愛は沈み、霧だけが晴れ渡る

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愛は沈み、霧だけが晴れ渡る

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結婚七年目。詩織(しおり)は、教職員住宅を購入するため、戸籍謄本を手に役所の窓口を訪れていた。 しかし、そこで窓口の職員から告げられた...

Chương (1)

第1章

結婚七年目。詩織(しおり)は、教職員住宅を購入するため、戸籍謄本を手に役所の窓口を訪れていた。 しかし、そこで窓口の職員から告げられたのは、耳を疑うような言葉だった。「あの……奥さん、この謄本は偽物ですよ」 「まさか」 詩織は自分の耳を疑った。職員の間違いに決まっている。 彼女は努めて冷静に、礼儀正しく頼み込んだ。「すみません、もう一度確認していただけませんか?私の籍は、夫が手続きをしてこちらに移したはずなのですが」 窓口の職員は面倒くさそうにため息をつき、もう一度書類を確認すると、皮肉混じりの視線を詩織に向けた。 「何度見ても同じですよ。この筆頭者・桐島宗一郎(きりしま そういちろう)の戸籍に入っているのは、あなたではありません。妻は『美月(みづき)』、長男は『翼(つばさ)』となっています」 第1話 結婚七年目。詩織(しおり)は、教職員住宅を購入するため、戸籍謄本を手に役所の窓口を訪れていた。 しかし、そこで窓口の職員から告げられたのは、耳を疑うような言葉だった。「あの……奥さん、この謄本は偽物ですよ」 「まさか」 詩織は自分の耳を疑った。職員の間違いに決まっている。 彼女は努めて冷静に、礼儀正しく頼み込んだ。「すみません、もう一度確認していただけませんか?私の籍は、夫が手続きをしてこちらに移したはずなのですが」 窓口の職員は面倒くさそうにため息をつき、もう一度書類を確認すると、皮肉混じりの視線を詩織に向けた。 「何度見ても同じですよ。この筆頭者・桐島宗一郎(きりしま そういちろう)の戸籍に入っているのは、あなたではありません。妻は『美月(みづき)』、長男は『翼(つばさ)』となっています」 詩織は座ったまま凍りついた。頭の中で何かがブンブンと唸っている。まるで絡まった糸玉が転げ回り、ほどけるどころかますます固く絡まっていくようだ。 美月?それは、夫の同僚の未亡人だと言っていた女性ではないか。なぜ彼女が、夫の戸籍に入っているのか。 詩織は震える手で、職員が見せてくれた正規の登録情報を食い入るように見つめた。 【妻:美月、長男:翼】 宗一郎の戸籍には、最初から「詩織」の名前など存在していなかったのだ。 詩織は幽霊のような足取りで役所を出ると、職員が教えてくれた住所――夫の戸籍上の住所へと向かった。 そこへ近づく勇気はなく、ただ生垣の陰から中の様子を伺うことしかできない。屋敷の中からは、楽しげな笑い声が聞こえてくる。 「翼、見てみろ!父さんが大好物のキャラメルを買ってきたぞ」宗一郎が大きな袋を男の子に手渡している。 「わあ!父さん大好き!」翼と呼ばれた男の子が飛び上がり、彼の首に抱きついた。 「もう、あなたったら。手を洗って、ご飯にしましょう」エプロン姿の美月が、台所から優しく微笑みかけていた。 温かな家族の団らん。けれど外に立つ詩織の心は、極寒の氷雪に閉ざされたように冷え切っていた。これ以上直視することができず、彼女は逃げるようにその場を去った。 日がとっぷりと暮れてから、ようやく詩織は自宅に戻った。家政婦の佐藤(さとう)が、詩織の姿を見るなり駆け寄ってきた。 「詩織先生、やっとお帰りになった!旦那様から何度もお電話があったんですよ。繋がらないって、ひどく心配されてました!とにかく、早く折り返して差し上げてください」 詩織は虚ろな目で顔を上げた。その時、電話のベルが鳴り響いた。彼女には聞こえていないかのように反応がないため、佐藤が受話器を取る。宗一郎からだ。 「旦那様、先生がお戻りになりました。ええ、代わりますね」 受話器を耳に当て、電波越しに宗一郎の声が聞こえた瞬間、詩織の目から堪えていた涙が溢れ出した。 「詩織か?どうした、俺がいなくて寂しくなったか?明日、上に休暇を申請して、家に帰るよ」宗一郎はすぐに彼女の異変を察知し、優しく語りかけた。 もし今日という日がなければ、詩織は舞い上がって喜び、彼に「会いたい」と伝えていただろう。 結婚して七年。国防指揮センターの幹部である宗一郎は、夏と冬のわずかな期間しか家に帰らない。詩織はかつて駐屯地への帯同を希望したが、宗一郎は「環境が過酷だから」という理由で拒否した。 詩織は夢にも思わなかった。まさか宗一郎が二重生活を送っており、自分との結婚証明書も戸籍もすべて偽物だったなんて。 「詩織、駐屯地は環境が悪い。君を連れて行って苦労させたくないんだ。俺が手柄を立てて昇進したら、その時はこちらの配属に戻してもらう。そうすれば、ずっと一緒にいられるから」 詩織は今まで一度も疑わず、一度も問い詰めなかった。 