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長い霧の先に、夜明けの光
二宮梨花(にのみや りか)は、松井竜之介(まつい りゅうのすけ)にまる5年も片思いをしていた。 彼のために、故郷から遠く離れたこの街に残る...
Chương (1)
第1章
二宮梨花(にのみや りか)は、松井竜之介(まつい りゅうのすけ)にまる5年も片思いをしていた。
彼のために、故郷から遠く離れたこの街に残ることを決めたのだ。
竜之介の婚約者が婚約パーティー当日に逃げだすと、梨花は迷うことなく前に出て、その婚約の証である指輪を受け取った。
竜之介が自分を愛していないことなんて、梨花はとっくに分かっていた。
結婚式の当日、藤井渚(ふじい なぎさ)が、「胸が苦しいの」と一言つぶやいただけで、竜之介は梨花を置き去りにし、渚のもとへ駆けつけた。
周りの誰もが梨花を笑った。竜之介という大木にしがみつく惨めな蔦のようだ、いつまでも目が覚めない愚か者だ、と。
彼女自身でさえ、かつてはそう信じて疑わなかった。
けれど、どんなに深い想いも、無視され、冷たくあしらわれ、何度も後回しにされ続ければ、いつか静かにすり減って、消えてしまうものだ。
そして、竜之介がようやく梨花を振り返ったときには、かつて、ありったけの愛で彼のそばにいてくれたあの女の子は、もう遠くへ去ってしまっていて、二度と振り返ることはなかった。
第1話
「お母さん……私、結婚しない」
破れたウェディングドレスの隙間から夜風が吹き込む。二宮梨花(にのみや りか)は裸足で誰もいない通りを歩いていた。ドレスの裾はほこりを引きずっている。
電話の向こうは一瞬黙り込み、信じられないというように声が震えていた。「どうしてなの?竜之介さんのこと、5年も好きだったんでしょ。あの子じゃないとダメなんだって、私たちの言うことも聞かずに、一人で家を飛び出して遠い街まで行ったのに。
竜之介さんに何かひどいことでもされたの?」
梨花は言葉に詰まり、涙がこらえきれずにこぼれ落ちた。
自分が間違っていた。両親の言うことを聞かなかったのが、間違いだった。
青春を、初恋の人のために結婚式から自分を置き去りにするような男に費やしてしまったのが、間違いだった。
幸い、結婚式は中止になって、まだ入籍もしていなかった。
「お母さん」梨花は冷たい空気を深く吸い込んだ。「こっちの事を片付けたら、来週には帰るから」
真夜中になって、彼女は松井竜之介(まつい りゅうのすけ)との家に帰り、荷物をまとめ始めた。
竜之介が帰ってきたのは、翌日の朝だった。
彼は高級レストランのテイクアウトの朝食をダイニングテーブルに並べた。「胃が悪いのに、朝食を抜いたらダメだろう」
梨花は黙って竜之介を見つめた。
結婚式を控えて、彼女は不安で胃を痛めていたのだ。
最近、医師に薬を変えてもらったから、しばらく朝食は食べられないと、何度も竜之介に伝えていたのに。
彼はいつも「分かった」と頷くだけで、本気で聞いてはいなかった。
竜之介はいつもこうだった。一見すると優しくて、思いやりにあふれている。
でもその優しさは、まるでガラス越しみたいだった。見えているのに、そのぬくもりに触れることはできないのだ。
本当に心から気にかけてくれたことは一度もなかった。
今だってそうだ。リビングにスーツケースや荷物を詰めた段ボールが並んでいることに、彼はまったく気づいていない。
「昨日、結婚式の途中で俺が帰ったことで怒っているのは分かる」竜之介は落ち着いた様子で数歩近づいた。「でも、渚が急に病気になって、一人で海外から帰ってきたんだ。放っておくわけにはいかないだろう。
また日を改めて、もっと盛大な結婚式を挙げよう」
そう言うと、竜之介はウェディングプランナーに連絡しようとしたが、スマホの着信音に遮られた。
受話器の向こうから、かすかな泣き声が聞こえた。藤井渚(ふじい なぎさ)の弱々しくて甘えるような声だった。「竜之介、どこに行っちゃったの?
