憎んでいた母、でも記憶を失って憎めなかった

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憎んでいた母、でも記憶を失って憎めなかった

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母は私を眠らせ、その間に私のキャッシュカードを勝手に使った。 そのくせ、あとになって冷たい顔で私を責め立てる。 「たかが二、三百万円で...

Chương (1)

第1章

母は私を眠らせ、その間に私のキャッシュカードを勝手に使った。 そのくせ、あとになって冷たい顔で私を責め立てる。 「たかが二、三百万円でしょ?ほんと、根に持つ性格だよね。 弟がバイクを買うの。誕生日プレゼントだと思えばいいでしょ」 私は素直にうなずいた。 母は一瞬、目を見開く。普段はいちばん言うことを聞かない私が、今日は妙に大人しい。 母は知らない。私は脳腫瘍を患っていて、記憶が少しずつ失われていることを。 彼女のあからさまな偏愛も。喉に引っかかり続けていた悔しさや苦さも。 そして――このお金が、本来は手術を受けて命をつなぐためのものだったことすら。 第1話 母は私を眠らせ、その間に私のキャッシュカードを勝手に使った。 そのくせ、あとになって冷たい顔で私を責め立てる。 「たかが二、三百万円でしょ?ほんと、根に持つ性格だよね。 弟がバイクを買うの。誕生日プレゼントだと思えばいいでしょ」 私は素直にうなずいた。 母は一瞬、目を見開く。普段はいちばん言うことを聞かない私が、今日は妙に大人しい。 母は知らない。私は脳腫瘍を患っていて、記憶が少しずつ失われていることを。 彼女のあからさまな偏愛も。喉に引っかかり続けていた悔しさや苦さも。 そして――このお金が、本来は手術を受けて命をつなぐためのものだったことすら。 私が何も言わずにうなずいたのを見て、母は嬉しそうに抱きしめてきた。 「やっと分かったのね。また昔のこと持ち出して、大騒ぎするかと思ったわ」 昔? 正直、どんなだったか、もうほとんど覚えていない。 この空っぽになったカードみたいに、覚えているのは、私が皿洗いをして、少しずつ貯めたお金だということだけ。 でも、何のために使うはずだったのかは、思い出せない。 まあ、いい。お金なんて。 弟や母より大事なものじゃない。 抱き返そうとした瞬間、母はもう腕を離していた。 「安心しなさい。お母さん、弟だけ贔屓してるわけじゃないから。これは急ぎだっただけ。ちゃんと埋め合わせするわ」 母はそう言い残し、足早に出ていく。 背中を見送りながら、胸の奥が少しだけ空いた。 ――お母さん。補償なんていらない。ただ、もう少し一緒にいてほしかった。自分が、あとどれくらい生きられるのか分からないから。 睡眠薬の副作用か、頭はまだぼんやりしている。 刺激されたのか、頭の中の腫瘍まで疼きだす。 私はベッドの上で体を丸め、そのまま意識を手放した。 夢の中で。 完全に消える前の曖昧な記憶が、儚い花のように、ふっと浮かび上がる。 …… 五歳のとき。私は右目を失った。 あの頃、弟と同じ幼稚園に通っていた。 帰りの時間、先生に言われて、小さなリュックを背負い、門の前で大人しく母を待っていた。 迎えに来た母は、私たち一人ずつに、りんご飴をくれた。 弟が生まれた後、いつも誰かがこっそり私に言うの。 「あなたのママ、新しい子ができたから、もうあなたはいらないんだよ」って。 そんなはずない。 だって、私にも弟にも、同じ飴がある。 でも、帰り道で突然、激しい雨が降り出した。 母は迷いなく、唯一のレインコートを弟に着せた。 頭から足先まで、きっちり包んで。 「浩平(こうへい)は体が弱いの。すぐ風邪ひくでしょ」 私には、自分の綿入りの上着を脱いで、被せてくれた。 雨水を吸った上着は重く、冷たく、体に張りつく。 思わず首をすくめた。 それに気づいた母は、私の腕を強くつねた。 「自分の服まであげてるのに、まだ不満? 弟にレインコート脱がせて、病気にさせたいわけ?」 びしょ濡れの母を見て、胸いっぱいに罪悪感が込み上がった。 何も言えなくなった。 やっと家に着くと、弟はレインコートを脱いだ。髪一本、濡れていない。 私の前で、得意げに飛び跳ねた。 「ふん!