全てを失った私への富豪の愛

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全てを失った私への富豪の愛

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夫・神谷恒一(かみや こういち)との結婚三周年の記念日は、夫の妹が入院している病室で過ごした。 そこで、離婚届を差し出された。 「これに...

Chương (1)

第1章

夫・神谷恒一(かみや こういち)との結婚三周年の記念日は、夫の妹が入院している病室で過ごした。 そこで、離婚届を差し出された。 「これにサインしろ。優花の居場所を空けるんだ」 白石優花(しらいし・ゆうか)。夫の妹の親友で、かつて彼の耳元で私は「不吉な女」だと囁いていた。 私は、夫を見つめ返した。 「恒一。あなたの起業資金を用意したのは、誰? 妹さんの腎臓の提供先を探したのは? 今さら成功したからって、私を追い出すつもり?」 そして顎を掴まれ、低い声で告げられる。 「知里、調子に乗るな。 知ってるぞ。優花がお前が俺の妹の薬を勝手に止めて、死なせようとしたことを見たさ」 私は、笑った。 そしてその場で、一本の電話をかける。 「藤堂さん。私、今すぐ離婚する。 あなたが言ってくれた条件はまだ、有効?」 第1話 病院に駆けつけたとき、神谷恒一(かみや こういち)の妹――神谷澪(かみや みお)は、すでに救命措置の真っ最中だった。 救急室の扉の上で点灯する赤いランプが、やけに目に刺さる。 息を整える間もなく、正面から恒一が突っ込んできた。 次の瞬間、私は背中を強く押され、冷たい壁に叩きつけられる。衝撃が骨まで響いた。 「知里……お前、どれだけ性格が腐ってるんだよ」 吐き捨てるような声。そこに、隠しきれない憎しみが滲んでいた。 私は血走った彼の目を見返す。何が起きているのか、頭が追いつかない。 「……何の話?」 「とぼけるな!」 恒一は鼻で笑い、手にしていた小さな薬瓶を私の足元へ叩きつけた。 「医者が言った。澪は薬のアレルギー反応で急性腎不全だ。原因はこれだってな。 今朝お前が自分で澪に飲ませた薬だ」 背後から、泣き声が近づいてくる。 澪の親友、白石優花(しらいし ゆうか)が駆け寄り、恒一の腕にしがみついた。 「恒一……お願い、知里を責めないで。 きっと……ただの間違いだよ。 澪が飲んでた輸入薬と、知里が持ってきたビタミン、見た目がすごく似てたし……」 私が持ってきたのは、澪の体調を気遣って用意した、ただのビタミン剤だった。 反論しようとした、その瞬間。 恒一の母親・神谷静子(かみや しずこ)が、勢いよく私に平手を振り下ろしていた。 じん、と焼けるような痛みが走る。 「縁起でもない女!あんたに関わってから、ろくなことが起きない! 金持ちの家の娘は腹黒いって言うけど、まさにその通りね!最初から澪を殺すつもりだったんでしょう!? 神谷家が何をしたっていうのよ!」 私は頬を押さえながら、彼女たちの顔を見た。そこには怒りよりも、どこか勝ち誇ったような色があった。 胸の奥が、すっと冷えていく。 恒一が、私の顔に当てた手を乱暴に振り払う。 「演技はもういい。さっさと跪いて謝れ」 両親に叩かれたことなんて、一度もなかった。 三年前。私はパリ留学の話を断った。 親の反対を押し切り、結婚前に買った家を売り、貯金もすべて出した。 何も持っていなかった恒一の起業を支えるために。 金を受け取ったあの日、恒一は泣きながら私を抱きしめた。 「知里、ありがとう。 必ず、一生幸せにする」 あれを、愛だと信じていた。 でも、今なら分かる。私はただ、自分から血を差し出していただけだった。 私は静かに息を吸い、恒一を見据える。 「……私じゃない。 監視カメラを見れば分かるはず」 一瞬、恒一が眉をひそめた。 「監視カメラ? 優花が言ってたぞ。お前はカメラを避けて、階段の踊り場で澪に飲ませたって。 