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昼は冷徹、夜は溺愛~スピード婚した夫の二つの顔
養母・杉山由美(すぎやま ゆみ)の手術代のため、私は望月グループの後継者、望月浩平(もちづき こうへい)と電撃結婚した。 噂では、彼はす...
Chương (1)
第1章
養母・杉山由美(すぎやま ゆみ)の手術代のため、私は望月グループの後継者、望月浩平(もちづき こうへい)と電撃結婚した。
噂では、彼はすごくクールで、女性には一切興味がないらしい。
結婚生活が始まっても、この男はやっぱり私に無関心で、まるで氷みたいに冷たかった。
でも夜になると、彼はまるで別人みたいに、私の首筋に顔をうずめて甘えてきたり、しょうもないことでやきもちを焼いたりする。
「柚、どうして今日は僕のこと、あんまり見てくれなかったの?
あの男、誰?なんであいつに笑いかけたんだ?」
昼間は人を寄せつけないほどクールなのに、夜になるとベタベタしてきて、「一緒にお風呂に入ろう」って甘えてくる。
そんな「二重生活」にも、私がだんだん慣れてきたころ、夫のほうから、離婚を切り出された。
これで、私たちの関係は完全に終わりなんだって思ったのに、パーティーで私が誰かに意地悪されたとき、前の日に冷たく「離婚」と言い放ったはずの男が、みんなの前で目を赤くして、私を抱きしめて守ってくれたのだ。
「彼女は俺の妻だ。誰にも俺たちを引き裂かせたりしない!」そう言うと、またいつもの俺様社長に戻った。
第1話
「奥様、旦那様は今夜、お戻りになりません」
執事の言葉が終わった途端、後ろから寝室のドアが開けられた。
いつものシダーウッドの香りが、夜の空気と一緒に私を包み込んだ。そして、男は力強い腕で私の腰を抱き寄せ、熱い胸を背中にぴったりと押し当てた。
私の肩に顎がのせられ、甘えるような鼻声で肌にすり寄ってくる。
「柚、会いたかったよ」
一瞬で、私の体がこわばる。でも、振り向かなくても誰なのかはわかっていた。
私の夫、望月浩平(もちづき こうへい)だ。
ううん、もっと正しく言うなら、夜の浩平だ。
昼間の彼は、望月グループの冷徹な社長。私になんて、ちらりとも視線をくれない。
でも夜になると、べったりくっついて甘えてくる。すごく寂しがり屋で、ちょっと危なっかしいところがある。
「なんで今ごろ帰ってきたの?ずっと待ってたんだよ」浩平の声はくぐもっていて、飼い主に捨てられた子犬みたいに鼻声だった。
彼の腕から逃れようとしたけど、もっと強く抱きしめられてしまう。まるで、私の体を自分の中に埋め込もうとするみたいに。
「動かないで。もう少し、このままでいさせて」
浩平は小さな声でお願いした。温かい息が耳にかかって、くすぐったくて首をすくめてしまう。
私はため息をついて、もう抵抗するのをやめた。
これは、養母・杉山由美(すぎやま ゆみ)のとんでもない手術代のためだ。私に断る権利なんてない。
この男と結婚する前から、彼にちょっと変わった癖があることは知っていた。
噂ではクールで真面目な人だが、望月家の人間だけが、この跡継ぎには誰にも言えない秘密があることを知っていた。
私はただの変わり者だと思ってたけど、まさかこんなに……刺激的だなんて。
「柚、君は今日……」浩平は私の髪に顔をうずめて、深く息を吸った。「あの松尾っていう男に、3回も笑いかけたよね。どれも3秒以上も」
心臓がどきりと跳ねた。
松尾っていう人?
今日、会社の前で偶然に会った、大学の先輩の松尾仁(まつお じん)のこと?
どうして浩平が知っているんでしょ?
「そんなことない」私はとっさに否定した。
「ううん、あったよ」
浩平の声のトーンが急に冷たくなった。腰の腕にぎゅっと力がこもって、息が苦しくなる。「しかも、あいつから名刺を渡されて、受け取った」
足元から背筋が凍るような寒気が這い上がってきた。
もしかして、私は監視されてる?
