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夫の心は後輩へ、私は娘と家出
沖井悟史(おきい さとし)と結婚してから、彼は外でのあらゆる女遊びをきっぱり断ち、心を私だけに向けてくれた。 誰もが、私が夫を上手に操...
Chương (1)
第1章
沖井悟史(おきい さとし)と結婚してから、彼は外でのあらゆる女遊びをきっぱり断ち、心を私だけに向けてくれた。
誰もが、私が夫を上手に操り、円満な家庭を築いていると羨ましがった。
――あの日、結婚十周年の記念日までは。
私は何気なく悟史と彼の友人たちのグループチャットを見てしまった。
【悟史さん、昨日は後輩ちゃんとベントレーの車での体験、良かっただろう?】
【俺はもう彼女とどんなシチュエーションでも試した。あいつ、俺のこと好きすぎて、抜け出せないんだ】
その下には、悟史と「後輩ちゃん」が仲良く寄り添っている写真がある。
そしてグループは、【末永くお幸せに】と祝福しながら盛り上がっている。
私は画面を見つめると、胸の奥に無数の細かい針が刺さるような痛みが走った。
これまでの悟史との幸せな時間は、すべて私を騙すために綿密に仕組まれた芝居だったのだ。
私は一晩中、一人で座り続けている。
そしてついに、悟史が遅れて帰ってきた。
手には記念日のケーキを持っている。
その姿を見て、私は思わず冷ややかに笑った。
「全部知ってるのよ。そんなに演じ続けて、疲れないの?」
第1話
沖井悟史(おきい さとし)と結婚してから、彼は外でのあらゆる女遊びをきっぱり断ち、心を私だけに向けてくれた。
誰もが、私が夫を上手に操り、円満な家庭を築いていると羨ましがった。
――あの日、結婚十周年の記念日までは。
私は何気なく悟史と彼の友人たちのグループチャットを見てしまった。
【悟史さん、昨日は後輩ちゃんとベントレーの車での体験、良かっただろう?】
【俺はもう彼女とどんなシチュエーションでも試した。あいつ、俺のこと好きすぎて、抜け出せないんだ】
その下には、悟史と「後輩ちゃん」が仲良く寄り添っている写真がある。
そしてグループは、【末永くお幸せに】と祝福しながら盛り上がっている。
私は画面を見つめると、胸の奥に無数の細かい針が刺さるような痛みが走った。
これまでの悟史との幸せな時間は、すべて私を騙すために綿密に仕組まれた芝居だったのだ。
私は一晩中、一人で座り続けている。
そしてついに、悟史が遅れて帰ってきた。
手には記念日のケーキを持っている。
その姿を見て、私は思わず冷ややかに笑った。
「全部知ってるのよ。そんなに演じ続けて、疲れないの?」
……
「何だって?離婚?」
悟史の深い眼差しに、嘲るような光が一瞬よぎった。
「今日わざわざ仕事の合間を縫って記念日に付き合ってやってるんだ。俺を怒らせるな」
そう言いながら、彼はプレゼントの箱から上品な腕時計を取り出し、私の手首にはめようとした。
「記念日のプレゼントだ」
時計の文字盤のデザインは独特で、ベルトは艶やかで上質だ。
だが私は一目で気づいた。
これは悟史が後輩である桂野可奈子(かつらの かなこ)と一緒に高級オークションに参加し、落札した品物だった。
これまで悟史がくれたものは、たとえ道端で適当に摘んだ野花であっても、私は宝物のように大切にし、丁寧にしまっている。
だが今、私はその手をかわした。
「いらないわ。そこに置いといて」
悟史は眉をひそめ、怒りを抑えつつ説明した。
「そんなに機嫌悪いのは、俺が帰るのが遅かったからか?可奈子が飼ってる猫がいなくなって、一人でめちゃくちゃ焦ってたんだ。俺が長い時間探して、やっと見つけたんだ。そのせいで記念日に遅れたんだ」
可奈子は、いわゆる悟史の「後輩ちゃん」。
そして、彼とあらゆるシチュエーションで「体験」を共有した相手。
私は悟史をじっと見つめた。
以前、私たちが飼っていた犬が突然体調を崩した時のことが蘇った。
あの子が嘔吐と下痢を繰り返し、私はどうすればいいのか分からず、ただただ焦るばかりだった。
思わず悟史に電話して助けを求めた時、返ってきたのは――
「犬一匹だろ?自分で動物病院に連れて行け。いちいち何でも俺に頼るな。今、重要な商談中なんだ」
私は涙をこらえ、一人で何軒もの動物病院を回り、何日も点滴に付き添い看病した結果、犬はようやく元気を取り戻した。
それなのに今では、同じペットのことで、悟史は私との記念日を投げ捨ててまで、可奈子の猫を探しに行った。
悟史は目を細めた。「で?今さら昔のこと持ち出すわけ?俺があの時お前の面倒を見なかったのが、そんなに不満か?それとも、金でも足りなかったのか?