彼女は涙を拭い、再び口を開いた。「帰ってこなくていいわ。私、そちらへ行くための帯同申請を出したいの」 「言っただろう、君に苦労はさせたくないんだ……何かあったのか?明日、帰るよ」 宗一郎の声色から滲む心配は、偽りには聞こえなかった。だが、その予想通りの答えを聞いて、詩織の心は不思議と静まり返った。 彼女は涙を拭った。「ううん、なんでもないの。ちょっと風邪気味みたいで」 「そうか。体は大事にしてくれ。佐藤さんに栄養のあるスープでも作ってもらうんだぞ。生徒たちのことも大事だが、君の体が一番大事だ。薬を飲んで、俺に心配かけないでくれよ。休みが取れたらすぐに家に戻るから」 彼はいつものように優しく、情愛に満ちていた。詩織が涙をこらえていると、電話を切る直前、受話器の向こうから子供の声が聞こえた。 「父さん、早く来て!母さんが指切っちゃった!」 ガタン。彼は電話を切る間も惜しんで、受話器を放り出したのだろう。詩織は主のいなくなった受話器の向こうを、一分間、黙って聞いていた。 電話を切ると、彼女は別の番号を回した。 「……佐伯(さえき)教授でしょうか。国立第403研究所の件……お受けします」 電話の向こうで、佐伯教授が問いかける。「詩織さん、決心はついたかね?一度参加すれば、君の身元は抹消される。一生、名前を変えて隠れて生きることになるんだぞ」 詩織の心は決まっていた。「はい」 「わかった。時間はあまりないが、半月後の出発だ。それまでに身辺整理をしておきなさい。迎えの車をやる」 第2話 翌日、放課後になるとすぐに、詩織は校長へ辞表を提出した。 校長は惜しんでくれた。詩織は長年ここで教師を務め、生徒たちからも慕われている。だが、彼には引き留める権利がないことも分かっていた。 「君がいなくなるのは寂しいが、仕方がないな。君と桐島さんのおしどり夫婦ぶりは有名だ。遅かれ早かれ、任地へ帯同することになるだろうとは思っていたよ。彼も、君を一人にしておくのは心配だろうしね」 誰もが、詩織と宗一郎を理想の夫婦だと思っている。その全てが、偽りだとも知らずに。 「校長、それは違います。あの人は……」 言いかけた詩織を、校長は分かった分かったと手で制した。「いいんだよ、照れなくても。私にも若い頃はあったからね。それに、君たちもそろそろお子さんを考える時期だろう?」 詩織は言葉を飲み込んだ。かつて宗一郎を救おうとして重傷を負い、彼女は代償として子供を産めない体になった。 長年、桐島家の親族たちは詩織に冷たかったが、この件についてだけは決して責めなかった。 詩織はずっと、それが宗一郎が両親と戦って守ってくれた結果だと思っていた。 だが違ったのだ。宗一郎には、とっくに自分の子供がいたからだ。跡取りがいるから、詩織を責める必要がなかっただけなのだ。 詩織は黙り込み、それ以上説明するのをやめた。 クラスの引継ぎは後任の教師が行う。詩織に残された仕事は、あと数日で身辺整理を済ませることだけだ。 校門を出ると、少し離れた並木道の下に見慣れた人影があった。宗一郎だ。傍らには車が停まっており、中には人の気配がある。 一緒に下校していた同僚の教師が冷やかす。「あら、桐島さんだわ。詩織先生のお迎えね、羨ましい」 宗一郎はこちらに気づくと、すぐに顔を上げ、小走りで駆け寄ってきた。そして衆目も気にせず、力強く詩織を抱きしめる。 ちょうど下校時間で、生徒や教師たちの視線が集まるが、皆慣れたものだ。何年も前から、彼が帰省した時は必ずこうして校門まで迎えに来ていたのだから。 彼の体から、懐かしい匂いがした。一晩着替えていないであろう、汗と埃の混じった匂い。以前なら、彼を強く抱きしめ返すのが当たり前だった。この埃っぽい匂いこそが、彼が激務の中、自分への愛のために駆けつけてくれた証明だと思っていたから。 詩織は、彼の顎に浮いた無精髭と、目の下のクマを見つめた。言葉を発しようとしたが、喉が詰まり、先に涙がこぼれ落ちた。 「どうした?気分が悪いのか?俺がいない間も自分を大事にしてくれと言っただろう。秋に入ると、冷えるんだ。昨日、君が病気だと聞いて、すぐに休暇を取って夜通し車を飛ばしてきたんだぞ」 宗一郎は慌てた様子で詩織の涙を拭った。その大きく温かい掌が、詩織の頬を包む。彼の瞳は、心配と愛情で満たされているように見えた。 その愛に満ちた眼差しは、まるで切れ味の悪いナイフのように、詩織の心臓をゆっくりと抉った。あまりの痛みに、身を切り裂かれる思いがした。 その時だった。 「こちらが、よくお話に伺っていた詩織先生ですか?」宗一郎の背後から、一人の女性が現れた。美月だ。 詩織の体が強張った。信じられなかった。彼は、あの女を連れて帰ってきたのだ。自分の目の前に。 宗一郎は詩織の異変に気づかず、体を離すと、美月と並んで紹介を始めた。「詩織、紹介するよ。彼女は美月さん……俺の、亡くなった同僚の奥さんだ」 亡くなった同僚の奥さん。詩織の唇が、皮肉な笑みに歪む。なんと答えようか迷っていると、運転手が血相を変えて走ってきて、宗一郎に耳打ちをした。 