「浩平、聞いて、ちゃんと説明させて……」私が言いかけると、彼は言葉を遮った。
「俺の前で言い訳するな!」目の前の男は急に声を張り上げた。その声には、核心に触れられたような苛立ちと、隠しきれない不安が滲んでいる。
私は、ぽかんとしてしまった。
夜の浩平が、「俺」という一人称を使ったのは初めてだ。
いつも、「僕」を使っていたのに。
夜の浩平はいつも、必死に自分と昼の浩平を区別しようとしていた。昼の浩平は冷酷な人間で、夜の彼だけは私のことを心から愛しているんだって、いつもそう言っていた。
今夜は、一体どうしたんだろう?
彼の体の震えが、微かに伝わってきた。抱きしめられていた腕が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
「大丈夫?」私は、おそるおそる尋ねた。
彼は答えなかった。ただ、悪いことをした子供みたいに、もっと深く顔をうずめるだけ。
しばらくして、ようやくくぐもった声が聞こえた。「ごめん、柚。わざとじゃないんだ」
彼はまた、いつもの優しい浩平に戻っていた。
「ただ……君が他の誰かに取られちゃうのが怖くて」彼は悲しそうに言った。「あの男の、君を見る目が気に入らないんだ」
私の気持ちは、もうぐちゃぐちゃだった。
片方では、監視されてプライバシーなんてない生活に、うんざりしていた。
でももう片方では、こんなに悲しそうな浩平を見ると、どうしても心が揺らいでしまう。
「あの人とは、たまたま会っただけだよ」
私は、なんとか気持ちを落ち着かせて説明した。
「大学の先輩で、今ちょうど仕事を探してるんだって。それで名刺をくれたの」
「ほんと?」浩平は顔を上げた。その綺麗な瞳は、疑いの色でうるんでいる。
「ほんとだよ」私は彼の方に向き直って、まっすぐ目を見て、こくりと頷いた。
浩平はしばらく私を見つめて、それからゆっくりと腕の力を抜いた。
でも、私の手は離さずに、不安そうに手の甲をなでている。
「名刺は?」
私は仕方なく、バッグから名刺を取り出して浩平に渡した。
彼はそれを受け取ると、見ることもなく、いきなりびりびりに破いてゴミ箱に捨てた。
その一連の動きはとてもスムーズで、どこか子供っぽい乱暴さがあった。
それをやり終えると、彼はまた甘えん坊に戻って、私にキスをしようと顔を近づけてくる。
「柚、もうあの人には会わないで。ね?」
口調はお願いするみたいだったけど、その目には、有無を言わせない強い光が宿っていた。
私は黙りこんだ。
この結婚は、もともと取引みたいなものだ。私は、お金と引き換えに自由を差し出したんだから。
なのに今、この男は私の最低限の人付き合いにまで、口を出そうとしている。
ここまで踏み込まれると、すごく不安になる。
なんだか、何かが変わってきている気がした。たとえば……
彼の、私に対する気持ち、とか。
私がなかなか答えないでいると、浩平の眉間にしわが寄った。瞳の奥で、また嵐が吹き荒れようとしている。
「柚、答えて」
第2話
結局、私は折れてしまった。
私の返事を聞くと、浩平の目から暗い影がさっと消えた。
そして、代わりに子供みたいな満足感と喜びに満たされた。
浩平は嬉しそうに私を抱き上げて、キラキラした目でキスをしてきた。
「やっぱり、柚は僕のこと愛してるんだ……」
キスされすぎてくらくらしながら、私は浩平の首にしがみつくしかなかった。彼のしたいようにさせてあげた。
次の日の朝、目が覚めると隣はもう空っぽだった。ただ、かすかなぬくもりだけが残っていた。
首についたキスマークがなければ、昨日の夜のことは全部、ばかげた夢だったんだって思いそうになった。
私はのろのろと起きて顔を洗い、服に着替えて階下へ向かった。
ダイニングテーブルでは、昼の浩平が背筋を伸ばして座り、優雅な仕草で朝食をとっていた。
夜の優しい浩平とは、まるで別人みたい。
仕立てのいい黒いスーツを着て、金縁メガネの奥の瞳は氷のように冷たい。全身から「話しかけるな」っていうオーラを放っていた。
私を見ても、彼はちらりと一瞥しただけ。眉ひとつ動かさず、まるで私が赤の他人みたいだ。
「おはよう」
私は気まずいながらも挨拶をした。
彼は私を無視して、手にした経済新聞に目を落としていた。
気まずい沈黙がダイニングに広がっていく。
私は黙って彼の向かい側に座ると、すぐに使用人が朝食を運んできてくれた。
朝食はぜんぜん味がしなかった。でも、視線は勝手に浩平の方を向いてしまう。
大きな窓から差し込む朝日が、彼の冷たい横顔をふちどって、やわらかく金色に光らせていた。
すごくかっこいいんだけど、ちょっと近寄りがたい感じ。
クールすぎて、もったいない。
そんなことをぼんやり考えていると、浩平が突然、新聞を置いて私に視線を向けた。
その眼差しはナイフみたいに鋭くて、私の心の中をすべて見透かされそうだ。
胸がどきっとして、私は無意識に背筋を伸ばした。
「昨夜、松尾に会ったそうだな?」彼は言った。声はぞっとするほど冷たかった。
私の心臓は喉まで飛び出しそうになった。
この男が知ってる?どうして?
