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三つのチャンス――もう二度と愛さない
腹を痛めて産んだ我が子が、母親を殺す「刃」になるとは—— 三十歳の誕生日。喘息の発作に苦しむ紺野明世(こんの あきよ)の目の前で、五歳...
Chương (1)
第1章
腹を痛めて産んだ我が子が、母親を殺す「刃」になるとは——
三十歳の誕生日。喘息の発作に苦しむ紺野明世(こんの あきよ)の目の前で、五歳の息子・紺野海斗(こんの かいと)は命綱である吸入薬を地面に叩きつけた。
「ママは苦しめば苦しむほど、僕をもっと愛してくれるって、未鈴さんが言ってたよ」
そして夫・紺野涼介(こんの りょうすけ)は、妻の命の危機よりも「本命」の飼い猫を救うことを選んだ。
明世が半生をかけて、密かに育んできた恋心。
けれど結婚して初めて知った。自分は、彼が本命に九十九回振られた末に選ばれた、「百回目の当てつけ」に過ぎなかったことを。
本命・入江未鈴(いりえ みすず)が帰国すると、夫と息子は喜々として彼女の「騎士」となり、明世を追い詰めていく。
明世は彼らに、やり直すための「三回のチャンス」を与えた。
だが、代償として残ったのは失った片脚、ネットでの誹謗中傷、そして顔に刻まれた消えない傷跡だけだった。
そして、息子がアレルギーで意識が薄れゆく中、あろうことか不倫相手を「ママ」と呼んだ瞬間——明世の中で、最後の情が燃え尽きた。
「離婚したいんです。財産分与なんて結構、身一つで出ていきますから。それと、海斗も……あの子も、いりません」
チャンスは尽き、愛は死んだ。
地獄を見たサレ妻が、真に輝く未来へと歩き出す。
第1話
お腹を痛めて産んだ子供が、まさか母親の苦しむ姿を見て喜ぶ怪物だったとは、紺野明世(こんの あきよ)は夢にも思わなかった。
三十歳の誕生日。裏庭で、明世の胸が激しく軋んだ。発作だ。
薄れゆく視界の端、五歳の息子・紺野海斗(こんの かいと)が立っていた。
だが海斗は、明世の命綱である吸入薬を拾うどころか、遠くへ投げ捨てた。
幼い声が、残酷なほど鮮明に耳に突き刺さる。
「こうすればママ、もっと僕のことを見てくれるし、もっと愛してくれるって、未鈴さんが言ってたもん。
パパだって未鈴さんの言うこと聞いてるんだ。じゃあ僕のやり方も間違いないよ。こうすればママは絶対、僕たちをもっと好きになる!」
夫である紺野涼介(こんの りょうすけ)の答えを聞く間もなく、意識が闇に沈んだ。
最後に残ったのは、ひとつの冷たい決意――
もし目が覚めたなら、私を傷つけることで愛を試そうとする歪んだ親子、あと三回だけ、チャンスを与えよう。
……
四時間の蘇生処置を経て、鼻をつく消毒液の臭いが明世を現実へと引き戻した。
瞼を持ち上げると、喉の奥に焼けるような激痛が走り、息をするたびに胸が軋む。
無意識に夫と息子の姿を探したが、病室には冷たい空気が漂うばかりだ。
サイドテーブルの上で、スマホが震え続けている。力を振り絞って手を伸ばすが、指先数センチが届かない。
それに気づいた新人の看護師が、慌てて駆け寄ってきた。
「動かないで!やっと峠を越したんですよ。重度の喘息持ちだと分かっているくせに、どうして薬の管理を怠ったりしたんですか?本当に、命を何だと思ってるんです!」
明世には弁解する気力もなかった。まさか実の息子が薬を捨てたなどと、口が裂けても言えるはずがない。
スマホの画面を開くと、LINEは涼介とのトーク画面が開かれたままだった。画面を埋め尽くす吹き出しは、すべて自分からの一方的なメッセージだ。
インスタを開くと、入江未鈴(いりえ みすず)の投稿が目に飛び込んできた。
【茶トラちゃんが三時間も高い木から降りられなくなって大ピンチ。でも、二人の勇敢な騎士様が駆けつけてくれたの!消防士さんも「プロ顔負けだ」って褒めてくれたわ!】
添付された写真には、袖をまくって木に登り、猫を抱きしめる涼介と、その下でキャリーケースを掲げ、慎重に猫を受け取ろうとする海斗の姿があった。
未鈴はそんな二人を崇拝するような眼差しで見つめ、手を叩いて応援している。
なんて美しい、三人家族の光景だろう。
夫と息子が、死の淵をさまよっていた自分を置き去りにして、本命の飼い猫を助けに行っていたのだ。心配の言葉ひとつ寄越さずに……
明世は口元を歪め、写真をタップした。
海斗が着ているのは、今朝、自分がアイロンをかけたシャツだ。ママの誕生会でかっこよく見えるようにと、丁寧にアイロンをかけたもの。
