冷たい数珠

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結婚して五年目、白洲雨子(しらす あめこ)は偶然、秦野和也(しんの かずや)が養妹のレースの下着を手に、欲望を発散している場面を目撃して...

Chương (1)

第1章

結婚して五年目、白洲雨子(しらす あめこ)は偶然、秦野和也(しんの かずや)が養妹のレースの下着を手に、欲望を発散している場面を目撃してしまった。 和也は片手で数珠を弄びながら、もう一方の手では抑えきれない欲望に溺れていた。 扉一枚隔てた向こうで、彼が養妹に向けて吐き出す言葉にできない愛情を、雨子は息を殺して聞いていた。 力が抜けて床に崩れ落ち、涙が頬を伝う。 冷徹で近寄りがたい仏道修行者など、最初から存在しなかった。彼が手にしていた数珠は、ただ口にできない秘められた欲望を封じ込めるための道具に過ぎないのだ。 十年もの間、雨子は彼を追い続けてきた。けれど結局、自分が滑稽な笑い話にすぎなかったことを思い知らされる。 養妹が離婚して家に戻ってきたその日、雨子は南方行きの航空券を購入した。 この場所のすべてと、きっぱり決別するために。 養妹の未来を整えるために、和也は自らの手で、雨子を「贈り物」として差し出したのだった。 「安心しろ。一か月後には迎えに行く。お前は変わらず俺の妻だ」 雨子の心は完全に冷え切って、彼女は偽りの死を装って姿を消した。 雨子が崖から落ち、遺体すら見つからなかったと知った瞬間、和也は激しく後悔した。 彼は狂ったように彼女を探し回ったが、どこにもその影はなかった。 一年後、南方の小さな花屋の扉を開けたとき、彼は再び雨子と出会った。 和也の目は真っ赤に染まり、膝をついて復縁を懇願した。 だが彼女は微笑みながら、どこかよそよそしく、丁寧に言った。 「申し訳ございません、さっそく閉店させていただきます。主人と帰宅しますから」 第1話 冷たい墓石の前に跪いた白洲雨子(しらす あめこ)は、ざらついた石面にそっと額を押し当てた。 「お父さん、お母さん……あの時、あなたたちの言うことを聞かず、どうしても和也と一緒になりたいだなんて、言うべきじゃなかった」 彼女の声は風に消え入りそうにかすれ、「本当に……後悔してるの」と震えるように途切れていった。 涙は音もなくこぼれ、墓石の下の土に染み込んでいく。 時は三日前に遡る。 秦野和也(しんの かずや)の義妹、秦野美月(しんの みつき)が離婚して実家に戻ってきた。 雨子は以前から、和也がこの義妹をどれほど可愛がっているかを聞いていた。 かつての彼女は、美月のことを単なる妹と思い込んでいた。彼女はもう結婚しているのだから、和哉とそれ以上深い関係になるはずがない、と。 けれど今になって、ようやく自分がどれほど愚かだったか思い知らされた。 秦野家では、美月を迎えるために盛大な歓迎会を開いた。 雨子は慌てて家へ向かう途中、高速道路で車が故障してしまった。 彼女は焦りながら何度も和也に電話をかけたが、どうしても繋がらなかった。 翌日、疲れ切った姿で秦野家の玄関に入ると、雨子を迎えたのは、冷たい非難の言葉だった。 姑が眉をひそめ、詰め寄るように言った。「昨日は美月の歓迎会だったのに、顔も出さないなんて。いったい何をしていたの?」 雨子は必死に弁解した。「車が故障して……和也には電話が繋がらなくて、そのあとスマホの電源も切れちゃった……」 和也はソファに腰かけ、淡い色の服を身にまとっていた。手首には数珠が巻かれ、その表情は静かな仏像のように、喜怒の影も見せていない。 和也はわずかに目を上げ、淡々とした口調で言った。「歓迎会が八時から始まったんだ。こっちはマナーモードにしていたから、連絡が入ったって気づかなかった」 その淡々とした一言で、雨子が一晩中味わった焦りや、途方に暮れる苦しみが、まるで最初から何もなかったかのように、跡形もなく消されてしまった。 そして、これはほんの始まりにすぎなかった。 美月が「主寝室の陽ざしが好き」と言えば、和也は雨子を角のメイドの部屋へと移らせた。 彼女のスキンケア用品は、いつも美月の「うっかり」で割られてしまう。クローゼットにしまっていた、大切なドレス数枚も、いつの間にか消えていた。 問いただしてみても、美月は無邪気な顔で首をかしげて、「え?知らないよ。メイドが片付け間違えたんじゃない?」と繰り返すばかりだった。 和也はいつも淡々と見ているだけで、一言も発しない。まるでその騒ぎが自分とは無関係のように。 雨子は心に重い疲労感が込み上げるのを覚えた。彼女はようやく、この一方通行の情を見つめ直し始めたのだ。 彼女は、当時親友に手を握られながら諭された言葉を思い出した。「和也って人、冷たくて思いやりがないよ。そんな人を本気にしてはダメだって」 それでも彼女は、和也の冷たくも世俗を離れたような佇まいに心を奪われ、その忠告をあえて信じようとはしなかった。 彼女は、自分こそがあの神々しい男を、ただの人間のところへ連れ戻せる唯一の人だと、思い込んでいた。 彼女はあらゆる手を尽くして、彼に近づこうとした。 彼が物静かなのを好むと聞いて、彼女ははしゃぐ自分を封印した。 彼の胃が弱いと知れば、料理をしたことのない手で台所に立ち、少しずつ胃に優しいスープの作り方を覚えた。 彼は仏道に励んで、数珠を手から離さないと知ると、彼女は難解な仏典を読み始め、ただ彼と少しでも共通の話題を増やしたいだけだった。 まるで熱心な信者がそうするように、和也を仏様のように崇め、全てを捧げていた。 和也はいつも、彼女を無視して、視線は彼女の後ろに向けている。 そこには、いつも物静かで、ひっそりと佇む美月がいるのだ。 彼女も何度か心が折れ、諦めようと思った。どれだけ努力しても、「仏」のような冷たい心を溶かすことができないから。 けれど、まさに彼女が諦めかけ、背を向けようとした瞬間、和也がプロポーズしてきたのだ。 美月の政略結婚の式の最中、彼は人々の前で雨子のもとへ歩み寄り、片膝をついて言った。「俺と結婚してくれないか?」 内情を知る友人たちは皆、口々に彼女を祝福した――ついにあの神々しい男を落としたと。 