もしかして、夜の浩平の記憶を、彼も持ってるってこと?
緊張で手のひらに汗がにじむ。頭の中では必死にどう言い訳するか考えていた。
「はい」
私は平静を装って答えた。「会社の下で偶然会っただけで、大学の先輩だよ」
私は目の前の男の顔をじっと見つめた。何か感情の揺れが見えないか探したけど、彼はまったくの無表情だ。相変わらず氷みたいに冷たくて、何を考えているのかさっぱり分からない。
「そうか」浩平はそっけなく返事をすると、ナプキンで口元を拭いて立ち上がった。「今後はあいつに近づくな」
そう言うと、彼はくるりと背を向けて去っていった。
私はその場に固まったまま、しばらく動けなかった。
彼はいったい、誰なの?
昼の浩平なの?それとも、夜の浩平なの?
もしかして、そもそも二人は同一人物なんだろうか?
その考えが浮かんだ瞬間、自分でもびっくりしてしまった。
もし同一人物なら、演技がうますぎる。アカデミー賞ものだ。
それから数日間、浩平は相変わらず、昼と夜で顔が違った。
昼間は、私に対して氷のような態度で、まるで透明人間みたいに無視している。
夜の彼は私に炎のように情熱的で、すごく甘えてくる。
まるで正反対の性格の夫が二人いるみたいで、現実離れした、ちぐはぐな毎日だった。
そして、私はそんな生活に少しずつ慣れていってしまった。
それどころか、夜の浩平に対して、言葉にできない不思議な気持ちが芽生え始めていた。
彼はちょっと執着が強くて、やきもち焼きだけど、私への愛情はすごくまっすぐで、熱くて、拒むことなんてできなかった。
夜、私がお風呂に入っていると、ドアの向こうから浩平の声が聞こえた。
「柚、入るよ」
びくっとして、私は慌てて叫んだ。
「だめ!まだだから!」
でも、もう遅かった。
バスルームのドアが開いて、大きな人影がお酒の匂いと一緒に飛び込んできた。
彼は酔っているみたいだ。足元は少しふらついていて、頬も妙に赤い。
「柚……」
浩平はうっとりと私を見つめる。その瞳は、どこかぼんやりとしていながらも、焼け付くように熱い。
まるで、私をこの湯気に包まれたバスルームで溶かしてしまいたいとでも言うように、その熱い視線は、私の体を遠慮なくたどっていく。
濡れて頬にはりついた髪から、湯気でほんのり赤くなった肩や首へ。そして最後は、私が慌てて体に巻き付けたバスタオルに注がれる。
真っ白なバスタオルは少し濡れて、速く上下する胸にぴんと張りついている。水滴が、その深い谷間へと転がり落ちた。
浩平の目には、欲望の色が隠しようもなく浮かんでいた。
「早く出ていって!」
顔から耳まで真っ赤になって、私はどんどん後ずさった。
無意識にバスタオルをきつく巻いたけど、それで余計に腰の細さが強調されてしまった。
でも浩平は聞こえないふりをして、一歩、また一歩と迫ってくる。
そしてついに、私は壁と彼の胸の間に閉じ込められてしまった。
強いお酒の匂いと、特有のシダーウッドの香りが、私を完全に包み込んだ。
緊張で心臓が口から飛び出しそうだ。
浩平の唇が、じりじりと私に近づいてきて……
第3話
「柚、いい匂いがする」
浩平はそう言って、私の首すじに顔をうずめた。まるで甘える子犬みたいに、ボディーソープの香りと、お風呂あがりの私の肌の匂いをかいでる。
温かい息がかかって、敏感な肌がぞくぞくした。
浩平を押してみたけど、びくともしない。それどころか、もっと強く抱きしめられちゃった。
「浩平、酔ってるでしょ」私は少し、むっとした。
「酔ってないよ」彼はそう言ったけど、目はまだ少しとろんとしている。
「柚……僕、すごく嫌なことがあったんだ」
「どうしたの?」
そんな悲しそうな顔をされると、私の心はまた揺らいでしまう。
「今日の会議でさ、田中副社長が、ずっと君のこと見てただろ」
浩平の声は、やきもちでいっぱいだ。
私は一瞬、固まった。
田中副社長?
