Đang tải thông tin quảng bá...
向日葵の証明
九十九回目となる婚約破棄。高橋咲良(たかはし さくら)が突きつけられた理由は「家にスピーカーを置きたくないから」だった。 彼女は誓った...
Chương (1)
第1章
九十九回目となる婚約破棄。高橋咲良(たかはし さくら)が突きつけられた理由は「家にスピーカーを置きたくないから」だった。
彼女は誓った。もう百回目の婚約なんてしない、と。
何しろ、帝都の社交界において咲良は「おしゃべり」で「声がでかい」ことで有名だ。長年、どの婚約者も彼女のその騒音に耐えられなかったのだ。
だが、そんな彼女が出会ってしまったのが久遠晴人(くおん はると)だった。
噂に聞く、寡黙で冷静沈着、誰に対しても温厚で礼儀正しい、帝都の久遠財閥の次男である……
第1話
「おしゃべり」という理由で九十九回目の婚約破棄をされた高橋咲良(たかはし さくら)は、ついに運命の相手に出会った。
噂に聞く、寡黙で冷静沈着、誰に対しても温厚で礼儀正しい、帝都の久遠財閥の次男である久遠晴人(くおん はると)だ。
二人はあるオークション会場で出会った。たまたま彼の隣に座った咲良は、三日月のように目を細めて笑い、三十分間ノンストップで喋り倒した。
それに対して晴人は終始穏やかな表情で耳を傾け、時には同意を示すように頷いてくれたのだ。
咲良はついに理解者を見つけたと思った。
「ねえ信じてよ、九桁も出してこの宝石を買ったら絶対後悔するって!私、一昨年、十億円も出して宝石を買ったの。その時はお宝を見つけたと思ったんだけど、鑑定に出したらまさかの五百円の価値しかなかったんだから。
五百円ならまだいいわ。一昨々年、私、何を競り落としたと思う?神崎清舟(かんざき せっしゅう)の真筆だって言われたのに」
ついに、晴人の秘書が堪り兼ねて口を挟んだ。「申し訳ございませんが、当社の社長は静かな環境を好みますので」
咲良の声がピタリと止む。思わず唇を引き結び、身を引いた。
やっぱり、誰も耐えられないんだ!
そう思った矢先、晴人がふと眉をひそめ、咎めるような視線を秘書に向けた。
そして咲良の方へ軽く顎を引き、温厚で礼儀正しい表情のまま、落ち着いた声で言った。「構わない。聞いているから」
ドカン!咲良は頭の中で花火が炸裂する音を聞いた。
心臓が制御不能になり、轟音を立てる。
彼女にしては珍しく、言葉を失った。
晴人が優しく問いかけるまで。「それで?続きは」
咲良は耳まで真っ赤にし、あろうことか口ごもってしまった。
「そ、それでね、十億円で鯉の名手である神崎先生が描いた鯉の絵を買ったんだけど、偽物だって言われたの。
その鯉の絵を描いたのは月村葉翔(つきむら ようしょう)だったんだって。神崎先生の描く鯉なんて、一文の価値もないわ」
晴人はわずかに目を丸くした後、口角を上げて笑った。
目尻に微かな笑いじわを刻み、口元には浅いえくぼを浮かべている。笑うと薄い唇が控えめな弧を描き、その美しい顔は、優しげでありながらどこか薄情な冷たさを帯びていた。
その瞬間、咲良は悟った。自分が完全に恋に落ちたことを。
絶対に百回目の婚約をする。この晴人と結婚するんだ。
咲良の両親は大賛成だった。久遠家は代々続く名家であり、その資産は計り知れず、帝都一の富豪であるため、高橋家の将来にとっても有益だからだ。
友人たちも大賛成だった。おしゃべりな咲良と、寡黙で温厚な晴人。理想のお似合いカップルだと言った。
咲良自身はさらに賛成だった。ついに自分のおしゃべりを許容してくれる伴侶に出会えたのだから。
そうして両家の顔合わせ、婚約、結婚と、すべてが倍速で進んでいった。
咲良はついに晴人と結ばれ、百回目にして婚約破棄の呪いを打ち破った。
しかし結婚後、咲良は晴人の致命的な欠点に気づいてしまった。
彼は本当に口数が少なく、一言一句が極めて短い。
結婚式でのスピーチですら、ただ一言、「君を大切にする」だけだった。
おしゃべりな女と寡黙な男。一緒にいると呆れるほどの凸凹コンビだ。
咲良はあの手この手で、彼に少しでも多く話させようとした。
けれど、彼女が狂ったように晴人の耳元で話し続けても、返ってくるのはいつも穏やかな一言だけ。「聞いているよ」
わざとトラブルを起こして警察沙汰になっても、本来なら厳しく叱るべき場面で、晴人は笑って済ませる。「問題ない」
さらに、心を鬼にして彼に薬を盛り、勇気を振り絞ってベルトで彼をベッドに縛り付け、「もっと甘い言葉で私を慰めて」と要求し、そうするまでは解かないと迫った時でさえ、晴人は顔を真っ赤にしながらも、極めて優しくこう言っただけだった。
「構わない、君が好きなら」
……
これほどまでに優しく善良で、自分のあらゆるわがままや欠点を許容してくれる晴人に、これ以上を求めてはいけないと、咲良は分かっていた。
けれど、何かがおかしい。
具体的に何がおかしいのか、自分でも分からない。
そんなある日、噂の晴人の妹――久遠葵衣(くおん あおい)が帰国するまでは。
葵衣は久遠家の養女で、幼い頃から久遠家で育てられたが、十六歳の時に海外留学へ出され、それから五年間一度も帰国していなかった。
咲良は葵衣の顔を知らなかったが、初対面はバーで葵衣がチンピラに絡まれていた時だった。咲良は義侠心から突っ込んでいき、酒瓶で男の頭をカチ割った。
そして、見事に自分と葵衣を警察署の留置場送りにしたのだ。
咲良は晴人に電話をかけ、ひどく後ろめたい気持ちで言った。「今回は本当にわざとじゃないの。あの男が先に手を出してきたから、あんな可愛い女の子が傷つくのを黙って見てられなくて。だから我慢できずに突っ込んじゃって、ほら私、こういうの見過ごせないじゃない?前も……」
晴人は会議中だったにもかかわらず、咲良による十分間にも及ぶ彼女の話を根気強く聞いてくれた。
警察官が我慢できずに「本題を話せ」と注意するまで。
晴人はそこでようやく笑い、極めて穏やかに言った。「大丈夫。十分待って」
しかし咲良は十分待っても、二十分待っても……
結局三十分待っても、晴人は現れなかった。
三十分後、逆に葵衣が咲良に笑いかけた。「咲良さん、旦那様はまだ来ないの?私の引き取り手が来たから、ついでにあなたも出してもらえるよう頼んであげるわ」
その時、ドアが蹴り開けられた。
次の瞬間、咲良は乱れた様子の晴人が顔を曇らせて飛び込んでくるのを見た。
彼は怒りに震えていたが、咲良の方には向かわず、葵衣の手首を掴んだのだ。「葵衣!帰国初日に警察沙汰とは、いい度胸だな?
