百の贅沢より、君がくれる温もりがいい

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百の贅沢より、君がくれる温もりがいい

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「北条さん、妊娠6週目です。ただ……体があまり強くないようで。お腹の子をどうするか、考えられる時間は2週間しかありません」 北条真奈美(...

Chương (1)

第1章

「北条さん、妊娠6週目です。ただ……体があまり強くないようで。お腹の子をどうするか、考えられる時間は2週間しかありません」 北条真奈美(ほうじょう まなみ)はもう付き合って五年になる恋人、植田翔太(うえだ しょうた)のことを思い浮かべ、迷わず頷く。 「2週間後、手術をお願いします」 そのあまりにも迷いのない様子に、医師は少し驚いた。 「お相手の方とご相談などは……よろしいんですか?」 真奈美は寂しそうに笑って、首を横に振る。 かつては翔太と結婚を誓い合った。しかし、今ではその男、別の女との間に生まれる子を心待ちにしているのだった。しかも、出産は3ヶ月後とのこと。 第1話 「北条さん、妊娠6週目です。ただ……体があまり強くないようで。お腹の子をどうするか、考えられる時間は2週間しかありません」 北条真奈美(ほうじょう まなみ)はもう付き合って五年になる恋人、植田翔太(うえだ しょうた)のことを思い浮かべ、迷わず頷く。 「2週間後、手術をお願いします」 そのあまりにも迷いのない様子に、医師は少し驚いた。 「お相手の方とご相談などは……よろしいんですか?」 真奈美は寂しそうに笑って、首を横に振る。 かつては翔太と結婚を誓い合った。しかし、今ではその男、別の女との間に生まれる子を心待ちにしているのだった。しかも、出産は3ヶ月後とのこと。 相手の女はまだ学校を出たばかりの、世間知らずな純粋な子で、翔太が経営するホテルのレストラン部門で働く研修生だった。 「あの子は卒業したての頃のお前によく似てるんだ。だから、いじめられてるのを見ると放っておけない」 翔太はそう言った。 そして自分の翼でかばうように、徹底的に守っていた。 最初、真奈美は信じてしまった。 翔太があの女にどんどん夢中になっていくのを見るまでは。 翔太はあの女の誕生日を祝った。そして、これまでの23年分のプレゼントだと言って、高級車から家まで与えられるものは全て与えた。そのせいで、真奈美との記念日はすっかり忘れられていた。 また、あの女が卒業するときには、盛大に卒業祝いをした。ドローンで夜空に甘いメッセージを浮かべた。しかし、妊活の注射が原因で高熱を出した真奈美の見舞いに、病院へ来てくれることはなかった。 さらには、あの女が仕事で客を怒らせると、彼は優しく声をかけて慰めた。そのくせ、業界で有名なスターシェフである真奈美には、客へお茶を出させて、頭を下げるように言いつけたのだ。 そして今、あの女のお腹には翔太の子が…… 真奈美が家に帰ると、リビングの様子がすっかり変わっていた。いつも飾ってあった大好きなピンクのチューリップやひまわりが、真っ赤なバラに。そして、ソファには子どもっぽいぬいぐるみがたくさん置かれている。 使用人の大野翠(おおの みどり)がやって来て、「旦那様のご指示で、替えさせていただきました」と説明した。 しかし、真奈美は何も言わずに二階へと上がる。広くて明るい寝室を覗くと、翔太が使用人に指示して、壁に風景画を掛けさせているところだった。 壁から外されて隅に置かれているのは、真奈美と翔太がF国の海辺で撮ったツーショット写真。 真奈美が冷たい顔をしているのに気づくと、翔太は彼女の肩を抱き、笑顔で説明を始める。 「実は、恵の最近のつわりがひどいんだ。それで、シェアハウスでの暮らしを続けさせるのは心配だから、うちで暮らしてもらおうと思って。 でも、心配しないでくれ。子どもを産んだら、ちゃんと出て行ってもらうから」 真奈美は、何とも言えない表情で彼を見た。 「だからって、普通私たちの寝室に住まわせる?3人でひとつのベッドで寝るなんて、狭くないかしら?」 棘のある真奈美の言葉で、翔太の口元から笑みが消える。 「真奈美、俺がお前一筋だってことはお前も知ってるだろ?母さんがお前のことをよく思ってなくても、俺は他の女と結婚する気なんてさらさらなかったんだから。 それに、子どもができれば、母さんも俺たちの結婚を許してくれると思うんだ。でも、俺とお前の間には子どもが来てくれる気配がない。だから、恵の子どもが生まれたら、お前と俺の子どもだってことにするんだ。 そうすれば、お前は出産で苦しまなくてすむし、俺たちも結婚できる。な?悪い話じゃないだろ?」 真奈美は堪えきれなくなって、とうとう笑い出してしまった。 ただ、その目には涙が浮かび、笑顔はひどく苦しげだ。 なんて馬鹿げた理屈なんだろう。他人の子どもを使って、翔太と家庭を築くなんて。 部屋の隅では、写真立ての中の二人が甘く微笑んでいる。でも、いつのまにかガラスにはヒビが入っていた。まるで、今の自分たちの関係そのもの…… 昔の翔太は、自分のことをとても大事にしてくれていた。 自分が気に入らないと言っただけで、何億円もかけた内装をためらわずに変えてくれたし、海外研修やコンクールにも付き添ってくれて、家族と縁を切ってまでも自分の味方でいてくれた。 それなのに今、別の女が静かに生活に入り込んできている。いくら新しいレシピを開発しても、どんなに高い評価を得ても、翔太はもう見向きもしてくれない。 二人の子どもでさえ、自分のお腹から産まれるわけじゃないらしい。 真奈美は翔太に背を向ける。 「好きにして。私はホテルに戻るから」 五つ星ホテルの厨房もまた職場だ。職場である以上、噂話をする人間がいるのは当然のことだ。 真奈美が更衣室のドアノブに手をかけると、中からひそひそ話が聞こえてきた。 