それなのに今、息子はそれを着て別の女の前に立ち、父親と一緒に騎士気取りで振る舞っている。
指を下に滑らせ、何気なく家庭用監視カメラのアプリを開く。
昨夜設定したクラウドの自動バックアップが、新しい動画の通知を表示していた。
何かに引き寄せられるようにタップすると、画面には庭の東屋が映し出された。時刻は今日の昼食前だ。
「海斗くん、さっき言ったこと、全部覚えてる?」未鈴は、蜜のように甘い声で、絡みつくように言った。
「覚えてるよ」海斗の幼い顔に、真剣な色が浮かぶ。
「あのスプレーを捨てたら、ママに発作が起きたら僕が気づいて、薬を取ってって頼んでくるんだ。そうしたら僕がママを助けたヒーローになって、ママはもっと僕を愛してくれる」
「いい子ね」未鈴は笑いながら、海斗の髪を撫でた。「これは二人だけの秘密よ。ママからもっとたくさんの愛をもらえるように、手伝ってあげるから!」
「やった!未鈴さんって本当にすごいね!だからパパも未鈴さんのこと大好きで、いつもご褒美にチューしてるんだよね!」
そう言って、海斗は小さな唇を尖らせて未鈴の頬にキスをした。
画面の中で親子のようにじゃれ合う二人を見つめながら、明世はすべてに予兆があったのだと悟った。
長年愛してきた夫は、本命を甘やかし、あろうことか子供を唆して母親を襲わせていた。彼はとっくに、自分を裏切っていたのだ。
明世は画面を凝視したまま、抑えきれない手の震えを感じた。胸を刺すような痛みに耐えかねて、瞳を閉じる。
過去の記憶が、雪崩のように押し寄せてきた。
明世と涼介は幼馴染だった。彼は臨海市随一の資産家の御曹司で、留学から帰国して家業を継いだエリートだ。
二十代で紺野グループの企業価値を数倍に押し上げ、臨海市の全ての女性が憧れる最年少の青年実業家となった。
一方、明世は紺野家に仕える家政婦の娘に過ぎない。涼介の両親の慈悲で、彼のそばにいることを許され、同じ名門校に通わせてもらえただけだ。
眩いばかりの涼介を見つめながら、明世の密かな恋心は、決して口に出せるものではなかった。
けれど六年前。帰国した彼が酔った勢いで部屋を訪ねてきて、「結婚してくれないか」と告げたのだ。
密かな恋が、ついに実を結んだのだと思った。
だが、結婚して思い知らされた。それは、彼が未鈴に九十九回振られた後の、百回目の「当てつけ」に過ぎなかったのだと。
アルプス山脈で、ドローンを使って求婚の文字を描いても、未鈴は笑って「もう少し待って」とあしらった。
アイスランドの黒砂海岸を貸し切りにして花火を打ち上げても、未鈴は「結婚なんて制度に縛られたくない」とはぐらかした。
そして百回目。タイムズスクエアの巨大スクリーンの下で、未鈴は最後通告をした。「三年後には必ず結婚するわ」と。
涼介は指輪を放り投げて帰国し、手頃な明世と成り行きで結婚したのだ。理由はいかにも簡単だった。
彼女は一番面倒がなく、一番従順な選択肢だったから。
結婚して一年後、明世は海斗を出産した。幸せな日々もあったはずだ。
それが一ヶ月前、未鈴が離婚して帰国し、海斗の外国語教師になってからすべてが狂い出した。
涼介の襟元には、頻繁に赤リップの跡が残るようになった。
海斗も「未鈴さんの家で遊びたい」とせがむようになり、帰宅すればまるで別人のようになっていた。
以前は自分にべったりだったのに、突然、まとわりつかなくなった。
昔は薬を持ってきてくれた優しい子が、今では薬を隠すようになった。
かつて自分を世界一だと誇ってくれた「ナンバーワンのファン」は、今では「ママはダンスが下手だ」と言い、「家で家政婦の仕事をして、パパと僕の世話をするべきだ」と言い放つ。
今日になってようやく、自分がどれほど滑稽な間違いを犯していたか気づいた。
夫は本命と焼け木杭に火をつけ、息子までもが、その女の意のままに操り人形と化していたのだ。
「紺野さん?大丈夫ですか?」看護師が明世の顔色の悪さに気づいて声をかける。「先生をお呼びしましょうか?」
「大丈夫です」明世は目を開け、溜息のような声で尋ねた。「私の夫と息子は?」
「お会計を済ませたら、すぐ出て行かれましたよ。動物病院に急用があるって」
看護師は不満げに口を尖らせた。「本当に、猫が奥さんやお母さんより大事なんて、ふざけていますね」
明世は力なく笑った。涙が一筋、こめかみを伝って落ちる。
そう、どんな猫が命より大事なのか?もちろん、未鈴の猫だ。
バン!