こういう時はまず自分の安全を確保し、衝動的になるなと言ったはずだった!」
「お兄ちゃん、私……」葵衣が必死に何か言おうとする。
しかし晴人は怒りに任せてそれを遮った。「俺の説教が聞けないのか?一言言えば十言言い返すつもりか?
海外にいた数年で誰に学んだんだ。どうしてこれほど聞き分けが悪くなった!」
咲良は真剣に数えていた。
晴人の一言一句すべてが長めで、一番長いセリフに至っては、驚くべきことに四十音節にも達した。
彼は葵衣に口を挟む隙さえ与えず、一気に四回も言葉を重ねたのだ。
いつも穏やかなあの顔が怒りに満ちている。
彼にも情緒が不安定になる瞬間があるんだ。彼だって怒ることがあるんだ……
咲良は頭から冷水を浴びせられたように、全身が氷海の底へ落ちていく感覚を味わった。心の中が一気に冷え切っていく。
そうか、彼が自分に対して穏やかで寛容だったのは、ただ骨の髄まで染み付いた教養に過ぎなかったのだ。
自分は彼の感情を波立たせることができない。でも、葵衣にはそれができる!
その時、ようやく晴人は傍らにいる咲良の存在に気づいた。
彼の目に意外そうな色が走り、すぐに一歩近づいて、温かく掌を差し出した。「君もいたのか?」
なんと滑稽なことだろう。ここに入ってきてから、葵衣のことしか見ていなかったのだ。
自分がここにいることさえ、気づいていなかった。
咲良は無表情で晴人を見つめ、初めて、一言も発しなかった。
彼女は彼の手を直接振り払い、無言のまま警察署の外へと歩き出した。
晴人は空を切った自分の手を見つめ、わずかに動きを止めた。
第2話
咲良はすぐに葵衣に関する資料を手に入れた。
一目十行の速さで読み進めるうちに、全身の血の気が引き、心臓が刃物で引き裂かれるような激痛が走った。
なんと、葵衣が十六歳で出国したあの年、すでに晴人と彼女の関係は「兄妹」の一線を超えていたのだ!
久遠家の人々はそれに気づき、家の名誉が傷つくのを恐れ、そのことを隠蔽し、葵衣を海外へ送った。
彼らは葵衣にA国の永住権を取得させ、生涯帰国しないよう命じていた。
しかし一年前、葵衣はうつ病を患ったと称し、海外での生活に耐えられないと訴えた。
彼女は実に十回も自殺未遂を繰り返した!
最後に救助された際、晴人はついに久遠家の当主である久遠厳太郎(くおん げんたろう)の前に跪き、懇願した。
激怒した厳太郎は、罰として彼に六十六回の鞭打ちを浴びせた。背中一面がずたずたに裂けて血まみれになり、肋骨は三本も折れていた。
たとえ久遠家の相続権を放棄してでも、葵衣を連れ戻しに行くと主張した。
最終的に、厳太郎が折れた。
「葵衣を連れ戻すのはいい。だが、わしの言葉は変わらんぞ。お前とあの子が結ばれることはありえん。
結婚しろ!お前が別の女を娶るなら、あの子を連れ戻すことを許可してやる」
そうして、咲良がターゲットになった。
最初から最後まで自分は彼が別の女を深く愛するための隠れ蓑であり、踏み台に過ぎなかった。
晴人が自分への優しさは、すべて「利用」の上に成り立っていたのだ。
どうりで、彼が自分のおしゃべりや無理難題に耐えられたわけだ。
一番滑稽なのは、自分が愚かにも、救いようのないほど彼を愛してしまったことだ。
咲良は極寒の氷窟に放り込まれたかのように、全身が震えた。
だから、警察署の入り口で長く待っていたマイバッハを目にしても、彼女は乗り込まなかった。
踵を返し、足早にこの窒息しそうな真実から逃げ出そうとした。
晴人は咲良がただ癇癪を起こしているだけだと思った。
何しろ彼は彼女をここから連れ出すと約束しておきながら、それを破ったのだ。咲良と知り合って二年近く、結婚して半年、彼が約束を破ったのは初めてだった。
だから晴人は何も言わず、徒歩で彼女の後をついて行った。
咲良が彼に気づいた時、彼女はすでに一時間以上も歩き続けていた。
ハイヒールが踵を擦り、水膨れができていた。彼女は痛みに耐えきれず、ついに立ち止まった。
彼女がハイヒールを脱ぎ、道端の花壇に座ろうとした時、晴人が自分のジャケットを脱ぎ、彼女が座ろうとする場所に敷いた。
晴人はため息をついた。少し力の入った手の甲には青筋が浮いている。
彼はネクタイを緩め、どうしようもないといった様子で言った。「葵衣だったんだ」
たった一言。それが、今日晴人が約束を破って先に葵衣を連れ出すに行った理由のすべてだった。
葵衣は妹だから。
あるいは、葵衣のほうが彼にとって重要だから。
咲良は座ることなく、裸足で冷たい地面の上に立ち、唇を軽く引き結んだ。
「葵衣を連れて先に帰って。私のことは構わないで。
一人で静かにしたいの」
明らかに言葉数が少なく、まるで彼女ではないようだった。
しかし晴人はそれを見て見ぬふりをし、また一つため息をついた。「もう遅い。何かあったらどうする」
咲良は少し立ち止まったが、彼を無視して歩き続けた。
晴人はそれでもついてきたが、突然マイバッハが加速し、急ブレーキをかけた。