詩織は宗一郎をじっと見つめていた。報告を聞いた彼は、すぐに詩織に向き直った。「詩織、緊急事態だ。先に帰っていてくれ」 そう言うが早いか、彼は美月の手を取って車に乗り込み、走り去ってしまった。 嘘つき。詩織の耳には、「病院、子供」という単語がはっきりと聞こえていた。 詩織は、自分がどんな気持ちで後を追ったのか分からなかった。気づけば、彼女は町の総合病院にいた。抜け殻のように病室の外に立ち、中から聞こえる宗一郎の怒鳴り声を聞いていた。 「半日も経つのに、なぜ熱が下がらないんだ!点滴の針ひとつ満足に刺せんのか!お前らは何のためにいる!」 応戦しているのは、この病院の看護師長であり、詩織の親友である三好薫(みよし かおる)だった。彼女は眉を吊り上げ、一歩も引かない。「病院で威張り散らさないで!子供が暴れて協力しないから、針が入らないんでしょう。あんたが自分の子供をちゃんと躾けるのが先じゃないの?私の部下に八つ当たりしないで」 「父さん、苦しいよぉ……」ベッドの上で、翼が涙を流して訴えた。顔色は蒼白で、見る者の同情を誘う。 その声を聞いた瞬間、宗一郎の表情が一変した。彼は優しく翼を抱きしめ、あやし始めた。その光景を目の当たりにした薫は、呆然と立ち尽くした。自分の目と耳を疑うように。 「……宗一郎さん。今、この子にあんたを何と呼んでた?」 薫の瞳に怒りの炎が宿った。 「あんた、詩織になんてことしてるか分かってるの!?彼女はあんたを救うために重傷を負って、子供が産めなくなったのよ。それなのに、裏で愛人を囲って隠し子まで作ってたわけ?しかも私の病院に連れてくるなんて……!詩織にバラしてもいいの!?」 空気が凍りついた。宗一郎は低い声で言う。「俺と美月こそが夫婦だ。詩織のためを思うなら、黙っていろ。 俺は詩織を愛しているからこそ、隠しているんだ。だが、桐島家には跡継ぎが必要だ……君は詩織の親友だろう?彼女を傷つけたくないはずだ。今日のことは、言うべきではないと分かっているな」 「頭がおかしいんじゃないの!?私に共犯になれって言うの?」 「君の父親の転属願、俺が見たと言ったらどうする?転任がスムーズに進んでほしいなら、賢い選択をすることだ」宗一郎の視線は冷酷だった。薫は言葉を喉に詰まらせ、沈黙した。 「看護師さん、私が宗一郎さんには不釣り合いなのは分かっています。でも、子供には罪はありません……どうか、助けてあげてください……」美月が泣き崩れる。宗一郎は彼女の手を引き、肩を抱いた。 「俺の息子を粗末に扱う奴は許さん。美月、君も子供のことばかりじゃなく、自分の体を大事にしろ。あとで医者に栄養剤でも処方させる。君は桐島家の大事な功労者なんだ、俺に不釣り合いだなんて馬鹿なことを言うな」 病室の外で見ていた詩織は、限界だった。彼が美月の頬を包むその手つき、その眼差し。それはつい先ほど、校門の前で自分に向けられたものと全く同じだった。 彼は美月を愛おしんでいる。では、自分は?宗一郎にとって、自分は一体何なのか?詩織はよろめきながら後ずさった。その拍子に、通りがかりの患者が持っていたコップにぶつかってしまった。 バシャッ。熱湯が詩織の手の甲にかかり、瞬く間に赤く腫れ上がる。相手は無事だったが、慌てて詩織に声をかけた。「あっ、すみません!大丈夫ですか!?」 詩織は痛みさえ感じていなかった。彼女は何も答えず、振り向きもせずに病院を飛び出した。 第3話 詩織が帰宅した時、手の甲の火傷はひどい水膨れになっていた。その魂が抜けたような様子を見て、家政婦の佐藤は驚いた。 「詩織先生、どうされたんですか!?手がこんなに……すぐに病院へ行って処置しないと。旦那様に電話します!」佐藤は言うが早いか、電話へ向かおうとした。 「佐藤さん、やめて」詩織は彼女の言葉を遮った。「電話しないで。ただの火傷だから、薬を塗れば大丈夫」 「……旦那様に心配をかけたくないんですね?お気持ちは分かります。旦那様は普段、半年に一度しか帰ってこられないのに、今回は先生が風邪だと聞いて二ヶ月で戻ってきてくださったんですものね。こんな火傷を見たら、きっと心を痛められますよ」 佐藤は薬箱を持ってくると、丁寧に軟膏を塗り始めた。「私が強く塗りすぎてませんか?痛くないですか?」 誰もが、宗一郎は詩織を深く愛していると思っている。だが彼らは知らないのだ。宗一郎の愛は、詩織だけに向けられたものではなく、もう一人の女にも注がれていたことを。 詩織はもう片方の手で頬に触れた。いつの間にか涙が伝っていたことに気づき、慌てて拭うと、無理やり笑顔を作った。「ありがとう、佐藤さん。痛くないわ」 佐藤が帰った後、詩織は荷造りを始めた。そこで彼女は気づいた。この家には、夫である宗一郎の痕跡が哀れなほど少ないことに。 結婚してからの数年間、彼が家にいる時間はあまりにも短かった。クローゼットに残された数着の服と、鏡台に飾られたツーショット写真。それ以外には、何もなかった。 すべてに予兆はあったのだ。自分が愚かで、彼を信じすぎていたから、長年その事実に気づかずにいただけだった。 