病室のドアが乱暴に開かれ、涼介が海斗の手を引いて入ってきた。
ふわりと漂ってきたのは、動物病院特有の消毒臭。おそらく、あの猫の健診を終えたばかりなのだろう。
「ほら、ママに謝りなさい」涼介が息子の背中を押す。
海斗はベッドの傍まで寄ってくると、つま先で床に円を描きながら言った。「……ママ、ごめんなさい」
明世は顔を背けたが、息子の目に一瞬浮かんだ苛立ちを見逃さなかった。
彼は苛立っていた。手筈通りなら、ママがそこで「薬を取って」と言うはずだったからだ。
「海斗はわざとやったわけじゃない。まだ子供なんだ、遊びに夢中になることだってある。お前も、そんな大事な薬をきちんと管理しないから悪いんだぞ」
涼介の声には、抑揚のない。「未鈴が動物病院で猫の世話をしてて、一日中何も食べてないんだ。俺が食事を届けに行かないといけない」
夏の夜の湿気を含んだ暑さの中、明世は骨の髄まで冷え切っていくのを感じた。
目覚めてからずっと、涼介は一度も「大丈夫か」と聞いてこなかった。
部屋に入ってからの言葉は、ひとつは息子の言い訳、もうひとつは自分への非難。
心も目もすべて未鈴で埋め尽くされ、今日が妻の三十歳の誕生日であることすら忘れている。
明世は突然、綿のような疲れを感じた。
明世が何も言わないのを見て、涼介は眉をひそめた。「まあいい。今日はお前の誕生日なんだから、機嫌よくしてくれよ。子供相手に意地を張るな」
「俺と海斗で、お前にプレゼントを用意したんだ」
彼はポケットからベルベットの箱を取り出した。中にはローズゴールドの腕時計が入っていた。「退院したら俺がつけてやる」
明世はそれをちらりと見た。未鈴が先週、SNSに投稿していたのと同じモデルだ。
彼女が「ダサくて趣味じゃない」と嫌がって受け取らなかったものが、自分の誕生日プレゼントになるとは。なんという皮肉だろう。
明世は微笑み、溜息のような声で言った。「私からも、サプライズがあるの」
親子は同時に顔を上げ、海斗は明世のそばに飛びついた。
「なになに?僕が一番欲しかった、レーシングカーのおもちゃ?」
彼女は窓の外を見つめ、海斗の目に浮かんだ失望を見ないふりをして、もう口を開かなかった。
父子が病室を出ていくまで、彼女は心の中で二人に告げた。
チャンスを与えるのは、あと三回だけよ。
それを使い切ったら、あなたたちにはもう愛想を尽かすからね。
第2話
明世が退院する日、涼介のベントレーが病院の車寄せに横付けされていた。
明世が車に乗り込むや否や、海斗はリュックから一枚の写真を取り出した。
「ママ、見て!未鈴さんがプリントしてくれたんだよ!」
写真の中で、未鈴は海斗を抱きしめ、聖母のように微笑んでいる――「理想の母親」という表彰式の記念写真だ。
どうやら自分が入院している間に、未鈴は息子の心の中で第二の母親になっていたのだ。
明世の息が詰まる。
「これを見たらママが嫉妬して、もっと僕とパパのこと大事にするって未鈴さんが言ってたよ」
海斗の目が無邪気に輝く。「やっぱり未鈴さんの言った通りだ。ママ、今怒ってるでしょ!」
明世は何も言わず、震える手でパワーウィンドウのスイッチに触れた。
海斗は写真を彼女の膝に押し付ける。「ママはこれを枕元に置いて、毎日見るんだって、未鈴が言ってたよ」
「もういい」
「まだだよ、未鈴さんがね――」
ビリッ。
乾いた音が車内に響く。明世は写真を粉々に引き裂き、ばら撒いた。
海斗は少し呆然としてから、喚き散らした。「ママなんて悪い人だ!これは未鈴さんの気持ちなのに!」
涼介が勢いよく振り返る。「子供相手に何をヒステリー起こしてるんだ?」
最後の一片が、明世の指の間からひらりと落ちる。
海斗がそれを奪い取ろうと飛びかかり、小さな爪が明世の手の甲を引っ掻き、血が滲んだ。「返して!未鈴さんが見たら悲しむよ!」
「海斗、よしよし」涼介は暴れる息子を抱き寄せ、冷ややかな視線を妻に投げる。「たかが写真一枚じゃないか。そこまでする必要があるか?」
「あるわ」明世は手の甲の血を拭った。「私の夫なのに、息子が他人をママと呼ぶのを許してる。惨めなのはこっちよ」
涼介は鼻で笑い、顔を背けて答えなかった。
静まり返った車内には海斗のすすり泣きだけが響き、時折「未鈴さんの言った通り」「ママが悪い」という恨み言が混じる。
翌日、明世はバレエ団に戻った。
だが、プリンシパルの座はすでに奪われていた。
レッスン室の中央、未鈴が優雅にストレッチをし、バレエミストレスたちが彼女を取り囲んでいる。
明世がドアをくぐった瞬間、空気が凍りついたように静まり返った。
「明世か」団長が進み出る。「ちょうどいい、発表がある。未鈴が次期プリンシパルを引き継ぐことになった。君には……退任してもらう」
明世の目が見開かれる。「どうして?」
未鈴が歩み寄り、いたわるように手を伸ばす。「明世さん、これは涼介の意向なの。団長を困らせないであげて」彼女は目配せをして団長たちを退出させた。
二人きりになると、未鈴は笑みを消した。「夫と息子が私の機嫌を取ってるのを見て、どんな気分?」
明世は唇を噛み締め、拳が白くなるほど握りしめる。
「どうして黙ってるの?涼介、最近あなたに触れてないでしょ?それはそうね。ベッドでマグロみたいにつまらないってこぼしてたわ」
未鈴は口元を歪めた。「私とは違うの。彼、私をベッドから離そうとしないくらいよ。プリンシパルの座だって、私がふと口にしただけで贈ってくれたプレゼントなの」