ドアが開き、葵衣が後部座席から飛び降りてきて、晴人の腕に絡みついた。「お兄ちゃん、私が付き合うわ」
晴人は足を止めた。「ふざけるな、戻れ」
葵衣は唇を尖らせた。「私が二者択一なんてさせたせいで、咲良さんを怒らせちゃったんでしょ?私のせいだもの、一緒にお仕置きを受けるわ」
その口ぶりはまるで、咲良がこういうやり方で晴人を罰しているのだと不満を漏らしているようだった。
咲良は彼女が賢いと思った。論点をずらすのがうまく、挑発もうまい。
咲良が怒っているのは、晴人が二者択一で自分を選ばなかったからだ。
晴人の心の中で、葵衣が自分より特別な存在だからだ。
咲良の目に思わず嘲笑の色が浮かんだが、聞こえないふりをして歩き続けた。
葵衣は本当に後をついてきた。
しかし、しばらくもしないうちに葵衣は騒ぎ出した。「痛いよぉ、踵が赤くなっちゃった。
お兄ちゃん、夫婦喧嘩に巻き込まれて私が苦しんでるのよ。
私、十数時間の長距離フライトから降りたばかりで警察署に入れられて、あなたたちの痴話喧嘩に付き合わされるなんて、本当に運が悪いわ」
葵衣は媚びるように長い睫毛を震わせ、その身をすっかり晴人に預けてしなだれかかった。
葵衣は四センチもないキトゥンヒールで数分歩いただけ。足の甲が少し赤くなっている程度だ。
対して咲良は、十センチのピンヒールで二時間近く歩き続け、潰れた水膨れからは血が滲んでいる。
けれど晴人は、咲良の血まみれの足には気づかなかった。
彼の視線は、葵衣の足の甲のわずかな赤みに釘付けになっていた。
そして眉をひそめ、声を低く沈めた。「もう歩くな。車に乗れ」
葵衣は拒否した。「やだ。お兄ちゃんと一緒にお仕置き受けるって言ったでしょ!それとも……お兄ちゃんも歩くのやめて!私、お兄ちゃんがかわいそうだもん」
晴人はしばし沈黙し、ついにため息をついた。
彼は葵衣を横抱きにし、大股でマイバッハへと向かった。「分かった、言う通りにする」
咲良の後ろをついてくる人影はついに消えた。しかしマイバッハはドアを半開きにしたまま、ゆっくりと彼女の後を追い続けた。
薄暗がりの中、咲良は葵衣がキトゥンヒールを脱ぎ、晴人の革靴に履き替えるのを見た。
イタリア製の手縫いの革靴は、葵衣の華奢な足にはあまりにぶかぶかで、その姿はどこか滑稽に映った。
けれどなぜか、その光景は一瞬にして咲良の心臓を踏みつけ、原形を留めぬほど無惨に粉砕してしまった。
咲良は一瞬立ち止まり、脇の遊歩道へと身を潜めた。
マイバッハはついに追えなくなった。
今回、晴人は葵衣の足が痛むのを気遣い、二度と車を降りることはなかった。
咲良が帰宅したのは、それから一時間後のことだった。
玄関の灯りがついており、棚の上には消毒液とガーゼが置かれていた。
「帰ったか?傷の手当てをしろ」晴人がそう言った時、彼は葵衣の足の甲の赤みに、薬を塗っているところだった。
葵衣の白い足が彼の太ももの上に乗せられ、「お兄ちゃん、痛い、フーフーして」と甘えている。
晴人は呆れたように、彼女の足の甲に息を吹きかけた。
咲良は突然、笑ってしまった。
明滅するセンサーライトの下、咲良は静かにスリッパに履き替え、一文字ずつはっきりと告げた。
「晴人、離婚しましょう」
第3話
晴人は咲良が冗談を言っているとしか思わなかった。
何しろ世界中の誰もが、咲良がどれほど彼を愛しているかを知っているからだ。
交際して一ヶ月もしないうちに、彼女は女性としての恥じらいも捨て、彼にプロポーズしたほどだ。
裸になって彼の前に立ち、顔を真っ赤にして「晴人、私はあなたと一緒にいたいの。私に何をしても構わないわ」と言ったほどだ。
九十九回婚約破棄されても、彼のために心理的恐怖を克服し、百回目の婚約をしたほどだ。
……
だから、その言葉を聞いても、晴人はほんの一瞬動きを止めただけで、適当に受け流した。
「明日、イベントがある。早く休め」
彼はそのことを全く心に留めていなかった。
だから、咲良が離婚を本気で進めていることなど知る由もなかった。
彼女は両親に直接通知した。
翌朝、咲良は階下の騒ぎで目を覚ました。
二階の回廊から見下ろすと、葵衣がリビングの中央に跪いていた。薄着で、目元を赤くしながらも、その瞳には何かに抗うような光が宿っている。
葵衣は歯を食いしばり、下唇から血が滲むほど強く噛み締めていた。「絶対に嫁ぎません!」
厳太郎の手にある長い鞭が床に打ち付けられ、空を切る鋭い音が響いた。「葵衣、お前に久遠家やわしと条件を語る資格はない」
晴人の呼吸がわずかに止まる。「葵衣を許してやってください」
彼がたった一言口を挟んだだけで、厳太郎の怒りは頂点に達した。
厳太郎は顔を沈め、手にした鞭を葵衣の背中に向かって振り下ろした。ピシッという音と共に、葵衣の背中の皮膚が裂け、肉が弾けた。葵衣は痛みに悲鳴を上げたが、二発目が振り下ろされようとした時、晴人がなんと身を投げ出し、葵衣を庇った。
二発目の鞭は晴人の背中を打った。葵衣は心が痛むあまり全身を震わせた。「お兄ちゃん!痛くない?
