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月沈む刻、日影は輝く
入江日影(いりえ ひがげ)と藤原海男(ふじわら うみお)が結婚して七年目になる。 妻というより、むしろ彼女は海男が生理的欲求を満たすため...
Chương (1)
第1章
入江日影(いりえ ひがげ)と藤原海男(ふじわら うみお)が結婚して七年目になる。
妻というより、むしろ彼女は海男が生理的欲求を満たすための相手だった。
激しい情事の後、彼はそっと彼女の髪を撫でながら言った。
「三十になってもまだ彼女が見つからなかったら……その時は君と真面目にやっていくよ」
第1話
入江日影(いりえ ひがげ)と藤原海男(ふじわら うみお)が結婚して七年目になる。
妻というより、むしろ彼女は海男が性欲の捌け口を満たすための相手でしかなかった。
激しい情事の後、彼はそっと彼女の髪を撫でながら言った。
「三十になっても、まだ彼女が見つからなかったら……その時は君と真面目にやっていくよ」
日影は知っていた。海男の心には、ずっと誰かが住みついていることを。
それは二十数年前、海で溺れかけた彼を救った少女だという。
あの時、彼は「大きくなったら、必ず迎えに来る」と少女に誓ったのだ。
日影はこれまで何度も聞いてきた。
「もし……ずっと見つからなかったら?」
しかし、七年間、問い続けてきたその問いに、海男は一度も答えてくれなかった。
けれど今日、彼女はついに待ち望んだ答えを手にした。
思わず胸が高鳴る。
今夜の零時を過ぎれば、海男は三十歳になるのだから。
そのため、日影は郊外の邸宅で、盛大なパーティーを開いた。
たった今、二人はその邸宅の最上階で結ばれた。一時間後、この邸宅の前で、彼と手を取り合って新たな一歩を踏み出すはずだった。
だるく痺れた腰を支えながら、そっと彼の喉仏に唇を寄せる。瞳がかすんで、「待っててね」と日影は囁いた。
一時間後。
フィッシュテールのドレスをまとい、用意しておいたペアの指輪をしっかりと握りしめていた。
今夜を過ぎれば、二人は過去を捨てて、本当の始まりを迎えられる――と彼女はそう信じていた。
振り向いたその時、視界に飛び込んできたのは、海男がもう一人の女性を強く抱きしめている姿だった。
普段は冷たく、笑顔さえ惜しむようなあの男の目に、狂おしいほどの喜びが輝いていて、声さえ震えていた。
「やっと……やっと見つけた!」
女性は白いワンピースを着て、驚いた子鹿のような瞳をしていた。
日影はその場に釘付けになった。指先の温もりが、一瞬で氷のように冷めていくのを感じながら。
なんと、それは小林祢々(こばやし ねね)――入江家に務める家政婦の娘だった。
彼女は幼い頃から母に連れられて入江家に住み、日影の父も我が子のように可愛がり、七年前には海外留学の費用まで援助していた。
ただ、気性が合わず、二人の関係はいつもどこかよそよそしかった。
祢々はおずおずと言った。
「藤原社長……?あのう、人違いでは……」
海男は彼女を離すと、そっと彼女の首元のペンダントに触れた。その声は、これまで日影が聞いたことのないほど優しく、壊れ物を扱うようだった。
「これはあの時、君が俺を救ってくれた時、俺が君に渡した証だ。どうして……一度も俺を探しに来てくれなかったんだ?」
祢々はただ茫然とした表情を浮かべる。
「私……子供の頃に溺れて高熱を出したことがあって。その前の記憶が、ほとんどないんです。このペンダントも、誰からもらったのか覚えていなくて」
「俺だ」
海男の目が、驚くほど柔らかく輝いた。
「あの時、君に約束しただろう?この人生で、君だけが俺の花嫁だって」
その言葉は、まさに鋭い刃のように、日影の心臓をまっすぐに貫いた。
しかし、祢々の視線は海男の肩越しに、日影をまっすぐ見つめていた。
「でも藤原社長……あなた、もう日影さんと結婚されているんですよね?」
海男が振り向く。彼の目にあったあの優しさは一瞬で消え、無関係な他人を見るような冷たさに変わった。
