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時の流れに抱かれて、彼女は消えた
「清水先生、私、決めました。I国のダンスカンパニーに入ります」 電話の向こうで清水貴志(しみず たかし)は、嬉しさを隠しきれずに声を弾ま...
Chương (1)
第1章
「清水先生、私、決めました。I国のダンスカンパニーに入ります」
電話の向こうで清水貴志(しみず たかし)は、嬉しさを隠しきれずに声を弾ませた。
「やっと決心がついたか?今度こそ約束だ、もう撤回はなしだから!前にも言っただろう、将来こそが一番大事なんだって。一週間かけて、しっかり友達とお別れしてきなさい」
時雨明里(しぐれ あかり)は「ええ」と気のない相槌を返した。
電話を切った瞬間、彼女は二十年以上暮らした家と、そして婚約者とも、完全に決別することになった。
第1話
「清水先生、私、決めました。I国のダンスカンパニーに入ります」
電話の向こうで清水貴志(しみず たかし)は、嬉しさを隠しきれずに声を弾ませた。
「やっと決心がついたか?今度こそ約束だ、もう撤回はなしだから!前にも言っただろう、将来こそが一番大事なんだって。一週間かけて、しっかり友達とお別れしてきなさい」
時雨明里(しぐれ あかり)は「ええ」と気のない相槌を返した。
電話を切った瞬間、彼女は二十年以上暮らした家と、そして婚約者とも、完全に決別することになった。
……
明里は無意識に手首の金のブレスレットをなぞった。
華やかな幅広の金細工の下には、ムカデのように醜く残る傷跡がある。
この道を選んだのは明里の意思ではない。婚約者も家族も、彼女を見捨てたのだ。
そのとき、楽屋の外から小さなノック音が聞こえた。
「お姉ちゃん、入ってもいい?」
声が終わるより早く、時雨陽葵(しぐれ ひまり)はすでにドアを開けていた。潤んだ大きな瞳は無邪気な子ウサギのようで、誰に対してもおずおずとした仕草を見せる。
しかし、その白い首筋に散る赤い痕だけが、やけに生々しく目に刺さった。
明里の視線に気づいたのか、陽葵は恥ずかしそうに襟元を押さえ、甘えた声で言う。
「もう、克成さんったら、すぐにちょっかい出すんだから」
明里はどうしても笑顔を作れなかった。
陽葵が言う「克成さん」は、かつて明里の婚約者──上杉克成(うえすぎ かつなり)だった。
だが今は、陽葵の婚約者だ。
陽葵が帰ってきたばかりの頃、克成は明里を屋上に呼び出して満天の星を見上げ、明里一人だけを永遠に愛すると誓った夜がある。
誰が戻ってこようとも、愛するのは明里だけだ、と。
だがその熱烈な愛は、一年三ヶ月しか続かなかった。
別の星空の夜、克成は乱れた服の陽葵を抱きしめ、時雨家のリビングルームで膝をついた。
そして、婚約者を陽葵に替えてほしいと懇願したのだ。
妹の無垢そうな顔の裏に、どれほどの卑劣さと策略が潜んでいるのか。
だが、明里はもうすぐここを離れる。
つい先ほど、清水に海外行きとフレミングダンス顧問の仕事を引き受けると返事をしたばかりだ。
国内での最後のさよなら公演を終えれば、あの仲睦まじい二人を煩わせることも、もうないだろう。
「お姉ちゃん、今回のメインダンサー、私に譲ってくれない?お願い」
陽葵は明里の腕を掴み、甘えるようにすがった。
この手が、これまで何年も明里からどれほどのものを奪ってきたことか。
明里はもう耐えられず、強く手を振り払った。
「出て行って!」
「お姉ちゃん……!」
陽葵は勢いで床に倒れ込み、華奢な手で白いふくらはぎを押さえた。その瞳にみるみる涙が滲み、震える下唇が切なげに噛みしめられる。
そこへドアを押して克成が入ってきた。彼は陽葵に駆け寄り、宝物のように抱き起こす。
整った眉をひそめ、優しい声で痛む場所を尋ねた。
陽葵はしおらしくに首を振る。
「大丈夫……お姉ちゃんはわざとじゃないの。私がちゃんと立てなかっただけ」
嗚咽の混じる声は、どう聞いても「大丈夫」ではなかった。
明里は無意識に眉を寄せる。押した覚えなどない。腕を引いただけだ。こんな拙い芝居、誰が信じるというのか。
だが、克成は信じた。
冷えた目が明里に向けられる。
「明里。お前は時雨家に甘やかされたお嬢様で、気が強くても、少なくとも裏表のない人間だと思っていたんだが」
その言葉が楽屋に落ちた瞬間、時雨家の三兄弟が次々に駆けつけた。
三人の兄は陽葵を囲んで口々に気遣い、明里へ向けられる視線は、非難と失望ばかりだった。
