心に残る人を選んだ夫の、その後

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心に残る人を選んだ夫の、その後

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離婚が決まったその日、私は結婚したときに着ていた服だけを身につけたまま、家を出た。 住むところも、車も、貯金も、子どもたちも。全部、高...

Chương (1)

第1章

離婚が決まったその日、私は結婚したときに着ていた服だけを身につけたまま、家を出た。 住むところも、車も、貯金も、子どもたちも。全部、高遠慎也(たかとお しんや)に任せて。 慎也は意外そうに私を見て、鼻で小さく笑った。 「本気か?三人とも、お前が育ててきた娘だろ。それも置いていくって? 本当に何もいらないなら、養育費も請求しない。それでいいんだな」 私は迷うことなく離婚協議書に署名し、静かに答えた。 「ええ。それで構わないわ」 慎也はしばらく黙ったまま書類を見つめていたが、やがてゆっくりと名前を書いた。 「……もし後悔したら、もど――」 私は軽く手を振って、その先を言わせなかった。そして振り返ることなく、その場を後にした。 慎也は前から、私が金と立場目当てで結婚したのだと思い込んでいた。子どもたちで自分を縛ろうとしたのだ、とまで。 別に、それでもいい。 私の遺体を引き取ることになったそのときになれば、きっとようやく分かるはずだから。 第1話 離婚が決まったその日、私は結婚したときに着ていた服だけを身につけたまま、家を出た。 住むところも、車も、貯金も、子どもたちも。全部、高遠慎也(たかとお しんや)に任せて。 慎也は意外そうに私を見て、鼻で小さく笑った。 「本気か?三人とも、お前が育ててきた娘だろ。それも置いていくって? 本当に何もいらないなら、養育費も請求しない。それでいいんだな」 私は迷うことなく離婚協議書に署名し、静かに答えた。 「ええ。それで構わないわ」 慎也はしばらく黙ったまま書類を見つめていたが、やがてゆっくりと名前を書いた。 「……もし後悔したら、もど――」 私は軽く手を振って、その先を言わせなかった。そして振り返ることなく、逃げるように家を飛び出した。 すると珍しく、慎也が後を追ってきた。 「そんなに急いでどうする。外は冷えるだろ。その格好じゃ、厚手のコートも着てないじゃないか」 そう言って、彼は手にしていた毛皮のコートを差し出してきた。けれど私は、首を横に振る。 「あなたのお金で買ったものだから。受け取らない」 慎也は数秒、言葉を失ったように立ち尽くし、その目に苛立ちと、ほんのわずかな痛みを浮かべた。 いつもなら、もうとっくに不機嫌になって怒鳴っている。でも今回は、珍しく声を落とした。 「さっきの話、まだ終わってない……もし後悔したら、戻って来い」 そう言うと彼は、私の手にひんやりとした平たい金属を押し込んできた。 「お前の願いコインだ」 わざと私の手のひらをつまみ、すべてがまだ自分の掌の上にあるとでも言いたげな態度だった。 私は、何年も目にすることのなかった願いコインを強く握りしめ、胸の奥に複雑な感情が渦巻くのを感じた。 結婚したばかりの頃、慎也は特注の願いコインを百枚作り、私への「ご褒美」だと言っていた。 あの頃はまだ愛情も深く、私は毎月一枚ずつコインを受け取り、そのたびに一つ願いを叶えてもらっていた。 けれど、いつからか――どれほど甘えても、機嫌を取っても、二度とコインをくれなくなった。 ここ二年、私は以前と変わらないつもりで彼に尽くしてきた。 それでも、願いコインは一枚も手に入らなかった。 私は何度も頼み込んだ。願いコインで、たとえ一度だけでも、彼と触れ合いたかったから。 慎也はもう長い間、私を近づけようとしなかった。私たちの関係も、日を追うごとに冷え切っていった。 どれだけ努力しても、慎也は頑としてコインを渡さなかった。 それなのに離婚することになって、こんなにも簡単に一枚手に入るなんて。 ……本当に、笑えない話だ。 家を出て間もなく、使用人たちのLINEグループが一気に騒がしくなった。 何人ものメンバーが、次々と私をメンションしてくる。 「奥さま、長女がお腹を痛がっています。お薬は何を飲ませればいいでしょうか?」 