その晩、宗一郎は帰ってこなかった。詩織はベッドで寝返りを打ち続け、空が白む頃になってようやく眠りに落ちた。 翌朝、詩織はリビングからの物音で目を覚ました。佐藤が来たのかと思ったが、そこにいたのは予想だにしない人物――美月と、その息子の翼だった。 翼は椅子の上によじ登り、棚の上に置いてあった木彫りの汽車に手を伸ばしていた。それは詩織にとって最も大切な宝物であり、亡き両親が残してくれた唯一の遺品だった。 「触らないで!」詩織は大声で叫んだ。 翼はびくりと体を震わせたが、手にした木彫りの汽車を離そうとはしない。美月が彼を抱きかかえ、床に降ろした。 「詩織先生、おはようございます。私と翼、しばらくこちらに居候させてもらうことになりました」美月は口元だけで笑っていた。その目は全く笑っていない。 詩織は彼女を無視し、翼の前に歩み寄った。「それを返しなさい」 翼は詩織を睨みつけると、木彫りの汽車を背中に隠し、顎を突き上げて言った。「やだ!僕が見つけたんだから、僕のものだ!」 「詩織先生、子供相手に本気にならないでくださいよ。ただの木のおもちゃじゃないですか。翼が興味を持っただけです。もし宗一郎さんがここにいたら、きっと翼にあげたはずですよ。だって翼は宗一郎さんの息子なんですから……もうご存じなんでしょう?」 詩織は冷ややかな目で美月を一瞥すると、彼女の言葉には取り合わず、翼の手から木彫りの汽車を取り返そうと手を伸ばした。それを見た美月が動いた。 「あら、本当にご存じだったのですね。知っていてまだ宗一郎さんにしがみつくなんて……彼の心の中で誰が一番大事なのか、教えてあげますね」そう囁くと、美月はいきなり翼の背中を強く突き飛ばした。 ドサッ。翼が床に倒れ込み、ワァーッと大声で泣き出した。 「何事だ?」タイミングを見計らったかのように、宗一郎がボストンバッグを手に玄関に現れた。床に座り込んで泣きじゃくる翼を見るなり、彼は大股で近づき、息子を抱き上げた。 「宗一郎さん、詩織先生を責めないで!私がいけないの、翼へのしつけが悪かったから……人の物を見るとすぐに欲しがるような卑しい子になってしまって、全部私のせいです」美月は翼の手から木彫りの汽車をもぎ取った。 「詩織先生、この子はまだ小さくて分別がないんです。これはお返しします」 詩織はただ、両親の形見を取り戻したかっただけだ。美月の芝居がかった台詞など耳に入っていなかった。彼女が手を伸ばして受け取ろうとした、その瞬間。美月は詩織の手が触れるより早く、パッと指を離した。 ガシャン!木彫りの汽車は床に叩きつけられ、無惨にもバラバラに砕け散った。 ああ……それは、両親が残してくれた、たった一つの思い出だったのに。 詩織は胸をえぐられるような思いで、床に散らばった木彫りの汽車を拾い集めた。もう二度と、元の形には戻らない。 「たかが木切れ一つで、よくもこんな小さな子供に手を出せたな」頭上から、宗一郎の冷たい声が降ってきた。 詩織は立ち上がり、宗一郎の目を真っ直ぐに見据えた。「たかが木切れ?他の人は知らなくても、あなただけは知っているはずでしょう!これは私の両親の遺品よ!」 宗一郎の表情が凍りついた。すかさず美月が彼にすがりつき、今にも泣き出しそうな声で言った。「ごめんなさい、私、そんなに大切なものだなんて知らなくて……全部私と翼が悪いの。来るべきじゃなかったんです。宗一郎さん、詩織先生を怒らせないで。私たち、出て行くから」 彼女が出て行こうとする素振りを見せると、宗一郎はすぐに彼女を引き留めた。彼は声を落とし、少しばかりの罪悪感を滲ませた目で詩織を見た。 「翼が病気なんだ。数日だけ、二人がここに泊まるのを許してくれ……その汽車なら壊れてしまったんだ、俺が新しく作ってやる。それでいいだろう?」 詩織は呆れて乾いた笑いが漏れそうになった。鼻の奥がツンと痛み、熱いものが込み上げてくる。 「ええ、いいわよ。好きなだけ泊めればいいわ。どうせ私は、もうすぐ出て行くんだから」 彼女は壊れた汽車の欠片を袋に大切にしまうと、背を向けて歩き出した。その時、宗一郎が強い力で詩織の手首を掴んだ。「出て行く?……どこへ行くつもりだ」 第4話 宗一郎は強い力で手首を掴んで離さない。詩織は振りほどこうとしたが、彼はさらに力を込め、執拗に詩織の瞳を覗き込んだ。「どこへ行くつもりだ」 「離して、私は……」詩織が必死に抵抗し、言葉を発しようとしたその時、視界の端に、彼が美月と翼の荷物を持っているのが見えた。 その瞬間、美月の手が伸びてきた。彼女は片手を宗一郎の手の甲に重ね、もう片方の手で詩織の二の腕を優しく撫でた。すると、宗一郎の手からスッと力が抜けた。 「宗一郎さん、そんなに強く掴んだら詩織先生が痛がりますよ。先生は学校へ行かれるんでしょう?安心して、翼が壊したものは、私が必ず弁償しますから」 「必要ないわ」詩織は冷たく言い放った。 彼女は美月の手を振り払うと、振り返らずに家を出た。気にするな、気にするなと自分に言い聞かせる。