明世は彼女を平手打ちしたい衝動を必死に堪える。「不倫相手のくせに、よくそこまで得意になれるわね」
未鈴は手を伸ばして彼女の強張った頬を撫でた。「まあ、涼介が私に自信をくれているのよ。お飾りのくせに座を譲らないなんて、私が『紺野夫人』になるのを特等席で見たいの?」
明世は彼女の手を払いのける。「今の会話を暴露したら、あなたの評判はどうなるかしら?」
彼女はスマホを揺らしてみせた——録音中だ。
未鈴の表情がこわばり、咄嗟に明世を突き飛ばした。
不意を突かれた明世は無防備なまま階段から転げ落ち、左脚が手すりの支柱に強打し、鈍い音とともに無残に折れ曲がった。
未鈴は一瞬狼狽したが、すぐに自分も床に座り込み、悲鳴を上げで助けを呼んだ。
救急車より先に到着したのは、涼介と海斗だった。
涙に濡れた未鈴を見て、父子は真っ先に彼女へ駆け寄った。一人は彼女を抱きかかえ、一人は荷物を持って車に乗り込み、病院へと直行する。
薄れゆく意識の中、明世が漏らした弱々しい声は誰にも届かなかった。
震える手で、自分で救急車を呼ぶ。
担架に乗せられるまで、誰も、取り残された彼女に気づくことはなかった。
看護師たちの会話から、残酷な真実を知った――
夫と息子は確かに来ていた。だが、彼らは怪我一つしていない未鈴だけを救い出したのだと。
鎮痛剤が血管を巡り、泥沼から浮上するように意識が戻る。明世が最初になしたことは、弁護士への連絡だった。
「離婚したいんです。すぐに書類を。財産分与なんて結構、身一つで出ていきますから」
彼女は一拍置き、受話器越しにも伝わるほど決然と言い放った。
「それと、海斗も……あの子も、いりません」
第3話
病院の手術室で、明世のパンツの裾がまくり上げられ、ねじ曲がった脛が露わになった。
「粉砕骨折に神経断裂ですか。家族はどこですか?同意書のサインがなくて、壊死が進めば、取り返しがつかなくなりますよ!」
しかし待合室から返事はない。
隣の診察室から呼び出しの声が聞こえてきた。「入江未鈴さんのご家族はいらっしゃいますか?」
「ここです!」二つの声が同時に上がった。
「念のため処置しましたが、軽い擦り傷です。傷口を水に濡らさないように……」
涼介と海斗が細かく質問を重ねている間、明世の担当医が再び聞く。「ご家族はまだですか?いないなら電話してください!」
明世は震える指で涼介の番号を押した。「涼介、病院で家族のサインが必要で……」
「今忙しい。後で行く」
頼みの綱の電話は、無情にも切られた。
彼女は自嘲的に口元を歪める。この結婚生活の中に、あとどれだけの嘘が埋め込まれているのか、想像もつかない。
二時間後、隣の診察室から出てきた涼介は、苦痛に顔を歪める明世にようやく気づいた。
顔から笑みが消え、明世の前まで歩いてくると、珍しくばつの悪そうに言った。「すまない。お前がそこまで重傷だとは知らなかった。もし早く分かっていたら……」
「いいから、早くサインして」明世の脚を襲う激痛は、涼介の言い訳を聞く余裕すら奪っていた。
涼介は走り書きでサインを終え、憔悴した妻を振り返った。慰めようとしたのだろうが、その言葉は、何よりも残酷だった。
「未鈴は身寄りがないからな。俺と海斗でついててやらないと心配なんだ。サインは終わったから、まず彼女を家に送ってくる」
明世は彼の手を振り払った。「……勝手にして」
彼女はストレッチャーに乗せられ、手術室へと運ばれていった。
モニターにレントゲン写真を映し出す医者は告げた。「二時間以上も遅れたせいで、最適なタイミングを逃しました。残念ですが、切断するしかありません。義足をつけるにしても、予後は相当厳しくなるでしょう」
明世は白黒のレントゲン写真を見つめ、一言も発せなかった。
手術が終わった後、涼介と海斗の姿はどこにもなかった。
連絡もなければ、電話一本すらない。
七日後。明世が松葉杖をつき、廊下でリハビリをしていた時、再診に来た未鈴と涼介親子を見かけた。
「パパ」海斗が見上げて言う。「ママはもうどこにも行けないから、ずっと家で僕と一緒にいてくれるって未鈴さんが言ってたけど。本当?」
涼介は愛おしげに彼の髪を撫でる。「ああ、ママはずっと君のそばにいるよ」
明世は壁の陰に身を隠し、必死に嗚咽を噛み殺した。
未鈴が視線に気づいて振り向く。角にいる明世を見つけると、真っ直ぐ歩み寄り、勝ち誇ったような、妖艶な微笑みを浮かべた。
「この前私が怪我した時、涼介ったらとても慰め上手で……」
海斗が興奮して割って入る。「そうだよママ!僕とパパで、未鈴さんの猫ちゃんに新しいハウスを作ったんだ。未鈴さんがね、僕のこと『お手伝い名人』だって褒めてくれたんだ!」
涼介の瞳に微かな罪悪感が走り、よろめく明世を支えようと手を伸ばしかけた、その時。
「さぞ得意でしょうね?私の夫を奪って、息子を奪って、プリンシパルの座を奪って、今度は私の脚まで奪った!」
涼介が眉をひそめて叱責する。「自分の不注意で怪我をしたくせに、どうして未鈴のせいにするんだ!」
明世は松葉杖を握りしめ、毅然と顔を上げた。「涼介!あなたの妻はまだ、この私なのよ!」
「ママって本当にわがままだね。脚が一本なくなったって歩けるじゃない。車椅子があるじゃん!パパが言ってたよ。未鈴さんだってトラウマになったら一生残るって!」
海斗は涼介の背後に隠れながら、値踏みするように明世の表情を窺っている。