「後藤さん、戻ってきたね。しばらく見なかったから、北条さんと社長がひと悶着あったかなんかで、社長が折れて後藤さんを辞めさせたんだと思ってたよ。でも、まさか妊婦健診で休んでたなんて」 「てか、後藤さんのSNS見た?もう健診の結果とかアップしてるよ。あれって、絶対北条さんに向けてだよね?」 「シェフと社長ってのも変わってると思ったけど、まさか今度はホール係と社長ってさ!」 「しかも、健診には社長のマイバッハで行ったらしいよ。社長、今回は本気みたい。たとえ、子ども目当てだったとしても、後藤さんをぞんざいには扱わないでしょ?北条さんも、これから大変だろうな」 …… そんな会話が続いていたが、真奈美がドアを開けて中に入ると、全員が蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。 彼女は手早く着替え、厨房へと向かい、料理の準備を始める。 すると、料理の途中で、マネージャーが駆け寄ってきた。 「北条さん、谷口さんがお見えになっているんですが、後藤が料理の説明をうまくできなくて。そうしたら、谷口さんが怒って彼女を帰してくれないんです。それで今、ちょっと揉めてて……」 真奈美は未来の社長夫人だ。だからか、マネージャーは社長の次に偉いのは真奈美だと思っていて、何かあれば彼女に相談するのが一番だと考えていた。 妊娠してるなら家で大人しくしていればいいのに、ホテルをうろつき回るなんて。後藤恵(ごとう めぐみ)の狙いは真奈美にはお見通しだったが、自分にはどうすることもできない。 「分かりました。私が行きます」 真奈美が出ていくと、かなり不機嫌そうな顔をしている御曹司の谷口拓海(たにぐち たくみ)が目に入った。 「お前が料理を運んできたんだろ? それなのに、この料理の説明をするのが、そんなに難しいのか?」 恵がすすり泣きながら言い返す。「お金があるからって、何をしてもいいんですか?私にだって、プライドぐらいはあります」 「なんだその態度は!それに、お前のプライドがどうした?」 拓海と一緒に食事に来ていた友人が、恵を掴もうとしたので、真奈美は慌てて止めに入ったが、パニックになった恵がテーブルのナイフを手に取り、めちゃくちゃに振り回す。その刃が、運悪く真奈美の手に当たった。「いたっ!」 血がとめどなく溢れ出す。 そこへ翔太が遅れてやってきた。拓海たちを追い払うように指示すると、気を失って倒れた恵を支え起こす。 真奈美は痛みをこらえながら、翔太の服の裾を掴んだ。 「翔太、手が……血が、たくさん」 シェフである自分にとって、手は命だ。怪我なんて許されない。 しかし、翔太は真奈美の方をちらりと見ることさえしなかった。 「恵は血が苦手なんだ。それに、お腹には子どももいる。先に彼女を病院へ連れて行くから」 翔太の去っていく背中を見ながら、真奈美は心の底から冷え切っていくのを感じた。そして、言いようのない寂しさに襲われる。 翔太が自分のお腹にいる子の存在を知らないままで、よかったのかもしれない。 あと2週間。そうすれば、何の未練もなくここを去ることができる。 第2話 真奈美はひとりで病院へ行き、傷を縫ってもらった。 妊娠中だと伝えると、救急の医師は麻酔の使用をやめた。 冷たい針が皮膚と肉の間を行き来するたび、チクッとした痛みが波のように押し寄せる。 真奈美は歯を食いしばり、体を震わせながらなんとか耐えていた。しかし、我慢できずにとうとう涙がこぼれ落ちる。 昔の翔太なら、自分の手に新しい傷を見つけるたびに、すごく心配してくれたのに。 名医が出す高価な塗り薬を、彼は躊躇うことなく戸棚いっぱいに買ってきてくれ、自分のために包帯の巻き方まで覚えてくれた。 なのに今は、自分がこんな怪我をしていても見向きもしてくれない。しかも、別の女を抱きしめて優しく声をかけている。 見るに見かねたのか、医師が声をかけた。「北条さん、傷がかなり深いので、帰ってからもちゃんと処理してくださいね。ちゃんと治さないと、お仕事に響きますよ」 しかし真奈美は、上の空で頷くだけだった。 真奈美が家に帰ると、使用人の翠が二階から一階の寝室へ荷物を運んでいるところだった。 よく見ると、それはなんと自分の服や化粧品だった。 翔太はソファで横になっている恵に優しく話しかけながら、彼女のふくらはぎをマッサージしている。 「どう?足が、まだつっている?」 恵は返事をする前に、真奈美が来たのに気づいて、気まずそうに体を起こした。 「真奈美さん」 真奈美は失笑した。「私たち、名前で呼び合うほど、そんなに仲が良かったっけ?」 その棘のある言葉に、恵はすぐに目を赤くする。そして、お腹を抱えながら「うっ……」と呻き始めた。 「翔太さん、お腹がちょっと痛い……」 翔太は恵のお腹をさすってやりながら、真奈美にきつく当たる。 「彼女は妊娠しているんだぞ。なんでそんなキツい言い方をするんだよ!」 真奈美は鼻で笑った。 「まさか、私に彼女をお姫様みたいに大事にしろとでも?」 そう言いながら、真奈美は包帯だらけの右手を翔太に突き出す。 「私の彼氏はこの女に盗られて、私は彼女の子どもの面倒を見なきゃいけない。おまけにキャリアまでめちゃくちゃにされかけたのよ。これ以上、私にどうしろって言うの?」 それを聞いた恵は、悲痛な表情で翔太を見上げた。 「翔太さん。今日のことはわざとじゃないの。それに、あの夜は間違いだったって言ったでしょ?私がまだ何も分かっていなかったから……一時の感情であんなことを。それで、今ではみんなをこんなに苦しめることになっちゃった……」 恵は顔を覆う。「やっぱり私、ここを出ていく。私さえいなくなれば、翔太さんと真奈美さんはきっと元に戻れるはずだから。 お腹の子のことは心配しないで。産んだらあなたの元へ連れてくるし、二度とあなたたちの前にも現れない。私も、この子を産んだことなんて忘れるから」 しかし、翔太は恵を引き留めた。 