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あの冬に葬られた愛
医師免許を不正な告発によって剥奪されたあと、私――中村美穂(なかむら みほ)は、辺鄙な田舎で教育支援ボランティアとして働くことにした。 ...
Chương (1)
第1章
医師免許を不正な告発によって剥奪されたあと、私――中村美穂(なかむら みほ)は、辺鄙な田舎で教育支援ボランティアとして働くことにした。
学校が主催したチャリティ基金の感謝会で、私は何年ぶりかに元夫・桜井真言(さくらい まこと)と顔を合わせることになった。
真言はスーツを端正に着こなし、かつての無骨で貧しかった青年とは似ても似つかない、周囲から「若くして成功した桜井社長」と呼ばれる男へと変わっていた。
隣に、教育支援ボランティアの新人が、小声ながらも驚きを隠せずに囁いた。
「先輩、あの方……確か、先輩のお部屋で写真を見たことがあります。亡くなったっておっしゃってた、元ご主人じゃないですか?」
私は首を横に振り、声を落として答えた。
「見間違いよ。似ているだけ」
すると新人は、崇拝するような眼差しで感嘆した。
「そうなんですね。聞いたところによると、桜井社長の資産は数兆円規模らしいですよ。それに、いろいろ慈善活動もされているとか。本当に社会貢献に熱心な方ですよね」
私は目を伏せ、それ以上、何も言わなかった。
ええ、もちろん善人だ。
だって、あのとき私の違法医療行為を真っ先に証言し、私から医師である資格を永遠に奪ったのは――ほかならぬ彼なのだから。
第1話
医師免許を不正な告発によって剥奪されたあと、私――中村美穂(なかむら みほ)は、辺鄙な田舎で教育支援ボランティアとして働くことにした。
学校が主催したチャリティ基金の感謝会で、私は何年ぶりかに元夫・桜井真言(さくらい まこと)と顔を合わせることになった。
真言はスーツを端正に着こなし、かつての無骨で貧しかった青年とは似ても似つかない、周囲から「若くして成功した桜井社長」と呼ばれる男へと変わっていた。
隣に、教育支援ボランティアの新人が、小声ながらも驚きを隠せずに囁いた。
「先輩、あの方……確か、先輩のお部屋で写真を見たことがあります。亡くなったっておっしゃってた、元ご主人じゃないですか?」
私は首を横に振り、声を落として答えた。
「見間違いよ。似ているだけ」
すると新人は、崇拝するような眼差しで感嘆した。
「そうなんですね。聞いたところによると、桜井社長の資産は数兆円規模らしいですよ。それに、いろいろ慈善活動もされているとか。本当に社会貢献に熱心な方ですよね」
私は目を伏せ、それ以上、何も言わなかった。
ええ、もちろん善人だ。
だって、あのとき私の違法医療行為を真っ先に証言し、私から医師である資格を永遠に奪ったのは――ほかならぬ彼なのだから。
……
「先輩、桜井社長が来ましたよ!」
隣にいた新人、西崎雅子(にしざき まさこ)が興奮した様子で私の袖を引いた。
彼女が言い終わるより早く、懐かしいオーデコロンの香りをまとった影が近づいてきた。
「美穂」
真言の声は、記憶の中よりもずっと低かった。
私は顔を上げ、感情を押し殺したまま、静かに彼を見据えた。
私が口を開く前に、満面の笑みを浮かべた校長が割って入った。
「これはこれは、桜井社長。ご多忙のところご足労いただき、誠にありがとうございます。こちらが、本校で教育支援にあたっております、中村美穂先生でございます」
そして私のほうを向き、「中村先生、こちらが今回、多大なるご支援を賜りました桜井社長でいらっしゃいます。どうぞ、ご挨拶を」と促した。
私は立ち上がり、礼儀正しく、しかし距離を保ったまま軽く会釈した。
「桜井社長、ご挨拶申し上げます」
真言の表情が、一瞬だけ曇った。その背後で、秘書が何か言いかけたが、彼はそれを手で制した。
真言は雅子に、ミネラルウォーターのボトルを一本差し出した。
「ご苦労さま、西崎先生」
雅子は恐縮しながら受け取り、興奮のあまり、軽く眩暈を覚えている様子だ。
続いて真言は、もう一本のボトルを私に差し出した。その視線が、洗いざらして少し色褪せた私のシャツの上で、ほんの一瞬止まった。
「中村先生も、ご苦労さま」
「ありがとうございます、桜井社長。ですが、私は結構です」
空気が、ぴたりと凍りついた。
気まずさを察した雅子が、慌てて場を和ませようとした。