ごめんなさい、全部私のせいよ。私のせいであなたが……
お兄ちゃん、安心して。私絶対にお祖父様の言うことなんて聞かない。誰にも嫁いだりしないわ。私にはあなた以外……」
厳太郎の顔色が瞬時に激変し、鋭く一喝した。「黙らんか!」
彼の杖が晴人の鞭の傷跡を容赦なく叩き、一語一語告げた。
「晴人!咲良との順調な結婚生活を台無しにするつもりか?」
晴人は突然動きを止め、顔をあげて咲良と視線を合わせた。
電光石火のごとく、彼は何かを悟ったかのように、眉間のしわを次第に深く刻んでいった。
彼は咲良を呼んだ。「咲良、降りてこい」
咲良は訳が分からず、無意識に晴人のそばへ歩み寄った。
晴人は咲良の手を押さえ、しわがれた声で言った。
「君の仕業か?」
まるで親密に耳打ちするかのように。
咲良は反応できなかった。晴人が再び口を開くまでは。
「今回ばかりは、やりすぎだ」
咲良はようやく理解した。昨晩の出来事を彼女が厳太郎に告げ口したと疑っているのだ。だから厳太郎が早朝から押しかけ、葵衣に嫁ぐよう強要しているのだと。
咲良は怒りで顔の血の気が引き、即座に否定した。「私じゃない、何の話をしてるのか分から……」
しかし彼女が言い終わる前に、晴人はすでに身を傾け、軽い口づけで彼女の口を塞いでいた。
咲良はその場に立ち尽くし、瞳の奥に困惑の色を走らせた。
交際以来、晴人が自らキスをしてきたのはこれが初めてだった。
なぜ?
答えはすぐに分かった。
彼はキスを終えると、葵衣を見つめ、低い声で言った。「お祖父様が選んだ夫だ。……悪くないはずだ。
今の俺を見ろ。とても幸せだ」
そう言う晴人の口角は下がっており、瞳は暗く、果てしない忍耐の色を帯びていた。
咲良はようやくこのキスの意味を悟った。
叶わぬ恋だからこそ、諦めるのだ。
彼はただ、葵衣が強情を張ってこれ以上鞭打たれるのを見たくないだけなのだ。
咲良の口元に、極めて皮肉な冷笑が浮かんだ。
葵衣が再び崩れ落ちそうになり叫び声を上げた瞬間、晴人は半ば強引に咲良を腕の中に押し込み、そのキスを深くした。
咲良は必死に彼を押しのけたが、どうしてもびくともしなかった。
今回、彼はついに温厚な仮面を脱ぎ捨てた。
だがそれは、別の女のためだった。
第4話
その夜、久遠家主催の仮面舞踏会が開かれた。
晴人と咲良の仮面は特注品で、特徴がはっきりしており、一目でそれと分かるものだった。
しかし会場に入るなり、咲良は遠くに自分とよく似た仮面をつけた女がいることに気づいた。
その女の手首には男物の蝶ネクタイが巻かれている。咲良はその蝶ネクタイを覚えていた。晴人が重要な場面でよく使っていたものだ。
あの女が葵衣であることは疑いようもなかった。
登場の際、晴人は腕を上げ、咲良に腕を組むよう促した。
久遠夫妻の仲睦まじさをアピールする絶好の機会だったが、咲良は彼を避けた。
晴人はわずかに動きを止め、いっそう困り果てた口調で言った。「まだ怒っているのか?」
彼の言葉は真綿で首を絞めるようで、致命傷にはならないが、再び咲良の心臓に深く突き刺さった。その痛みにより、咲良は伏し目がちに再び繰り返した。「晴人、私は冗談を言ってるんじゃないの。
これ、用意しておいたから……」話しながら、咲良は離婚協議書を差し出した。
晴人が受け取ろうとしたその時、近くで誰かが突然悲鳴を上げた。
「お嬢様!お嬢様!大丈夫ですか?」
晴人の顔色が激変し、慌てて振り返った。
咲良はとっさに彼を引き留めた。「先にサインしてよ」
晴人は大きく息を吸い込み、ペンを受け取ると、大急ぎで名前を書き殴り、そのまま走り去った。
あまりに力を込めたため、ペン先が咲良の掌をかすめ、傷をつけた。
少し痛かったが、胸の奥の重苦しい痛みには及ばなかった。
なぜなら、この瞬間から、彼女と晴人の結婚生活は正式に終わったからだ。
咲良は握りしめてしわくちゃになった離婚協議書をバッグに入れ、隅の方へと歩いた。
ほどなくして、今夜のパーティーのメインイベント――「パートナー探し」の時間となった。
男が無数の人影の中から自分のパートナーを見つけ出すゲームだ。一番早く見つけた者は高価な賞品を獲得できる。
照明が落ちた瞬間、咲良は晴人が自分に向かって歩いてくるのを見た。その吸い込まれそうなほど深い瞳の奥には、ありったけの情愛が湛えられているようだった。
恍惚の中で、彼女は本当に、もしかしたら晴人は少しは自分のことが好きなのかもしれないと思ってしまった。
葵衣が彼女と同じ仮面をつけて晴人の前に現れるまでは。
晴人は足を止めた。
突然、会場の全ての明かりが消え、クルーズ全体が闇と混乱に包まれた。
薄暗い月明かりを通して、咲良の視線は二つの重なり合う人影に付けになった。
晴人は頭を下げ、葵衣にキスをしていた。
二人の呼吸は絡み合い、情熱的で、互いを深く自分の体に埋め込もうとしているかのようだった。
近くで誰かが羨ましそうに話している。「あれは久遠社長と奥様でしょう?すごく仲が良さそうですね。噂とは全然違って、奥様より久遠社長の方が夢中に見えるわ!」