「陽葵ちゃんはお前の代わりに何年も苦労してきたんだぞ。どうして譲ってやれないんだ。今回のダンスはもういい、陽葵ちゃんに譲れ」
いつも最終決定を下す長男・時雨昴(しぐれ すばる)。
明里の、油で煎られるような苦痛に満ちた心は、その一言でわずかに残っていた情さえ完全に焼き尽くされてしまった。
これは明里にとっての、さよなら公演だ。ただ、心から愛するダンスに区切りをつけ、大切な人たちにきちんと別れを告げたかっただけなのに。
まして、一度海外へ出れば、もう戻る場所などないのだから。
第2話
「まだ怪我をしているんだから、今回は見送って。治ったら、好きなだけ踊ればいい」
次男の時雨湊(しぐれ みなと)が眉をひそめて言った。
三男の時雨旭(しぐれ あさひ)は、元来派手好きで奔放な気質の持ち主だった。
「明里、陽葵ちゃんとどうしても張り合うって言うなら、もう二度と踊らせないからな」
明里の胸中は穏やかではなかった。それでも一度だけ、自分のために声を上げたかった。
「この公演は、私にとってすごく大事なの。私……」
「うちの力は知ってるだろ。俺たちはお前の身内だ。俺たちが首を縦に振らなければ、誰もお前を踊らせようなんてしない」
言い終える前に、昴がもう一度冷ややかに警告した。
明里は乾いた笑いを漏らした。時雨家が最も強引な手を使うとき、それは他人に向けられるものだと思っていた。まさか自分に向けられる日が来るとは。
「陽葵ちゃん、行こう。レゴが好きだろ?ほら、俺が組み立ててやったぞ」
男たちに囲まれあやされると、陽葵はあっさり泣きやみ、笑顔を浮かべて克成にもたれかかった。
「旭兄ちゃん、だーい好き」
「よし、もう泣かないぞ」
四人の男たちは、まるで姫を守る騎士のように陽葵を囲み、そのまま立ち去っていった。
明里は茫然としていた。二十数年間の記憶が、まるで他人の夢のように遠のいていく。
その夢の中で、兄たちと克成に宝物のように大切にされていたのは、紛れもなく明里自身だった。
そのころ明里はまだ、時雨家のひとり娘として、三人の兄と幼なじみの許嫁である克成に、いつも囲まれてちやほやされていた。
毎朝の食卓には明里の前に四人分の朝食が並び、四人の男たちは彼女をじっと見つめ、明里が困ってため息をつくと、両親は「ほら、またやってる」と笑ったものだった。
皆が当然のように言った。我が家のお姫様なら、これくらいの寵愛は受けて当然だと。
六歳のとき、明里は舞台で踊るダンサーの姿に心を奪われた。両親は苦労をさせたくなかったが、兄たちと克成は自分たちで節約し、明里の学費を払って夢を叶えた。
旭に至っては、学校で自らを「一日彼氏」として貸し出し、明里が踊り続けるための費用を稼いだ。
克成も、同級生を総動員して明里のために初めての舞踏会を開き、「拍手したら宿題写させてやる」と宣言したほどだ。
両家の両親はそれを知って呆れながらも、微笑ましく見守っていた。
成人してからも、克成は酒に酔うたび、「明里は克成だけを愛する。この先、何度生まれ変わっても」と彼女に言わせるのが常だった。
明里は確かに心を動かされた。政略結婚の中で、自分ほど幸せな例はないはずだ、と心から思っていた。
――陽葵が現れるまでは。
陽葵がDNA鑑定書を手に時雨家の玄関に立っていたあの日。痩せ細った身体。洗いざらしの白っぽい服。あまりにも痛々しい姿で、誰の目にも「守ってやらなきゃ」と映った。
その日、明里の世界は音を立てて終わりを告げた。
彼女は初めて知った、自分は時雨家の実の娘ではないのだと。
誰もが言った。「何も変わらないよ。妹がひとり増えるだけだ」と。
だが現実は違った。三人の兄はもう明里を大切に扱わなくなり、陽葵が涙を浮かべて「私、一度もこんなことしてもらったことないの」と訴えるだけで、状況は一変した。
いつも冷静沈着だった長男・昴は、陽葵のために最高級ホテルをひとつ丸ごと貸し切った。
浮世離れしたクールな次男・湊は、珍しく慌てふためいた。
根っからのやんちゃ者で、片時もじっとしていられない三男・旭は、陽葵のために巨大なレゴを一式組み立てた。
そしてかつて明里を失うことを恐れ、何度も「明里は克成が一番好きだ」と言わせた婚約者の克成でさえ、陽葵を抱きしめ、時雨家のリビングで跪き、婚約書の名前を陽葵に書き換えてほしいと懇願したのだ。
明里は、人生のすべてを奪われた。
そして今、彼女の国内での最後の「さようなら公演」さえ、奪われようとしている。
明里は苦笑しながら、腕に嵌めた金のブレスレットをそっと回した。もっと早く気づくべきだったのだ。
