春風に別れを告ぐ薔薇

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春風に別れを告ぐ薔薇

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和田若葉(わだ わかば)は名家に生まれ育った、誰もが羨むお嬢様。その彼女が、女癖の悪さで知られる御曹司・河野樹(こうの いつき)に、自ら...

Chương (1)

第1章

和田若葉(わだ わかば)は名家に生まれ育った、誰もが羨むお嬢様。その彼女が、女癖の悪さで知られる御曹司・河野樹(こうの いつき)に、自ら結婚を迫った。 樹は軽い笑みを浮かべ、あっさりとその申し出を受け入れる。だが、結婚式を目前に控えたある日、若葉に信じがたい条件を突きつけた。それは、オークションで「別の女の初夜」を落札してこい、というものだった。 そして迎えた結婚式当日。樹は祝福に包まれるはずの式場で、平然と他の女と情事にふける映像を流してみせる。 それだけでは終わらない。全身にキスマークを残し、衣服もろくに身につけていない女たちを、彼は若葉の会議室へと送りつけてきたのだった。 ずっと耐えてきた若葉だったが、その我慢も限界に達し、樹を問い詰めに向かった。しかし、そこで若葉が目にしたのは、別の女を庇い怪我をする樹の姿…… そして、その女の存在こそが、樹が若葉を侮辱し、傷つける理由だったのだ。 繰り返される裏切りと悲しみのなかで、若葉は気づいた。幼なじみだった二人の気持ちは、もう過去のものになってしまっていただと。 心が冷え切ってしまった若葉は、自分から離婚を切り出す。 ところが、若葉が樹の元を去ろうとした、まさにその前日。彼女は倉庫で、突然の爆発事故に巻き込まれてしまったのだった。 第1話 和田若葉(わだ わかば)は、K市中で名の知られた名家のお嬢様だった。その立ち居振る舞いは常に美しく、驕ることも、焦ることもない。 彼女に想いを寄せる男は、K市にとどまらず国外にまでいるほどだったが、若葉はその誰の求婚も受け入れなかった。 名だたるエリートたちをすべて断り、彼女が自ら選んだのは、女癖の悪さで知られる河野家の御曹司・河野樹(こうの いつき)だった。 樹は、彼女の結婚の申し出を拒みはしなかった。だが結婚式を目前にして、突然このままでは結婚できないと言い出し、条件を一つ出した。それは、オークションで、別の女の「初夜」を買い取れというものだった。 すると若葉は何も言わずに、誰もが驚くような金額でその女を競り落とし、そのまま彼女を海外へと逃がした。 そのことを知った樹は顔に、不敵な笑みが浮べた。そして結婚式当日、彼は他の女との誰もが目を覆いたくなるような映像を巨大スクリーンで流した。 しかし、それでも若葉は怒りを樹には向けずに、シャンパンタワーのそばにあったワインボトルを手に取り、力いっぱいスクリーンに叩きつけただけだった。 すると樹は冷たい笑みを浮かべ、若葉の腕を無理やり掴んで新居へ連れ帰った。 新居へ着くと、樹は暴れる若葉を無視して、彼女をベッドに押さえつける。そして、熱い唇で若葉の体に火をつけた。しかし、彼女の甘い吐息が聞こえた途端、ぴたりと動きを止め、あざ笑うかのように声を立てて笑った。 「若葉。もし18の頃のお前が、今みたいだったら……きっと俺は、お前から離れられなくて、ずっとベッドの上にいたかもしれない。 でも、もう5年も経ったんだよ。お前は全部忘れて俺と結婚できるようだけど、俺は無理だ」 そう言いながら、目元を赤くした樹は、指で若葉の頬をなぞる。しかし、すぐにそばにあったジャケットを掴み、大股で部屋を出て行ってしまった。 部屋には、若葉が一人だけ。 若葉は窓の外を見つめる。心臓が鷲掴みにされたように、心が痛い。 痛みのせいなのか、若葉は5年前のことを一瞬にして思い出した。 樹の母親・河野蘭(こうの らん)は、若葉に骨髄を提供してくれたいわゆる命の恩人。 このことをきっかけに、若葉の母親・和田綾(わだ あや)と蘭が親友になり、樹と若葉も自然と子供のころからずっと一緒だった。 若葉も反抗期になり、家出をした16歳のとき。運悪く、不良に捕まり廃倉庫に監禁されてしまった。 そんな彼女を見つけ出してくれたのが、樹だった。彼はたった一人で、不良たちと命がけで戦ってくれた。 そして、樹が血まみれになりながらも、「ずっとお前を守るから」と優しく言ってくれたとき、若葉は胸の奥を強く撃ち抜かれたような衝撃を感じた。 彼女は躊躇うことなく、樹に抱きついた。彼から香る、爽やかなウッディ系の香りに全身が包まれる。 それ以来、二人は自然と付き合うようになった。 母親たちが会う時には、庭の木の陰に隠れてこっそりキスをしたし、砂浜では、お互いの肩に寄りかかり満点の星空を見上げながら、永遠の愛を誓い合った。 そして18歳のとき、二人は初めて結ばれた。しかし、そのことが若葉の父親・和田仁(わだ じん)に見つかってしまったのだった。 樹は床に跪かされ、仁に十回も叩かれた。それでも、若葉と結婚して一生愛し抜くと、彼は言い張った。 そんな樹を見て、胸が張り裂けそうになった若葉は、ボディーガードを振り切り樹に駆け寄った。そして、彼を庇うようにして一発、その身に父からの平手打ちを受けた。 傷つきながらも見つめ合う二人の瞳には、お互いを思う深い愛情で溢れていた。 二人はこのまま、ずっと愛し合っていけるものだと思っていた。 しかし、ある交通事故が二人の運命を180度変えた。その事故で、仁と綾は亡くなり、蘭も重傷を負って集中治療室に運ばれた。 若葉は胸の痛みを必死にこらえ、蘭が目を覚ますとすぐに彼女の病室へと入った。 若葉は知りたかった。3人に何があったのか、なぜ一緒に事故に遭ってしまったのか…… しかし、蘭は何も言わず、ただ若葉の手を握るだけだった。