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風に散る霧、過ぎし日の痕
病院でCRT、すなわち認知機能リハビリテーションを受けていた三浦夢乃(みうら ゆめの)は、警察から一本の電話を受けた。 「もしもし、三浦さ...
Chương (1)
第1章
病院でCRT、すなわち認知機能リハビリテーションを受けていた三浦夢乃(みうら ゆめの)は、警察から一本の電話を受けた。
「もしもし、三浦さん。ご主人の墜落事故による行方不明の件で、新しい情報が入りまして......」
その言葉を聞いた瞬間、夢乃は嬉しさと緊張で胸がいっぱいになり、点滴を乱暴に抜き取った。
目を赤くしながら、急いで警察署へ向かった。
しかし――
ずっと思い焦がれてきた、あの懐かしい横顔の傍らには、一人の女が立っていた。
「ねぇ、礼。私、まだお腹すいてるんだけど?いつまで仕事してるの?
早く帰って、私を満たしてよ?」
甘えるような声。
その奥には、明らかな挑発が滲んでいた。
一瞬で、夢乃の期待は奈落へ落ちていった。
彼は――
一年もの間、事故で失踪した夫の佐藤風雅(さとうふうが)ではなかった。
彼はその双子の弟、もうすぐ義妹の三浦茜(みうらあかね)と婚約するはずの男、佐藤礼(さとうれい)だった。
再び押し寄せる失望。
夢乃は、無理に引き抜いた点滴跡の、青紫に腫れた腕を押さえながら、ひとりで警察署を後にした。
視界が熱く滲むまま、暗い通路に歩みを進めたその時――
「風雅兄さん!」
茜の声が、静寂を裂いた。
夢乃は、その場に立ち尽くした。
第1話
病院でCRT、すなわち認知機能リハビリテーションを受けていた三浦夢乃(みうら ゆめの)は、警察から一本の電話を受けた。
「もしもし、三浦さん。ご主人の墜落事故による行方不明の件で、新しい情報が入りまして......」
その言葉を聞いた瞬間、夢乃は嬉しさと緊張で胸がいっぱいになり、点滴を乱暴に抜き取った。
目を赤くしながら、急いで警察署へ向かった。
しかし――
ずっと思い焦がれてきた、あの懐かしい横顔の傍らには、一人の女が立っていた。
「ねぇ、礼。私、まだお腹すいてるんだけど?いつまで仕事してるの?
早く帰って、私を満たしてよ?」甘えるような声。その奥には、明らかな挑発が滲んでいた。
一瞬で、夢乃の期待は奈落へ落ちていった。
彼は――
一年もの間、事故で失踪した夫の佐藤風雅(さとうふうが)ではなかった。
彼はその双子の弟、もうすぐ義妹の三浦茜(みうらあかね)と婚約するはずの男、佐藤礼(さとうれい)だった。
再び押し寄せる失望。
夢乃は、無理に引き抜いた点滴跡の、青紫に腫れた腕を押さえながら、ひとりで警察署を後にした。
視界が熱く滲むまま、暗い通路に歩みを進めたその時――
「風雅兄さん!」茜の声が、静寂を裂いた。
夢乃は、その場に立ち尽くした。
「風雅兄さん。今回は本当にただの誤報で良かったね。
もしあの事故で墜落したっていう弟さんに本当に消息があったら──
あなたが同じ顔を利用して、彼の身分と婚約者を横取りしてるってこと、全部バレちゃうところだったわよ?」
「どうしたの?まさか怖くなった?」
「私はね......ただ、夢乃に、またあなたを奪われるんじゃないかって、それだけが怖いの。
だって......あの頃、海外であなたと一緒に留学してたとき、彼女が突然会いに来なければ、あなたに婚約者がいるなんて知らずに、あんなふうに傷ついて一人で帰国したりしなかった。
それから母と一緒に三浦家に引き取られて......私は三浦家の次女になって、礼と政略結婚することになって──」
茜は唇を尖らせながらも、どこか甘えるようにつぶやいた。
その仕草に、風雅の瞳がわずかに揺れる。
「馬鹿だな。忘れたのか?一年前......俺は会社の研究施設にある記憶ポッドを使って、夢乃の俺に関する記憶は全部整理して消しておいたんだ」
――ドーンッ。
その瞬間、夢乃の頭の中で雷が落ちたように、世界がひっくり返った。
全身の血が、一瞬で凍りつく。
身代わりの偽りの身分?記憶の消去?信じられない。
暗がりの中、同じ顔なのに、まったく別人のように見える横顔を夢乃は見つめた。
車にもたれかかった身体が、理由もなく細かく震え始めた。
......
「でも......二人は幼なじみでしょ?本当に彼女のこと、もう......愛してないの?」茜が不安そうに探るように問う。
風雅は茜の腰を抱き寄せ、唇の端をゆっくり上げた。
「子どもの頃の淡い恋なんて、今の......君への欲には敵わないよ」
茜は恥じらうように、指先で彼の胸元をなぞる。
その仕草に風雅の呼吸が荒くなり、茜をマイバッハのボンネットに押し倒した。
唇を奪われ、舌が絡むほどに深くキスを交わした。指が触れ合い、身体が熱を帯び──
「風雅兄さん......っ、ここ......外だよ......」
風雅は茜の耳たぶを甘く噛み、低く笑った。
「さっきお腹すいたって言ったのは、どこの誰だった?
......ほら、今からたっぷり食べさせてやるよ」
交わる甘い声が、夜気の中に漏れた。
夢乃の顔色は、紙のように真っ白になっていた。
自分の名前を口にするときだけ、酷く冷えるような声になる男。
いま別の女を抱いている男。その男が夢乃の最愛の夫、風雅だった。
彼女の喉から、乾いた笑いが漏れた。涙が止まらず、視界を曇らせる。
胸を裂くような痛みに追われながら、夢乃は車を走らせた。
記憶の断片が、嵐のように脳内で暴れ出す。
けれど、どれも完全につながらない。混乱、痛み、恐怖。
「──ッ!」
大型トラックとの激突音だけが世界を切り裂いた。
強烈な衝撃。息が詰まる眩暈。額から落ちる血が、唇に鉄の味を残す。
その瞬間──
記憶ポッドで混乱させられていた記憶が一枚一枚、夢乃の中に戻ってきた。
......