明世の中で、何かが完全に死んだ。彼女は叫んだ。「出ていきなさい!」
背を向けると、涙が頬を伝う。
この一回目のチャンスも、残しておく必要はない。
ポケットの中でスマホが震えた。弁護士から離婚協議書についての連絡があった。
【紺野様、本当にお子様の親権はいらないのですか?】
明世は感情を押し殺して返信した。
【ええ。あの男も、あの子も、どちらもいらないですから】
第4話
明世は一週間、病院のベッドで孤独な夜を重ねた。
この一週間、彼女は他人の幸せを覗き見るストーカーのように、毎日未鈴のSNSをチェックした。
涼介親子は未鈴と動物園に行ったり、映画を観たり、親子運動会に参加したりしている。
もし自分が涼介の妻でなければ、この微笑ましい「三人家族」を祝福できたかもしれない。
だが、この物語で愛されていないのは、自分の方なのだ……
退院の日、涼介と海斗がようやく現れた。
明世はすでに退院手続きを済ませ、タクシーを呼ぼうとしていたところだった。
涼介はようやく、夫としての責任を放棄していたことに気づいたらしい。
「すまない。未鈴はこの街で頼れる人がいないんだ。俺は彼女の……彼女がここで唯一知ってる友人として、もっと面倒を見てやらないと。彼女もこの前怪我したばかりだし」
以前の明世なら、寂しげに笑って「構わないわ」と言っただろう。
今は、笑うことさえできない。
「分かったわ。帰りましょう」
明世が不自由な体で苦労して車に乗り込む姿を見て、涼介はますます彼女が自分の元から離れられないと確信したようだ。
結婚して数年、自分は何度も彼女を無視してきたが、彼女は決して離れなかった。
今だって数日顔を見せなかっただけだ。もう慣れているはずだ。
車が走り出すと、明世はずっと窓の外を流れる景色を追っていた。
海斗が膝に寄りかかってくる。
「ママ、脚はもう治った?じゃあディズニーランドに一緒に行ける?」彼の目が期待に輝く。
明世が顔を上げると、車はもう別荘の前に到着していた。
海斗に何か言おうとした矢先、彼が親切そうに車のドアを開け、彼女を別荘の中へと促した。リビングのソファに明世を座らせると、彼は悪びれもせず、無邪気に言い放った。
「あのね、未鈴さんは高所恐怖症だから、高い乗り物ダメなんだって。だからママが代わりに乗ってよ!そうしたら僕、遊べるもん!」
明世の心臓が凍りついた。お腹を痛めて産んだ息子の言葉、あまりにも残酷だ……
病み上がりの母親を気にもかけず、罪悪感の欠片もなく、その瞳には未鈴のことしか映っていない。
「ママが行けば僕を愛してるってことで、行かなければ愛してないんだって、未鈴さんが言ってたよ。ママは絶対僕を愛してるよね?」
明世は海斗に答えず、無理やり立ち上がって寝室に逃げ込んだ。
海斗、あなたは本当に、愛というものが誰かを傷つけることで積み上げられると信じているの?
その夜、明世がまどろみかけた時、涼介が忍び足で入ってきた。
明世は彼を見つめ、沈黙を守る。
涼介はこの沈黙を誘いと受け取ったらしく、近づいて彼女を抱きしめた。
甘ったるい香水の匂いが涼介の体から押し寄せ、明世の鼻腔を侵し、思考を麻痺させる。
彼女は涼介を押し退けようとしたが、相手はじゃれ合いだと勘違いし、手が失われた左脚の付け根に触れるまで止まらなかった。
パジャマ越しの異様な感触に、彼は弾かれたように後ずさった。
あからさまな拒絶反応に、明世は正気を取り戻す。
「何?私の左脚がないから嫌なの?それとも突然、私が未鈴じゃないって気づいた?」
涼介は眉をひそめ、瞳の奥に後ろめたさを走らせた。
「また卑屈なことを。避けたのは、お前が退院したばかりで体に触るのが気の毒だからだ」
明世が押し黙っているのを見て、彼は付け加えた。「それに、俺たちのことに何でもかんでも未鈴を絡めるな」
そう言い捨てて、涼介は逃げるように書斎へと向かった。
明世は彼の情けない背中を見つめ、心の中で冷たく嘲笑う。
欲情してるくせに現実を直視できない臆病者。こんな弱い男を何年も愛していたなんて。
明け方、悪夢にうなされて目覚めた明世は、ゲストルームから漏れる物音を聞いた。
近づくと、涼介が荒い息で低く呻いているのが聞こえた。「未鈴……ッ」
半開きのドアの隙間から、彼がスマホに映った未鈴の写真を見ながら、自らを慰めているのが見えた。
明世は思った。もし彼が少しでも潔ければ、自分も諦めがついたかもしれない。
でも彼は嘘をつき、隠れて裏切り、傷つける道を選んだ。
その陰湿な姿を見ながら、明世は深い悲しみと共に、心の中で二回目のチャンスを捨てた。
翌日の昼、明世の手元に正式な離婚協議書が届いた。
海斗が寝室に飛び込んでくる。
「ママ、僕の誕生日がもうすぐだよ。プレゼントは?」
明世はしばらく彼を見つめてから尋ねた。「何が欲しいの?」
「ママにケーキを作ってほしいな」
明世は考えた。これが海斗と過ごす、最後の誕生日になるかもしれない。
「いいわ」
海斗は嬉しそうに彼女の頬にキスをした。「えへへ、ママは絶対『いいよ』って言うって、未鈴さんが言ってたよ!やっぱり、ママは僕を一番愛してるんだよね?」
明世は何も答えず、彼が出ていった後、離婚協議書を印刷して枕の下に隠した。
未鈴の言葉なら、あなたたちは神の啓示のように有難がるのに。私をこの家に縛り付けて、あなたたちの幸せな家族ごっこを見せつけることはもう御免だ!
この四人で演じる茶番から、私は降りさせてもらう!