三ヶ月前、時雨家が拉致犯から陽葵を救い出し、明里を見捨てたあの瞬間から。
もう克成を愛してはいけなかったのだと。
そして、時雨家の兄たちに期待してはいけなかったのだと。
疲れ果て、心はすっかり冷え切っていた。
一週間後、明里は部外者として時雨家を永遠に去るだろう。彼ら家族が仲睦まじく暮らす、その世界を邪魔することは、もう二度とない。
第3話
明里はドアを静かに閉め、外界とのつながりを断った。
楽屋に戻ると、自分の持ち物を淡々と整理し始める。
ダンスカンパニーに入って十年。仕分けを終えた荷物は、いつの間にか部屋いっぱいに積み上がっていた。
精巧な置物や、今ではもう手に入らないぬいぐるみたちを前に、明里はしばし立ち尽くした。
幼い頃から、彼女はこうしたふわふわしたものが好きだった。新作が出るたび、兄たちと克成がどんな手を使ってでも買ってきてくれた。
そして頭を優しく撫でながら言うのだ――「明里ちゃんのためなら、何でも買ってあげるよ」と。
だが、その後に陽葵が現れた。
明里の部屋には、それ以来一つとして新しいぬいぐるみが増えることはなく、まるで彼女自身が「古い物」に分類されたかのようだった。
いま明里は、ここを去る。ならば、これらの過去の品々に執着する意味はもうない。
彼女はリサイクル業者に電話をかけ、すべて引き取って廃棄するよう依頼した。
業者を待つあいだ、劇団での引き継ぎを淡々と済ませる。幹部たちは、申し合わせたように彼女のさようなら公演には一切触れなかった。
明里も何も言わなかった。ここで時雨家の力に抗えるはずがない、とわかっていたからだ。
もう兄たちのために心をすり減らすつもりもなかった。自分のさようなら公演は、時雨家と陽葵への返礼――そう割り切ることにした。
劇団を出た瞬間、克成の車が静かに横付けされた。
「明里様。克成様が、ハイアットホテルへお越しくださるようにと」
「行かない」明里は踵を返す。
「明里様、私たちを困らせないでください」
四人のボディーガードが無言で道を塞いだ。
彼らは、かつて明里を守るために克成が付けていた人間たちだ。今は同じ腕を、彼女を強引に連れて行くために使っている。
明里は俯き、広い車内へと身を押し込んだ。
「お前を絶対に無理強いはしない」。あの日の克成の言葉が、今でも耳に残っている。
けれど、彼女はもう克成の妻ではない。特別扱いされる資格も、守られる理由も、とうに失われていた。
それでいい。ここを離れれば、心は静かで、何にも縛られずに済む。
車はハイアットホテルへ滑り込み、停車した。
祝賀の文字が刻まれた垂れ幕が、まるで嘲笑うように目に刺さる。
【時雨陽葵、主役抜擢、おめでとうございます】
個室の扉は開かれており、四人の男たちが陽葵を中心に囲んでいた。
陽葵はかつて明里が立っていたその場所に立ち、甘く微笑んでいる。
明里は低く、かすかに笑った。抜擢か……よく言ったものね。
「お姉ちゃん!」
真っ先に気づいたのは、やはり陽葵だった。
部屋の中から明里へ駆け寄り、そのポニーテールが光を受けてきらりと揺れた。
「来ないかと思ったの。打ち上げなんてしなくていいって言ってたのに……お兄ちゃんたちも克成も、陽葵ちゃんが我慢してるんじゃないかって、どうしてもって。お姉ちゃん、責めるなら私を責めて」
陽葵は唇を尖らせ、怯えたような瞳で明里を見上げた。
明里は何もしていないのに、まるで陽葵をいじめたかのような構図だ。
克成も部屋から姿を現し、陽葵を庇うように抱き寄せた。
「陽葵ちゃんは、今まで一度も打ち上げパーティーなんて開いてもらったことがないって言うから……ただ、その願いを叶えてやりたかっただけだ。責めないでくれ」
四人の男たちが向けてくる視線は、もはや敵意そのものだった。
陽葵は、本当に人の同情を引き出すのが上手い。
以前の明里なら、きっと怒鳴っていた。
栄誉を奪われたうえ、目の前でそれを誇られるなど、到底耐えられなかっただろう。
兄たちと克成の寵愛が妹へ移るなんて、受け入れがたいことだった。
変わらないと言っていたのは兄たちだったのに、どうしてこんなにも変わってしまったのだろう。
しかし今の明里は、ただよそよそしく微笑んだ。
「陽葵、克成……おめでとう」
そう言い、彼女は包囲を大股で抜けた。
陽葵が注目されたいのなら、好きにすればいい。
これから先、明里と時雨家は、ただの債務者と債権者の関係。養育の恩を返し終えれば、お互い赤の他人になるだけだ。
第4話
明里が突然物静かになったことに、男たちは一様に戸惑いを覚えた。