「先輩、せっかく桜井社長がお持ちくださったものですし……少しでも。今日は日差しも強いですから」
真言の視線は、私の顔から離れなかった。その瞳の奥には、私には読み取れない感情が渦巻いている。
結局、彼はペットボトルを、そっと私の隣の机に置いただけだった。
「……喉が渇いたときにでも」
彼は一瞬、言葉を切り、話題を探すように続けた。
「ここの子どもたちは素直だ。そして、あなた方のような先生方の存在を、本当に必要としている……」
「すみませんが、少し体調が優れないので、先に失礼して休ませていただきます」
私は彼の言葉を遮るように言った。もう、この男と関わりたくなかった。ただ、遠ざかりたかった。
「えっ、それは……」
校長が困惑の表情を浮かべた。
そのとき、真言が先に口を開いた。「お送りしましょう」
「結構です。自分で帰れます」
そう言い残し、私は背を向けて歩き出した。
その瞬間、手首をぎゅっと掴まれた。
「美穂……」
私は振り返らず、淡々と言い放った。「桜井社長、言動を慎んでください」
引き合う拍子に、彼が何かを私の手に押し込んだ。
私はその手を振り払い、その物は「カラン」と音を立てて床に落ちた。
それは車のキーだ。手作りの、色あせた稲穂飾りのキーホルダーがついている。
私は、思わず足を止めた。
背後から、苦しみを押し殺したような彼の声が届いた。
「美穂ちゃん……俺たち、こんなによそよそしくならなきゃいけないのか?」
「桜井社長、ご冗談を。私たちの関係は、とっくに終わっています」
そう言い切ると、私は彼の傍らをすり抜け、ざわめく会場を真っ直ぐ後にした。
背後で雅子がキーを拾い上げ、慌てて追いかけてくる。その声は抑えきれない興奮と戸惑いが入り混じった。
「先輩……これって……桜井社長って、もしかして……」
私は振り返らない。ただ静かに、田舎の凸凹した土道を歩く。
風が袖口をめくり上げ、手首に残る浅い傷跡が覗いた。まるで、眠っているムカデのようだ。
それをぼんやり見つめながら、ふと思い出す。
真言と離婚して、今年で五年目になる。
そして、彼のことを心底忘れたつもりでいたのも、三年目だった。
今あらためて振り返ってみても、想像していたような波瀾も、記憶に刻まれたヒステリーも、もうどこにもない。
暮れゆく空に、夕餉の煙が細く立ち上っていた。
私は袖を引き下ろし、職員宿舎の方へと歩いていった。
第2話
職員宿舎に戻ると、雅子が湯気の立つカップ麺を手に、そっと私のそばへ寄ってきた。
「先輩……あの桜井社長と先輩って、いったいどういうご関係なんですか?あの方、先輩を見る目が違ってましたし、それに『美穂ちゃん』って呼んでましたよね……
それから、あのキーホルダーの稲穂飾り……あれって、もしかして先輩のことですか?」
私は答えず、窓の外に視線を向けた。校庭では、人の波が次第に散っていき、真言だけが、まるで彫像のように立ち尽くしているのが見えた。
雅子は、会場で拾ってきた車のキーを、そっとテーブルの上に置いた。
「先輩、この稲穂飾り……すごく丁寧に編まれてますね。もしかして、先輩の手作りですか?」
私の視線は、すっかり色あせ、毛羽立ってしまった赤い稲穂飾りに落ちた。
あれは、私が編み物を覚えたばかりの頃、何晩も徹夜して真言のために編んだものだ。まさか、彼が今まで大切に取っていてくれたなんて、思いもしなかった。
あの頃、私は卒業して間もなく、市で一番評判のいい私立病院に就職したばかりだった。
一方の真言は、友人たちと金を出し合い、小さなITベンチャーを立ち上げたばかりだった。だが会社は次々と壁にぶつかり、投資は集まらず、給料すら満足に支払えない。彼は毎日のように、四苦八苦していた。
あの時期が、私たちにとっていちばん苦しかった日々だ。狭いアパートで身を寄せ合い、カップ麺一杯を分け合って食べた。
焦りから口内炎を起こした真言の姿を見て、私は夜の貴重な休息時間を削り、こっそり編み物を習った。微力でも、彼の力になりたかった。
指は赤い紐に擦れて真っ赤になり、痛みに悲鳴を上げそうになりながら、ようやく一つの稲穂飾りを編み上げた。
あの日、投資家に断られて帰ってきた真言に、私はそれをそっと差し出した。
「これ、あげる。これから、きっと良くなるから」
真言は稲穂飾りを受け取り、擦りむいた私の指を見ると、目に涙を滲ませた。