一年前──夢乃と風雅は入籍したばかりだった。
その直後、長年行方不明だった礼が、家に戻された。
三浦家の父は、茜を礼との婚約に推した。
礼が海外出張へ行き、飛行機事故で行方不明になった頃──
佐藤家の研究施設で「記憶ポッドの事故」が起きた。
それは、夢乃の母が生前研究していた技術。
夢乃は、真相を確かめるため自ら装置に入り......
その隙に風雅は、夢乃の記憶を都合のいいように書き換えた。
だが帰宅途中に事故に遭い、夢乃の脳はさらに混乱した。
激しい頭痛、断片記憶、混乱。
そして延々と続く認知機能リハビリテーション治療。
思い出した瞬間、夢乃の涙はまた溢れた。
彼女と風雅は、幼い頃からずっと一緒に育った幼馴染だ。
家同士の身分も釣り合っていた。
そして二人がまだ子どもの頃、両家の大人たちはすでに二人を許嫁として決めていた。
青春の、あの淡い恋の始まりも——告白したのは風雅の方からだった。
その日から、彼は彼女を本当に大切にし、甘やかし、守ってくれた。
特に、三浦父の裏切りと三浦母の突然の死。
あのどうしようもない絶望の時。
風雅は、遠い海外の大学から夜通しで飛行機に乗り、すぐに戻ってきた。
強く抱きしめてくれて、ずっとそばにいてくれた。
そして何度も、何度も、約束してくれた。
「夢乃。俺がいる。ずっと愛してる。どんな時も、そばにいるから」
その後、二人は婚約し、結婚した。すべて順調で、当然の流れのように思えた。
……あの突然の事故が起こるまでは。
けれど今——
真実を知ってしまった今——
かつての情熱も、大切にされた記憶も、全部が嘘みたいに思える。
彼女を支えてくれた日々。彼を想い続けた夜。愛を失った苦しさと崩れ落ちるような痛み。
その全部が——
他の女のために、最愛の夫が自分の手で仕掛けた罠と偽りだったなんて。
......
再び目を開けた時、自分は病院のベッドにいて、隣には誰もいなかった。
点滴の血が逆流し、手のひらを赤く染めた。身体より、心の方が痛かった。
その時──
病室の扉が乱暴に開いた。
「夢乃!大丈夫か?どうして事故なんて!」焦った声。
その声色に、礼であるはずの男は、思わず素の自分を出してしまった。
夢乃がじっと見つめると、彼は慌てて表情を整えた。
「ゆ、夢乃......無事で良かった。
もし何かあったら......兄さんに合わせる顔がないよ」
夢乃はかすかに笑った。
「兄さんに......ね?礼......」
言いかけた瞬間、茜が飛び込んできた。
「礼っ!どうして私を呼んでくれないの?
もしかして......昨日の夜、私が疲れちゃってるの、心配だった?」
風雅の目が一瞬だけ泳いだ。
「茜、ふざけるな。夢乃はケガしてるんだぞ」
「......あ、そうだ。お姉ちゃん、ごめんなさい。
全部、礼が昨日、私を......その、寝かせてくれなくて──
でもお姉ちゃんの顔に傷がなくて良かった。
だって一ヶ月後の私たちの婚約式に、綺麗な顔で来てもらわないとね?」
茜の一言一言が、鋭い棘になって夢乃の胸に突き刺さる。
さらに、茜は夢乃の腕を掴み、点滴針の跡をわざと強く押しつけた。
ずきり、と激痛が走る。
夢乃は咄嗟に茜の手を振り払った。
乾いた音と共に、茜の頬に赤い跡がついた。
その瞬間、薬を取りに出ていた風雅が戻ってきた。
茜はすぐさま風雅の胸に飛び込み、泣きついた。
「お姉ちゃん!
私、お姉ちゃんに嫌われてるのは分かってるけど......
でも、殴るなんて......ひどいよ!」
風雅は激昂し、茜を抱き締めた。
「夢乃......お前、どうかしてるのか?
茜はお前の妹で、そして......俺、礼の妻なんだぞ!」
夢乃は乾いた笑いを漏らした。
「妹?......ふん。
どうせ三浦家の出来の悪い継娘じゃない」
「──ッ!」
風雅の額に青筋が浮かぶ。
「夢乃。茜の顔に傷が残ったら......
兄さんが生きていようがいまいが、俺は絶対にお前を許さない」
そう言い捨て、風雅は茜を抱いたまま病室を出て行った。
扉が閉まった瞬間、夢乃の堪えていた涙がぽたりと落ちた。
震える手で、枕元のスマホを掴む。通話はすでに繋がっていた。
夢乃は、震える声で言った。
「......さっきあなたが言ってたこと......考え直したわ。
一ヶ月後──結婚式は予定通り行いましょう。
新郎として、必ず出席してほしい......礼」
第2話
「絶対に、お前を失望させたりしないから!」
その簡潔な返信は、傷だらけの夢乃の心を、かすかに慰めてくれた。
そもそも、礼がまだ生きていると電話を受けたとき、夢乃はまだ現実感が持てず、ぼんやりしていた。
すべての真相をようやく知らされたばかりだったから、というだけじゃない。
電話口で礼が最初に口にした一言が、あまりにも衝撃的だったのだ。
「夢乃。やつらが俺たちに押しつけてきたこの茶番、全部まとめてそっくり返してやる気はないか?」
最初は、あまりにも馬鹿げた話に思えた。
だが、次から次へと重なっていく欺きと傷つけられる出来事の中で、胸の奥にかろうじて残っていた風雅への愛情にも、完全に憎しみが入り込み始めていた。
どうせ彼は、佐藤家の次男・礼という身分と、茜という女があれほどまでに気に入っているのだ。
ならば自分も、その流れに乗ってやるだけだ。
二度と後戻りできないところまで──
……
翌日。夢乃は一人で退院の手続きを済ませた。
病院の外には、すでに父の運転手が車を停めて待っていた。
「お嬢様、今日は奥様のご命日です。社長が、ぜひお屋敷に戻ってきてほしいと仰っています」
母の優しい顔がふっと脳裏に浮かぶ。
夢乃はしばし迷った末、結局そのまま車に乗り込んだ。
けれど、三浦家の本宅に足を踏み入れた途端。
リビングでは茜と継母が、楽しそうに婚約パーティー用のドレスと祝い菓子を選んでいるところだった。
夢乃は眉間に深く皺を寄せ、そのまま歩み寄ると、テーブルを勢いよくひっくり返した。
茜の悲鳴じみた叫び声が二階にいた父を呼び寄せる。
様子を見下ろした父は、怒鳴りつけるように問いただした。
「夢乃、お前はまた何を馬鹿な真似をしているんだ。
長いこと家に寄りつきもしなかったくせに、戻ってきた途端、家の中をこんなにかき乱して!」
夢乃は鼻で笑った。
「そうね。
私が長いこと帰ってこなかったせいで、あなた、もうこの家のことを忘れたのかしら。
今のあなたの地位も、会社も、全部、私の母の家柄と才能のおかげだっていうのに。
三浦健太(みうら けんた)。今日は私の母の命日よ。
本来なら家族全員、精進して仏前で手を合わせているべき日でしょう?