「お前は俺の女だ。お腹には俺の子だっている。行かせられるわけないだろ!」 悲劇の恋人さながらに抱き合う二人のそばで、真奈美は自分が邪魔者になったように感じた。 彼女は何も考えずに、一階の寝室へ入って横になった。 夜中、真奈美は誰かに体を揺さぶられて、はっと目を覚ます。 夢うつつのまま目を開けると、そこに疲れ切った表情の翔太がいた。 「真奈美。恵がお腹すいたってうるさくてさ。何か夜食を作ってやってくれないか?」 そこで真奈美はようやく悟った。翔太がなぜ自分を二階から一階の寝室に移したのかを。 この寝室自体は何てことない。ただ、家の中で一番キッチンに近い部屋だった。 真奈美は、こみ上げる怒りを必死に抑えながら言った。「翔太、ふざけるのも大概にして。あなたも、私たちの寝室も、もうあの女にあげた。その上、今度は私に彼女の召使いになれって言うの?」 翔太は困ったように眉間を揉む。 「真奈美、彼女のお腹にいるのは俺の子どもだ。そして、俺たち二人の将来の子どもでもあるんだから」 「私の子じゃない!」真奈美は泣きながら叫んだ。 翔太は目を伏せた。その表情からはためらいが消え、冷たい表情だけになった。 「大野さんの料理は、お前の作るものほど美味しくないんだ。だから、俺のためだと思ってさ、な?」 真奈美は答えずに、くるりと背を向けてベッドに潜り込んだ。それが彼女の答えだった。 これで翔太も諦めて部屋を出ていくだろう、と真奈美は思った。 ところが突然、掛け布団が乱暴にはぎ取られた。彼女は翔太に手首を強く掴まれ、まるで小動物のようにベッドから引きずり降ろされた。 「真奈美、喧嘩したいわけじゃない。料理が終わったら、またちゃんと寝かせてやるから」 キッチンカウンターに押さえつけられ、真奈美はとうとう声を上げて泣き出してしまった。 「翔太、どうしてこんなひどいことができるの?」 翔太とはもう8年の付き合いだった。彼の家族に反対された時も、仕事がうまくいかない時も、二人で手を取り合って乗り越えてきたのに。 それなのに、別の女が自分より先に彼の子どもを妊娠したというだけで、自分はあっさりと捨てられそうになっている。 しかし、翔太は真奈美が泣いているのを気にも留めなかった。 彼は包丁を手に取ると、それを真奈美の前に突き出す。 「真奈美、いいから料理を作るんだ」 翔太は真奈美の手をきつく掴み、無理やり包丁を握らせた。 彼に強く握られ、包帯を巻いた右手から、突き刺すような激痛が走る。 真奈美は声を詰まらせた。「翔太、お願い。離して。手が、怪我してるの」 翔太は一瞬はっとした顔になり、その目にわずかな同情がよぎった。手に込めていた力も少しだけ弱まる。 そして、子どもに言い聞かせるような口調に変わった。「真奈美、さあ、料理を作ろう」 和食から洋食まで何十種類も料理を作り、デザートもたくさん用意した。それでも恵からは、褒め言葉の一つもない。 しかも、恵はどの料理にも一口しか手をつけなかった。中には匂いを嗅いだだけで、箸を置くものもあった。 そんな嫌がらせが真夜中から次の日の昼まで続いた。 キッチンから解放され、疲れきった体でらせん階段のそばを通りかかった時、二階から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。 「真奈美さんの料理、とってもおいしいのね。さっき犬にあげてみたら、すごく喜んで食べていたから!」 その声に続いて、翔太の甘やかすような笑い声が聞こえた。 「お前がご機嫌ならそれでいいよ。食べたくないなら無理するな。また食べたくなったら、いつでも真奈美に作らせるからさ」 大きな窓からは暖かい日差しが差し込み、壁に光の模様を描いている。 でも真奈美には、その暖かさも、手の痛みさえも、もう感じられなかった。 ふと、カバンに入っているエコー写真のことを思い出すと、不思議な安堵感が胸に広がった。翔太はまだこの子の存在に気づいていない。今なら、しがらみなくここから出ていける。 第3話 真奈美がエコー写真の紙を手に、ぼんやりと佇んでいると、翔太がドアを開けて部屋に入ってきた。ふと、ふたりの視線がぶつかる。 「何見てるんだ?」 真奈美はさっとエコー写真を隠し、平静を装う。 「別に何でもないよ。ただ、新しいメニューを考えてただけ」 その薄い紙は、翔太の目にちらりと映っただけだった。しかし、翔太はなんだか見覚えがある気がした。つい最近、どこかで目にしたような…… でも、真奈美が新しいメニューを考えていると聞いて、彼の意識はすぐに別のことに向かった。 「最近、恵の食欲がないみたいなんだ。だから、もっと色々と工夫してあげてほしくてさ。おなかの赤ちゃんのためにも、しっかり食べさせないと」 真奈美が返事をするより先に、ドアの向こうから恵が白い顔を覗かせた。 「翔太さん、真奈美さん。お昼ごはん、用意しましたよ」 すると、翔太は嬉しそうに真奈美の手を引いて、部屋の外へ向かった。 恵のそばを通りかかると、彼はごく自然に真奈美の手を離し、代わりに恵の腰を抱く。 「恵、お前は妊娠してるんだ。真奈美がいるんだから、お前がわざわざお昼ごはんを作る必要なんてないのに」 恵は、おなかの前でそっと両手を重ねた。その表情は、とてもやさしげだ。 「真奈美さん、昨日の夜は大変だったみたいだから。何かお礼がしたくて」 真奈美がテーブルに近づいてみると、お皿にはサンドイッチが二つ。隣にはオレンジジュースが二杯置いてあった。 聞くまでもない。それは自分が朝食用に冷蔵庫へ入れておいた、サンドイッチとオレンジジュースだった。 恵は翔太に食事をうながすと、今度は真奈美の手を引いてソファに座らせた。 「真奈美さん、昨日のことは本当にごめんなさい。でも、わざとではないんです。あの、お薬、塗ってあげますね」 真奈美は拒絶するように反対の手で制する。「いいから」 それでも恵は、怪我をした真奈美の手を握って放さない。