思い出した。今日の午後、浩平に書類を届けにいった時のことだ。確かに、ちょっと頭の薄い副社長が、いやらしい目でじろじろ見てきた。
浩平もその場にいたのに、ずっと冷たい顔をしてて、なにも言わなかった。
だから、ぜんぜん気にしてないんだと思ってた。
でも、夜の浩平のほうは、はっきりと覚えていたみたい。
「僕が止めなかったら、あいつ、君に話しかけるつもりだったんだよ!」
浩平は言えば言うほど腹が立ってきたみたい。すごく傷ついたって顔をしてる。
「柚、もう会社にそんな綺麗な格好してこないで。お願いだからさ」
私はなんだか呆れてしまった。
この人、独占欲が強すぎるんじゃないかな。
「あれは仕事で着てるの。まさかパジャマで行くわけにはいかないでしょ?」
「いいよ!」彼の目が輝いた。「君は何を着ても可愛いから!」
私はもう、なにも言えなかった。
酔っぱらいに理屈を言ったって、馬の耳に念仏だ。
仕方ない、作戦を変えよう。
「わかった。もうそんな格好しないから」私は適当に返事をした。「だからもう出て行ってくれる?まだシャワー終わってないんだけど」
「やだ」浩平は駄々をこねるみたいに首を横に振った。「僕も一緒に入る」
顔がカッと熱くなった。
「だめ!」私はきっぱりと断った。
「どうして?」彼は子犬みたいな目つきで、甘えた声で言う。
「だめなものはだめなの!」
「柚、僕のこと、もう好きじゃなくなったの?」
また始まった。浩平の得意な、かわいそうなフリだ。涙をいっぱいためた瞳で見つめられて、胸がぎゅっと締め付けられる。
「そんなことない……」
「じゃあ、なんで一緒にお風呂入ってくれないの?
僕たちは夫婦だろ」彼は一歩も引かない。「夫婦なら、何をしてもいいはずだ」
その言葉が、爆弾みたいに頭の中で破裂した。
夫婦……
そう、私たちは夫婦。
でも、私たちの結婚は、ただの契約にすぎない。
昼間、この男は雲の上の社長で、私はお金で買われたお飾り。
夜は、甘えん坊でわがままな浩平で、私は彼が感情をぶつけるための道具。
私たちの間に、愛なんてひとかけらもなかったはず。
そう思うと、悲しさが全身に広がった。さっきまでの肌の熱も、頬の赤みも、すっと引いていく。
私の表情は一瞬で冷えきった。
「私はあなたのおもちゃじゃない」
私は力いっぱい浩平を突き放した。自分の声が、少し震えていた。
「私たちの関係は、あの契約書に書かれていることだけ。一緒にお風呂に入れなんて、どこにも書いてないでしょ」
私の冷たい態度に傷ついたのか、彼はその場で固まった。その目から、酔いがすっかり覚めていくのが分かった。
もう一度私を見たその瞳には、傷ついた色と、とまどいが浮かんでいた。
「柚……」
「出ていって!」私はドアを指さして、浩平の目をまっすぐに見つめた。
彼は私のことを、じっと見つめた。その目つきはすごく複雑で、何を考えているかなんて、とても読めなかった。
結局、浩平はなにも言わずに、静かに背を向けて出て行った。
バスルームのドアが閉まる音がするまで、私はずっと彼を見ていた。
ドアが閉まった途端、私はもう立っていられなくなった。冷たい壁にそって、ずるずると座り込んでしまう。
こらえていた涙が、もう我慢できずにあふれ出てきた。
なんで、泣いてるんだろう。
これが、私が初めから望んでいた関係のはずなのに。
それなのに、心臓をぎゅっと握りつぶされたみたいに苦しくなる。
……
次の日、私は泣きはらした目で、朝ごはんを食べにリビングへ降りていった。
昼の浩平は、もうテーブルについていた。
今日は新聞も読まずに、ただ静かに座っているだけ。でも、まわりの空気は、こわいくらいに重かった。
私は彼の方を見ることができず、うつむいたまま自分の席についた。
ダイニングは不気味なほど静かで、食器がぶつかる音だけが響いている。
息が詰まりそうだ。
適当に何か口に入れて、早くこの場から逃げだそうとした時、浩平が突然、口を開いた。
彼の声はかすれていて、すこし疲れているみたいだ。
「昨日の夜は、飲みすぎていた」
私はおどろいて、顔を上げた。
昼間のこの男が、夜のできごとについて自分から話すなんて、初めてのことだ。
「すまなかった」浩平は私を見て言った。その目にうかんでいたのは……罪悪感、みたいなもの?