知里……そこまでして、俺を苦しめたいのか」 五年間、愛した人。 よそ者の言葉は信じるのに、私の説明は、最初から聞く気もない。 優花が現れる前は、何があっても、最後まで私の話を聞いて信じてくれたのに。 私が反論しようとするとき、救急室の扉が開いた。 疲れ切った様子の医師が、廊下へ出てくる。 「ひとまず、命の危険は回避できました。ただ……状態はかなり厳しいです。 できるだけ早く、適合する腎臓が見つからないと」 静子は、その場に崩れ落ち、泣き叫んだ。 恒一は拳を強く握り、ゆっくりと私の前にやってきた。 歯を食いしばり、一言一句を噛みしめるように言った。 「知里。澪に何かあったら、お前も、ただじゃ済まさない」 そう言い捨てると、恒一は母親を支え、優花と一緒に病室へ向かった。 一度も、振り返らずに。 私は、がらんとした廊下に取り残される。 冷たい風が吹き抜け、胸の奥がじわじわと冷えていった。 ポケットのスマホが震える。 メッセージが届いた。 【神谷様、ご依頼いただいていた腎臓ドナーが見つかりました。適合率は非常に高いです】 私は画面を見つめ、そのままメッセージを消した。 そして廊下の突き当たりの窓辺へ行き、一本の電話をかける。 「藤堂さん……私、知里」 電話の向こうはちょっと驚いたが、すぐに落ち着いた声が返ってきた。 「……知里さん、どうした」 「前に言ってたよね。私を、あなたの会社のチーフデザイナーに迎えたいって。 条件は、私の言い値でいいって。 ……あの話、今も効いてる?」 数秒の沈黙。それから、短く答えが落ちる。 「もちろん。 でも……君は、神谷さんの会社を出る気はないって」 私は窓の外の、灰色の空を見上げた。 「すぐに、神谷の姓じゃなくなる。 条件は一つだけ」 「何だ?」 「離婚協議書、用意して」 第2話 藤堂直哉(とうどう なおや)の弁護士を連れて病室に戻ると、そこには、神谷家の人間たちは楽しげに病室で夕食を取っている。 優花が、気遣うような仕草で恒一にスープを飲ませていた。 恒一は、それを当然のように受け入れている。 静子は優花の手を握り、何度も「いい子よね」と頷いていた。 「優花……あなたがいなかったら、澪は本当に危なかったわ」 「そんなことないですよ。 澪のことを看病するのは、当たり前ですから」 「それに比べて……何の役にも立たないくせに、性根が腐ってる人もいるしね」 その言葉は、私に向けて放たれたものだった。 私は、何も感じなかった。 ただ黙って、一通の書類を恒一の横のテーブルに置く。 「恒一、これに署名して」 恒一は書類に目を落とし、それからゆっくり私を見る。 離婚協議書。 彼の眉間に、はっきりと皺が寄った。 「知里……今度は何を企んでる?」 「あなたが望んでたことよ」私は静かに答える。 「澪には、誰かがつきっきりで世話をする必要がある。優花のほうが、私より向いてる。 だから、身を引くだけ」 優花の顔が一瞬で強張り、慌てて立ち上がった。 「知里、誤解しないで。私と恒一は、本当に何もないから。 こんな形で、恒一の気持ちを試す必要なんてないよ」 私は彼女を見なかった。恒一だけを見ている。 「署名して。 あなたにとっても、私にとっても、そのほうが楽よ」 次のとき、静子が勢いよく立ち上がった。 「離婚?冗談じゃないわ! 澪をあんな目に遭わせておいて、逃げる気? 神谷家は何も悪いことなんてしてない!あんたに渡すお金なんて、一円もないから!」 背後にいた弁護士が一歩前に出る。 「失礼ですが、法律によれば知里様には、婚姻中に形成された共有財産を分割する正当な権利があります。 神谷様の会社の株式については、知里様が51%を保有しています。 婚姻後に取得された不動産および車両についても、原則として折半となります。 また、創業初期に拠出された一億円の資金は、知里様の婚前財産に該当し、全額返還対象となるでしょう」 病室の空気が、一瞬で凍りついた。 恒一が立ち上がり、協議書を乱暴にひったくる。 