第七大陸に渡り鳥はいない

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第七大陸に渡り鳥はいない

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十五歳まで、私は路傍の雑草のように生きていた。 白石朔也(しらいし さくや)と夏川奈々(なつかわ なな)に出会うまでは。 私が初めて食べ...

Chương (1)

第1章

十五歳まで、私は路傍の雑草のように生きていた。 白石朔也(しらいし さくや)と夏川奈々(なつかわ なな)に出会うまでは。 私が初めて食べた生姜焼きは、奈々が作ってくれたものだった。 初めて着たワンピースは、奈々が買ってくれたものだった。 彼女は繰り返し私に言ってくれた。私が一番の親友なのだと。 そして、白石朔也。 彼は、下卑た笑い声をあげる不良グループから私を救い出してくれた。 四十度の高熱を出した私を、必死の形相で病院へ運んでくれた。 酔った義父がまた私に手を上げようとした時、その頭を拳で殴り飛ばしてくれた。 後に彼は私に告白した。その瞳は愛おしさで満ちていた。 私の灰色の人生は、彼らのおかげでようやく鮮やかな色を取り戻したのだ。 二十三歳の誕生日、あの日までは。 私は聞いてしまった。朔也が奈々に向かって感情的に叫ぶ声を。 「この気持ちはどうしようもないんだ!俺がお前を好きになってしまった、それがどうした!お前だって同じ気持ちだろう?」 美しい奈々は、苦渋に満ちて赤くなった男の目を見て、ついに泣きながら彼の胸に飛び込んだ。 「でも……詩織はどうするの?」 私は物陰に隠れ、苦い笑みを浮かべた。 どうするもこうするもない。 二人とも、私が最も愛する人たちだ。 あなたたちを困らせるなんて、私にはできない。 指導教官に電話をかけ、私は静かに言った。 「あの、二十年間の南極科学探査プロジェクトですが、申請してもよろしいでしょうか?」 第1話 十五歳まで、私は路傍の雑草のように生きていた。 じめじめとした暗闇の中で、ただその日をやり過ごすだけの日々。 白石朔也(しらいし さくや)と夏川奈々(なつかわ なな)に出会うまでは。 私が初めて食べた生姜焼きは、奈々が作ってくれたものだった。 初めて着たワンピースは、奈々が買ってくれたものだった。 手のあかぎれを見て、彼女は心を痛めながら薬を塗ってくれた。 そして、私が一番の親友なのだと、周囲に何度も公言してくれた。 彼女は繰り返し私に言ってくれた。私が一番の親友なのだと。 一方、白石朔也。 彼は、下卑た笑い声をあげる不良グループから私を救い出してくれた。 四十度の高熱を出した私を、必死の形相で病院へ運んでくれた。 酔った義父がまた私に手を上げようとした時、その頭を拳で殴り飛ばしてくれた。 彼に告白された日のことだ。 震える手と早鐘のような鼓動に、私は思わず涙が溢れた。 「誓うよ。俺が一生、お前を守り抜くから」 私の灰色の人生は、彼らのおかげでようやく鮮やかな色を取り戻したのだ。 二十三歳の誕生日、あの日までは。 私は聞いてしまった。朔也が奈々に向かって感情的に叫ぶ声を。 「この気持ちはどうしようもないんだ!俺がお前を好きになってしまった、それがどうした!お前だって同じ気持ちだろう?」 美しい奈々は、苦渋に満ちて赤くなった男の目を見て、ついに泣きながら彼の胸に飛び込んだ。 「でも……詩織はどうするの?」 私は物陰に隠れ、苦い笑みを浮かべた。 どうするもこうするもない。 二人とも、私が最も愛する人たちだ。 あなたたちを困らせるなんて、私にはできない。 指導教官に電話をかけ、私は静かに言った。 「あの、二十年間の南極科学探査プロジェクトですが、申請してもよろしいでしょうか?」 …… 雨が激しく降り注いでいた。 でも、私は微動だにしなかった。 ただ無表情で、ガラスの壁の向こうにいる二人を見つめていた。かつて絶望の廃墟から私を救い出してくれた二人が、今は固く抱き合っている。 美男美女。溢れ出る愛。天に恵まれるカップル。 あまりにも美しい光景に、割って入ることなど到底できない。 