けれど脳裏には、先ほど美月と宗一郎が手を重ね合っていた、あの親密な光景が焼き付いて離れない。 思い出すだけで、胃の奥から酸っぱいものがこみ上げ、吐き気を催すほどだった。 詩織はその不快感を押し殺し、学校へ着くとクラスの学習進捗をノートにまとめ始めた。もうすぐ自分はいなくなる。それでも、残される生徒たちのために、できる限りのことをしておきたかった。 午後、詩織は教室に入った。生徒たちに、自分が辞職して学校を去ることを告げるつもりだった。しかし、口を開こうとしたその時、ノックの音がして校長が入ってきた。 「詩織先生、この子を数日だけクラスで預かってやってくれないか。桐島さんの遠い親戚だそうだ。話は聞いているね?」 詩織の手の中で、チョークがパキリと音を立てて折れた。爪とチョークが擦れる不快な感触以上に、校長の言葉が詩織の神経を逆撫でした。 聞いていない。彼は何も言わなかった。遠い親戚?自分が上手く隠し通せていると思っているのだろうか。あの親子を家に連れ込んだだけでなく、学校にまで連れてくるなんて。宗一郎は、自分をそこまでの馬鹿だと思っているのか。 校長に背中を押され、翼が教室の一番後ろの空席に座った。詩織は全身がカッと熱くなるのを必死に抑え込んだ。 ここは学校で、翼は生徒だ。詩織はくるりと背を向け、ぎゅっと一度目を閉じると、平静を装って黒板に向かい、授業を始めた。 授業中、翼は何度も騒いで邪魔をした。詩織はその都度注意したが、彼は反省するどころか増長し、終了間際になると、前の席の女の子の髪の毛をハサミで切り落としたのだ。 「翼くん、職員室に来なさい!」 放課後の職員室には、詩織と翼の二人きりだった。詩織は初めて、まじまじとこの子供を観察した。彼は宗一郎の体格を受け継いでいるのだろう、まだ六歳のはずなのに、同級生よりも頭一つ分背が高い。その目元も、宗一郎と瓜二つだった。 詩織は深く息を吐いた。子供に罪はない。憎むべきは宗一郎であって、この子に八つ当たりしてはいけない。そう自分に言い聞かせた。 「明日、お母さんに頼んで低学年のクラスに移してもらいなさい。ここは三年生のクラスよ。あなたはまだ六歳なんだから、授業についていけないでしょう」 しかし、翼の口から飛び出した言葉に、詩織は耳を疑った。 「六歳なんかじゃない!僕はもう八歳だぞ!」 詩織がページをめくる手が止まった。風が吹き込み、ノートの紙がパラパラと乾いた音を立てる。聞き間違いだと思った。彼女は呆然とした表情で、もう一度問いかけた。 「……八歳?」 「そうだよ、八歳だ!」翼はそう言うと、入り口に美月の姿を見つけ、嬉しそうに駆け寄っていった。 美月は翼を抱き寄せ、怪我がないか確認してから、詩織の元へ歩み寄ってきた。「詩織先生、すみません。翼がまた悪さをしたんでしょう。私がきつく叱っておきますから」 そう言うと、彼女は机の上にあった三角定規を手に取り、翼のお尻を叩き始めた。翼は大げさに泣きわめく。詩織は激しい頭痛に襲われた。耳元で、翼の「僕は八歳だ」という言葉が何度も繰り返され、走馬灯のように過去の記憶が蘇る。 プロポーズの日、宗一郎は片膝をつき、宝物を扱うように言った。「詩織、一生君を愛し、大切にするよ。俺と結婚してくれ」 彼を庇って重傷を負い、病院で目覚めた日、彼は涙を浮かべて言った。「詩織、たとえ子供が産めなくなっても構わない。俺は絶対に君から離れない」 何度も帯同を願い出た時、彼は強く抱きしめて誓った。「詩織、君に苦労はさせたくない。手柄を立てたらここに戻してもらうから。そうすれば、ずっと一緒にいられる」 目の前の美しい思い出が、音を立てて崩れ去っていく。翼の泣き声が、詩織を現実へと引き戻した。 翼は八歳だと言った。結婚生活は七年。つまり、宗一郎は最初からずっと、詩織を騙していたのだ。この七年間、一日たりとも真実などなかったのだ。 「いい加減にしなさい!」美月が突き飛ばすふりをすると、翼がよろめいて机や椅子をなぎ倒し、詩織の足の甲に倒れ込んできた。 「っ……!」詩織は反射的に立ち上がったが、突然、下腹部に激痛が走り、立っていられなくなった。それでも痛みを堪え、倒れた机を起こそうとしたその時、美月がわざとらしく足を出し、詩織を躓かせた。 「詩織先生!いくら子供がいたずらをしたからって、こんなに酷く叩くなんて!」美月は泣きながら翼を抱き起こした。 「どうしたんだ!」そこへ、宗一郎が鬼のような形相で職員室に飛び込んできた。彼は足首を抑えて泣く翼を見るなり、すぐに抱き上げた。 「宗一郎さん、詩織先生を責めないであげてください。翼が悪いんです、叩かれて当然なんです……」 詩織は、これほど白々しく嘘をつける人間を見たことがなかった。彼女は腹部の痛みに耐えながら、どうにか体を起こした。「翼くん、正直に言いなさい。誰が君を叩いたの?」 翼は視線を泳がせると、宗一郎の胸に顔を埋めた。「……先生が、僕を打ったんだ」 詩織は言葉を失った。まさか、子供まで嘘をつくなんて。「嘘つき!私がいつ……」 「いい加減にしろ!」宗一郎が怒鳴った。