「ええ、見てよあの目。奥様を頭から爪先まで食べてしまいたいって顔してる。もう完全に彼女に溺れてるわね!」
「来世では久遠社長みたいに一途でかっこよくて、お金持ちで優しい男性と結婚できたらいいのに」
……
その言葉の数々は鋭利な刃物となって、咲良の心臓を容赦なく刺し貫いた。
その時、彼女はようやく悟った。晴人の愛というものがこれほどまでに露わで、隠しようのないものなのだと。
彼女のように、必死になって証明する必要など全くないのだ。
本当の愛は証明など必要としない。
闇の中、咲良と葵衣の視線が交差した。
葵衣は挑発的な眼差しを向けながら、わずかに後退りし、キスで乱れた口紅を見せつけた。
葵衣は口の動きだけで、一文字ずつ伝えてきた。「わ・た・し・の・か・ち・よ」
咲良は冷ややかに笑い、静かに顔の仮面を外して晴人に近づいた。
そして彼の肩を軽く叩いた。
「ねえ、人違いじゃない?」
第5話
晴人の表情がわずかに変わった。口を開こうとしたその時、照明が一斉に点灯した。
人々が波のように押し寄せ、咲良は激しく後方へ追いやられた。
足の甲を何度踏まれたか分からない。咲良は痛みに顔面蒼白になったが、晴人が葵衣をしっかりと自分の前に抱き寄せ、指一本触れさせまいと守っているのが見えた。
すぐに、最初に見つけ合ったカップルがステージ中央に上がった。
スポットライトが当たった瞬間、今日最大の賞品がついに登場した。
歓声の中、咲良は見覚えのある絵を目にした。
なんと、亡くなった姉の遺作だった!
姉が生涯の力を注ぎ込み、描き終えた後に自ら命を絶ったこの絵は、姉のアトリエに保管されていたはずだ。なぜここにある?
咲良は瞬時に背筋を伸ばした。
「この絵は、巨匠である琴葉(ことは)の最高傑作であり、市場価格はすでに十一桁に跳ね上がっております!
五年前、琴葉はこの絵を描き上げた後、完全に姿を消し、二度と現れませんでした。
噂は絶えません。海外へ移住したとも、すでに亡くなったとも言われていますが、本日はなんと、琴葉先生ご本人をお招きしております。優勝者にこの絵を直接手渡していただきましょう!」
群衆の中を彷徨っていたスポットライトが吸い寄せられるようにして一点で静止した。その光が捉えたのは、咲良のものと寸分違わぬ仮面だった!
咲良は信じられず、目を見開いた。
姉は何年も前に亡くなっている。突然現れるはずがない!ましてやそれが葵衣であるはずがない!
まさか葵衣は姉の身代わりになって、その名声を横取りするつもり?
人々の注目が集まる中、葵衣はすでにドレスの裾を持ち上げ、優雅にステージへと歩み出していた。
咲良は理性を失い、群衆をかき分けて叫んだ。
「違う!彼女は……」
しかし、言い終わる前に、後頭部に激痛が走った。
視界がぐるりと回り、全身が痺れ、咲良はそのまま後ろへ倒れ込んだ。
倒れ込んだ先は馴染みのある懐だった。淡いシダーウッドの香りがする。
晴人が愛用している男性用香水の匂いだ。
次に目を開けた時、咲良は豪邸の寝室のベッドに横たわっていた。
晴人は傍らに座り、静かに仕事を処理していた。
咲良は弾かれたように布団を跳ね除けた。靴を履くのも忘れて冷たい床を素足で踏みしめ、そのまま外へ飛び出そうとした。
だが次の瞬間、晴人に抱き上げられた。
「熱がある」晴人は眉を寄せ、静かに言った。「落ち着け」
咲良はベッドに戻されたが、顔色は真っ白だった。「晴人、見てなかったの?葵衣が琴葉になりすましてた!亡くなった姉になりすましてたのよ!
あれは姉の栄誉よ。あんなふうに奪われていいわけがない!だめ、行って彼女の正体を暴かないと――」
咲良は焦燥に駆られていたが、晴人の冷え冷えとした視線に触れ、突如動きを止めた。
彼女は突然すべてを理解した。
姉が亡くなった後、あのアトリエには晴人しか連れて行ったことがなかった。
彼女はそこを秘密基地だと言い、そこで彼に自分と姉の幼い頃の話を数え切れないほど語った。
自分がトラブルを起こせば、姉はいつも前に立って庇ってくれた。
自分が怪我をすれば、姉は自分以上に悲しんだ。
自分が泣けば、姉は両親以上に心配した。
そこで丸一日かけて姉の話をした。晴人なら、姉が自分にとってどれほど大切な存在か分かってくれると思っていた。
しかし晴人はそこから絵を持ち出し、葵衣に姉の栄誉を奪わせたのだ!
咲良の心臓に大きな裂け目が入り、そこから冷たい風がごうごうと吹き込み、身を引き裂かれるような激痛が走った。
「あなたが……」彼女は呆然と、低い声で呟いた。「どうして?」
晴人はザラついた指先で咲良の額の髪をかき上げ、困ったように言った。「熱があるんだ」
彼は解熱剤と適温の白湯を彼女に渡した。
「まずは薬を」
「どうしてって聞いてるの!」咲良はついに爆発し、真っ赤な目で彼を睨みつけ、歯ぎしりしそうな勢いで言った。「晴人、葵衣とあなたは一体どういう関係なの!
