夫のハネムーンの代償

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夫のハネムーンの代償

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私が苦労して手に入れた二億円規模の案件を、社長である夫の一番のお気に入りの若いアシスタントに譲った。夫はそれを三ヶ月にわたる冷戦の効...

Chương (1)

第1章

私が苦労して手に入れた二億円規模の案件を、社長である夫の一番のお気に入りの若いアシスタントに譲った。夫はそれを三ヶ月にわたる冷戦の効果が出たのだと勘違いしたようだった。 彼は上機嫌で、私にアイスランドへのハネムーンを提案してきた。 しかし、それを知ったあのアシスタントは嫉妬に狂い、会社を辞めると騒ぎ出した。 日頃から彼女を猫かわいがりしている夫は慌てふためき、三日三晩彼女をなだめすかした挙句、出張という名目でまたしてもハネムーンをドタキャンした。あろうことか航空券のもう一枚を彼女に渡してしまったのだ。 事後、彼は悪びれる様子もなく、私にこう言い放った。 「色恋沙汰なんて些細なことだろ。仕事が最優先だ。俺は社長として、仕事を第一に考えなきゃならない。 お前は俺の妻なんだから、当然、俺を支えてくれるよな?」 私はスマホの画面に映る、アシスタントが投稿したばかりのSNSを見つめていた。そこには、二人が頭を寄せ合い、指でハートマークを作っているツーショット写真があった。私は何も言わず、ただ静かに頷いた。 夫は私が物分かりの良い大人になったと思い込み、満足げに笑った。そして、帰国したらもっとロマンチックなハネムーンを埋め合わせに連れて行ってやると約束した。 しかし、彼は知らない。 私がすでに退職願を出し、彼が以前サインした離婚届も提出済みだということを。 彼と私の間には、もう「帰国したら」なんて存在しないのだ。 第1話 私が苦労して手に入れた二億円規模の案件を、社長である夫の一番のお気に入りの若いアシスタントに譲った。夫はそれを三ヶ月にわたる冷戦の効果が出たのだと勘違いしたようだった。 彼は上機嫌で、私にアイスランドへのハネムーンを提案してきた。 しかし、それを知ったあのアシスタントは嫉妬に狂い、会社を辞めると騒ぎ出した。 日頃から彼女を猫かわいがりしている夫は慌てふためき、三日三晩彼女をなだめすかした挙句、出張という名目でまたしてもハネムーンをドタキャンした。あろうことか航空券のもう一枚を彼女に渡してしまったのだ。 事後、彼は悪びれる様子もなく、私にこう言い放った。 「色恋沙汰なんて些細なことだろ。仕事が最優先だ。俺は社長として、仕事を第一に考えなきゃならない。 お前は俺の妻なんだから、当然、俺を支えてくれるよな?」 私はスマホの画面に映る、アシスタントが投稿したばかりのSNSを見つめていた。そこには、二人が頭を寄せ合い、指でハートマークを作っているツーショット写真があった。私は何も言わず、ただ静かに頷いた。 夫は私が物分かりの良い大人になったと思い込み、満足げに笑った。そして、帰国したらもっとロマンチックなハネムーンを埋め合わせに連れて行ってやると約束した。 しかし、彼は知らない。 私がすでに退職願を出し、彼が以前サインした離婚届も提出済みだということを。 彼と私の間には、もう「帰国したら」なんて存在しないのだ。 …… 私の夫・吉田英明(よしだ ひであき)と、彼のアシスタント・西村彩花(にしむら あやか)がハネムーンへと旅立った翌日。私・木村愛子(きむら あいこ)はすべての業務引き継ぎを終え、人事部で退職手続きを済ませた。 十分も経たないうちに、英明から「承認済み」の通知が届いた。 「この様子だと、吉田社長はずっと彼女を辞めさせたいと思ってたんじゃない?彼女も結構、身の程を知ってるっていうか」 「そうね。