「若葉ちゃん、お願い。樹と結婚して。 あなただけなの。樹が、河野家のすべてを失わずに済むようにしてあげられるのは……」 そう言い残すと、蘭は悔しそうに目を見開いたまま、息を引き取った。 その瞬間、樹が病室に入ってきた。この世を去ってしまった蘭を目の前にし狼狽えている若葉へと、樹は詰め寄る。 若葉がいくら説明しても、母親を失った樹の心には、虚しい言い訳にしか聞こえなかった。 両親の葬儀の日、若葉と樹は墓地の門の前で別れた。その日を境に、二人は別々の道を歩むことになったのだった。 その日から、若葉は和田家の会社経営にすべてを捧げた。しかし、樹はというと、派手な生活を送るようになり、毎晩女を取っ替え引っ替えしては、遊び歩いていた。 あっという間に5年という月日が経った。若葉は、水面下で当時の事故の真相を探り続けると同時に、河野グループの株を買い集めていた。 ある程度の株を手に入れた後、若葉は河野家へ向かい、自分から樹との結婚を申し出たのだった。 そして、樹が結婚を受け入れてくれたことにより、樹も過去を乗り越えたのだと若葉は思っていた。 しかし、ここ数日の出来事は、そんな彼女の思いをあざ笑うかのようなものだった。 若葉の顔に苦笑いが浮かぶ。いつの間にか滲んでいた涙を手で拭うと、ベッドに倒れ込んで体を丸めた。 …… 翌朝、若葉は目の下に濃いクマを作ったまま、会社の会議室へ向かった。 若葉が株主総会を始めようとしたその時、露出の多い服を着た4、5人の女性が、腰をくねらせながら入ってきた。 「旦那さんに言われたんです。和田社長のところへ行けば、お金を出してくれるはずだって」 すると、派手な巻き髪の女が、ゆっくりと若葉の前に歩み寄ってきたかと思うと、いきなりブラジャーを外し始めた。 外された下着の下には、無数のキスマークがついていた。その目に入ってくる光景は、針のように若葉の心を刺し、若葉は息ができないほど苦しくなった。 昨日、樹が部屋を出て行ったのは、女に会うためだったのか。 しかも、自分に恥をかかせるためだけに、わざわざこの女たちをよこして金銭を要求させるなんて。 若葉はぎゅっと拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込んだが、心の痛みに比べれば何でもない。 「それに旦那さんは、キスマークの数だけお金を払ってくれるって言っていました」 女はそう言ってテーブルに腰掛け、脚を上げる。太ももの内側にある青紫の跡に、会議室にいた人々は皆息を呑み、若葉に哀れみの視線を向けた。 若葉は怒りで激しく肩を揺らしながら、警備員に女たちを追い出すよう命じる。そして、自分は車のキーを掴んで立ち上がり、会議室を飛び出した。 車を飛ばし、とあるバーへと向かう。 そして、バーのドアを開けた瞬間、若葉は見てしまった。樹が、ひとりの女を強く抱きしめているのを。そして、その女をかばって鈍器で殴られるのを…… 第2話 樹の額からつーっと一筋の赤い血が流れ落ちた。 無理に笑みを浮かべた樹が、その女の目じりに浮かんだ涙をそっと指でぬぐってあげている。 その樹の眼差しに宿る深い愛情を、若葉は今まで何度も見てきた。 しかし、今の樹の瞳に映っているのは、もう自分ではない。 若葉の心臓がぎゅっと掴まれたように痛む。胸を押さえて何か言おうとしたけど、声が出ない。 その時、樹の腕の中にいた女が急に立ち上がったかと思うと、そばにあったボトルを掴み、樹にケガをさせた相手に思いっきり投げつけた。 そして、まるで何かに取り憑かれたみたいに、叫びながら相手に拳を振り上げている。 その様子を見て、樹は痛みを堪えながらよろよろと立ち上がり、彼女を強く抱きしめ、優しく宥めた。 女が落ち着つくと、樹は軽々と彼女を抱きかかえ、足早にバーから出て行った。 最初から最後まで、樹は若葉のことなんてまるで目に入っていないようだった。 樹の後ろ姿を見送る若葉の胸の奥がちくりと痛む。 若葉が秘書の石川日和(いしかわ ひより)に電話し、先ほどの女のことを調べさせようとしたその時、バーの客の一人が樹のことを話しているのが聞こえてきた。 「河野家の若旦那、小島さんに本当に優しいよな。彼女のために、わざと女遊びが激しいふりをして、家が決めた結婚から逃れようとしてるんだから」 「じゃあ、これは知ってるか?昔、若旦那の母親が亡くなった時、若旦那がバーで飲んでてチンピラに絡まれたのを助けたのが、小島さんなんだよ」 そう言った後、その人は少し黙ってから、声をひそめる。 「それに聞いた話だとさ、小島さんは女としては欠陥品らしくて、若旦那の夜の相手ができないらしいんだ。だから、若旦那は自分で処理するだけで、ほかの女には一切手を出してないんだとよ。 最近結婚した相手だって、父親に無理やり決められた人らしいぜ。 しかも、若旦那は小島さんに、絶対に嫁と離婚してみせる、死んでも自分と嫁に何かあるはずがないって言い切ったぽいよ」 若葉にまるで雷に打たれたような衝撃が響く。強く噛みしめた唇から、口の中に血の味が広がった。 そういうことだったのか。 樹が自分をひどく扱うのは、彼の母親のことだけじゃなく、あの女のためでもあったんだ。 派手な女遊びも、心ない態度も、全部自分に見せるための演技だったなんて。 張り裂けそうなほどの痛みが、若葉の胸を襲う。 壁に手をつきながらやっとのことでバーを出ると、若葉は車を飛ばして河野家の屋敷へ向かった。 樹との婚約が決まった後、河野家からの招待は何度もあったが、若葉はいつも断ってきた。 だから、若葉がハイヒールでリビングに足を踏み入れた今、河野家の人たちはみんな固まってしまった。 しかし、若葉はそんな視線など気にも止めず、テーブルについた。