一度裏切ったら、もう終わり

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一度裏切ったら、もう終わり

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無事に出産を終えた、その直後のことだ。 夫・西園寺翔太(さいおんじ しょうた)と、私・高嶺美月(たかみね みつき)が学費を支援している女...

Chương (1)

第1章

無事に出産を終えた、その直後のことだ。 夫・西園寺翔太(さいおんじ しょうた)と、私・高嶺美月(たかみね みつき)が学費を支援している女子学生・春日莉乃(かすが りの)が、私の病室の外で抱き合い、キスをしていた。 赤ん坊の火がついたような泣き声が響き、二人は弾かれたように体を離した。 慌てて病室に飛び込んできた翔太。その首筋には、くっきりと生々しいキスマークが残っている。 私はそれを見ても、あえて何も言わなかった。 遅れて顔を見せた女子学生の唇は、赤く腫れている。彼女は私に向け、挑発的な笑みを浮かべてみせた。 後日。 私は彼女のSNSの投稿を目にした。 動画の中で、彼女は笑顔で我が子をあやしながら、自分を「ママ」と呼ばせようとしている。 「ほら〜、ママって呼んでごらん?ママだよ〜」 翔太は苦笑しながら、彼女をたしなめる。 「こら。俺の奥さんは一人だけだぞ。少しは弁えろよ」 すると彼女は甘えた声を出し、彼に抱きつくと、そのまま唇を重ねた。 私の指先が一瞬、止まる。 ……すぐに画面収録ボタンを押した。 これらはすべて、証拠になる。 離婚裁判で、私がより多くのものを勝ち取るための、決定的なカードとして。 第1話 無事に出産を終えた、その直後のことだ。 夫・西園寺翔太(さいおんじ しょうた)と、私・高嶺美月(たかみね みつき)が学費を支援している女子学生・春日莉乃(かすが りの)が、私の病室の外で抱き合い、キスをしていた。 赤ん坊の火がついたような泣き声が響き、二人は弾かれたように体を離した。 慌てて病室に飛び込んできた翔太。その首筋には、くっきりと生々しいキスマークが残っている。 私はそれを見ても、あえて何も言わなかった。 遅れて顔を見せた女子学生の唇は、赤く腫れている。彼女は私に向け、挑発的な笑みを浮かべてみせた。 後日。 私は彼女のSNSの投稿を目にした。 動画の中で、彼女は笑顔で我が子をあやしながら、自分を「ママ」と呼ばせようとしている。 「ほら〜、ママって呼んでごらん?ママだよ〜」 翔太は苦笑しながら、彼女をたしなめる。 「こら。俺の奥さんは一人だけだぞ。少しは弁えろよ」 すると彼女は甘えた声を出し、彼に抱きつくと、そのまま唇を重ねた。 私の指先が一瞬、止まる。 ……すぐに画面収録ボタンを押した。 これらはすべて、証拠になる。 離婚裁判で、私がより多くのものを勝ち取るための、決定的なカードとして。 …… 昏睡状態から、ふと意識が浮上した。 真っ先に視線を向けたのは、傍らのベビーベッドで眠る我が子だ。 愛しさから口元に笑みを浮かべようとした、その時だった。病室の入り口から、何やら艶めかしい物音が聞こえてきたのは。 その女の声には、嫌というほど聞き覚えがある。 私が学費を支援している苦学生、莉乃だ。 そして彼女が甘ったるい声で呼ぶ。「翔太さん」 それは紛れもなく、私の夫の名だ。 私は呆然とし、一瞬、幻聴ではないかと我が耳を疑った。 だが、続く男の声が残酷な現実を突きつける。 昨夜、私の耳元で優しく労わりの言葉を囁いた男が、今は下世話な笑い声を上げているのだ。 「何ビビってんだよ。あいつはまだ麻酔が効いてるから、起きやしないって」 ドンッ、と鈍い音が響く。 莉乃が翔太に抱き上げられ、その背中がドアの透明なガラス部分に押し付けられたのだ。 ガラス越しに、二つの人影が絡み合うのが見える。 頭の中がぐちゃぐちゃにかき回されるようだった。 