まさか、見間違いよね。
あの偉そうな彼が、なんで私に謝るんだろう。
「い、いえ……大丈夫」私はどうしていいか分からなかった。
「もう、あんなことはしない」彼はそんな意味深なひとことを残して、席を立った。
去っていく浩平の背中を見ながら、私はすっかり混乱していた。
今のって、どういう意味なんだろう?
もしかして……全部、覚えてるの?
第4話
それから数日、夜の浩平はもう現れなかった。
書斎で寝るようになった。
私はなんだか、そんなことに慣れなかった。
あの人懐っこい男が耳もとで甘えてこないから、だだっ広い寝室はがらんとして寒々しかった。
眠れない夜が続いた。
頭の中では、ずっと彼との関係について考えていた。
でも、どう考えてみても、いい答えなんて見つからない。
気持ちがぐちゃぐちゃで、どんどん不安になっていく。
抑えきれないこの感情が、私たちの結婚生活を変なものに変えていく気がした。
そして私たち二人は、そんな変化を望んでいなかった。
いつからか、私たちは示し合わせたわけでもないのに、お互いを避けるようになった。
気持ちを整理する時間が必要だ。冷静にならなくちゃ。
それに、彼の顔を見たら、またくだらない期待をしてしまいそうで怖かった。
……
そんな日々は、望月グループの創立記念パーティーの日まで続いた。
望月グループの社長夫人として、私も出席しなければならなかった。
私は念入りに選んだシルバーのドレスに着替えた。メイクもばっちり決めて、「氷の王子様」みたいな夫とおしどり夫婦を演じる準備は万端だ。
会場へ向かう車の中で、浩平はずっと不機嫌そうな顔で、一言も口をきかなかった。
この重い空気を変えようと何度か話しかけようとしたけど、彼の冷たい視線に言葉を飲み込むしかなかった。
もういいや。私はただの飾り。それでいい。
パーティー会場はきらびやかで、たくさんの招待客で溢れかえっていた。
浩平が姿を見せた途端、会場中の視線が彼に集まった。
ビジネス世界の有名人や、着飾った令嬢たちが次々と彼を取り囲んで、お世辞を並べたてている。
そして私は、まるで透明人間みたいに、あっさりとその輪の外に置き去りにされた。
でも別に気にならない。むしろ好都合だ。私はそそくさと隅っこに移動して、シャンパン片手にその様子を眺めていた。
「あら、柚さんじゃない?どうして一人でこんな隅っこで飲んだくれてるの?」
耳に障る甲高い声が、背後から聞こえた。
振り返ると、知り合いの伊藤玲奈(いとう れな)だ。
夫のことをもう何年も追いかけてるくせに、まったく相手にされていない令嬢だ。
今日は真っ赤なベアトップのドレスを着て、派手なメイクをしている。私を見る目には、あからさまな嫉妬と軽蔑の色が浮かんでいた。
「苦労して浩平さんと結婚するなんて、あなたも大した玉の輿ね」
彼女は、ねちっこい言い方で続けた。「でも、あなたみたいに汚い手を使って成り上がった女なんて、浩平さんが本気で好きになるはずないけどね」
相手にするのも面倒で、私は背を向けてその場を離れようとした。
でも玲奈は、しつこく私の前に回り込んだ。
「なに?図星でしょ?やましいことがあるのね?」彼女は勝ち誇ったようにあごを上げた。「あなたみたいになりふり構わず男に媚びるような下品な女は、とっとと消えるべきなのよ!」
玲奈は、周りの人にわざと聞こえるような声で、意地悪く言った。
その瞬間、面白い見世物を見つけたという好奇の視線が、一斉に私に突き刺さった。
「伊藤さん」
私は冷たい目で彼女を見つめた。
「私と浩平は法律上の夫婦です。言葉には気をつけてくださいね。名誉毀損で訴えることになりますよ」
「名誉毀損?」
玲奈は、まるでとんでもない冗談でも聞いたかのように、大げさに笑い始めた。
「あなたが母親の治療費のために、お金目当てで浩平さんと結婚したことなんて、みんな知ってるわよ」
私の顔から、さっと血の気が引いた。
このことを、どうして彼女が知っているの?