その瞬間、彼女はこれまでの努力がすべて報われた気がした。 迷うことなく手を差し出し、自分の指には少し大きすぎる指輪を受け取った。 たとえ結婚後、和也が一度も触れようとせず、笑顔すらめったに見せてくれなくても、彼女はいつも自分に言い聞かせていた。 「彼が私を妻にしてくれたから、その心が私に向かう日は、きっとそう遠くないはずだ」と。 だから彼女は、なおも深く愛を注ぎ、ただひたすらにその時を待ち続けた。 彼女はずっと信じていた――陽光と水さえ与え続ければ、菩提樹はいずれ花を咲かせると。 ――美月が離婚して実家に戻ってくるその日までは。 その日、彼女は初めて見た。いつも無表情だった和也が、その顔に確かな笑みを浮かべた。 それは淡い笑みだった。けれど、それが鋭い針のように、彼女の瞳を貫いた。 「兄として、妹が苦しみから救われたことをただ喜んでいるにすぎない」彼女はそう自分に言い聞かせた。 しかし、その夜、彼女は思いがけず、彼の心の奥に潜む深い闇を覗き見ることになってしまった。 深夜、彼女は温かいミルクを手に和也の部屋へ向かった。扉はわずかに開いたまま、その隙間から漏れた細い光が、廊下に長い影を刻んでいた。 柔らかな灯りの下、和也は荒い息を漏らしながら、片手で数珠を弄び、もう片方の手には、ベランダに干してあったはずの美月のレースの下着を握りしめていた。そして、その腰はゆっくりと揺れていた。 そして、「美月……」と切なげに呼ぶ声が漏れたその瞬間、部屋は静寂に包まれた。すべてに、説明がついたのだ。 なるほど、菩提樹にはもう花が咲いていたのだ。小さくても確かに咲き、葉陰に隠れて、誰にも気づかれずに。 冷ややかで手の届かぬ仏道の信者など、最初からいなかった。あの手の数珠は、口にできない欲望を必死に繕うための飾りに過ぎなかったのだ。 もう自分を欺くことはできない。彼女は完全な道化でしかなかった。 雨子は両親の墓前で、そっと手を合わせ、目を閉じて静かに拝んだ。 顔を上げたときには、涙の痕も乾いていた。瞳の奥に、静かな決意の灯がともった。 「お父さん、お母さん。私、和也と離婚する。 南の方へ行くの。これからはなかなか顔を出せないかもしれないけれど……心配しないで。今度はちゃんと、まっすぐ生きていくから」 彼女は立ち上がり、墓石をもう一度見つめ、静かに背を向けて歩き出した。 「自分のために生きる」 雨子は地元の名物をいくつか買いに出かけた。 もう二度と戻ってこないかもしれない、何か思い出のものを手元に残しておきたいと思った。 飛行機のチケットは一週間後。その間に、昔の知り合いたちと別れを告げる時間は十分にある。 彼女はかつて一番の親友だった小林春海(こばやし はるみ)を誘った。 カフェで再会すると、春海は雨子をぎゅっと抱きしめ、声を詰まらせながら言った。「雨子……もう二度と会えないかと思ってた。 あの頃のあなたは和也に夢中で、彼のために自分を見失っていく姿を、私はただ見守ることしかできなかった」 雨子の鼻の奥が熱くなり、ふと悟った。他人の目には、自分のあの熱い想いは、ただの自己犠牲に過ぎなかったのだと。 彼女はかつて、和也だけは自分にとって特別だと、そう信じて疑わなかった。だから彼女は、彼のために自分のもともとの仲間も、趣味も、そして個性さえも、迷いなく手放した。 今思えば、あの行動は子どもじみていて、滑稽なくらいだった。 「南の方へ行くの」雨子が静かに言った。 春海は一瞬きょとんとして、「旅行?」と聞き返した。 「ううん」 雨子は首を振り、かすかに笑みを浮かべた。「たぶん戻ってこないと思う」 春海が何か言おうと口を開けたその瞬間、視線がふと、カフェの透明なガラス窓の向こうで止まった。 彼女は思わず雨子の腕をつかみ、声を抑えながらも驚きを隠せずに言った。 「雨子、見て!あれ、美月じゃない?その隣に……和也でしょうか!?」 第2話 モールの明るい照明の下、美月は一着の服を手に取って体に当てながら、隣に立つ和也に話しかけている。 和也はいつもならどこか冷めていて世俗から距離を置いた雰囲気だが、今は手に二着のワンピースを持ち、少しうつむき加減になっている。 その表情には、雨子がこれまで一度も見たことのないほどの真剣さと柔らかさが浮かび、目前の美月にどちらが似合うかを丁寧に見比べている。 雨子は今でも覚えている。あの頃、和也と一緒に買い物へ出かけることを、どれほど願ったことか。 「10分だけでも付き合ってくれない?」と懇願しても、彼はいつも静かに、淡々と断った。代わりに寺で座禅を組むか、書斎で一人、経文を書き写す時間を選んだ。 「そんなことは時間の無駄だ。俗世のつまらない時間の潰し方にすぎない」と、彼は言ったのだ。 なるほど、人と買い物に行くことが嫌なわけではなかった。ただ、彼女と一緒に行きたくなかっただけなのだ。 和也は、視線に気づいたのか、ふと顔を上げた。 ガラス越しに、彼のまなざしが一瞬だけ雨子の顔に留まった。 その後、雨子の隣にいる春海へと視線を移し、表情ひとつ変えなかった。 雨子は、どこから湧いてきたのかわからない勇気を振り絞って、春海の手を取ると、カフェを出た。 「和也」 口を開くと、喉が詰まったように声が嗄れた。 和也は淡々と二人を見やり、眉をわずかにひそめただけで、何も言わなかった。 その瞬間、雨子の胸の奥がひやりと冷えた。 彼が、自分と春海が一緒にいることを快く思っていないのを、雨子は分かっている。 和也は、春海のあからさまで騒がしい性格をあまり好ましいと思わず、「少し美月みたいに、静かで上品になったら」と、よく口にしていた。 けれど春海が、雨子にとって唯一の心を打ち明けられる友だと彼は知らない。 両親を亡くし、ほとんど世間から孤立していたあの頃、彼女に温もりを与えてくれたのは春海ただ一人だった。春海は彼女を支え、暗く沈んだ日々から救い上げてくれたのだ。 記憶が頭をかすめた瞬間、美月がふいに可愛らしい笑みを浮かべ、一歩前に出て春海へ手を差し出した。 「あなたが雨子さんの友達、春海さんですね。お噂はかねがね」 和也はほとんど反射的に手を上げ、美月の差し出した手をつかんで引き戻した。声は低く、冷ややかだ。 