病院に一人でいるとすごく怖いの。傷もすごく痛くて……
会いに来てくれないかな?」
竜之介はとっさに背筋を伸ばした。「先生はなんて言ってる?他に具合が悪いところはないのか?」
電話の向こうは一瞬静かになったかと思うと、甘えたように笑った。「もう、何でもないのよ。ただ、あなたに会いたかっただけ。
あなたがいないと、心細くて」
竜之介は梨花を数秒見つめ、眉をひそめて少し迷った後、優しい声で言った。「すぐ行くよ」
電話を切ると、竜之介は無情に言い放った。「先に飯を食っててくれ。渚が俺を待ってる」
そう言って、竜之介は背を向けて出ていった。
梨花はその場に立ち尽くしたまま、まばたき一つしなかった。
かつては竜之介の言動に激しく揺れ動いた心も、度重なる失望で、とうとう何も感じなくなっていた。
結局のところ、竜之介がずっと愛していたのは渚だったのだ。
大学の入学式で、竜之介は新入生代表としてスピーチをした。原稿なしで、流暢に数か国語も操っていた。
その知的な雰囲気と落ち着いた声は、会場中の視線を独り占めにした。
人ごみの中に座っていた梨花は、壇上の輝く姿を見つめ、胸がときめいた。
しかし、竜之介が渚を狂おしいほど愛していることは、すぐに大学中の誰もが知ることになった。
彼は深夜のグラウンドで3000台のドローンを使い、渚に告白した。夜空が、まるで天の川のような光で埋め尽くされたのだ。
そして、渚のルームメイトだった梨花に、花やケーキを渚に届けてほしいと頼むことさえあった。
渚が誕生日は海外で過ごしたいと何気なく言っただけで、竜之介はプライベートジェットを手配し、自ら彼女に付き添って飛んだ。
学内の噂サイトは瞬く間に炎上し、梨花もちらほらと耳にする情報から、すべての真相を知った。
松井家と藤井家は、昔からの付き合いがある家柄だったのだ。
両家の親たちは、二人が生まれてまもなく、将来の結婚を決めていた。
周りから見れば、二人はお似合いのカップルだった。
だが、あの時の渚はその縁談に全く興味がなかった。彼女は梨花に何度もこっそり愚痴をこぼしていた。「まだ大学生になったばかりで、人生これからなのよ。結婚なんて、そんなもので縛られたくないわ」
冗談半分で梨花と竜之介をくっつけようとしたこともあったが、彼にきっぱりと断られてしまった。
卒業が近づくと、両家は婚約パーティーの準備を始めた。
しかし、渚は婚約パーティーの当日、何も言わずに海外へ飛び立ち、そのまま連絡が取れなくなった。
招待客とマスコミだけが、呆然と取り残された。
竜之介が渚のことで、本気で怒ったのは初めてのことだった。彼は梨花のところへ来ると、冷静な表情で言った。「渚は、俺たちが付き合えばいいって言ってたよな?
じゃあ、俺たち、付き合おう」
竜之介は少し間を置いて、残酷なほど理性的な言葉を付け加えた。
「君には好きという気持ちはない。でも、君を尊重するし、大人として責任も持つ。あいつみたいに、勝手にいなくなったりはしない」
梨花はしばらく呆然としていたが、それでも頷いた。
こうして彼女は、故郷から遠く離れたこの街に残り、この関係のために自分の居場所を作ったのだ。
結婚式の日取りが急に決まったため、両親は駆けつけることさえできなかった。
梨花は、竜之介のそばにいれば、いつか彼の心も動かせると信じていた。
だが、渚が帰ってきて、自分たちの結婚式を台無しにした。
竜之介は渚を怒ることもできず、むしろ全てを許していた。
そこで、梨花はやっと理解したのだ。
この人は、永遠に自分のことを見てくれない。
温まらない心は、もう手放すべきだ。
彼女はスマホを手に取り、竜之介にメッセージを送った。【もう結婚式を続ける必要はない】
第2話
竜之介からは、何の返事もなかった。
暗くなるスマホの画面に、梨花のぼんやりとした輪郭が映った。
彼女は口元に笑みを浮かべた。けれど、その笑みはまるで作り物のように、ひやりと冷たかった。
そうよね。
竜之介の頭の中は、渚のことでいっぱいなんだから。
渚のためなら、会社の役員会からの緊急連絡だって後回しにするくらいだ。そんな彼が、自分のメッセージに目を向けるわけがない。
あたりがすっかり暗くなった頃、執事の西村慎也(にしむら しんや)が部屋のドアを軽く叩き、着替えの時間だと告げた。
今夜は、松井家の新しいプロジェクトに関わるパーティーがあり、女性同伴での出席が必要だった。
梨花はすでに行く約束をしていた。ここを出て行く決心は固まっていたけど、松井家の仕事に影響は与えたくなかった。
ヘアメイクを終え、梨花は一人でパーティー会場に着いた。
すると、ずっと連絡を返さなかった竜之介が、ビシッとスーツを着こなし、渚の腰を抱いて他の招待客と談笑しているのが見えた。
さらに目を引いたのは、彼のネクタイが渚のドレスと同じ色だったことだ。明らかに、前もって二人で合わせたのだろう。
渚は梨花の方を見ると、ゆっくりと竜之介の肩に寄りかかり、顔を傾けて彼の頬に軽くキスをした。
