雨の記憶と、枯れた花の七年目

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雨の記憶と、枯れた花の七年目

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私の名前は柏木穂香(かしわぎ ほのか)。桐島蒼介(きりしま そうすけ)と離婚して七年目。 久しぶりに戻った故郷で、私はカメラを首から下げ...

Chương (1)

第1章

私の名前は柏木穂香(かしわぎ ほのか)。桐島蒼介(きりしま そうすけ)と離婚して七年目。 久しぶりに戻った故郷で、私はカメラを首から下げた小さな男の子に出会った。 その子は、ずいぶんとませてる口調でこう言った。 「お姉さん、僕のパパは有名なカメラマンなんだよ。 僕も将来絶対に、パパみたいにカメラマンなるから。 今、もしモデルになってくれたら、お姉さんは僕のスポンサー様ってことだよ」 思わず吹き出してしまい、私はその申し出を引き受けた。 撮影の途中、男の子がいきなり興奮して私の背後に向けて手を振り、「パパ!」と叫んだ。 つられて振り返り、私は視線の先にいた人物を見て凍りついた。 蒼介も、その場に立ち尽くしていた。 気まずい沈黙が流れた。 それでも私は何食わぬ顔で、男の子が満足するまで撮影に付き合ってあげた。 別れ際、ずっと黙り込んでいた蒼介が突然、口を開いた。 「穂香……お前がもう二度と、この町には戻らないと思っていた」 私は薄く笑って答えた。 「昔の話よ。もうとっくに過ぎたことだわ」 第1話 私の名前は柏木穂香(かしわぎ ほのか)。桐島蒼介(きりしま そうすけ)と離婚して七年目。 久しぶりに戻った故郷で、私はカメラを首から下げた小さな男の子に出会った。 その子は、ずいぶんとませてる口調でこう言った。 「お姉さん、僕のパパは有名なカメラマンなんだよ。 僕も将来絶対に、パパみたいにカメラマンなるから。 今、もしモデルになってくれたら、お姉さんは僕のスポンサー様ってことだよ」 思わず吹き出してしまい、私はその申し出を引き受けた。 撮影の途中、男の子がいきなり興奮して私の背後に向けて手を振り、「パパ!」と叫んだ。 つられて振り返り、私は視線の先にいた人物を見て凍りついた。 蒼介も、その場に立ち尽くしていた。 気まずい沈黙が流れた。 それでも私は何食わぬ顔で、男の子が満足するまで撮影に付き合ってあげた。 別れ際、ずっと黙り込んでいた蒼介が突然、口を開いた。 「穂香……お前がもう二度と、この町には戻らないと思っていた」 私は薄く笑って答えた。 「昔の話よ。もうとっくに過ぎたことだわ」 …… 蒼介の息子はおしゃべりだ。 聞いてもいないのに、ペラペラと自分の家の事情を洗いざらい話してくる。 パパの写真は国際的な賞をたくさん取っているとか。 ママの写真は全部パパが撮っていて、専用の部屋もあるとか。 自分は七歳で、妹が欲しいというのが一番の願いだとか、ママもそれを約束してくれただとか。 そこまで話したところで、蒼介が不機嫌そうに息子の口を塞いだ。 「悪い、穂香。この子、ちょっとおしゃべりが過ぎて」 私は目の前で無邪気に笑う子供を見下ろし、少し呆然とした。 あの時、私が取り乱して暴れたせいで流産しかけた、あの小さな命。 七年の時を経て、こんなにも活発な子供に育っていたなんて。 時間は本当に不思議なものだ。 蒼介は子供を連れて立ち去ろうとした。 数歩進んだところで、彼は急に振り返った。その声は少し掠れていた。 「穂香、この後どこ行くんだ?もしかしたら同じ方向かもしれない……」 「いえ、方向は違うわ」 彼は呆然と私を見つめたまま、言葉を失っていた。 沈黙を破ったのは、彼の服の裾を引っ張る子供の声だった。 「パパ、早くスマホ貸してよ!ママにビデオ通話して、僕が撮った写真を見せるんだから!」 我に返った蒼介は、慌てた様子で鞄からスマホを取り出した。 