そして口を開こうとしたその時、黒い部屋着姿の小島泉(こじま いずみ)が樹の部屋から出てくるのが見えた。 泉は気だるそうにあくびをしながら、ゆっくりと若葉の前に歩いてきて、顎をしゃくる。 「そこ、私の席なんだけど。どいてくれない?」 あまりに当然といった泉の口ぶりに、若葉は鼻で笑った。 「どうして私がどかなきゃいけないの?」 若葉が言い終わるや否や、樹の継母である河野優香(こうの ゆうか)がやって来た。彼女は泉の腕を優しく抱き、若葉をいかにも不愉快そうな目つきで見つめる。 「若葉さん、あなたは良いとこのお嬢さんでしょ?席を譲るくらい、どうってことないわよね? とても物分かりのいい、おしとやかな方だって聞いていたのに。病人を立たせたまま、席を譲っていただけないなんて。評判ってあてにならないわね」 なんて馬鹿げた言い分だ、と若葉は思った。しかし、河野家の親戚たちはそれに調子を合わせている。 若葉は奥歯をぐっと噛みしめると、勢いよく立ち上がった。 みんなが得意げに見つめる中、テーブルクロスを掴むと、力いっぱい引き抜いた。 ガッシャーン…… お皿やグラスが床に落ちて割れ、料理がそこら中に飛び散った。河野家の人たちは驚き、あちこちで悲鳴が上がる。 しかし、若葉はめちゃくちゃになった床にただ一人立ち尽くし、二階をまっすぐ見上げていた。その視線の先には、書斎から出てきた樹の父親・河野彰人(こうの あきと)がいた。 「おじさん、やっと出てきてくれたんですね!」 その場にいた全員が、固唾を飲んで若葉を見つめている。 彰人は苦々しい顔で階下を見渡し、小さくため息をついた。そして、目で若葉に書斎へ来るよう合図を送る。 書斎に入り、ドアを閉めようとしたその瞬間、若葉は泉と視線が合った。 泉のその目には、勝ち誇ったような、はたまた挑発するような色が浮かんでいた。 第3話 「泉さんのことだけど……樹が彼女を認めないんだったら自分が死ぬって言い張るもんでね。だから、仕方なく河野家にいてもらってるんだよ。 樹は、俺にとってたった一人の跡取りだから、あの子を見殺しになんてできない。俺にだってどうしようもなかったんだ」 彰人が深いため息をつく。その目には、諦めの色が浮かんでいた。 しかし、そんな嘘は若葉に通用しない。若葉は向かいの椅子に座り、足を組む。「正直に話してください。何をネタに、樹を脅して結婚させたんですか? 彼の母親の死の真相ですか?それとも、お墓のこと?あるいは、残した形見のことでしょうか?」 彰人の目が泳ぐ。若葉がここまで知っているとは、思ってもみなかったようだ。 「若葉、俺が樹に君と結婚するよう言ったのはね、あの子にまっとうな道を歩んでほしかったからなんだ。だから……」 彰人の言葉が終わる前に、若葉は大きく一呼吸すると、うんざりしたように顔を上げ、話を遮った。 「樹に私と結婚させたのは、和田グループと手を組んで、つぶれそうな河野グループを救うためですよね? それに、おじさん。本当は樹のことなんて、考えてもないくせに。あなたにとって、今も昔も大事なのは河野グループだけなんですから」 どうやら図星のようで、彰人の顔色が変わった。テーブルの上の拳も、きつく握りしめられている。 若葉は鼻で笑った。「おばさんには、とてもお世話になりました。だから、おばさんの遺言で、私は樹と結婚しました。 河野グループは私が立て直してみせますから」 彰人は一瞬呆気にとられたが、すぐにはっと立ち上がった。しかし、彼が何かを言おうとしたとき、若葉は暗い顔で、しかしはっきりとした口調で話し始めた。 「でも、グループを立て直せたら樹と離婚します。あ、でも心配しないでください。私が持つ株は、すべて彼に渡しますから。 もし、あなたが立て直しを邪魔をするようなら、和田グループは河野グループを吸収しますので」 言い終えると、若葉は真っ青になる彰人を無視して書斎をあとにし、大股で河野家を出て行った。 …… 家に帰ると、若葉は棚から強いお酒を取り出し、ぐいっとあおった。 お酒を飲むのは、これが初めてだった。 焼けるようなお酒が喉を通り過ぎていく。それと一緒に、胸の奥もずきずきと痛みだした。 意識が朦朧とする中、目の前に樹がいるような気がした。 ゆっくりと近づいてくるその人を見て、若葉は笑みを浮かべた。しかし、伸ばしかけた手は、自嘲するようにだらりと落ちる。 「樹はもう、私のことなんて好きじゃないんだから、こんな家に帰ってくるわけないか……」 しかし、そうつぶやいた瞬間、手からお酒のボトルがひったくられた。 取り返そうともがく若葉の前で、険しい顔をした樹が、ボトルに残っていたお酒を一気に飲み干す。 樹は若葉のあごをぐっと掴むと、無理やり顔を上げさせた。固く結ばれた唇が、抑えきれない怒りを物語っている。 「お前はアルコールアレルギーだろ!それなのに酒を飲むなんて、死にたいのか!」 若葉はきょとんとした。自分のために彼が怒ってくれるなんて、信じられなかったのだ。 夢ではないと確かめたくて、若葉は樹の顔をじっと見つめる。しかし、耳に届いた彼の声は、とても冷たいものだった。 「若葉!泉をどこへやった?」 その一言で、若葉の酔いが一瞬で覚めた。体中の血が凍りつく。 「お前が河野家を出た直後、泉が何者かに連れ去られたんだ。今も行方がわからない! お前との結婚に同意しただろ!なのに、なんで泉に手を出すんだよ!」 樹から発せられる言葉の一つ一つは、まるで切れの悪いナイフのように何度も若葉の心を抉った。若葉は痛みで立っているのもやっとだった。 痛みに必死で堪える声はどうしても震えてしまう。 「樹、私はそんな卑怯なことはしない。それに、もうあなたとは……」 「離婚」という二文字を口にする前に、若葉のスマホから着信音が鳴り響いた。 若葉が通話ボタンを押したとたん、電話の向こうから泉の甲高い悲鳴が響きわたった。 