会社に残ってても社長の機嫌を損ねるだけだし、さっさと辞めた方がマシよね。でも、これからどうするつもりなのかしら」 「私たちみたいな手取り二十万そこそこの平社員が心配することじゃないわよ。どう言ったって、彼女は社長の奥様なんだから。仕事辞めて家に引きこもったって、使いきれないほどのお金があるんでしょ」 荷物をまとめていると、同僚たちが私のことを嘲笑っているのが聞こえてきた。その声には、隠しきれない妬みが混じっている。 私は慣れっこだった。 社内では、私と彩花が不仲であることは周知の事実だ。私の夫である英明は、事あるごとに彩花の肩を持ち、彼女のために人前で私に恥をかかせることさえあった。 そのため、同僚たちは競うように私を攻撃し、あのアシスタントに媚を売ろうとするのだ。 そう思うと、私は冷ややかな笑みを漏らした。 「残念だけど、今回の退職はキャリアアップのためよ。ある企業が二倍の年俸で私をヘッドハンティングしてくれたの。福利厚生もここよりずっといいわ」 そう言い残し、嫉妬で青ざめる彼女たちの顔を無視して、私は私物を詰め込んだ段ボールを抱えて会社を出た。 正面玄関を出たところで、英明から電話がかかってきた。 退職のことをどう説明しようかと考えていると、通話がつながるなり、英明が言った。 「ファイルを一つ送った。一時間以内に仕上げて送り返せ」 どうやら、彼はまだ私が辞めたことを知らないらしい。 私はおかしくなって、送られてきたファイルを開いた。 それは少し前、私が彩花に譲ったあの案件だった。 いつものことだ。 手柄と利益は彩花のもの。実務は私。問題が起きれば、その汚名は私が背負う。 最初は私も拒否していた。だが、英明はあの手この手で私を説得し、私が頑として首を縦に振らないとわかると、冷戦に持ち込み、何日も口をきこうとしなかった。 結婚前、両親はよく言っていた。「夫婦生活では、どちらかが先に頭を下げなければならない時がある」と。 私は関係を悪化させたくなくて、結局は折れて仕事を引き受けていた。 いつか英明も、私の苦労と愛情を理解してくれる日が来ると信じて。 けれど今回、彼が彩花の昇進のために私と激しく言い争い、三ヶ月もの間冷戦を続けた時、何かが壊れた。 私が四十度の高熱を出して病院に運ばれても、彼は見舞いに来るどころか、私が一ヶ月かけて徹夜で仕上げた二億円の案件を彩花に譲るよう強要したのだ。その瞬間、私の心は完全に死んだ。 第2話 「今、会社にはいないの」私は淡々と答えた。 「会社にいない?」 英明の声が急に冷たくなる。 「今は勤務時間中だろ。木村愛子、勤務時間に勝手に職場を離れるなんて、減給になるってわかってるのか?」 「わかってるわ。でも、私はもう……」 退職したことを告げようとしたその時、受話器の向こうから彩花の甘ったるい声が聞こえてきた。 「英明、愛子先輩が嫌がってるなら無理強いしないでよぉ。私がやるから」 「だめだ。彩花は昨日あんなに遅くまで頑張ったんだから、今日は休まなきゃ」 英明の声は優しく、さっき私に向けた冷酷な態度とは別人だった。 彩花はまだ「疲れてないもん」と言い訳をしているが、英明は強硬だ。 「俺は社長だぞ。休めというのは業務命令だ。逆らう気か?」 彩花は「てへっ」と舌を出した。「だって、愛子先輩に悪いと思って」 「あいつがいくら苦労したって、君の苦労には及ばないさ。君は出張先でも契約書の整理をしてるのに、あいつは毎日会社で何もしてないんだから。 それに、あいつは俺の妻だ。会社はあいつのものでもあるんだ。少しぐらい苦労するのは当然だろ?」 英明は鼻で笑った。 その一言で、私のこれまでの功績はすべて消し去られた。 私の中には、もう当初のような怒りも、嫉妬も、絶望もなかった。ただ、感覚が麻痺しているだけだ。 あまりにも回数が多すぎたから。 私が黙っていると、英明は私が承諾したと思い込んだようで、口調を少し和らげた。 