それなのに、あなたは自分の溺愛する女たちに、私の目の前でこんな縁起でもないことをさせている。
私に暴れろって、わざと挑発しているのと同じじゃない?」
パシン、と乾いた音が鳴り響き、平手打ちが夢乃の頬に叩きつけられた。
父は怒りに任せて怒鳴る。
「夢乃、ここはお前だけの家じゃない。
玲子(れいこ)は今やお前の継母で、茜はお前の妹だ!
たとえお前が俺の実の娘でも、この家で好き勝手していいわけじゃない!」
夢乃は頭をわずかに傾け、舌先で口元ににじんだ鉄の味をそっとなめ取った。
そのとき、気づかれにくい一粒の涙が、つうっとこぼれ落ちた。
彼女はそれを淡々と拭い、振り向きざまに腕を振り抜いた。
パァン、と鋭い音とともに、その掌はそばにいた茜の頬を強く打ち据える。
激昂する父に向かって、夢乃は言い放つ。
「私は昔から、恨みは恨みで、復讐は復讐で返す人間よ」
そう言いながら、夢乃は手を上げ、父と、床にへたり込んで泣き叫ぶ茜を指さす。
「だから、この一発は──親の罪を、子に償ってもらっただけ」
……
そのあと、周りの人間が怒りで顔を青紫に染めていようと、夢乃は一切気にも留めず、くるりと背を向けて、母のもとへ参りに行こうとした。
だが次の瞬間、その腕が誰かに乱暴に掴まれ、ぐいっと引き止められる。
「夢乃。謝れ」
陰鬱で低い風雅の声が、すぐ横から響いた。
夢乃はその手を乱暴に振りほどき、せせら笑う。
「何を根拠に私が謝らなきゃいけないわけ?礼。
記憶が間違ってなければ、ここは三浦家よ。
たとえ佐藤家にいたとしても、少なくともあなたは……私のことを義姉さんって呼ぶ立場じゃなかったかしら?」
風雅はその言葉に、一瞬だけ動きを止めた。
代わりに茜が前に出て、いかにもか弱そうな演技で彼の胸に飛び込み、か細い声で泣き出した。
「礼、もうお姉ちゃんを責めないで。
全部私が悪いの。私が余計なことをして、お姉ちゃんを怒らせちゃったの。
もし私を叩くことでお姉ちゃんの気が済むなら、私はそれでも構わないから……」
こうしていかにも健気な芝居を打つ姿が、かえって風雅の目元に怒りの色を浮かび上がらせた。
「お義父さん。兄はもう事故でこの世を去りました。
今の佐藤家のことは、すべてこの俺が決めています。
そして今、三浦家の娘が過ちを犯しました。
なら、その罰は──あなたの手でしっかりと与えるべきじゃありませんか?」
父は風雅の含みのある言葉をすぐさま理解し、そばに控えていたボディーガードに向かって怒鳴った。
「お嬢様を仏間へ連れていけ。家の掟どおり罰を受けさせろ!」
夢乃は信じられないものを見るように父を見上げ、目を血走らせて叫び、必死に抵抗する。
「離して──っ!」
だが彼女を待っていたのは、仏間に響き渡る鞭の音だった。
「あああっ──!」という悲鳴が上がるたび、夢乃の全身は震え、額からは冷たい汗がにじみ出た。
風雅はようやく片膝をつき、口を開く。
「夢乃。茜に謝りさえすれば、これらすべて終わる」
夢乃は嗤うように顔を上げ、その冷えきった唇から、たった一言だけを吐き捨てた。
「夢でも見てなさい」
彼女は唇をかみしめたまま、背中の皮膚が裂け、血がしたたろうとも、一言たりとも譲ろうとはしなかった。
最後の一撃が落ちたとき、夢乃は息も絶え絶えに、ようやくその場に崩れ落ちた。
風雅はといえば、茜を腕に抱いたまま、高みから見下ろすだけだった。
その冷ややかな眼差しは、毒を含んだ氷のようだ。
じわじわと、夢乃の心を切り裂いていく。
……
風雅は、本当は知っている。
母の死以来、夢乃がこの仏間を何よりも嫌っていることを。
父親が、言うことを聞かないという理由で、いつも彼女をここへ閉じ込めてきたからだ。
そのことを知ったとき、風雅は直接健太のもとへ乗り込み、鋭い声で警告したことがあった。
「三浦さん。もしまた夢乃を閉じ込めているなんてことがあれば、そのときは三浦グループに、破産する覚悟を決めてもらうことになりますよ」
なのに今の彼は、別の身分をまとったまま、自分の手で彼女をここへ放り込んだのだ。
仏間の扉が閉まるとき、夢乃は顔を上げ、母の位牌を見つめた。
堪えていた涙が一気にあふれ出す。
「お母さん……娘の私も、あなたと同じ。目も心も曇って、人を見る目がなかったみたい。
でも安心して。私は必ず、あの人たちに代償を支払わせるわ」
そう呟き、夢乃は歯を食いしばって立ち上がり、脇に置かれていたハンマーを手に取った。
「ゴン、ゴン、ゴン──!」と轟音が響き渡る中、彼女は三浦家の仏間をめちゃくちゃに叩き壊していった……
第3話
夢乃の父は物音を聞きつけて駆けつけ、仏間の中の光景を目にした。
位牌は床一面に倒れ、蝋燭の火は四方に飛び散っている。
彼は怒りで顔を真っ赤にし、怒鳴った。
「夢乃、お前本気で頭がおかしくなったのか?」
夢乃は涙を浮かべたまま、冷たく笑う。
「そうよ。私はもう昔の夢乃じゃない。
あんたの仏間なんかに、もう私を閉じ込めておけないから!」
そう言い放つと、彼女は手にしていたハンマーを振りかぶり、父の目の前の床に叩きつけた。
