尽くす妻、卒業!二度目の人生は夢を掴む

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尽くす妻、卒業!二度目の人生は夢を掴む

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表彰された日、今井充(いまい みつる)はテレビ報道の生放送で、赴任地に同行していた同僚医師、陣内蛍(じんない ほたる)へ、情熱的な愛を告...

Chương (1)

第1章

表彰された日、今井充(いまい みつる)はテレビ報道の生放送で、赴任地に同行していた同僚医師、陣内蛍(じんない ほたる)へ、情熱的な愛を告白した。 「陣内さんがいなければ、俺はとっくに嵐に飲まれて海で命を落としていました。彼女は、俺の命の恩人であり、誰よりも大切な人なんです」 一方で、そのころ彼の妻である今井菖蒲(いまい あやめ)は、充の両親の世話と子育てに明け暮れていた挙句の果て、長年の無理がたたって、すでに虫の息でベッドに横たわっていたのだった。 そんな彼女は20年も尽くしてきたのに、夫から感謝の言葉ひとつももらえないなんて、思ってもみなかった。 そして、追い打ちかけるかのように、息子・今井大輔(いまい だいすけ)の一言が、彼女の心を砕け散る、最後の一撃になった。 「お母さん、見てよ。お父さんと蛍おばさん、すっごくお似合いだよね。だからもう、早くお父さんと別れてあげなよ」 それを聞いて、菖蒲は怒りと絶望のあまり、深い後悔に苛まれながら息を引き取った。 次に目を開けたとき、彼女は充が海上基地へ赴任する、その前日に戻っていた。 今度こそ、夫の帰りを待ち続けるだけで、名もなき存在として人生を終わらせたくない、そう菖蒲は思った。 そうだ、自分には、大空を目指すという夢があったんだ。 第1話 表彰された日、今井充(いまい みつる)はテレビ報道の生放送で、赴任地に同行していた同僚医師、陣内蛍(じんない ほたる)へ、情熱的な愛を告白した。 「陣内さんがいなければ、俺はとっくに嵐に飲まれて海で命を落としていました。彼女は、俺の命の恩人であり、誰よりも大切な人なんです」 一方で、そのころ彼の妻である今井菖蒲(いまい あやめ)は、充の両親の世話と子育てに明け暮れていた挙句の果て、長年の無理がたたって、すでに虫の息でベッドに横たわっていたのだった。 そんな彼女は20年も尽くしてきたのに、夫から感謝の言葉ひとつももらえないなんて、思ってもみなかった。 そして、追い打ちかけるかのように、息子・今井大輔(いまい だいすけ)の一言が、彼女の心を砕け散る、最後の一撃になった。 「お母さん、見てよ。お父さんと蛍おばさん、すっごくお似合いだよね。だからもう、早くお父さんと別れてあげなよ」 それを聞いて、菖蒲は怒りと絶望のあまり、深い後悔に苛まれながら息を引き取った。 次に目を開けたとき、彼女は充が海上基地へ赴任する、その前日に戻っていた。 今度こそ、夫の帰りを待ち続けるだけで、名もなき存在として人生を終わらせたくない、そう菖蒲は思った。 そうだ、自分には、大空を目指すという夢があったんだ。 …… 特殊部隊の基地。 責任者・松浦弘(まつうら ひろし)が、厳しい表情で菖蒲を見ていた。 「今井さん、まずは試験合格おめでとう。君はこの任務において、初の女性パイロットとして就任することができた! だが、パイロットというのは厳しいポジションだ。合格してからも、君にとっての長くてきびしい訓練が待っている。本当に覚悟はできているのか?」 弘が心配しているのは分かった。でも、菖蒲の瞳は固い決意に燃えていた。 「女性だって、実力はあります。私も任務遂行のために、貢献したいんです。 それに、父は生前、この国で優秀なパイロットでした。父の名に恥じぬよう、必ず成し遂げてみせます!」 それを聞いて、弘は彼女の言葉に納得し、感心したようにうなずいた。 「よく言った!今井さん、ただ……」 弘は何かを思い出したように、少し言いにくそうに続けた。 「そうなると、15日後、君たちは京市で訓練が始まる予定だが、ご主人もまもなく他の現場へ赴任するはずだ。夫婦が離ればなれになるのに……彼は承諾してくれそうなのか?」 それを聞いて、菖蒲の顔から明るい表情が消え、口元に寂しげな笑みが浮かんだ。 「彼にとっては、私が家からいなくなるのは、むしろ好都合だと思います」 だって前世で、充はたった一人だけ家族を連れて行ける権利を、同じ部隊に所属していた医師の蛍に譲ってしまったのだから。 それから20年間、彼が家に帰ってきたのはたったの2回だけだった。 1回目は、息子の大輔が成人したとき。 そしてもう2回目は、表彰されたあの日。 それまで、充が赴任地で仕事に集中できるよう、菖蒲は20年間も一人で家を支えてきた。そして、とうとう無理がたたって病に倒れてしまった。 それでも、あの表彰式では、夫が自分の名前を呼んでくれると信じていた。 でも、彼の心の中にいたのは蛍だけで、自分のこれまでの苦労なんて、すっかり忘れられていた。 自分が必死で育てた大輔でさえ、父親には蛍の方がお似合いだと言って、自分を邪魔者あつかいする始末だった。 