その目には、涙がうっすらと浮かんでいた。 「真奈美さん、まだ怒っていますか?けど、私、ただ薬を塗ってあげたいだけなのに……」 翔太は、ふたりがもみ合いになって真奈美が恵のおなかに怪我でもさせたら大変だと思い、あわてて真奈美の肩を押さえつける。 「真奈美、恵に薬を塗ってもらって」 彼の力にはかなわず、真奈美はしかたなく目を閉じた。 恵は真奈美の手にたっぷりと軟膏を塗りつけると、それでようやく満足したようだった。 しかし真奈美は、軟膏が昨日みたいにひんやりしないことに気づいた。それどころか、塗られたあと、傷口がじんじんと鈍く痛む。 翔太はそんな真奈美の不快そうな様子にはまったく気づかず、その手を引いてテーブルの席に座らせた。 「恵が作ってくれたんだ。彼女の気持ちを無下にはできないからな」 真奈美は食欲がなかった。断ろうとしたそのとき、突然玄関のチャイムが鳴った。 翠がドアを開けると、上品で華やかな雰囲気の女性が入ってきた。 「母さん、どうしてここに?」翔太が嬉しそうに立ち上がる。 植田美咲(うえだ みさき)の傲慢な視線が、うつむく真奈美を通りすぎた。そして、そのうしろにいる恵をとらえた瞬間、軽蔑は驚きと喜びに変わる。 彼女は真奈美をぐいと押しやって、恵のおなかをそっと撫でた。 「妊娠、何か月なの?」 恵は微笑みながら、お腹に視線を落とす。「今、大体7ヶ月なので、あと3か月で生まれます」 「まあ、まあ!」美咲は声を弾ませた。「翔太、こんな大事なこと、どうしてお母さんに言ってくれなかったの?」 翔太の口ぶりは謙虚だったが、その目の誇らしさは隠せていない。 「恵はまだ若いし、初めてのことだから不安で。それに、まだ安定期じゃなかったから、黙ってたんだ」 美咲がじれったそうに言う。 「もう!こんなおめでたいこと、どうして教えてくれないのよ。お母さんにとっては、これが初孫になるんだから!」 彼女は心から嬉しそうに恵の手をとりながらも、真奈美を鋭く睨みつけることは忘れなかった。 「あなたは赤ちゃんに選ばれたのね。どこかの、子どもも産めない女とは大違い」 美咲は、ずっと真奈美のことが嫌いだった。 なぜなら、美咲が息子の結婚相手に望んでいた相手は、名家の令嬢で、一日中、キッチンで油にまみれているような料理人ではなかった。 以前、翔太はどうしても真奈美と一緒になると言ってきかなかった。美咲は反対したが、一人息子と縁を切るわけにもいかない。だから、真奈美が男の子を産んだら、しかたなく結婚を認めてやろうと考えていたのだ。 ところが、7、8年経っても、孫の顔を見ることはできなかった。 かといって、恵の家柄も決していいとは言えない。しかし、大学を卒業したばかりでまだ若いから、これからの人生はどうとでもなる――だから、子どもを産ませたあとで、箔をつけるために海外の大学にでも留学させればいい。 美咲は、恵を労りながら座らせる。その目はとても優しいものだった。 「あなたは今、翔太と二階の寝室で暮らしてるの?あの部屋はいいわ。日当たりもいいし、広いもの。 ん?植物が邪魔?分かったわ。あとで全部、捨てさせるから」 二階にある植物は、みんな真奈美が手塩にかけて育てたもので、その中にはバジルやローズマリーといったハーブもあった。 真奈美は止めようとしたが、その声は楽しそうに話し続ける三人の声にかき消されてしまった。 手がひどく痛む。でもそれ以上に、胸の奥の方が痛かった。ナイフで何度もえぐられるような,、血がどくどくと流れるような痛みだった。 結局のところ、翔太にとって自分はどうでもいい存在だったのだ。そして植田家も、平凡な女を嫁に迎えるのが嫌だったわけじゃないらしい。 なぜなら、容姿も、学歴も、これまでの実績も、恵はなにひとつ真奈美に及ばないのだから。 彼女はただ、自分よりほんの少し運が良かっただけだ。 美咲はまだ話を続けている。「ん?犬がうるさくて眠れない?それはいけないわ。すぐに私が連れて帰ってあげる」 真奈美は手の痛みに、小さく息をのんだ。 美咲の自分への憎しみを考えれば、あの犬が連れて行かれたあと、どんなひどい目に遭わされるか、簡単に想像がつく。 彼女は痛みをこらえて言った。「あれは私の犬です。連れて行かないでください」 美咲がふんと鼻で笑う。 「あなたの犬?ここは植田家よ。ここにあるものは全部、私たちのもの。あなた自身だって、翔太の所有物じゃないの」 真奈美が何か言い返すよりも早く、翔太がふと彼女の手に目を留めた。そして、はっと息をのむ。 「真奈美、その手、どうしたんだ?」 第4話 手の傷が焼けるように痛んで、真奈美は息をするのも苦しかった。 しかし、翔太に言われ、自分の手に視線を落とすと、包帯は血で真っ赤になっていた。 目の前が真っ暗になり、真奈美は床にへなへなと座り込む。そして、かろうじて無事な方の手を翔太に伸ばした。 「翔太、病院に連れてって……」 しかし、美咲は嫌そうな顔をする。「手を切ったくらいで病院だなんて、大げさね」 美咲は翠に指示した。「この子を寝室に運んで。薬でも塗って休ませておけば大丈夫だから」 しかし、翠が包帯を解くと、その場の誰もがぎょっとして息をのんだ。 傷口は赤く腫れてただれ、もはや元の状態がわからないほどだった。 往診の医師が駆けつけたときには、真奈美はもう痛みのあまり気を失っていた。 意識がもうろうとする中、窓の外で鳴る低い雷の音と、部屋でひそやかに話す男たちの声が聞こえた。 「北条さんの傷に塗った軟膏に、何か別のものが混入していたようです。それが原因で、傷が悪化したのでしょう」 その会話に、恵のか細い泣き声が混じっていた。 「先生、全部私のせいです。今日、いくつかの化粧品に触った後、手をしっかり洗わずに彼女に薬を塗ってしまって……」 その時、真奈美は医師からこの傷は今後の人生に関わると言われたことを思い出した。次の瞬間、真奈美の理性が切れ、怒りに突き動かされるままベッドから飛び降りると恵に掴みかかった。 