そして、梨花に目をやると、勝ち誇ったように片眉をくいっと上げた。その瞳は、針の先のように鋭かった。
その視線が、梨花の心に残っていた最後のぬくもりさえも、完全に消し去ってしまった。
梨花が背を向けて立ち去ろうとすると、予想外のことにも竜之介がまっすぐ梨花の方へ歩いてきた。「どうして来たんだ?来る途中、寒くなかったか?」
言いながら、彼はスーツの上着を脱ぐと、有無を言わさず梨花の肩にかけた。「今夜は酒を飲むことになる。君にそんな辛い思いはさせたくないんだ」
梨花は固まった。一瞬、何かに強く心を打たれたような気がした。
突然、昔の記憶が蘇ってきた。
二人が付き合い始めたばかりの頃、ちょうど大学を卒業して社会人になったばかりだった。まるで、航海図もないまま大海原に放り出された小舟のようだった。
竜之介の両親は、非常に重要だけれど難しいプロジェクトを意図的に自分たちに任せ、交渉するように言った。
会食の席で、取引先は何度も杯を上げてお酒を強要してきた。
竜之介は胃が弱く、とても飲める状態ではなかった。
自分はアルコールアレルギーだったけれど、このプロジェクトを無しにしたくなくて、歯を食いしばって一杯、また一杯と竜之介の代わりにお酒を受けた。
契約書にサインをして取引先が席を立った直後、無理をしていた自分は、そのまま倒れてしまった。
竜之介は慌てて、真夜中に自分を背負って30分以上も歩き、やっと病院を見つけた。
自分が目を覚ますと、彼が目を真っ赤にして取引先のところへ怒鳴り込み、謝罪させたことを知った。挙句の果てに、その場で提携の打ち切りを宣言し、まとまったはずの大きな契約を破棄してしまったのだ。
あの時、竜之介はベッドのそばに座り、自分の髪を指でなでながら言った。「君の体より大事なものなんて、何もない」
胸は温かい気持ちで満たされた。竜之介がこんなにも自分のことを大切に思ってくれているなんて、思ってもみなかった。
スーツの上着から漂う、女物の香水の匂いが、梨花を現実に引き戻した。
彼女は無意識に下を向いた。襟に、カールした髪の毛が一本絡まっていて、照明の光を受けて柔らかく光っている。
それは渚の髪だ。
「こんな時間に一人で帰るのは危ないから」竜之介は髪の毛に気づいていないのか、梨花の肩にそっと手を添え、「先に君を家に送るよ」と言った。
その時、後ろから渚の泣き叫ぶ声が聞こえた。「私に触らないで!飲まないって言ってるでしょ!」
振り返ると、彼女が二人の男に囲まれ、グラスを口元に押し付けられているのが見えた。
竜之介は眉をひそめると、梨花には目もくれず、急いで渚をかばいに行った。そして、グラスをひったくるように掴むと、一気に飲み干した。
それなのに、渚は怒ったように彼を突き飛ばした。「何しに来たの?あなたの婚約者のそばにいなくていいの?」
竜之介は口の端を少し上げて、低い声で言った。「君だって知ってるだろ、俺と彼女の関係は……
あいつとは、ただの協力関係だ。
俺が結婚したいのは、君だけだ」
渚は顔をそむけ、わがままな口調で言った。「あなたとの政略結婚なんて、ごめんだわ」
もし以前の梨花なら、この光景は心に大きな波紋を広げたことだろう。
でも今の彼女は、まるで他人事のように穏やかな気持ちでその光景を見ていた。
梨花は背を向けると、一人で会場の外の深い闇の中へと歩いて行った。
竜之介、もうあなたのことなんて、好きじゃない。
第3話
週末。実家に帰るまで、あと5日。
梨花は荷造りを終えた。ただ、竜之介との思い出の品だけは、どうすればいいか分からなかった。それで、とりあえず玄関に置いておいた。
お昼になると、松井家の親戚がいつものように食事会にやってきた。
竜之介の母親・松井智子(まつい ともこ)が玄関にあった箱を手に取ると、興味津々で中を覗き込んだ。「これ、何?」
松井家の親戚たちは、梨花のことが良く思っていなかった。彼らにとって、竜之介の嫁にふさわしいのは、昔からよく知っている渚のはずだ。家柄も釣り合っていたからだ。
梨花の気持ちなんてお構いなしに、智子は箱の中の日記を開いて読み上げはじめた。
「2020年9月3日、晴れ。
入学式。彼は光の中に立っていた。白いシャツの袖を、無造作にまくって。その時、『まぶしい』っていう言葉の意味が、初めてわかった気がした。彼の名前は松井竜之介。名前まで、カッコいい。
2020年9月15日、雨。
彼が渚を好きだって噂を耳にした。学校の掲示板には、二人の仲睦まじいエピソードが溢れていて、胸が苦しくなる。でも、それ以上に、お似合いの二人だから仕方ないって、無力感に襲われた。
2021年3月20日、曇り。
渚が教えてくれた。子供のころ、親同士が冗談で婚約みたいな話をしたことがあるんだって。彼女は私の腕を組んで、笑いながら言った。『竜之介のこと好きなの?アタックしてみなよ。あんな冗談、本気にしなくていいから』って。私は首を横に振った。二人を裏切るなんてできない。それに、私が彼を追いかけたって、勝ち目なんてないから。