そのとき、菖蒲は自分の人生が、なんて滑稽だったのかを思い知った。 この家のために、パイロットになる夢を諦めて、一生を捧げてきたというのに。 その結果が、夫の心変わりと、息子からの軽蔑だった。 でも、幸運なことに、自分にもう一度人生をやり直すチャンスが与えられた。 今度こそ、自分は大空を自由に舞う鷹のように、自身のために生き、輝く人生を送りたいと決めたのだ。 それから、申請書を出し終えた菖蒲は、自転車で家へと急いでいると、角を曲がったところで、向こうから歩いてくる三人と、ばったり出くわしてしまった。 夫の充と蛍が、息子の大輔の両手をひいて歩いているのだ。 大輔が何かを夢中で話していて、蛍は笑いながらその頭をなでてあげていた。 そんな二人を、充は穏やかな表情で見つめ、その目には優しい笑みが浮かんでいた。 その三人は、まるで幸せな家族そのものだった。 そして、菖蒲に気づくと、充の顔つきがとたんに険しくなった。 「どこへ行っていたんだ!まだ6歳の大輔が病院で点滴をしているのに、一人にさせておくなんて!」 すると、さっきまで楽しそうに蛍と話していた大輔も、ぴたりと口を閉ざすと、ぷいっと顔をそむけて鼻を鳴らした。 それを見て、菖蒲はぎゅっと拳をにぎりしめ、胸にこみあげる切なさを押し殺した。 「大輔が、私にはそばにいてほしくないって言ったのよ。陣内先生がいいって」 前世でも、蛍が充と一緒に赴任先へ向かう前から、大輔は彼女のことが大好きだった。 その頃の自分は、ただ蛍が子供好きなだけだと思っていた。だから大輔もなついているんだって。 でもまさか、大輔が蛍に、彼の母親になってほしがっていたなんて、思いもしなかった。 なら、今度こそ彼はもう自分が死ぬのを辛抱強く待つ必要はない。 15日後には、その願いは叶うのだから。 第2話 一方で、菖蒲がそう言うのを聞くと、充は機嫌を直すどころか、逆に顔をしかめた。 「子供がすねて言ったことだろ?そんなことで本気にするなよ」 だが、菖蒲は大輔が蛍の手をぎゅっと握っているのを見つめた。そして、彼の幼い顔から、母親である自分に対して強い警戒心を向けているのが見て取れた。まるで次の瞬間、自分が彼を蛍から無理やり引き離すと思っているようだ。 前世では、大輔が口でどれだけ蛍になついていても、菖蒲はまったく気にしていなかった。実際彼の心の中では、母親である自分を一番だと思ってくれていると信じていたから。 でも今、ハッキリを気が付いた。子供は思ったことと違うことなんて言わない。この子の言葉は全部、本当の気持ちだったんだ。 そうこうしていると、蛍は身を屈めて大輔のほっぺを軽くつねった。そして、わざと真面目な顔で話しかけた。 「大輔くん、ママのこと怒らないであげて。ママはあなたのお世話で、とっても大変なんだからね」 しかし、大輔は悔しそうに口をとがらせながら、不満げな声を漏らした。 「でも、すねて言ってるんじゃないもん。僕、おばちゃんと一緒にいたいの。ママなんていらないから」 そう言いながら目に涙を浮かべている息子を見て、充は眉をひそめた。そして、菖蒲に更なる不満のまなざしを向けた。 「お前は母親として失格だな。普段からもっと大輔のことを考えてやれよ」 そして、大輔もすぐに口をはさんだ。「パパの言うとおりだよ!ママは全然僕のことなんてかまってくれないもん」 その父子が口をそろえた言葉に、菖蒲は息が詰まった。彼女は思わず口元に、自分をあざけるような笑みが浮かべた。 大輔が生まれてからずっと自分が一人で育ててきた。彼のどんな些細なことでも見逃さないほど懸命に目をかけてきたつもりだ。 大輔が病気のときは、一晩中そばに付き添ってあげたし、誕生日にはケーキも手作りしてあげた。そして栄養バランスを考えて、彼が嫌いなものも食べてもらえるように工夫して作ってあげていた…… そのどれもこれもが、自分が大輔にどれだけ心を尽くしてきたかを示している。 それなのに、この父子から見れば、自分は母親失格ということらしい。 「そう、ならそう思ってくれて構わないよ」 どうせあと15日で、ここを離れるのだから。もうこの父子とは争いたくはないと菖蒲は思った。 「なんだと!」 それを聞いて充が、菖蒲のその投げやりな態度に怒鳴りつけようとしたときだった。蛍にそっと袖を引かれた。 彼女は、申し訳なさそうに言った。 「充さん、全部私が悪いんです。だから菖蒲さんとケンカしないでください」 すると、充の顔から怒りは一瞬で消え、彼は優しい声で蛍をなぐさめた。 「君は悪くないさ。大輔の面倒を見てくれて、感謝しなくちゃいけないのは俺の方だ」 大輔もそれを聞いて、蛍の胸に飛び込んだ。 「蛍おばちゃん、僕、うそついてないよ。先生がね、子供はうそをついちゃいけないって言ってた。本当にママが悪いの。おばちゃんは、世界でいちばんいい人だよ」 そして充は厳しい顔で菖蒲を一瞥し、くるりと背を向けて歩き出した。 「蛍、俺と大輔が、さきに君を家まで送るよ」 彼がそう言うと、大輔も嬉しそうに二人の手をつないだ。 「しゅっぱーつ!」 一方で取り残された菖蒲はその場に立ちつくした。幸せそうな三人の後ろ姿を見つめていると、彼女は胸の中が苦しくて堪らなかった。 