泉の悲鳴を聞いた樹が、若葉のスマホを奪い取る。その目は充血し、怒りと焦りで燃えていた。 すると、電話越しに男の冷たい声が聞こえてきた。「若葉さん、人をこんなにしちゃうなんて。これで、満足かい?」 樹の瞳孔が、きゅっと縮まった。彼はぎこちない動きで、若葉を振り返る。 その目に浮かんだ疑いと憎しみは、あの日、樹の母親が亡くなったときの目と、まったく同じだった。 「言ったよね?私はやってない」 「あの時のお前も、そう言った」 すると、樹は額に手をあて、声を上げて笑いだした。 ひとしきり笑い終えると、彼はぞっとするほど静かな目で若葉を見つめる。 「若葉。俺はもう、お前のせいで大切な人を失ってるんだ。なのに、また同じことを繰り返すつもりなのか?」 第4話 そう言うと、樹は若葉を担ぎ上げると、有無を言わさず車の中に放り込んだ。 目を充血させた樹は、アクセルを思い切り踏み込む。 若葉はアシストグリップを強く握り、横目で樹を見た。そして、ぼんやりと16歳のあの頃を思い出す。 あの時の樹も今みたいに、目に殺意を浮かべ、不良たちへの拳も一発、また一発とどんどん重くなっていったのだった。 しかし、彼が救いたいと願う相手は、もう変わってしまったようだ。 樹はもう、自分が車酔いで気分が悪いのを気にしないし、おでこをアシストグリップにぶつけて怪我したことにも、気づかないふりをする。 樹が急ブレーキをかけた。その衝撃で、若葉ははっと我に返る。 樹は若葉の腕を力ずくで掴み、彼女を廃工場へと引きずり込んでいった。 中に入ると、そこには血まみれでひどい有り様の泉がいた。 彼女は顔中血だらけで、ぐったりと地面に倒れている。それでも涙を必死にこらえ、樹に「早く逃げて」と首を振り続けていた。 樹は手の甲に青筋を浮かべ、若葉を睨みつけると、唇を振るわせながら、言葉を絞り出した。「泉を返せ。何か要求があるなら俺に来い!」 しかし、その言葉が終わるか終わらないかのうちに、数人の男たちが暗がりから飛び出し、若葉を取り押さえた。 樹はひどく慌てた。急いで手を伸ばして彼女を引き戻そうとしたけど、間に合わなかった。 「若旦那、お前は来るって信じてたよ。俺の賭けは正しかった。 お前の大事な女をエサにすれば、ちゃんとこいつを連れてくるってな!」 そして、男は若葉を鋭い目つきで睨みつける。そしてナイフを彼女の頬に滑らせ、首筋でぴたりと止めた。 「この卑怯者め。お前が汚い手で俺の会社の株をだまし取ったせいで、うちの会社は潰れた。 俺は妻にも子供にも見捨てられ、すべてを失った。だから今度は、お前が見捨てられる番だ」 言い終わると男はにやりと笑い、その場で立ち尽くす樹に目を向けた。そして、泉の手に思い切り足を乗せて踏みつける。 悲鳴が、一瞬にして倉庫全体に響き渡った。 樹の心の中で抑えていた怒りが一気にこみ上げてきた。しかし、若葉も泉も人質になっている。軽率な行動はできない。 「若旦那。今日連れて帰れるのはこの二人のうち一人だけだ。 そこの女がなぶり殺されるのを見るか……」男は顎でしゃくり、近くの冷凍庫を指した。「それとも、こいつを冷凍庫に閉じ込めるか。さあ、選べ。 言っておくが、俺は気が短いんだ。けど、まあ、5秒やろう。それでも、選べなければ、二人とも死ぬことになるからな」 工場全体が静寂に包まれる。 若葉は顔を上げて樹を見つめた。彼の唇は硬く結ばれ、その瞳は苦悩と葛藤に揺れている。 そしてついに、樹はありったけの力を振り絞るように、一言一言、口を開いた。 「泉を……連れていく」 若葉は彼がそう選ぶと分かっていた。しかし、実際にその言葉を耳にすると、まるで心臓が抉られたみたいに痛み、動揺を隠せない。 しかし、激しい痛みの後には、なぜだか少しだけ、気持ちが晴れるような感覚もあった。 樹が泉を抱きかかえて去っていくのと同時に、若葉は男たちに無理やり冷凍庫へと押し込まれる。 ドアが閉められる直前、樹が心配そうにこちらを見ているのに気づいた。そして、彼は口パクで[待ってて]と伝えていた。 …… 冷凍庫の中は冷気で満たされている。 若葉は服をきつく抱きしめ、体を丸くしながら、わずかな温もりを必死に保とうとした。 それに、樹が助けに来てくれるなんて信じているわけではなかった。 なぜなら、樹はもう16歳の頃の樹ではなくなっているのだから。あの頃みたいに、心の中が自分だけでいっぱいだった樹ではない。 胸にこみ上げてくる切なさをぐっとこらえて、若葉は深く息を吸い込み、冷凍庫のドアを叩く。 第5話 「お金をもらっていい暮らしをするほうが、刑務所に入るよりよっぽどましじゃないかしら!」 若葉は背筋を伸ばし、必死に自分のプライドと気高さを保つ。 これは賭けだった。男たちは金銭的な要求だけで、命までは狙っていない、と。 扉が開いた瞬間、若葉は賭けに勝ったことを悟った。 男たちに言われた書類にサインすると、彼女は覚束ない足取りで廃工場を出て、日和に位置情報を送る。 幸い、日和がすぐに駆けつけてくれたので、若葉は意識を失う寸前に日和と会うことができた。 若葉はすぐに病院へ運ばれた。しかし、病室で長いこと待つが、手配していたはずの専属医がなかなか来ない。 すると、若葉はちょうど目を覚ましたところに、日和が気まずそうな顔で病室に入ってきた。 「どうしたの?何かあるならはっきり言って」 言いにくそうな日和だったが、唾を飲み込むとおずおずと口を開いた。「社長。先生が……旦那さんに連れて行かれてしまって」 若葉の瞳がすっと細められた。シーツの上の手が固く握られ、突然、胸に鋭い痛みが突き刺さる。 彼女は弱った体を起こし、車椅子で泉の病室へ向かった。 病室のドアの前まで来ると、中から樹が必死に何かを頼む声が聞こえてきた。 「先生!泉は、本当にもう危ないんです。この薬なら命が助かるはずなんです。