しかし、素早く反応した翔太がさっと真奈美を突き飛ばす。 「翔太!この女は私の手をこんなにしたんだよ!それでもあなたは、この女を庇うっていうの!?」 真奈美の絶望に近い叫びを聞き、翔太はとっさに恵を自分の後ろへと隠した。そして、不機嫌さを隠さずに言う。 「真奈美、そんなこと言うもんじゃない。恵は、わざとお前を傷つけたわけじゃないんだから」 「じゃあ、軟膏は?」 真奈美は訴えた。「私の軟膏に何か混ぜたのも、わざとじゃないって言うの?」 恵はばつが悪そうに目をそらしたが、翔太はあくまで白を切り通す。 「それはお前の聞き間違いだよ。先生は、体質のせいで傷が治りにくいって言ってたんだ。恵は関係ない」 真奈美は信じられない思いで、かつて誰よりも愛した男を見つめた。彼はこんなにも堂々と嘘をつく。 翔太は真奈美の視線が鬱陶しかったのか、気まずそうにひとつ咳払いをすると、視線をそらした。 「自分の体のことは、自分が一番わかってるだろ?だからこそ、何年も俺たちに子どもができなかった」 真奈美はへたりと床に座り込んだ。ぽろぽろと、とめどなく涙が溢れ出てくる。 自分の心に一番深い傷をつけたのは恵じゃない。翔太だ。 彼は昔こう言っていた。「何もいらない。子どもだっていらない。お前がずっとそばにいてくれるなら、それだけでいい」 でも、その言葉が本物かどうかは、時が経ってみなければわからないものだったのだ。 真奈美の心臓は、まるで握りつぶされたように痛んだ。じわじわと遅れてやってきた疲労感が、心を埋め尽くしていく。 医師が帰ると、翔太は恵と一緒に二階へと上がっていった。 真奈美はぼんやりしたままスーツケースを出すと、何枚か洋服を詰め込む。 荷造りは終わったけれど、どこへ行けばいいのかわからなかった。 昔、翔太が実家と揉めて勘当され、お金を止められたことがあった。その頃の自分には、亡き両親が遺してくれた広いマンションと小さなアパートがあった。 自分はためらうことなくその二つの家を売り、翔太の小さなホテルを大きな事業へと育てるために使った。 だから、今の自分にはもう帰る場所さえ残されていない。 家の中は不気味なほど静かだった。はっと美咲の言葉を思い出し、心臓がどきりと冷たくなる。 真奈美は二階へ駆け上がった。「翔太!私の犬はどこ?」 翔太は、恵に水を飲ませてやっているところだった。 恵がか細い声で答える。「さっき、おばさんが連れて行きましたよ」 真奈美は翔太の腕に縋り付いた。 「どうして連れて行かせたの?」 恵が気まずそうに口を開く。「なんでも、おばさんの知り合いに保健所の知り合いがいるとか……」 「保健所」という言葉を聞いて、真奈美は言葉を失った。 真奈美は反射的に、恵の頬を引っ叩いた。 恵は甲高い悲鳴をあげ、さっと翔太の後ろに隠れる。 軽くパニックになっている真奈美は、翔太にぐいっと腕を引かれた。 それまで黙っていた翔太だったが、突然手を振り上げ、真奈美の頬を思い切り張り飛ばした。 「たかが犬一匹で。こんなに取り乱すことなのか?」 怒りを含んだ翔太の声が、窓を叩く雨音と混じり合う。その言葉は鞭のように、真奈美の心を激しく打ち付けた。 翔太は、真奈美が過去の思い出を掘り返すのが嫌だった。まるで彼女だけが過去を大切にしていて、自分が薄情で恩知らずだと言われているようで。 第5話 「恵が犬の鳴き声が怖いって言っただろ?だから母さんが犬を連れて行ってくれてたんだ。ちょうどよかったじゃないか。 それに、たかが犬だろ。恵のお腹の子どものほうが大事なんだよ。こんな簡単なこともわからないのか?」 翔太に思いっきり叩かれたので、真奈美は頭ががんがんしていた。 耳鳴りがする中、真奈美は思い出していた。昔美咲につらく当たられたとき、いつもあの子が温かい舌で頬を舐めて、笑わせてくれたことを。 彼女は頬を押さえたまま、どうしていいか分からずに唖然としていた。 初めて翔太に手を上げられた。それも、ほかの女のために。 その傍で、恵がまつげを涙で濡らし、お腹を押さえながら苦しそうに息をしていた。その様子に、翔太はたまらなく胸が痛んだ。 翔太は、真奈美に顔を向け厳しい口調で告げる。 「いいか、これが最後だ。恵のお腹の子は大事なんだ。お前が産めない以上、だれかが俺の子を産むしかないんだから」 階段を下りる真奈美の視界は、涙で霞んでいた。外では耳を塞ぎたくなるほどの雷が鳴り響いている。 手の鈍い痛みで、真奈美ははっと我に返った。 コートと車のキーを掴み、病院へ車を走らせようとガレージへと向かう。 ところが、ガレージで恵を抱きかかえた翔太と鉢合わせた。 真奈美の姿を見て、翔太は一瞬、動きを止める。 「どこへ行くんだ?」 真奈美は無表情のまま答える。「病院」 翔太の視線が、包帯の巻かれた彼女の右手に一瞬だけ向けられた。 「お前が恵のことを叩いたから、恵の具合が悪くなったみたいなんだ。ちょうど病院に連れて行くところだから、お前も一緒に連れて行ってやるよ」 今の自分の手では、まともに運転できそうにない。そう思った真奈美は、黙って後部座席に乗り込むことにした。 ドアを開けると、お腹の大きい恵は、ゆったりした席のほうがいいようで、もうすでに後部座席へと乗り込んでいた。かといって、助手席はもう自分の場所ではない…… そんなわけで、真奈美と恵の二人が後部座席に並んで座ることになった。 家は山の中にある。立ちこめる霧と、どこまでも続く雨のカーテンを突き進むように、翔太は車をかっ飛ばした。 「恵、もう少しの辛抱だ。もうすぐ病院に着くからな」 真奈美は窓の外に目をやり、何も聞こえないふりをした。 翔太は運転しながらも、後ろの席の恵の様子を常に気にしていた。 彼が何度目かに後ろを振り返った、ちょうどそのとき。一台のスポーツカーが急カーブを切って、正面から突っ込んできた。 翔太は咄嗟にハンドルを大きく切る。 そして彼がまず庇ったのは恵だった。そのせいで、真奈美の乗っていた側が、相手の車に激しく叩きつけられる。 