「子供が嘘をつくわけがないだろう!詩織、君が教え子にこんな暴力を振るうなんて思わなかった。教師としての誇りはどこへ行ったんだ!」 詩織は呆然と彼を見た。下腹部の痛みは増す一方で、血の気が引いていくのが自分でも分かった。「……あなたこそ、ずいぶんその子を心配してるのね。ただの同僚の子供に対して、そこまで必死になるなんて。その子は本当に、同僚の子なの?それとも……」 「きゃあ!翼が痛さで気絶しちゃったわ!早く病院へ!」美月の悲鳴が遮った。宗一郎は翼の閉じた目を見て、詩織の言葉など聞く耳を持たず、背を向けて走り出した。 遠ざかる彼の背中を見つめながら、詩織の腹部を再び激痛が襲った。彼女は糸が切れたように、その場に崩れ落ちた。 ちょうど通りかかった同僚の教師が、倒れている詩織を見つけ、慌てて駆け寄ってきた。「詩織先生!?しっかりして!」 詩織は波のように押し寄せる痛みに耐えながら、同僚の袖を死に物狂いで掴んだ。「そ、宗一郎さんが……今、出て行ったの……彼を呼び戻して、病院へ……」 「分かったわ、すぐに呼んでくる!」同僚はすぐに飛び出していった。詩織にとって、これほど長く感じる時間はなかった。やがて同僚が戻ってきたが、その隣に宗一郎の姿はなかった。 「だめだったわ、桐島さん、急いでいるみたいで……私の話も聞かずに車を出して行ってしまったの!」 その言葉を聞いた瞬間、詩織の意識の糸がプツリと切れた。目の前が真っ暗になり、彼女は深い闇の中へと沈んでいった。 第5話 詩織は、とても長い夢を見ていた気がした。 夢の始まりは、宗一郎が自分に注いでくれた惜しみない愛だった。けれど夢の終わりには、一人の女が子供を連れて現れ、こう告げるのだ。「全ては嘘よ」と。 七年間の結婚生活は偽りだった。宗一郎の愛も偽りだった。最初から最後まで、何もかもが作り物だったのだ。 詩織は夢から覚めた。廊下から、看護師たちの話し声が聞こえてくる。 「あの子、足の皮がちょっと擦りむけた程度でしょう?なんで毎日消毒に来るの?」 「桐島さんの亡くなった同僚の子供だもの。桐島さんがすごく大切にしていて、毎日付き添ってるのよ」 「でも、あの付き添いの女性、桐島さんを見る目が単純じゃないわよね……それにしても桐島さんもどういうつもりなのかしら。自分の奥さんが妊娠して入院してるのに、一度も顔を出さないなんて」 「一度も来てないの?もしかして、奥さんが妊娠してること、知らないんじゃない?」 詩織の心臓がドクリと跳ねた。彼女は震える手を布団の中で、そっと下腹部に触れた。 妊娠?自分が? 涙が自然と溢れ出した。かつては、どれほど望んだことだろう。彼との子供が欲しいと、どれほど願ったことだろう。だか、今となっては…… この子は、来る時を間違えてしまったのだ。 「詩織!目が覚めたのね」病室に入ってきた薫が、詩織が起きているのに気づいて駆け寄ってきた。手に持っていたカルテを置き、すぐに枕の位置を調整して体を支える。 「どうしてナースコールを押さないの。気分はどう?お腹はまだ痛む?」薫は詩織の世話をしながら、心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。 詩織は親友の顔を見つめた。あの日、薫が宗一郎に対して激怒し、真実を隠そうとする彼を責めていたことを思い出す。彼女が黙っていたのは、宗一郎に脅されていたからだ。詩織は薫を責めるつもりはなかった。 「薫……この子は、産めないわ」 薫の動きが止まった。ショックを受けたように目を見開く。しかし、詩織の瞳は澄んでいて、その決意が固いことは明らかだった。 「詩織、よく考えて。あんたの体は……前に大怪我をしているでしょう?もし今回この子を諦めたら、二度と母親になるチャンスはないかもしれないのよ……」 「分かってる」詩織は静かに言った。「でも、もう全部知ってしまったの……この子は産むわけにはいかない。お願い、彼には言わないで」 薫は何か言いかけたが、唇を噛み締め、言葉を飲み込んだ。彼女は詩織の手を力強く握りしめた。「……分かったわ。私が手配する」 その日の午後になって、ようやく宗一郎が病室に現れた。彼は以前と変わらず、献身的で優しい夫を演じていた。その視線は片時も詩織から離れない。 詩織が起き上がろうとすれば、すぐに手を貸して背中にクッションを当てる。唇が乾いたような仕草をすれば、何も言わずとも水を用意して口元に運ぶ。 完璧な夫だ。しかし、彼がどれほど尽くそうとも、詩織の心はさざ波ひとつ立たず、冷え切ったままだった。 コンコン。ドアが開き、薫が入ってきた。宗一郎がいるのを見て、彼女は少しぎこちない表情を作った。「詩織、……準備をして。時間よ」 薫はそれだけ言うと、すぐに出て行った。宗一郎が眉をひそめる。「準備?何の準備だ?」 詩織は表情を変えず、彼の手をそっと払いのけた。「退院前の検査があるの」 「そうか。なら、俺も一緒に行くよ」宗一郎が立ち上がった、その時だ。 「宗一郎さん!」美月が血相を変えて病室に飛び込んできた。「翼が……ずっと痛いって泣き叫んでて、あなたに来てほしいって!」 