「美月……誰にでも手を差し出すものじゃない」 春海は気まずそうに手を引っ込め、雨子は申し訳なさそうに彼女を見つめた。 ――好きになれない人だと、その仲間までどうしても目障りに感じてしまうんだよね。 雨子の胸にじわりと罪悪感が広がり、かすかな疼きが波のように押し寄せる。 美月は信じられないような表情を浮かべて顔を上げ、和也を見つめた。 「お兄ちゃん……もう、二度と私のことを気にしないと思ってた」 和也の声は低く沈み、視線は二人の握り合った手に釘づけられていた。「お兄ちゃんはもう結婚した。お前も大人になったんだ。昔みたいに、いつまでも構ってやれるわけじゃない……」 美月は彼の言葉を最後まで聞こうともせず、涙で潤んだ瞳で彼を見上げた。 「でもお兄ちゃん、元夫はずっと私に冷たくて、家に閉じ込めたりしてたの。もうおかしくなりそうだった!本当に私のこと、もうほったらかしにする気なの?」 和也は一瞬、言葉を失った。「そんなこと、どうして一度も俺に言わなかったんだ?」 美月は興奮を抑えきれず、涙が大粒で頬を伝った。「言えるわけないでしょ?だってお兄ちゃんはもう結婚したんだよ。周りのみんな、『これからは距離を置きなさい』って言うんだから!そんな状況で、私にどう話せっていうの?もし言ったら、雨子さんはどう思う?……喜ぶわけないでしょう?」 雨子は、この事実をねじ曲げたような非難を聞きながら、思わず口を開いた。「美月、私そんなこと一度も――」 「黙れ!」 和也がぐいっと顔を向け、冷たい視線を雨子に突き刺し、鋭い声で遮った。 「美月は俺の妹だ!結婚する時も言ったはずだろ――俺と結ばれた以上、彼女を自分の妹のように大事にしろって。なんでお前はそこまで嫉妬深いんだ!」 突然の理不尽な叱責に、雨子の顔が一瞬強張った。 美月は和也の袖を掴み、涙をぽろぽろとこぼしながら言った。 「お兄ちゃん、雨子さんを責めないで。彼女は何も言ってないの。悪いのは私、全部私のせい。お願い、二人とも喧嘩しないで……」 嗚咽を漏らしながら、彼女はわざとらしく雨子の方へと身を寄せた。 「ごめんなさい、雨子さん……」美月の足がふらつくと、そのまま勢いよく雨子に転がり込むようにぶつかってしまった。 「きゃっ!」 不意を突かれた雨子は、背中を冷たい床にごとんと打ちつけ、うめくような声をあげた。 しかし、それで終わりではなかった。 混乱したふりをした美月は、細いヒールを容赦なく雨子の腹部へと踏み込んだ。 「うっ……!」 焼けつくような痛みが一瞬で全身を駆け抜け、雨子は体を丸め、顔面が真っ白になった。 それでも美月は見えないふりをして、さらに力を込めて二度ほど踏みつけてから、ようやく慌てたように足を引いた。 涙を浮かべたままの顔で、尖った声を張り上げる。 「全部あんたのせいよ!あんたさえがいなければ、お兄ちゃんはとっくに私の苦しみに気づいて、家に迎えに来てくれたはずなのに!全部あんたのせいよ!死んじゃえ!」 周囲の人々がその突然の出来事にざわめき、視線を向けた。 和也はすぐに手を差し伸べて、泣き崩れる美月を抱きしめ、胸が痛むような思いで必死にあやした。 「美月、大丈夫だ。兄ちゃんがここにいる」 その声には、雨子が今まで聞いたことのないほどの優しさが滲んでいた。 和也は地面にうずくまり、痛みで身を縮める雨子に目を落とし、眉をひそめる。瞳の奥に、複雑な光が一瞬だけ走った。 腹の痛みは波のように次第に強まっていったが、それ以上に冷たかったのは、雨子の胸の奥で音もなく凍りついた心だった。 雨子の視界はぼやけていた。でも、春海が駆け寄ってきて、彼女の体を抱き起こしてくれるのがわかった。離れたところでは、和也が美月をしっかり抱きしめ、あやしているようだった。 雨子が再び目を開けたとき、そこは病院の白い天井の下だった。 「まだ痛む?」 春海は湿らせたタオルをそっと雨子の額に当てながら、自分でも気づかぬうちに目の縁を赤くしていた。 雨子は病床に横たわり、顔から血の気が失せている。力なく首を振り、「大丈夫」と嗄れた声で答えた。 「秦野家の連中なんて最低よ!一晩中意識がなかったのに、誰一人として見舞いにも来なかったなんて!」 春海の声は怒りで震えている。 美月の耳に刺さるような罵声と、和也の優しい慰めの声が、今も頭の奥にこびりついている。 もうとっくに冷え切ったはずの心が、まだこんなに疼くなんて。 雨子は虚ろな目で天井を見つめながらつぶやいた。 「もういいわ。どうせ、もうすぐいなくなるんだから」 身体を起こそうとした瞬間、下腹部に走った激痛に視界が真っ暗になった。そのまま枕に崩れ落ち、冷や汗が一気にこめかみを濡らした。 春海はもう堪えきれず、彼女の華奢な肩をぎゅっと抱きしめ、涙をこぼした。 「雨子、こんな日々が待ってるなんて知ってたら、あの時の結婚、絶対に止めてた!無理にでもあの男から離れさせてあげたのに!」 雨子はそっと彼女の背中を撫でながら、かすかに囁いた。 「もうすぐ、つらかった日々も終わる」 一粒の涙が頬をすっと伝って落ちた。 第3話 たとえ今のような結末になると分かっていたとしても、あの時の彼女はやはり和也のプロポーズを受け入れただろう。 雨子は病院で一週間を過ごした。 麻酔が切れた夜に、傷の痛みで眠れず、冷や汗が患者衣を濡らした。 春海は和也に何度も電話をかけたが、返ってくるのはいつも話し中の音だけだった。 【離婚しよう】 雨子が彼に送ったのは、その一通のメッセージだけ。 二日、三日…… そのメッセージはまるで深海に沈んだ石のように、波紋ひとつ起こさなかった。 心の底では彼がどんな人間か、とっくに分かっていた。それなのに、この徹底した無視を前に、胸の奥にしまい込んでいた、自分さえ認めたがらないかすかな期待までもが、静かに消えていった。 雨子は自嘲的に苦笑した。冷たい石は、いくら抱きしめて温めようとしても、結局は温まらない――今さらそう悟るのだ。 退院の日、春海は出張で不在だった。 雨子が待っていた和也は現れず、代わりに病室に入ってきたのは美月だった。 美月はきれいに包装された果物バスケットを抱え、無邪気な笑顔を見せた。 「雨子さん、ごめんね。