第5話
誕生日パーティーの会場で、子供たちのひそひそ話が耳に届いた。「彼女、お手伝いさん?片方の脚、どうしたの?」
海斗は言葉に詰まり、視線が泳いだ。
明世は悟った。息子は、自分のことを恥じているのだ。
その時、玄関から柔らかな女性の声が響いた。「海斗くん!」
海斗の目が輝き、弾かれたように駆け寄っていく。「未鈴さん〜!あれ?足、どうしたの?」
全員の視線が注がれる中、現れた未鈴の左足には包帯が巻かれ、その体は涼介に預けられていた。
涼介は鋭い目つきで明世を睨みつけ、拳を固く握りしめている。
明世には分かった。彼は怒っている。それも、自分のせいで。
案の定、未鈴をソファに座らせると、涼介は明世の手首を掴み、乱暴に寝室へと引きずり込んだ。
「お前さ!どうして未鈴の靴に画鋲なんて仕込んだんだ!」
明世は耳を疑った。「そんなことしてない!」
「バレエ団の人間が見たと言っている!」
明世は笑い声を漏らしそうになった。「なら、どうしてその場で止めなかったの?」
涼介が一瞬言葉に詰まる。「それは……お前が俺の妻という立場を笠に着て、威張り散らしているから、誰も手出しできないんだろう」
「でも私は……」
「言い訳は無用だ。バレエ団はお前を解雇した。俺と未鈴がメディアを抑えているが、お前が謝罪しなければ収拾がつかない」
「やっていないことを、どうして謝らなきゃいけないの!」
「拒否しても無駄だ……」
海斗の幼い声が、大人同士の口論を遮った。
彼は目を丸くして言った。「ママ、もしかして、僕たちのことを嫉妬してるの?僕が未鈴さんと仲良くしてるから、画鋲を置いていじめたんでしょ?」
明世が否定する間もなく、海斗は彼女の手を掴んだ。「でもね、未鈴さんを傷つけるのはダメでしょ?」
息子は善悪を理解しているのだ。だが、その切っ先は母親に向けられている。
心が張り裂けそうになり、明世は海斗の手を振りほどいた。松葉杖をつき、逃げるように玄関のドアを開ける。
そこには、メディアのカメラと未鈴のファンが待ち構えていた。
「紺野さん、嫉妬で画鋲を仕込んだというのは事実ですか?」
「紺野明世、愛されていない女こそが『邪魔者』なのよ!さっさと紺野家から出ていって、未鈴さんと涼介社長を幸せにしてあげて!」
罵声が波のように押し寄せ、ネット上ではすでに炎上状態だという。
【衝撃!富豪の妻が夫の初恋相手に嫉妬、バレエシューズに画鋲を仕込む陰湿な手口】
【暴露!真の部外者はどっち?ネット民「愛なき妻は退場せよ」】
悪意のある合成写真までもが出回り、亡き両親の顔写真さえ素材にされていた。
明世はその場に崩れ落ちた。
「ママ、謝りに行ってよ。これが僕の誕生日の願いなんだ」海斗が見上げてくる。
明世は息子のあどけない顔を見つめた。彼は分かっていないのではない。分かっていて、やっているのだ。
案の定、海斗が囁く。「僕がママに素直に謝るところを教えれば、ママは僕のこと物分かりのいい子だって褒めてくれて、誇りに思ってくれるって、未鈴さんが言ってたよ!」
明世は疲れを感じた。もう、未鈴に洗脳された人々と争う気力さえ残っていない。
一筋の涙が頬を伝う。
「いいわ、行く……」
「この度は、本当に申し訳ございませんでした……」明世は人々の前で深々と頭を下げ、涙が地面に染みを作った。
「明世さん、一体何を……?」未鈴はわざとらしく驚いて見せ、涼介の腕に身を寄せる。
涼介は眉をひそめ、冷たく言い放つ。「誠意が全く感じられないな」
未鈴の友人が騒ぎ立てる。「そう!謝罪なら土下座すべきよ!」
明世は涼介を見たが、彼は止めようともせず、びくともしない。
海斗が近づいて彼女の手を引く。「ママ、早く跪いてよ!」
彼の目は真剣そのものだ。「僕が今日の主役なんだよ。だから、僕の言うこと聞いて!」
「息子がこんなに頼んでるのに、まだ動かないのか!」涼介が激昂する。
彼が背後のボディガードに合図を送ると、二人の男が素早く近づき、松葉杖を奪って明世の膝裏を蹴り上げた。
男たちの力でバランスを崩した明世は、残った右膝を激しく地面に打ち付けた。
地面に這いつくばる屈辱は、体の激痛よりも深く彼女を切り裂いた。
「まだ謝らないのか?」
「涼介、もういいわ。明世さんが私を陥れたこと、全部水に流すから……」
未鈴の聖女のような振る舞いと対比され、明世の頑なな沈黙は涼介の怒りに油を注ぐだけだった。
「いいだろう。温情を無下にするなら容赦しない。もうお前のプライドなど考慮する必要はない!」
彼は寝室から、明世の両親が遺したトウシューズを持ち出し、地面に叩きつけて何度も踏みつけた。
明世は靴に向かって這おうとしたが、ガードに押さえつけられ動けない。
明世がまだ折れないのを見ると、涼介はお手伝いに命じ、両親の遺影を持ってこさせた。
ガシャン!