2024年6月30日、雨のち晴れ。
渚がいなくなった。婚約パーティーの当日、何も言わずに。彼はたくさんお酒を飲んで、私を見ていた。目が怖いくらい真っ赤で、『俺と一緒になるか』って聞いてきた。
私は『うん』って答えた。
彼が私を愛していないのは分かってる。でも、その時、思ったんだ。どんなに冷たい人だって、いつかは私を好きになってくれるかもしれないって」
竜之介は、母親が読み上げるその日記に耳を疑った。そして、思わず梨花のほうに視線を向けた。
この女のことを、彼が初めて、本当の意味で真剣に見つめた瞬間だった。
まさか、彼女が本当に自分のことを好きだったなんて。
竜之介は、梨花が玉の輿狙いで自分と結婚したのだとばかり思っていた。
彼女はいつも優しくて、気配りができて、まるで完璧な恋人を演じているかのようだった。
誰の目にも触れないところで、梨花はこれほどまでに自分を愛していたのだ。
竜之介は梨花の方を見た。その視線は、ほんの一瞬、彼女の上で留まった。そして、彼の心には、今まで感じたことのない、不思議なざわめきが生まれた。まるで、静かに爪弾かれたギターの音色が、心に響くように。
彼がまだ何かを理解する前に、けたたましい着信音が突然鳴り響いた。
それは、彼が渚専用に設定している着信音だった。
「竜之介……どこにいるの?私、家に一人なんだけど、さっき窓の外に人影が見えたような気がして、すごく怖いの……」途切れ途切れの泣き声が聞こえる。「お願い、来てくれない……」
竜之介は車のキーを手に取ると、ダイニングテーブルの料理に一口も手を付けないまま、ドアの外へ消えていった。
30分後、梨花のスマホの画面が光った。
渚から送られてきた、一本の動画だった。
映像に映っているのは、竜之介が所有する別荘だった。プライバシーと最高レベルの警備で有名なその別荘のリビングで、窓の外には黒服のボディーガードが巡回しているのが微かに見える。
竜之介は、渚を当たり前のように抱きしめていた。「大丈夫、ここは安全だよ。俺がここにいるから、誰も君を傷つけたりしない」
スマホの光が梨花の目に映り、ちかちかと痛んだ。
ふと、彼女は竜之介と付き合い始めたばかりの頃を思い出した。
あの日、竜之介は会社で残業していた。一人で家にいると、誰かが乱暴にドアノブを回して、こじ開けようとしてきたのだ。
震えながら竜之介に電話をすると、彼は心底面倒くさそうに言った。「こんな安全なところで、人が来るわけないだろ?こっちはまだ仕事があるんだ。少し落ち着けよ」
愛されているかと、そうでないかの差って、こんなにもはっきりしているんだ。
身内だけの食事会が終わった頃、竜之介がようやく帰ってきた。
「さっきは……」彼は咳払いをして、言い訳を試みた。「渚の様子がちょっとおかしくて。家に誰か入ってきたみたいで、かなり取り乱してたんだ」
でも、梨花はただ静かに座っているだけ。想像していたような、怒りや悲しみ、あるいは問い詰めるような表情は一切見せなかった。
竜之介は、胸が詰まるような息苦しさを感じた。
ふとリビングの隅に目をやると、きちんとまとめられたスーツケースが二つと、封をされた段ボール箱がいくつか置いてあった。
「これは……」彼は喉を上下させ、初めて声が震えた。「どういうことだ?」
第4話
梨花は顔を上げた。表情は、まったく動かなかった。
「衣替えよ」彼女は静かに、まるで何でもないことを話すかのように言った。「クリーニングに出すものもあるし、いくつかはクローゼットの中を整理しないと。だから早めに片付けてるの」
その口調は落ち着いていて、冷静すぎるほどだった。でも、それがかえって奇妙な不安をかきたてた。
竜之介は梨花をじっと見つめた。胸のざわめきが、どんどん大きくなっていく。
でも、彼女が嘘をつく理由が見当たらなかった。
沈黙の中、梨花は立ち上がり、棚から薄い色の箱を一つ取り出した。
彼女は、その箱をリビングの低い棚の上に置いた。
「はい、これ」と梨花は言った。
竜之介はきょとんとした。「何だ?」
「胃にいいお茶よ。あなたは昔から胃が弱いでしょ。接待も多いし、夜更かしもするから。たまに胃が痛くなったり、もたれたりしても、また我慢するんじゃないかと思って。
このお茶、あなたが嫌いな酸味はないわ。日中コーヒーを飲む習慣にも影響しないはず。面倒なら、一日一袋だけでもいいからね」
彼女は少し間を置いて、静かに言った。「これからは、誰も注意してあげられないんだから。自分のことは、ちゃんとしなきゃだめよ」
竜之介は俯いてそのお茶の箱を見ていた。最後の言葉はよく聞き取れなかったけど、心の奥が何か細いもので、そっと引っかかれたような気がした。
彼は顔を上げて、いつもの癖で梨花を抱き寄せようと手を伸ばした。
でも、彼女は、ただ少しだけ体を横に向け、その手を避けた。
空気が固まった瞬間、カチャリとドアが開く音がした。渚が、小さなハンドバッグを手に、ハイヒールの音を響かせて入ってきた。