内臓がひっくり返るような衝撃。窓ガラスが砕け散り、真奈美は外へと放り出された。 事故現場はかなり酷いものだった。 冷たい雨の匂いに、ガソリンと金属の匂いが混じり合う。 真奈美は全身血だらけで、冷たい地面に倒れていた。遠くでは、翔太が相手の車の運転手と一緒になって、必死に恵を車から引っ張り出している。 「僕は、あちらの女性を助けに行きますから!」 そう言って、相手の運転手が真奈美の方へ駆け寄ろうとした。しかし、翔太がその腕を掴む。 「妻が妊娠しているんです。先に彼女を助けてください」 すると、二人は大して壊れていなかった相手の車に恵を乗せて、病院へと走り去っていった。 空から降る冷たい雨粒が、真奈美の頬をぴりぴりと刺すように打ちつける。 「助けて……」 そのか細い助けを求める声は、風と雨にかき消され、山の霧の中へと吸い込まれていった。 地面に横たわる真奈美の意識は、もうすでに朦朧としていた。血と一緒に、体の熱が少しずつ奪われていくのがわかる。 後悔が押し寄せてきた。両親が亡くなった後、翔太だけが生きる支えだと、そう信じてしまっていたことを。 翔太がもう自分を愛していないのは、仕方ない。でも、愛情がなくなっても、これまでの情くらいは残っていると思っていた。 それなのに……これだけ長い間一緒にいた情は、彼にとって一瞬で消える煙のようなものだったらしい。 意識が消えかかるその瞬間。真奈美は、自分がいつ、どんなきっかけで翔太を好きになったのか、どうしても思い出すことができなかった。 第6話 目が覚めると、またあの救急の医師がいた。 「先生。私の手は、大丈夫でしょうか?」 点滴を調整していた医師は、マスクから覗く目元に困ったような表情を浮かべた。 「北条さん。あなたのその手、絶対に無理はしないでくださいと、お伝えしましたよね……」 そう言って、医師はため息をつく。 「傷口に刺激物が塗られていたみたいで、ひどく腫れてしまっていました。その上今回の事故の衝撃で骨もずれてしまいました……もう、完全に治るのは難しいでしょう」 真奈美は呆然と医師を見ていたが、やがて布団に潜り込み、体が震えるほど泣きじゃくった。 どう声をかければいいか分からなかった医師は、一言そっと声をかけた。「ですが北条さん、悪い知らせだけじゃありません。幸い、お腹の赤ちゃんは……この事故でも無事でしたよ」 この救急の担当医は、真奈美がその子を産むつもりがないことを知らなかった。 真奈美はお腹に手を当てた。ここには、自分と翔太の小さな命が宿っている。 でも、それはもう真奈美が望んでいたものではない。 もし選べたのなら、傷一つなかった元の右手のほうが欲しかった。 たとえ翔太がそばにいなくても、自分の夢を追い続けたかったのだ。 看護師が食事を運んできたが、真奈美は全く食欲がなかった。 「北条さん、ちゃんと食べないと。回復する力も出ませんよ」と医師が声をかける。 真奈美は医師の気遣いを無下にできず、仕方なくスープを一口すすった。 「このスープ、塩が入ってないんですか?」真奈美は首をかしげる。 看護師はきょとんとして、「薄味ですけど、味がしないなんてことはないと思いますよ」と答えた。 真奈美は、頭をがつんと殴られたような衝撃を受けた。 慌てておかずを口に運んでみたが、何を食べても砂を噛むようで、まったく味がしなかった。 味覚が無くなっている! 真奈美は、助けを求めるように医師の腕をつかみ、しどろもどろに訴えた。 「私、味が……味がしないんです!でも、私はシェフなんです。だから、味がしないなんてだめなんです……」 医師は急いで、もう一度検査を手配した。 「北条さん、おそらく今回の事故の衝撃で神経に影響が出たのでしょう。一時的に、味覚が失われている状態です」 真奈美は口を開きかけたが、言葉をのみ込み、こみ上げる涙を必死にこらえた。 「じゃあ、いつになったら治るんですか?」 「数日かもしれませんし、もしかしたら何年もかかるかもしれません。あるいは……」 医師はそこから先を口にしなかった。でも真奈美には、その言葉の続きが分かってしまった――もしかしたら、一生治らないのかもしれない、と。 いったい、誰を責めればいいのだろう。 恵が現れたとき、彼女を追い払わなかった自分を責めるべき? それとも、生死をさまよう瀬戸際で、翔太が自分を見捨てて恵を選んだこと? その瞬間, 真奈美は藁にもすがる思いで、医師にすがりつくと、早口で尋ねた。「私が入院する前に、同じ事故に遭った女の人が運ばれてきませんでしたか?30歳くらいの男性が付き添っていたはずなんですが」 医師は頷く。「ええ。そのお二人は、最上階の特別病室にいらっしゃいますよ」 真奈美はふらつく足で病院の最上階まで駆け上がると、特別病室の前でタバコを吸う翔太の姿を見つけた。 「翔太、お願い!あなたなら、いい医師を知ってるでしょ。助けて。私の手……それに味覚も、なくなっちゃったの」 翔太から漂うタバコの臭いと、知らない女物の香水の匂いで眩暈がする。 でも、翔太が最後の希望だった。彼に縋るしかない。 翔太はわずかに眉をひそめた。「味覚が、どうかしたのか?」 真奈美は唇を震わせながら、さっきの医師の説明を繰り返した。しかし、彼の眉間の皺が深くなっていくのには気づかなかった。 手を怪我して、味覚まで失った。そんなシェフを雇うホテルなんて、どこにあるというのか? そのうえ、女としても子どもも産めない体…… 昔の真奈美は明るくて芯が強かった。自分が同業者にバカにされれば新しいメニューで客を呼び戻し、大きな宴会も完璧にこなして、いつも自分を安心させてくれた。 自分を愛し、すべてを受け入れ、わがままさえも聞いてくれた。 だから翔太は、目の前で青白い顔に髪を乱し、ヒステリックになっているこの女を見たくなかった。 これは、彼が知っている、好きだった頃の真奈美ではなかったから。 