呼び止めようとして口を開きかけて、彼らはふと気づく。いつの間にか「明里」という二文字を口にすることさえ、ためらうようになっていたのだと。
「克成さん、私たちも中に入りましょう」
陽葵に腕を引かれ、克成はようやく我に返った。胸の奥から込み上げてくる名のつけようのない感情を無理に押し込み、伏し目がちに小声で「ああ」と返す。その仕草は、恋人たちが耳元で囁き合うように、どこか親密だった。
「克成さん!お姉ちゃんの目の前でそんなこと……!」
陽葵はわざと甘えた声を響かせる。
明里はその意図を察したが、取り合う気にはなれなかった。
宴は、始まりから終わりまで、すべてが予兆めいて明里の予想通りの展開だった。
二十年以上ものあいだ、彼らはいつもこの形式で、明里のために祝い事を執り行ってきたのだから。
兄たちは、結局のところ、有言実行なのだ。かつて明里に注がれたものを、一つ残らず、今度は陽葵に与え直していく。
「陽葵、俺のプレゼントを見てみて」
湊が箱を開けると、中には透き通るような水色の舞踏会用ドレスが収められていた。
嵌め込まれた宝石はひとつひとつが希少で、まるで熟練の職人が精霊のクローゼットからそっと盗み出してきたかのような輝きを放っていた。
そのよく知ったドレスを見た瞬間、明里の指先は自分でも気づかぬうちに強く掌に食い込んだ。
これは二年前、彼女が金賞を獲得した際、湊が数ヶ月を費やして明里のためだけに仕立てた特別な一着だった。
授賞式の日、湊は誇らしげに皆へ告げた――「このドレスは、時雨家のお嬢様だけが袖を通せるものだ」と。
その言葉は一時SNSで話題を呼び、「シスコン」と揶揄されもした。
いま、陽葵がそのドレスを抱きしめ、つま先立ちして喜ぶ姿を見て、明里はそっと胸に手を当てた。
離れれば、忘れれば、もう痛みなど覚えないはずだった。
だが、心臓の内側に鋭く広がる痛みは、どうしても無視できない。
「お姉ちゃん、克成さんがね、このドレスにはお揃いのネックレスがあるって言ってたんだけど、貸してくれるかな?
私、小さい頃から家を離れてたけど、お姉ちゃんみたいに、最高のダンサーになりたいの」
陽葵は茶目っ気たっぷりに手を差し伸べ、その瞳には、ほのかな暗示が宿っていた。
あなたは私の人生を奪った人。
あなたが金賞を得られたのは、時雨家のおかげにすぎない。
そんな影が言葉に混ざっていた。
「陽葵ちゃんにあげろ」
克成が低く強い声音で告げ、冷たい視線には明確な圧がこもっていた。
再びその目に貫かれ、明里は胸の奥がひやりと冷たくなる。
そのネックレスは、克成が個人的に明里へ贈ったものだ。自らデザインし、二人の名が刻まれた、唯一無二の証。
明里が周囲を見渡しても、誰一人として彼女と目を合わせようとしなかった。
「……わかった」
去ると決めた以上、きれいさっぱり身を引きたい。
このネックレスはいずれ克成へ返すつもりでいたが、機会は訪れぬままだった。
彼が返上を求めるのならば、これ以上の好機はない。
明里はネックレスをテーブルに静かに置いた。
持ち主の元へ帰るべきものとして。
明里は、もう執着しない。
「気分が悪いから、先に帰るね」
明里は立ち上がった。ここは家族の祝いの場。部外者となった自分は、脇役として役目を終えたなら、空気を読んで去るべきだった。
だが、部屋を出る前に兄たちが明里を囲む。
「明里、どうしたんだ?気分が悪いのか?小さい頃から体が弱かったんだから、こんなに大きくなってもまだ自分を大事にできないのか?」
昴は自然な動作で彼女の額に触れた。
幼い頃、熱を出すたびに、昴は必ず真っ先にこうして明里の額に手を当てた。
「また具合が悪いのに病院に行ってないのか?俺が送っていくよ」
湊も同じように自然に、彼女の手首へ触れた。
明里の面倒を見るため、彼はわざわざ医学を学んだのだ。
克成も一歩前へ出た。表情こそ冷ややかだったが、その全身からは隠しきれない焦りが滲み出ていた。
「明里、体を傷つけて俺の気を引こうなんてするな。今すぐ病院に行くぞ!」
男たちの「心配」を前に、明里は思わず苦笑した。
私を見捨て、心をずたずたに裂いたのは、他でもないあなたたち自身だった。
なのに今さら、どうして気遣う顔を向けてくるのか。
明里は勢いよく手を振り払った。
「必要ない」と言い切るより早く、陽葵が大きな声を上げて泣き出し、克成の腕にすがりついた。
「きっと私のせいだわ。私が嬉しすぎて、お姉ちゃんのスポットライトを奪っちゃったから、お姉ちゃんが具合悪くなったのよ……!