結婚を望んだのはお前だし、子どもを産んだのもお前だ。妻の立場も金も与えてるだろう。可奈子は何がある?なぜお前はこんなにひねくれてるんだ?」
彼の言葉が耳に飛び込んできた。頭が追いつかないうちに、胸の奥で心臓がぎゅっと強く締めつけられた。
私は悟史を見つめた。
――彼の言いたいことは分かった。つまり、「妻の立場を与えてやったんだから、愛も気遣いも求めるな」ということだろう。
言ってしまった本人も、まずいと思ったのだろう。悟史の表情に影が差し、声がわずかに柔らかくなった。
「……もういい。夕実を呼んでこい。三人でワイン開けて、記念日らしく楽しく過ごそう」
そう言いながら、慣れた手つきで高級ワインの栓を抜き、グラスに注いで私に差し出した。
いつもなら、悟史と喧嘩したあと、彼がこうして小さな機嫌取りをしてくれれば、私はそのまま折れた。
十年間、私たちの間に存在していた暗黙の了解。
けれどもう、私はその了解に従うつもりはない。差し出されたグラスを、そのまま押し返した。
悟史は、私が受け取ると思ったのだろう。ワインはパシャリと床にこぼれ落ちた。
一瞬、私も動きを止めた。
悟史は低く笑い、瞳に怒りの炎が燃え上がった。
「まだ気が済まないのか、沙織。一晩中お前の機嫌を取ってきたんだぞ。記念日を過ごしたくないなら、もうやめだ」
第2話
「だけど、忠告しておく。ほどほどにしておけ。俺だって毎回こんなふうにお前のかんしゃくに付き合うほど、辛抱強くはないんだ」
言い終えると、悟史は踵を返して立ち去り、玄関のドアが雷鳴のような音を立てて閉まった。
私はその場に黙って立ち尽くし、やがていつものように目を伏せてしゃがみ込み、ティッシュで床にこびりついた赤ワインの染みを少しずつ拭き取った。
一緒に過ごしてきた年月が長くなると、多くの人は何度か「別れ」という言葉を口にするものだろう。けれど私は悟史と十年間連れ添って、一度たりともその言葉を口にしたことがなかった。
恋を大切にし、悟史の気持ちを尊重してきた。どんなに生活が苦しくても、簡単に「やめる」とは言わなかった。
だが、もし私が本気で「離れる」と言うのなら――それはすでに、決意を固めた証拠だ。
床に散らばったガラスの破片を片付け終えると、ネットから離婚届の様式をダウンロードして印刷した。そして、自分の服を一枚ずつスーツケースに詰めていった。
すべてを終えると、外は白み始めている。
いつの間にか目を覚ました私と悟史の娘、沖井夕実(おきい ゆみ)は、私が大きなスーツケースを引いているのに気づき、不思議そうに首をかしげて見つめてきた。
「ママ、どこに行くの?」
私はしゃがんで、そっと夕実の頭を撫でた。「夕実、ママはね、外国へお仕事に行くの。一緒に来る?」
「ママが行くところなら、夕実も行く!」
夕実は勢いよく頷き、それからすぐに尋ねた。「じゃあ、パパは?」
私は苦笑しながら答えた。「パパはね、ママと夕実のことが好きじゃないから、一緒には来ないよ。これからは、たぶんパパとは一緒に住まないと思うの」
悟史の日記には、私についてこう書かれていた。
【子どもを産み育てる役割で、家事が得意】
彼にとって私は、ただの子を産むための道具に過ぎない。
本来なら夕実は父親の愛情を受けるべきなのに、長い年月にわたり彼は私たちに冷淡なままだ。
もしほんの少しでも私たち母娘のことを気にかけてくれていたら、私は離婚など考えもしなかった。
夕実は私の話を聞いて、小さな顔に驚きを浮かべた。彼女は俯き、小さくしぼんだ声で答えた。
「知ってるよ。ママ、パパといる時、全然楽しそうじゃなかったもん。でもね、ママ……パパがこの間言ってたの。夕実がクラスで花丸をいちばん多くもらってて、すごくえらいって。