そして、母の写真と位牌だけをぎゅっと抱きしめると、一度も振り返らずに三浦家を出ていった。
……
けれど車に乗り込み、バックミラー越しにあの家を見たとき、涙はやはり止まってはくれなかった。
子どもの頃は温かくて、大好きだった家。
父の愛と母の穏やかさに包まれていた日々。
それらは、彼女が十二歳の年にはもう、完全にバラバラに壊れていた。
その年、夢乃の母は、自分が夫にとって、心に抱き続けてきた女の「身代わり」に過ぎなかったことを知ってしまったのだ。
絶望した母はやがて交通事故に遭い、突然この世を去った。
母の死後、父はずっと、どこか母に似た女たちを探し続けていた。
最初、夢乃はそれを「母を忘れられない父なりの、苦しい自己暗示」だと、無理やり納得しようとしていた。
だが、茜の母が姿を現したとき、ようやく思い知らされる。
本当の「身代わり」だったのは、自分の母のほうだったのだと。
二人が再会すると、父はあっという間に彼女を妻として家に迎え入れた。
そして、その女の娘である茜をそれとなく甘やかしてきた。
それからというもの、夢乃と父の関係は、ますます水と油のようになっていった。
ただ一人、風雅だけが、ずっと夢乃のそばにいた。
とろけるような夜のたびに、耳元で何度もささやいてくる。
「夢乃。俺は一生、お前を愛してる」
けれど今振り返れば、その愛は、糖衣をまとった毒のようなものだった。
華やかだが致命的な毒。
……
夢乃は傷だらけの身体を引きずりながら、東都で昼夜絶えず故人の安らぎを祈るための長寿香が焚かれている福安寺に向かい、そこに母の位牌を納めた。
そして、全身の力が抜け落ちたような状態で、ようやく佐藤家へと戻ってきた。
だが灯りより先に彼女を照らしたのは、スマホに届いた通知だった。
茜が次々とアップしている投稿は、どれも風雅との甘いシーンばかりだ。
アイスランドのオーロラの下で、熱く抱き合っている写真。
雪山の頂で、肩を並べて遠くを見つめるツーショット。
深海ツアー用のカプセルの中で、掌と掌を合わせている姿。
違う海域ごとに撮られた、ロマンチックなキスの写真。
最新の一枚は、茜が風雅の首に親しげに腕を回し、朝日に染まって金色に輝く雪山を背景にした、二人のシルエットだった。
添えられた一文。
【何年も前に何となく口にした好みを、彼は私以上にちゃんと覚えていてくれた!】
画面の中で茜を見つめる風雅の熱い視線と、今にもスクリーンからあふれ出しそうな溺愛ぶりを見つめながら──
夢乃は、ふっと笑った。
けれど、まつげの先から落ちる涙は止まらず、ぽろぽろと頬を伝っていく。
風雅が卒業して帰国してから、彼女だけのためだと思っていた特別な贈り物や思い出は、どれも結局、彼の本命のための「下見」に過ぎなかったのだ。
夢乃は、充血した目のまま、スマホの画面をぱたりと暗く消した。
それでも、激しく波打つ心臓は、見えない手でぎゅっと握りつぶされているようで、息ができないほど痛い。
彼女は胸の痛みを無理やり押さえ込み、部屋の中へと歩みを進めた。
スイッチを入れた瞬間、壁一面に飾られた「幸せの記念写真」が、再び彼女の目を焼きつくように刺す。
十数年寄り添ってきた誕生日のツーショット。
長く続いた恋人時代の、記念旅行の写真の数々。
パリのエッフェル塔の下でのロマンチックなプロポーズ。
そして、二人の幸せそうなウェディングドレス姿を集めた写真たち。
かつて熱くて甘かった一場面一場面が、夢乃の大粒の涙と一緒に、巨大な鉄のドラム缶の中へ、次々と投げ込まれていく。
火がついた瞬間、あの記憶も、あの美しい瞬間も、すべてが嘘と共に焼き尽くされていった。
まるで、滑稽な夢を一つ、燃やしてしまうみたいに。
第4話
翌日、夢乃は、どたどたとした物音にたたき起こされた。
ドアを開けると、リビングのソファでは、風雅と茜が寄り添うようにじゃれ合っている。
夢乃はそのまま踵を返し、部屋へ引き返そうとした。
だが茜が一歩前に出て、行く手をふさぐ。
「お姉ちゃん、今日ね、礼と婚約用のドレスを見に行くの。
二人ともそういうの全然分からなくて……よかったら、一緒についてきてくれない?」
ふんわりした甘え声の中に、はっきりと挑発の色が混じっていた。
夢乃は、彼女の一見人畜無害そうなその顔の奥にある、わざとらしい演技じみた表情をじっと見つめる。
軽く笑って、その手を振り払うと、冷たく吐き捨てた。
「そうね。あなたの埋葬用のドレスを選ぶっていうなら、私も少しは興味がわくかも」
「なっ……」
茜は怒りで顔色を失いながらも、歯を食いしばって、いかにも卑屈そうに言葉を継ぐ。
「お姉ちゃん、まだ昨日のことで怒ってるの?
ごめんなさい……あれ、本当にそんなつもりじゃなかったの……」
「そう?」
夢乃は眉をわずかに上げ、そのまま一歩、また一歩と詰め寄った。
茜は思わずよろめき、前に出てきた風雅の胸に、そのまま倒れ込む。
今にも泣きそうなその顔に、風雅の目元にたちまち怒りの色が宿る。
「夢乃、いい加減にしろ。
お前は何度も何度も茜を傷つけてきた。
なのにあいつは、ずっとお姉ちゃんはわざとやってるんじゃないって庇ってるんだぞ。
なのに、お前はどうなんだ?