これが、前世で一生をかけて尽くしてきた、夫と息子なのだ。 彼らがこれほど自分を嫌うなら、今度こそ、手放そう。 三人の後ろ姿がだんだん遠くなっていく。菖蒲も自転車に乗ると、角を曲がって役所へと向かった。 「すみません、離婚届を出したいんですけど」 第3話 すると、役所の人は何度も確認をしようと菖蒲に尋ねたが、彼女の意志が硬いのを見て、やっと離婚届を渡してくれた。 「ご夫婦お二人のサインがあれば、手続きを進められます」 そう言われ、菖蒲は離婚届を大事にしまい、家にもどった。 家に帰った時、充と大輔はまだ帰ってきていなかったから、菖蒲はキッチンに立つと、自分ひとりぶんの晩ごはんを作って、さっさと食べはじめた。 彼女が食べ終えてお皿を洗っていると、ようやく二人が帰ってきた。 充は、がらんとしたテーブルを見て、思わずたずねた。 「俺たちの晩ごはんを作ってないのか?」 菖蒲は、大輔のぽっこりしたおなかをちらっと見て、静かに答えた。 「あなたたちは、陣内先生の家でもう食べてきたんでしょ?」 大輔と充はもともとひどい偏食で、外でご飯を食べる時は、いつも食が進まないのだ。 だから菖蒲は、長い時間をかけて色々と試作して、ようやく二人が好きな味を見つけ出すことができたのだった。 それもあって、彼らがどんなに遅く帰ってきても、菖蒲は必ず三人ぶんの食事を用意して待っていた。 でもどうやら、蛍の家ではその偏食もなくなったみたい。 まあ、そうよね。二人にとって心から大切な人が作ったごはんなんだから、食欲だってわくに決まってる。 菖蒲の言葉を聞いて、充は気まずそうに顔をこわばらせ、ひとつ咳払いをして言い訳した。 「彼女に誘われたんだ。断れなかった」 そのとき、大輔がぽんぽんのおなかを叩きながら、小さな声でつぶやいた。 「蛍おばちゃんのごはん、すっごくおいしいんだ。毎日食べたいなあ」 それを聞いて、菖蒲は手をピタッと止め、酷い疲労感に襲われるのを感じた。 彼女は急いでキッチンを片付けると、シャワーもそこそこにベッドに横になった。 うとうとと眠りにおちかけたとき、大きな腕に引きよせられ、あたたかい胸に抱きしめられた。 「ちょっと、相談したいことがあるんだ」 充の低い声に、菖蒲は一瞬で目が覚めた。 だが、彼女が口を開くより先に、充は自分の話をつづけた。 「来月から、海上基地に赴任することになった。家族の同行枠がひとつだけあるんだが、蛍を連れていきたい。 大輔はまだ小さいから枠を気にしなくていいから、彼も一緒に連れて行く。お前はとりあえず家で俺の両親の面倒をみていてくれ。向こうでの生活が落ち着いたら、またすぐに迎えに来るから」 それを聞いて、菖蒲の胸につんとした痛みが走った。彼女は思わず、手のひらに爪が食いこむほどぎゅっと手を握りしめた。 これは相談というよりむしろ、有無を言わさない命令なのだろう。 前世でも、充はまったく同じことを言った。 最初は、どうして家族の枠を蛍にあげるのか、まったくわからなかった。彼の妻は、まぎれもなく自分なのに。 あとになって充が言うには、赴任先は医師のいない離島らしい。隊員たちのためを思って、医師である蛍を連れて行こうと思ったそうだ。 あの時、菖蒲はさんざん悩んだすえ、その事実を受け入れた。ただひとつだけ、大輔だけは連れて行かないで欲しいとお願いした。 島の暮らしは厳しいし、充は仕事で忙しくなるはず。ちゃんと大輔の面倒を見れるか心配だったから。 充は、彼女がどうしても譲らないので仕方なく折れた。そして出発する前、必ず彼女親子を迎えにもどると約束したのだ。 でも、その約束が果たされることは、一生なかった。 そして、その結果、菖蒲は息子の大輔に父親と引き離したと責められたり、彼女さえいなければ蛍と父親は一緒にいられたのにと疎まれるはめになった。 今になってよく考えてみれば、島に医師が足りないなら、正式に申請すれば済む話だ。どうして充が、わざわざ家族の枠を使ってまで蛍を連れていく必要があったのだろう? 理由はひとつ。彼が蛍と離れたくなかっただけだ。大輔も連れていこうとしたのは、三人で幸せな生活を送るつもりだったのだろう。 前世で、そんな簡単なことにも気づけなかった自分が、本当にばかばかしくて笑えてくる。 胸に大きな石がつっかえたみたいに、息が苦しい。 菖蒲は充の腕から抜けだすと、そっと距離をとって、低い声で答えた。 「わかった」 それを聞いて、充は少しおどろいた。菖蒲がこんなにあっさりとうなずくなんて思ってもみなかったからだ。彼はどこか複雑な表情で彼女を見つめ、珍しくやさしい声で付け加えた。 「心配しないで。必ず迎えに来るから。そしたら、島で家族三人一緒に暮らそう」 だが、菖蒲はその言葉を聞こえないふりをして、目を閉じた。 次の日の朝。菖蒲が目を覚ますと、充はもう書斎で仕事をしていた。 彼女は朝ごはんを食べ終えると、離婚届を取り出した。 そこに書かれた大きな文字をながめていると、なんだか少し現実味がないように感じた。 そのとき、大輔が椅子からぴょんと飛び降りてそばにやってきた。そして、書類をのぞきこんで、たどたどしく文字を読みながらたずねた。 「離、婚……ママ、離婚ってどういう意味?」 