この数日、なんだか気分がふさぎ込んでて……お兄ちゃんがずっと家で付き添ってくれてたから、お見舞いに来られなかったの」 雨子は静かに彼女を見つめた。手を伸ばすことも、言葉を返すこともしなかった。 美月の笑顔は崩れないまま、一歩踏み出してきた。瞳の奥が鋭く光り、声を潜める。 「なんでよ……どうしてあなただけがそんなに幸せなの?どうして私の全てを奪ったの?」 雨子には、その瞳に宿る憎しみの理由が理解できなかった。ただ、反射的に距離を取った。 「何を言っているのか分からない。あなたの全てを奪ったって、どういう意味?」 美月はそれ以上何も言わず、強引に果物バスケットを雨子の胸元に押しつけると、再び無邪気な笑顔を浮かべた。 「雨子さん、ゆっくり傷を治してね。じゃね!」 果物バスケットは思ったより重く、雨子がそれをテーブルに置こうとした瞬間、手首に鋭い痛みが走った。 視線を落とすと、鮮やかな色の、ぬめりとした蛇が、いつの間にか果物バスケットの隙間から現れ、今まさに彼女の腕にがみっと食らいついていた! 「きゃあああああ!!!!」 激痛と恐怖が一気に彼女を呑み込む。 美月は病室の入り口に立ち、雨子が後ろへ崩れ落ちる様子を満足げに見届けた。 その口元に、一見無邪気な笑みが浮かんでいたが、その裏には冷たい残酷さが潜んでいる。 「死ねえ!」 軽く吐き捨てるようなその一言のあと、彼女はドアを閉めた。床に倒れた雨子は、そのまま意識を失った。 次に目を覚ましたのは、三日後のことだ。 雨子は重たいまぶたをゆっくりと上げた。ぼんやりと見えてきたのは、病室のまばゆいほど白い天井だった。 身体にはいくつものチューブが取り付けられ、機械が規則的にピッ、ピッと音を立てている。 首を少しだけ傾けると、ベッドのそばの椅子に和也が座っている。 彼女の目が開くのを見て、彼は表情ひとつ変えず、いつものように静かで冷ややかな調子で言った。 「目が覚めたか」 その声が一瞬途切れ、かすかに察知できるほどの罪悪感が滲む。 「すまない。美月から目を離してしまった。あの子は離婚してからずっと情緒が不安定で……お前のせいで俺が彼女を見捨てると思い込んで、蛇で脅かしたんだろう。気にするな、ただの悪ふざけだった。 医者によると、もう命に別状はないそうだ。ICUであと少し様子を見たら、一般病棟に移っていいって」 ――悪ふざけ? 雨子は病床に横たわったまま、全身が氷のように冷え切っている。指先さえ動かせない。 心が真冬の川の底へ沈められ、ゆっくりと、深く深く落ちてゆく。 命をも奪いかねない毒蛇の事件が、彼にとっては妹の気まぐれな悪戯でしかないとは。 これまでの努力も、我慢も、そして今にも消えそうなこの命も――一体、何のためのものだったのだろう。 雨子は口を開いた。声はひどく掠れている。「この件、どうするつもり?警察に通報する?それとも内々で処分する?」 和也はわずかに眉をひそめ、声の調子を低く落とした。「警察を呼ぶほどのことじゃないだろう。美月はもう自分の過ちを認めている。家族同士なんだから、そんな些細なことで大げさに騒ぐこともないじゃないか。なにより、お前ももう無事なんだろう?」 信じられないという思いで、雨子は彼を見つめた。和也の冷たい瞳の奥に、わずかな苛立ちが垣間見えた。 命が危うかったというのに、彼の目には、彼女がただ些細なことにこだわっているようにしか映っていない。 涙が、何の前触れもなくあふれ出し、視界をぼやけさせた。 何か言おうとした瞬間、胸の奥から激しい咳が込み上げ、喉の奥に鉄の味がした。 黒ずんだ血が口からあふれ、真っ白なシーツに飛び散った。その光景があまりにも衝撃的で、和也は思わず息を呑んだ。 目に初めて動揺の色が走り、彼は勢いよく立ち上がってナースコールを押した。「先生!」 白衣の一団が慌ただしく駆け込み、雨子の病床を取り囲んだ。 救急処置は三時間以上も続き、ようやく主治医が疲れ切った様子で扉の向こうから現れた。外で待っていた和也に向かって、医師は言った。 「秦野さん、奥さんの体内にはまだ毒が完全には抜けていません。ですから、極力平静を保つことが大切です。興奮されると毒が回りやすくなりますので、どうかご注意ください」 和也はその後も二日間、病室に付き添い続けた。 雨子が再び意識を取り戻したとき、目に入ったのは病床のそばに座る彼の姿だった。 彼女が目を開けるのを見るなり、和也はすぐに身を乗り出し、点滴の針が刺さっていない方の手をそっと握った。掌は温かく、その動きは驚くほど優しい。 「すまなかった」低く落ち着いた声が響く。「今回は俺の不注意だ。ゆっくり安静にして。必ず償うから」 雨子はこれ以上感情を高ぶらせまいと、呼吸さえも静かに整えた。 それでも、涙が一筋目尻からこぼれ、冷たい頬を伝って髪に消えていった。 雨子は思ってもみなかった。本当に、想像すらしていなかった。 和也の妹に命を奪われそうになり、今もかすかな息を続ける私。それでも彼は、まるで施しのように、ようやく少しだけ傍にいてくれる。 けれど、彼が「そばにいる」のは、果たして私のためなの。それとも単に私をなだめるだけなの。 あるいは、私が自分の目から離れたら、すぐさま警察に通報して美月を刑務所に送り込まれるのではないかと、ただそれを恐れているだけなのね。 第4話 彼は彼女に薬を飲ませ、一晩中そばに寄り添って見守った。夜中、悪夢にうなされて震える彼女の手を握りしめ、そっと宥めた。 目の奥に赤い血管が浮き、何日もまともに眠っていないのがうかがえた。 医師たちはこっそりと感心しあった――「秦野さんの献身的な看護ぶりと」、「お二人の何と仲の良いこと」かと。 雨子の各種の数値がようやく安定し、回復に向かっていると知らされたとき、和也は目を赤くし、医師の手を握って何度も何度も感謝を述べた。 雨子は黙ってその光景を見つめていた。 かつて彼女は思っていた。一人の女性のために、男が徹夜で目を爛々と赤らめ、プライドを捨てて尽くす――それが愛というものの、最も美しい姿なのだと。 けれど今になってようやく分かった。男が眠る間を惜しんで看病し、プライドさえも捨てて尽くすのは、ただ……別の女性を守るため、彼自身が背負った罪悪感をひたすら償おうとしているだけだったのかもしれない、と。 