潮が満ちるような息苦しさに溺れそうになる。 夫と支援学生、二重の裏切りによる絶望で、呼吸さえままならない。 母子の勘が通じたのだろうか。 ベビーベッドの息子が、突然火がついたように泣き出した。 その泣き声に、外の二人は慌てふためく。 翔太は迷わず莉乃を下ろし、ドアを開けて入ってきた。 私と目が合い、彼は一瞬ギョッとして固まった。 「美月、目が覚めたのか?」 顔に浮かんだ一瞬の焦りと気まずさを、私は見逃さなかった。爪が掌に食い込むほど拳を握り締める。 けれど、私は表情に出さない。 ただ淡々と答えた。 「ええ……うるさくて、目が覚めちゃった」 その言葉に、翔太は安堵の息を漏らす。 彼は屈み込み、ベッドの子供をあやし始めた。 その拍子に、首筋に残る赤々としたキスマークが露わになる。 それは嫌でも私の視界に飛び込んできた。 涙がこぼれ落ちないよう、必死に堪える。 視線を逸らし、ふと入り口の方を見た。 そこには、私に向けて嘲笑を浮かべる莉乃の姿があった。 私の視線に気づいても悪びれるどころか、その笑みはますます深くなるばかりだ。 今まで違和感を抱いていたすべての出来事の答え合わせが、この瞬間になされた。 以前の私は、莉乃が若くして苦労していると思い、同情してよく家に招いていた。 妊娠して私が動きづらくなると、彼女は進んで私の手からフルーツの皿を受け取り、書斎で仕事をする翔太へ差し入れに行ってくれていた。 最初こそすぐに戻ってきたものの、次第に彼女が書斎に滞在する時間は長くなっていった。 ある時、書斎のドアをノックすると、彼女は翔太の机のすぐ傍に立ち、私に向けて満面の笑みを向けてきた。 「あら、美月さん。どうされたんですか?」 翔太は横を向き、顔についた何かを慌てて拭っていた。 私は深く考えもせず、笑って言ったものだ。 「翔太さんは仕事で忙しいのよ。下にいらっしゃい、私がおしゃべり相手になるから」 莉乃は翔太を見つめ、意味ありげに笑った。 「ええー?美月さん。翔太さんがしてくれる『遊び』は、美月さんには真似できないと思いますけど?」 その言葉に、翔太は眉をひそめた。 「何を訳のわからないこと言ってるんだ?ほら、さっさと美月と下に行け。邪魔するな」 彼は私を庇ったのだと、その時は思った。 彼の瞳の奥にある後ろめたさに、私は気づけなかったのだ。 ましてや、「なんでそんなに怒るのよ。ほら莉乃ちゃん、行こう」なんて笑ってとりなしていたなんて。 今思えば。 二人はあの頃から、すでに爛れた関係にあったのだ。 翔太は私の表情の変化に気づいていない。 彼は莉乃の手から保温容器を受け取ると、優しい夫の顔で微笑んだ。 「せっかく目が覚めたんだ、何か少しお腹に入れようか。君のためにおでんを作ってきたんだ」 第2話 彼はそう言いながら、手際よくおでんを椀に装った。 私は椀の中にゴロゴロと入っている大根の塊を見つめ、次第に表情を凍らせた。 「大根が好きなのは、私じゃない」 ……莉乃だ。 「それに、私、大根苦手なのよ。忘れたの?」 その言葉に、翔太はハッとして、無意識に莉乃の方を見た。 莉乃が食事に来るたび、私は彼女をもてなそうと腕によりをかけて料理を並べた。 彼女が大根好きだと知っていたから、必ず大根を使った料理を用意するようにしていたのだ。 最初、翔太は不満そうだった。 「美月、君は食べられないんだから、次は無理して作らなくていいよ」 それがいつしか。 彼は笑顔で莉乃に大根を取り分け、「痩せすぎだからもっと食べなよ」と勧めるようになった。 ある時など、私が大根を買い忘れたのを見て、彼は眉をひそめて言ったものだ。 「あれ、大根料理ないの?莉乃ちゃん好きなのに」 私が大根苦手だということなど、彼の記憶から完全に消え去っていたのだ。 私は彼をじっと見つめた。 翔太はようやく気まずさと申し訳なさを感じたらしく、慌てて取り繕った。 「ごめん美月、うっかりしてた……後で下に行って、何か食べられるものを買ってくるよ。