傘を持っていなかったけれど、私、瀬戸詩織(せとう しおり)は街角に十五分間立ち尽くした。 約束の七時きっかりになるまで。 私は濡れた髪を拭きながら、軽い足取りで個室に入っていった。 「もう参ったよ、途中で車が故障しちゃって。新しいタクシーも全然捕まらないし、ここまで雨の中走ってきたんだから!凍え死ぬかと思った!」 奈々は躊躇なく自分の高価なジャケットで私の髪を包み込み、怒ったように言った。 「バカね、迎えに行くから電話してって言ったじゃない!風邪ひいたらどうするのよ!」 いつもなら一番に気づかい、私の指先にささくれができただけで涙ぐんで心配してくれた朔也が、数秒ためらってからようやく近づいてきた。 彼は十七歳のあの時のように、義父に家を追い出されずぶ濡れになった私を抱きしめたりはしなかった。 数メートルほど離れた場所で立ち止まり、申し訳なさそうに言った。 「ごめん、詩織。お前の誕生日なのに学校まで迎えに行けなくて……俺の配慮が足りなかったせいで、こんなに濡れさせてしまった」 私は寒さで震えながらも、へらへらと笑ってみせた。 「何言ってるの?全然平気だよ、大げさだなあ!」 私の能天気な様子が彼の罪悪感を刺激したのかもしれない。 彼はついに一歩踏み出し、私の氷のように冷たい手を包み込むと、口元に寄せてハァと温かい息を吹きかけた。 私の髪を拭いていた奈々の手が止まる。 その瞳に一瞬、暗い色が走った。 朔也も彼女の動揺に気づき、慌てて手を離して私から距離を取った。 そして入り口のウェイターに声をかけた。 「ミルクティーを一つ」 また私の方を向いて、取り繕うように笑った。 「温かいものを飲んで、寒気を払おう」 私は何も知らないふりをして、大雑把に席についた。 背中に感じる男の灼熱のような視線が、私には注がれていないことを知りながら。 すぐにミルクティーが運ばれてきた。 奈々が丁寧に息を吹きかけて冷まし、私に渡してくれた。 普段なら甘すぎて嫌がるものだが、今は耐え難いほど苦く感じた。 それでも私は一滴残らず飲み干した。 器を置き、お腹をさする。 「お腹空いた。料理頼んでいい?」 例年の誕生日は、いつも賑やかだった。 二人は私の鼻の頭に最初にクリームをつける権利を争い、「これで運が来るぞ」と言い合ったり、私とのツーショット写真を撮ろうと取り合ったりした。 どちらのカメラを見ればいいのか分からなくなるほどだった。 でも最終的に残る写真は、いつも三人一緒だった。 朔也は私を強く抱きしめ、世にも稀な宝石を見るような慈愛に満ちた目で私を見ていた。 そして奈々は親しげに私の肩に頭をもたせかけ、目を細めて大笑いしていた。 でも今年は、何もかもが違っていた。 ケーキは相変わらず繊細で美しく、二人も変わらず私のそばに座っている。 けれど空気は、まるで重たい蝋の膜が張ったように凝固していた。 ねっとりと、息苦しい。 奈々は静かに料理を食べ、朔也はずっと心ここにあらずだった。 私は深呼吸をして、努めて明るく振る舞った。 「二人とも何企んでるの?誕生日おめでとうの一言もないし!まさか私が油断してる隙に、ケーキを顔面にぶつける気じゃないでしょうね?」 奈々は無理やり笑顔を作った。 「何言ってるのよ!図書館に一日中いたあなたが空腹だろうと思って、先に何かお腹に入れさせようとしただけじゃない! さあ、本題に入りましょう!」 第2話 ケーキの箱を開け、蝋燭に火を灯す。 三人のグラスがカチンと音を立てて触れ合った。 私の唯一にして最高の親友と、私が深く愛する男が声を揃えて祝ってくれる。 「詩織、誕生日おめでとう!」 「早く願い事を!」 「詩織、これからの誕生日もずっと俺が一緒に祝うよ!誓う!」 「はいはい、お呼びじゃないって。詩織は私と一緒に祝いたいの!あなたがいようがいまいが関係ないから!」 「お前こそ無理言わないでくれよ。俺は詩織の彼氏なんだから、これからの誕生日は俺が祝うのが当然だろ!」 「私と詩織はズッ友なんだから!洪水だって引き裂けない仲なの!詩織だって私に祝ってほしいに決まってるわ……」 目を開け、蝋燭を吹き消した。 煙がゆらゆらと立ち上る。 