「愛子、俺がただ仕事を押し付けてると思ってるのか?これはお前を鍛えるためなんだ。妻として、会社に対してもっと責任感とハングリー精神を持つべきだからな。 少しは彩花を見習ったらどうだ? 彼女は昨日、仕事のために朝の四時まで起きてたんだぞ。こんなに優秀で、しかも努力家な女の子、今まで見たことない」 彩花が横で笑う。「愛子先輩だって優秀なのよぉ」 言葉とは裏腹に、その口調には明らかな軽蔑が混じっていた。 英明はそれに気づかず、軽く鼻を鳴らした。「あいつが君の半分でも優秀なら、俺は夢の中でも笑って目が覚めるよ。 忘れるなよ、今年の案件は全部君が成約させたんだからな」 二人の茶番劇。 私は何も言わなかったし、反論する気も起きなかった。 今年の案件はすべて、彩花が私の手から奪っていったものだ。英明もそれを百も承知で、わざと知らないふりをしている。 どうせ結婚して五年、こんな些細なことで私が離婚するはずがないと高を括っているのだ。 「よし、これから彩花と接待があるから、なるべく早く終わらせて送ってくれ」 そう言うと、私の返事も待たずに英明は電話を切った。 しかし二分もしないうちに、スマホが震えた。彩花がSNSを更新した通知だった。 豪華なキャンドルディナーを前に、彼女は英明の肩に小首をかしげて寄りかかっている。目の前には、指輪一つが入る大きさの精巧なギフトボックスが置かれていた。 さらに下にスクロールすると、彩花が昨夜投稿した写真があった。深夜四時、彼女と英明はバーで盛り上がっていたようだ。 つまり、英明の言う「彩花の努力」とはお酒を飲むことであり、「これからの接待」とはデートのことだったのだ。 私は鼻で笑い、英明を問い詰める気力さえ失せていた。 聞いても無駄だ。彼はいつものように様々な理由をつけて正当化するだろう。私が彼を論破したところで、待っているのは謝罪や反省ではなく、終わりのない冷戦だけだ。 そのたびに、私は機嫌を取り、ご機嫌伺いをしなければならなかった。 第3話 今思えば、そんな時間があるなら、もっと稼ぐ方法を考えた方がマシだった。 人の心は変わりやすいけれど、お金は決して裏切らないのだから。 そう思い直して、私は会社を後にした。もうここを去ることは決めている。 駐車場から車を出した瞬間、スマホが二回鳴った。 決済通知だった。 英明がまた私のカードを使って、四百万円を切ったのだ。 …… 周囲は、私が金目当てで英明と一緒になったと思っている。 だが事実は逆だ。私のカードはすべて彼に握られていた。「自分の金は会社の運転資金に回すから」と言われ、この数年間の生活費や支出はすべて、私の給料と副業の収入で賄われていた。 家庭は二人で運営するものだし、どちらが多く払うかなど計算すべきではないと思っていた。だから、私はこれまで彼とお金のことでもめたことは一度もなかった。 つい先日、自分の年収は高いはずなのに、なぜか貯金ができず、それどころかいつも資金繰りに追われていることに違和感を覚えるまでは。 たまらず明細を確認して、愕然とした。 英明は私のカードを使って、頻繁に彩花にプレゼントを買い与えていたのだ。 数万円もする限定品の口紅、数十万円のブランドバッグ。彩花の誕生日には、三百万近くかけて五つ星ホテルを貸し切ってパーティーを開いていた。 その一方で、この数年、私が二年も服を新調していなかった。彼はいつも渋り、二千円を超えるプレゼントでさえ「高い」と文句を言った。そして手書きのメッセージカード一枚をよこして、「将来のために節約しよう」と言うのだ。 私がそのことを問い詰めると、英明は顔を曇らせ、「俺を信じてないのか」と逆ギレし、冷戦を始めた。「もうお前の金なんて一円も使わない」と捨て台詞を吐いて。 そんなことを思い出しながら、私は英明に電話をかけた。 十回以上コールしても、彼は出なかった。 