだ」彼は宥めるように言った。「これは俺の初めての子供だ。俺のものは全部、将来この子のものさ」
その声は限りなく優しかった。だが、その一言一言は刃のようだった。静かに、玲子の心を貫いていく。
「たとえ、玲子が本当に俺の子を授かったとしても、同じように愛するよ。安心して」
「本当に?」麻里子は彼の胸に頬をすり寄せ、満足げに笑みを含んだ声で言った。「昌彦さん、あなたって本当に優しいのね」
ドアの外で、玲子は音もなく冷ややかに笑った。
同じように愛する?ずいぶんと寛大なこと。
彼女はうつむいて、手にしたエコー写真を見つめた。指先に力を込め、握られた写真に皺が寄った。
彼女は絶対に、自分の赤ちゃんをこの家の汚れに触れさせない。ましてや、そんな嘘と憎しみに満ちた環境で育てるなんて、ありえない。
玲子は淡々とスマホを取り出してベビールームの監視カメラの映像を開き、映し出された耐え難い光景をまばたき一つせずに見つめると、保存ボタンを押した。
「大野(おおの)先生ですか?私、松島玲子です。離婚協議書を用意してもらえませんか」
第5話
玲子は弁護士の大野との電話を切って、振り返ると、昌彦がベビールームから出てくるのが見えた。
玲子の姿を見つけると、今さらのようにその存在を思い出したふりをして、わずかに気まずそうな表情を浮かべ、さりげなく言った。「玲子、トップクラスのインテリアデザイナーを探してくれ」
玲子は動かず、ただ静かに彼を見つめていた。
昌彦は彼女を一瞥すると、すぐに視線を逸らし、まるで自分に言い聞かせるように話を続けた。
「さっき気づいたんだけど、ベビールームのものがいろいろ合ってないんだ。プロに頼んで一からやり直してもらおう」
玲子は淡々とした表情で彼を見つめ、何も言わなかった。
――本当に「合ってない」のか?それとも麻里子の好みに合わないだけ?
昌彦、ついに見せかけの演技すらしなくなったのか。
彼女はゲストルームに戻り、かつて大切に飾っていた、彼から贈られた品々を一つずつ取り出しては、壁際の金属製の火鉢に放り込んだ。
もう離れると決めたのだから、以前昌彦がくれたこれらの物も、もう存在する意味はない。それに、麻里子に残していくのは、きっと彼女が気味悪がるだろう。
炎が、バレンタインの日にもらったオルゴールを覆い、たちまち精巧なバレリーナの人形を包み込んでいった。
「やめて!」
玲子は勢いよく突き飛ばされた。
薄着の寝間着の麻里子が突然現れると、火の粉も厭わず火鉢に手をかけ、中身を取ろうとしている。
「玲子さん、どうして私の物を燃やすの?」
玲子の動きが止まった。
彼女の物?
「玲子さん、どうしてそんなひどいことをするの?」
麻里子は涙まみれで、怯えた様子を見せながら哀願した。
「私にはもう、これしか思い出が残っていないのに、どうしてそれさえも奪おうとするの?あなたにはもう昌彦さんがいるじゃないか。これからはまた私の子供の母親になるっていうのに……」
麻里子の言葉が終わる前に、昌彦の大きな体がドアに現れた。
彼は散らかった部屋と泣きじゃくる麻里子を見て、顔色を一瞬で険しくした。「玲子、お前はいったい何をしたんだ?」
玲子はただ彼を見つめ、何も言わなかった。
その沈黙は、昌彦の目には麻里子をいじめたことを認めたように映った。
彼の瞳の輝きが曇り、失望の色を深めていった。
玲子はふっと笑った。軽やかな笑い声が、針のように胸に刺さる。
彼女は背を向けて階段を上り、しばらくして、まったく同じ形のアクセサリーケースを手に戻ってきた。中には、まだ処分していなかった贈り物がすべて入っている。それを麻里子の目の前に放り投げる。
「これ、全部あんたのもの?
好きなの?