そして、その場で引き裂いた。 紙片が、床にばらばらと落ちる。 「知里……俺を陥れるつもりか」 その目は、怒りというより、危険な何かを孕んでいた。 「私は、自分のものを取り戻すだけ」 「自分のもの?」彼は一歩踏み込み、私の首を掴む。 「俺がいなければ、あの金は何の価値もない! 今のお前が手にしてるものは、全部俺が作ったんだ! 何も持たない女だったお前をここまで引き上げたのは、俺だろ!」 息が詰まり、視界が揺れる。 恒一の目に、はっきりと殺意があった。 この人は、疑いようもなく本気だ。 意識が遠のく中、三年前の記憶が浮かぶ。 初めて、多額の契約金が振り込まれた日。 恒一は、カード入りの封筒を添えた花束を差し出した。 「知里、金の管理は全部任せる。家も、会社も……俺自身も、お前のものだ」 彼は私を力いっぱいで抱きしめ、額にキスをした。 でも、もう過去には戻れない。 「神谷様、やめてください!それ以上は、完全に暴力です!」 弁護士が間に割って入る。 恒一が手を放し、私は床に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。 彼は私を見下ろす。そこに、感情はなかった。 「離婚したいなら、してやる。 条件は一つ。何も持たずに出ていけ。 それが嫌なら――お前が死ぬ覚悟をしろ」 恒一の冷酷な目つきを見て、私の背中に冷たいものが走った。 私はゆっくり立ち上がり、服を整える。 「恒一……あなたは必ず後悔するよ」 「後悔?」彼は、心底馬鹿にしたように笑った。 「俺が人生で一番後悔してるのはな、お前と結婚したことだ」 私は何も言わず、病室を出た。 廊下に出た瞬間、壁にもたれ、脚から力が抜ける。 そのとき、スマホが鳴った。直哉からだった。 「……大丈夫か」 心配している声だった。 「平気」私は一度、深く息を吸う。「ただ……思ってた以上に、冷たい人だった」 「だから言っただろ。神谷恒一は、知里を大事にする人間じゃない。 知里、あいつを捨てて、こっちに来い。 もう二度と、誰にも踏みにじらせない」 私は、少しの間、黙った。 「……少し、考えさせて」 電話を切った直後、銀行からの通知が届く。 口座凍結。私名義のカードは、すべて使えなくなっていた。 本気で、私を追い込むつもりらしい。 ……これでいい。 私は、恒一と暮らしていた家へ戻った。 自分で設計し、たくさんの時間を過ごした場所。 今は、ただ空虚だ。 金庫を開け、不動産の権利書と、会社の株式譲渡契約書を取り出す。 かつて、彼を信じて署名した白紙の契約。 名前を書き込めば、会社は彼のものになるはずだった。 私は弁護士に電話をかける。 「佐々木さん、クロスリンク・グループの買収部に連絡して。 私の手元に、神谷恒一の会社の株が51%ある。 安く売るつもりだと、伝えて」 第3話 翌朝、恒一が家に押し入ってきた。 寝室のドアを蹴り開け、殺気だった目で私を睨みつける。 「知里……会社の株を売るつもりか!」 怒鳴りながら、彼は新聞を私の顔に叩きつけた。 床に落ちた紙面の一面には、【クロスリンク・グループ、神谷社買収を検討】という大きな見出しが踊っている。 私は新聞を拾い上げ、何も言わずに恒一を見つめた。 「……あなたが、そうさせた」 「俺が?」恒一は、信じられないものを見るように笑う。「こんなやり方で、俺に報復するつもりか? この会社が、俺の人生そのものだって分かってるのか!」 「じゃあ聞くけど、その人生は、誰のお金で成り立ってきたの?」 私は聞き返した。「最初に資金が足りないって、家を売ってでも助けてほしいって泣きついてきたのは誰? 会社は、永遠に半分は私のものだって言ったのは? 恒一……あなたの約束って、そんなに軽かった?」 恒一は言葉に詰まり、顔色がさっと変わった。 「金、金、金……!お前はそればっかりだ! 知里、お前は本当に下品な女だな!」 「ええ、そうよ」私は小さく頷く。「だから、そんな立派なあなたが、私のお金をきちんと返して。 