今夜の舞踏会で、あなたたち――
全部見たんだから!」
第6話
晴人は依然として落ち着き払っていた。咲良の額に乗っていた冷え切ったタオルを取り、温かい新しいタオルに取り替えてから、何でもないことのように言った。「何を見たんだ?」
そう聞き返すだけで、あの瞬間咲良が目撃した真実を否定できると思っているかのようだ。
「熱で頭が変?人違い?」
彼は戸惑ったような顔をしながらも、その瞳は射抜くように真剣だった。
咲良は自分を疑い始めた。本当に見間違えたのだろうか?
葵衣が自分と同じような仮面を使えるなら、誰かが晴人と同じ仮面を使っていてもおかしくない。
だがすぐに、咲良は見間違いではないと確信した。
晴人が頭を下げた時、彼の襟元に口紅の跡がついているのを見たからだ。
それは葵衣がつけていた口紅の色だった。
彼らの親密さは、キスだけに留まらない……
咲良は突然、見間違えたかどうか悩んでいる自分が滑稽に思えてきた。
晴人が自分を愛していないのは、変えようのない既成事実なのだから。
「見間違えたのかもね」咲良は自嘲気味に笑った。
晴人は気づかれない程度にほっと息をつき、咲良の手首を強く握った。「すまん、あの絵、彼女に必要だ」
彼は懐からサインだけが記された小切手を取り出し、ペンと共に咲良へ差し出した。
「俺が買い取ったことにしてくれ」
意味は明白だ。金額は好きに書けということだ。
しかし咲良は屈辱しか感じなかった。
彼からすれば、葵衣が姉の座を奪ったことなど、こんなはした金で買い取れる程度の話だというの?
この瞬間、咲良は悟った。
もしかしたら晴人にとって、自分も値踏みされるのを待つだけの商品でしかないのかもしれない。
彼が必要とする時だけ、自分には価値が生まれる。
けれど用が済めば、あんな屈辱的な小切手一枚で、いつでもゴミのように切り捨てられる。自分はその程度の存在なのだ。
咲良は悲痛な笑みを浮かべ、小切手を受け取ると、それを真っ二つに破り捨てた。
晴人の目に驚愕の色が走った。「君……」
「お金なら困ってないわ」咲良はそう言うと、布団を頭から被り、拒絶の意思を露わにした。
晴人は沈黙し、彼女の次の言葉を待っているようだった。
しかししばらく待っても、腹の中に一生分の無駄話が詰まっているはずの咲良は、口を閉ざしたままだった。
晴人の胸を、ふと一抹の違和感がよぎった。
晴人は眉をひそめ、探りを入れた。「じゃあ、久遠グループの株は?」
咲良は沈黙したままだ。
晴人はようやく、ここ最近の咲良の様子がずっとおかしかったことに気づいた。
彼女、口数が減ったみたいだ。
なぜだ?まだ怒っているのか?
こんな状況下でも、晴人は咲良が口にした離婚の言葉を思い出さなかった。
彼にとって、咲良は命がけで自分を愛しており、離れることなどあり得ない存在だった。
ただの癇癪が、少し長引いているだけだ。
晴人は少し腹立たしくなったが、それでも耐えて彼女をなだめた。「じゃあ何が欲しい?」
咲良は答えない。ただ背を向けて、眠っているようだった。
晴人は仕方なく、もう一歩譲歩した。「子供か?いいだろう」
彼の口調は穏やかで力強かったが、そこには微かな妥協が含まれていた。
「子供が欲しいと言っただろう?」
その一言で、咲良が必死に抑え込んでいた怒りが、つい止めどなく爆発した。
彼女はずっと晴人との子供を望んでいた。
だが晴人はそれを望まず、いつも避妊を徹底していた。
彼は子供が好きじゃない、今は時期じゃないと言っていた。
それなのに今、葵衣のために、自分と子供を作ることに同意したのだ。何という滑稽さだ!
咲良は怒りで全身を震わせ、勢いよく振り返り、下唇を噛み切った。
鉄錆のような血の味が口の中に広がる。彼女はついにガバッと起き上がり、離婚協議書を晴人の顔に投げつけた。
「晴人、ふざけないで」
咲良は一語一語噛み締めるように言った。
「あなたの償いが、私に子供を産ませてあげることだなんて。
私たちは今すぐ離婚するのよ!どうして今さらあなたのために子供なんて産めるの?」
第7話
晴人は全身を硬直させ、視線は離婚協議書に釘付けになった。
身を屈めて拾い上げようとした指先は冷たく、呼吸さえ少し荒くなっていた。
「これは何だ?」
晴人がそれを見ようとした時、携帯の着信音が突然鳴り響いた。
晴人の着信音は、いつだって味気ない初期設定の電子音のはずだ。けれど今回、その静寂を破ったのは、あまりに彼に不釣り合いな愛らしくコミカルなアニメソングだった。
咲良は即座に悟った。葵衣のバッグに、そのキャラクターのマスコットが揺れていたのを覚えていたからだ。間違いなく、葵衣からの電話だ。
何を言われたのか、晴人の顔色が一瞬で変わった。
頼りなく舞い落ちたその一枚の紙を慌ただしく拾い上げた。そこに何が書かれているか一瞥もくれず、彼は逃げるようにその場を立ち去った。
ただ一言、こう言い残して。「離婚を駆け引きに使うな」
咲良は滑稽でたまらなかった。彼がほんの一目、そう、たった一目だけでも目を向けてくれさえすれば。
二人の署名が揃ったその「離婚協議書」という文字がすぐに目に入ったはずなのに。
咲良は淡々とした手つきで離婚協議書を折り畳み、キャビネットにしまって鍵をかけた。
離婚届を提出するその時は、刻一刻と迫っていた。
もうすぐだ。もうすぐ晴人とのすべての関係を断ち切れる。