それでね、ディズニーに連れて行ってくれるって言ったの。お姫さまのドレスもいっぱい買ってくれるって。
ママ、パパがこんな楽しいところに連れて行ってくれるって言ったのは、初めてなの。だから……パパとディズニーに行ってからでいい?それからママと一緒に行くから。ね?」
夕実の瞳の奥に宿る期待を見て、私は躊躇した。本当は、「パパはもう、その約束を忘れてるかもしれないよ」と言いたかった。
悟史は、外では言ったことを必ず守る男のように振る舞うくせに、私たち母娘に対しては、何度も平気で約束を破ってきた。
それでも私は夕実の願いを否定できなかった。
私が悟史に抱く期待はとうに消えているが、夕実はまだ父親と過ごす時間を求めている。
――悟史、これが夕実がくれる最後のチャンスだ。
これでも大切にできないのなら、私は夕実を連れてあなたの世界から永遠に去る。
もう二度と交わることはない。
私は昼食の支度を終えて料理をテーブルに並べた時、タイミングよくチャイムが鳴った。
「きっとパパが帰ってきたよ!」夕実は嬉しそうに走って玄関のドアを開けた。
数秒後、悟史の声が聞こえた。「夕実、『可奈子さん』って挨拶しなさい」
夕実は固まった。まさか自分のパパが誰かを連れてくるとは思っていなかったようだ。
「……可奈子さん」
第3話
私が顔を上げると、玄関には一人の女の子が立っている。悟史の隣にいて、まるで「守ってあげたくなる」ような雰囲気を漂わせている。
彼女――可奈子は、ぱちぱちと瞬きをしながら私たちを見回した。
「悟史さんがうちにご飯を食べに連れてきてくれたの。沙織さん、迷惑じゃないよね?」
悟史は代わりに答えた。「箸が一膳増えるだけだ。沙織は文句ない」
私が口を開くよりも早く、悟史は可奈子を連れてリビングへと進んでいった。
最初から最後まで、彼は一度も私の方を見なかった。
それが、ただのいつもの無関心なのか、それとも昨日の私の態度にまだ腹を立てているのか、もう判断がつかない。
夕実はぴょこぴょこと悟史の後を追い、手にした楽譜を抱えながら、ソファのそばで期待に満ちた瞳を悟史に向けた。
「パパ!新しいピアノの曲、覚えたの。弾いてあげてもいい?」
悟史は夕実の頭を優しく撫でながら、満足そうに言った。「いいぞ」
夕実は嬉しそうに譜面を整えた。すると、可奈子も身を寄せてきて言った。
「この曲、私も昔習ったの。夕実ちゃん、せっかくだから二人でパパに弾いてあげよう?」
夕実は眉をひそめた。拒否しようと口を開きかけたが、可奈子はそれより先に勝手にピアノ椅子に腰を下ろし、勢いよく夕実を押しのけてしまった。
そして可奈子が立ち上がると、肘がテーブルの花瓶を引っかけてしまい、ガシャーンと派手な音を立てて、床一面に白い破片が飛び散った。
夕実は驚いて一歩後ろに下がったが、足元の破片でかすかに足を切ってしまった。
悟史は反射的に手を伸ばし、可奈子を守るように自分の体で覆った。その瞬間、彼の服がピアノの譜面台に触れ、楽譜がばらばらと床に散らばった。
可奈子は悟史を見ると、途端に目に涙を溜め、震える声を漏らした。「悟史さん……」
悟史はすぐに彼女の肩に手を回し、優しく慰めた。
その時、花瓶が割れる音を聞いて、私は慌てて台所から飛び出した。
「夕実、大丈夫?」
私はすぐにしゃがみ、夕実の様子を確認した。彼女の足には小さな切り傷があり、血がじんわりと滲んでいる。
「血が出てるわ。ママが手当てしてあげるね」
「ママ、大丈夫だよ。痛くないから。ちょっと切っただけ」
大人しい夕実は私に向かって無理に笑顔を作り、しゃがんで床に散らばった楽譜の下にあった、大切にしていた一本の絵筆を手に取った。
それは以前、悟史が出張の帰りに買ってきてくれた夕実のお気に入りの絵筆で、彼女はそれをとても大切にし、いつも丁寧に使っていた。