その向こうにある二人の晴れやかな笑顔が霞んでいく。 ああ、違う。あれは十八歳の誕生日の記憶だ。 今回。 私のそばにいる二人は笑いもせず、騒ぎもせず、ただ乾杯の後に「おめでとう」と言っただけだった。 奈々はどこか放心状態で、グラスを置いた拍子に手首をテーブルの角にぶつけてしまった。 彼女は思わず「っ」と声を漏らし、眉をひそめた。 朔也が慌てて立ち上がる。 「大丈夫か?」 言い終わるや否や、まずいと思ったのか言葉を切った。 二つの不安げな視線が同時に私に向けられる。 私はただ、目の前の美しいケーキをじっと見つめていた。 例年通り、このバースデーケーキは奈々の手作りだ。 今回も同じ。 ケーキのてっぺんには、フォンダンとチョコレートで作られた二人の女の子の人形が乗っている。 彼女たちの手はしっかりと繋がれている。 十五歳のあの日と同じように。生理が来たのにナプキンを買うお金がなかった私を、クラスの女子たちが血の滲んだズボンを指差して大声で嘲笑ったあの日。 転校してきたばかりの奈々は、有無を言わさず自分の制服の上着を脱いで私の腰に巻きつけた。 そして私の手を引き、悪意のある視線を一つ一つ睨み返してくれた。 あの日から、彼女は温かい春風のように、私の貧しく暗い生活に強引に入り込んできたのだ。 さっき心の中で三回繰り返した願い事を思い出し、私は苦笑のような表情を浮かべた。 「あーあ、また一つ歳取っちゃった。光陰矢の如しってやつね!さあ、ケーキ切ろう!」 私の愛する人たちが、願いを叶え、永遠に幸せでありますように。 私については。 大丈夫。本当に、大丈夫だから。 誕生日から七日後。 南極氷河プロジェクトの採用通知が届いた。 環境学を専攻していたし、科学探査隊の仕事で大自然の秘密を探ることには憧れていた。 けれど、まさか二十年にも及ぶ長期プロジェクトに参加することになるとは思ってもみなかった。 でも今回、私は躊躇なく署名した。 ファイルを送信する直前。 ふと指が止まった。 慌てて指導教官とのチャット画面を閉じる。 無意識にデスクトップを乱暴にクリックしてしまい、あるソフトを開いてしまった。 ハートの背景に、銀色の光の束が点在する画面。 一瞬呆然として、すぐに思い出した。 これはコンピューターサイエンスを専攻していた朔也が数年前に作ったソフト、「ナイト・ログ」だ。 恋人同士の「おやすみ」の言葉。 メモ帳のようなものだが、閲覧権限は私にしかない。 彼が毎晩寝る前に綴った独り言が記録されている。 彼が言っていた。私たちが歳をとったら、このソフトを開いてみようと。 すべての内容を繋げれば、彼の長い愛の詩になるのだと。 【俺の願い。俺と詩織が二人とも受験に成功して、同じ大学に入れますように!】 【へへ、今夜は興奮して眠れないよ。だってお前が初めて『愛してる』って言ってくれたから。照れてるお前は本当に魅力的だった。誓うよ、一生お前を愛する!】 【すごく会いたいけど、お前はもう寝ちゃったから電話はやめておくよ。おやすみ、愛しい人。夢の中でもお前といられますように】 【今日、昔よく行ってたラーメン屋の前を通ったら潰れてた!でも大丈夫、お前が大好きだった鶏白湯ラーメンの作り方はマスターしたから。味は完全に再現してみせるよ!】 【詩織、お前が合宿に行ってる五日間、俺は一日千秋の思いだよ……】 第3話 往年の甘い思い出が次々と目の前に浮かび上がる。 私の口角は自然と上がっていた。 しかし、次のページへスクロールした瞬間、その笑みは凍りついた。 【以前は、奈々のことをただの詩織の親友だと思っていた。詩織との時間を奪う彼女を疎ましく思うことさえあった。でも今回、ステージ上の彼女を見て、あまりにも輝いていて……心の中に奇妙な感情が芽生えた。神様、俺はどうしてしまったんだろう?】 更新日は……なんと五ヶ月前だ。 このソフト、二年前にバグで動かなくなったんじゃなかったの? 私は急いで下へスクロールした。 【今日三人で食事をした時、奈々が俺の正面に座っていた。俺はどうしても彼女を盗み見てしまった。彼女が笑うと薄いエクボができるなんて、どうして今まで気づかなかったんだろう?】 