今日、茜がお前に一緒にドレスを選んでほしいって誘ってるんだ。
あいつをがっかりさせたくない。
もし今日付き添うのを断るなら──明日から、お前の母さんの研究用記憶カプセルの管理権を、お前の手から外す」
威圧するような言葉に、夢乃はその場で固まった。
信じられないものを見るように風雅を見上げ、目の奥にじわりと熱がこもる。
茜のためなら、彼は夢乃にとっていちばん大切なものまで平気で脅しに使う。
涙で視界がにじんだ瞬間、彼女の脳裏に浮かんだのは、母が恋しいあまりに、悪夢にさいなまれていたあの夜々だった。
決まりを破ると分かっていても、夢乃はこっそり研究用の記憶カプセルに潜り込んで、母が残した記憶を何度も何度も繰り返し再生した。
風雅が半ば狂ったように彼女を探し出し、見つけたとき。彼は責めもしなかった。ただ強く抱きしめ、真剣な声で言ったのだ。
「夢乃。大丈夫だよ。これはお前の母さんの成果なんだ。お前には、ずっとそれを持つ権利がある」
翌日には、佐藤家の名で二人の婚約を正式に発表し、公の場で、もう誰にも束縛されない「妻」の座を彼女に与えた。
なのに今、その権限を振りかざして──
別の女に付き添わせるための、脅しの道具に使っている。
夢乃は指先が肉に食い込むほど強く拳を握りしめ、充血した目のまま、二人と一緒にウェディングドレスショップへ足を踏み入れた。
……
茜は店内の最新作の婚約ドレスを身にまとい、きっちりとしたスーツ姿の風雅の腕に、恥じらうようにもたれかかっていた。
夢乃は、まるで誰かの幸せを祝福する、ただの見物人のようだ。
滑稽なのは、その「幸せな物語」の主役が、自分の夫だということだ。
ドレスは何十着も試したのに、茜はなかなか一着に決めようとしない。
最後に回されてきたのは、特注のオートクチュール。
あまりに凝った作りで着るのが大変だと、茜は夢乃に向き直り、遠慮がちを装って頼み込む。
「お姉ちゃん、これ……重くて一人じゃちょっと……
試着だけ、手伝ってくれない?」
だが、そのドレスを受け取った瞬間。
隠されていた細い針の先が、夢乃の腕を深くひっかいた。
鋭い痛みに思わず顔を上げると、茜の、勝ち誇った挑発的な表情と目が合う。
血が指先からぽたりと落ちた瞬間。
夢乃は脇にあったハサミをつかみ、その特注ドレスを容赦なく切り裂くと──
ずたずたになった生地を、勢いよく茜の顔めがけて叩きつけた。
ドレスについていたクリスタルが、ぱんっと弾けるように彼女の頬をかすめ、茜は甲高い悲鳴を何度も上げた。
騒ぎを聞きつけて風雅が飛び込んできて、怒鳴りつけた。
「夢乃、またこんな馬鹿なことを──!」
けれど夢乃には、もう以前のような刺々しい勢いはない。
ただ静かに、淡々と答える。
「もし私が、先に手を出したのは彼女だって言ったら……あなた、信じる?」
熱を帯びた視線が真正面からぶつかり合い、その一瞬だけ、風雅は言葉を失った。
だが、再び茜のすすり泣きが耳に入ると、彼は結局、立ち去ろうとした夢乃の腕を乱暴に掴んだ。
力が入りすぎていたせいで、夢乃の手首に巻かれていた「流砂のブレスレット」の紐が、ぷつりと切れた。
ジャラッ──と音を立ててビーズが床一面に散らばり、中の砂の粒が、こぼれ落ちていく。
夢乃は反射的に拾おうとしたが、そっとその手を引っ込めた。
そして冷たく言い放つ。
「目に目を、歯に歯を。これでおあいこ……満足した?」
そう言い残し、涙をこらえながらウェディングドレスショップを後にした。
残された風雅は、砕け散った流砂のブレスレットをじっと見つめたまま、動けずにいた。
誰よりもよく知っている。
それが夢乃にとって、どれほどの意味を持つものかを。
あれは、彼が一粒一粒自分の手で通して作り、十八歳の誕生日に贈ったオーダーメイドのプレゼントだった。
二人が初めて、幼い恋心を確かめ合った、その証でもある。
なのに今、夢乃はそれを、未練ひとつ見せずに、ここに置き去りにしていった。
風雅の胸の奥に、わずかながら、これまでとは違うざわめきが生まれ始める。
そのころ、別の場所で。
ようやく傷の手当てを終えた夢乃のスマホが鳴った。
福安寺からの電話だった。
「三浦さん……お母様の長生香が、先ほど消えてしまいまして──」
その一言で、夢乃の心臓は強く跳ね上がった。
電話を切るなり、彼女は全速力で福安寺へと向かった。
そして薄暗い堂内の片隅で、どこか、見覚えのある後ろ姿を見つけてしまう……
第5話
茜は、あの気まぐれで陰のある顔つきのまま、夢乃の母の位牌の前に立っていた。
その手に握られているのは、まさに夢乃の母のために灯されていた長生香だった。
夢乃の目元に、瞬く間に怒りの色がさす。
けれど茜は、どこ吹く風といった様子で、挑発めいた口調で話し出した。
「お姉ちゃんって、本当に親孝行な娘ね。
わざわざおばさんをここに安置して、長生香までずっと絶やさないなんて。
でもさ、人って死んだらそれまででしょ?