私は迷わず銀行へ向かい、カードの紛失届を出して利用停止手続きをとった。 一分も経たないうちに、英明から電話がかかってきた。 「ごめん、取り込んでて気づかなかった。どうした?」彼は白々しく無実を装った。 私は冷静に答えた。「もう用は済んだわ」 「あ、そう」 「カードが使えないんだ。凍結されてるみたいで」彼は言った。 「知ってるわ」私は隠すことなく、淡々と告げた。「私が止めたの」 「はあ?何のつもりだ?暇なのか?」 「そうね、暇だったのかも。でも、もう私のカードは使わないって言ってなかった?」 英明は言葉に詰まった。 以前の私なら、お金のことで彼を責めたりはしなかった。 会社を立ち上げたばかりの頃、私が大病を患い、手術費に二百万円が必要になった時があった。ちょうどその時、彼は私に内緒で全財産をあるプロジェクトに投資し、すべて溶かしてしまっていた。 彼は私が怒ると思い、目を真っ赤にして謝ってきた。 けれど私は彼を慰めた。 「お金のことなんて些細なことよ。私の貯金を使って」と。 真心は真心で返ってくると信じていた。私たちの絆はより強固になると。けれど予想に反して、それは彼を増長させ、図々しくさせただけだった。 英明は深く考えず、二秒ほど沈黙した後、ため息をついた。 自分が悪いなどとは微塵も思っていない口調で。 「わかったよ。俺と一緒にハネムーンに行けなかったから怒ってるんだろ?まだ根に持ってるのか。 愛子、お前も少しは物分かりが良くなったと思ってたのに、意外と執念深いんだな。 約束するよ。今回が終わったら仕事を全部放り出して、お前とハネムーンに行く。これでいいだろ? 今回は自分のカードを持ってきてないんだ。今すぐ銀行に行って凍結を解除してくれ。わがまま言うなよ、これからの接待は本当に重要なんだ」 第4話 「十分待つ。それ以上は俺が許さないぞ」 私が協力しないのを恐れたのか、電話を切る間際に英明はそう脅し文句を付け加えた。 以前、彼が「怒るぞ」と言うたびに、私は大人しく従っていた。 彼が怖いからではない。会社経営で疲れている彼を、これ以上煩わせたくなかったからだ。 今になってようやくわかった。私は彼の負担を減らそうと必死だったけれど、その悩みごとはすべて彼自身が招いたものだったのだ。 なら、私が構う必要なんてない。 「自分のカードがないなら、秘書とかに借りればいいじゃない。それか西村さんに頼めば?今回の出張は彼女のプロジェクトのためなんだから、彼女が立て替えても問題ないでしょ」 そう返事して、私はスマホの電源を切り、車を走らせて家に戻り、荷物をまとめ始めた。 このマンションは私が一括で購入したものだ。彼が気に入った間取りと階層だった。当初は名義を彼の名前にしようかとも考えたが、ふと頭をよぎるものがあり、自分の名義にしておいた。 今思えば、あの時自分に逃げ道を確保しておいて本当によかった。 荷造りを終えると、私は不動産仲介業者にマンションを売りに出した。 翌日、区役所へ行き、記入済みの離婚届を職員に提出した。 以前、離婚届にサインさせた時、どう説明しようかと考えていたが、彼は荷物をまとめて出かけるところで、中身も見ずに最後のページをめくり、サインをしたのだ。 「一度、目を通した方がいいんじゃない?」私は最後の一縷の望みをかけてそう言った。 「必要ない。お前は俺の妻だろ?信用してるさ」 私は苦笑した。 彼が私に向けた信頼は、彩花へのそれには遠く及ばない。 いわゆる「信頼」なんて、ただ私を早く黙らせて、飛行機に乗り遅れないようにし、彩花とのハネムーンに急ぎたかっただけなのだ。 書類を提出すると、職員は言った。離婚の手続きには、本人同士の意思確認が必要だと。 私は英明と彩花の親密な写真や、彼が彩花のために叩き壊した私たちの結婚写真を見せたが、職員は首を振った。 「ご本人の口から直接確認しなければなりません」 私は仕方なくスマホの電源を入れた。 