それで、私たちはもう、何の借りも貸しもない」 「ふざけるな!」 恒一は一歩踏み込み、私の手首を強く掴んだ。 「株は売らせない!離婚もさせない! 大人しく家にいろ!どこにも行くな!」 吐き捨てるように言い残し、彼は私をベッドに突き倒して部屋を出ていった。 直後、鍵のかかる音がはっきりと響く。 監禁。 彼は私を、正気を失った厄介な存在のように扱った。 私は、人として扱われていなかった。 ドアに駆け寄り、力の限り叩く。 「恒一!開けて!これは違法よ!」 返事はない。 聞こえるのは、遠ざかっていく足音だけ。 私は、その場に崩れ落ちた。 スマホは奪われ、固定電話の線も切られている。 この家は、静かで、きれいな牢獄になった。 それから二日間、恒一は戻ってこなかった。 初日は、家政婦が食事を運んできた。 私を見る目には、露骨な蔑みと、ほんの少しの同情。 「奥様……社長が、ご自身の過ちをよく考えるようにと」 翌日も、同じように食事が運ばれる。 今度は、正気を失った女を見るような目だった。 「奥様……考え直したら、頭を下げに行けばいいって」 その二日間、ほとんど何も喉を通らなかった。 身体は急速に痩せ、力が入らなくなる。 三日目の夜。ドアが開いた。 恒一が戻ってきた。全身から、酒の匂いがする。 私は一瞬だけ、夫婦だった頃の情を思い出してくれて、出してくれると期待してしまった。 「どうだ?断食抗議のつもりか?」 彼は口元を歪め、嘲るように言う。 「知里、その手のお嬢様ごっこは、俺には通用しない」 私は彼を見つめ、掠れた声で答えた。 「……外に出して」 「いいだろう」恒一はポケットから書類を取り出す。 「これに署名しろ」 それは贈与契約書だった。 私名義の、彼の会社に関する株式すべてを、無償で譲渡する内容だった。 私は書類と彼を見比べた。 「署名すれば、出してくれる?それに……離婚も?」 「そうだ」 「何も持たずに?」 恒一の視線が、ほんの一瞬揺れる。否定はしなかった。 「知里、今の俺には金がある。お前は、もう釣り合わない。優花を待たせてる。さっさと消えろ」 私は思わず、笑ってしまった。 一番苦しいとき、彼を支えたのは私だったことをもう忘れただろう。 金を手に入れた途端、追い出す。 私はペンを取り、迷いなく署名した。 神谷知里(かみや ちさと)。 かつては、彼へのすべての愛を背負っていた名前。 今は、終わりを示すだけの文字。 私は書類を彼の前に差し出す。 「これでいい?もう、出て行っていい?」 恒一は呆然と、あっさりサインした私を見ていた。 ここまで素直に従うとは、思っていなかったのだろう。 その目に、少しだけ迷いが浮かぶ。 「……そんなに、俺から離れたいのか」 「ええ」即答だった。 彼の表情が、凍りつく。 書類をひったくり、背を向ける。 「出ていけ。二度と、俺の前に現れるな」 私は何も持たず、その家を出た。 外は雨だった。 髪も服も濡れ、体温が奪われていく。 それでも、私は何も感じない。 心のほうが、ずっと冷たかったから。 黒いベントレーが、私の前で止まった。 直哉だった。 「……乗れ」 彼はドアを開けてくれる。 車内の暖気に、思わず身体が震える。 彼はまたタオルと、温かいコーヒーを差し出した。 「追い出されたのか」 私は答えず、黙って髪を拭いた。 「連れて行きたいところがある」 車は走り、やがて川沿いのマンションの前で止まる。 「ここは俺の持ち物だ。しばらく、ここにいて。 仕事の話は後でいい。まずは、身体を立て直せ」 直哉は鍵を、私の手に置く。 「知里、これからは、うまくいくさ」 その言葉に、堪えていたものが一気に溢れた。 直哉は何も言わず、静かにティッシュを差し出した。 その夜、夢を見た。 三年前。恒一が跪き、指輪を差し出す。 「知里、俺と結婚してくれ。一生、大事にする」と言ってくれた。 目が覚める。 枕は、すっかり濡れていた。 第4話 直哉のマンションで、私はそのまま暮らすことになった。 