私が驚いているのを見て、玲奈はもっと得意そうに笑みを浮かべた。
「私、なにか間違ったこと言ったかしら?」
彼女の言葉は、鋭いナイフみたいに、私の心にぐさりと突き刺さった。
この道を選んだときから、プライドなんて捨てたつもりだ。
ずっと、何でもないふりをして、必死に取り繕ってきた。
でも……
「あなたみたいな、金のためなら何でもする女なんて、マジで引くわ!」
こうしてメッキをはがされて、隠してきた醜い真実をみんなの前にさらけ出されると、自分が思っていたより、ずっと弱かったんだって、思い知らされた。
平気なわけ、ないじゃない……
私は怒りで体が震えて、思わず手を振り上げていた。玲奈を、叩こうとする。
でもその手は、途中で氷のように冷たい大きな手に、ぐっと掴まれた。
振り返ると、そこには浩平がいた。底の知れない、深い瞳で私を見ていた。
いつからそこにいたんだろう。
どこまで、聞いていたんだろう。
私はわからない。
ただ、彼が唇をきつく結んで、恐ろしいほど険しい顔をしているのだけが見えた。
玲奈は浩平の姿を捉えた瞬間、さっと表情を変えた。そして、いかにも可哀そうに、彼の胸に飛び込んだ。
「浩平さん、やっと来てくれた!この人が、私を殴ろうとしたの!」
私は鼻で笑って、浩平がどう対処するか見物することにした。
いつもの冷たい彼なら、玲奈を突き放すはずだ。そして「くだらない」と一言吐き捨てて、この茶番を終わらせるに違いない。
でも、浩平はそうしなかった。
彼は胸に飛び込んできた玲奈には触れず、静かに私を見ていた。その目つきはとても複雑で、私の心をかき乱した。
周りのひそひそ話が、だんだん大きくなっていく。
「やっぱりね。望月社長が、あんな女を本気で相手にするわけないわ」
「ちっ、結局、金目当てかよ。厚かましい奴だな」
「伊藤さんと望月社長のほうがお似合いよね」
耳障りな言葉が、針のように耳に突き刺さる。
まるで裸にされて舞台に立たされたピエロのように、大勢の人々の視線と嘲笑を浴びているような気がした。
私がもう我慢できなくなりそうになった時、浩平は、突然口を開いた。
その声は低かったけれど、誰も逆らえないようなすごみがあった。
「どけ!」
玲奈は凍り付いて、信じられないという顔で彼を見つめた。
「浩平さん……いま、私に……どけって?」
第5話
「失せろ!」
浩平の目が、急に冷たくなった。その声は、心からの嫌悪に満ちている。
後ろにいた秘書が素早く前に出て、玲奈を引きはがした。
その力はとても強くて、玲奈が体勢を崩し、無様に床に倒れ込んだ。
会場は、どよめきに包まれた。
あまりに突然の出来事に、誰もが呆気にとられていた。
私も、呆然としてしまった。
これ……本当に、あの冷たくて理性的な浩平なの?
人前で取り乱したり、面倒ごとになったりするのが一番嫌いな人じゃなかったの?
浩平は周りの驚きを気にもせず、自分のジャケットを脱ぐと、近くのゴミ箱に捨てた。
そして、大股でこちらへ歩いてきて、私をぎゅっと腕の中に抱きしめた。
その動きはすごく自然で、手慣れていて、まるで、何千回も練習したみたいだ。
まさか……夜の浩平なの?