それを聞かれて、菖蒲は離婚届を持つ手に思わず力をこめた。そして、少し黙り込んだあと、それでもちゃんと答えてあげようと思った。 「離婚っていうのはね、ふたりが別々に暮らすってことよ」 それを聞いて、大輔はぱっと目を輝かせると、待ちきれないといった様子で口を開いた。 「じゃあ、早くパパと離婚してよ!」 第4話 その瞬間、子どもの無邪気な声が、鋭いナイフのように菖蒲の胸に突き刺さり、彼女は全身からすーっと力が抜けていくのを感じた。 まさか、この子はこんなに早くから、自分と充の離婚を望んでいたっていうの? しばらく言葉を失ったあと、彼女はようやく声を取り戻して大輔を見つめながら、つらそうに口を開いた。 「大輔、もしママとパパが別れたら、どっちについていきたい?」 大輔はためらうことなく答えた。 「もちろんパパだよ!それに蛍おばちゃんにも、僕たちと一緒に住んでもらうんだ!」 大輔の瞳に宿る期待と喜びが、菖蒲の胸をちくりと刺した。彼女は思わず目を赤らめた。 これが自分が6年間、心血を注いで育ててきた息子だ。充に言われたとおり、自分は母親失格だったんだ。 大輔は目を輝かせると、彼女の手から離婚届を奪い取った。 「これにパパがサインしたら、二人は離婚できるんだよね?」 菖蒲は喉に何かがつまったようで、声が出なかったが、小さくうなずくしかなかった。 大輔は「わーい」と歓声をあげると、小走りで書斎へと走っていった。 「今すぐパパにサインしてもらうんだ!」 それを聞いて菖蒲は、切なげに口元を歪めた。 この子は、こんなにも自分から離れたいんだ。 そう思っているとドアをノックする音で、菖蒲は我に返った。彼女が立ち上がってドアを開けると、そこにいたのはなんと蛍だった。 蛍は、彼女の赤くなった目元に気づいて心配そうに声をかけた。 「菖蒲さん、その目はどうしたんですか……」 彼女は一瞬言葉を止め、ためらいがちに尋ねた。 「もしかして充さんから、同行枠を私にくれるって聞いて、怒っているんですか? 菖蒲さん、充さんだって仕方がなかったんですよ。島には医者が必要ですし、あなたも充さんに病気になってほしくないでしょう?」 そう言いながら蛍は口ではなぐさめていたが、瞳の奥に隠された得意げな表情が、その本心をあらわにしていた。 自分が充にとってどれだけ重要かを見せびらかし、妻である菖蒲はいてもいなくても同じだとでも言いたげのようだった。 だけど、菖蒲はもう充についていくつもりはないと決めている。だから、その同行枠なんてどうでもよかった。 一方で、蛍の声を聞きつけ、充と大輔が慌てて書斎から出てきた。 大輔は蛍の胸に飛び込み、彼女にぎゅっと抱きついた。 充も口元に笑みを浮かべ、その二人を眺めているのだ。 「大輔は、本当に君のことが好きなんだな」 それを聞いて蛍も微笑みながら、大輔の頭をなでた。 「私も大輔くんのことが大好きです」 そのほほえましい光景に、菖蒲はぐっと涙をこらえながら、出かける支度を始めた。 「ちょっとデパートに買い物に行ってくるわ」 京市へ発つ前に、あちらで使う生活用品をそろえておく必要があった。 しかし、彼女が出かけようとすると、蛍がにこにこと笑いながら手をつかんできた。 「菖蒲さん、私も今日、充さんと大輔くんに会いに来たついでに買い物をしようと思ってたんです。島にはお店がないから、今のうちに準備しなければなりません。 一緒に行きましょうよ。買い物のアドバイスもお願いしたいですし」 断る暇もなく、菖蒲は背中を押されるように家を出た。結局、彼女はあの三人といっしょにデパートへ行くことになった。 デパートに着くと、蛍は大輔の手を引いて、てきぱきと品物をえらび始めた。 充は二人のすぐ後ろに、ピッタリとついて歩いていた。その姿は、まるで妻と息子を守るよき父親であり、よき夫のようだった。 それを目の当たりにした菖蒲は彼らから視線をそらし、反対方向へと歩き出して、自分のものをえらび始めた。 そして、新聞スタンドを通りかかったとき、菖蒲は新聞の一面に載ったパイロット募集の広告に目を奪われた。 彼女は思わず新聞を手に取った。【青空を守り、若き日を輝かせよう】という大きな文字を見つめていると、胸に熱いものがこみ上げてきた。 よかった。今度こそ、自分は無事に選ばれた。これでやっと、前世の無念を晴らせる。 「パイロット募集の広告なんて見て、どうするんだ。まさか、お前も応募するつもりじゃないだろうな?」 そう思っていると、背後から充の低い声が聞こえた。 菖蒲は考える間もなく、思わずこくりとうなずいた。 すると、充は顔をこわばらせ、しばらく彼女をじっと見つめてから口を開いた。 「お前は女だろ、選ばれるわけがない。無駄なことはやめて、家で大人しく俺が迎えに来るのを待ってろ」 大輔もふんと鼻を鳴らし、横から小声でつぶやいた。 「ママは毎日、洗濯とごはんを作ってるだけじゃないか。何もできないんだから、パイロットになんてなれるわけないよ。 やっぱり蛍おばちゃんのほうがすごい。人の命を助けるお医者さんだもん」 彼の声は小さかったけれど、その場にいた大人二人にははっきりと聞こえた。 だが、充はちらりと息子に目をやったが、何も言わなかった。 