【奈々のお祖母さんが亡くなって、詩織と一緒に彼女を慰めに行った。あんなに悲しそうに泣く彼女を見て、俺は……抱きしめてあげたいと思ってしまった】 【彼女を想う気持ちが止められない。俺は本当にクズだ】 【今日、うっかり奈々の手に触れてしまった時、彼女は一瞬で顔を赤らめて、しばらく顔を上げられなかった。もしかして、彼女の気持ちもとっくに変わっていたのか?罪悪感はあるけど、本当に嬉しかった】 【俺が鈍感すぎたんだ。普段は俺の粗探しばかりして、『詩織を悲しませたら切り刻んでパン粉にするから』なんて警告してくる彼女が、この一年あんなふうに騒がなくなったし、時々俺を避けていた。そういうことだったのか】 【詩織を送っていくと言ったら、彼女はずっと自分で帰れると断った。俺と二人きりになるのを避けているのは分かっていたけど、追いかけた……最近痩せたみたいで、背中がとても華奢だった……彼女はずっと下を向いて黙っていたけど、呼吸が早くて乱れていた。俺も……同じだった】 【今日、詩織が珍しく恥ずかしがらずに、大勢の前で俺にキスをした。でも俺は少しも嬉しくなかった。奈々の目が、明らかに悲しそうだったから。だめだ、どうあっても、彼女に俺の気持ちを伝えなければ!】 胸の奥から強烈な酸味が込み上げてきた。 そうか。あのダンスコンテストで彼がステージを見つめて呆然としていたのも。 夕食時の上の空も、葬儀での焦燥と心痛に満ちた眼差しも、デート中の言いたげな沈黙も…… すべての答え合わせができた。 朔也が心を動かされたのはあのダンスコンテスト。 奈々に関しては、明らかにそれより早かった……私だけが鈍感だったのだ。 マウスをさらにスクロールする。 最後の更新は、一時間前だった。 【奈々と互いの気持ちを確認し合い、彼女も俺を愛していることが分かった以上、詩織の誕生日が過ぎたら、決着をつけなければならない!正直に話せば詩織を深く傷つけることは分かっているが、どうしようもない……】 最後の一文字を見た瞬間。 タイミングを見計らったようにスマホが震え出した。 震える指を握りしめる。 冷や汗が背中を伝う。 ようやく分かった。 なぜ七日前、食事が終わるのも待たずに「学校で用事がある」と嘘をついて逃げ出したのか。 最近ずっと彼らを避けていたのか。 怖かったのだ。 朔也が別れ話を切り出してくるのが怖かった。 十七歳の時、満天の花火の下で私に愛を告白した彼の、あの愛に満ちた表情を知っている。 そんな彼から、単刀直入に「奈々を愛してしまった。別れてくれ」と言われることに、どう向き合えばいいというのか。 でも今。 彼の電話は来てしまった。 ほとんど逃避するように。 私はファイルを即座に指導教官へ送信した。 言わないで。お願いだから、言わないで。 私は絶対に、絶対にあなたたちの邪魔にはならないから。 このまま静かに私が消えれば、あなたたちは何の問題もなく一緒になれるでしょう?だから。 スマホはまだしつこく鳴り続けている。 私は寝返りを打ち、布団の中に顔を埋めた。 着信音が遠のいていく。 心の刺すような痛みだけが、鮮明に尖っていく。 ずっと堪えていた涙が、ついに決壊した。 第4話 丸五日間、私は朔也の電話に出なかった。 私の資料はすべて登録が完了した。 指導教官も多くの準備を手伝ってくれた。 明後日には私の計画通り、誰にも告げずに静かに旅立てる。 しかし明らかに、私は朔也の「すべてを説明したい」という固い決意を見くびっていた。 彼は遅すぎた真実の愛を追い求めるために、一刻も早く決着をつけたかったのだろう。 午後、大学院の寮を出たところで、彼を見つけた。 私は思わず弱々しく笑ってしまった。 入り口で静かに待つ、長身で端正なその姿は昔と変わらない。 でも以前彼が学校に来るのは、デートのためだったり、彼のお母さんの手料理を届けるためだったり、「会いたかった」と一言伝えるためだけに飛んでくる時だった。 けれど今日は…… 逃げられないと悟り、気力を振り絞って挨拶をした。 「やあ、どうしてここに?」 彼が顔を上げる。その美しい瞳に一瞬、心配の色が走った。 「なんでそんな薄着なんだ?