涼介は遺影を力任せに地面に叩きつけ、砕けたガラス片が飛び散って明世の腕を切り裂いた。
彼女は目を血走らせ、涼介を睨みつける。その瞳に宿る濃い憎しみに、言葉は失われていた。
「まだ頭を下げて謝らないのか?」涼介は冷笑する。「なら、この写真も破り捨てるぞ」
第6話
彼が手を振ると、ボディガードが写真を拾い上げ、無造作に引き裂き始めた。
明世は狂ったように抵抗したが、細切れになった写真が紙吹雪のように、全身に降りかかるだけだった。
明世は震える手で破片を拾い集め、涙を流し続けた。
「まだ謝らないなら、このトウシューズも灰になるぞ」彼はガードにライターを持ってこさせ、炎がシューズのサテン生地を舐めようとしている。
それは両親が遺した、最後の形見だった。
「もう分かった……頭を下げればいいでしょう……」
彼女は振り返り、未鈴に向かって額を地面に打ち付けた。一回ごとに鈍い音が響き、額が散らばったガラス片に押し付けられ、血まみれになっていく。
涼介は踏みつけられたトウシューズを明世の傍らに放り投げ、未鈴を抱きかかえて去っていった。
明世の傍を通り過ぎる時、冷ややかな声を残す。「最初からこうすればよかったんだ。無駄な抵抗をするな」
明世は海斗を見たが、海斗はぷいと顔を背けた。「ママ、未鈴さんに悪いことをしたからだよ!」
三人は腕を組んで広間の中央に向かい、まるで幸せな家族の肖像画のようだった。
見かねた保護者の一人が、明世を起こしてくれた。「何でそこまで意地を張るの。素直に謝ればよかったのに」
明世は答えず、遺影の残骸を抱いて黙って隅に退いた。
自分の息子の誕生日なのに、スポットライトを浴びているのは未鈴だ。
自分の存在は、パーティーの華やかな空気を濁す異物でしかない。
まるでこの結婚生活のように、自分は居場所のない部外者なのだ。
未鈴は場が白けかけたのを見て、すぐに皆に海斗の誕生祝いを続けるよう呼びかけた。
しかし誰も見ていない一瞬、彼女は明世に向かって挑発的に微笑んでみせた。
明世は無言で寝室に戻り、隠しておいた離婚協議書と離婚届の封筒を取り出すと、涼介にメッセージを送った。
【寝室に来て】
一時間後、涼介がようやく姿を見せた。
明世は封筒を差し出した。
「これは海斗へのプレゼント。本人が開けないと意味がないわ」彼女は受け取ろうとした涼介の手を押さえた。
涼介は封筒を無造作にベッドに放り投げた。「分かった。もうすぐケーキカットだ。みんなを待たせるな」
明世は平静を装い、額の傷に包帯を巻いて、乱れた服を整えた。
広間に出ていくと、会場の空気が凍りつき、全ての視線が「よく顔を出せたものだ」と語っていた。
明世は、これまでの人生でこれほど惨めな思いをしたことはないと感じた。
未鈴の声が響くまでは。「みんなボーとしないで。さあ、主役とケーキカットしましょう!」
誰も気づかなかったが、未鈴が海斗にウインクし、海斗が小さく頷いて応えた。
ケーキを配る時、海斗が運んできたのは明世が準備した特製のムースケーキではなかった。
最初の一切れはパパに、二切れ目は未鈴に、三切れ目は自分に……
全員にケーキが行き渡ったが、明世だけが忘れられていた。
明世にはもう気にする気力もなく、自分が用意していたチョコレートムースをゴミ箱に捨てた。
しかしキッチンから戻ると、海斗の腕と顔に赤い発疹が出て、苦しそうに掻きむしっているのを見えた。
明世は松葉杖も忘れて、這うように海斗の前まで行くと、未鈴に向かって叫んだ。「ケーキに何を入れたの!?」
未鈴は満面の笑みで、周囲のお世辞を楽しんでいたところだった。
明世の剣幕に、わざとらしく目を丸くする。
「何も入れてないよ。普通のマンゴーケーキ!」
「マンゴーが入ってるじゃないか!海斗はアレルギーなのに!」涼介も顔色を変え、スマホを取り出して救急車を呼ぼうとする。
「えっ?明世さんが教えてくれたのよ!」未鈴の目から一瞬で涙が溢れ出した。「『海斗はマンゴーが好きだ』って言ったから、私、マンゴーケーキを作ったの!」
「嘘つき!」明世が叫んだ。
すると、涼介は明世を突き飛ばした。「よくも実の息子にまで……!それでも母親か?」
明世は再び海斗の傍に這い寄り、弁解しようとしたが、意識が朦朧とした息子の口から、決定的な言葉が漏れた。
「未鈴さんの言った通りだ……全部、ママの言う通りにしたんだ。僕はこんな悪いママいらない……
未鈴さんに、ママになってほしい……未鈴さんだけが、僕に優しくしてくれる……未鈴、ママ……」
息子が初めて、母親への明確な拒絶と嫌悪を露わにした瞬間だった。
未鈴が彼の心の中でどれほど絶対的な存在になっているか、痛いほど理解できた。
明世は雷に打たれたように硬直し、ただ息子のうわ言を聞いていた。
「未鈴さん、ママになって欲しい……」
海斗の頭の中は未鈴との計画でいっぱいで、明世の心がずたずたに引き裂かれていることなど知りもしない。
「未鈴ママがいい……」
明世は力なく笑った。もう近づこうともせず、三人が一台の車に乗り込み病院へ急ぐ背中を見送った。心臓が、握りつぶされたように痛い。
深夜二時まで、彼女は冷たい床の上で身動きひとつできなかった。
息子は未鈴を信じ、母親を傷つけることで愛を得ようとする。
夫は未鈴を信じ、事実を確かめもせず、すぐに妻を断罪する。
世界中が未鈴を信じ、自分を罵倒する。
明世は悟った。自分にはもう何もない。夫と息子への、最後の淡い期待さえも消え失せた。
「そうね。もう、チャンスはないわ」彼女は闇に向かって呟いた。
第7話
邸宅の玄関が激しくノックされ、お手伝いがドアを開けた瞬間、ドアが乱暴に押し開けられた。