そんな父子が浮かべる、うり二つの軽蔑した表情に、菖蒲の心は冷えきっていった。 充とはお見合い結婚だったが、彼女は結婚前にちゃんと伝えていた。自分の父親がパイロットだったから、その影響で自分も幼い頃から訓練を受けてきたこと。そして、身体能力が人並み外れていることも。 5年前、菖蒲は一度パイロットの選抜試験を受け、見事に合格を果たしていた。 でも、そのとき大輔はまだ1歳。どうしても幼い息子が心配で、彼女は合格を辞退したのだった。 このことは、あの親子にもちゃんと話したはずだった。 それなのに、彼らともまったく覚えていないなんて。 彼らはこれまで、自分のことを少しでも気にかけてくれたことがあったのだろうか? 菖蒲は、自分がもう合格したのだと二人に言ってやりたかった。 でも、充に知られたら、家から離れるのを止められるかもしれない。そう思うと、言いたい気持ちをぐっとこらえた。 「通りがかりに、ちょっと見ただけよ」 それを聞いて、充は何か腑に落ちないものを感じた。菖蒲は家のことにしか関心がなかったはずだ。それがいつから、こんなニュースなど気にするようになったのだろう? だが、彼が深く考えるより先に、意識は蛍の声に引き戻された。 大輔もその声を聞こえたのだろう、彼は急いで充の手を引っ張り、蛍のいる方へ向かった。 それを見て、菖蒲はまた自嘲気味に口元を歪めた。 自分がいなくなれば、あの親子にもわかるはず。自分が、ただ家事をこなすだけの女ではなかったってことが。 第5話 そして、デパートを出た後、充と大輔は、いつものように先に蛍を家まで送った。だから、菖蒲も荷物を持ったまま、ついていくしかなかった。 家に帰るころにはもうくたくたで、彼女はすぐにベッドに横になった。 夜もふけたころ、菖蒲は金切り声のような泣き声ではっと目を覚ました。どうやら隣の夫婦がけんかをしているらしい。 「私たちをここに置いて、自分だけ遠くに行っちゃうつもり?そんなの許さないから!絶対に!」 「そんなつもりじゃない。ただ、向こうは大変な場所だから、お前たちがつらい思いをするんじゃないかと思って……ここにいれば楽に暮らせるだろ。なんでそんな風に取るんだよ」 「そんなの知らない!とにかく、あなた一人で行くなんて絶対に許さない。行くなら私たち二人も一緒に行くの。それが嫌なら、あなたもここにいて、どこにも行かせないから!」 …… 隣で寝返りをうつ音がして、どうやら充も目を覚ましたようだった。 隣の二人はまだ言い争いを続けている。それに対して、彼はふんと鼻を鳴らした。 「夫婦が離れて暮らすなんてありえないだろ。そんなの、夫婦って言えるのか?あの男のやり方、ひどいな」 それを聞いて、菖蒲の胸がずきりと痛んだ。 充は、ずっとわかっていたんだ。夫婦は離れて暮らすべきじゃないって。 なのに、前世では、彼は迷うことなく蛍を連れて行ってしまった。自分と子どもだけを、この場所に残して。 だとしたら、彼の心の中では蛍が本当の妻で、自分は、ただ子どもの面倒を見て、家のことをするだけの家政婦だったっていうこと? そう思った瞬間、菖蒲の目には涙がにじみ、こらえきれなくなりそうだった。彼女はかすれた声でたずねた。 「じゃあ、あなたは?充、あなたはなんで私をここに残していくの? 私たちだって夫婦でしょ。あなたのやっていることと、彼のしていること、どこが違うっていうの?それとも、あなたのなかでは、私は妻ですらないの?」 かつて生涯を貫くずっと胸につかえていた言葉を、彼女はようやく口にすることができた。 だけど、充はただ冷めた声で答えるだけだった。 「迎えに来るって言っただろ。俺のやり方をわかってくれてると思ってたのに。お前って、そんなに物分かりが悪いやつだったんだな」 それを聞いて、菖蒲は、口を開きかけた。 前世でも彼は同じことを言った。けれど約束は守られず、結局は人生の半分以上を蛍のそばで過ごしたじゃないかと、彼女はそう問いただしたかった。 でも、そんなことを言ったって、誰が信じてくれるだろうか。 それに、前世を経験して、もういやというほどわかっていたはずだ。充は、自分のことを全く愛していないという事実を。 そう思って、菖蒲は目を閉じもう何も言わなかった。 結局、隣同士で寝ていても、二人の心はばらばらなのだ。 次の日の朝。菖蒲が目を覚ますと、充は用事があるとかで、もう家を出ていた。 大輔が朝ごはんを食べ終わると、菖蒲はランドセルを持って、学校に送る準備をした。 すると玄関を出たところで、大輔がランドセルから一枚の紙を取り出して、彼女に手渡した。 菖蒲が受け取って開いてみると、それは離婚届だった。 届の一番下には、のびのびとした筆跡で【今井充】と大きく書かれていた。 大輔は、得意げに胸をそらした。 「僕がパパにサインしてもらったんだ。これで、離婚できるね!」 サインが書かれたこの離婚届は、人生のやり直しができるようになってからずっと待ち望んでいたもののはずだった。 でも、充は前世でずっと愛していた人だ。その力強いサインを見ると、菖蒲の胸はやはりナイフでえぐられるようだった。 菖蒲はしばらくそれを見つめてから、離婚届をそっとしまい、掠れた声で言った。 