彼が再び顔を上げた時、私はもう遠くまで歩き出していた。 背後で私の名前を呼ぶ声が微かに聞こえたような気がしたが、振り返らなかった。 数時間後、私は友人たちと食事をしていた。 突然、店員が入ってきて、封筒をテーブルに置いた。 「失礼します、柏木様はいらっしゃいますか? 表にいたお子さんから、これを渡してくれと頼まれまして。 午後に撮ったお写真だそうです」 同席していた友人の一人が、昼間の出来事を聞いて面白がり、真っ先に封筒を手に取った。 「どれどれ?うちの穂香ちゃんがどう撮れてるか!拝見拝見!」 彼女は写真を取り出し、感心したように声を上げた。 「へえ、構図も面白いし、光の使い方もなかなかじゃない」 しかし、ある一枚をめくった瞬間、彼女の声がピタリと止まった。 写真を掴む指が止まり、彼女は躊躇いがちにその一枚を私の前に差し出した。 「これ……子供が撮った写真じゃないわよね」 私は視線を落とした。 見覚えのある作風だ。 それを見た瞬間、喉の奥が引き攣ったように息が詰まった。 事情を知っている地元の友人もすぐに気づいたようで、素早く写真を奪い取ると、部屋の隅へ乱暴に投げ捨てた。 「ッ……縁起でもない!」 盛り上がっていた空気が、一瞬にして凍りついた。 私はふっと笑って、沈黙を破った。 「全部、過去のことだから」 そして、事情が飲み込めず戸惑っている友人を見て、淡々と説明した。 「さっき写真を撮ってくれた子は……元夫の子供なの。 離婚する時、ちょっとばかり揉めてね」 第2話 揉め事どころの話じゃない。 私と蒼介の別れ際は、泥沼の殺し合いのようなものだった。 もっとも、出会った時だって似たようなものだ。二人とも薄汚れていて、惨めだった。 蒼介は継母に金を盗んだと因縁をつけられ、殴られて家を追い出された。 私はギャンブル狂いの父に殴られ、同じように放り出された。 行き場のない私たちは薄汚れた指先を、同時に作り立てのからあげの弁当に伸ばした。 「俺のだ!」 「私のよ!」 二人とも弁当の容器を押さえて、一歩も譲らない。 揉み合っているうちにからあげは地面に転がり落ち、騒ぎを聞きつけた店長の田村(たむら)さんが怒鳴り声を上げて追いかけてきた。 私たちは肝を冷やし、争うのも忘れて地面のからあげをひっ掴むと、命からがら逃げ出した。 結局、捕まったけれど。 田村さんは、弁当の代金を働いて返せと、私たちを店に残らせた。 その日の深夜、私たちは店の電球の下、並んで座り、不器用な手つきで揚げ物の作り方を教わった。 どれほどの時間、慌ただしく動き回っていたのかわからなかった。蒼介は私がやっと作り出したものを見て、ふんと鼻で笑った。 「焦げすぎだよ!」 私は彼を睨みつけ、遠慮なく言い返した。 「お互い様よ」 その瞬間、お互いの顔にある青あざを見合わせ、私たちは同時に吹き出した。 それから、私たちは少しずつ距離を縮めていった。 共に街をうろつき、一つのパンを分け合い、万引きした安酒を回し飲みし、橋の下で古新聞にくるまって震えながら眠った。 互いの底辺時代を知る唯一の証人であり、この冷たい世界で唯一、傷を舐め合える共犯者だった。 彼は拾ったオンボロカメラで、私に初めての写真を撮ってくれた。 ピントも合っていない、酷い写真だったけれど、こう言って笑った。 「穂香、俺が立派なカメラマンになったら、お前をモデルにした写真展を開いてやるからな!」 私はバイトで貯めたなけなしの金をすべて蒼介に渡し、彼が夢見ていた写真教室に通えるように支えた。 泥の底から二人で這い上がってきた私たちが持っていたのは、互いへの思いだけだった。 だからこそ、後に彼が暗室で、別の女と肌を重ねているのを目撃した時、私は思い知ったのだ。 年少の頃の思いなんてものは、ガラス玉みたいに綺麗だけど、あまりにも呆気なく砕け散るものなのだ。 地元の友人が、目を赤くしていた。 