それから数日、晴人は家に帰らなかったが、手を変え品を変え咲良にプレゼントを贈り始めた。
ある時は高価な限定品、ある時は彼女が憧れのスポーツカー、豪邸に至っては三軒立て続けに贈ってきた。
5%の株式譲渡契約書を作成させたことで、辛口なゴシップ記事でさえ、こぞってこんな見出しを書き立てた。
【久遠社長の奥様が懐妊?社長の激甘な溺愛が止まらない!】
しかし咲良は、その株式譲渡契約書を破り捨てた。
彼女はカレンダーに、届出の日の丸をつけた。
聞くところによると、その日は葵衣の婚約の日でもあるらしい。
だからこの数日、晴人は帰ってこなかったのだ。
ずっと葵衣に付き添って、ウェディングドレスや指輪を選んでいた。
まるで葵衣と結婚するのが、自分であるかのように。
夕方、ようやく晴人が帰宅した。
珍しく足早に現れた彼は、身を切るような冷気をその背に纏っていた。いつもは穏やかなその表情が今はまるで、抜き身の刃のように鋭く凍てついている。
咲良は夕食をとっているところだったが、彼に直接腕を掴まれた。手首に激痛が走るほどの強さだった。
「何するの!放して……」咲良は振りほどこうとしたが、晴人の珍しく怒りに満ちた目とぶつかった。
「君の仕業か?」晴人は問いただした。「咲良!葵衣が帰国してからというもの、君はずっとひねくれて、騒いで、葵衣を敵視している。君は少しは優しくできないのか?」
咲良は彼を見て、突然笑った。
晴人がこんなに長い言葉を彼女に向けたのは初めてだ。
数え切れないほどの音節数だ。
けれどそれもまた、葵衣のため……
「まだ笑えるのか?」晴人の目に昏い陰が走った。「葵衣が今、留置場に閉じ込められているのを知っているのか?あの子は昔から体が弱いんだ、あんな過酷な環境に耐えられるはずがない!」
咲良は異常なほど冷静だった。「晴人、信じるか信じないかは勝手だけど、私は何もしていないわ」
「彼女の罪状は窃盗だ!」晴人は深く息を吸った。「君じゃなければ、他に誰がいる?」
第8話
咲良は呆れ果てた。「どうして私だと思うの?彼女が私の姉の絵を盗んだから?
晴人、忘れないで。被害者は私よ。被害者の私が、加害者のあなたに濡れ衣を着せられるなんて、あなたには少しは脳みそがあると思ってたんだけど!」
晴人の額がピクリと引きつり、こめかみには青筋がどくりと脈打った。彼は深呼吸をして、ようやく怒りを押し殺した。
晴人は全力を尽くして冷静さを保とうとしていた。「興奮するな」
晴人は咲良の体を押さえつけた。
強烈な威圧感が放たれ、咲良はほぼ完全に晴人の気配に覆い尽くされた。束縛される感覚に耐えきれず、彼女は狂ったように暴れて逃れようとした。
「放して!」
しかし晴人はさらに強く抱きしめた。かつてないほどの強さだった。
彼は彼女を制圧し、一言ずつ告げた。「咲良、ただ警察署に行って、あの絵は君が彼女にあげたものだと証言するだけでいいんだ」
それを聞いた咲良は怒りで全身を震わせ、次の瞬間、彼女は迷わず彼の首筋に食らいつき――あろうことか、その肉をごっそりと噛み千切ったのだ。
晴人は痛みに息を呑み、首に青筋を立てたが、それでも手を離さなかった。
彼は咲良以上に執着していた。「咲良、君は行くしかないんだ」
「死んでも行かないと言ったら?」咲良は真っ赤な目で彼を睨みつけた。「私が今ここで死んでやると言ったら?」
晴人の眉がわずかに引きつり、長い沈黙が落ちた。
ついに、彼は深く息を吐き出し、噛み含めるように言った。「咲良、俺を怒らせるな」
晴人はため息をつき、確信と憐れみを込めて言った。「君は死ぬことなんてできない。咲良、君はようやく俺と結婚できたんだ。死ぬなんて惜しいことができるはずがないだろう?
だからいい子だ、もう騒ぐのはやめて、言うことを聞け。
一度警察署に行くだけだ、な?」
咲良は全身を強張らせ、猛然と顔を上げ、信じられないという眼差しを彼に向けた。
晴人は分かっているくせに……彼女がどれほど彼を愛し、彼の妻になるために全てを捧げてきたか!
それなのに彼は彼女の深い愛情を、あろうことか彼女を脅す刃に変えた。その刃で彼女の胸を容赦なく突き刺し、心を鮮血で染め上げたのよ!
咲良は突然、冷静になった。
彼女は目を閉じ、ふっと笑った。「そうね、死ぬことなんてできないわ」
でも晴人、あなたのためじゃない。
私があなたを離れて、自分の人生をやり直すと決めたからよ。
晴人はほっとした。「じゃあ今すぐ行こう……」彼の手の力も緩んだ。
だが次の瞬間、咲良は晴人の急所を思い切り蹴り上げ、ついに彼の腕から逃れた。
彼女は彼を見据え、一文字ずつ告げた。「でも、行くつもりもないわ」
晴人は顔面蒼白になり、激痛で立ち尽くすのもやっとの状態で、全身を震わせていた。
彼の怒りはもう抑えきれなかった。「咲良、今回はやりすぎだ」
彼は目を閉じ、二度深呼吸をして、怒りを再び押し込めようとしたようだった。
だが今回は、抑えきれなかった。
晴人は両手を固く握りしめ、手の甲に青筋を浮かべて命じた。
「彼女を監禁室に閉じ込めろ」
彼は背を向け、大股で部屋を出て行った。
「協力する気になったら、連絡してこい」
第9話
咲良は、晴人の部下たちによって無慈悲に床へと押さえつけられた。背筋を冷たい悪寒が駆け抜ける。まるで氷海に突き落とされたかのようだ。
監禁室?彼は彼女をあの場所に閉じ込めるつもりなの?