「時間があるときに、手続きをしに行くわ」 大輔は「わーい」と歓声をあげて、ぴょんぴょん跳ねながら先を歩いて行った。 学校の門がもうすぐというところで、彼はふと立ち止まった。 「ママ、もう一人で学校に入れるから。先におうちに帰っていいよ」 学校の門まではもう目と鼻の先だったので、菖蒲は頷いた。大輔が校門に入っていくのを見届けてから、その場を離れた。 家に帰ると、菖蒲は京市へ行くために必要な書類をまとめた。 それから、家の中にある持っていけないものを片付けて、処分し始めた。 たぶん、自分がここを出たら、すぐに蛍がこの家に住むことになる。あとから彼女にみっともなく捨てられるくらいなら、自分の手できれいにしておいた方がいいだろう。 そう思いながら、菖蒲は少しずつ運びながら片付けていった。 そして、最後の荷物を片付け終え、服のほこりを払うと、シャワーでも浴びようと家の中へ向かった。 そのとき、庭にいた近所の人が、彼女の姿を見て驚いたように声をかけてきた。 「菖蒲さん、どうしてまだ家にいるの?今日、学校の参観日じゃなかったかしら。みんな行ってるみたいよ。うちの子が熱を出してるから行けないんだけど、もしかして大輔くんも具合悪いの?」 菖蒲は、きょとんとした。 そんな話は全く聞いていなかったし、前世でも、参観日なんてなかったはずだ。 でも、深くは考えなかった。きっと大輔がまだ小さいから、自分や充に伝えるのを忘れただけだろう。彼女は近所の人にお礼を言って、急いで学校へ向かった。 門に着くとすぐ、警備員に呼び止められた。 「どなたの保護者ですか?」 菖蒲は、あわてて人ごみの中に大輔の姿を探した。そして見慣れた小さな背中を見つけると、息子の手を引いていた見慣れた顔が目に入った。 蛍だった。 それを目の当たりにすると、思わず呼びかけそうになった言葉を菖蒲はぐっと飲み込んだ。 どうして蛍が、ここに? そう思っていると、ちょうどそのとき、大輔の友達が、自分の両親を紹介していた。 それを聞いた大輔も、蛍の手を引いて、誇らしげに言った。 「これが僕のママだよ。お医者さんなんだ。すごいでしょ!」 第6話 その瞬間、菖蒲には周りのざわめきがすべて聞こえなくなり、一瞬にしてあたりがすべて静まり返ったかのようだった。 そして彼女の頭の中では、「これが僕のママだよ」という言葉だけが響いた。 遠くから、大輔がまるで宝物でも見せびらかすみたいに蛍の手を引いて、クラスメートに一人ひとり紹介しているのが見えた。菖蒲は胸にぽっかりと大きな穴が開いて、冷たい風が吹き込んでくるような気持ちになった。 自分はまだ充と正式に離婚したわけでもないのに。大輔はもう待ちきれずに、蛍を「ママ」と呼んでいるの? そう思っていると、傍らから大きな人影が近づいてくるのが見えた。 それは「朝から用事がある」と言っていた、充だった。 充と蛍は、大輔の両手をそれぞれつないでいた。三人の顔には、同じように幸せそうな笑みが浮かんでいる。 なるほど、前世も今度も、参観日があるなんて自分がまったく知らなかったわけだ。充も、そんなこと一度も口にしなかったんだから。 つまり、彼はとっくに知っていて、大輔とこっそり相談して、蛍を母親として参加させることに決めていたんだ。 あの親子は、こんなに早くから口裏を合わせていたなんて。実の母親で、本当の妻である自分に内緒で。 その瞬間、菖蒲の脳裏に、前世で死ぬ間際にベッドに横たわっていた時の光景が浮かんだ。 あの時、大輔はテレビに映る男女に夢中で、息も絶え絶えの自分には見向きもしなかった。 今思えば、充が赴任していた間も、あの二人は裏でずっと連絡を取り合っていたんだろう。大輔はとっくに蛍を母親だと認めていて、あとは自分が死ぬのを待ちわびていただけなのかもしれない。 そう思うと、菖蒲はもう見ていられなった。正面から吹き付ける冷たい風を浴びて、目に溜まった涙をこぼしながら、彼女はくるりと背を向けてその場を離れた。 そして、彼女はまっすぐ役所へ向かい、あの離婚届を取り出すと、もう片方に一文字ずつ丁寧に自分の名前を書いて、職員に差し出した。 「すみません。サインしました。離婚の手続きをお願いします」 職員は書類に不備がないことを確認すると、すぐに離婚の手続きをしてくれた。 そして手続きが終わって離婚届受理証明書を受け取ると、菖蒲は、これで本当にあの親子とは関係がなくなったんだと、はっきりと実感した。 それから数日間、菖蒲は予定を早めて体力訓練を再開した。 子供のころに鍛えた基礎はあったけど、大輔を産んでからは訓練の強度をかなり落としていた。だから京市へ行く前に、できる限り体を完璧な状態に戻しておきたかった。 充もこの時期、来月の赴任先への異動に向けた引き継ぎ業務で忙しくしていた。 週末、家に大輔を見てくれる人がいなかったので、菖蒲は仕方なく彼を訓練場に連れて行った。飲み物とおやつを持たせて、隅の方で一人で遊ばせておくことにした。 その日、大輔が座ってすぐのことだった。偶然通りかかった蛍の姿が目に入った。 彼はすぐに駆け寄って、蛍の腰に嬉しそうに抱きついて離れようとしないのだった。 「蛍おばちゃん、一緒に遊んでくれない?ママは一日中、僕を一人でここに座らせるんだ。