「未鈴ちゃんをいじめた奴か!」
未鈴の狂信的なファンたちが押し入り、床に座り込んでいた明世を見つけた。
「あなたたち誰!?」明世とお手伝いが押さえつけられた。本能的な恐怖が明世の背筋を這い上がった。「何をするつもり!」
先頭の男がナイフを取り出し、明世の左頬を二回切りつけた。「これは未鈴ちゃんの分だ!」
男が叫び、更にもう一回切りつけた。
刃傷がこめかみから耳元まで伸びた。「これは、お前が未鈴ちゃんを傷つけて、更に彼女を陥れた罪だ!」
男の狂気に満ちた顔に、明世は声も出ない。
門の外で張り込んでいたパパラッチが室内の惨状を見て、慌てて通報したようだった。
警察と医師が到着した時、明世の顔は鮮血と涙で汚れ、その瞳は硝子玉のように虚ろだった。まるで、涙さえ枯れ果ててしまったかのように。
彼女の手にはスマホが握りしめられ、画面には最新のニュースが表示されていた。
【紺野夫人が嫉妬に狂い、入江未鈴を陥れ、実の子供を利用して同情を引く!夫・涼介氏コメント「まさか息子にまで手をかけるとは」】
動画の中で、未鈴は涼介に寄りかかり、儚げに涙を流している。
涼介は彼女を抱き寄せ、カメラに向かって正義を語っていた。「明世は何度も息子を利用して俺を独占しようとして、未鈴を中傷し、今日は子供の命まで危険に晒した!」
彼は振り返り、未鈴を熱っぽい目で見つめる。「未鈴は、俺の命を救ってくれただけでなく、子供が病気の時も、保護者会も、いつも献身的に付き添ってくれた。彼女こそが……」
コメント欄には呪詛が溢れかえっている。
【クソ女は死ね!】
【どうしてこんな奴が母親になれるんだ!】
【脚の切断も自業自得だ!】
明世は呆然とし、警察官が近づいてきたことにすら気づかなかった。
医師が傷を処置する。「傷が深すぎます。顔に一生消えない傷跡が残るでしょう」
傍らの看護師が小声で毒づく。「こんな悪女、顔がズタズタになって当然よ」
明世はふらつく手でスマホを掲げ、画面越しに左頬を貫く凄惨な傷跡を見た。
彼女は自嘲的に口元を歪めた。そうね、醜い顔だわ。
「紺野さん、犯人を告訴しますか?」警察官が尋ねる。
「私は……」
その時、涼介からの着信が彼女の声を遮った。
「お手伝いから聞いた。あいつらは未鈴の熱心なファンで、まだ若い。好きな人のために少し熱くなりすぎただけだ」涼介は淡々と言葉を続ける。「若気の至りと思って、告訴しないでやってくれ」
自分の夫なのに。未鈴に関わることなら、妻には無条件の犠牲を強い、怪我の具合さえ尋ねてこない。
「もし、和解しなかったら?」
「試してみればいい。お前の両親が遺したトウシューズの残骸、灰になるぞ」
涼介の声には脅しの色が滲んでいた。彼は明世の返事を待たずに電話を切った。
明世はスマホを下ろし、虚ろな目で警察官を見た。
「……告訴しません」
警察官は事情を察し、彼女の深すぎる孤独に同情して、重い溜息をついて去っていった。
皆が去り、広いリビングに残されたのは明世ただ一人。
彼女は長年暮らした家を見回し、深く息を吐いた。
この結婚は自分に何をもたらしたのか?
切断された左脚、切り刻まれた左顔。
どうしてもっと早く、ここから去らなかったのか。彼女は激しく後悔していた。
航空会社のアプリを開き、最も早い北雲市行きのチケットを予約する。そして涼介に短いメッセージを送った。
【海斗のプレゼント、開けていいわよ】
朝四時。彼女は修復した遺影と、焦げたトウシューズだけを持ち、迷うことなく家を出た。
明世が去って三十分後、未鈴と涼介が海斗を連れて帰宅した。
涼介の心臓はまだ激しく脈打っていた。
「間に合ってよかった。一歩間違えば、あのアレルギー反応は命取りになるところだった」
彼はベッドで眠る海斗を見て、再び怒りがこみ上げ、スマホを取り出して明世を怒鳴りつけようとした。
その時、一通のメッセージが目に留まる。
そうだ、プレゼントだ。明世のやつ、一体何を企んでいるのか見てやる。
包装を破り、書類のタイトルを見た瞬間、彼は石のように固まった。
【離婚協議書】
どうして離婚協議書なんだ?おまけに、離婚届……彼女はあれほど自分を愛していたのに。
涼介は首を振り、その不吉な考えを振り払った。
「きっと駆け引きだ!」自分に言い聞かせるように涼介は呟く。「そうさ、ただの脅しだ。俺と海斗から離れられるはずがない」
口ではそう強がっても、心の奥底で不安の種が膨らんでいくのを止められない。
未鈴が海斗を寝かしつけ、涼介を探しに来た。手元の離婚協議書を盗み見て、心の中で高笑いしたが、努めて悲痛な顔を作る。
「明世さんがどうして離婚するなんて……海斗くんがあんな大変なことになったのに、まだ騒ぎ立てるつもりなのね!」
彼女は涼介の背中から抱きついた。「でも、私はずっとそばにいるから、涼介……」
涼介も未鈴を抱きしめ返した。彼は自分に言い聞かせた——本当に愛しているのは未鈴だけだ。明世が去ろうが残ろうが、どうでもいいことだ。
二人はベッドに倒れ込んだ。パーティーのアルコールが回ったのか、室内に熱気が満ちる。
彼らは唇を重ね、貪るように求め合った。
しかし、朦朧とする意識の中、涼介は無意識に呟いた。「明世……」
声は小さく、本人さえも名前を間違えたことに気づかないほどだった。
その時、明世はすでに雲の上にいた。
窓から差し込む朝の光が、包帯の巻かれた顔を優しく照らす。心は、かつてないほど軽かった。
臨海市での記憶の全て、もういらない。
今日から、自分の人生を生きる。
紺野涼介、紺野海斗、さようなら。これからはもう、二度と会うことはないでしょう。