だからお願いです。どうか彼女に使ってやってください! どうしてもだめというなら、言い値で買いますから!」 医師は少し間を置いて言う。「私は奥さんを診るために呼ばれたんです。 それに、彼女はもともと冷え性なんです。だから、冷凍庫に長時間閉じ込められていた今、すぐに治療しないと体が麻痺してしまう可能性だってあるんですから」 医師の腕を掴んでいた樹の手から、ふっと力が抜ける。 若葉のことを思ったのか、樹の目に一瞬、葛藤の色が浮かんだ。しかしベッドの泉に視線を戻すと、その迷いはすぐに固い決意へと変わったようだ。 「先生……」 「樹、あなたが決める必要なんかないの。それに、私が生きるか死ぬかもあなたになんか決めさせたりしないから」 若葉が無表情のまま病室に入ってきた。その視線に触れた瞬間、樹の胸に奇妙な感覚がよぎる。何かを失ってしまう、そんな予感。 「この薬は、私たち和田グループが長年かけて開発した命綱なの。全部で二瓶だけ」 若葉は口の端に冷たい笑みを浮かべた。そして、医師から薬を受け取ると、樹の目の前で、わざとらしく手を離す。 薬瓶は床に落ち、パリンと乾いた音を立てて砕け散った。 樹は苦痛に顔を歪めて叫び、勢いよく顔を上げて若葉を睨みつけた。 しかし、若葉は背筋をぴんと伸ばし、気高い瞳で彼を見つめ返すだけだった。 「私のものは、たとえ壊すことになっても、あなたなんかに渡さないから」 そう言い放つと、彼女は燃えるような怒りの目でこちらを見る樹を無視して、車椅子を動かしその場を去った。 …… 医師は若葉と一緒に病室へ戻った。そして診察を終えると、残っていたもう一本の薬を彼女へと投与する。 若葉は、すぐに深い眠りに落ちていった。 次に意識が戻ると、なぜか樹がベッドのそばに座っていた。 若葉が目覚めたことに気づくと、樹は慌てて駆け寄り、優しい手つきで彼女の体を起こす。 「若葉、どこか気持ち悪いところはある?それとも、まだ痛むか?」 その聞き慣れた優しい言葉に、若葉は一瞬、くらりとした。 しかし、さっきの出来事を忘れたわけではない。彼女はそっと体をずらし、樹の手を避けた。 「二度も私を見捨てたくせに、今さら心配するふりなんて、馬鹿にしてるの?」 樹の体が強張る。「見捨ててなんかいない。待っててくれって言っただろ」 「待ってろって、それは私が凍ってから、死体を拾いに来てくれるってこと?まあ、それはあなたにとって丁度いいもんね。だって、私が死ねば、小島って女のために場所が空くんだから」 若葉は嘲るような笑みが浮かべた。でも、この言葉を吐き出すときに彼女の心がどれほど痛んだのか、知っているのは彼女だけ…… 「樹。どうせあなたがここに来たのも、あの女のためなんでしょ?」 樹の拳がぐっと握りしめられた。喉がごくりと鳴り、かすれた声で話し始める。 「泉はもともと体が弱いうえに、昔俺を助けようとして、何度も刺されたことがあるんだ。 だから早く治療してやらなければ、きっと彼女は死んでしまう。でも今頼れるのは、和田グループの薬しかないんだよ。だから……若葉、頼む……彼女を助けてやってくれないか」 うつむく樹を見て、若葉の胸に悲しみがこみ上げてきた。 彼女は震える声を必死に抑え、答える。「うん。いいよ。 でも、あなたは、一体私に何をくれるの?」 第6話 どれくらい時間がたっただろうか。樹がふと顔を上げた。その瞳に迷いはなく、決意が漲っている。彼は大きく息を吸うと、自分の襟元を引きちぎり、若葉のベッドへ一歩、また一歩と近づいてきた。 「樹……」 若葉が言葉を発する前に、突然体が重くなった。そして唇に、あたたかいものが押しあてられる。 彼女の瞳が、ぐっと見開かれた。必死で樹を突き放そうとするが、逆に手首を掴まれ、頭の上で押さえつけられてしまった。 「最低!離して!」 若葉は唇を固く閉じ、必死に首を振って樹のキスから逃れようとする。 だが、力では所詮、男には敵わない。必死にもがく彼女の姿は、樹の目に……拒んでいるどころか、誘っているかのように映ってしまった。 樹の口の端に笑みが浮かぶ。そしてもう片方の手で若葉のあごを掴むと、無理やり自分と目を合わせさせた。 「若葉。俺のことが好きだから、お前は俺と結婚したんだろ?でも、俺は泉を見捨てるわけにはいかないんだ。 だから、お前に俺の子どもを産ませてやるよ。その子に俺のすべてを相続させれば、お前たちの生活は一生安泰だからな。 そうすれば……お前も俺に薬をくれるだろ!」 樹は若葉の服に手をかけ、一気に引き裂く。 襟元に突き刺さる突然の冷たさに、若葉の体はびくっと震えた。でも、その寒さも、心の冷え込みには到底かなわない。 樹のキスがだんだん下へと移っていくのを見て、若葉は堪えきれずに、涙をこぼした。 でも、彼女の悔しさも、苦しみも、絶望も、樹の目にはまったく映らない。彼が考えているのは、ただ泉を助けることだけ。 猛烈な吐き気と屈辱感がこみ上げてくる。若葉は唇を強くかみしめ、もう一度必死でもがいたが、樹の力にはやはり敵わなかった。 もうだめだ、と彼女が絶望しかけたそのとき、すぐそばから悲鳴が聞こえた。 樹の動きがぴたりと止まる。 樹と若葉が同時に悲鳴が聞こえた方を向くと、そこには泉がいた。ショックを受けたようで、彼女は泣きながら病室を飛び出していった。 樹はほとんど反射的にベッドから飛び降りる。そして、泉が去った方へと一目散に追いかけていった。 もし彼が一度でも振り返っていたなら……若葉が真っ青な顔をしていることに気づいただろう。そして、手術したばかりの足の傷も開き、ズボンがほとんど血で赤く染まっていることにも。 若葉は足の激痛に耐えながら、ナースコールへと必死に手を伸ばす。 唇を固くかみしめ、残っている最後の力を振り絞り、力いっぱいボタンを押し込んだ。 ナースコールの音が鳴り響くと同時に、若葉は完全に意識を失った。 