ICUを出て一般病棟に移った最初の日、美月がやって来た。 彼女は上品なワンピースを着こなし、相変わらず名家の令嬢のような澄ました佇まいで、体調も悪くなさそうで、何の変調も感じさせなかった。 病床の上の雨子には目も向けず、自分の服の裾を指でいじりながら、おずおずと和也のそばに寄っていく。しばらく唇を噛みしめたあと、蚊の鳴くような声でつぶやいた。 「お兄ちゃん、謝りたくない。だって、私は悪いことしてないもん」 和也はちらりと彼女を見ただけで、何も言わなかった。 息が詰まるような沈黙が十数分も続いた。 やがて、美月はしぶしぶ和也の方に向き直り、悔しさをにじませた声で言った。 「……お兄ちゃん、ごめん。二度と、雨子さんには悪さしない。だって……だって、あの人がお兄ちゃんを奪ったって思ったから。ただ、それだけでむしゃくしゃしたの。もう絶対しないから、許して」 彼女が謝っている相手は、最初から最後まで和也だった。 けれど、和也の顔に張りついていた氷のような冷たさは、その言葉で目に見えて溶けていった。 彼は手を上げ、美月の髪をそっと撫で、穏やかな声で言った。 「分かっていればそれでいい」 それから彼はようやく雨子の方を向き直し、事務的な静けさを帯びた口調で言った。 「美月ももう過ちを認め、家でずっと反省していた。今回は大目に見てやってくれないか」 雨子は目の前の男を、見知らぬ他人でもあるかのようにじっと見つめた。 彼は仏典を読み、衆生救済を語り、慈悲を口にする。 けれどその「衆生救済」の中に彼女は含まれていない。彼の慈悲が向けられるのは、美月だけだった。 謝罪にしても、彼女は直接的な「ごめんなさい」の一言さえ値しない。 答えありきの問いに、彼女には選択の余地など一切与えなかった。 彼女が受けた傷も、彼は見ようとせず、彼女の気持ちなど、全く気にも留めない。 雨子はそっと目を閉じ、長いまつげが青白い頬に疲れた影を落とした。 「疲れたわ……あなたたち、帰って」 和也の顔にわずかな戸惑いが浮かび、低く呟いた。「ここで看病するって言っただろう……」 その言葉が終わる前に、美月がすぐさま彼の腕を取って、声を弾ませて言った。 「ありがとう、雨子さん!お兄ちゃん、私の大好きなあのオーダーメイドのお店、すぐ近くにあるの。ねぇ、一緒に行こう!」 雨子は顔をそむけ、もう二人を見ようとはしない。 彼女はすでに、和也がどんな選択をするか分かっていたから。 けれど今の彼女の心は、すでに完全に冷め切っており、もはや何の動揺も生じなかった。 案の定、和也はしばし沈黙したあと、雨子に言った。 「ゆっくり休んで。俺は美月と少し出かけてくる。夜にはまた様子を見に戻るよ」 雨子は何も答えなかった。 足音が遠ざかっていく。視界の隅で、美月が和也の腕にぴったりと寄り添い、甘えるように彼の肩に頭を預けている。 和也はそれを拒むどころか、優しく彼女の頭を撫でた。 彼が雨子に向けていた時の重苦しい表情とは対照的に、去りゆく背中には、どこか肩の力が抜けたような軽やかさがあった。 不意に、記憶が押し寄せてくる。 結婚したばかりの頃、和也は「修行の身だから」と言い、彼女に一メートルの距離を保つよう求めていたのだ。 やがて時が経つにつれ、その距離は半分まで縮まった。 けれど、美月のように親しげに触れることを、決して許したことがなかった。 あれは彼の冷ややかな自己抑制だと思い込んでいた。今やそれは、彼女だけが与えられなかった特権でしかなかった。 唇をひきつらせようとしたが、しかし自分には自嘲するような表情さえ浮かべられなかったと気づいた。 胸の奥は湿った綿で詰められたように重く、息苦しさで押し潰されそうだった。 雨子は病院で夜が更けるまで待ち続けた。廊下の灯りが次々と消えていっても、和也は戻ってこなかった。 ――もう、彼は帰ってこない。 それなら、それでいい。 彼女はひとりで退院の手続きを済ませ、あの「家」と呼ばれる場所へ戻った。 そして、航空券を三日後の便に変更した。 今度こそ、すべての荷物をまとめ、この場所を永遠に離れる。 家の中は真っ暗で静まり返っていた。ただ、二階の寝室のドアの隙間からだけ、ほのかに温かな黄色い光が漏れている。 彼女は音も立てずに階段を上がった。だが、ドアに近づいた瞬間、中から声が聞こえてきた。 美月の甘えたような柔らかい声だった。「お兄ちゃん、もうずいぶん長い間一緒に寝てないじゃん。 お嫁さんをもらってから、急によそよそしくなったんだもん。雨子さんなんて、消えればいいのに」 それに続いて、和也のため息まじりの、けれどどこか甘やかすような声がした。「ばかなこと言うなよ。兄ちゃんだっていつかは家庭を持つもんだ」 「そんなの知らない」 美月の声はさらに甘く、拗ねたように響いた。 雨子は自分の口を必死に押さえ、爪が手のひらに食い込むほど強く握りしめた。喉の奥から溢れ出そうになる悲しみを、どうにか押し殺した。 堪えきれぬ涙が溢れ、熱い滴が冷たい頬を伝って落ちた。 彼女は扉にもたれかかりながら、力が抜けたように少しずつ滑り落ち、ついには床に崩れ落ちた。 そのわずかな物音が、とうとう中の人を驚かせてしまった。 「外、誰だ!?」 第5話 雨子は壁に手をつき、なんとか立ち上がった。顔に残る涙の跡を、力いっぱいふき取った。 このみっともない姿だけは、和也に見られたくない。 次の瞬間、ドアが開いた。 和也が入口に立ち、眉をひそめて彼女を見つめる。 「どうしてここにいる?」 雨子は深く息を吸い込み、声の震えを押さえ込むように静かに言った。 「私たちはまだ離婚してない。ここはまだ私の家よ。どうしてここにいてはいけないの?」 「お前は今、病院で安静にしているはずだ」 和也の声には責めるような響きがあった。 「勝手に動くな。片付いたら迎えに行くつもりだ」 迎えに行く――その言葉が、今の雨子にはひどく皮肉に聞こえた。 そのとき、美月が和也の背後から身を乗り出して、甘えるように彼の腕を抱えて、まるで彼に寄り添うように、その細い体を預けていた。 彼女が身にまとっていたのは、極めてセクシーな黒のレースのキャミソールだ。布地は驚くほど少なく、胸元には雪のように白い肌が大胆に露わになっている。