いいかな?」 水のように優しい声色。 私が何か言おうと口を開きかけた瞬間、莉乃が割って入った。 彼女は甘えた仕草で翔太の腕に抱きつく。 「美月さんがいらないなら、私がもらって帰っちゃおっかなー?……翔太さん、いいですよね?」 翔太の体が強張り、目で彼女を制そうとする。 莉乃は悪びれる様子もなく、挑発的に彼を見つめ返す。 しばしの沈黙の後。 翔太はため息をつき、妥協した。 「……ああ、好きにすればいい」 二人の間で交わされる、まるで私など存在しないかのようなアイコンタクト。 その場の空気は、胸焼けするほど甘ったるい。 どうして今まで、二人の関係に気づかなかったのだろう? …… 莉乃と翔太は、いつも二人揃って見舞いに来た。 ようやく病室に二人きりになる機会を見計らい、私は真剣な声で翔太に告げた。 「私、しばらく莉乃には会いたくないの」 お粥を冷ましていた翔太の手が止まり、スプーンが揺れてシーツにこぼれそうになる。 「……どうして?」 「莉乃は君のこと心配してくれてるんだよ。子供が生まれたからって、そんな……」 そこまで言って、私の視線に射抜かれた彼は口をつぐんだ。 以前の彼なら、私がどれほど理不尽なワガママを言っても、二つ返事で叶えてくれたはずだ。 なのに今は。 莉乃のために、私に口答えしようとした。 私が眉をひそめると、彼はすぐに前言を撤回した。 「わかった。君が会いたくないなら、そうしよう。俺から言っておくよ」 そう言うと、彼は視線を落とし、一口ずつ丁寧にお粥を私の口に運び始めた。 彼の友人たちはいつも私を羨ましがった。「あんなにいい旦那さんはいない」と。 私もそう信じていた。 けれど、その「世界一の夫」は、あろうことか妻の私が支援している学生と、裏で不倫していたのだ。 食事が終わると、翔太は電話に出るために廊下へ出た。 しかし、いつまで経っても戻ってこない。 私はベッドを降り、ドアの方へ歩み寄った。すると、莉乃の拗ねたような声が聞こえてきた。 「美月さんが会いたくないって言っても、翔太さんは会いたくないんですか?」 翔太は困り果てたようにため息をつき、そして――ガラス越しに、二人がまた唇を重ねるのが見えた。 キスが終わり、翔太が言う。 「美月は産後なんだ。一番に優先してやらなきゃいけない……彼女は俺の妻だ。君とは立場が違うんだよ」 その言葉を聞いて、私は自嘲気味に口角を上げた。 偽善者。吐き気がする。 それでも、胸の奥底から悲しみが津波のように押し寄せてくる。 私はドア枠にすがりつき、膝から崩れ落ちそうになる体を必死に支えた。 次の瞬間。 莉乃の声はさらに甘く、切なくなった。 「じゃあ私は?私のこと、少しも愛してないんですか?」 翔太が答える隙を与えず、彼女は言葉を継ぐ。 「嘘。口では認めなくても、本当は愛してるはずです。美月さんが妊娠中から今まで、翔太さんと寝ていたのは私だけなんですよ。 私の方が、あの人よりずっと翔太さんを満足させられます……それでも、愛してないって言えますか?」 第3話 翔太はその大胆な言葉に笑い声を上げ、先ほどまでの苛立ちはどこへやら、すっかり機嫌を良くしたようだ。 彼は甘く低い声で応えた。 「ああ。あいつは面白みがないからな、君には敵わないよ……いい子にしてろ。今夜、そっちに行く」 それを聞いた瞬間。 私はもう、限界だった。 踵を返し、洗面所へ駆け込むと、胃の中身が裏返るような激しい吐き気に襲われ、何度も嘔吐いた。 部屋を出ようとした時、足がもつれて激しく転倒してしまった。「きゃっ!」という悲鳴が漏れる。 磨りガラスの向こうで、翔太の影がピクリと動いたのが見えた。 だが、すぐに莉乃の影が彼を引き止める。 私は必死に力を込めたが、起き上がることができない。 冷たい床に這いつくばり、無力感に打ちひしがれて涙を流すしかなかった。 しばらくして、ドアの向こうから人影が消えた。 スマホがメッセージの着信音を鳴らした。 