けれど今、それは花瓶の水でびしょ濡れになり、筆軸には破片が当たってできた深い傷がいくつも刻まれている。
夕実の瞳が揺れ、ぽたりと涙が絵筆に落ちた。
「これ……パパがくれた絵筆なの。私、絵がすごく上手だって言って、これでいっぱい絵を描いてって言ってくれたの。でも……もう、壊れちゃった……」
悟史からの贈り物だったからこそ、夕実はいつも以上に大切に扱い、絵を描く時でさえ注意深く描いていた。
それなのに今、それが自分のパパと可奈子の何気ない動きによって壊れてしまった。
夕実にとっては、まるで心の宝物が砕かれたかのようだ。
彼女の涙が、私の胸に焼きつくような痛みをもたらした。息が詰まるほどに。
私は彼女を抱きしめ、腕にぎゅっと力を込めた。
「大丈夫よ。ママが直してあげる。前みたいに、ちゃんと使えるようにしてあげるからね」
その時、悟史と可奈子がこちらに歩いてきた。
可奈子は私たちを見るなり、申し訳なさそうに眉をひそめて言った。
「ごめんなさい。さっき花瓶にちょっと手が当たっちゃって。夕実ちゃん、ケガしてないの?」
そこでようやく悟史も夕実のことを思い出したらしく、顔色が変わった。「夕実、大丈夫か?」
「夕実にもし何かあったら、今さら心配しても遅いわよ。
あなたが誰を好きでも自由なの。でも、夕実はあなたの娘。あまりにも差がありすぎる」
悟史は眉間に深いしわを寄せ、私を睨みつけた。
「パパ、私、大丈夫だよ」夕実はにっこり笑い、そっと私の服の裾を握った。「お腹すいたの。ママ、ご飯食べよう?」
罪悪感を感じたのか、悟史は夕実を抱き上げて席へ連れて行った。
夕実は喜んでいる。テーブルには、私と夕実の好きな料理が並んでいる。
だが、可奈子は料理を見て、手をつけられずにいる。
それを見た途端、悟史は不満そうに口を開いた。
「沙織、可奈子は卵とジャガイモにアレルギーがある。辛いものも酸っぱいものも食えない。お前、もう二品作ってこい」
以前の私なら、言われるまま従っただろう。そして、食卓ではいつも悟史と夕実の好みを優先していた。
第4話
今の私は、玉子焼きを一箸すくって夕実の茶碗に入れ、悟史を横目で淡々と一瞥した。
「冷蔵庫にはもう食材がないの。台所に漬物が少しだけ残ってるので、それで我慢して」
悟史の顔がさっと険しくなった。すると、可奈子が慌てて口を開いた。
「大丈夫だよ、悟史さん。もうお邪魔しているのに、沙織さんにわざわざ作ってもらうなんて、そんな迷惑はかけられないよ」
私は、彼女の声にかすかに混じったあの皮肉を聞こえないふりをして、視線を悟史に向けた。
「来週の週末、あなたは前に夕実とディズニーに行くって約束してたよね。チケットはもう買った?」
夕実はぱっと顔を上げ、まん丸な瞳で緊張と期待が入り混じった表情のまま悟史を見つめた。
悟史の表情が一瞬こわばり、指先でソファの肘掛けを無意識にトントンと叩いた。「まだだ。ここ数日、会社が立て込んでてな」
夕実の期待に満ちた瞳は、瞬く間に光を失った。まるで晴れ間に広がった雲が日差しを遮ったかのようだ。だがその直後、悟史が口を開いた。
「ご飯が終わったらすぐ買う。今夜のうちに持っていく荷物の準備もしよう。明日は土日だから、朝一で出発すれば午前中には着く。丸一日たっぷり遊べる」
夕実の顔がぱっと明るくなり、頬は熟したリンゴのように赤く染まった。彼女はそっと私の耳元に顔を寄せ、私たちだけに聞こえるかすかな声でささやいた。
「やっぱりパパは私のこと好きなんだよ。忙しくてちょっと忘れちゃっただけ。ママ、明日ついにパパと一緒にディズニーに行けるんだね!」
私は夕実の頭を撫でながらも、胸の奥は複雑な思いでいっぱいだ。
悟史は約束を破った回数があまりにも多い。今回のディズニーも、もしまた何かあれば、夕実はさらに深く傷つくだろう。