宗一郎の表情が強張った。彼は詩織と美月を交互に見て、一瞬の躊躇の後、申し訳なさそうに言った。 「詩織、すまない。翼の様子を見てくる。検査には後で行くから」 詩織は最初から期待などしていなかった。「ええ」淡々と答える。 宗一郎は胸の奥に違和感を覚えた。彼女の様子がどこかおかしい。以前なら、「行かないで」と言うか、少なくとも寂しそうな顔をしたはずだ。彼は病室を出る直前、もう一度振り返った。 詩織は窓辺に立ち、静かに彼を見送っていた。その姿を見て、宗一郎は安堵の息をついた。考えすぎか。彼女は自分を愛している。変わるはずがない。 第6話 中絶手術はあっという間だった。ただ一眠りしただけのような感覚。けれど目が覚めた時には、体の中から何かが消え失せていた。まるで、最初から存在しなかったかのように。 宗一郎は病院に戻ってこなかった。翌日、詩織は一人で退院し、自宅へ向かった。 玄関のドアが少し開いていた。中に入ろうとして、足が止まった。リビングで、宗一郎と美月が抱き合っていたからだ。 美月の途切れ途切れの喘ぎ声が聞こえる。「宗一郎さん……まだ、昼間よ……」 宗一郎の声は低く、情欲に濡れていた。「昼間がどうした?翼は学校だ。何を怖がることがある?……誘ったのは君だろう」 詩織は釘付けにされたように動けなかった。室内では、宗一郎がすでに限界を迎えていた。彼は美月の手を自分のベルトへ導き、しわがれた声で命じた。「さあ、外せ」 詩織は自らを罰するかのように、その光景を見つめ続けた。目は焼けつくように痛み、心臓は痙攣したように苦しい。それでも、彼女はそこから動けなかった。 宗一郎の腕に血管が浮き上がり、耳が赤く染まる。その広い背中が美月をすっぽりと覆い隠す。彼が情欲に溺れる時のその姿を、詩織は嫌というほど知っていた。 かつて数え切れないほどの夜、彼が同じ姿で自分を愛したことを思い出し、詩織は強烈な吐き気に襲われた。 「うっ……オエッ……」 えずく音が、二人の行為を中断させた。我に返った宗一郎が慌てて服を整え、玄関に駆け寄る。そこには、涙を流しながら苦しそうにえずく詩織がいた。 彼は詩織の肩を抱いた。「詩織!?どうした、まだ入院中じゃなかったのか?」 彼の手のぬくもりが服越しに伝わり、詩織は総毛立つような嫌悪感を覚えた。彼女は後ずさり、彼の手を振り払った。「触らないで!……汚らわしい!」 目の前が暗くなり、呼吸ができない。倒れそうになった体を、宗一郎が抱き留めた。 「詩織!怒るのはいいが自分の体も大事にしろ。悪いのは俺だ。美月は関係ない。見られたなら隠し立てはしない。ここ数年、美月には苦労をかけたんだ。君が殴ろうが罵ろうが、受け入れる」 詩織は想像していた。バレた瞬間、彼が泣いて謝る姿を。あるいは土下座して許しを請う姿を。けれど、こんな開き直った態度は予想外だった。 彼の目には多少の罪悪感はあるものの、あまりに堂々としていた。失望が頂点に達すると、人は逆に冷静になるものだ。 「……どうぞ続けて。私は忘れ物を取りに来ただけ。すぐ学校へ行くわ」 その平然とした態度が、逆に宗一郎を無性に苛立たせた。彼は詩織の腕を強引に掴んだ。「詩織、これ以上俺にどうしろと言うんだ?君は子供が産めない体だ。それなのに俺は、ずっと君を守ってきただろう?俺がどれだけ君を大事にしてきたか、周りも知っているはずだ。 君はもうすぐ三十だぞ。俺と別れて、誰がもらい手になってくれると言うんだ?俺を愛しているなら、俺の愛する人くらい受け入れられないのか?たかが男なら誰でも犯す過ちじゃないか。一度くらい許せないのか?」 「……そうね!全部私が悪かったわ。あなたには何の非もない。悪いのは私よ、男を見る目がなかった私が悪いの。あの時、あなたを庇って刺されたりしなければよかった!」 言葉にした瞬間、心臓が再び引き裂かれるようだった。詩織の悲痛な叫びに、宗一郎もハッとして口をつぐんだ。言い過ぎた、と後悔の色が見える。彼は態度を変え、なだめるように言った。 「すまん、俺がどうかしていた。詩織、許してくれ……学校へ行くんだろう?送っていくよ」 詩織は無視して歩き出した。宗一郎は金魚のフンのようについてくる。道中、近所の住人が声をかけてくる。「桐島さんは本当に愛妻家だねえ。毎日奥さんの送り迎えなんて」 かつてはこの言葉を聞くたびに幸せを感じていた。彼の愛は公認だったから。けれど今、その言葉は鋭利な刃物のような皮肉にしか聞こえない。 終始無言のまま校門に着くと、宗一郎は強引に詩織を抱きしめた。「話は夜にしよう。放課後、迎えに来るから」 「結構よ」詩織は冷たく拒絶した。 今日は後任の教師への引き継ぎだ。授業はもう新しい先生が担当しているため、詩織は職員室で資料の整理をしていた。放課後になり、すべての引き継ぎを終えた。 あと七日。七日後には、詩織はこの地を去る。 校門を出た時、無意識にあの並木道の下に目をやってしまった。自分を嘲笑う。体が覚えているのだ。何年も、宗一郎が帰省中は必ずあそこで待っていたから。 