「あら、奇遇ね。帰国してから、まだちゃんとみんなで集まれてないなって思ってたの」彼女は室内の張り詰めた空気には全く気づいていないかのように、竜之介と梨花の間で軽やかに視線を動かした。「ちょうどよかったわ。今日は竜之介に引っ越しを手伝ってもらったの。そのお礼にご飯おごるわね」
渚は有無を言わせず、二人をしゃぶしゃぶ屋に連れて行った。
「これが私のお気に入りのタレよ。二人も食べてみて」
梨花は俯き、目の前に差し出されたタレの入った器に視線を落とした。
色合いも、配合も、ネギの添え方まで。すべてが、竜之介がいつも自分のために作ってくれるものと、全く同じだった。
昔、何を食べようか迷った時は、いつも二人でしゃぶしゃぶを食べに来ていた。
梨花も、女の子らしいわがままを言って、竜之介にタレを作ってもらっていた。
でも、彼が作るタレはいつも同じ味だった。しかも、いつも決まってネギが入っていたのだ。
彼女が食べられないと、何度も伝えていたはずなのに。
梨花は何度も自分に言い聞かせていた。竜之介は忘れっぽいだけかもしれない、と。それか、ネギはどうしても必要だと思っているのかも。だから、受け入れなくちゃいけないんだ、と。
この瞬間まで、彼女は気づかなかった。そして、今やっとはっきりと分かった。
あれは、竜之介の好みではなかった。彼が、別の誰かを愛しているという証だったのだ。
そして自分は、その習慣を押し付けられた、ただの容れ物にすぎなかった。嫌いなものが入っていても、丸ごと受け入れるしかない存在だったのだ。
三人で食事をしていると、店員が出汁つぎを持ってスープを注ぎにやってきた。
その時、店員の手が滑り、熱い出汁が勢いよく渚と梨花の方へ飛び散った。
「危ない!」
竜之介は、ほとんど反射的に立ち上がった。そして、迷うことなく渚のほうへ身を乗り出した。
彼は渚の肩を庇い、彼女をぐっと自分の胸に引き寄せた。
熱い出汁の大半は竜之介が受け止めた。でも、一部はこぼれて梨花の横顔と鎖骨に飛び散った。そのせいで、彼女の肌は一瞬で赤く腫れ上がった。
しかし竜之介は、それには全く気づかないようだった。ただ渚をなだめるように、「大丈夫だ、怖くないよ」と低い声で囁くだけだった。
梨花は目の前が真っ暗になり、世界がぐるぐると回るのを感じた。意識が遠のく中、竜之介が「梨花!」と短く叫ぶのが聞こえた。
でも、その声はまるで厚いガラスを一枚隔てたかのように、とても遠くに聞こえた。
それよりも鮮明だったのは、反射的に渚のほうを向く竜之介の姿だった。そして、彼女を守るように固く伸ばされ、少しも緩められることのなかった、彼の腕だった。
第5話
再び目を開けると、耳元からはピッ、ピッという電子音が聞こえ、頭には厚い包帯が巻かれていた。
梨花が体を起こすと、ベッドの傍に竜之介が座っているのが視界の隅に入った。彼は心配そうに眉をひそめていた。
「目が覚めたか?」竜之介の声はぎこちなかった。「どこか具合が悪いところがあったら、言ってくれ。
火傷のところはまだ痛いか?看護師を呼んで薬を交換してもらおうか。
先生はたいしたことないから、2日ほど様子見で入院すればいいと言っていた」竜之介は言葉を選ぶように付け加えた。「傷が治った後も、毎日ちゃんと塗り薬を使えば、跡は残らないそうだ。
よく眠れたか?枕、調整しようか?」
梨花は彼をちらりと見やり、ただ「大丈夫」とだけ答えた。
「ちょっと外に出ててくれない?まだ疲れてるから、もう少し眠りたい。
あなたがいたら、気になって休めないから」
竜之介は喉を上下させ、言いかけた言葉を飲み込んだ。
彼は、梨花が再び目を閉じるのを見届けると、黙って立ち上がり、ゆっくりと病室を出ていった。
病室は、再び静寂に包まれた。
梨花は目を開けて窓の外を眺めた。その心は、まるで凍りついたように静かだった。
けれど、その静寂は長くは続かなかった。
10分ほど経った頃、病室のドアが再びそっと開かれた。
戻ってきたのは竜之介だった。その手には、保温ジャーが握られていた。
蓋を開けると、湯気とともに料理のやさしい香りがふわりと広がった。
「山下さんに頼んで、わざわざ病人食を作ってもらったんだ。栄養があって消化に良いものなら、山下さんが一番詳しいからな」
竜之介はスプーンで一口すくうと、フーフーと息を吹きかけて冷ましてから、梨花の唇へと運んだ。「少しでもいいから食べて。体力をつけないと、傷の治りも遅くなる」
彼女も確かに空腹を感じていたので、黙って口を開き、それを受け入れた。
まさにその時、病室のドアが突然、勢いよく開かれた。
ドアの前に立っていたのは、瑞々しいシャンパンローズの大きな花束を抱えた渚だった。室内の光景を目にした瞬間、彼女の顔から笑みが消え、凍りついた。
次の瞬間、ポロポロと涙がこぼれ落ちてきた。
バサッという音と共に、力の抜けた手から花束が滑り落ちる。床に叩きつけられ、花びらが辺りに散らばった。
その音に、ベッドのそばにいた二人ははっとした。