「奥さま、次女がピアノに水をこぼしてしまって。アフターサービスの連絡先は?」 「奥さま、三女は明日の早期教育クラス、行かせますか?」 「奥さま、旦那さまが外でお酒を飲まれています。二日酔い対策のスープは……」 …… 私は小さくため息をつきながらも、一つひとつ丁寧に返事をした。 最後に、こう添えた。 「慎也さんとは、近いうちに離婚します。これからのことは、皆さんにお任せすることになります」 私は家で威張ることもなく、使用人たちとも普段から関係は悪くなかった。 すぐに、諭すような返事がいくつも届く。 「ちょっとした喧嘩でしょう。三人も可愛いお嬢さんがいるのに、離婚だなんて」 「前みたいに慎也さんに甘えて、少し折れれば大丈夫ですよ。今までも、そうやって乗り越えてきたじゃありませんか」 皆、今回もこれまでと同じだと思っていた。私が頭を下げて妥協すれば、また元に戻るのだと。 けれど今回は、本当に違った。 ふと気づいたのだ。もう、これ以上愛し続ける理由がないのだと。 「今回は本当です。これからは、三人の子どもたちのことを、どうかよろしくお願いします」 グループは静まり返った。 しばらくしてから、ようやく一人が言葉を送ってきた。 「奥さま……私たちは、ずっとお二人を見てきました。あんなに仲が良かったのに、どうしてここまで来てしまったんですか?」 私は、苦く笑う。 もう、この結婚には――引き返せる余地が、残っていなかった。 第2話 あの頃、慎也はまだ起業したばかりで、私怨による悪質な嫌がらせを受けていた。 その日は、私が大学を卒業し、初めて社会に出た日でもあった。 見過ごすことができず、私は警察に通報し、相手に向かってバッグを投げつけ、慎也の手を引いて走り出した。 相手は数で勝っていた。警察が来る前に、私は慎也をかばう形で――三度、刃物に斬られた。 病院に運ばれたあとも、重傷だったのは慎也のほうだった。それでも彼は無理を押して、ひと月ものあいだ、私のそばを離れなかった。 若かった私たちは、あっという間に恋に落ちた。 慎也の事業が軌道に乗り、やがて私たちは結婚した。 ほどなくして長女が生まれた。慎也は私以上に喜び、「必ず、君と子どもに不自由のない暮らしをさせる」と言ってくれた。 彼は仕事に生きる人だった。だから私は、表に出ることなく、家庭を守る道を選んだ。 社会をよく知らないまま結婚した私を、周囲は笑い、「そんな結婚、長くは続かない」と口にした。 それを知った慎也は怒り、そういう人間たちと距離を置き、家の財産をすべて私名義にするとまで言い出した。 少しでも時間ができれば、必ず早く帰宅し、私と娘に寄り添ってくれた。 次女、三女が生まれても、私たちの関係は変わらなかった。 けれど、二年前からだ。 慎也は少しずつ帰りが遅くなり、「仕事」を理由に、家を空けることが増えていった。 私たちの間の温度は急速に下がり、私は、彼の心が離れていくのをはっきりと感じていた。 何度か、こっそり後をつけて確信した。 彼が「残業で帰れない」と言う夜、そこには必ず、別の女がいた。 慎也が昔から、心のどこかで手放せずにいた存在。私よりも先に、彼の感情を占めていた女。 出張と称して家を空ける日々も、実際はその女と過ごすための口実にすぎなかった。 調べて、初めて知った。その女――高橋真由(たかはし まゆ)は、慎也の取引先に関わる人物で、海外での結婚生活を終え、国内に戻ってきたのだという。 実は、真由が帰国して間もない頃、私は一度、彼女と顔を合わせている。 あの日、私は慎也に昼食を届けるため、会社を訪れた。 当時、彼は胃を悪くしていて、私は毎日、消化のいい料理を作って持って行っていた。 真由は慎也のオフィスにいて、彼は何のためらいもなく、こう言った。 「昔からの知り合いだ。海外で経験を積んできて、これからは会社の中核を任せる」 私は疑わなかった。夫婦の間には、十分な信頼があると信じていたからだ。 けれど彼は、最後にその信頼も、愛情も裏切った。 八年の結婚生活は、最初から、私が勝てなかった相手の前で、あっけなく終わった。 私たちが初めて激しく衝突したのも、真由の存在がきっかけだった。 あの夜は、結婚記念日だった。慎也は、必ず帰って一緒に食事をすると約束していた。 私は料理を整え、三人の娘も、可愛いワンピースを着て、食卓で待っていた。 ――それでも、夜が更けても、慎也は戻らなかった。 ビデオ通話をかけると、かなり時間が経ってからようやく出て、苛立った声を上げた。 「何度も連絡するな。ただの記念日だろ。仕事中だ」 けれど、乱れたシャツのボタンと、首元に残る口紅の跡が、すべてを物語っていた。 通話を切った私は、そのまま会社へ向かい、二人をオフィスで問い詰めた。 私は真由の襟元をつかみ、平手を振り下ろそうとした。 慎也が、私の手を強く掴んだ。 「雫。真由に触れるな。指一本でも傷つけたら、三人の娘には二度と会わせない! それに、妹の手術費も自分で何とかしろ」 真由の余裕に満ちた視線の中で、私は屈辱を噛みしめ、手を引いた。 両親は早くに亡くなり、妹は、私にとって唯一の家族だった。 家計はすべて慎也に握られていた。 彼が金を出さないと言えば、高額な手術費を、私は用意できなかった。 それ以降、「仕事」は彼の日常になった。 理由を問いただすと、彼は冷たく私を見下ろし、言い放った。 「真由とは話が合う。知識もある。それに比べてお前は家庭にいるだけだろ。子どもの世話以外、何ができる?」 けれど彼は、忘れていた。 かつて、仕事を辞めて家庭を守ってほしいと、私に頼み込んだのは――他でもない、彼自身だったことを。 第3話 あの日のあと、私は重い病に倒れた。夜中に喀血し、そのまま意識を失った。 さすがに慎也も動揺し、最良の医療チームを集めて、私の治療にあたらせた。 「雫……頼む、元気になってくれ。よくなったら、これからは全部、お前の言う通りにする。ちゃんと、一緒に暮らそう」 その後しばらく、慎也は確かに態度を改めた。 真由も会社を離れ、私たちの生活は、まるで以前に戻ったかのようだった。 三人の娘たちも、父親が家にいる時間が増えたことを、素直に喜んでいた。 けれど、それは長くは続かなかった。 数日前、妹の付き添いで病院に行った帰り道、私は思いがけない光景を目にした。 新しくできた人気のレストラン。そこに、慎也は三人の娘を連れ、真由と並んで座っていた。 大きなガラス越しに見えたのは、慎也と真由が、口移しで料理を食べさせ合う姿だった。 向かいに座る三人の娘が、はしゃいだ声を上げる。 「パパとママ、恥ずかしいよ!」 その瞬間、頭を強く殴られたような衝撃が走った。 私が育ててきた娘たちが、他の女を「ママ」と呼んでいる。 外は、いつの間にか激しい雨になっていた。私は、どうやって家に帰り着いたのか、覚えていない。 やがて三人の娘が戻ってきた。 ずぶ濡れの私を見る目には、はっきりとした軽蔑が浮かんでいた。 「どうして、ママって人によってこんなに違うの?ちゃんとしてる人もいれば、みっともない人もいるよね」 以前にも、似たような言葉を聞いたことがあった。そのときは、学校の保護者の話だと思い、深く考えなかった。 今になって分かった。この子たちは、私と真由を比べていたのだ。 そして――もう、私を選んではいなかった。 その事実は、慎也の裏切りを知ったときよりも、ずっと深く、胸をえぐった。 私は涙をこらえ、かすれた声で言った。 「私は、あなたたちの本当の母親よ。もし、他の人を『ママ』と呼ぶなら……もう、私をそう呼ばなくていい」 心のどこかで、まだ、わずかな期待を抱いていた。けれど、返ってきたのは容赦のない答えだった。 長女は、嫌悪を隠さず私を睨んだ。 「またその手?どうせ、かまってほしいだけでしょ。だからパパに嫌われるんだよ」 次女は鼻で笑った。 「呼びたくもないし、別に困らないし。私たちには、もう新しいママがいるもん」 末っ子は、状況をよく分からないまま、姉たちに合わせるように言った。 「お姉ちゃんが呼ばないなら、私も呼ばない」 目の前に並ぶ三つの顔は、どれも慎也によく似ていた。 私は思わず、力なく笑ってしまった。 全身ずぶ濡れのまま、寒さに震えながら、私は何も言わず、洗面所へ向かった。 慎也は娘たちを家に送り届けると、そのまますぐに出て行った。 「今夜は徹夜で仕事だ」 そう、使用人を通じて伝えさせただけだった。 彼に電話をかけ、問いただす気力は、もう残っていなかった。 その夜、私は再び喀血し、意識を失った。 朦朧とする中で、使用人たちが慌ただしく動き回る気配がした。 誰かが、慎也に電話をかけている。 「ご主人!奥さまが、また血を吐いて倒れました。すぐ戻ってきてください!」 一瞬の沈黙。 