ふと我に返った時だった。どこからともなく美月が現れ、詩織の腕を掴むなり、その場に土下座した。 「詩織先生!私が嫌いなら私を追い出せばいい!でもお願い、私の子供を殺そうとするのだけはやめてください!あの子は私の命なの!」 第7話 詩織が美月の言葉の意味を理解するより早く、宗一郎が美月を無理やり引き剥がして立たせた。美月は泣き叫んでなおも膝をつこうとするが、宗一郎が抱きかかえるようにしてそれを止める。 「詩織!俺を恨むのはいいが、子供に手を出すのは違うだろう!翼がどこにいるか教えてくれ、そうすれば美月も罪には問わないと言っている!」 宗一郎の声は、校門にいる全員に聞こえるほどの大きさだった。好奇の視線が四方八方から詩織に突き刺さる。だが彼女は動じず、背筋を伸ばして宗一郎の目を真っ直ぐに見据えた。 「何の話?今日、一度も翼くんを見ていない」 「詩織先生……ご自分が子供を産めないからって、翼が宗一郎さんの家にいるのが許せないのは分かります。でも、子供は無関係よ!どこに隠したの、お願い教えて……!」 美月が宗一郎の腕を振りほどき、詩織に掴みかかってきた。鋭い爪が二の腕に食い込む。詩織が顔をしかめて後ずさり、彼女を振り払おうとしたその時―― パァン!乾いた音が響き、詩織の頬に焼けるような痛みが走った。 「このうまずめが!孫が産めないくせに、何年も息子に寄生しやがって!さっさと白状しな!私の可愛い孫をどこへやったのよ!もし少しでも怪我をさせてたら、ただじゃおかないよ!」 強烈な平手打ちを食らい、詩織は地面に倒れ込んだ。口元が熱を持ち、みるみる腫れ上がっていくのが分かる。見上げると、腰に手を当てて喚き散らしているのは、宗一郎の母・桐島房江(きりしま ふさえ)だった。周囲の人々の視線が、同情から軽蔑へと変わっていくのが肌で感じられた。詩織の心臓は、氷のように冷え切っていった。 「……隠してなど、いません」 宗一郎が視線を落とし、詩織に手を伸ばそうとしたその時だった。「見つけました!」部下の叫び声が響いた。 全員の視線が声の主に向く。泥だらけになった翼を抱えた部下が走ってきた。宗一郎は大股で近づき、息子を受け取ると、怪我がないか全身をくまなく確認し、安堵の息を漏らした。 美月も慌てて駆け寄る。「翼!お母さん心配したのよ!もう勝手にどこか行っちゃだめじゃない!……誰に連れて行かれたの?誰がこんなことをしたの?」 「……あいつ。あいつが僕を捕まえて、裏山に捨てたんだ!」翼は震える指で、地面に座り込んだままの詩織を指差して大声で叫んだ。 それを聞いた房江がヒステリックに叫ぶ。「やっぱりこの女だね!誰か、彼女を反省部屋へ放り込んでおしまい!頭を冷やさせるんだ!」 命令を受けた二人の部下が前に出て、詩織の腕を掴んで乱暴に引きずり起こす。詩織の蒼白な顔を見て、宗一郎の瞳が揺れた。「母さん、それは……」 「お黙り!悪いことをしたら罰を受ける。当たり前のことだよ」 詩織は宗一郎を見た。「言ったでしょう、私じゃないって」 宗一郎は背を向け、彼女を見ようとしなかった。「……悪いことをしたら、罰を受けるべきだ。反省が済んだら、迎えに行く」 その低い声を聞いた瞬間、詩織の中にわずかに残っていた、宗一郎への最後の一欠片の気持ちも、跡形もなく消え失せた。 詩織は狭く暗い反省部屋に放り込まれた。壁の隅にうずくまり、小さな鉄格子から差し込むわずかな光を見つめるだけの日々。 三日が過ぎた。宗一郎は一度も来なかった。毎日差し入れられる食事は、腐ったような異臭を放っており、詩織は一口も手をつけなかった。ただ窓の外の光を見つめ、時間が過ぎるのを祈った。 四日目の夜。コンコン、と壁を叩く音がした。 「詩織先生。これで分かったでしょう?宗一郎さんの心にいるのが誰なのか……あんたは私には勝てないのよ」 鉄格子の向こうから、美月の勝ち誇った声が響く。詩織は言い返す気力もなく、力なく口元を歪めただけだった。 「大人しくしているからって、何を考えているか分からないとでも?……もう二度と、私の男に近づかせないわ。死んで」 美月は火のついた干し草の束を、鉄格子の隙間から室内へ投げ込んだ。乾いた草は瞬く間に燃え広がり、火の勢いが増していく。詩織は這うようにドアへ向かい、力一杯叩いて助けを求めた。「開けて!誰か!火事が!」だが、誰も答えない。 どれくらい時間が経っただろうか。もう駄目だ、炎に飲まれる、と思ったその時。 ドォン!激しい音と共に、扉が外から蹴り破られた。 「詩織さんですね。第403研究所の者です。プロジェクトが前倒しになりました。今夜出発します。ここは組織が『焼死』に見せかけます。あなたの戸籍を抹消するために」 詩織は男に支えられ、火の海から脱出した。車に乗り込み、新鮮な空気を必死に吸い込む。 エンジンが掛かり、車が走り出す。サイドミラーに映る炎は、次第に小さくなっていった。詩織はついに意識を手放した。薄れゆく意識の中、彼女の唇には微かな笑みが浮かんでいた。 ここから、自分の新しい人生が始まる。宗一郎、これでもう、永遠にさようなら。