レインコートは僕のだ! また取ろうとしたら、ママに言って、雨の中に捨ててもらうからな!」 押し込めていた悔しさが、その瞬間、決壊した。 私は飛びかかり、弟ともみ合いになった。 二歳下の弟は力で敵わない。 でも――手には、食べかけのりんご飴の串が残っていた。 硬い竹串が、真っ直ぐ右目に突き刺さった。 激痛。 眼球が潰れ、耳を裂くような悲鳴が漏れた。 物音を聞いて、母が駆けて来た。 けれど、姿が見える前に、苛立った叱責が廊下を抜けて届いた。 「美月!何度言ったら分かるの!弟をいじめないって!」 痛みで声が出ない。床にうずくまり、母が気づくのを待つしかなかった。 血に染まった私の右目を見て、弟の顔が一気に青ざめる。 ばれるのが怖くなったのか、彼は母を止めに走った。 第2話 弟は、体調が悪いと嘘をついた。 母の注意は、一瞬でそちらに奪われた。 「きっと、さっき雨に濡れて風邪ひいたんだわ! 行くよ!すぐ病院!遅らせるわけにいかない!」 玄関に向かいながら、私も雨に濡れたことを思い出したらしい。 振り返って、部屋の中へ声を投げた。 「美月、冷蔵庫に生姜があるから、自分で煮て飲みなさい。あんたも冷えないようにね」 そう言い残し、「バタン」と音を立ててドアが閉まった。 家の中は、瞬く間に死んだように静かになった。 聞こえるのは、私の荒い息だけ。 血と涙が、指の隙間からこぼれ落ち、冷たい床に落ちていた。 痛みで意識が遠のくまで、私は繰り返し呟いていた。 ――「ママ、行かないで」 ――「ママ、こっちを見て」 次に目を覚ましたとき、私は病院のベッドに横たわっていた。 医師は言った。右目は、もう助からない。摘出するしかなかった、と。 ベッド脇には、母が座っていた。顔をくしゃくしゃにして、泣いていた。 私が目を開けると、慌てて涙を拭い、そっと水の入ったコップを差し出してきた。 視界の半分が闇に沈む感覚に、まだ慣れなかった。 怖くて、言葉を返すのを忘れてしまった。 すると、母の感情が一気に崩れた。 自分の頬を、狂ったように叩き始めた。 「ごめんなさい!お母さんが悪かった! それでいいでしょ!他に何を望むの! 私と浩平が死ねば、それで満足なの!」 けれど、気持ちが落ち着くと、今度は声を低くして謝ってきた。 朝から晩まで病院を走り回り、医師の前では膝をついて、どうか娘をお願いします、と頭を下げた。 ほんの数日で、別人みたいにやつれてしまった。 幼い私は、弟を優先する姿を見せつけられながら、それでも母の中には、確かに私への愛もあるのだと感じていた。 その感覚は、雨に濡れきった、あの綿入りの上着みたいだ。 着ても寒い。脱いでも寒い。 八歳の年。 人生で、いちばん絶望した時期だった。 父がギャンブルに溺れ、家の金をすべて失った。 家も。車も。最後には、家族さえも。 離婚の場で、父が有責と判断され、裁判官は母に、どちらの子を引き取るか選ばせた。 母は、考えることもなく弟を選んた。 「美月、浩平はまだ小さいでしょ。手が離せないの。 お母さん、美月は強い子だって信じてる。きっと、自分のことはちゃんとできる」 でも、年の差は、たった二歳だ。 しかも父は、負けが込むと正気を失い、家に戻るたび、人を吊るしてベルトで打ちつけた。 血が流れるまで、やめない。 母は、それを知っていた。 そして、この先、私が何に晒されるかも。 それでも、弟に比べれば、どうでもよかった。 「お母さん!私も、あなたの子だよ!」 裁判所の前で、私は叫んだ。 母は、「美月、ごめんね。必ず迎えに来るから」 それだけを残し、耳を塞ぎ、弟の手を引いて振り返らずに去っていった。 泣きながら追いかけた私は、父に捕まった。 火のついた煙草の先を、腕に押し当てられる。これ以上騒ぐな、と、低く脅された。 二人の背中を見つめながら、涙がぽろぽろと落ちた。 きっと、傷が痛すぎただけ。だから、止まらなかったんだ。 離婚してから。 父は借金までして賭けを続けた。 何日も帰らないことがあり、空腹に耐えきれず、私はゴミ箱を漁って残飯を探した。 そんなとき、弟は何を食べているんだろう、と考えた。 きっと母は弟のために、香ばしいご飯を作ってくれているに違いない。 にんにくの効いたエビ。蒸したカニ。 弟が食べたいと言えば、母は必ず作ってあげるのだ。 だから、私は想像した。 自分も、それを食べているんだ、と。 そう思えば、酸っぱくて臭い残飯でも、どうにか喉を通った。 