竜之介の手が、ほんのわずかに止まった。
渚は慌てて涙を拭うと、無理やり笑顔を作って花束を拾い上げた。「梨花、お見舞いのお花よ。早く元気になってね」
彼女はサイドテーブルまで行くと、慌てた様子で花瓶に花を挿し、そのまま逃げるように病室を飛び出していった。
あたりは再び静けさを取り戻したが、さっきまでとは何かが違っていた。
竜之介は視線を戻し、再びスプーンを梨花の口元へと運んだ。しかし、その手はさっきまでと違って、少し震えているように見えた。
スプーンが傾き、温かいお味噌汁が彼女のあごを伝って、すっと一筋流れた。
竜之介ははっと我に返り、まるで熱いものにでも触れたかのように、お味噌汁の入ったお椀をサイドテーブルに置いた。カチャリと小さな音が響く。
「すまない」竜之介は眉をひそめた。「渚が……少し様子がおかしかったから、ちょっと見てくる」
梨花は何も答えず、ただ彼の背中を見つめていた。
彼女は、少しぬるくなったお味噌汁をゆっくりと飲み干した。
少し外の空気を吸おうと病室を出ると、半開きになった非常階段のドアの隙間から、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「あの時、結婚を断ったのは私の方。本当にごめん。
あなたが結婚したのは梨花なんだから。早く彼女のそばに戻ってあげて」
竜之介はため息をついた。「渚、そんなことでやきもちを焼くのはやめてくれ。梨花は君がごちそうした時に怪我をしたんだ。だから俺は、君の代わりに彼女の世話をしているだけなんだよ」
梨花はその場に立ち尽くした。心が、ずしりと重く沈んでいく。彼の優しさは全て、渚のためだったのだと、思い知らされた。
とてつもない馬鹿らしさと、氷のように冷たい絶望感に襲われ、梨花は立っていることさえままならなかった。
彼女はそれ以上聞こうとせず、黙って踵を返して病室へと戻った。
それから間もなく、看護師が慌てた様子でドアを開けて入ってきた。「大変です!付き添いの方が!」
第6話
看護師の言葉が終わるか終わらないかのうちに、廊下の奥から突然叫び声が響き渡った。
「道を開けてください!患者さんは出血が止まりません!」
梨花の心臓がどきりと跳ね、彼女は無意識に病室を飛び出した。
ストレッチャーが猛スピードで通り過ぎていく。床には点々と血の跡が続き、それは目に焼き付くほど鮮烈だった。
竜之介はストレッチャーに付き添うように走りながら、いつもの冷静さをすっかりなくして、震える声で言った。
「渚、しっかりしろ!頼むから目を開けて俺を見てくれ。いいな?これからはなんでも君の言うことを聞くから。頼むから、俺を怖がらせないでくれ……」
手術室のドアが、バタンと閉まった。
竜之介は魂が抜かれたようにその場に立ち尽くし、息を切らしていた。
次の瞬間、彼は自分を抑えきれなくなったように、壁に頭を打ちつけた。「渚にもしものことがあったら、俺は絶対に自分を許さない!」
ゴツン、と鈍い音が響き、竜之介の額はみるみる赤く腫れ上がった。
それでも彼は無意識にスマホを取り出し、電話をかけると、怒鳴るように命令した。「すぐに国内で最高レベルの外科医と麻酔科医を!血液も!全てだ!全て手配しろ!」
すぐにまた別の番号にかける。画面には「福田先生」と表示されていた。
福田啓太(ふくだ けいた)。国内の外科の権威だ。1年中、手術と国際会議で世界を飛び回り、普通の人が彼の執刀を待つには3年はかかると言われている。
相手が電話に出るか出ないかのうちに、竜之介は焦って口を開いた。「福田先生、松井です。渚が、渚が危ないんです!どうか彼女の手術をしてください。条件は何でも飲みますから!」
相手は一瞬ためらってから言った。「いまW市で研修医への公開手術をしている最中でしてね。今夜中にそちらへ向かうことはできません」
竜之介は、みるみるうちに目に涙をためて言った。「あの『C193インビジブル神経モデリングシステム』を差し上げます!ですから、どうか来てください」
梨花の心臓が、きゅっと縮んだ。
あれは松井グループが100億円もの開発費をかけた、まだ製品化されていない基幹技術だ。その一部でも公開すれば、世界の医療界が喉から手が出るほど欲しがる代物だ。
電話の向こうの声は、ついに折れたようだった。「わかりました。すぐに出発します」
竜之介は低く、「ありがとうございます」と呟いた。病院の冷たい蛍光灯の光が、取り乱した彼の横顔を照らしていた。
梨花は呆然としていた。
彼女は、こんな竜之介を、今まで一度も見たことがなかった。
まるで知らない人みたいで、誰だか分からないほどだった。
そこへ、病院の事務長が息を切らしながら走ってきた。額にびっしりと汗を浮かべている。「松井社長、事故現場の近くに防犯カメラがありました。映像の準備ができましたので、ご確認をお願いします」
竜之介は顔も上げずに答える。「行かない。渚がまだ手術室の中にいるんだ。俺はここにいる」