傷口が圧迫されて大出血を起こしたせいで、一時的に危篤状態に陥ってしまった。 医師たちの懸命な治療により、若葉はなんとか死の淵から戻ってこられた。 どれくらい眠っていたのだろうか。長い眠りから覚めた若葉は、喉がからからに乾いていた。しかし、ベッドの横のテーブルには、コップ一杯の水さえ置かれていなかった。 仕方なく、彼女はゆっくりと車椅子に乗り込む。そして自動販売機に向かおうと車輪を漕いだ。ふと、泉の病室を通りかかったとき、樹の姿が見えた。 彼はそこに座り、スープをふーふーと冷まして泉の口元へ運んでいる。そして、彼女の口の端についたスープを、優しく拭ってあげていた。 その光景を見て、若葉は16歳の頃のある記憶を思い出した。 不良に殴られた樹は肋骨を3本も折っていたし、手には10センチ以上の切り傷があって、足もナイフで貫かれていた。それなのに彼は、若葉の大好きな料理を作って、優しく食べさせてくれた。 あの頃の樹は、すごく優しくて、思いやりにあふれていた。 しかし、残念なことに自分の知っている樹は、もう過去のなかにしかいないのだった。 若葉の口元に、自嘲するような笑みが浮かぶ。彼女は首を振ると、スマホを取り出して樹にメッセージを送った。 【薬あげてもいいよ】 【そのかわり、河野家の金庫にあるコーラルの指輪と交換ね】 第7話 樹の行動は早かった。 薬が届くその日に、コーラルの指輪はもう若葉の目の前にあった。 フェード素材の箱に入ったコーラルの指輪は、長いあいだ人の手に触れていなかったせいか、本来の輝きを失っていた。しかし、かすかに残るその光沢から、持ち主がどれほど大切にしていたかが伝わってくる。 若葉は震える手で、そのフェードの箱を手のひらに乗せる。そして、そっと指輪をなでていると、いつのまにか涙がこぼれ落ちていた。 そばに立っていた樹が、肩を震わせる若葉の姿を不思議そうに見て、理由を尋ねようと口を開きかけたそのとき、看護師が慌てて部屋に駆け込んできた。 「小島さんに先ほど投与した薬なんですが、ひどい拒絶反応が出ています!」 「なんだって?」 樹の瞳孔が微かに開く。言葉にできない不安をその目に浮かべ、彼は勢いよく振り返ると若葉の前までつかつかと歩み寄ってきた。 「若葉!俺はお前の要求をのんだはずだ。なのに、どうしてまだ泉を苦しめるんだよ! 薬にいったい何を入れた?どうして泉の体に拒絶反応が?」 顔を上げた若葉の目は赤くなっていた。その目を見て、樹はなんだか胸が締めつけられた。 「樹。私、卑怯な真似はしないから」 彼女がそう言い終わるや否や、また別の看護師が駆け込んできて、樹の腕をつかんで外へ引っ張っていった。 「小島さんが苦しさに耐えられなくて、飛び降りようとしてます!早く来てください!」 樹は息をのみ、二階のバルコニーへと夢中で向かう。 若葉はもともと行くつもりはなかった。しかし、ベッドに横になった途端、何人かの女が病室に押し入ってきて、抵抗する彼女を無理やりバルコニーまで引きずっていったのだった。 着いたとたん、甲高い泣き叫ぶ声が聞こえてきた。 泉がバルコニーの縁に立っている。目を真っ赤に充血させ、若葉を指さしながら、声を震わせる。 「若葉さん、私があなたに何かした?何もしてないわよね?なのに、どうして私をこんな目に?そんな私に死んで欲しいの? 私の命なんてどうでもいい。殺したいなら好きにすればいいわ。でも、どうしておばさんから頂いたプレゼントまで奪うの?あれは私の一番の宝物だったのに!」 泉が泣き叫ぶその声は、甲高く周りにいた患者や家族たちにもはっきりと聞こえていた。 周りの人たちは泉が指差す女たちに押さえつけられている若葉を見て、あからさまに軽蔑の表情を浮かべている。 若葉は目を細めた。怒りで呼吸が荒くなっていく。 腕を伸ばして必死にもがいた。しかし、女たちの爪が肉に食い込み、骨の髄までしみるような痛みが全身を駆け巡る。 若葉は思わず息をのんだ。その瞬間、自分を押さえつけている女の一人に、首にかけていた指輪のネックレスをぐいっと引きちぎられた。 首筋がチェーンで切れてひりひりと痛むが、若葉は構わずにネックレスを取り返そうと必死に抵抗する。 しかし、女たちに腕をがっちりとつかまれてしまった。 その隙に泉が腕を振り上げ、ネックレスを二階から投げ落とす。 コーラルの指輪は地面に落ちて、パリンッ、と小さな音を立てて砕けた。 若葉はカッと目を見開き、思わず叫び声を上げる。 そして、女たちを振りほどき、死に物狂いで二階から駆け下りると、若葉は地面に這いつくばりながら指輪の破片を探した。 若葉は割れたかけらをそっと拾い上げる。でも、どうしても元の形には戻らなかった。 「たかがコーラルの指輪だろ? それに指輪が壊れただけのお前とは違って、泉はお前のせいで苦しんで、飛び降りようとまでしたんだぞ」 「壊れただけ……だって?」 樹の言葉に、若葉は体の芯まで冷えるのを感じた。 彼女はゆっくりと振り返り、かけらを握りしめた手を男のほうへ高く突きつける。 「樹。これは昔、私の母がおばさんにあげたものなの。私の祖母から母への、嫁入り道具だったのよ! それに、これは母のたった一つの形見だったのに!」 若葉の言葉に、樹の体が強張った。 目にいっぱいの涙を浮かべ、今にも壊れてしまいそうな若葉を見つめていると、樹の胸の奥でまたあの奇妙な感覚が湧き上がってきた。 「お、同じものを……お前に買ってやるよ!それで良いだろ?」 「この指輪は、世界に一つしかないの」 若葉の目には、あからさまな軽蔑の色が浮かんでいた。指輪のかけらが食い込んだ手のひらからは血が流れ、指の間を伝ってゆっくりと滴り落ちる。 しかし、彼女は少しも痛みを感じなかった。なぜなら、手の痛みなんかよりも、心の痛みのほうが何倍も痛かったから。 