這うようにしてスマホを手に取り、画面を確認する。翔太からだ。 【美月、会社で急なトラブルがあった。ちょっと行ってくる。なるべく早く帰るから】 【愛してるよ。帰りに君の好きなケーキを買って帰るね】 スマホを握りしめる指が、怒りと悲しみで止まらない。 彼は、ほんの一時も待てなかったのか。 妻が倒れているかもしれないのに、そのまま私を置いて出て行ったのだ。 私は床の上で呼吸を整え、残った力を振り絞ってナースコールを押した。 駆けつけた看護師は私の姿を見て悲鳴を上げ、慌てて抱き起こしてくれた。 しかし、傷口が開いてしまっていた。 大量出血だ。 私は再び手術室へと運ばれた。 手術が終わり、次に目を覚ましたのは、翌日の午後だった。 翔太はまだ来ていない。 届いていたのは、またしても翔太からのメッセージだけだ。 【美月、今夜は必ず顔を出すよ。本当に忙しくて、ごめん】 私はSNSを開いた。 そこには、一分前に莉乃が投稿した写真があった。 ホテルの大きなベッドの上で、キャミソール姿の彼女が自撮りをしている。 コメント欄には、翔太からの返信があった。 翔太:【消せ】 莉乃:【なによー、ヤキモチ?私の隣で寝てたくせに構ってくれないからいけないのよ】 心臓をナイフでえぐられるようだ。私が翔太のコメントを見つめていると、突然その投稿が削除された。 今、向こうで二人が何をしているのか、想像したくもない。 翔太の言う「忙しい」が、具体的に何を意味するのかも考えたくなかった。 莉乃との情事に忙しいと言うのか。 私は目を閉じ、腕の中の赤ちゃんの頬にそっとキスをした。 「陽太……もしママがあなたを連れてパパから離れたら、あたたかい家庭をあげられなかったこと、恨むかな?」 結局、翔太は私が退院するまで、一度も姿を見せなかった。 スマホには謝罪と弁解のメッセージが次々と届く。私はスマホを投げ出し、ズキズキと痛むこめかみを揉んだ。 西園寺陽太(さいおんじ ようた)を連れて、タクシーで自宅へ戻った。 けれど、玄関のドアを開けた瞬間、寝室から男女の声が漏れ聞こえてきた。 「ねえ翔太さん、今のうちに私といっぱい寝ておかないと、またあの所帯じみたおばさんの相手をしなきゃいけなくなりますよ……えー、あんな悪露まみれの体、気持ち悪くないんですか?」 私はその場に凍りついた。 憤怒と羞恥が、頭からつま先までを飲み込んでいく。 翔太が咎めるような声を上げた。 「美月をそう言う資格は、君にはない!」 だが次の瞬間、莉乃の嬌声が一段と高く響いた。 いつの間にか、涙が頬を伝い落ちていた。 もう気にしないと心に決めたはずなのに、体は正直だ。涙が止まらない。 私の腕の中で、眠っていた陽太が目を覚まし、大きな声で泣き出した。 途端に、寝室の中がパニックに陥る気配がした。 慌ただしく服を着たらしい翔太が、ボタンを掛け違えたまま飛び出してきた。私を見た瞬間、彼の顔色が土気色に変わる。 「美月……」 私はあえて、不思議そうな顔を作ってみせた。 「あら?あなた、会社にいるんじゃなかったの?」 その言葉に、翔太は逆に安堵したようで、引きつった笑みを浮かべた。 「いや、資料を取りに一度戻ったんだよ。ほら、忙しすぎて……君の退院日をうっかり忘れててさ」 忘れていたわけじゃない。 最初から気にも留めていなかっただけだ。 私は胸の奥に広がる酸っぱい感情を押し殺し、泣き止まない陽太をあやした。 翔太が「俺がやるよ」と陽太を受け取り、不器用ながらも根気強くあやし始める。 私は、彼の首筋に残るキスマークをじっと見つめ、不意に口を開いた。 第4話 「最近、まだ蚊がいるのかしら?」 そう聞くと、翔太は一瞬、表情を強張らせ、視線を泳がせた。 「あ……ああ、そうなんだよ。こんなに寒いのに、どこから湧いてくるんだかな」 彼は私に向き直り、真剣な眼差しを向けた。 「美月。仕事が落ち着いたら、久しぶりにデートしないか?」 数年前と同じ、屈託のない笑顔で彼は言う。 