それからの一週間、恒一からの連絡は一切なかった。 まるで、私という存在が、最初から彼の世界になかったかのように。 ……それでいい。 直哉は、毎日顔を出した。 美味しいものを差し入れてくれたり、どうでもいい話をしたり、気分転換だと言って、外へ連れ出してくれたり。 彼の手配で、私は正式に彼の会社へ入社し、チーフデザイナーとして働き始めた。 「この日を、ずっと待ってた」 そう言って向けられた視線が、あまりに真っ直ぐで、私は少しだけ居心地の悪さを覚える。 視線を逸らし、窓の外を見た。 「……期待に応えられるよう、ちゃんとやる」 「信じてるよ」 昼時、社員食堂に入ったときだった。 直哉は自分で配膳口に並び、私の分までトレーを受け取る。 周囲が、一斉にざわついた。 遠慮のない視線が、あちこちから突き刺さってくる。 私は思わず声を落とした。 「藤堂さん……こういうの、あまり良くないんじゃ……」 「何が?」彼は気にも留めず、軽く笑う。 「知里は、うちのチーフデザイナーだ。それに……大切な、友人でもある」 そのとき、食堂のテレビに速報が割り込んだ。 経済ニュースだった。 【神谷グループ、中核技術の情報流出により主要プロジェクトが中断。株価は急落……】 画面には、記者に囲まれた恒一の姿が映し出されている。 頬はこけ、かつての余裕は、影も形もなかった。 箸を持つ手が、止まる。 中核技術の流出。 あの技術は、私が何度も徹夜して完成させたものだ。 彼に渡した、いわば「持参金」だった。 私は箸を置き、それ以上、食べる気になれなかった。 直哉が何も言わずにリモコンを取り、テレビを消す。 「見なくていい。 知里のせいじゃない」 私は小さく頷いた。それでも、胸の奥に引っかかるものが残る。 午後、一本の電話がかかってきた。相手は、静子だった。 「知里!このくそ女! 会社の機密を売ったんでしょ! 恒一をあそこまで追い詰めて、まだ足りないっていうの!? いい?恒一が破産でもしたら、私は、死んでもあんたを許さないから!」 最後まで聞かず、私は通話を切った。 胸の奥が、重く塞がる。 仕事を終え、直哉が車で送ってくれた。 マンションの前で、見覚えのある姿が目に入る。恒一だった。 彼は車にもたれ、煙草を吸っている。足元には、吸い殻がいくつも転がっていた。 一目で分かるほど、疲れが顔に出ている。 私と直哉が並んで車を降りるのを見ると、彼の目が、さっと赤くなった。 駆け寄ってきて、私の腕を乱暴に掴む。 「もう次かよ。ずいぶん早いな」 そして直哉を指さし、怒鳴る。 「こいつのために、俺の会社を潰したのか?」 直哉が一歩前に出て、私を背中に庇った。 「神谷さん、発言には、気をつけてください。 彼女は、うちの社員です」 「社員?」恒一が鼻で笑う。「ベッドまで一緒の、そういう社員か?」 下劣な言葉だった。 直哉の表情が、すっと硬くなる。 「それ以上言うなら、こっちも黙っていないぞ」 「図星を突かれて、怒ったか?」 恒一は、私だけを睨みつける。 「知里……本当に、見損なった。 いつからだ。いつから、あいつと出来てた?」 信じられなかった。 かつて、愛していると言い、信じると言った男が。こんな目で、私を見るなんて。 「神谷恒一……あなたは最低よ!」 「最低?」彼は私の手首を掴み、引き寄せる。 「浮気して、男を乗り換えた女が言う台詞か?」 彼は顔を近づけ、私の耳元で囁く。 「そうだ、言い忘れてた。澪の腎臓、見つかった。 優花が、あちこちに頭を下げて、海外から手配したんだよ。手術も成功したし、医者も、もう大丈夫だって言ってる。 俺たち家族は、みんな優花に感謝してる。来月、俺は彼女と婚約するさ」 私は、彼の顔を見つめたまま、笑った。 「そう?それは、良かったじゃない。 おめでとう。末永くお幸せに。子どもにも、恵まれるといいわね」 そう言って、私は力いっぱい腕を振りほどく。 そして、自分から直哉の腕に手を絡めた。 「直哉。帰ろう」