その上には、いくつもの意味深な赤い跡がくっきりと残り、灯りに照らされていやに目を引く。 雨子は和也の言葉に答えず、その赤い痕跡をじっと見つめ続けた。 美月はその視線を追って下を向き、わざとらしく慌てたふりをして腕で胸元を隠しながら、甘ったるい声で言った。 「やだぁ、雨子さん、変な誤解しないでね。これ、全部蚊に刺されたの。お兄ちゃんとは関係ない」 蚊だって? 雨子は目を閉じ、これ以上考えまいとした。一体どんな凶暴な蚊が、こんな想像を掻き立てるような跡を残せるというのか。 彼女は再び和也を見つめ、かすれた声で問いかけた。「……あなた、夜には病院に戻るって言ってたわよね?」 和也は鼻先を手で軽く触れ、視線をそらした。 「美月と買い物に行って、帰りが遅くなったんだ。だから先に彼女を送って休ませてから、お前のところへ行こうと思ってたんだよ」 美月はすぐに唇を尖らせ、不満げに雨子を見つめた。 「雨子さん、お兄ちゃんが行くって言ってたじゃない。おとなしく待ってればいいのに、そんなに出歩いたらお兄ちゃんが心配するよ?」 和也もまた雨子を見た。その目には同じく納得のいかない色が宿っていた。 雨子は何も答えず、服の裾をつまんだ指先が微かに震えていた。 出て行く覚悟はできていた。けれど、それでも彼の口から確かな言葉を聞きたかった。 できるだけ平静を装って、彼女は口を開いた。 「あなたが『仏道の修行を極めたいから、部屋に女の気配があってはならない』と言うから、それに従って、結婚して五年、ずっと寝室を別々にしてたよね」 雨子の視線がまっすぐに和也をとらえ、彼のわずかな表情の変化まで見逃さない。 「じゃあ、この子は?どうして彼女だけ、あなたの部屋を自由に出入りできるの?」 嫉妬していないなんて、そんなの嘘だ。長年来、彼に近づくことさえできなかったのに。 それなのに美月は、あんなに露出の多いセクシーな寝間着姿で、堂々と彼の肩にもたれ、同じベッドで眠っている。 美月はその言葉にくすっと笑い、隠そうともしない得意げな光を瞳に宿した。 「だって、私は妹だもの。私たち兄妹の絆って、あなたにはわからないでしょ?他の女とは違うのよ」 兄妹の絆――? 雨子は、和也が美月を見つめる目に浮かぶ甘やかしと寵愛をただ見つめていた。 そして、この五年間、自分に課せられてきた冷たいルールと、わざと設けられた距離感を思い返す。 胸の奥、とうに麻痺していたはずのその場所が、再びじわりと鋭い痛みに突き刺された。 「和也、聞いてるの。どうしてなの?」 雨子は珍しく強情に、目の前の男を真正面から見据えた。 和也は彼女の異変にまったく気づかず、いつも通り冷え切った声で言い放った。 「雨子、真夜中に俺の部屋の前でそんなくだらないことを聞いて、何がしたいんだ?」 彼の視線は明らかに泳いでいた。心にやましいところがあるのは明白なのに、それでもあの汚らわしい考えを、あれこれと言葉を濁して認めようとはしなかった。 一方、美月の視線は堂々としていて、誇らしげな笑みを隠そうともしない。 雨子は突然、ひどく疲れを感じた。問い詰める気力さえ失っていた。 「もういいわ」彼女の声は、かすかに震えていた。深く息を吐き、真剣な眼差しで和也に言った。 「これからは、もうあなたたちの邪魔はしないわ」 両想いなら――いっそ二人を祝福して、自分は完全にその世界から身を引こう。 雨子は背を向けて歩き出した。目尻から一粒の涙がこぼれ落ちたが、胸の奥はこれまでになく軽やかになった。 翌朝、雨子は空腹で目を覚ました。 ここしばらくほとんど何も食べていなかったせいで、胃が痛むほど空っぽだった。 階下へ降りると、ふわりと食欲をそそる香りが漂ってくる。 ダイニングの入口に立つと、美月がテーブルに座り、目の前には豪華な朝食が並んでいた。 美月は満足そうにため息をつきながら言った。 「お兄ちゃん、やっぱりあなたの朝ごはんは最高ね!あなたの手料理を食べるの、久しぶりだわ!」 雨子の足がその場で止まり、呆然と立ち尽くした。 エプロン姿でキッチンカウンターに立つ和也を見つめる。彼の顔には、めったに見られない生活の温かみに満ちた穏やかな表情が浮かんでいる。 結婚して五年、彼が料理をするなんて、今まで一度も知らなかった。 和也は搾りたてのジュースを美月の手元にそっと置くと、雨子がこれまで聞いたことのないほど優しい声で言った。 「これから毎日、作ってあげるよ」 雨子が近づくまで、和也は顔を上げなかった。 彼女に気づいた瞬間、その柔らかさは一気に消え、いつもの冷ややかな表情に戻る。 「起きたのか?」 淡々とした声で続ける。「今日は美月を連れてパーティーに行く。お前はまだ体調が万全じゃないから、家で休んで、行かなくてもいい」 雨子は小さくうなずき、何も言わずにテーブルの反対側へ歩き、椅子に腰を下ろそうとした。 和也の顔に一瞬、気まずそうな色がよぎり、雨子をちらりと見た。 「こんなに早く起きるとは思わなかった。朝食は用意してない、自分でなんとかして」 第6話 半分ほど残った半熟卵に、半分に切られたソーセージ、そして食べ残しのトーストの耳。それらを雨子の前へと押し出した。 「雨子さん、よかったら私のをどうぞ」 彼女はぱちりと瞬きを交えながら、優しくて寛大な様子を見せた。 その乱れた皿の上の食べ物が目に入り、油っぽい匂いが鼻を刺した。 薬の影響で、もともと胃の調子が悪かった雨子は、胃がむかむかと揺らぐような感覚に襲われた。思わずこみ上げる吐き気に、彼女は小さくえずいてしまった。 美月の顔色がさっと変わると、目尻が瞬く間に赤く染まった。声は今にも泣き出しそうに震えている。 「雨子さん、私のこと、嫌いなの?やっぱり、許してくれてないのね……」 和也の表情がぐっと険しくなる。 蒼ざめた雨子の顔を一瞥したが、彼の目に心配の色などない。ただ不快そうな、いらだった表情が浮かんでいただけだ。 「白洲雨子!」 彼はフルネームで叫んで、怒気を含んだ声を放った。 「美月が好意でやったのに、なんでそんな嫌がらせみたいなことするんだ?」 美月は再び、いかにも親切そうな顔でトレーを押し出した。 「雨子さん、少し食べてよ。今日は大野(おおの)おばさんがいないんだから、今食べないと、何もなくなっちゃうよ」 雨子は込み上げる吐き気を必死に抑え、かすかに声を出した。 