「手術はすぐには終わりませんから。ですが、今回の事故は院内で起こったことです。病院としては責任の所在をはっきりさせなくてはなりません」
「行かないと言っているだろう!」
竜之介の声が、突然大きくなった。抑えきれない動揺と怒りが、言葉の端々からにじみ出ている。「渚がまだ手術室で頑張ってるんだ!他のことは、渚が無事だとわかってからにしてくれ!」
怒鳴りつけられた事務長はびくりと肩をすくめ、何か言いたそうに口を開けたが、何も言えなかった。そして、助けを求めるような目で梨花を見た。
梨花は2秒ほど黙ったあと、静かな声で言った。「私が一緒に行きます」
カメラの映像の中で、渚は涙を流しながら言っていた。「戻ってくるべきじゃなかったのよね。私なんて、邪魔なだけなんだから。
梨花のところへ行ってあげて。本当に大事にしなきゃいけないのは、彼女の方でしょ」
次の瞬間、渚は突然ナイフを取り出した。きらりと光った刃は、ためらうことなく自分の手首へと深く突き立てられた。
鮮血が噴き出したその瞬間、映像の中の竜之介は完全に取り乱し、彼女を抱きしめるために駆け寄っていった――
……
梨花が手術室の前に戻ると、竜之介が床にひざまずいているのが見えた。彼は両手を固く握りしめ、小さな声で祈りを捧げていた。
「神様、どうか、どうか渚をお守りください。彼女を救ってください」
いつも自信に満ち溢れ、冷静沈着な竜之介が、今はただ祈りと絶望に打ちひしがれている。
梨花は、その場に凍りついた。
彼女は、竜之介と付き合い始めたばかりの頃、山の上にある神社で、熱心に二人の未来を祈ったことを思い出した。
けれど竜之介は、ちらりと一瞥しただけ。そして次の瞬間には、お守りを机の上にぽいと放り出した。
「くだらない。
俺には、こんなもの必要ない」
手のひらには、まだお守りの温もりが残っている梨花は、ふと悟った。
永遠に一緒にいられるなんて、そんなのは、自分だけのひとりよがりな幻想だったのだと。
竜之介が心から誰かの幸せを願う時、その相手は決して自分ではなかったのだ。
第7話
数時間後、渚が手術室から出てきた。顔は血の気がなく真っ青で、目は固く閉じて眠っていた。
竜之介はすぐさま立ち上がると、ストレッチャーのそばへ駆け寄り、彼女から一瞬も目を離さなかった。
執刀医の啓太がマスクを外す。少し疲れた顔で竜之介に頷いた。「ご安心ください。間に合いましたから。しばらく安静にしていれば大丈夫です」
事情を知っているらしい周りの医師や看護師たちは、ちらちらと梨花の方へ同情に満ちた視線を送った。
昼になり、竜之介は梨花に言った。「病院食じゃ栄養が足りないから。家に帰って山下さんの手料理を渚に届けてくれ」
それはあまりにも当然といった命令口調で、梨花の方を見ようともしなかった。
梨花は何も言わず、背を向けてその場を去った。
ずっしりと重い保温ジャーを手に病室へ戻ると、ドアは少しだけ開いていた。中からは物音ひとつしなかった。
竜之介の姿はなかった。
ドアを開けようとした梨花は、その隙間から、信じられない光景を目の当たりにする。
渚はベッドにもたれかかり、啓太が身を乗り出して彼女のそばに寄り添った。二人は互いを求めるように、深くキスを交わしている。
二人の間には甘く熱い空気が流れていて、とても手術を終えたばかりの患者とは思えなかった。
しばらく衣擦れの音がして、渚は甘えるように笑いながら、得意げに言った。「啓太さん、やっぱりあなたのやり方は一番ね。他の先生だったら、私が怪我したふりをしてるってすぐ見抜かれちゃうもの」
啓太は低く笑った。「まったく。あの男の気を引くために頑張ったんだな。でも、もうこんなことはするなよ。俺が心配するから」
「梨花?どうしてドアの前に立ってるんだ?入らないのか?」
竜之介の声が背後から聞こえた。彼は梨花に近づくと、その手から保温ジャーを受け取った。
ドアを開けると、病室の中にいた二人はとっくに離れていて、何事もなかったかのように振る舞っていた。
竜之介は室内の微妙な雰囲気に気づいていないようだ。彼はスープを小皿によそい、ベッドのそばに腰を下ろした。そして穏やかで優しい声で、渚に語りかける。「渚、少しでもいいから飲んで。山下さんがじっくり煮込んでくれたんだ。体にいいから」
目の前の光景を見ていた梨花は、どうしようもない無力感に襲われた。思わず口を開く。「竜之介、あなたは知らないの。渚の怪我は、嘘なのよ」
梨花はそう言って、渚の包帯が巻かれた腕をつかみ、それを剥がそうとした。
しかしその瞬間、手の下の包帯に、生々しい真っ赤な血がじわりと広がった。
血が、本当に流れている。
はっと我に返った渚は、突然、甲高い悲鳴を上げた。「痛い!梨花、何するの!離して!」
竜之介は顔色を変え、怒鳴りつけた。「梨花!気でも狂ったのか?!」
彼は梨花の手首を強く掴むと、力任せに引き剥がし、横へ突き飛ばした。
梨花がよろめき、まだ体勢を立て直せないうちに、重い平手打ちがその頬を襲った。
バシンッ――