「美穂ちゃんがいてくれて……本当によかった」
真言は私の首元に顔を埋め、声を震わせて言った。
「いつか金持ちになったら、この世で一番いいものを、全部お前にやるよ」
私は笑って、彼の背中を軽く叩いた。
「そんなものいらない。あなたさえいればいい」
あの頃、私たちは貧しくて、互いしか持っていなかった。だが、記憶の中では、あれがいちばん満ち足りた日々でもあった。
そして彼は、確かに金持ちになった。ただし、「この世で一番いいもの」を与えた相手は、私ではなかった。
私は稲穂飾りを手に取り、すり減った編み目をなぞる。
「私は、桜井真言の元妻よ」
「元妻!?」
雅子は、持っていたカップ麺を落としそうになった。
「先輩、冗談ですよね?桜井社長の奥さんって、あの菅原家のお嬢様、菅原千枝(すがわら ちえ)さんじゃ……」
そうかもしれないね。だって、あのとき、私たちの関係を証明した書類でさえ、偽物だったのだから。
私は苦笑いを浮かべ、ベッドボードにもたれかかった。まるで他人事を語っているような気分だ。
「私が真言と出会ったとき、彼は何も持たない貧乏な青年だった。並外れた才能と、孤高な勇気以外にはね」
確かに、あの頃の生活は苦しかった。それでも、私たちの絆だけは、誰にも壊せないほど深かった。
第3話
そんな日々に休止符が打たれたのは、ある雨の日だった。
真言は雨に濡れ、すっかり見すぼらしい姿で病院を訪ねてきた。会社の最後のプロジェクトが頓挫し、共同経営者たちも皆、彼のもとを去ってしまったという。
私は彼を休憩室へ連れて行こうとしたが、その途中で、病院の大株主の娘と鉢合わせた。タオルで彼の濡れた髪を拭いていると、可愛らしさの奥に傲慢さを滲ませた声が響いた。
「あなたが『クラウドインタラクション』プロジェクトの桜井真言さん?父があなたの企画に興味を持っているみたい。明日、私のオフィスに来て、少し話を聞かせてくれない?」
振り返ると、シャネルのスーツに身を包んだ女性が入口に立ち、興味深そうに真言を眺めていた。菅原千枝――この病院の筆頭株主の娘だ。
そして、あの日を境に、すべてが変わり始めた。
真言の会社は奇跡のように巨額の投資を獲得し、息を吹き返した。彼は急激に忙しくなり、帰宅は次第に遅くなった。身にまとっていたタバコと酒の匂いは、いつしかさまざまな女性用香水の匂いに変わっていった。
一方で、私の病院での日々は、理由もなく居心地の悪いものへと変わっていった。
千枝が、あからさまに私を狙い始めたのだ。
たまには手術報告書の書式が違うと言い、たまには回診時の患者対応がなっていないと難癖をつけてきた。
些細なことを針小棒大にしては上司に告げ口した。
最初のうちは、真言も私を慰め、味方でいてくれた。だが、いつの間にか、彼は変わってしまった。
その日も千枝が取るに足らないことで部長に告げ口し、私は事情を聞かれることもなく厳しく叱責された。悔しさに胸が詰まり、夜、家に帰って真言に愚痴をこぼした。
すると彼は、いらだたしげに眉をひそめた。
「美穂ちゃん、もう少し大人になりなよ。職場で多少の摩擦なんて普通だろ?相手はああいう立場なんだ。少しは折れてやればいいじゃないか」
私は呆然とした。
真言が、こんな口調で私に言葉を向けたのは初めてだった。
私は悔しさで目に涙が滲み、「彼女が難癖をつけてきたんだよ!」と声を荒らげた。
真言はため息をつき、口調を和らげたが、スマートフォンに視線を落としたまま、どこか上の空で言った。
「わかった、わかった。彼女が悪いよ。でもさ、考えてみてくれ。彼女が他の人じゃなくて、お前にだけ難癖をつけてくるってことは……お前のほうにも、何か落ち度があったんじゃないのか?」
スマートフォンの光が、わずかに吊り上がった彼の口元を照らしていた。
メッセージに返信する彼は楽しげな表情を浮かべていた。
私が思わず身を乗り出すと、彼は無意識にスマートフォンを隠した。
その瞬間、胸の奥に、これまで感じたことのない不安が湧き上がった。
その夜、私たちは激しく言い争った。
スマートフォンの相手は誰なのかと問い詰めると、真言は最初は否定したが、追い詰められてようやく口を割った。
「千枝だよ。ただの友達だ。彼女の父親が、俺の新しいプロジェクトに興味を持ってるんだ。無下にできるわけないだろ?」
理屈だけを並べれば、隙のない説明だった。それでも、女の勘が、私の内側で警鐘を鳴らしていた。
翌日、真言は珍しく仕事を休んだ。