彼女は私を見ることもできず、悔恨に満ちた声でうつむいた。 「私のせいよ。私が清香を、あんたたちに引き合わせなければ……」 西園寺清香(さいおんじ さやか)。 七年前、その名を聞くだけで私の心は憎悪で満たされていた。 けれど今の私は、窓の外を流れるネオンを眺めながら、ただ凪いだ海のように平穏だった。 「あなたのせいじゃないわ」 私は彼女の手を軽く叩いて慰めた。 「根っから腐った人間は、どうしようもないのよ」 高校時代、私と蒼介が困窮していたことは誰もが知っていた。 友人は私たちに内緒で、ネットで見つけた奨学金に応募してくれていた。 その結果、西園寺財団が私たちを支援することになったのだ。 そして、その縁で清香もまた、私たちの高校に転校してきた。 あれは十六歳の時のことだ。 転校初日、清香は教壇に立ち、自己紹介をした。 「西園寺清香です。この学校に寄付してる西園寺財団は、うちの財団なのです」 彼女は軽蔑に満ちた視線で教室を見回し、最後には私と蒼介に目を留めた。 「ふうん、こんな顔してたんだね」 悪夢はそこから始まった。 彼女は私の机にインクをぶちまけ、蒼介のノートに「貧乏人」と書き殴り、私たちが物を盗んだという噂を流した。 一番酷かったのは、彼女が自分の高級腕時計を蒼介の鞄に入れ、先生を連れてきて「現行犯」として彼を吊し上げた時だ。 「あなたたちみたいな底辺は、私の時計の部品一つだって弁償できないのよ。 それなのにパパったら、あなたたちを見習えと言っている……本当に笑わせるわ」 そんな理不尽な嫌がらせが、丸一年も続いた。 そして、あの夜が訪れた。 清香は私たちを廃校舎の理科室に呼び出し、外から鍵をかけて火を放ったのだ。 黒煙の中、蒼介と私は必死に庇い合ったが、結局、焼け落ちてきた瓦礫が私の肩を直撃した。 事件後、清香は強制的に転校させられた。 友人は呆気に取られた顔で、絞り出すように言った。 「つまり……あの男は、かつてあんたたちを散々いじめた女と浮気したってこと? あいつ、本当に頭がおかしいんじゃないの?」 私は笑った。 「七年前、私も彼に同じことを聞いたわ」 けれど、蒼介は数秒の沈黙の後、こう言ったのだ。 「愛するってことは、その人の一番汚い部分も含めて受け入れるってことだ。 俺たちなら、それが一番よく分かるはずだろう?」 彼はさらに、清香と私たちは同類だと言った。 あのいじめは彼女なりの構ってほしいというサインであり、彼女もまた私たちと同じ、世界に愛されなかった人間なのだと。 笑わせる。 あの日、肩に受けた傷は一生消えない後遺症となり、私は医師になるという夢を絶たれた。 それなのに、蒼介は「加害者も俺らと同じく愛されるべき存在だ」と言い放ったのだ。 第3話 食事会は、なんとも言えない空気のままお開きになった。 友人たちがホテルまで送ってくれることになった。 皆、いい人だ。誰も私の結婚の失敗を蒸し返したりはしない。 私が苦笑いしながら「もう本当に気にしてないから」と強調しても、まだ気を遣ってくれているのが分かる。 母校の前を通りかかるまでは、本当に気にしてないというのに。 夜の闇の中、言い争う男女の声が聞こえてきた。 女が泣き叫んでいる。 「もう二度とこの場所には来ないって言ったじゃない! まだあの女が忘れられないの!? 息子が撮りたがったなんて言い訳して、本当はあんたがあの女を撮りたかっただけでしょ? あの泥棒猫……」 「いい加減にしろ!ここまでついてきて散々喚き散らして、まだ彼女を侮辱する気か!」 男の怒鳴り声が不意に止んだ。街灯の下に立つ私と、目が合ったからだ。 彼の隣にいた清香も、その視線を追ってこちらを見た。 七年ぶりに再会した二人の顔に、驚愕と狼狽の色が浮かぶ。 清香は反射的に髪を整えると、すぐさま蒼介の腕に抱きついた。 「あら、穂香さんじゃない?久しぶりね!」 無視する私などお構いなしに、彼女は蒼介にべったりと寄りかかり、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。 