電源が入った途端、英明からの不在着信と未読メッセージが画面を埋め尽くした。 カードの凍結を解除しなかったせいで、最初はなだめるような内容だったのが、最後には罵詈雑言に変わり、「離婚してやる」という脅し文句で終わっていた。 私はそのメッセージを職員に見せた。 職員はまだ渋っている。私は仕方なく電話をかけた。長いコールの後、ようやくつながった。 「英明、私たちのことなんだけど……」 「誰がお前なんかと!何を言っても無駄だぞ。今すぐ彩花に謝らないなら、今回は絶対に離婚するからな!」 英明は、私がいつものように機嫌を取りに来たと思い込み、冷たく遮った。 通話が切れた。 職員はようやく私の言葉を信じてくれたようだ。同情的な眼差しを向け、書類を受理し、一ヶ月後には離婚が成立すると教えてくれた。 英明が口にした「離婚」が本心ではなく、ただの脅しであることはわかっていた。 これまでも彼を怒らせると、彼は何度もそう言った。そのたびに私が泣いてすがり、謝り倒し、彼の要求をすべて呑むことで、離婚を撤回してもらっていたのだ。 彼は私が離婚を恐れていると知っていた。だから、それが最後の切り札になっていた。離婚をちらつかせれば、思い通りになると信じて疑わなかったのだ。 第5話 彼は忘れているようだ。感情とは、貯金箱の小銭のようなものだということを。 引き出すばかりで預けなければ、いずれ残高はゼロになり、関係は破綻する。 マンションの売却価格を相場よりかなり低く設定したため、一週間もしないうちに買い手が決まった。 不動産屋で契約を済ませ、買主への引き渡し日を決めて家に帰った。 ドアを開けた瞬間、中から楽しげな笑い声が聞こえてきた。 玄関にあるはずのお揃いのスリッパが消えていた。 代わりに置かれていたのは、一足のハイヒールと、英明が一番気に入っている——去年の誕生日に彩花がプレゼントした紳士靴だった。 中にいるのが英明と彩花だとすぐにわかった。 あと二日は帰らないはずじゃなかったの? そう思っていると、物音に気づいた彩花がこちらへ歩いてきた。 彼女は私のスリッパを履き、私のパジャマを着ている。髪は少し乱れ、肩にかかっている。その気だるげな姿は、まるでこの家の女主人そのものだ。 「あら、愛子先輩。こんな時間にどうしたんですか?まだ仕事終わってない時間ですよね?」 言いながら、彼女はブドウを一粒口に放り込み、慣れた手つきで種を横のマグカップに吐き出した。 見覚えがある。それは英明がくれたペアのマグカップだ。 以前の私はそれを宝物のように扱い、いつも大切に使っていた。 リビングから英明も出てきた。彩花が私のマグカップをゴミ箱代わりにしているのを見ても、彼は見て見ぬふりをした。 私を見ると、彼の表情は一瞬複雑に歪み、すぐに不機嫌そうに沈んだ。 「また会社をサボったのか? 愛子、いくら妻だからって、いい加減にしろ!あそこは会社だ。俺たちの家じゃない。お前がルールを守らなくて、どうやって他の社員を管理するんだ?」 ルール? 私は笑いたくなった。 ルールを守らないことにかけて、英明の右に出る者はいないだろう。 一年前、会社が軌道に乗り始めた頃、英明は業界経験ゼロの彩花をいきなり管理職に抜擢した。 私が疑問を呈しても、英明は「彼女には才能がある」と言い張ったので、私は真剣に指導しようとした。 しかし彩花は、出社しても化粧直しをするか居眠りをするだけ。勤務時間中はダラダラ過ごし、わざと深夜まで残って、社内チャットに「残業なう」と画像をアップする始末。 私が英明に報告しても、彼は「仕事で疲れてるんだろ、息抜きさせてやれ」と取り合わない。監視カメラをつけようと提案すれば、「プライバシーの侵害だ」と却下された。 その後、プロジェクトでミスを連発し、数億円の損失を出しても、彼女は我が物顔で振る舞い続けた。私が堪忍袋の緒を切らして解雇しようとすると、英明は猛反対した。 