もう宴会なんてしない!私なんかには相応しくないわ。お姉ちゃんを病院に連れて行きましょう!」
第5話
四人の男は、明里の傍からあっという間に離れていった。
克成の冷たい視線は、陽葵へ向けられた瞬間、優しさと愛情を湛えたものへと変わる。
「明里、体はたいしたことないんだろ。パーティーが終わるまで待てよ。俺たちが連れて行ってやる。たまには気晴らしする方が体にもいいんだから」
湊はそう言い放った。
彼らは陽葵と明里の間で、結局、迷いなく前者を選んだのだ。
「結構よ」
明里はきっぱりと背を向けた。彼女には、施しのような愛情など必要なかった。
ホテルを出た途端、携帯が何度も震えた。
兄たちが「病院に行け」と促すメッセージと、克成が予約した病院の診察券。
その一言一句に込められた気遣いを見ても、明里はただ苦笑するしかなかった。
今さら家族ごっこに、いったい何の意味があるというのか。
この体がこんなふうになったのは、むしろ彼らが原因ではないか。
三ヶ月前、明里と陽葵を拉致したのは、時雨家の宿敵だった。
決死の覚悟で挑んできた連中であり、二人に良い結末が待っていないことは誰もが分かっていた。
犯人たちは二つの住所を残し、救助を分散させるつもりだった。
だが、彼らは計算を誤った。
誰もが陽葵のもとへ向かい、明里のもとへ来た者は一人もいなかった。
犯人は、その怒りをすべて明里にぶつけた。
冷たい地面に引きずられ、皮膚を少しずつナイフで裂かれた。
明里は生きたまま拷問され、そして流産に追い込まれた。
希望が怨恨へ変わり、ついには一片の希望さえ抱けなくなるまで、たった二週間しかかからなかった。
しかし、その二週間は明里にとって、まるで一生にも等しい長さだった。
やがて警察に救出された明里は、あまりにも惨い姿に変わり果てていた。
家に戻ったとき、彼女が目にしたのは――
無傷で、ただ怯えているだけの陽葵を、皆が囲んでいる光景だった。
誰も、明里が二週間も消えていたことに気づきさえしなかった。
誰も、彼女が子供を失ったことを気にとめなかった。
頬を伝う濡れた感触に触れ、顔が涙で濡れ尽くされていることに気づいた。
明里はお腹の子に申し訳なさで胸が潰れそうになった。
あれは数ヶ月前、まだ明里が克成と時雨家に、かすかな希望を持っていた頃のことだ。
しかし、陽葵の帰還によって、二人の間に深い溝が生じた。
克成を狙う者は少なくなく、これまでは明里が傍にいたから手を出されなかった。
だがあの舞踏会の日、克成は意識が朦朧としたまま明里に電話をかけてきた。
駆けつけた時には、彼はすでに部屋で倒れ、意識を失っていた。
盛られた薬は強力で、病院に運ぶ時間さえ惜しまれるほどだった。
克成は明里の腕の中で、何度も彼女の名を呼び、何度も「愛してる」と告げた。
見るに堪えず、明里は彼の顔を両手で包み、「克成は明里を永遠に愛して」――その言葉を言わせた。
それがたった一度きりの、彼に言わせた「永遠」だった。
「克成は明里を愛してる。永遠に。愛してる。ひたすら……明里だけを」
うつろな表情でそう囁いた彼と、あの日、二人は激しく愛し合った。
克成に激しく貪られ、ベッドから降りるとき、明里は震えが止まらなかった。
彼が周囲の圧力に耐え、いつか自分にプロポーズしてくれる。そんな夢を、明里は本気で信じていた。
しかしその後、克成は陽葵を抱きしめ、時雨家で跪き、陽葵との結婚を懇願した。
明里は、朦朧としながら「愛してる」と言った克成の姿を忘れられなかった。
あの状態で、嘘をつくとは思えなかった。
きっと言えない事情があるのだと、ずっと信じていた。
そして三ヶ月後、明里は妊娠していることに気づく。
他の男と関わったことはなく、時期からして子供は間違いなく克成の子だった。
明里は喜び勇んで彼に電話をかけた。この子がいれば自然と結ばれ、授かり婚になると、本気で思っていた。
しかし克成は電話に出なかった。
明里は路上に立ち尽くし、何度も、何度も彼の番号を押し続けた。
拉致され、携帯が地面に落ちたときも、画面にはまだ発信中の表示が残っていた。
結局、明里は克成の子供を妊娠していたことを、伝えられないまま。
その子は、逝ってしまった。
第6話
明里はこれまで神様といった存在を信じたことがなかったが、この世に生まれてこられなかった子供は、向こうでいじめられることがある――そんな話をどこかで聞いたことがあった。
彼女は小さなお守りを縫い始めた。うっかり深く刺してしまい、指先から赤い滴が落ちたが、それでも手を止めることなく、黙々と針を進め続けた。
あと三日で彼女はここを去る。去る前に、お守りを寺に納め、あの子のために祈願したいと思っていた。