じゃあ、全部あげる」
昌彦の胸がドクンと跳ねた。
玲子の目元に浮かんだ笑みは、瞳の奥までは笑っていなかった。その冷たい眼差しに、強烈な不安が彼を襲った。
嫌な予感に心がざわつき、思わず彼女の手を掴もうとした、その瞬間――
「昌彦さん……」麻里子が弱々しく彼の腕を引いた。潤んだ瞳で見上げながら、かすれた声で言い出した。
「もういいの……ここにいられるだけで十分幸せよ。玲子さんが全部燃やしちゃっても、仕方ないわ……」
「そんなわけないだろ。でも……もういい、燃やしても構わない。新しいのを買ってやるよ」
昌彦の考えが一瞬で吹き飛んだ。麻里子の青ざめた顔を見て、とっさにその体を支えた。
二人はこれまで数え切れないほどの困難を乗り越えてきた。玲子が自分のもとを去るはずがない。
ドアが閉まり、世界は再び静寂を取り戻した。
スマホがピンと鳴る。昌彦からのメッセージだった。
【玲子、俺が戻るまで待ってて。話をしよう……もう少しだけ我慢してくれ。俺のためだと思って、最後のひと踏ん張り、いいか?】
その後、昌彦は数日間戻らなかった。
その日の午後、玲子は戦場記者連盟の責任者とビデオ通話をしていた。
「松島さん、君の入職延期の申請は受け取りました」
画面の向こうの男の声は穏やかだった。
「私たちは完全に理解しているし、出産後に復帰することを承認します。子どもは神様からの贈り物ですからね」
「ありがとうございます」
玲子の顔に、久しぶりに柔らかな笑みが浮かんだ。
ドン――!
寝室のドアが蹴破られた。
昌彦が麻里子を連れて、冷気をまとったまま飛び込んできた。手にしたスマホを玲子の目の前のテーブルに叩きつけた。
「玲子!」彼の血走った両目は、怒り狂った獣のようだ。「そこまで彼女を許せないのか?なぜ彼女をいじめるような人間をけしかけたんだ?」
玲子は視線を落とし、スマホを手に取った。
画面には、無数の動画と写真が映し出される。
麻里子が拉致され、服を引き裂かれた惨めな姿。ネット上では「愛人奪い」とののしる嘲笑の嵐。そして、病床で包帯だらけの手首を晒す、痛ましい自傷の画像に至っては、見る者に強い衝撃を与えている。
第6話
玲子はスマホの画面をじっと見つめ、顔には一切の表情がなかった。しばらくして、そっとスマホを置いた。
「これらは――」声は静かで波ひとつ立たない。「私がやったことじゃない」
「他に誰がやったっていうんだよ!?お前以外に、彼女をここまで追い詰める動機がある奴がいるっていうのか!?そんな残酷な真似ができるのが、お前以外にいるか!」
麻里子は隣で小さくすすり泣き、それがさらに彼の怒りに油を注いだ。
玲子は突然、心底疲れ果てているのを感じた。もはや弁解することさえ虚しい。ただ、かつて心から愛した男を静かに見つめる。彼が他の女のために、冷たい眼差しで自分を睨みつけるその姿を。
口元をほのかに緩め、かすかにぼんやりとした笑みを浮かべた。「それでどうする?」
「だから今すぐにでも、ネットで声明を出して、この全てが単なる誤解だったと皆に知らしめろ。麻里子の名誉を回復するんだ!」昌彦の声には、いささかの反論も許さない強さが込められていた。
玲子は思わず吹き出した。まるでこの世で一番おかしな冗談を聞いたかのように。
「昌彦、今日家を出る時、頭を忘れて来たんじゃない?」彼女は一語一語噛みしめるように、はっきりと言い放った。「やってないのに、どうして謝罪声明なんて出さなきゃいけないのよ」
「昌彦さん……」そのとき、ずっと彼の後ろにいた麻里子がか細い声で彼を止めた。
質素な患者服をまとった彼女の顔には血の気がなく、玲子の姿を見た瞬間、思わず後ずさった。それでも無理に笑顔を作り、震える足でよろよろと一歩前に出る。その体は左右に揺れ、今にも倒れそうな不安定な足取りだった。「玲子さん……もう、おやめください。全部、私が悪いんです。私……子供を産んだら、すぐに消えます。ですから、どうか昌彦さんと……喧嘩しないで……」