受話器の向こうから、真由の声が聞こえてきた。 「慎也、早く来て。まだ、この新しいの試してないでしょ?」 慎也は、苛立った声で怒鳴った。 「雫のやつ、また何の芝居だ。わがままにも限度があるだろ。 放っておけ。本当に死ぬかどうか、見てやる」 結局、私は使用人に付き添われ、救急搬送された。 慎也が病院に現れたのは、夜が明けてからだった。 彼の首元には、隠そうともしない赤い痕が残っていた。 それはまるで、誰かが誇示するために刻みつけた印のようだった。 私がその痕に視線を向けた瞬間、慎也は苛立ち、私の腕から点滴の針を乱暴に引き抜いた。 「雫、いい度胸だな。こんな芝居まで打って、俺を騙す気か? 同情を引けるとでも思ったか。こんな真似をされるほど、ますますお前が嫌になる。 そこまで言うことを聞かないなら、妹の治療費は、ここで打ち切りだ」 そう言って、彼はスマホを取り出し、秘書に電話をかけた。 私は、息が詰まるほど焦った。 第4話 「慎也……お願い、やめて!妹の手術は、まだ終わったばかりなの。今ここで治療を止めたら……命に関わる」 彼は、妹が私にとってどれほど大切な存在か、分かっていた。それでも私を罰するために、治療費を止めた。 慎也は私の懇願を聞き流し、電話を切ると、そのまま会社へ向かった。 私は体から力が抜けたまま、それでも無理に立ち上がり、彼を追って会社へ行った。妹を救えるのは、彼しかいなかった。 けれど、オフィスに足を踏み入れた瞬間、私は現実を突きつけられた。 真由が、そこにいた。すでに会社を離れたはずの彼女が、今度は副社長として、当然のように席に座っていた。 副社長のポストは、これまでずっと空席だった。 かつて慎也は、私が家庭に残り、彼を支えることへの感謝として、こんな約束をしていた。 「副社長の席は、ずっと雫のために取っておく。三人が大きくなったら、会社に来ればいい」 その場所に、今、別の女が座っている。 慎也は私に気づき、一瞬だけ、表情をこわばらせた。 その直後、真由は机を回り込み、慎也の膝に腰を下ろした。 慎也は嘲るように、私を見た。 「妹の治療を続けてほしいって?あの日、お前が邪魔したせいで、俺たちの時間は台無しだった。 俺に頼むより、真由に謝ったほうが早いんじゃない?彼女が許せば、俺も考えてあげる」 私は唇を強く噛み、口の中に血の味が広がる。 慎也は、獲物を前にした捕食者のように、黙って私の反応を見つめていた。 迷いは、一瞬だけだった。 私は床に膝をつき、真由の足元に、額を打ちつけた。 「……許してください!どうか、許してください! お願いします……」 その姿を見て、真由は声を上げて笑った。 そして私の目の前で、慎也の手を取り、自分の胸元へと導いた。 慎也の目が、一気に熱を帯びる。「……悪い女だ」 低く、甘ったるい声だった。 その瞬間、私の中で、何かが完全に終わった。 十分に笑ったあとで、真由は思いついたように言った。 「そうね。面白かったから、条件を出そうか。 ここで千回、ちゃんと頭を下げたら、許してあげる」 私は歯を食いしばり、床に額を打ち続けた。 額から流れ落ちる血が涙と混ざり、床に滲んでいく。 やがて、全身から力が抜け、意識が遠のきそうになった。 「……つまらないな」 慎也が、興味を失ったようにつぶやいた。 そして秘書に指示し、病院の口座へ送金させた。 私は何も言わず、静かにオフィスを出た。 ドアを閉める直前、慎也が、意外そうな顔で私を見ていた。 そのとき、私の頭にあったのは、ただ一つだけだった。 私がどんな屈辱を受けてもいい。妹が、生きてくれさえすれば。 離婚を決め、家を出たあと、私は、あのコインを捨て、病院で妹の世話を続けた。 けれど、容体は思わしくなかった。手術の経過も、厳しいものだった。 そして離婚から一週間後。 妹は、突然、私の元を去った。 この世で、私を繋ぎ止めていた唯一の存在が、消えた。 生きる理由が、どこにも見当たらなかった。 妹を火葬したその日、私は遺骨を抱え、故郷へ戻った。 人気のない古い家で、妹の骨壺を、両親の隣に置いた。 未練はなかった。 私は、静かに火を放った。すべてを、終わらせるために。 翌朝早く、慎也のスマホが鳴った。 「高遠慎也さんのスマホでしょうか。こちら、警察です。 昨夜、高遠雫(たかとお しずく)さんが、放火による自殺を図りました。至急、こちらへお越しください」