明里は一日中部屋にこもった。時雨家の人々とは顔を合わせたくなかったし、外へ出る余裕もなかった。夜が更ける頃、ようやくお守りは形になった。
翌朝、明里は早起きして身支度を整えた。
時雨家の誰にも気づかれないよう別荘地を抜け、駅まで歩いて電車に乗る。市役所に着くころには、ちょうど職員が一日の業務を始める時間だった。
手続きを終えてパスポートを受け取ろうとしたとき、肩を軽く叩かれた。
「明里!あなたも来てたのね」
池田綾香(いけだ あやか)は、笑った瞬間、頬にくっきりと二つのえくぼを浮かべた。
綾香は明里の一番の親友で、時雨家の向かいに住んでいる。
「どうしてさよなら公演をキャンセルしたの?応援しようと思ってチケットまで買ったのに」
彼女は親しげに明里の肩を抱いた。
ふだんであれば、二人はなんでも話し合えた。
しかし、この時ばかりは、明里にはどう言葉を選べばいいのかわからなかった。
時雨家には育ててもらった恩がある。三人の兄を表立って責めることなど、決してできない。
明里が沈黙した瞬間、綾香の笑顔がふっと消えた。
「あの女のせいでしょ!」
明里は静かに微笑むだけで、何も言わなかった。
綾香はその表情だけで察し、怒りを露わにした。
「あいつが現れた時から、絶対にろくなことにならないって思ってたのよ!『貧しい家の出』とか言っておきながら、時雨家のDNA鑑定の報告書なんか手に入れられるなんて、怪しすぎるでしょ。それにあなたの兄さんたちは……」
「もういいの」
明里は彼女の手をそっと握った。
「彼らがどう選ぶかは彼らの問題。私は、自分の意志で道を選ぶだけよ」
時雨家のことには、もう関わりたくなかった。
それは時雨家の事情であって、自分とは別の世界の話だ。
綾香もそれ以上は言わなかった。大家族の事情は、部外者がどうこうできるものではないとわかっていたからだ。
「明里、あなたが最近全然顔を出さないから、友達みんな心配してるのよ。お嬢様仲間として、みんなあなたの味方なんだから。何かあったら、絶対に言ってね」
綾香は両腕を広げた。
明里はその腕の中に身を預け、二人は軽く背を叩き合った。明里の目に、ほのかな涙がにじんだ。
「泣かないでよ。私はいつだって、あなたの味方なんだから」
綾香は明里の頬を軽くつまんだ。
二人は思わず顔を見合わせ、ほんの少し笑った。
以前はよく、綾香がこの癖で明里をからかい、それを見た克成が機嫌を悪くしたものだった。そのせいで、克成は長らく綾香に良い顔をしなかった。
だが、今となっては、あらゆることが変わってしまった。
綾香と別れたあと、明里は一人で街を歩き出した。
その少し後ろを、克成の車がゆっくりとついてきていた。
その寂しげな背中を見つめながら、克成はふと胸がざわついた。明里が変わってしまった――そんな錯覚に囚われるほど、彼女はどこか遠く見えた。
何度も迷ったあげく、克成は結局、彼女の携帯番号を押した。
「乗れよ」
表示された名前に、明里はハッとして足を止めた。克成から電話が来るのは、一体いつ以来だろう。
ふと、携帯電話の向こう側から声が聞こえるような気配を感じ、振り返ると、ちょうど車内から克成が携帯を手に、彼女に目配せを送っていた。
午前八時の大通りはもう人であふれており、騒ぎになれば動画サイトに晒されかねない。
明里は車へ歩み寄った。後部座席のドアに手をかけようとした瞬間、克成が助手席のドアを開けた。
そこは、かつて自分だけの特等席だった。だが今の自分が、そこに座る資格はあるのだろうか。
「陽葵に誤解されたくないの」
明里はそっと助手席を閉じ、後部座席へ乗り込んだ。
空っぽの助手席を見つめ、克成は一瞬言葉を失った。
「どこへ?」
「平安寺」
第7話
道中、二人は一言も交わさず、まるで赤の他人のようだった。
赤信号が青に変わるのを待って、克成はアクセルを踏み込んだ。「寺で何をするんだ?」
「お祈りよ」明里は静かに答えた。
克成はさらに問う。「誰のために?」
明里は顔を上げ、バックミラー越しに克成の表情を見つめた。
彼に尋ねたかった。本当に、あの夜のことを覚えていないだろうか。
そして、自分たちの子どものことを、何とも思っていないのか。
「克成、まだ覚えている?数ヶ月前、ロイヤルホテルでのこと」
克成は眉を寄せた。もちろん覚えていた。
あの日、彼を招いたのは小さな業者で、先輩から紹介状をもらわなければ参加できないようなパーティーだった。
案の定、会場で誰かに薬を盛られ、その日、陽葵と関係を持ってしまった。その責任を取るつもりで、彼は婚約者の変更を申し出たのだ。
だが、なぜ今、その話を持ち出す?