「結構よ、体の調子が悪いから、食べられないの」 空気が一瞬で凍りついた。 和也は数秒間、彼女をじっと見つめたあと、突然踵を返し、椅子の背に掛けてあった上着をつかんだ。声は冷え切っていた。「大げさなんだよ」 玄関まで歩いた彼は、ふと足を止め、美月の方を振り返って柔らかく言った。 「家でおとなしくしてろ。あとで迎えを寄こす」 「わかったよ、お兄ちゃん、またね!」 美月は甘い笑顔で手を振った。 ドンッ、と音を立ててドアが閉まる。 雨子は立ち上がって部屋を出ようとした。 だが、振り向いたその瞬間、美月の顔から甘い笑みが一瞬で消え、代わりに冷たい悪意が浮かんだ。 彼女は勢いよく立ち上がり、雨子の髪をつかむと、残飯の皿にその顔を力任せに押しつけた。 「んっ!」 不意を突かれた雨子の顔は、べったりと脂ぎった食べ物の中に沈み込む。 卵液とソースが顔中にこびりつき、鼻と口の中に吐き気を催す匂いが広がった。 美月は彼女の髪をつかんだまま無理やり顔を上げさせ、そのみじめな姿を見下ろして、満足げに笑った。声は相変わらず、甘ったるい。 「言っておくけど、ここは私の家よ。あんたみたいなよそ者が、かわいそうぶってお兄ちゃんを奪おうなんて――ありえないんだから!」 美月は雨子の髪をつかみ、顔を何度も汚物の中へ押しつけた。次の瞬間、ぐいと引き上げる。雨子は息もできず、窒息しかけながら必死にもがく。 「うっ……はな、して……」 全身の力を振り絞って抵抗し、爪で美月の腕にいくつもの血の跡を刻んだ。 痛みに顔をしかめた美月の目が、さらに冷たく光る。雨子の顔色が紫に変わり、呼吸がかすかになるまで、彼女は手を緩めなかった。 そしてようやく、美月がぱっと手を離すと、雨子は力が抜け、床に崩れ落ちた。 美月はゆっくりと手を払って、甘い笑みを浮かべた。「お兄ちゃんは、永遠に私のものよ。 おとなしくしてなさい。私の代わりになろうなんて、思わないことね」 そう言い残すと、美月はくるりと背を向け、部屋を出て行った。 雨子は思った。もう我慢しない。もうすぐここを出ていくのに、どうしてこんな屈辱を受けなきゃいけないの! 彼女は地面から勢いよく立ち上がり、全身の力を込めて美月に突進した。 美月の肩をつかみ、反対の手で思いきり頬を打った。 パシンッ! 美月は顔を押さえ、信じられないというように目を見開き、悲鳴を上げた。「あんた、私を叩いたの!?」 周囲を一瞬見回すと、彼女は突然、花瓶をつかみ上げた。 あれは、和也が雨子にただ一度きりオークションに付き添い、ついでに落札して贈った品だった。 その夜、雨子は花瓶を抱きしめて眠れないほど嬉しかった。あの氷のような彼が、初めて少しだけ心を開いてくれた気がしたのだ。 だが今、その花瓶は美月の手に高く掲げられ、雨子の頭めがけて勢いよく振り下ろされた――! ガンッ! 花瓶が彼女の額に砕け散り、破片が四方に飛び散った。 温かい血が瞬く間に流れ出し、視界をぼやかせながら床に滴り落ちる。 激痛が波のように押し寄せ、体が支えきれず、彼女はそのまま崩れ落ちた。 意識が遠のく最後の瞬間、彼女は美月がそばにしゃがみ込むのを見た。 細いヒールのかかとが容赦なく負傷した手の甲を踏みつけ、骨の髄まで刺さるような痛みに小さなうめき声が漏れる。 「死にたいの?」 美月の声は、まるで遠くから響いてくるようだった。 彼女はスマホを手に取り、素早く番号を押すと、ほとんど瞬時に通話がつながった。 美月の声は震え、涙を含んでいた。 「お兄ちゃん……怖いの……雨子さんが……私を殴ったの……」 雨子は口を開こうとしたが、声が出なかった。 血だまりの中に倒れ、暗闇が完全に意識を飲み込んでいく。 目を覚ましたとき、雨子は主寝室のベッドに横たわっていることに気づいた。 額の傷は包帯で覆われており、鈍い痛みが時おりずきりと走る。 和也はベッドのそばに座っていた。 まだ食事会から戻ったばかりのフォーマルなスーツ姿で、珍しく焦りの色を浮かべている。 雨子が窓の外に目をやると、夜はすでに深く沈んでいた。 「目が覚めたか?」 和也は彼女が目を開けるのを見るなり、身を乗り出した。 「大丈夫か?」 雨子は何も言わず、ただ静かに彼を見つめた。 その視線に、和也は少し居心地悪そうに息を吐く。 「雨子……美月のこと、お前が怒っているのはわかってる。でも、あいつは離婚したばかりで、今はすごく繊細なんだ。 お前があの子に手を上げるべきじゃなかった。あの子もわざとお前に物を投げつけたわけじゃない。もう俺がきつく叱っておいたから、これで終わりにしよう」 雨子は心の中で小さくため息をついた。 叱った? また子どもをあやすみたいに、軽く言葉をかけただけなのだろうか。 彼の口ぶりからして、リビングの監視映像はもう確認したに違いない。 それでも彼は、美月をかばうことを選んだ。 雨子はずっと沈黙したままだった。 何を言えばいいのか分からない。いや――何を言っても、きっと意味がない。 ただ、ここでの最後の二日間を静かに過ごしたいだけだ。 けれど残念なことに、美月はどうやら、そのまま引き下がるつもりはない。 ノックもせず、美月が部屋に入ってくる。そのまま真っすぐ雨子のベッドのそばまで来て、彼女の腕にしがみついた。 雨子は反射的に押しのけようとしたが、全身に力が入らなかった。 「雨子さん、約束してくれてありがとう!」 美月は顔を上げ、涙に濡れた瞳で感謝を込めて見つめてくる。 雨子は呆然とし、ただ戸惑うばかりだった。 ――自分、いったい何を約束したっていうの? 第7話 「そうだ、美月は木島(きしま)社長と取引の話を進めてる。彼は、女を一人一ヶ月そばに置いてくれれば、一千億円を追加出資すると言っている」 和也は一拍置き、言葉を継いだ。「これは美月が初めて担当する案件なんだ。大事な仕事だろ?お前は義姉なんだから、少しくらい力を貸してやってもいいだろ」 雨子の呼吸が一瞬で止まり、血が凍りつくような感覚に襲われた。 木島社長がどんな人物か、彼女は知っていた。脂ぎった顔とだらしない体つき、悪名高く、何人もの愛人たちが不可解な死を遂げたと噂される男だ。 女を痛めつけることを楽しむ、救いようのない変態だ! 