秋になって冷え込んできたのに、風邪ひくぞ」 そう言いながら、白く長い指で私の薄い襟元を詰めてくれた。 もう片方の手は、無意識に私を抱き寄せようとする。 その瞬間。 私は彼がまだ一途に私を愛してくれているのだと、私と一緒になるために一年間も家族と冷戦を続けたあの少年のままだと錯覚しそうになった。 だが次の瞬間、私は悟った。 付き合って六年。 これらの気遣いや優しさは、ただの習慣になってしまったのだと。 私が一歩下がろうとした時。 彼は私より早く反応し、伸ばしかけた手をきまり悪そうに引っ込めた。 心臓がえぐられるように痛んだ。 彼は一呼吸置き、しわがれた声で言った。 「ここ数日、どうして電話に出なかったんだ?」 私は努めて明るく笑った。 「スマホが壊れちゃって。論文で忙しくて修理に出す暇もなくて」 彼の視線が数秒私の顔に留まり、やがて逸らされた。 「……ああ、そうか」 そして長い沈黙。 カーテンの隙間から吹き込む風が骨身に染みる。 彼が口を開かないので、私も意地を張って黙っていた。 冷たい風に当たるとすぐにアレルギーが出る私の顔に、痛々しい赤みが広がり始めた頃。 彼はようやく低い声で言った。 「詩織、どうしても話さなきゃいけないことがあって……」 彼のスマホが突然鳴り響いた。 眉間がピクリと動く。 着信音が……私がアカペラで歌った『小さな幸せ』から、『孤島のクジラ』に変わっていた。 奈々が一番好きな曲だ。 私は惨めな笑みを浮かべずにはいられなかった。 彼は実は変わっていない。 愛する人に対しては、細部に至るまで配慮が行き届く人なのだ。 「もしもし?」 「朔也か?今どこだ?詩織に電話が繋がらないんだよ。奈々が交通事故に遭ったんだ。あの子、また意地張って家族にも言わないし、詩織にも心配かけたくないって、一人で病院にいるんだよ……」 電話の主は山下(やました)、奈々の幼馴染だ。 彼の顔色が一変する。 「酷いのか?どこの病院だ?」 山下が「大怪我ってわけじゃないが、足を骨折してベッドから降りられない」と言うのを聞いても、彼の眉間の皺は緩むどころか、さらに深くなった。 「分かった」 電話を切ると、彼は少し躊躇ったが、私に嘘をついた。 「詩織、俺……親戚が急病で、緊急だから行かないと。お前は……」 私は電話の音漏れが聞こえなかったふりをして、急いで頷いた。 彼はそこでようやく私の顔の赤みに気づいた。 少し考え、ポケットから常備している薬膏を取り出した。私のためにいつも持ち歩いているものだ。 「いい子だ、早く帰って薬を塗るんだぞ」 そして足早に去っていった。 掌に残る彼の体温がついた薬膏を見つめる。 胸の中を無数の蟻が食い荒らしているようだ。 これからは……彼がこれを持ち歩く必要はもうない。 もう二度と。 第5話 奈々の体が心配だったからなのか。 それとも、別の女性のために焦り、心配する朔也の姿を最後にもう一度見ておきたかったからなのか。 なぜ病院までついて行ったのか、自分でもよく分からない。 廊下に漂う消毒液の匂いが鼻をつく。 奈々の病室はすぐに見つかった。 あいにくドアは半開きになっていて、中の様子がはっきりと見えた。 奈々はベッドに横たわり、顔色は蒼白で、右足にはギプスが巻かれている。 病弱な疲労感を纏っているが、それでも彼女は美しかった。 朔也は彼女の前に立ち、焦燥しきった声で言った。 「どうして教えてくれなかったんだ?」 「教えてどうするの?あなたは私の親友の彼氏でしょ、あなたに……」 「奈々!」 朔也が低い声で叫んだ。 「まだそんなことを言うのか?あの日、俺たちは互いに……気持ちを確かめ合っただろう?分かってるくせに……」 「もういいわ」 奈々は目を閉じた。 「あの日のは一時的な衝動よ。気にしないで……忘れて。今はもう冷静になったわ。詩織は私にとって一番大切な友達なの。彼女を傷つけるなんて絶対にできないし、あなたにもさせない。だから、すべてを元の軌道に戻さなきゃ。気持ちを整理して、詩織のところに戻って。私たちの間には何もなかったことにして」 語尾の震えが、彼女の本心を裏切っていた。 その声は男の涙を一瞬で決壊させた。 