昌彦の全身を包んでいた冷気が一瞬で引いた。彼は今にも倒れそうな麻里子の体を支え、優しい声で言った。「何を言ってるんだ、戻って休もう」
「玲子、よく反省しろよ。これから麻里子に謝りに来なさい。さもないと、どうなるか分かってるだろう」
それを言い終えると、彼は二度と振り返ることもなく、すすり泣く麻里子を抱き寄せてその場を離れた。
別荘には再び静まり返った。
玲子はしばらくその場に立ち尽くした。そして、腰をかがめ、顔色一つ変えずに、床に散らばったスマホの残骸をゴミ箱にかき集めた。
まるで、どうでもいいゴミを片付けるかのように。
三日後、妊婦検診の予約日がやって来た。
玲子はゆったりとした服に着替え、自分で車を運転して出かけた。車が別荘地を出てすぐのことだった。制御を失ったトラックが横から猛スピードで突っ込んでくる。
車体が大きく傾き回転した。
意識を失う直前、玲子は無意識に腹部を庇った。
……
目を覚ますと、そこは埃まみれの廃倉庫だ。
数人のガラの悪い男たちが彼女を取り囲み、いやらしい目つきで見下ろしている。
「起きたか?運のいい女だな」
玲子は思わず逃げようとしたが、その瞬間、ひとりの男に髪をつかまれ、頬を思いきり平手打ちされた。
「逃げるつもりか?どこへ逃げるっていうんだ?」
親分格のチンピラが嘲るように笑いながら言った。「奥さん、無駄な抵抗はやめろ」
拳と蹴りが次々と彼女の体に叩きつけられた。
玲子は容赦ない殴打を次々と浴びせられ、必死で抵抗したが、その反撃はさらに激烈な暴力で返ってきた。
突然、下腹部に鋭い痛みが走り、玲子の顔は一瞬で蒼白となった。彼女は全身の力を振り絞って腹部を抱え、地面にうずくまるように体を丸めた。
「やめて……お腹は殴らないで……」彼女の声は震え、ほとんど懇願のようだった。「お願い……いくらでも払うから……」
先頭のチンピラが動きを止め、興味深そうにしゃがみ込み、彼女の頬を軽く叩いた。口元にいやらしい笑みを浮かべながら言い出した。「へぇ、仲間入りか?残念だな、あんたより高く出した奴がいるんだよ」
耳元に顔を寄せ、低く囁く。「奥さん、次は気をつけな。怒らせちゃいけねぇ相手もいるんだ」
玲子の瞳孔が一瞬で縮んだ。麻里子?それとも……
次の瞬間、誰かに腕をつかまれ、無造作に階段の下へ放り投げられた。
冷たい段差を転がり落ちるたび、骨が砕けるような痛みが全身を貫いた。
意識が遠のくその最後の瞬間、彼女はかすかに、あのチンピラが苛立ったように電話をかける声を聞いた。
「陸奥様、ご指示の件は全て完了しました。あの女にはきちんと目に物見せておきました……ええ、もう二度と逆らわないと思いますよ。麻里子様の溜飲も確実に下がるはずです」
第7話
玲子が再び目を開けたとき、鼻先に強い消毒液の匂いが漂っている。
彼女は病室のベッドに横たわり、無意識に下腹部へと手を伸ばした。そこは空っぽで、抉り取られたような痛みが心の奥から広がり、瞬く間に全身を貫いた。
子ども……子どもは、もういない。
涙が音もなくこぼれ、枕を濡らした。
病室のドアが開き、昌彦が入ってきた。その目は赤く血走っている。
玲子が目を覚ましたのを見て、昌彦の張り詰めていた神経が少し緩んだように見えた。すぐにベッドのそばまで駆け寄り、かすれた声で言う。「目が覚めた?どこか痛むところはないか?先生を呼ぼうか?」
玲子は何も答えず、ただ虚ろな瞳で彼を見つめている。
その視線に昌彦は思わずたじろぎ、視線を逸らした。手を伸ばして彼女の手を握ろうとしながら言い続ける。
「玲子、聞いてくれ。もう警察には通報した。安心してくれ。誰がやったとしても、絶対に許さない」
玲子はそっと自分の手を引っ込め、彼の触れるのを避けた。
昌彦の手は宙に止まり、喉仏が小さく動いた。声をさらに柔らかくして言った。