もう退屈でしょうがないよ」 一方でそれ聞いた菖蒲は、きゅっと指を握りしめた。 大輔のあんなに懐いた表情はもうずいぶん見ていないのだ。 蛍は優しく彼の頭をなでると、菖蒲の方をちらりと見た。その目には、かすかな得意げな色が隠れていた。 「それは、あなたのママに聞いてみないとね」 大輔が口を開く前に、菖蒲は深く息を吸い込んで、静かな声で言った。 「陣内先生と遊んでおいで。でも遠くへは行かないようにね。気をつけるのよ」 どのみち、大輔がここにいても、自分にとってはイライラが増えるだけだ。 それに、自分がいなくなれば、大輔はずっと蛍と一緒に過ごすことになる。今さら二人の邪魔をする必要もないのだから。 それを聞いて、蛍の目がきらりと光り、気づかれないほどかすかに口角を上げた。そして、彼女は大輔の手を引いて別の方向へ歩いていった。 大輔はまったく嫌がる様子もなく、ぴょんぴょんと跳ねるように彼女の隣を歩いていた。 菖蒲は二人を呼び止めようと口を開きかけたが、結局は視線を戻し、自分の訓練に集中することにした。 しかし、彼女がウォーミングアップを終え、本格的な訓練に入ろうとした、まさにその時だった。遠くから大輔の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。 菖蒲は顔色を変え、すぐに声がした方へ駆け出した。 そして二人の姿を見つけると同時に、大輔の額から流れ出た真っ赤な血が目に入った。 蛍はそばに立ち、慌ててカバンからガーゼを取り出して血を止めようとしていた。でも、ガーゼはあっという間に血で赤く染まってしまうのだった。 それを見た菖蒲は考えるよりも先に、大輔を抱き上げて、全力で走り出した。 病院に着くと、医師が1時間かけて縫合し、ようやく出血が止まった。 菖蒲は張り詰めていた気持ちをようやく落ち着かせると、蛍を問い詰めるだけの余裕を取り戻した。 「どうして大輔は頭を怪我したんですか? それに、あなただって医者でしょう。あんなに大きな傷なのに、どうしてすぐに病院へ連れて行かなかったんですか?もし私が近くにいなくて、間に合わなかったら、出血多量で大変なことになっていましたよ!」 蛍はまだ動揺している様子だったが、思わずといった感じで言い返してきた。 「大輔くんがそんなに動き回るなんて、知らなかったんですよ。ちょっと目を離したすきに、彼が階段から飛び降りて転びました。 それに、私は外科医じゃないんで、とっさに対応できなくても、仕方ないじゃないですか!」 それを聞いて菖蒲の心の底から、怒りがこみ上げてきた。 蛍は、明らかに言い訳をしている。 そこへ、知らせを聞いた充も、慌てて病院に駆け込んできた。 彼は病室に飛び込むと、ベッドに横たわりながら頭にはガーゼがぐるぐる巻きにされている大輔の姿を見た。その瞬間、充の目に怒りの炎が燃え上がった。 「なんで大輔が怪我をしたんだ?!」 そう聞かれて、蛍は気まずそうに視線をそらした。 菖蒲は怒りを抑え、事実を話そうとした。 その時、ベッドの上から大輔のかすれた声が聞こえた。 「パパ、ママが僕を連れて行ったから、怪我しちゃったんだ……」 第7話 その言葉に菖蒲は信じられない思いで、その場に凍りついた。 蛍が別の場所に連れて行ったからけがをしたのに。それなのに、息子は自分に責任を擦り付けようとするなんて。 彼女は震える声で尋ねた。 「大輔、もう一回言って。いったい、誰のせいでけがをしたの?」 大輔は口をとがらせて、ぽろぽろと涙をこぼした。 「ママのせいだよ!ママのせいで転んだんだ! 僕が転んでも病院に連れてってくれなかった。蛍おばちゃんが、僕を抱っこして病院まで来てくれたんだよ」 菖蒲は、デタラメを繰り返す息子の言葉を聞いて、全身が凍りつくようだった。 そして息をするだけでも、胸をえぐられるように痛むように感じた。 お腹を痛めて産んだ実の子が、まさか自分をこんなふうに言うなんて。 もうこの親子との縁は切ると決めていた。でも、大輔はかけがえのない我が子だ。彼がけがをしたと知って、心が痛まないわけがない。 なのに大輔は、すでに傷だらけの自分の心に、さらにナイフを突き立てるようにして何度も何度も自分を傷つけているのだ。 一方で、それを聞いた充は菖蒲の腕を強くつかむと、病室から引きずり出した。そして、誰もいないところまで来ると、その手を乱暴に振りほどいた。 彼はこめかみをぴくつかせながら、声に抑えきれない怒りをこめて尋ねた。 「菖蒲、いったいどうやって大輔の面倒を見ていたんだ!お前は仕事もせず子育てに専念しているはずだろう。それなのにこんな大怪我をさせて、すぐに病院へも連れて行かなかったなんて! 本当に彼の母親なのか疑うよ。じゃなければ、どうしてこんなにひどいことができるんだ!」 それを聞いて菖蒲は手を爪が深く食い込むほどぎゅっと握った。前世のことも合わせると、菖蒲がこの親子に抱いていた未練は、もうかけらも残っていなかった。 残されたのは、果てしない失望だけだった。 菖蒲は唇の端をゆがめて、静かに口を開いた。 「わかったわ。そういうことなら、もう大輔の母親はやめる。その役目は陣内先生に譲るわ」 そして、妻の座も彼女に譲る、と心の中で続けた。 