「美穂ちゃん、結婚しよう」
そう言って、婚姻届を私の前でひらひらと掲げ、誠実そうな眼差しを向けてきた。
「これで、やっと俺を信じてくれるだろ?俺の妻はお前、中村美穂だけだ」
このサプライズを受けた瞬間、不安も疑惑も、霧が晴れるように消え去った。私は自分が疑い深すぎただけなのだと思った。
真言は私を愛している。ただ、成功を焦っているだけだ。
私は彼を支えるべきで、わがままを言うべきではない。
署名した翌日、「役所に婚姻届を出した」と真言は教えてくれた。すると、私は感情を押し殺しながら、千枝を避け、病院でエスカレートしていく彼女の嫌がらせに耐え続けた。そうすれば、この愛を守れると信じていた。
しかし、私は間違っていた。一度腐り始めたものは、もう二度と、元には戻らない。
第4話
真言の帰宅はますます遅くなり、迎えに来てくれることもなくなった。
会社に仕事が山のように積み上がっていて、どうしても抜けられない――彼はいつもそう言うだけだった。
私の誕生日に、私は真言の好物を食卓いっぱいに並べ、朝日が昇る時から日が暮れるまで、ただひたすら彼を待ち続けた。
だが、彼はその夜、帰ってこなかった。電話もつながらないままだった。
真夜中を過ぎ、ようやく目にしたのは、千枝のインスタに投稿された一枚の写真だった。
豪華なクルーザーの上で、セクシーなビキニ姿の千枝が、真言に絡みつくように寄り添っている。
写真に添えられたキャプションは、こうだった。
【ダーリン、誕生日サプライズを用意してくれてありがとう】
そうか。千枝と私は、誕生日が同じ日だったのだ。
真言の会社に乗り込み、その写真を突きつけても、彼は冷ややかな表情を見せた。
「もういい加減にしろ。ビジネスパートナーだって、あれほど言っただろう?それでも俺を信じられないのか?」
「ビジネスパートナーで、肉体関係まで必要なの!?」
私は泣き叫び、スマートフォンを真言に向かって投げつけた。
彼は避けることもなく、スマートフォンの角がこめかみをかすめて床に落ちた。一筋、血がにじんだ。
「ああ、そうだ。千枝と付き合っている」
「なぜ?」
「俺が欲しいもの、千枝が全部くれた。でも、お前はそれができない」
真言は私を見据え、一語一語を突き刺すように、容赦なく言い放った。
「美穂ちゃん、お前を愛している。だが、愛だけでは人は生きていけない。もう、人に頭を下げるような生活はごめんだ」
私は発狂するかと思っていたが、そうはならなかった。ただ静かに彼を見つめ、離婚を切り出した。
「離婚なんてしないよ」
真言は私の手を掴み、哀願の色を滲ませた口調で言った。
「美穂ちゃん、もう少しだけ時間をくれ。会社が安定したら、千枝とは断つ。お前は永遠に俺の妻だ。それだけは変わらない。約束する。千枝が持つものは、お前にも与える」
妻?
彼は、私を何だと思っているのだろう。都合のいい予備の女か?
だが、私を待っていたのは、真言の謝罪ではなく、千枝の露骨な挑発だった。
ある日、患者の診察をしていると、千枝がわずかに膨らんだ腹部を突き出し、診察室へ押しかけてきた。
彼女はエコー写真と婚姻届受理証明書を、私の顔に叩きつけた。
「中村美穂、図々しいにも程があるわよ!私の夫を誘惑するなんて、いったい何様のつもり!?」
私は呆れ果て、思わず失笑した。スマホを掲げ、私と真言の婚姻届受理証明書の写真を突きつけた。
「よく見て。どちらが不倫相手なのよ!」
千枝はそれにちらりと目をやり、唇に浮かべた嘲笑をさらに濃くした。
「ええ、よく見たわ。こっちの方が本物よ。
あら、ごめんなさい。真言、あなたに言うのを忘れてたみたいね。
あなたのそれ、偽物なのよ」
その証明書をよく見ると、印鑑、日付、番号――くっきりと写るそれらすべてが、紛れもなく本物だ。
その瞬間、私は誰からも白い目で見られる不倫相手へと堕とされた。
そこで、思い出はぷつりと途切れた。
私は頬がひんやりとしていることに気づく。
雅子がティッシュを差し出し、泣き声混じりに言った。
「先輩、もう泣かないで」
私は頬に触れて、知らぬ間に涙でぐしょぐしょになっている自分に気づいた。
そして、深く息を吸い込み、話を続けようとした。
その時、宿舎の入り口に人影が現れ、外の光をすべて遮った。
真言が、アイリスの花束を抱え、熱を帯びた眼差しで私を見つめている。
「美穂ちゃん、もう一度だけ、チャンスをくれないか?」