今ここでどれだけ騒いだって、男を失ったあなたなんて所詮、名ばかりの嫁でしかないのよ。
でも、もう赤ちゃんをお腹に宿してるこの私こそが──いずれ佐藤家の本当の女主人になるんだから」
その言葉に、夢乃のまつげがかすかに震えた。
伏せた視線の先、茜のわずかにふくらんだ腹を見た途端、胸の奥に細かな刺のような痛みがひっそりと広がっていく。
彼女の脳裏に浮かんだのは、かつて風雅と、いちばん激しく愛し合っていた夜のことだった。
そのとき夢乃は、期待を込めてこんなふうに尋ねたのだ。
「風雅、もし将来、私たちに子どもができたら……男の子と女の子、どっちがいい?」
その問いを聞いたときの風雅の目には、彼女のような甘い喜びも期待もなかった。
代わりに、声の温度をすっと冷やして、こう言った。
「子どものことは、まだ急ぐ必要ないだろ。まずは俺が佐藤家の跡を継いでからでいい。
そのときは、男でも女でもかまわない。お前が産んだ子なら、何だって愛するよ」
──なのに今の彼は、何のためらいもなく、別の女に子どもを宿させている。
そしてその女に、こうして目の前で好き勝手喚かせているのだ。
……
自分でも呆れるような自嘲の笑みを浮かべながら、夢乃は、込み上げてくる涙を必死に押し殺した。
顔を上げ、冷えた声であざけるように言う。
「そう……
茜。男と寝るのなんて、たいしたことじゃないわ。
本当にものを言うのは、その男を最後まで自分のそばに置いておけるかどうかよ。
ねぇ、風雅が──あなたのこのきれいな皮一枚の下に隠れてる、残酷で陰湿な本性を知ったら。
それでも、あなたを愛してくれると思う?」
茜の笑みが、その瞬間ぴたりと凍りつく。
挑発すれば夢乃が取り乱すと踏んでいたのに、彼女は少しも動じない。
返ってくるのは、軽蔑と嘲りばかりだった。
込み上げてきた怒りに任せて、茜はぐっと夢乃の手をつかむ。
そしてそのまま、自分の手のひらを、熱を帯びた香灰の山にぎゅっと押しつけた。
「きゃあああっ──!」
耳を裂くような悲鳴と同時に、誰かが夢乃の体を乱暴に突き飛ばした。
風雅が慌てて駆け込んできて、手のひらに火傷の水ぶくれを作った茜を、強く抱き寄せた。
目を血走らせ、怒鳴るように問いただした。
「これはどういうことだ。何があった!」
茜は、か弱いふりをして涙ながらに訴える。
「大したことじゃないの……礼、お姉ちゃんを責めないで。
悪いのはまた私なの。私が余計なことをして、お姉ちゃんを怒らせちゃって……それでその罰として、こうされたの……
お姉ちゃんだって、わざと私の手を香灰に押しつけようなんて、思ってなかったはずなの……」
「でたらめ言わないで!」
夢乃は怒りに震えながら叫ぶ。
「いい加減その芝居がかった泣き顔やめなさいよ。これは全部あなたが自分で──」
「もういい!」
風雅が鋭く言葉を遮った。
その声には、冷たくよどんだ怒気が滲んでいる。
「夢乃。茜が何度も何度も引いてくれてるからって、調子に乗ってるんじゃないのか?
いいだろう。だったら今日は、お前にも香灰で焼かれる痛みを味わってもらう」
夢乃の瞳孔が、一気に開いた。
「風雅……離して!」
信じられないという叫びは、虚空に吸い込まれていく。
その頃には、風雅はもう茜を抱きかかえ、背を向けて歩き去っていた。
夢乃の声など、はじめから聞こえていなかったかのように。
……
そのまま夢乃は、ボディーガードに両腕をがっちりと押さえつけられ、一歩一歩、巨大な香炉の真下まで追い立てられた。
そして逃げ場のないまま、上から降り注ぐ無数の香灰に身をさらされる。
焼けつくように熱い香灰が、ひっきりなしに落ちてきて、夢乃の白い肌を容赦なく打った。
「ああああっ──!」
寺全体が震えるような悲鳴が、境内に響き渡る。
骨の髄まで刺さるような痛みが、まるで皮膚も肉も、生きたまま焼き尽くそうとしているかのようだ。
血と肉がただれていく中で、夢乃の涙は止めどなくあふれ、視界を完全に曇らせた。
その朧げな景色の向こうに、ふいに昔の自分が見える。
風雅のために、不器用な手つきで台所に立っていたあの日の夢乃が、うっかり熱い油で手を火傷したとき。
風雅は目を真っ赤にして、半ば狂ったようにその夜のうちに市内中の医者をかき集め、家に呼び寄せた。
──なのに今の彼は、別の女の、根拠もない言いがかりのために。
彼女をここに押さえつけ、焼けただれた香灰に、何度も何度もさらし続けている。
尽きることのない絶望が、胸と身体を走る鋭い痛みとともに、じわじわと広がっていく。
鋭い刃物のように心臓を切り裂きながら、その痛みは、かつて生き生きと脈打っていた記憶の中から──
風雅という存在を、根こそぎえぐり取っていくのだった。
第6話
再び目を開けたとき、夢乃は病院の病室にいた。
医者が、火傷した彼女の皮膚を丁寧に処置している。
そのすぐそばの椅子で、風雅が冷たい表情で腰かけていた。
彼は、夢乃が目を覚ましたのに気づくと、どこか強張っているが心配そうな目でこちらを見つめた。
「夢乃。昨日は俺が感情的になりすぎた。
でも、お前だっていつも茜を目の敵にしすぎだろ。
ましてや、あいつを熱い香灰の中に突き飛ばすなんて、絶対にやっちゃいけないことだ。
……とはいえ、お前ももう十分痛い目を見ただろ。この件は、ここで水に流そう。
これから先、二度と茜をいじめず、ちゃんと仲良くやってくれるなら──この一生、俺は兄貴の代わりに、お前のことをきちんと守る」
その言葉を聞いた瞬間、夢乃は顔を上げた。
目の前のきれいごとを並べる風雅の顔が、ひどく偽善的に見えてしまう。