そこへ、可奈子がまるでサプライズを受けたかのような満面の笑みを浮かべて言った。
「ディズニーってすっごく楽しいよ。私、去年悟史さんと行った時、人気のアトラクション全部制覇したし、夜の城のライトショーもすっごく綺麗でね。
その時、人がめちゃくちゃ多くて、どれもすごく並んだんだよね。あなたたちは……」
わざとらしく言葉を区切り、それから申し訳なさそうに続けた。
「ごめんね、ちょっと言い過ぎちゃった。明日、楽しんできてね」
言外の自慢。要するに「私はあなたたちより大切にされている」と言いたいだけ。
私は気にしなかったが、夕実は違った。その話を聞いた彼女は、目からぱっと光を失い、うつむいて無言のまま箸を動かしている。
食事が終わり、悟史が可奈子を送り出すと、私が台所で皿を洗っているのを見て、珍しく手伝いに来た。
「最近忙しすぎて、ディズニーのチケットのこと、本当に忘れてた。あとで一緒にルート調べて、年明けは思いきり楽しもう」
私は小さく返事をした。
悟史はさらに続けた。「さっき、夕実の手がなんともなくてよかった。次からはちゃんと先に夕実の様子を確認する」
私は心の中で思った――次はもうない。年が明けたら離婚する。
そして、彼が可奈子のことで取り乱していた様子と、あの日見た日記の内容を思い出し、つい口にしてしまった。
「そんなに彼女が大事なら、どうして私と結婚したの?」
悟史の表情は一瞬で険しくなり、抑えきれない怒りの声が飛び出した。
「結婚してからずっと、お前も夕実も、衣食住のすべてを俺が面倒見てきたんだぞ?それなのに、お前は可奈子の話になるとすぐに嫉妬して、当てつけのつもりか?」
手袋と茶碗をシンクに放り投げ、悟史はそのまま背を向けて立ち去った。
私は黙っている。
正直に話してほしかっただけなのに、彼は可奈子を愛していることすら認める勇気がない。そのくせ、三人の人生を壊し続けていて、後ろめたさを感じないのだろうか。
家中の清潔さも、温かい食事も、大人しい娘も――どれ一つとして、放っておいて成り立つものではない。
けれど悟史はいつも上から目線で、私が彼に依存し、媚びて生きていると思い込んでいる。
食器を片付けて台所を出ると、悟史と夕実が荷物をまとめているのが見えた。
「一週間遊べるから、替えの服は最低でも二セットずつ。夕実には予備としてもう一セット……」
悟史は真剣にルートの一覧と持ち物リストを作成し、夕実はその隣で興奮を隠しきれずにいる。
「おもちゃはどれ持っていく?」と悟史が優しく夕実の頭を撫でながら尋ねる姿を見て、私は少し驚いた。
本当に、今回は彼がしっかりとディズニー旅行の準備をしている。夕実と相談しながら、どのアトラクションに乗るかまで計画している。
やっと父親らしい一面を見せてくれた。私はその姿を見て、夕実の喜びを心から嬉しく思った。
翌日、私が身支度を整えて出かけようとすると、ちょうど悟史がコートを羽織って家を出ようとしている。
私は眉をひそめて尋ねた。
「もうすぐディズニーへ向かうのに、あなたどこへ行くの?」
第5話
悟史は焦り切った表情で言った。
「可奈子から電話があって、胃が痛いって。あの子は辛いものが苦手だから、たぶん昨日の料理が辛すぎたんだろう。様子を見に行ってくる」
胸がぎゅっと締めつけられ、私は彼のコートの袖をつかんだ。
「彼女は大人よ。具合が悪いなら、他の人を呼べるでしょう。ディズニーにはずっと楽しみにしてた。夕実も、あなたと一緒に行くのをとても心待ちにしてるの。彼女にした約束、忘れないで」
悟史は勢いよく腕を振りほどき、眉間に深い皺を寄せた。
「ディズニーなんて、いつだって行けるだろう。来年行けばいい。可奈子は命に関わるかもしれないんだ。お前が作った飯を食べて、もし悪化したらどうするんだ」