「今日、息子が撮ったあんたの写真見たわよ。随分変わったわね 女は顔が資本なんだから、ケチっちゃダメよ。エステのチケットでもあげようか?」 今にも飛びかかりそうな友人を制し、私はにっこりと微笑んでみせた。 「あなたも随分変わったわね。 二十代の頃より、ずっとマダムらしくなったわ」 清香の笑顔が凍りついた。 二十代という時期は、清香にとって最も思い出したくない過去のはずだ。 彼女が幼い頃から誇りにしていた西園寺家は、彼女が二十歳の時に突然破産した。 私と蒼介が彼女と再会したのは、ちょうど彼女が万引きをして店主に髪を掴まれ、引きずり回されている時だった。 無様に逃げ惑う彼女が顔を上げ、人だかりの中に私たちを見つけた瞬間、堪えていた涙が一気に溢れ出した。 結局、蒼介が金を払い、彼女を助けた。 ただの気まぐれな人助けで、それで終わるはずだと思った。 けれど、ある晩、蒼介が夕食中、清香を助けたいと言い出したのだ。 嫌な予感がして心臓が早鐘を打った。 清香が接触してきたのかと尋ねると、彼は首を横に振った。 彼は渋い顔で、油でベトベトの定食屋で皿洗いをしている清香を見かけ、不憫に思ったのだと言った。 私は雨の日になると痛む肩をさすりながら、何も言わなかった。 蒼介はそんな私を諭すように言った。 「彼女の実家には昔世話になっただろ?その借りを返すと思えばいい」 だが、借りを返すどころか、泥沼にはまっていくだけだった。 いつの間にか、清香は私たちの生活に入り込んできた。 最終的に、彼女は蒼介のアシスタントとして働き始めた。 あの日、彼女は蒼介に連れられて家に上がり込み、当たり前のように食卓を囲んでいた。 食事の最中、彼女は不意に私を見て涙をこぼした。 「穂香さん、蒼介さん、ごめんなさい。 昔の私が最低だったのは分かってる…… どうやったら許してもらえるの?」 蒼介は彼女にティッシュを渡し、優しい声で言った。 「もういいよ。あの頃は若かったし、仕方ないさ」 その光景に、料理の味がしなくなった。 私の肩は今でも雨が降るたびに疼くのに、放火した張本人が目の前で、私の夫に慰められている。 「清香、ごめんなさいの一言で、すべてがチャラになると思ってるの?」 清香は涙に濡れた顔を上げ、助けを求めるように蒼介を見た。 蒼介は眉をひそめた。 「穂香、彼女はここまで反省してるんだ。これ以上どうしろって言うんだ?」 どうしろって? この女に、奪われた私の夢を返してほしい。 この目障りな女に、私の人生から消え失せてほしい。 けれど、私は何も言えなかった。 清香が突然、その場に土下座したからだ。 彼女は泣きじゃくりながら言った。 「ごめんなさい、必ず償うから」 彼女の言葉に嘘はなかった。 彼女は自分自身の体で、蒼介に償ったのだから。 第4話 あの日、蒼介は朝早く家を出て行った。 郊外でモデルの撮影があると言っていた。 私は雨のせいで肩が痛み、動く気力もなくソファで丸くなっていた。 なんとか起き上がって鎮痛剤を飲もうとしたが、切れていることに気づいた。 私は傘を差し、数百メートル先にある蒼介のスタジオへ向かった。 彼なら、私のために鎮痛剤をいつも用意してくれているはずだった。 スタジオのビルに着き、ふと見上げると、暗室の窓から微かな赤い光が漏れていた。 現像中のセーフライトだった。 なのに、胸がざわついた。 嫌な予感がして、心臓が重く沈んだ。 合鍵でスタジオのドアを開けた。 暗室の扉は閉ざされていた。 だが、防音などがなかった。 中からの声は、扉を透かして鮮明に聞こえてきた。 押し殺したような吐息と、涙ぐんだような女の甘い声。 「蒼介さん……これで……償いになった?」 私はその場に立ち尽くした。肩の痛みが、刃物のように全身を駆け巡った。 彼女の問いに答えたのは、さらに激しく肌がぶつかり合う音だった。 