おそらく、若葉の瞳に浮かんだ失望が、樹の胸にわずかな後悔を芽生えさせたのだろう。彼が何か言おうと口を開いたその瞬間、若葉の凍りつくほど冷たい声が耳に届いた。 「樹。私はね、やられたらやり返す性分なの。 このままじゃ絶対にすまさないから!」 その日の夜、若葉はさっそく人を手配して泉に「お返し」をした。 第8話 廃倉庫のソファで、若葉は脚を組んでいた。そのきれいな瞳は、怒りに燃える泉をじっと見つめている。 「あなた、ずいぶん腕が立つらしいわね。前に樹を助けたこともあるんでしょ? だからと言ってはなんだけど、今日はうちのボディーガードたちの相手でもしてもらえないかしら?彼らの腕がなまってないか、確かめてあげてよね」 若葉は座り直し、楽な姿勢をとった。しかし、その視線は倉庫の入り口に向けられたまま。 その視線の先には、早足で向かってくる人影がいた。しかし、若葉は気にすることなく、ボディーガードに合図を送る。次の瞬間、泉はリングの中に突き飛ばされた。 筋肉質なボディーガードが、容赦なく拳を振るい、避けきれない泉は、床に叩きつけられている。あっというまに口の端から血が流れた。 「泉!」 血相を変えた樹が、叫びながらリングに上がってきた。そして泉を抱きかかえ、震える指で彼女の口元の血を必死に拭う。 「樹、私は大丈夫……でも、私はなにも悪いことしてない…… だから、たとえ若葉さんにひどい目に遭わされても、あなたと別れるつもりはないよ」 泉の言葉に、若葉の心がぐらつく。思わず樹に目をやると、彼と視線がばっちりあってしまった。 その瞳にあったのは怒りと失望。それは、若葉の心をきつく締め付ける。 「泉、俺だってお前と別れない。絶対に!」 樹は歯を食いしばりながら、その言葉を口にした。 そして、泉を抱き起こすと、若葉を睨みつける。「泉が指輪を壊したから怒ってるんだろ?だったら、俺が代わりに罰を受ける」 若葉は何も言わなかった。ただ、体がわずかに緊張した。 樹はケンカに弱い。以前、自分を助けようとした時には、殴られ肋骨を何本も折られたし、足だって危うく動かなくなるところだった。 それなのに今、彼は泉のためなら命も惜しくないらしい。 若葉の指先に力がこもる。若葉が口を開こうとしたその時、泉が樹の手を握り返した。その声は、愛情にあふれていてとても優しい。 「樹、私も一緒よ。死ぬ時だって、絶対に一緒だから」 甘い言葉を交わして見つめ合う二人。その光景に、若葉の胸の痛みがまたぶり返してくる。彼女は眉をひそめ、ボディーガードに手招きした。 「どうやら一緒に死にたいらしいから、その望みを叶えてあげて」 その言葉を合図に、ボディーガードたちが一斉に二人を取り囲む。 樹と泉は、お互いをかばい合った。相手への致命的な一撃を、自分の体で受け止める。二人はきつく抱きしめ合い、背中で暴力から耐えていた。 ボディーガードたちが無理やり引き離そうとしても、なお互いを放そうとしない。それを見ていたら、若葉は急にすべてがどうでもよくなった。 本当に、何もかもがくだらない。 若葉は深いため息をつき、立ち上がる。そしてボディーガードたちに手を振ると、さっさと外へ出て行ってしまった。 廃倉庫の入り口に立っても、耳の奥にはまだ泉を心配する樹の声が残っていた。 しかしもうこの瞬間には、不思議と胸の痛みはもう感じなくなっていた。 …… 若葉は車で家に帰ると、すぐに自分の荷物をまとめはじめた。 服をまとめ終わったちょうどその時、ドアが乱暴に開けられた。樹がふらつきながら近づいてきて、いきなり若葉を抱きしめる。 樹の体から漂う生臭い血の匂いに、若葉の体は一瞬固まった。 「い、泉……痛い」 その一言で、若葉の頭の中は真っ白になった。しかし、すぐに乾いた笑みを浮かべると、自分にすがりつく男の体を無情に突き放し、そのまま部屋を出ていった。 しばらくして意識を取り戻し、部屋から出た樹は床に置かれた荷物に気がつく。 嫌な予感が、また樹の胸をざわつかせた。彼は慌てて若葉に駆け寄り、荷物を詰める彼女の腕を掴む。 「若葉!泉はもう十分償ったはずだ。なのに一体、何がまだ不満なんだ?」 しかし、若葉は何も言わずにその手を振りほどき、黙ったまま荷物をスーツケースに詰めていく。 樹はこみ上げる怒りをなんとか抑えようとし、眉を顰める。しかし、ついに我慢できなくなり、唐突に若葉を担ぎ上げると、そのまま車に放り込んだ。 「指輪のことで怒ってるんだろ?だったら、今から新しい指輪を買いに行くぞ!」 第9話 車は、街で一番大きいデパートに止まった。 樹は、ほとんど若葉を引っ張るようにしてアクセサリーショップに入る。そして店員に山ほどアクセサリーを出させ、一番大きなものを選んで彼女に差し出した。 「お前は昔、こういう大きくてギラギラしたダイヤが好きだっただろ?これにしよう。すごく似合うから」 しかし、若葉は相変わらず黙ったまま、自分のためにアクセサリーを選ぶ男を、ただ冷たい目で見つめていた。 しかし、会計の時に樹が二倍の金額を払っているのを、若葉はふと目にした。 それはつまり、樹がアクセサリーを二つ買ったということだ。 もう一つを誰に贈るのかは、言うまでもないだろう。 「私のご機嫌とりのふりをして、本当はあの女を喜ばせるプレゼントを買いに来たってわけね。 樹、私がそこまでの馬鹿だと思ってるの?」 若葉はプレゼントの箱をバンッとテーブルに叩きつける。「あんな人と、おそろいの物なんていらないわ」 彼女はそう言い残し、大股で歩いて出ていった。急いで後を追った樹だったが、もう少しで若葉に追いつくというところで、二人のスマホが同時に鳴った。 河野家の出荷物に、トラブルが発生したらしい。 彼らは急いで車を港に走らせた。車を降りると、日和と泉がそれぞれ部下を連れてにらみ合っているところだった。 