誕生日。 ようやく母が思い出してくれたのか、ケーキが一つ届いた。 メッセージが添えられていた。 【美月、もう少しだけ我慢して。お母さんにも事情があるの。お金ができたら、必ず迎えに行くから】 そう。事情があった。 分かっていた。理解もしていた。 ただ、捨てられる役が、いつも私なのが嫌なだけ。 悲しくても。 私は大事そうにケーキを持ち帰った。 ろうそくに火を灯す前に。 父の借金取りが、ドアを叩いた。 第3話 入れるわけにはいかなかった。 けれど、木の扉は今にも壊れそうで、次の瞬間には裂けそうな音を立てていた。 私は部屋の隅に身を縮め、唇を強く噛みしめた。 やがて、荒っぽい男たちが扉を蹴破り、カーテンの裏に隠れていた私を、乱暴に引きずり出した。 「おい!親父はどこだ!さっさと金返せ!じゃなきゃ、お前が代わりに身体で払え!」 殺されるんじゃないかと思うほど、彼らの目は血走っていた。 震えながら、私は正直に答えた。 「……どこにいるか、分かりません」 男たちは家中をめちゃくちゃに壊し、金目の物を好き勝手に漁った。 その合間に、こんな踏み倒しの娘なんて、ろくな死に方しない、と罵った。 でも、私は何も悪くない。 どうして、みんな私をいじめるの。 全員が去って、ようやく声を上げて泣けた。 ケーキは床に落とされ、何度も踏みつけられて、見るも無惨な姿になっていた。 きっと、これが運命なんだ。 母の愛も、私は手に入らなかった。 母が送ってくれたケーキさえ、手に入らなかった。 私は這い寄り、汚れたまま掴み上げ、構わず口に押し込んだ。 今年のケーキは、まったく甘くなかった。 母に少し余裕ができてから、月に一度、会いに来るようになった。 父に虐待された痕を見て、母は泣き崩れた。 煙草の火傷。棒で打たれた跡。熱湯をかけられた傷。 誰よりも苦しそうに泣いていた。 「美月、全部お母さんのせい……何もできなくて、ごめんね」 私は彼女の胸に顔を埋め、いつになったら一緒に暮らせるのかと聞いた。 母は、「もうすぐよ。もう少しだけ待って」 そう言うだけだった。 その「もう少し」は、五年も続いた。 弟が病気でお金がかかる。弟の進学で手が離せない。 母には、いつも理由があった。 期待と失望の間を行き来させられ、私は何度も、全身が擦り切れるほど転び続けた。 やがて、分かってしまった。 本気でやりたいことがある人は、先延ばしになんてしないはずだ。 つまり、私はそれほど大事じゃなかった。 しばらくして、借金まみれになった父は、川に飛び込んで自殺した。 私に残った保護者は、母だけ。 裁判所は、再び私を母の元へと戻した。 怯えながら家に戻ると、ずっと迎えに来ると言っていた母は、露骨に苛立った顔をした。 「浩平はね、家に知らない人がいると、耐えられないの。またすぐ騒ぎ出すわ」 言い終えた瞬間、不味いと思ったのか、慌てて言い繕った。 本当なら、傷つくべきだった。 でも、心はもう、何度も切り刻まれて、何も感じなくなっていた。 分かっている。母は、私を愛していた。 ただ、その愛は、弟の前では、簡単に消えてしまう。 だから、私は距離を取ることにした。 中学も、高校も、寮生活を選んだ。 設備は劣悪だった。 冬になると、決まってお湯が止まってしまう。 真っ赤にかじかんだ手で、自分より重たい洗濯物を、たらいで洗っていた。 しもやけは、治っては裂け、裂けては治り、布に張りついて、剥がすたびに、胸を刺すような痛みが走った。 母は、それを可哀想だと言った。 帰っておいで、とも。 でも、誰よりも分かっていた。 あそこは、母と弟の家だ。 母の「心配」も、弟の利益に触れない限りのもの。 一度でも、弟の利益に触れたら―― 私は、母を失ってしまう。 過去の記憶が、走馬灯のように流れ、そして、完全に消えた。 母は、私が根に持つと言っていた。 もしかしたら、神様がそれを聞き届けて、脳腫瘍という形で、嫌な記憶を奪ってくれたのかもしれない。 聞き分けのいい娘に戻れば、母は喜ぶはずだ。 夢から覚めたとき、枕は涙でびっしょり濡れていた。 まぶたが腫れて、痛い。 でも、なぜ泣いたのか、どうしても思い出せない。 少しでも考えようとすると、頭が割れるように痛む。 寝室を出ると、母が大きな皿いっぱいのチェリーを洗ってくれた。 「美月、弟のバイク代、出させちゃって悪いと思ってね。 