雨子の瞳孔が激しく縮み、信じられないというように和也を見つめた。声が震えて止まらない。 「和也……あなた、本当に人間なの!?」 和也は彼女の手を握り、なだめようとしたが、その声には一切の余地がなかった。 「雨子、美月は俺の妹だ。兄として助けないわけにはいかないんだ。 お前が木島社長の相手をひと月だけしてくれれば、それ以降は美月が家に来る回数を減らす。二度と俺たちの邪魔はさせないと保証する」 「だから何!?」 雨子は勢いよく彼の手を振りほどき、崩れ落ちるように叫んだ。 「つまりあなたは、自分の妻をまるで商品のように差し出して、妹のために便宜を図ろうっていうの!? 和也、いったい彼女があなたの妻なの?それとも私が妻なの!?」 美月はその言葉に驚いたように目を丸くし、おずおずと和也の袖を引いた。 「お兄ちゃん、私……何か悪いことしちゃったの?それなら……それなら私が……」 「お前のせいじゃない」 和也は彼女の言葉を遮った。 口にすることさえ、彼は絶対に許さなかったのだ。 雨子を見つめるその目は、すでに冷たく、強い決意を帯びていた。 「この件は話し合いの余地はない。嫌でも行ってもらう」 彼女は、彼がただ自分を愛していないだけだと思っていた。まさか、ここまで冷酷だとは思わなかった。 「出ていって!」 雨子は完全に取り乱し、手に届くものを片っ端から掴んで二人に投げつけた。 そして和也に飛びかかって叩こうとしたが、美月にぐいっと押し倒されてしまった。 美月は見下ろしながら、冷たい目で言い放った。 「雨子さん、少し落ち着いてください。明日、迎えの者を寄こすから」 和也は前に出て彼女を抱き起こした。手首の数珠には、雨子の血が一滴、赤く滲んでいた。 「安心しろ。一か月後、俺が迎えに行く。お前は以前と同様に俺の妻だ」 冷たい顔の仏道修行者――情など一片もない。 慈悲だの無欲だの、そんなものは全部くだらない。 全ては彼の慈悲の仮面に過ぎなかった。その仏のような顔の下には、とっくに腐りきった心が潜んでいた。 雨子は懇願するような目つきで彼を見つめ、その手を取ろうとした。 だが和也は美月の手を取ったまま、振り返りもせず立ち去った。 あまりに速く、その衣の裾さえ掴むことができなかった。 「和也!やめて……私にそんなことするのやめて!」 ドンッ! 雨子は部屋に閉じ込められた。 細い鎖が足首を縛り、ベッドの柱に固定されていた。動けるのは、ベッドの周りほんの数歩だけの範囲だ。 彼女はあらゆる方法を試したが、鎖はびくともしなかった。 絶望がじわじわと、頭から足先まで彼女を包み込んでいった。 夜の帳が降りるころ、再び扉が開いた。 入ってきたのは、美月ひとりだけだった。 彼女は精巧なドレスに着替え、完璧なメイクを施していた。 「兄ちゃんは仏堂で経を読んでるから、見送りには来ないわ」 美月の声は軽やかで、まるですぐそこにある普通の旅に向かうかのようだった。 「雨子さん、言ったでしょ。私を怒らせないでって」 雨子にはもう抵抗する力も残っていない。 美月のボディーガードに乱暴に手足を縛られ、車の中へ押し込まれた。 車は郊外の人目につかない別荘へと入っていった。 彼女はそこから引きずり出され、いやらしく飾られた、目を覆いたくなるようなラブホテルのようなスイートルームへと放り込まれた。 濃厚なアロマの匂いが鼻を突き、吐き気を催すほどだった。 逃げようとしたが、手足を縛られて身動きひとつ取れなかった。 ドアが押し開けられ、太った人影が無理やり中へと入り込んでくる。 木島が細めた目で雨子の体をねっとりと舐めるように見回し、黄ばんだ歯をむき出しにして笑った。 美月はドアの前に立ち、艶やかに微笑む。「木島社長、うちの義姉はまだ童貞なんですよ。思う存分どうぞ」 「秦野社長は太っ腹だな。自分の妻まで差し出すとは。品物を確かめたら契約書にサインする」 美月は満足げに笑い、「ごゆっくり」と言って、そっとドアを閉めた。 木島の笑みがさらに嫌らしく歪み、彼は一歩、また一歩と近づいてきた。 雨子は恐怖に震えながら後ずさり、背中が冷たい壁にぶつかるまで逃げ場を失った。 「怖がるなよ、俺が気持ちよくしてやるからな」 木島はズボンを脱ぎながら、勢いよく飛びかかった。 生き延びようとする本能が爆発し、雨子は全身の力を振り絞って横へ転がる。 ドンッ! 木島の太った体が、彫刻の施された堅いテーブルの角に激しくぶつかり、苦痛に顔を歪めた。 「このアマ!逃げるつもりか!?」 激怒した彼は立ち上がり、雨子の髪を乱暴に掴み上げる。 ベルトを引き抜き、そのまま彼女の顔を何度も打ちつけた。口角が裂け、鮮血が滴り落ちる。 彼はむしり取るように彼女の服を引きちぎった。布が裂ける鈍い音が、静かな室内に鋭く響いた。 混乱の中、雨子は必死に膝を立て、最後の力を振り絞って男の急所へ膝蹴りを喰らわせた。その反動を利用し、今度は足を振り上げ、分厚い胸板を強く蹴り上げた。 「ぐあっ!」 木島は悲鳴を上げ、胸を押さえて目を見開いたまま、体をふらつかせて、そのまま意識を失って倒れ込んだ。 全身の激痛も、むしろ裸同然の姿も顧みず、雨子は体に巻き付いた縄をもがくように解き放つと、よろめく足取りで部屋から飛び出した。 別荘の中は人影ひとつない。あの獣のような男は、事を済ませるためにメイドたちをすでに追い出していたのだろう。 半裸のまま彼女は走り続けた。素足の裏は既に擦り切れ、道に血の筋が細く延びていた。 それでも止まれない。止まった瞬間、そこは地獄になる。 その時、彼女は今夜ここで命を落とすかと思った。次の瞬間、別荘の正門の外から二筋のヘッドライトが差し込んできた。 雨子は最後の力を振り絞り、大通りの真ん中へ飛び出した。両腕を広げ、何もかも捨てて車の前に立ちはだかった。 タイヤがキーッと地面を擦り、車体が彼女の目前わずか半メートルで、悲鳴をあげるように急停止した。 ライトに照らされながら、雨子はゆっくりと目を閉じた。血と涙が入り混じった顔が、淡い光の中で静かに震えていた。彼女は極限まで疲れ果て、意識が遠のいていった。 もしも――もしも今夜、生きてこの場を抜け出せたなら、和也と美月を決して赦さない、と彼女は心に固く誓った。