泉は全身傷だらけで、白い服は血で真っ赤に染まっている。なんとか立っていた泉だったが、樹がそばに来た途端、くずれるように彼の腕の中に倒れこんだ。 「樹。朝早くに誰かが荷物を奪いにくるっていう連絡があって……でもあなたに電話が繋がらなかったから、私一人で駆けつけたの。 でも、この人たちは話し合いにまったく応じてくれなくて、挙げ句の果てには、いきなり荷物を奪おうとしてきたのよ。だから、会社の損害を出さないために、私は戦うしかなかった…… でも大丈夫だよ、樹。あなたのためなら、私は、なんだってできるから。たとえこの命を失うことになったとしても、かまわない」 言い終わると同時に、泉はごふっと血を噴き出した。 樹の顔色が一瞬で変わり、泉を抱く腕には思わず力が込められる。そしてすぐに病院へ運ぼうとしたが、泉が彼の腕を掴んでそれを止めた。 「樹、まだ行けない……だって、荷物が!」 しかし、泉の言葉が終わるや否や、日和が一歩前に出る。「小島さん。うちの警備員はあなたに少し触れただけです。なのに、なんでそんな大怪我になるんですか? それに、そもそもあなたが和田グループの内部の人間と手を組んだんじゃないですか。この積み荷は、もともと和田グループのものなのに」 泉の目が一瞬泳いだ。しかし、すぐに樹の腕の中から身を起こし、日和に言い返す。 「何でたらめなこと言ってるの!あなたたち和田グループが、私たち河野グループの荷物を盗もうとしたんでしょ!」 日和と泉は一歩も引かず、激しい言い争いになった。 言い争っている二人の肩越しに、若葉は泉の後ろに立つ樹を見つめていた。 樹の目は、ただまっすぐに泉に向けられている。そして日和が泉を押した瞬間、その心配そうな眼差しは、怒りの炎へと変わった。 樹はすぐに前に歩み出た。そして泉の腕を引いて、自分の後ろに隠すように庇う。 日和をきっと睨みつけた。「土下座しろ! 泉に謝れ!」 第10話 「樹。まだ何もはっきりしてないし、日和さんがやったって証拠もないのに、どうして謝らせようとするの?」 若葉も一歩前に出て、日和を庇うように自分の後ろに立たせる。 自分以外の人間を庇う若葉を見て、樹の怒りは一瞬で燃え上がった。その顔は恐ろしいほどに強張り、声も氷のように冷えきっている。 「若葉、泉がどんなにひどい目に遭ったかお前には見えていないのか?」 「それは、あなたの同情を引くためのただの演技よ」 若葉はまったく怯むことなく、顔を上げて樹の目を見つめ返した。ぶつかる二人の視線の間には、火花が散っている。 二人の間の空気がどんどん険悪になっていくのを見て、日和は慌てて前に出た。 「社長。私のせいで、旦那さんと揉めないでください」 そう言いい、日和はその場に跪こうとした。しかし、若葉はその腕を掴んで、無理やり引き起こす。 「私はあなたを信じてるから」 若葉は日和に向かって口の端を少し上げた。しかし、樹の方を向いた途端、その顔から笑みは一瞬で消える。 「樹。この5年、ずっと私のそばにいてくれたのは日和さんなの。会社の仕事をこなしてくれて、一緒にいろんな場所へ出張に行ったし、取引先との接待だってしてくれた。 彼女がいなかったら、私はとっくにこの業界のずるくて狡猾な大人たちに食い物にされてた。だから、私は彼女を信じるの! 小島には裏があるわ。大怪我をしたふりをして同情を引き、あなたに信じ込ませただけ。そうやって、私の会社の社員と手を組んでいたことを隠しているのよ」 若葉が言い終わるや否や、樹は冷たく鼻で笑った。そして、怒りで唇を振るわせながら、言葉を絞り出す。 「若葉、なんでお前の秘書が嘘をついてないって言い切れるんだ?この女が、お前からの信頼をいいことに、お前を騙してるって可能性は考えないのか? これまで、お前のために泉には散々我慢させてきた。だから、今回は何があっても、俺は必ず彼女のためにけじめをつける」 樹はボディーガードからナイフを受け取り、日和に向かってじりじりと歩みを進めてきた。 眉を顰めた樹が、ナイフを振り上げて日和に突きかかる。 しかし、一つの影が日和の前に立ちはだかった。 勢いをつけていた樹は、咄嗟の出来事に反応できず、ナイフはそのまま若葉の腕に突き刺さった。 生温かい液体が一気に飛び散り、顔にかかった瞬間、樹は焼けつくような痛みを感じた。 「樹、言ったでしょ?私は彼女を信じるって」 若葉は痛みで顔を真っ青にしながらも、必死に日和を後ろに庇い続けた。 若葉のまっすぐな瞳に、樹は心を動かされた。しかし、腕に刺さったナイフには触れられず、ただ慌てて彼女を病院へ連れて行こうとした。 しかし、二人が動き出す前に、すぐ後ろの倉庫が大きな音を立てて爆発した。そして、炎があっという間に燃え広がる。 しかも、爆発音が立て続けに響き、徐々に近づいてきた。 樹は眉をしかめ、若葉をかばって逃げようとしたが、その時泉の悲鳴が聞こえた。 はっと振り返ると、泉が地面にへたり込んでいるのが見えた。すぐそばでは積荷が燃えていて、その炎が彼女の体に届きそうだった。 一瞬躊躇った樹だったが、若葉に「ここで待ってろ」とだけ言い残し、泉のいる方へ全力で走っていった。 しかしその時、若葉の周りにも炎が急速に広がり、彼女を包み込もうとしていることに、樹はまったく気づいていなかった。 どうすることもできなかった若葉は、とりあえず腕を押さえながら近くの倉庫へと急いで駆け込んだ。 燃え盛る炎の向こうで、泉を強く抱きしめる樹が港から急いで逃げていくのが見えた。一方、自分は高温と濃い煙に巻かれ、意識が朦朧としているのだった。 樹は泉を安全な場所まで運ぶと、大急ぎで港へと引き返した。 彼は焦りながら、必死で若葉の姿を探し回る。 するとようやく、ある倉庫の入口で意識を失って倒れている彼女を見つけた。樹が喜んで駆け寄ろうとしたその時、目の前の倉庫が、轟音とともに爆発した……