すぐスーパー行って、輸入のチェリー買ってきたの。いちばん大きくて、真っ赤なの選んだわ。損させてないでしょ」 千二百円のチェリーで、二百数十万円のバイク。 それでも、私はおかしいと思わなかった。 二粒口に入れる。確かに、甘い。 「お母さん、今日、私の誕生日なの。ケーキ屋さんで、一緒にケーキ作らない?」 第4話 母は、少し気まずそうにした。 「……忘れたの?毎週水曜は、私と浩平の親子の時間なのよ……」 でも、私の誕生日は、一年に一度しかない。 結局、間に入ったのは弟だった。 笑顔で、「今日は姉ちゃんがいちばんだよ」 そう言ってくれて、ようやく母は、渋々うなずいた。 家を出ると、弟がタクシーを拾った。 運転手は、半分だけ陰った顔をしていて、目が合うと、充血した瞳の奥に、異様な高揚が宿る。 私は思わず身をすくめる。 すると弟が、薄く笑い、強く私を車に押し込んだ。 「姉ちゃん、先に行ってて。俺、トイレ行ってくるから」 そう言って、走り去る。 母は少し戸惑ったが、お腹でも壊したのかと心配になり、弟を追いかけていった。 残されたのは、車内の私一人。 世界中から、置き去りにされた感覚。 胸の奥に、馴染みのある酸っぱさが込み上げる。 なぜか、この光景を、何度も経験している気がした。 運転手は、ドアをロックし、アクセルを踏み込む。 車は、細い路地へと入り込んだ。 途中、震える声で聞いた。 「……道、間違ってませんか」 返事はない。 やがて車は、廃れた倉庫の前で止まった。 中から、体格のいい男たちが、数人出てくる。 「お前の親父、昔、ギャンブルの借金返せなくて川に飛んだな。そのせいで、俺たち高利貸しは、まとめてムショ行きだ。 やっと出てきたってのに、このツケ、どう落とし前つけるつもりだ?」 そのうちの一人が、勢いよく詰め寄り、私の襟元を引き裂いた。 「本来なら、父親の借金は息子が返すもんだ。でもな、あの腰抜けの弟が、お前を差し出した。好きにしていいってさ。どう遊んでもいいって」 手が、私の体を這い回る。 「いい体だな。さあ、ちゃんと返済しろよ」 父が川に飛び、死んだことは覚えている。 でも、血を分けた弟が、こんなことをするなんて、想像もしていなかった。 一瞬、息が止まる。 男たちは、力任せに私を倉庫へ引きずり込んだ。 抵抗すると、積まれていた金属部品で、頭を殴られる。 感情が崩れた瞬間、脳の奥が、また激しく疼いた。 外も痛い。中も痛い。 そこで、意識が途切れた。 次に目を覚ましたとき、服はすべて剥ぎ取られ、体中、新しい傷と古い傷で覆われていた。 男たちは、もういない。 私はふらつきながら、地面を這って、携帯電話を探した。 居場所を求める子犬みたいに、母に電話をかける。 「美月?今ね、浩平と親子の時間楽しんでるの。誕生日、二日くらい延ばしてくれる?」 受話器の向こうから、母子の笑い声が聞こえる。 分からない。 どうして、母まで、知らない人みたいになったんだろう。 私たちは、いちばん近い存在じゃなかったの? 頭が、また爆ぜるように痛む。 脳腫瘍のせいか。それとも、あまりの苦痛から逃げるための、自己防衛か。 私の記憶は、一瞬で、すべて消えた。 倉庫の中で、私は呆然と立ち尽くす。 自分が誰か。ここがどこか。何が起きたのか。 何一つ、分からない。 帰り道も、思い出せない。 裸のまま、ゴミ箱から段ボールを拾い、体に巻きつけた。 そして、路傍の廃屋の地下室に身を隠す。 でも、夜になると、ネズミやゴキブリが出てきて、噛みついてくる。 恐ろしくなって、慌てて逃げ出した。 けれど、地下室以外に、行く場所が分からない。 三日三晩、さまよい続けて、ようやく、建設中断の建物を見つけた。 そこに、潜り込む。 何日も経つのに、家族は、誰も探しに来ない。 きっと、私には、帰る家がないんだ。 一人で生きるのは、本当に、つらい。 苦しい。 屋上に立ち、何十メートル下を行き交う人々を、蟻みたいに見下ろす。 ここから飛び降りれば、すべて終わる。 それで、楽になれる。 ――その頃。 弟を寝かしつけたあと、母の携帯が鳴った。 近所の人からだ。 「美月ちゃん、家にいないの?散歩中にね、未完成のビルの屋上に立ってる女の子、どうもあの子に見えたんだけど……」 何日も、私が帰っていないことを、ようやく思い出した母は、電話を持つ手を、その場で、凍りつかせた。