「あの日の婚約破棄は、俺の個人的な事情だ。お前には関係ない。だから気にしなくて……」
言いかけたところで、克成の携帯が鳴った。
陽葵が設定した、特別な着信音だった。
一度鳴っただけで、克成はすぐ電話に出た。
「克成さん、今忙しい?少し来てほしいの……チワワに引っ掻かれちゃって。ごめんなさい、私、何をやってもダメね。いつも克成さんに迷惑かけてばかりで……」
甘えたような、弱々しい声が電話から漏れた。
克成は無意識に明里へ視線を向けた。
「克成、私にも言いたいことがあるの。聞いてくれる?」
明里はお守りを握る手に、じわりと力を込めた。
克成は不機嫌そうに眉をひそめる。「また今度だ。陽葵が怪我したと言ってる」
「……分かったわ」
その瞬間、明里の心は音もなく冷え切り、死んだようになった。
明里はそれ以上詮索せず、静かにドアを開け、車を降りた。
その潔さに、克成は少しばかり戸惑いを覚えた。
今回は何かが決定的に違う。
明里が、本当に自分の世界から消えてしまいそうな気がした。
その感情を、克成は言葉にできなかった。
なぜ急にあの日のことを出したのか――問いただしたかったのに、喉まで出かかった千の言葉は、結局「すまない」の一言に変わった。
黒い車が向きを変えるように大きく切り返し、砂埃がふわりと舞い上がった。
その埃が静かに落ちる頃には、すでに明里の姿はなかった。
平安寺は街の外れにあり、克成が明里を降ろした場所はタクシーさえ呼べないような場所だった。
明里は歩いて平安寺へ向かった。
線香を供え終え、お守りを取り出そうとした瞬間、明里は凍りついた。
お守りが――消えていた。
道中、一度も取り出していないと断言できる。
道にも落ちてはいない。
となれば、克成の車の中だ。
それは、まだ顔も知らぬ我が子のためにできる、唯一の祈りだった。
明里は何度も電話をかけた。
しかし、あの日の拉致の時と同じように、どれほど試しても繋がらない。
陽葵が、時雨家で怪我をしたらしいと言っていたことを思い出す。
明里は急いでタクシーをつかまえ、運転手にチップを渡し続け、一刻も早く時雨家へ着くよう願った。
「克成、車のキーを貸して。私の――」
庭門を押し開けた瞬間、明里の足は止まった。
陽葵がしゃがみ込み、犬をからかっている。その手にあるおもちゃ――それこそが、明里が子供のために縫い上げたお守りだった。
「お姉ちゃん、帰ってきたんだ」
陽葵は顔を上げ、挑発するような笑みを浮かべた。
あのお守りの意味を、陽葵が知らないはずがない。
「返して」
明里は震える手を伸ばした。
「ただのおもちゃでしょ。お姉ちゃん、何をそんなにピリピリしてるの?