思わず口元に冷たい笑いが浮かんだ。
「それはそれは、佐藤家の次男坊からのありがたいお情けね。
でも残念。もういらないわ。もう佐藤おじいさまにはお話ししてきたの。
警察からお兄さんの死亡診断書を正式に受け取ったら、そのまま離婚の手続きに入るわ。
だって、人生はまだ長いもの。人間、どこかで執着を手放すことも、覚えなきゃいけないでしょう?」
風雅は、その言葉に呆然と立ち尽くした。
信じられないという顔で夢乃を見つめ、思わず聞き返す。
「どういう意味だよ。それって、お前もう俺……の兄貴を待たないってことか?」
夢乃は視線を外し、淡々と続ける。
「もう一年よ。警察でさえ捜索を打ち切ったのに、どうして私だけが、いつまでも足を止めていなきゃいけないの。
きっと、私を愛してくれたあの人だって、私に一生独りで生きろなんて、望んでないはずだわ」
「でも……まだ兄貴の遺体は見つかってない。それって、まだ望みがあるってことだろ?本当に、もう少し待てないのか?」
風雅は半ば取り乱したように身を乗り出し、夢乃の肩をぐっとつかんだ。
心の奥底で、理由の分からない強い焦りと苛立ちが、じわりと膨れ上がっていく。
視線がぶつかり合う中で、夢乃はふっと口角を上げる。
だが、何も答えない。
ただ、彼の手を振りほどき、そっと目を閉じてベッドに横たわった。
病室の中は、針が落ちる音さえ響きそうな静けさに包まれる。
その静寂が、理由もなく風雅の胸を締めつけた。
けれど、次の瞬間。
彼のスマホに一通のメッセージが届く。
【風雅兄さん、どうかもうお姉ちゃんを責めないで。
お姉ちゃんが何を言ったとしても、それはきっと気が動転してる時に出た言葉で、本心なんかじゃないから……】
茜からの言葉に、ささくれていた風雅の思考は、すっと落ち着きを取り戻した。
彼は画面を消し、ベッドに背を向けた夢乃を見やる。
その眼差しには、わずかな柔らかさが宿っている。
長年、自分を愛し続けてきた夢乃が、そう簡単に自分を手放せるはずがない。
さっきの言葉なんて、どうせ一時の感情で出たただの強がりに決まっている。
自分の遺体をこの目で見るまで、本当に死んだと確かめるまでは、夢乃が「まだ生きている」と信じる気持ちを、捨てられるはずがない。
ましてや離婚だの、再婚だの──そんなことを本気で考えるはずがない。
……
だが、その後の日々。
風雅は、仕事をすべてキャンセルした。
毎日のように夢乃の病室に通い、彼女のそばに付き添った。
傷の様子を恐る恐る確認し、医者には「できるだけ優しく薬を塗り替えろ」と繰り返し念を押した。
夢乃の好みに合わせた食事を、朝昼晩、欠かさず用意した。
そんなある深夜。
慌てた様子の、秘書からの電話が鳴り響く。
「佐藤社長……大変です。茜お嬢様が、医者に火傷の跡が残るかもしれないと言われたとたん、取り乱して……手首を切って自殺を図られました……」
その報告を聞くなり、風雅は顔色を変えて病室を飛び出した。
そして翌日になっても──廊下の向こうへと消えていったその後姿が、病室に戻ってくることはなかった。
夢乃は、カレンダーの数字が一日、また一日と進んでいくのを見つめる。
そして、痛みをこらえながら、ひとりで退院の手続きを済ませた。
彼女は佐藤グループの研究基地へ向かう。
母が残した研究データと、その全ての権利を持ち出すために。
だが、研究用記憶カプセルの部屋に入った瞬間。
操作台の前で、装置の本体を分解しようとしている茜の姿が目に飛び込んできた。
血が逆流するような怒りが、一気にこみ上げる。
夢乃はそのまま駆け寄り、茜の手首をつかんで、鋭く怒鳴った。
「茜、あんた何してるの?誰がこれに触れていいって許可を出したの!」
にらみ合う二人。
だが茜の瞳には、怯えの色など微塵もない。
代わりに、勝ち誇ったような挑発の光が浮かんでいた。
「そんなにムキにならなくてもいいじゃない、お姉ちゃん。
私はただ、佐藤家の未来の女主人として、自分の会社の様子を見に来ただけよ?
おばさんの研究がすごく特殊だって聞いたから。だから、いったい中に何が入ってるのか、ちょっと分解して確認してみようかなって思っただけ」
その言葉に、夢乃は鼻で笑う。
「茜。私の母が残したものにあんたが手を出す権利なんてない。
それに、さっき自分で言ったでしょう。未来の女主人、婚約者だって。
本当に無事に結婚して、佐藤家の奥様として胸を張って座れるかどうかなんて、まだ分からないじゃない。
私ね、ちょっと興味があるの。そんな、名ばかりで中身のない立場しか持ってないあんたが──そのときいったい、誰の妻を名乗るつもりなのか」
その一言で、茜ははっと顔を上げた。
さっと血の気が引き、その顔は真っ白になっていく。
第7話
「なっ……何よ、それ……どういう意味?」
「どう思う?茜」
夢乃の鋭い視線に正面から射抜かれ、茜の頭の中に、雷でも落ちたような衝撃が走る。
震えるまつげのまま、彼女はおそるおそる夢乃を見つめ、探るように口を開いた。
「もしかして……何か、思い出したの?」
その言葉に、夢乃はふっと笑い声を漏らす。
「どうしたの?私が失くした記憶の中に、あんたがそこまで怯えるようなものでも隠れてるわけ?」
茜は一瞬だけ呆けた顔をしたが、すぐに取り繕った表情がゆがみ、慌てた色が憎々しさに変わる。
「夢乃、調子に乗らないで。自分を何様だと思ってるの?
三浦家でのあんたなんて、とっくに追い出された出来損ないよ。
佐藤家じゃ、居候同然の可哀想な厄介者でしかないくせに!