「妊娠中はどこにも行けなかったし、俺、寂しくて死にそうだったんだ。 数日後には両親が陽太の世話をしに来てくれるからさ。一日だけでいいから、俺とデートしてくれないかな?」 私は彼をじっと見つめ返した。 事ここに至って、どうしてここまで完璧な演技ができるのだろう。 私は小さく頷いた。 「ええ、いいわよ。ちょうど、私からもあなたに渡したいプレゼントがあるの」 それを聞くと、翔太は少年のように喜び、その場でくるりと回ってみせた。 その時、寝室からドンッ、と何かが蹴られたような音がした。 ……わかってる。 誰かさんが、我慢の限界を迎えているのね。 デートの日はすぐにやってきた。 翔太は入念に身支度を整え、私を見るなり、ダイヤモンドのネックレスを差し出した。 「美月、これプレゼント」 箱を開けてみる。 大粒のダイヤモンドが、陽の光を受けて眩いばかりに輝いている。 残念ながら。 そこに挟まれていた一枚のメモが、その美しさを台無しにしていた。 メモには、はっきりとこう書かれていた。 【これ、私がいらないって言ったネックレス。あんたに恵んであげる】 一目で莉乃の字だとわかった。 私の表情が曇ったのを見て、翔太が不思議そうに覗き込む。 「どうした?気に入らなかった?」 私は首を横に振り、ネックレスをしまった。 私たちは母校のそばにあるプラタナス通りを並んで歩いた。肩と肩が触れ合う距離なのに、奇妙な沈黙が流れている。 翔太が私の腰に手を回し、顔を近づけてきた。 避けようとしたが、後頭部を押さえられてしまう。 その時だ。 けたたましい着信音が鳴り響いた。 専用の着信音だ。莉乃が吹き込んだ、甘ったるくも生意気な声が再生される。 「ねえ早く出てよ〜!出ないと……お仕置きしちゃうよ」 翔太の動きが止まり、彼は慌てて着信拒否ボタンを押した。 だが次の瞬間、またしても電話がかかってくる。 翔太の瞳に葛藤の色が浮かんだが、彼は再び電話を切った。 もう、キスの続きをする空気ではない。 私は彼を突き放した。 「何かあったんでしょ?行ってあげて」 翔太は私を見つめた。その目には罪悪感と、名残惜しさが混じっている。 結局、彼はため息をつき、私の頭をポンポンと撫でた。 「莉乃を甘やかしすぎたな……学校で何かトラブルでもあったのかもしれない。ちょっと様子を見てくるよ。すぐ戻るから」 私は頷いた。 彼が去った後、私は一人ベンチに座り、ぼんやりと空を眺めた。 頭の中を様々な思いが駆け巡る。かつて翔太が私にくれた優しさ、そして私たちの子供のこと。 あの子は生まれたばかりで、父親を失うことになるのだろうか。 間もなくして、私のスマホに莉乃からのメッセージが届いた。 【彼に捨てられたでしょ?美月さん、忠告してあげる。彼はもうあなたを愛してないの。いつまでも彼にしがみつかないで】 【彼は今、私と一緒にいるわ。私のタイムラインを見てみて。私たちの方がよっぽど家族らしいと思わない?】 私は一瞬躊躇したが、彼女の投稿を開いた。 最新の投稿は一分前。 彼氏目線で撮られた動画には、莉乃がベビーベッドにへばりつき、陽太に「ママ」と呼ばせようとしている姿が映っていた。 翔太が、呆れたように、しかし愛おしそうに笑っている。 「俺の奥さんは美月だけだって言ってるだろ。いい加減にしろよ」 次の瞬間。 莉乃が彼に飛びかかり、その唇を塞いだ。そして悪意たっぷりに言い放つ。 「関係ないもん。私だって翔太さんの子供産むんだから」 動画はそこで終わっていた。 私の息子の目の前で、彼らがそんな行為に及んでいると考えただけで、反吐が出そうだった。 私は迷わず、翔太に電話をかけた。 時刻はもうすぐ深夜の十二時だ。 私は明るい声を作って言った。 「翔太、明日が私の誕生日だってこと、忘れてるでしょ?あと数分で明日になるけど……今年の誕生日は、私からあなたにプレゼントを用意したの」 翔太の息遣いは荒く、背後から微かに女の声が漏れ聞こえてくる。 第5話 「どんなプレゼント?