心臓が、ドキドキと高鳴る。
「この人は、俺の妻だ」
彼は顔を上げ、周りを見回した。
その目は、まるで獲物を守るオオカミみたいに鋭い。肌を刺すように冷たくて、殺気さえ感じる。
会場は、一瞬で静まり返った。
私は呆然と、浩平の胸に寄りかかっていた。
彼の力強い鼓動を感じる。いつものシダーウッドの香りに包まれて、すごく安心する。
今の言葉……
「俺の女に手出しするなんて。望月家を敵に回したいってか?」
あの言い方、独占欲、そして私を庇うところ……
夜の浩平だ。
でも、今はまだ昼間なのに。
それに、さっきは昼の浩平として私を守ってくれたのだ。
いったい、どうなってるの?
私ははっとして顔を上げ、目の前の男を見た。
彼も私を見下ろしていて、視線が絡み合う。
その深い瞳は、昼の浩平みたいに冷たくもないし、夜の浩平みたいに純粋でもない。
そこには、今まで見たこともない、複雑で苦しそうな感情が渦巻いていた。
まるで正反対の二つの感情が、必死にせめぎ合っているみたいだ。
彼は眉をきつく寄せて、おでこには汗が滲んでいた。顔色もなんだか青ざめている。
「浩平、あなたは……もしかして……」
私が言いかけると、彼はその言葉をさえぎった。
「大丈夫」
その声は少ししゃがれていて、よく聞かないとわからないくらい、震えていた。
「俺がそばにいるから」
浩平は私の手を取ると、くるりと背を向けた。周りの人たちの驚いた視線やひそひそ話なんて、まったく気にしていないみたい。
彼の歩くスピードはすごく速くて、私は小走りでついていくのがやっとだ。
握られた手には、まるで私が逃げだすのを怖がっているみたいに、ぎゅっと力が入っている。
その手のひらは汗でびっしょりで、かすかに震えているのがわかった。
この男は、もしかして……すごく緊張してる?
車に乗り込むと、浩平はやっと私の手を離した。
彼は運転席に寄りかかると、目を閉じて、はあはあと大きく息をついた。まるで、何か大変な戦いを終えた後のようだ。
その青白い横顔を見ていると、私の心は疑問と心配でいっぱいになった。
「大丈夫?」と私はそっと声をかけた。
浩平は何も答えずに、ただ首を横に振った。そして、エンジンをかけた。
車はスピードを上げて走り、窓の外の景色がどんどん後ろに流れていく。
車の中は、しんと静まり返っていた。
彼の引き締まった横顔を見て、何度も話しかけようとしたけど、何を言ったらいいのかわからなかった。
家に着くと、浩平は何も言わずに私の腕を引いて二階へ上がり、寝室にぐいっと押し込んだ。
バタン、と大きな音を立ててドアが閉められた。
何が起きたかわからないうちに、私はドアに強く押し付けられていた。
そして、彼の激しいキスが降ってきた。
夜の浩平みたいな、優しくて、機嫌をとるようなキスじゃない。
かといって、昼の浩平みたいに冷たいわけでもない。
それはまるで罰を与えるみたいに、狂おしくて、めちゃくちゃなキスだ。
まるで私を飲み込んでしまいそうな、すごい力だ。
突然のことにびっくりして、私は必死でもがいた。でも、浩平の腕にがっちり捕まって、全然動けない。
「浩平!あなたは、おかしいよ!」私はくぐもった声で叫んだ。
私の言葉にハッとしたのか、浩平の動きがぴたりと止まった。
彼が顔を上げた。充血した目で、私を睨みつけてくる。その目は、まるで鋭いナイフみたいだ。
彼は冷たく笑った。声は恐ろしいほどかすれている。「ああ、そうだよ。俺はおかしくなった!
おかしくなっちまったんだ。お前のことなんか、気にするなんて!
おかしくなったから、お前のせいで、あんな人前で取り乱したりするんだ!
柚、お前はいったい俺に何をした?」
浩平は骨が砕けてしまいそうなほど、強い力で私のあごを掴んだ。
痛くて、涙が出そうだ。
「あなたが何を言ってるのか、全然わからない!」
「わからない、だと?」
彼がぐっと顔を近づけてくる。熱い息が顔にかかる。
「じゃあ、これはなんだ?」
浩平は急に私を離すと、机の方へ歩いていった。そして、引き出しから写真の束を取り出すと、私の目の前に叩きつけた。
写真が、床一面に散らばる。
私は思わず目を落とし、その瞬間、言葉を失った。