菖蒲の瞳に宿る、死んだような静けさに気づいて、充はかすかに眉をひそめた。 しかし、息子の額の傷を思い出すと、彼の心はまた硬くなった。 充は、菖蒲が叱られたことに腹を立てて、売り言葉に買い言葉を言っているだけだと思った。だって彼女はあんなにも息子を愛しているのだから、見捨てるわけがないのだから。 しかし、今回の菖蒲の行動はあまりにひどすぎる。少しは懲らしめてやらなければならない、と思った。 「蛍は関係ないだろう?彼女は親切で大輔を病院に連れてきてくれたんだぞ。根も葉もない噂を立てるなんて、恩を仇で返す気か!」 菖蒲はふっと笑った。でも、その瞳の奥には冷たい悲しみが広がっていた。 「あなたは彼女に大輔の母親になってほしくないの?そうすれば、あなたたちは堂々と一緒になれるじゃない」 その言葉が終わるやいなや、充の怒りはさらに燃え上がった。彼はこぶしを菖蒲の顔の横の壁に叩きつけ、険しい顔で彼女を睨みつけた。 「俺は蛍に対して、やましい気持ちなんて一切ない。勝手な憶測はやめろ。俺たちは何もないんだ!」 それを聞いて、菖蒲はあまりにも馬鹿馬鹿しくて笑うしかなかった。 何もなかったというのなら、なぜ充は蛍と一緒にいて、自分を20年も実家に置き去りにしたのだろう? 何もなかったのなら、表彰されたとき、どうして感謝を述べる相手は蛍ただ一人だったのでしょ? 何もなかったのなら、息を引き取る前に、大輔はなぜ自分に早く蛍に充の妻の座を明け渡すように急かしたのだろう? とはいえ、今さら充と無意味な言い争いをする気も、菖蒲にはなかった。 あと6日でここを去る。それまでもう少しの辛抱だ。 第8話 菖蒲はもう何も言わなかった。くるりと背を向けて病院をあとにし、大輔の様子を見に行くこともなかった。 それから数日、菖蒲は京市へ行く荷造りをしながら、体を鍛える訓練も続けた。充とは顔を合わせず、大輔がどうしているか病院に聞きにいくこともしなかった。 だって、あの親子にとって自分はいてもいなくても同じなんだと、もうはっきりわかったから。 これ以上、自分から近づいていって惨めな思いをするのはごめんだ。 …… そして彼女が出発する日。それは、ちょうど大輔が退院する日でもあった。 充が、めずらしく家に電話をかけてきた。声はまだ少しぶっきらぼうだったけど、前ほどの冷たさはなかった。 「今日、大輔が退院するんだ。お昼はごちそうを作って、家族みんなでお祝いしよう」 菖蒲は一瞬、言葉を失った。「家族みんなで」という言葉が、心の奥に響いたからだ。 前世で、充が赴任してから20年間、彼が帰ってきたのはたったの2回だけだった。 しかも、いずれにしても家にいたのはほんの2、3時間で、毎回「急ぐから」と言って、いつも慌ただしく立ち去ったのだった。 だから、あの20年もの間、家族全員でテーブルを囲むことは、一度だってなかった。 自分が息を引き取るそのときまで、この願いがかなうことはなかった。 その思いがあって、結局、菖蒲は「わかった」と答えた。 これで、前世で叶わなかった心残りに区切りをつける。すべてを捧げたあの人生に、ちゃんとおしまいを告げるんだ。 そして、これからの新しい人生の、最初のページを開くんだ。 そう思って、荷造りを終えると、菖蒲はテーブルいっぱいにごちそうを作り、あの親子が帰ってくるのを待っていた。 それから、壁の時計が、ちくたく、ちくたくと音を立てて時間は進んでいった。 11時半から待って、午後1時になった。それでも、彼らは帰ってこない。 菖蒲の胸に、ふと予感がよぎる。きっと、もう帰ってこないのだろうと。 案の定、そう思ったとたんに電話が鳴った。 電話の向こうの充の声は、めずらしく申し訳なさそうだった。 「蛍が、この数日大輔の看病で大変だったからな。お礼にレストランでごちそうしてるんだ。だから、昼は家に戻らないことにした」 電話の向こうで一瞬沈黙が続いたあと、彼はためらいがちにこう続けた。 「よかったら、お前もこっちに来て一緒にどうだ?」 そのとき、電話のそばから大輔の不満そうな声が聞こえてきた。 「ママはこのごろ全然僕を見にこなかったくせに。なんで呼ぶのさ。会いたくないよ。これは蛍おばちゃんのためのお祝いなんだから!」 それを聞いても、菖蒲は悲しくなかった。むしろ、ふっと軽く笑みがこぼれた。 「私は遠慮しとくわ。あなたたちだけで食事を楽しんで」 そして、彼女は少し間を置いて、最後にこう告げた。 「充、大輔……さようなら」 そう言うと、電話を切った。 ほどなくして、外からかすかに車のクラクションが聞こえてきた。 菖蒲は寝室からスーツケースを持ってくると、手つかずの料理がのったお皿の下に、離婚届受理証明書をすべりこませた。 最後に、彼女は前世と合わせて何十年も過ごしたこの家を、ぐるりと見渡した。 もう、二度とここへ帰ってくることはないと心の中で呟いた。 そして、京市へ向かう車に乗り込むと、建物がどんどん後ろに流れていくのだった。 これから、自分は京市。充は大輔を連れて、赴任先へとそれぞれ向かっていく。 二人の道が交わることは、もう二度とない。 自分の人生は、これから大空へと羽ばたいていくのだ。 そして今度こそ自分は夢を叶えるのだ。