そう言い捨てて、また出て行こうとした。
彼の背中を見つめながら、夕実の期待に満ちた顔が頭に浮かび、私は涙で視界がぼやけた。
「悟史!」私は彼を呼び止め、そのまま歯を食いしばって膝をついた。
悟史ははっと目を見開いた。「何してるんだ、やめろ、立て!」
「夕実は小さい頃から、あなたにほとんどかまってもらえなかった。でもずっといい子でいて、今回のディズニーも、あなたがクラスで一番たくさん花丸をもらったご褒美だって先に約束してたのよ。
お願いだから、どうか約束を破らないで。せめて今回だけは、夕実と一緒に行ってあげて」
悟史は唇を引き結び、迷いを帯びた表情を浮かべた。ちょうど彼が口を開こうとしたその時、スマホが鳴った。
メッセージを見た途端、彼の顔色が固まった。
「可奈子が痛くてたまらないって。こんな状態で俺が安心してディズニーに行けるわけないだろ。お前の価値観で俺を縛るな!」
そう吐き捨て、私を立たせようと手を伸ばしたその瞬間、夕実が駆け寄ってきて、私を先に抱き起こした。
私と目が合うと、彼女の顔は真っ白になり、大粒の涙が次々とこぼれ落ちた。「ママ……」
そして、悟史に向かって言った。
「おじさん、可奈子さんがすごく具合悪いって聞いたよ。早く行ってあげて。私は大丈夫。ディズニーは後でも行けるから」
悟史は「おじさん」という呼び方に目を見開いた。
「前はパパって呼んでただろ?なぜ急にそんな呼び方をするんだ?
可奈子がすごく苦しそうだから、一旦病院に連れて行く。その後で新しい新幹線のチケットを買って、お前をディズニーに連れて行ってやる。いいな?」
私は悟史の背中に向かって声をかけた。「絶対に後悔するよ、悟史」
聞こえているはずなのに、彼は一度も振り返らず、大きな音を立ててドアを閉めた。
夕実は音の方を見ようともせず、小さな手で私の膝をそっと叩いた。
「ママ……ママが私のためにおじさんにお願いしたら、私は悲しいよ。ママが一番大事だから」
涙が溢れ、私は夕実を力いっぱい抱きしめた。「わかったよ。もう二度としない」
夕実は私の胸に顔を埋め、震えながら涙を流した。
「さっきの話、全部聞こえたよ。おじさん、可奈子さんのことがすごく好きなんだね。私はママと一緒なら、どこで遊んでも楽しいよ。ママ、行こう?」
夕実の言葉が胸に染みわたり、私は涙を拭って強く頷いた。「うん。今すぐ出よう」
荷物をまとめ、離婚届をピアノの上に置いた。
その時、可奈子からメッセージが届いた。
【沙織さん、あなたって本当に無能ね。夕実を産んだのに、彼の心すら繋ぎ止められないなんて。私が少し具合悪いふりをして呼んだだけで、彼はあなたたちを捨てて私のもとへ来たのよ】
添付された写真には、悟史が台所で彼女のためにスープを作っている様子が写っている。
私の胸はずきりと痛んだが、不思議と以前のような苦しみはない。
――私も娘も、もうあの人のことで泣くのはやめよう。
チャット画面をスクリーンショットし、離婚届の写真と一緒に悟史へ送った。
【あなたが一緒に人生を歩みたい相手は彼女でしょう。離婚届にサインして。もうあなたたちの邪魔はしないから】
同じ頃、悟史はスープを持って台所から出る途中、朝の出来事をふと思い返し、なぜか胸がざわついている。
可奈子はテーブルに座り、甘えるように彼の袖を引いた。
「悟史さん……旅行の日なのに、わざわざ来てくれてありがとう」
悟史はうわの空で返事をし、不安がますます募っていった。
その時、スマホの着信音が鳴った。
彼はスマホを開き、画面には写真と一行の文章だけが表示されている。
【あなたが一緒に人生を歩みたい相手は彼女でしょう。離婚届にサインして。もうあなたたちの邪魔はしないから】