晴人は知っているはずだ。彼女が世界で一番恐れているのが、光の差さない閉鎖空間だということを!
幼い頃、姉と共に拉致された悪夢。見知らぬ暗闇の監禁室で過ごした、永遠にも思えた七日七晩。それ以来、彼女の心には消えない傷跡が残った。閉所恐怖症――少しでも狭く暗い場所に閉じ込められると、体の震えが止まらなくなるのだ。
かつて姉のアトリエで、震える声でその過去を打ち明けた時、彼はあんなにも真剣な眼差しで抱きしめてくれたではないか。
「もう二度と、そんな怖い思いはさせない」
彼女は信じていた。あれは、晴人がその生涯をかけて彼女を守り抜くという、誓いの言葉だと。
それなのに今……彼はあろうことか葵衣のために、彼女の最大のトラウマを武器にし、彼女を屈服させようとしている!
監禁室の隅で膝を抱え、咲良はパニックの発作に襲われていた。全身が震えた。
喉が詰まり、息ができない。まるで陸に打ち上げられた魚のように、ただ苦痛に喘ぐことしかできなかった。
それでも、彼女は唇を噛み締め、屈しなかった。
あれは姉の絵なのだ。姉が残した最後の尊厳だけは、命に代えても守らなければならない……
丸三日三晩、咲良は水一滴すら口にできず、胃袋は空っぽのまま激痛に苛まれていた。
内臓が雑巾のように絞られる痛みに意識が朦朧とする中、頭上のスピーカーから晴人の冷徹な声が響いた。「咲良、まだ意地を張り続けるつもりか?」
咲良は弾かれたように顔を上げた。
暗闇の中、無数の赤い光点が針のように彼女の瞳を刺す。
ここは、至る所にピンホールカメラが仕掛けられていた!
この三日間、自分の苦しみも、無様な足掻きも、絶望の表情も、晴人はすべてモニター越しに冷ややかに眺めていたというのか!
すべてを知りながら、それでも彼は葵衣のために沈黙を選んだ……
晴人、なんて残酷な男!
怒りで全身が震え、視界がぐるりと反転したかと思うと、咲良の意識はプツリと途切れた。
深い闇へ落ちていく寸前、スピーカーから部下の安堵したような声が微かに漏れ聞こえた。「社長、コネを使ってお嬢様を保釈させました」
……
再び瞼を持ち上げると、そこは消毒液の匂いが漂う病室だった。
サイドテーブルには、見慣れた力強い筆跡のメモが残されていた。
【葵衣は無事だ】
たったそれだけ。彼女の安否を気遣う言葉など、一文字もない。
咲良はそのメモを破り捨てると、唇の端を吊り上げ、凍りつくような自嘲の笑みを浮かべた。
ふと携帯を見れば、SNSのトレンドトップに【久遠家令嬢、華やかなる婚約パーティー】のライブ配信が躍り出ている。
咲良はようやく、今日は葵衣の婚約発表の日であることに気づいた。そして同時に、離婚届を提出する日でもある。
彼女は迷わず点滴の針を引き抜いた。病衣を着替える時間さえ惜しんで、そのまま役所へと向かった。
一時間後、咲良はすべての離婚手続きを滞りなく終えた。
その時、晴人から電話が入った。「体調が悪いんだろう。無理して会場に来なくていい」
一瞬なんのことか分からなかったが、すぐに婚約パーティーのことだと察した。
「私、もともと……」
晴人はその言葉を遮った。「身だしなみを整えておけ。後で中継を繋ぐ」
一拍の間を置き、彼は低い声で付け足した。「君は、久遠家の一人だからな」
咲良の瞳に、冷ややかな嘲笑の色が浮かぶ。
結局は、彼女が欠席することで久遠家の体面が傷つくのを恐れているだけなのだ。
だが、幸いだった。今の彼女はもうそんなことで傷ついたりしない。
咲良の心は、凪のように静まり返っていた。それどころか、この数日間に受けた理不尽な仕打ちをすべて彼らに「お返し」してやろうとさえ考えていた。
晴人に答える時、咲良は淡く微笑んでみせた。「分かったわ」
そのあまりに従順な返事に、晴人は安堵の息を漏らした。「細かい話は、パーティーが終わってからにしよう」
「ええ」
通話を切ると、咲良は病院には戻らず、タクシーを拾って空港へ直行した。
彼女はあてどなく、I国行きの航空券を購入していた。空港のロビーで、晴人からのビデオ通話リクエストが届く。
咲良はビデオ通話の応答ボタンを押して回線を繋いだ。その瞬間、まるで幽霊のように血の気のない彼女の顔が、ライブ配信を見守る何千万もの視聴者の目に一斉に映し出された。
司会者が明るく取り繕った声で呼びかけた。「奥様、こんにちは!
体調不良で入院中と伺っております。一日も早いご回復をお祈りしています。
ご自身の体調が優れない中、葵衣さんの婚約パーティーだけはどうしても見届けたいと、こうしてリモートでの参加を希望されたそうですね。病室からでもお祝いを届けたいだなんて……本当に、羨ましいほどの絆です!お二人の仲の良さが伝わってきますね!
さあ、それでは葵衣さんに、祝福のメッセージをお願いします!」
咲良は軽く咳払いをして喉を整えると、カメラを自分の顔の正面に据え、微細な表情の変化までが伝わるように画角を調整した。
そして、一言一句、凍りつくような冷静さで口を開いた。
「葵衣、愛してもいない男と結婚するなんて、きっと辛いよね?
あなたがそんな風に苦しむ姿、これ以上見ていられないもの。
だから、私、晴人とは離婚したの。あんな男、もう私には要らないから、あなたに譲ってあげるわ。
晴人と二人で、末永くお幸せに!」