「奈々、嫌だ……頼むからそんなこと言わないでくれ……」 奈々は顔を背け、彼の視線を避けた。 「もう決めたの。帰って」 彼の背中が激しく震えた。 そして何かを決意したように、長く息を吐いた。 「分かった。お前は事故に遭ったばかりで体調も悪い。この話は一旦置いておこう。 でも、お前の世話は俺がする。お前が良くなるのを見届けるまでは、安心できない」 そう言うと彼はお粥をスプーンですくい、丁寧に息を吹きかけて冷まし、奈々の口元へ運んだ。 奈々が無視すると、彼は方向を変えて差し出す。 何度か繰り返すうちに、奈々は突然感情を爆発させ、腕を払ってお椀とスプーンを床に落とした。 「白石朔也、頭おかしいんじゃないの?まとわりつかないでって言ったでしょ!帰ってよ!」 彼の手は空中で止まったが、声は優しく、しかし拒絶を許さない響きがあった。 「食べなくてもいい。でも言っておくけど、お前が雇ったヘルパーはさっき俺が解雇した。また雇っても、俺がここに張り付いて、来るたびに追い返してやる。 点滴をしてて不便なのに、ヘルパーもいなくて、俺にも食べさせてもらえないなら、お前は飢え死にするしかないな」 そう言うと、彼は手の甲で奈々の額の熱を確かめ、布団を掛け直した。 そして平然と座り直すと、リンゴを手に取り、丁寧に皮を剥き始めた。 私はドアの外の影に立っていた。 静止した彫像のように。 朔也にこんな一面があったなんて。 これほど穏やかで、頑固な想い。 彼は本当に、彼女を愛しているんだ…… 奈々の目が潤み、声もいくぶん柔らかくなった。 「朔也、こんなことしなくていいのに……」 「分かってる」 朔也は剥いたリンゴを小さく切って皿に乗せた。 顔を上げ、彼女を深く見つめる。 「必要ないのは分かってる。でも、俺がしたいんだ」 視線が絡み合った瞬間。 病室が、夕焼けに包まれた花畑に変わったように見えた。 あたり一面の優しさ。 今、ようやく確信した。 私に向かってラブソングを歌い続け、声を枯らしたあの少年は。 私の不安を知って「ずっと愛してる、何度でも確かめていいよ」と言ってくれたあの少年は。 完全に消えてしまったのだ。 これ以上見ていられなかった。 私は背を向け、静かに立ち去った。 愛は流動的で、人の思い通りにはならない。 分かってる。 二日後、私は一人で空港へ向かった。 もう涙は一滴も流さなかった。 半分開いた窓から夜風が入ってくる。 過去の全てが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。 一歳で母が亡くなり、既に母の遺産を手にし、近所の体面のために仕方なく父の名を継いだ義父が叔母を呼んで私を世話させた。 三歳で叔母が突然姿を消し、音信不通に。 それ以来、まともな食事も摂れず、冬になっても厚手の服一枚なかった。 五歳で義父の酒を買うのが遅れて初めて殴られた。痛くて、声が枯れるまで泣いた。 雪の中で一晩中跪かされた。 八歳で地域の婦人会の助けでようやく学校へ行けた。 でも他の子供たちに仲間外れにされ、いじめられ、生ける屍のように生きてきた。 十歳で野犬に襲われ、全身血まみれになった。 誰も助けてくれず、最後の力を振り絞って家まで這って帰った。 十五歳で奈々に出会い、私の人生にようやく色が着いた。 彼女は初めて私を見た時、理由もなく良くしてあげたいと思ったと言ってくれた。 十六歳で朔也がチンピラの群れから私を救ってくれた。 私の手を引いて走る彼の姿は、お姫様を守る騎士のようだった。 十七歳で人生初のバラの花束と、真摯な告白を受け取った。 少年の顔は恥ずかしさで赤らんでいたけれど、その瞳は愛と決意に満ちていた…… 二十三歳。 私は南極へ行く。 物に残るのは美しい記憶だけ、詩を作る前に涙が溢れる。 詩―瀬戸詩織。 これが私の名前。 そして私の源。 でもあなたたちは私に、盛大な春をくれた。 今、私はあなたたちに、永遠に明るく、永遠に幸せでいてほしいと願うだけ。 だから、私は心から喜んで去る。 本当に良かった。最後にあなたたちのために何かができて。 さようなら、奈々。 さようなら、朔也。 もう二度と会うことはないでしょう。