言っとくけどね、私、あんたみたいに偉そうにしてる女が一番大嫌いなの。
生まれが令嬢だろうが、母親が正妻だろうが、結局、あんたたち母娘は私とママに踏みつけられる立場でしかない。
負け犬根性って、親子でちゃんと受け継がれるんだね。
生まれつき手に入れる運はあっても、それを受けるがない──そういう女って、心底みじめね」
そのあからさまな挑発に、夢乃の中で、長年積もり積もっていた怒りがついに弾け飛んだ。
彼女は一気に距離を詰め、「パァンッ!」と勢いよく茜の頬を打ちつけた。
続けて、夢乃の手は、その細い首筋へと滑っていった。
怒りとともに指に込める力は、どんどん強くなっていく。
「茜。これ以上私の母の悪口を一言でも吐いてみなさい。
今日ここで、あんたとその腹の子、まとめて終わらせてあげる」
「や、やれるもんならやってみなさいよ!」
茜は恐怖に引きつった顔で叫ぶ。
夢乃は、薄く口角を持ち上げた。
「そんなに言うなら、試してみる?本当に私にやれるかどうか」
酸素が足りなくなっていくせいで、茜の顔はみるみる赤く染まり、呼吸も荒く乱れていく。
そのとき、研究室のドアが乱暴に開かれた。
飛び込んできた風雅の顔色が、一瞬で暗く険しくなる。
彼は一直線に駆け寄ると、夢乃を乱暴に突き飛ばし、茜を腕の中に抱き寄せて、必死に宥めた。
茜は身を震わせながら、涙声で訴える。
「礼……私、ただ記憶カプセルの仕組みを知りたくて、少し見てただけなの。
そしたらお姉ちゃんが急に怒り出して……もし私が触ったら殺すって……」
その言葉を聞いた夢乃は、冷笑を浮かべる。
「礼。目がついてるなら、ちゃんと見れば?
私の母の研究成果を壊そうとしたのは、あんたのお気に入りの女のほうでしょ」
「もういい」
風雅の低い声には、明らかな怒気が混じっていた。
「夢乃。茜は俺の妻だ。今日は記憶カプセルの構造を知りたいって言っただけだろう。
彼女がこの装置を分解しようが壊そうが──それは、俺の妻としての権利だ」
一言一言、はっきりとした庇い方と擁護の言葉は、氷で鍛え上げた刃のようだった。
それが真っ直ぐ、夢乃の心臓に突き刺さる。
胸の奥が、びくりと震える。
彼は、茜のためなら──ここまでやれるのか。
夢乃は、自嘲気味に小さく笑った。
だがその顔に浮かんだ深い失望は、茜の目にははっきりと映っていた。
彼女はすぐさま風雅の首に腕を回し、そっと耳元で囁く。
「風雅兄さん。お姉ちゃん、どうやら少し記憶が戻ってきてるみたい。
さっきね、私たちのことを佐藤おじいさまに全部ばらすって脅してきたの。
そうなったら風雅兄さん、佐藤家の跡取りの座、失っちゃうかもしれないよね?」
その囁きを聞いた瞬間、風雅の顔から血の気が引いていく。
彼は振り返り、探るように優しい声で呼びかけた。
「……夢乃」
突然の柔らかい響きに、不意を突かれた夢乃のまつげがかすかに揺れた。
その様子を見た瞬間、風雅の心臓は雷に打たれたような衝撃を受ける。
目が合う。
けれどそこにあったのは、彼女への後悔や謝罪ではなかった。
彼が手を上げて合図すると、背後に控えていたボディーガードたちが動き出し、再び夢乃を記憶カプセルのほうへ押しつけようとしたのだ。
その瞬間、夢乃は、はっきりと何かがおかしいと悟った。
「離して!何をするつもりなの!」
必死にもがきながら、全力で抵抗する。
風雅は一歩近づき、その体を優しく抱き寄せると、耳元でささやいた。
「大丈夫だよ、夢乃。俺を信じろ。
全部忘れればいい。これからまた、新しく、もっとたくさん幸せな思い出を作ればいい」
その甘い言葉が、逆に夢乃の心を、底なしの冷たさへと突き落とした。
目が真紅に染まるのを感じながら、彼女は全身で暴れ、喉が裂けるほどの声を上げた。
「佐っ!藤っ!風っ!雅──っ!!
本気で怖くないの?この先私が、本当にあんたのことを忘れても!」
必死の叫びに、風雅は一瞬だけ動きを止めた。
だが次の瞬間、茜のすすり泣きと、ささやくような「助けて」が耳に届くと、彼の目元は再び冷たくひき絞られた。
振り返りもせず、彼は研究室のドアを出て行った。
扉が閉まる音が響いた瞬間──
茜の「か弱い妹」の仮面は、完全にはがれ落ちた。
彼女は露骨な憎しみを浮かべた顔で夢乃を見下ろし、嘲るように言った。
「お姉ちゃん。あなたのお母さんの記憶カプセルって、大したことないのね。
せっかく消したはずの記憶を、また少し思い出させちゃうなんて。
だったら今日は、そこに電流でも混ぜてみようかな。お姉ちゃんのその生意気な顔つきが、跡形もなく消えるかどうか、実験してみたいの」
ほどなくして、夢乃は記憶カプセルの内部へと押し込まれた。
両手両足は革のベルトできつく縛りつけられ、逃げ場はない。
強烈な音波と、それに重なるように流し込まれる高電圧の刺激。
夢乃の脳は、一瞬で混乱と激痛の渦に叩き込まれた。
「あああああっ──!」
凄絶な悲鳴とともに、身体中をしびれにも似た痛みが駆け抜ける。
全身がけいれんし、視界は何度も真っ暗になった。
どれほどの回数、電撃を受けたのか分からない。
耐えがたい痛みと、霞んでいく意識のあいだを、夢乃は何度もさまよった。
頭の中に刻まれていた、風雅との細かな記憶の欠片が──
少しずつ、少しずつ、煙のように薄れていく。
茜は、その惨状を眺めながら、満足げにくすりと笑った。
夢乃は歯を食いしばり、その醜悪な笑みをした女をにらみつける。
ちょうどそのとき、また新たな電流と音波が襲いかかってきた。
だが、右手のベルトがわずかに緩んだ一瞬を逃さず、夢乃は全身の力を振り絞り、茜の髪をがしっと掴み取った。
室内には、茜の悲鳴が響き渡る。
「きゃああああっ──!!」
夢乃は、その顔をじっと見据え、歯の隙間から絞り出すように言った。
「茜……神経が焼かれるこの骨まで刺さる痛み。
あんただって、一度ぐらい付き合ってみなさいよ」
痛みは、容赦なく何度も押し寄せてくる。
ついに力が尽き、夢乃の指は、茜の髪からすべり落ちた。
目尻から零れた涙が頬を伝い、落ちる。
その瞬間、彼女の視線は扉の外に向かう。
そこには、背を向けたままの風雅の影が、細く長く伸びていた。
夢乃は、静かに目を閉じる。
──風雅。
もう二人の「これから」なんて、どこにも残っていない。