まさかこの御守り、どこの私生児のために祈ったの?だって、お姉ちゃん、犯人に二週間も弄ばれたんでしょ?まさか犯人の子供まで妊娠してるんじゃない?」
言葉の後半、陽葵の声はひどく低く抑えられていた。
明里が駆け寄ったその瞬間、陽葵はわざと手を放した。子犬が御守りに噛みつき、激しく頭を左右に振って食いちぎった。
第8話
明里の胸はぎゅっと締め付けられた。
なりふり構わず子犬に飛びかかり、お守りを奪い返そうとする。
だが、陽葵が伸ばした足に躓かされる。
「きゃっ!」
背後で悪事を働いた女がわざとらしく後ろへ倒れ込み、明里の手も石にぶつかり、突き刺すような痛みが走った。
幸い、お守りだけは取り返せた。
赤ちゃん、ごめんね……
ママが守ってあげられなかった。
明里はお守りを固く握りしめ、胸元にそっと押し当てる。
手のひらが切れ、血が布に染みていくことには、まるで気づかなかった。
「陽葵ちゃん!」
その光景を目にした克成は、手にしていた電話を放り出す暇もなく、地面に倒れた陽葵へ駆け寄って抱きしめた。
電話はスピーカーに切り替わり、中からアシスタント・山下大介(やました だいすけ)の声が響く。
「社長、ロイヤルホテルの件、情報を整理してメールでお送りしました」
しかし、その場の三人に、それを聞く余裕はなかった。
克成は気が気でない様子で陽葵の体の傷を確かめている。
陽葵はか弱くその腕に倒れ込み、滂沱の涙をこぼしていた。
「克成さん、どうしてお姉ちゃんはこんなに私のことを嫌うの?私がお姉ちゃんの居場所を奪ったから?でも、私だってそうしたかったわけじゃないのに」
「陽葵ちゃんのせいじゃないよ」
克成は心を痛めながら陽葵のふくらはぎの痣をさする。その眼差しは痛ましさに満ちていたが、明里へ顔を向けた瞬間、陰鬱で氷のように冷たい色へと変わった。
「謝れ」
はっ!
私のお守りを奪ったのは陽葵なのに。
私を転ばせたのも陽葵なのに。
克成には、それが見えないのだろうか。
明里は苦笑を浮かべ、ただじっと彼を見つめた。
なぜか、今にも崩れ落ちそうな明里の姿を目にした瞬間、克成の胸は鷲掴みにされたように痛み、息が詰まるほどだった。
明里は結局、何も言わずに身を翻し、立ち去ろうとした。
「克成さん」
克成が何か言いかけたその時、背後から陽葵の弱々しい泣き声が響く。
「明里、謝れ!このまま行くなら、一生、金輪際会わない!」
明里の足がぴたりと止まった。
それなら、会わなければいい。
再び歩みを進めた明里の足取りは、先ほどよりもいっそう確かなものになった。
小さく遠ざかっていく明里の背中を見つめながら、克成はふいに、不安に胸を締め付けられた。
まるで何か大切なものが、自分の手の届かない場所へ永遠に去っていくかのような気がしたのだ。
時雨家を出てから、明里はようやく手のひらに突き刺すような痛みを覚えた。
お守りは血でぐっしょり濡れ、傷口に貼り付いてしまっている。
無理に引き剥がすと、肉がえぐれ、血が止まらなくなった。
陽葵の足の痣など、明里の傷に比べれば取るに足らない。
だが、心配してくれる人がいる子だけが、泣く資格を持つ。
明里は歯を食いしばり、簡単に傷口を手当てした。
再び平安寺へ戻り、線香を一本立てる。
まだこの世に生まれることのなかった我が子が、あの世でどうか平穏に、災いなく過ごせるようにと、深く祈った。
出発前の最後の日、明里は荷物と、家に返すものをすべてまとめた。
皮肉なことに、小さい頃から兄たちと克成がくれたものは倉庫ひとつを埋め尽くすほどあった。
けれど、本当に明里自身のものは、小さなスーツケースひとつに収まってしまう。
明里は倉庫の鍵と銀行のカードを引き出しへ入れた。
カードにはこれまでダンスで稼いだ金が入っている。金額は分からないが、億を下ることはないだろう。
これで時雨家への育ての恩は返せるはずだ。
明里はドアの前に立ち、広々とした豪奢な寝室を見渡した。
かつて主寝室を除けば時雨家で一番良い部屋で、本来は昴が使うはずだった。しかし、兄たちは明里を可愛がり、こっそりとこの部屋を明里のために改装してくれたのだ。
陽葵が来てからというもの、この部屋を何度も欲しがった。
ここだけが明里が奪われなかった唯一の場所であり、このわずかな領地を守ったがために、明里は「器が小さい」などという悪名まで着せられた。
今、このすべてを返そう。
彼らの望みどおりに。
空は白み始めていた。
階下はしばらく賑やかだった。今日は陽葵が初めて主役として舞台に立つ日だ。
兄たちも克成も、皆そろって陽葵の周りに集まり、世話を焼いている。
やがて階下が静かになると、明里はスーツケースを引き、部屋を出て、寝室の鍵を執事に手渡した。
これらの処理は、兄たちが戻ってから頼むよう伝言も残した。
これからは、この城は時雨家の三人の騎士と、一人のお姫様だけのもの。
誰ひとり増えもしなければ、減りもしない。
明里というよそ者が、これ以上その平穏を乱すことはもうない。
ドアを閉める。
明里は、二度と振り返らなかった。