彼女の耳がキーンと鳴り、頬は燃えるように熱い。口の中には、血の味が広がった。
「渚はすでに怪我をしている!それでもまだ足りないのか?なぜ、こんなひどいやり方で彼女を傷つけるんだ!」
竜之介の後ろでは、渚が腕を押さえていた。指の間からは血が滲み、彼女は目を真っ赤にして肩を震わせている。しかし、打ちひしがれた梨花の横顔に向けられたその視線には、一瞬だけ、冷たい得意の色と、嘲りが浮かんだ。
啓太がすぐに駆け寄り、傷口を確認する。そして深刻な声で言った。「傷口が開いてしまいました!もう一度処置が必要です!」
病室は一瞬にして混乱に包まれた。
梨花はゆっくりと体を起こし、痺れた口の内側を舌でなぞった。
頬が、ひどく痛む。
しかし、それ以上に痛かったのは、心に残っていた最後の希望の火が、完全に消えてしまったことだった。
彼女は息を深く吸い込むと、くるりと背を向け、病院を後にした。
第8話
スマホの画面には、明日出発のフライト情報が表示されている。
その夜、梨花は、最後の荷造りをするために、かつて「家」だった場所に戻ってきた。
荷造りはほとんど終わっていた。残っていたこまごました物も、スーツケースの隅に詰め込んでいく。
ウェディング写真や、結婚指輪。それに、一度しか袖を通さなかったウェディングドレスも。思い出の品は、何もかも捨ててしまった。
最後に、梨花はリビングの真ん中に立ち、部屋をぐるりと見渡した。
ここは、竜之介からプロポーズされた後、希望に胸を膨らませながら、自分で少しずつ作り上げてきた家だった。
壁の色は、何軒もお店を回って選んだこだわりのウォームグレー。ソファは、二人で寄り添って映画を観られるように、少し大きめのものにした。食器の並べ方一つにも、これから始まる温かい毎日を想像していた。
この部屋には、結婚や家庭に対する、自分のささやかで、そして情熱的な夢のすべてが詰まっていたのだ。
でも、もうそんなものは必要ない。
翌日、空が白み始めた頃。
梨花は最後のスーツケースに荷物を詰め終わり、予約していた車が時間通りに到着し、家の前で待っていた。
スマホが震え、画面に「竜之介」の名前が浮かび上がった。
「梨花か」電話の向こうの声は、冷たくかすれていた。「すぐに病院へ来い。
昨晩のことで、渚の傷が開いてしまった。一晩中、熱も下がらず、今も精神的に不安定だ。直接謝って、彼女から許しをもらえ」
電話の向こうから、渚のか細い泣き声がかすかに聞こえてくる。
梨花は、思わず指を強く握りしめた。でも、その心は荒野のように静まり返り、何の感情も湧いてこなかった。
「わかったわ」
どうせこれが最後だ。かつて竜之介に恋い焦がれていた、過去の自分のために、渚に謝ってこよう。
「運転手さん、すみません。先に病院へ寄ってください」
病室に入ると、渚は腕に新しい包帯を巻かれていた。顔は血の気がなく、真っ青だった。
そばには啓太と看護師もいて、みんなの視線が梨花に突き刺さった。
探るような、そして責めるような視線だった。
梨花は感情を込めずに言った。「藤井さん、昨夜は私のせいで怖い思いをさせてしまって、本当にごめんなさい」
その時、竜之介は前触れもなく足を上げ、彼女の膝の裏を蹴り上げた。
不意を突かれた梨花は、前のめりによろけて、両膝を固い床に強く打ち付けた。
痛みが走り、彼女はとっさに歯を食いしばった。
「ひざまずけ。謝るなら、それなりの態度を見せろ」頭の上から降ってくる竜之介の声が、耳の中でがんがんと響いた。
梨花の心臓は、見えない手に鷲掴みにされたように、息もできないほど苦しかった。
「藤井さん、昨夜の私の軽率な行動で、心身ともにご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。これは私の過ちであり、何も言い訳できません。どうかお許しください」
彼女はそう言うと、ひざまずいたまま、さらに深く頭を下げた。
渚は梨花を見下ろし、一瞬勝ち誇ったような笑みを浮かべた。「あなたの謝罪、受け入れるわ。もう二度とこんなことはしないでね」
「ええ、もうしません」
もう、関わることなんてないのだから。
梨花はすっと立ち上がると、くるりと背を向けて歩き出した。
「どこへ行く気だ」
竜之介は、梨花の腕を掴んで引き止めようとした。なぜか胸騒ぎがしたが、その手は彼女の華奢な腕に触れただけだった。
「あなたには関係ないことよ」
梨花は彼を避けると、迷いのない足取りで去っていった。一度も、振り返ることはなかった。
空港に向かう車の中で、梨花は竜之介の連絡先を全てブロックし、削除した。松井家に関わる人たちや、渚の電話番号も、一切残さなかった。
全てを終えると、彼女はスマホの電源を切った。
飛行機は空高く舞い上がり、雲を突き抜けた。窓の外には、まぶしい太陽と、どこまでも続く青空が広がっていた。
さようなら、竜之介。
さようなら、自分の空っぽだったこの5年。
飛行機は梨花を乗せて、竜之介のいない、新しい場所へと飛び立っていった。