病室から恵の苦しそうな声が聞こえてきて、翔太は真奈美の話を最後まで聞く気にもなれなかった。 「翔太さん、どこにいるの?」 「ここにいるよ」 翔太は、自分にすがりつく真奈美の手を振り払った。 「話は後にしてくれ。先に恵の様子を見てくるから」 第7話 その晩、恵の病室のドアは閉まったきり、二度と開かなかった。 つまり、翔太はずっと中から出てこなかった。 真奈美は夜から朝方まで待ち続けたが、ついに我慢できなくなって、ドアを少しだけそっと開けてみる。 そこには、恵を抱きしめて、深くキスする翔太の姿があった。彼の指が恵の黒髪に優しく絡んでいる。 「翔太さん、だめ。赤ちゃんがいるんだよ」 しかし、翔太はかすれた低い声で言った。 「だめだって分かってるくせに、俺を煽るなんて、お前はなんてやつなんだ」 恵はいたずらが見つかった子どものように俯く。 「翔太さん。やっぱり真奈美さんのところに行ってあげて。私とこの子は、ここでおとなしく待ってるから」 しかし翔太は、まるで何かに取り憑かれたみたいに、彼女を抱きしめて離そうとしなかった。 「大丈夫だよ。あいつは強いから、心配ない。あとで様子を見にいけばそれでいい。今は、お前のことだけを考えていたいんだ」 ドアの外で聞いていた真奈美にとって、その甘い言葉は事故の時のガラスの破片よりも鋭く、彼女の心をずたずたに引き裂いた。 早朝、病室から出てきた翔太は、廊下の椅子に感情の死んだ目でじっと座っている真奈美に気づいた。 翔太は眉をひそめる。「なんで、まだここにいるんだよ?」 顔を上げた真奈美の瞳には、なんの感情も無かった。 「翔太。恵が赤ちゃんを産むことにはもう何も反対しない。あなたが彼女をそばに置いておくのも、止めない。だからひとつだけお願いがあるの。私のこの手と味覚を治してくれる、一番腕のいい医者を探してほしい」 翔太にしてみれば、真奈美が度々恵や彼女のお腹の子をめぐって自分と口論になるのは、もはや日常だった。 だから、真奈美が急にこんなに素直になると、彼の胸の奥にある濁った征服欲が満たされて、なんだか気分が良くなった。 やっぱりな。困ったことがあれば、こうして自分に泣きついてくるしかない、こいつも結局はただの女なんだ。 こいつは自分がいなければ、何もできない。 「ああ、いいよ。お前が恵の面倒をしっかり見るなら、医者を探してやる」 恵の看護師は担当を外され、真奈美が彼女専用の世話係になった。 しかし、真奈美は何も言わずに受け入れた。 手と味覚さえ治るなら、今はどんな屈辱にも耐えられる。彼女はそう思っていたから。 一方、恵はとても申し訳なさそうに言った。 「真奈美さん、ごめんなさい。翔太さんが、おなかの赤ちゃんのことが心配で、他人には世話を任せられないって……だからあなたにこんなことをお願いするはめになったの。本当にごめんなさい……あ、あの、足をお湯で温めたいので、お湯を汲んできてもらえますか?」 真奈美は何も言わず、お湯を準備する。 夜中、彼女が椅子に座ったままうとうとしていると、恵に呼び起こされた。 「真奈美さん、お腹の子が何か食べたがっているのか、何だかお腹が空いちゃって……でも、病院の食事って美味しくないでしょ?だから、家に帰って何か作ってきてくれますか?」 真奈美は、仕方なく家に戻って料理を作った。 料理を終えて病院に戻ると、翔太が不満そうな顔で真奈美を見つめる。 「恵のそばについていろって言っただろ。なんで勝手にいなくなるんだよ.。いいか?医者を探してくれって、俺に頼んだのはお前の方なんだからな」 真奈美は言い返すのも億劫だったので、持っていたお弁当の袋を力なく見せた。 「彼女が食事がしたいって言うから、家で料理を作ってきたの」 しかし、翔太はその説明を聞き入れようとしなかった。 「前までは、もっと手際が良かっただろ?なんで今回はこんなに時間がかかってるんだ? 恵への当てつけにそんなことをするのはやめろ。もう一度言うぞ。医者を探してほしいと俺に頭を下げたのは、お前なんだ」 翔太は真奈美の手の怪我なんてすっかり忘れているようだった。彼女の手からお弁当をひったくると、不機嫌そうに病室へ入っていく。 ひどい疲れを感じた真奈美は、廊下のトイレで顔を洗った。すると、外から看護師たちの笑い声が聞こえてきた。 「ねえ、聞いた?あそこで甲斐甲斐しくお茶を出したり料理を作ったりしてる北条さんって、あの植田社長の本命の彼女らしいわよ」 「ええっ?じゃあ病室で寝てる、あのおなかの大きい人は浮気相手ってこと?」 「まあ、そういうことなんじゃない?本命の彼女に浮気相手の世話をさせるなんて、信じられないわよね」 「でも、本人が納得してるなら仕方ないんじゃない?他人がとやかく言ってもねえ。それにしても、本命がこれじゃあ、何だかねえ」 …… トイレから出て、自分の病室に戻ろうとした、その時だった。恵の病室のドアが、ばんっ、と激しい音を立てて開いた。 「真奈美!今すぐこっちへ来い!」 真奈美はびくりと身をすくめる。 自分が何を間違えたのか分からなかった。彼女はごくりとつばを飲み込み、おそるおそる病室の中へ足を踏み入れる。 病室に入るやいなや、真奈美は翔太に腕を強くつかまれ、引き寄せられた。 以前、彼に顔を叩かれたことを思い出し、真奈美はとっさに手で顔を庇う。 その仕草に、翔太は一瞬はっとしたようだった。けれど、彼の目によぎった躊躇いのようなものは、すぐに消えた。 真奈美の背後でドアが乱暴に閉められる。翔太の視線は恐ろしいほど冷たく、まるで彼女を食い殺さんばかりの勢いだった。 「お前、妊娠してるんだってな。どこのどいつの子だ?」 真奈美は、信じられない、というように目を見開く。 第8話 「私……」 真奈美は言葉を詰まらせる。 翔太がどこでその話を聞いたのか分からなかったし、なぜ子どものことを隠していたのか、どう彼に説明すればいいかも思いつかなかった。 翔太が真奈美の怪我をしている右手を掴む。 痛みのあまり、真奈美は眉を顰めた。 