……美月、ごめんね、本当に忙しくて……」 彼の声には、驚きと興奮が混じっていた。 私は無言で電話を切った。 日付が変わり、0時になったその瞬間。 用意しておいた離婚協議書、彼がよこしたネックレスとあのメモの写真、莉乃のタイムラインのスクショ、そして二人のチャット履歴。 それらすべてを、一括で彼に送信した。 送信して間もなく、翔太から電話がかかってきた。 私は出なかった。 彼はしつこくかけ続けた。 最後には、泣きそうな声のボイスメッセージが届いた。 【美月、頼むから説明を聞いてくれ……】 その背景からは、莉乃の泣き声も聞こえてきた。 私はスマホを放り出し、彼らがホテルを出て自宅へ戻るまでの時間を計算しながら、急いで家へと向かった。陽太を連れ出すために。 家に着くと、義父の西園寺厳(さいおんじ げん)と義母の薫(かおる)が、陽太を囲んであやしているところだった。 陽太は彼らの腕の中で、安心しきって眠っている。 私が近づくと、あの子は眠たげに目をこじ開け、私に小さな手を伸ばしてきた。 私は彼を受け取り、優しく囁いた。 「ねんねしな、よしよし……」 その時。白く柔らかな息子の頬に、引っ掻き傷があるのを見つけ、私の表情が凍りついた。 「これ、どうしたんですか?」 義父母は顔を見合わせ、ぎこちなく笑って話題を変えようとした。 「遅かったじゃないか。さあ、顔を洗って寝なさい。陽太は私たちが……」 私は一歩下がって拒絶した。 目の前の、今まで尊敬していた義父母を見つめ、首を横に振った。 陽太を寝室に寝かせた後、リビングに戻り、二人を真っ直ぐに見据えて問いただした。 「莉乃がやったんでしょ?」 その名前を聞くと、厳は深くため息をついた。 薫が駆け寄ってきて、私の手を握りしめる。申し訳なさそうな顔だった。 「美月さん、私たちも今日知ったのよ。あの子を説得しようとしたんだけど……はあ!」 二人は重い溜息をついた。 数日前から陽太の世話をしに来ていた二人は、孫との時間を楽しみにしていた。毎日、孫を喜ばせようと一生懸命で、少しの物音にも敏感になっていた。 だから今夜、私たちの寝室から物音がするのを聞きつけ、慌てて上着を羽織って飛んできたらしい。 そこで目にしたのは、莉乃と翔太が同じベッドでまぐわっている姿だった。 小さな陽太はベビーベッドで泣き叫んでいた。 翔太は莉乃を押しのけて陽太の元へ行こうとしたが、莉乃が腕を掴んで離さない。 彼は焦って叫んだ。「莉乃、いい加減にしろ!手を上げるぞ!」 莉乃はふてぶてしく笑った。 「私を殴れるわけないでしょ」 彼女は着衣の乱れも気にせず、再び彼にキスしようとし――ふと、ドアの前に立ち尽くす義父母の姿に気づいた。 厳は雷に打たれたように固まり、薫はショックのあまり過呼吸になりかけた。 それでも、陽太の声が枯れるほど泣いているのを聞き、薫は居ても立っても居られず、駆け寄って抱き上げた。 あやしている最中に、陽太の頬の傷に気づいたのだ。 莉乃の、派手な長いネイルを見て、薫は怒りと孫への不憫さで震えた。 厳が激昂し、翔太に殴りかかろうとした。 翔太は莉乃を庇い、彼女を先に逃がそうとしたが、阻まれた。 彼は情けなさそうに父親を見た。 「父さん…… 男なら性欲くらいあるだろ。莉乃と遊んだのは、美月が妊娠中だったから魔が差しただけだ。誓うよ、すぐ別れるから。美月には言わないで……」 それを聞いた莉乃は、泣きながら彼にすがりついた。目は真っ赤だった。 「私は何なの?そんな簡単に捨てないでよ、翔太さん……」 彼女は哀れっぽく泣き喚いた。 だが、翔太は冷淡だった。 彼はただ、自分の両親に縋るような目を向けていた。 厳が吐き捨てた。 「畜生め!」 その時だった。 0時を迎えた。 私の「プレゼント」が届いたのだ。 スマホに届いた通知の山を見て、翔太は狼狽し、顔色を変えた。 莉乃は相変わらず泣き喚いて暴れていたが、翔太の顔色が氷のように冷え切っていることには、まだ気づいていなかった。