その後の記憶は曖昧だった。 気づけば、私は半裸の清香をスタジオの外へ引きずり出し、殴りつけていた。 地面には、暗室から持ち出した清香の卑猥な写真が散らばっていた。 彼女は雨の中、体を丸めて野次馬のカメラから逃れようとしていた。 「蒼介さん!蒼介さん、助けて!私、妊娠してるの!」 私の手が止まった。 視線が、必死に腹を庇う彼女の手に釘付けになった。 その隙をついて、蒼介が私を突き飛ばし、自分のコートを清香に被せた。 蒼介は私を睨む目が、まるで仇を見るようだ。 「お前、自分が何してるか分かってんのか! 気が狂ったのか!」 清香は蒼介の腕の中で泣き叫んでいた。 私はただ呆然と立ち尽くしていた。視界が歪み、目の前の世界がぐるぐると回っていった。 冷たい雨が服の中に染み込んでくるが、心に広がった空虚な冷たさには敵わない。 極限の絶望とは、感覚すら麻痺させるものなのか。 やがて警察が到着し、私は蒼介の冷たい沈黙の中、留置所に入れられた。 警察によれば、相手側は示談に応じず、清香には流産の兆候があるため、私は実刑になる可能性が高いという。 冷たい鉄の扉が閉まる音を聞きながら、私は思った。 これが、彼と過ごした十五年の結末なのか、と。 十五日間の拘留中、蒼介は一度も面会に来なかった。 来たのは弁護士だけだ。 相手が示談を拒否し続ければ、傷害致死未遂で三年以下の懲役になる可能性があると、何度も聞かされた。 「桐島さんから監視カメラの映像が提出されました」 弁護士がタブレットを差し出した。 「画質は悪いですが、あなたが暴力を振るっているのは明白です」 画面の中の私は、正真正銘の狂人のようだった。 半裸の清香を雨の中に引きずり出し、殴り続けていた。 そこに至るまで、私があの二人にどれだけ追い詰められてきたかなんて、誰も知ろうともしなかった。 十五日目、弁護士が再びやって来た。 「先方が示談に同意しました」 私は顔を上げた。 「条件は、慰謝料及び財産分与の一切を放棄しての離婚。そして、二度と彼らの前に姿を現さないことです」 私は笑った。あまりの絶望に、涙が出るほどおかしかった。 一緒にどん底から這い上がった時、彼は誓ったはずだ。 一生、私に惨めな思いはさせないと誓ったはずだ。 なのに今、彼は私を刑務所送りにすると脅し、身一つで出て行けと言った。 私は淡々と告げた。 「桐島蒼介に伝えてください。同意する、と」 離婚届にサインをした日も、雨が降っていた。 蒼介は一人で現れ、うつむいたまま一言も口を利かなかった。 私は手早く署名を済ませ、ペンを置いた。 そして、震える声を必死に抑え、彼の名前を呼んだ。 「桐島蒼介。私たちが結婚した時の誓い、まだ覚えている?」 彼は黙ったまま。 「健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、互いに助け合う。 でもね、蒼介。最初にこの手を離したのは、あなたよ」 席を立ち、去ろうとした時、背後から彼が問いかけてきた。 「肩は……まだ痛むのか?」 私は振り返らなかった。 痛いよ、死ぬほど痛い。 けれど、時間は本当に不思議なものだ。 あの時、悲しみで死ぬかと思った私が、こうして平然とした顔で、目の前で腕を絡ませている清香と蒼介を、こうして見ているのだから。 もっとも、二人ともひどい顔色をしていたけれど。 清香は引きつった笑みを浮かべたが、すぐに気を取り直し、蒼介にべったりと張り付いた。 「そうだ、うちの星河が撮った写真、見たでしょ?上手だったじゃない? あの子ったら、蒼介の才能を受け継いだのね。 将来はパパみたいなすごいカメラマンになるんだって」 私は数秒沈黙し、口を開いた。 「星河?」 清香が目を輝かせた。 「ええ、私たちの子供の名前よ、桐島星河(きりしま せいが)っていうの。 蒼介が名付けたのよ、意味は……」 「星の河のように、永遠に輝く」 最後の言葉だけ、私と蒼介の声が完全に重なった。