「つらいのはわかってる。俺だって苦しい……子どもは……また授かれるさ。体が元に戻ったら、気分転換にどこか行こう。どこでもいい、俺たちは――」
「出ていって」玲子がようやく口を開いた。
昌彦は呆然とした。「玲子、お前……」
「出ていってって言ったの」彼女はもう一度繰り返し、視線さえ向けなかった。
その後の数日、昌彦は毎日病室に現れた。
タブレットを手に、ベッドのそばに座って楽しげに旅行プランを見せてくる。モルディブの青い海と空、そしてスイスの雪山の景色まで、話は途切れることなく続いた。
「玲子、これどう?プライベートがしっかり守られる一棟建て水上ヴィラだよ。毎日、日の出と夕日が見られる。何も考えずに、ただゆっくりできる場所だ……」
「どこでもいい」玲子の視線はずっと窓の外に向けられたまま、上の空の返事をした。
「じゃあこれは?スイスでスキー。前から雪山を見たいって言ってたよね?最高のコーチをつけてあげる」
昌彦は飽きもせず、彼女の興味を引こうと写真を次々と見せた。
「うん」
昌彦の笑みが少し引きつった。それでも彼は諦めなかった。
その日の午後、スーツ姿の男が彼女の病室を出ていった。ちょうどそのとき、保温ポットを手にした昌彦と廊下で鉢合わせた。
昌彦の足が一瞬止まり、鋭い視線で男を睨みつけると、そのまま病室の中をちらりと見て、何気なく尋ねた。「今の人、誰だ?」
「保険のセールスマンよ」玲子は淡々と言い、特に説明を付け足すことはなかった。
昌彦はそれ以上何も聞かず、病室に入ってきた。保温ポットの蓋を開けると、馴染みのある香りがふわりと広がる。
「ほら、スープを飲んでみて」彼はスプーンですくった一口をそっと玲子の口元に差し出した。「麻里子が自ら煮込んだんだ。体の回復にいいって」
麻里子という名前を聞いた瞬間、玲子の胃がひっくり返るように波打った。込み上げる吐き気を必死に抑え、顔を勢いよく背ける。「いらない、持っていけ」
昌彦が口を開こうとした瞬間、それを遮るようにスマホの着信音が鳴った。画面には、機を見計らったように「麻里子」の名前が浮かび上がっている。
彼は思わず通話ボタンを押した。「もしもし、麻里子?どうした?……泣くなよ、今対応してるんだ……わかった、俺が悪かった。怒るなよ、すぐ行くから」
電話を切ると、昌彦は立ち上がり、出ていく準備をした。
「スープ、ちゃんと飲めよ。あとでまた来るから」と念を押すのも忘れない。
「昌彦」
玲子が彼を呼び止め、枕の下から数枚の書類を取り出した。
「これにサインして」
「なんだ、それ?」と彼は適当に尋ね、答えを聞き流すようなそぶりを見せた。
「会社の委任状よ。朝、アシスタントが持ってきたの。至急だって」
昌彦は書類を受け取ると、中身を確かめようともせず、すぐに最後のページを開いて、流れるような筆跡でさっと署名した。
その一連の動作を眺めながら、玲子は口元を皮肉に歪めた。「何にでもすぐサインするのね。あなたを売る書類にだって、気づかずに署名しちゃいそうじゃない?」
昌彦は思わず笑い声を漏らすと、近づいて玲子の髪をそっと撫でた。その動作は親しみに満ち、ごく自然なものだった。「俺を傷つけるような妻がいるわけあるか?」
彼は身をかがめ、彼女の額に軽く口づけた。温かな感触が触れた瞬間、玲子の体がぴたりと強張る。
「ゆっくり休め。先生は、明日には退院できるって言ってた。フライトも手配済みだ。その後はずっとそばにいる」
ドアが閉まり、外の世界がすべて遮断された。
玲子は離婚協議書を手に取り、「陸奥昌彦」の勢いのある署名を見て、ぽつりと嘲笑った。
彼女はスマホを取り出し、目を覆いたくなるような動画と、麻里子から送られてきた挑発的なメッセージのスクリーンショットをまとめて、弁護士へ送信した。
そして、クローゼットからあらかじめ用意しておいたスーツケースを取り出し、階下に降りて待っていた車に乗り込んだ。
車が病院を離れ、交差点を曲がった瞬間、猛スピードで走ってくるベントレーとすれ違った。