「お前、嫉妬してるんだろ?彩花が優秀すぎて自分の立場が脅かされるのが怖いのか?」 その後、彩花が私の顧客や案件を次々と横取りしても、英明はそれを見て見ぬふりをするどころか、彼女を「優秀な社員」と称え、私を「同僚に嫉妬する扱いにくい上司」という悪役に仕立て上げた。 以前は悔しかった。 でも今思えば、その忍耐力があったからこそ、どの会社に行ってもやっていける自信がついたのかもしれない。今の会社のように、不当に扱われ、見下されることもない場所で。 私が黙っていると、彩花は英明の背中をポンポンと叩き、猫なで声で言った。「きっと愛子先輩、英明が帰国したって聞いて、わざわざ駆けつけてくれたんだよ」 英明はその言葉を真に受けたようで、得意げな顔をした。 「まあいい、今回だけは見逃してやる。だが、なんで俺が今日帰国することを知ってたんだ?」 彩花が笑う。「やだ、英明忘れたの?帰りのチケット取ったのは総務課の者だもん。きっとそこから愛子先輩に伝わったんだよ」 第6話 英明はフンと鼻を鳴らした。 「愛子、仕事には身が入らないくせに、そういう余計なことには鼻が利くんだな。だが、これで許したと思うなよ。 お前が癇癪を起こしてカードを止めたせいで、俺は取引先の前で恥をかいたんだ。結局、彩花があちこちから金を借りて支払ってくれたんだぞ。 許してやっていい。だがその前に、彩花に相応の埋め合わせをしろ。 彼女が今住んでるアパート、改装工事が入ってしばらく住めないんだ。この家の寝室を一つ空けて、彼女にしばらく貸してやれ。そうすれば、今回のことは水に流してやる」 私は首を横に振った。 「でも、このマンションもう売っちゃったわ」 「売った?」英明は目を丸くした。 彼が尋ねる前に、彩花が先に口を開いた。 「愛子先輩、もしかしてこの家を売って、もっと広い家を買って社長に補償しようなんて考えてるんですかぁ?」 英明は納得したように眉間のしわを伸ばした。 「なるほどな。確かにここも長く住んでるし、そろそろ広い家に買い替える時期か。その時は俺も少し金を出してやる。とりあえず売るのは待て。ちょうど彩花が住むのにいい」 「え〜、そんなの悪いよぉ。家賃はちゃんと相場通り払うの」 「家賃なんていい」英明は顔をしかめた。「俺はお前の上司だろ、家賃なんて取れるか」 「でも悪いもん。家賃は絶対払う」 「じゃあ、数千円でいい」 二人の掛け合い。英明は家賃なんてどうでもいいという態度だ。 このマンションは都心の一等地にある。相場なら家賃は三十万円を下らない。それが数千円? 私とデートする時は、食事代も映画代も一円単位で割り勘にするくせに。 愛があるかどうかで、こうも違うものなのか。 「どうだ?お前が承諾すれば、離婚の件、もう一度考えてやってもいいぞ」 「考える必要はないわ……」 「そんなこと言うな。そう簡単に許したら、お前のためにならない。また悪い癖が出たらどうするんだ?」 英明は私の言葉を遮った。私が離婚を撤回してほしいと懇願しているのだと勘違いしている。 彩花が横でクスクス笑う。 「英明の言う通りなの。でも、私の顔に免じて愛子先輩を許してあげてください。それに、何と言っても英明と愛子先輩は五年も連れ添った夫婦なんだから。今さら離婚なんて残念すぎるし」 英明は考え込むふりをした。 彩花は彼の体に触れ、甘えるように揺さぶる。 英明は「よせよ」と言いながらも、顔はにやけきっている。 「わかったよ」 彼は私を見て、満足そうに言った。 「彩花も口添えしてくれたことだし、今回だけは許してやる」 「彩花に感謝しろよ。お前にあんなひどい目に遭わされたのに、過去を水に流して口添えしてくれたんだからな」 「わかった、じゃあ今回の離婚は……」 「誤解してるわ」 彼が言い終わるのを待たず、私は淡々と遮り、離婚届の控えを彼の前に突き出した。 「私が言いたいのは、私たちは、もう離婚したってこと」