真奈美は涙声になりながら言う。「恵との間にもう子どもがいるのに、まだ私のお腹の子のことまで気になるの? もしこの子を産んだとしても、なんて説明すればいいの?あなたの父親には別に家庭があって、ほかにも子どもがいるんだって、そう言えばいいの?」 「ふざけるな!」 翔太の口調が荒くなる。「俺がどれだけ自分の子どもを欲しがってたか、お前も知ってるはずだろ?それなのに黙ってたのは、後ろめたいことがあるからに決まってる!この子は俺の子じゃない。そうなんだろ!」 すると恵が、なだめるように口を挟んできた。 「真奈美さん。実は、私が産婦人科で健診を受けたとき、偶然あなたの検査結果を見てしまったんです。それに、妊娠したのはここ数ヶ月のことですよね?でも、その間、翔太さんはずっと私と一緒にいました。 だから、言いにくいのですが、もしかしてお酒に酔って、誰かと間違いがあったんじゃないですか?もしそうだとしても、正直に言えば、翔太さんだって許してくれるはずです」 その夜、確かに酔っていた。でも、酔っていたのは真奈美ではなく、翔太のほうだった。 翔太は酔った勢いで、真奈美を恵だと勘違いしたのだ。 真奈美はまだ覚えている。酒の匂いがするキスを首筋に受けながら、恵の名前を囁く彼のことを…… 多分その時からだろう。真奈美が翔太の心は、もう昔のように自分に戻らないと悟ったのは。 だから、子どもができたと分かっても、産むつもりはなかった。 真奈美は涙をこらえながら翔太を見つめ、落ち着いた声で言う。「あなたの子よ。あの晩、あなたは酔って運転手に家まで送ってもらって、その後、私と一緒にいたじゃない」 しかし翔太は、まったく信じようとしなかった。 「でも、次の日の朝、お前はいなかった」 真奈美はさらに説明する。「それは、次の日の朝早くから、料理を作ってほしいっていう指名があったから、朝一でホテルに向かったの」 恵はかすかにため息をついた。 「そんなに都合のいいことが、あるでしょうか?厨房には男の人がたくさんいるから、きっと誰かに無理やり……ね? 真奈美さん、正直に話したほうがいいと思いますよ。翔太さんなら、あなたの仇をとってくれますから」 しかし、真奈美が説明すればするほど、翔太の怒りは増していく。 そして最後には、嫉妬と怒りで彼は理性を失った。 「俺の子じゃないなら、堕ろせ」 翔太は真奈美の手を掴み、産婦人科まで無理やり引きずっていった。 必死で彼に抵抗したけれど、真奈美には振りほどく力はなかった。 確かにこの子を諦めようと思っていた。しかし、父親であるはずの翔太にこんな形で強制されるなんて。 自分は何も悪くないのに、どうしてこんな汚名を着せられないといけないのだろうか? 「翔太、この子はあなたの子なの!絶対後悔するから!」 だが翔太はその言葉を気にも留めず、真奈美を手術台に縛り付けさせた。そして子どもを堕ろすよう彼女を諭す声は、まるで悪魔の囁きのようだった。 「いい子だ、真奈美。それに、一度妊娠できたってことは、またいつでも産めるってことだろ?だから、この子を堕ろして、また俺たちの子どもを作ろう」 違う。翔太との間に子どもができることは、もう二度とないのだから…… 真奈美が次に目を覚ましたとき、下腹部が酷く痛んだ。 しかし、少し離れたところにいる翔太は、彼女の麻酔が切れたことに気づいておらず、友達との電話で、耳を塞ぎたくなるような会話を続けていた。 「翔太、マジで真奈美さんに子どもを堕ろさせたの?それに、結局その子はお前の子だったのか?」 電話の向こうの質問に答える翔太はひどく人事のようだった。 「さあ。でも、百パーセント俺の子だという保証がないなら、いないほうがましだ。それに、恵の子もいるしな。 まあ、真奈美は一度できたんだ。また次もできるだろ」 ベッドに横たわったまま目を閉じていた真奈美は、背筋が凍る思いだった。 「それもそうだな」 電話の向こうの相手が笑い出す。「まあ、おめでとう、翔太。両手に花じゃねえか」 翔太もフッと笑い、少し得意げな様子だった。 「落ち着いたら、恵とはN市に行くつもりだ。あそこは気候もいいし、お腹の子も気に入るだろうからな。 真奈美のほうは、こっちで静養させればいいし」 友達から祝いの言葉を聞くと、翔太は電話を切った。 真奈美の耳に、革靴の音が聞こえてきたかと思うと、音はベッドのすぐそばで止まった。 布団の下の彼女の手は、無意識に固く握りしめられる。呼吸も、できるだけゆっくりするように心がけた。 真奈美が何の反応も示さないのを見て、つまらなくなったのだろう。翔太は向きを変え、病室の外へ歩いていった。 革靴の音が聞こえなくなると、真奈美の目からはついに涙がこぼれ落ち、目尻を伝って髪に染み込む。 もしもいつか、あの男が自分の手で殺したのが実の子どもだったと知ったら、彼は後悔するのだろうか。 しかし、真奈美には分からなかった。なぜなら、すっかり変わり果ててしまった今の翔太は、もう真奈美の知っている彼ではなかったからだ。 翌日、病院では二人の患者が退院手続きを終えた。 一人は午前中に、最上階の特別ルームにいた患者。彼女は退院すると、すぐさまプライベートジェットでN市へと発った。 そして、もう一人は真奈美だった。彼女はコートで体をすっぽりと覆い、空港に向かった。 頭上の飛行機が、空にきれいな飛行機雲を描いている。 すると、友達からスクリーンショットが送られてきた。それは恵のSNSの投稿だった。 男のすらりとした指が、女の華奢な手を包み込んでいる写真。そして砂浜には、大きい手と小さい手の二つの手形。 最後には、【あなたが来るのを待ってるわ】という文章が添えられていた。 真奈美はスマホの電源を切り、そのままゴミ箱に捨てる。 彼女は体にかけた毛布をきつく巻き付け、スタッフに車椅子を押されて、ゆっくりと飛行機に乗り込んだ。 一つの命が失われる時は、もう一つの命が始まる時でもある。 これから自分が生まれ変わるのだと真奈美は知っていた。