「結婚前にもう彼女にはっきり伝えた。俺の心には、ずっと誰かがいると。それでもいいと言ったのは、彼女の方だ」
日影は心臓から無数の棘が広がっていくように、息をするのも苦しくなった。
七年前のことを思い出した。
――藤原家と入江家が縁談を進め始めた頃、初めて対面した海男の、あの冷たくも美しい目に、すっかり心を奪われてしまったのだった。
あの時、彼はきっぱりと言った。自分はある人を待っているから、他の誰にも心を開くつもりはない、と。
それでも彼女は自信たっぷりで、海男に誓った。
「私、待てます。もし本当にその人を見つけたら……潔く身を引きますから」
あの頃の自分は若すぎた。ただ近くにいれば、いつか彼の愛を手に入れると、そう盲信していた。
つい昨日の夜も、彼は抱きしめながら囁いた。
「日影……結婚式を挙げ直そう」
日影はその胸に寄り添い、胸を高鳴らせた。ついに、彼の愛を手に入れたと思い込んでいた。
けれど今、彼は言う――心にあるのは、小林祢々ただ一人だと。
第2話
日影は下唇をぎゅっと噛みしめると、口の中に血の味が広がった。
彼女はうなずいた。風に消えそうなか細い声で、言った。
「ええ……私がそう言った。あなたがその人を見つけたなら、約束通り離婚するわ」
海男は日影の青ざめた顔を一瞬見つめ、それ以上深くは見ようとせず、淡々と答えた。
「わきまえているなら、それでいい」
日影はただそこに立ち、目の前で寄り添う二人を見つめていた。突然、自分が笑い者のように思えてきた。
七年間の恋。七年間の待ち侘び。全ては、ただ彼女だけが熱演した独り舞台でしかなかったのか。
振り返ってその場を去ろうとしたその瞬間、ある使用人がトレイを運びながら足を滑らせ、まっすぐ彼女にぶつかってきた。
激しい衝撃に、日影はよろめき、そのまま倒れこみ、額を冷たい柱に打ちつけた。
「日影さん!?大丈夫ですか!?」
祢々が海男の腕を軽く引っ張り、目に微かに笑みを浮かべて言った。
「藤原社長、あらっ、日影さんを助けてあげないと……」
海男の視線は倒れた日影の上に一瞬留まって、眉をわずかにひそめただけだ。
「俺はもう、君を見つけた……他の女のことは、どうでもいい」
その言葉は、刃が鈍ったナイフのようで、日影の胸をじわり、じわりと切り裂いていく。
温かい液体がこめかみを伝い、視界をぼやけさせる。額から流れる血だ。
この小さな騒ぎは、すぐに周囲の注目を集めた。
「あら、血が……!藤原社長、どうして助けてあげないんですか?」
「どうしたの?あの女性、誰……?藤原社長の隣りの方は……」
同情、嘲笑、野次馬たちの視線が集まり、日影は肌が刺されたように痛かった。穴があったら入りたいほどの恥ずかしさだった。
彼女は顔を上げた。ぼんやりとした視界の向こう、少し離れた場所で、あの二人がぴったりと寄り添っているのが見える。
海男はうつむき、祢々の耳元に何か語りかけている。指先でそっと彼女の肩にかかった髪をかき上げる仕草は、七年間、日影が一度も得られなかった優しさそのものだった。
心臓が、ぎゅっと握りつぶされる。呼吸が苦しい。
日影は歯を食いしばり、冷たい柱に手をついて立ち上がった。あの二人の方を振り返らず、周囲の目にもとらわれず、ただゆっくりと宴会場を後にした。
外の冷たい空気を深く吸い込み、一つの電話をかけた。
すぐに、電話の向こうから、懐かしくて嬉しそうな声が飛び込んできた。
「日影!?珍しい!」
「朝美……」彼女の声は弱々しかったが、驚くほどはっきりしていた。「あんたのスタジオ、まだ私を雇ってくれる?」
「そりゃあ、もちろんだよ!だって日影は天才だから!」相手の声はさらに弾んだ。
「……でも、ちょっと待ってよ。日影、旦那さんと一緒にいたんじゃなかったっけ?何かあったの?何で急に……」
「離婚するの」
日影は朝美の話を遮り、まるで他人事のように平静な口調で続けた。
電話の向こうは数秒、沈黙した。
「……わかった」
再び聞こえてきた朝美の声は、優しく、とても穏やかだった。
「いつでも待ってるよ。こっちに来い」
鈴木朝美(すずき あさみ)は、日影の大学時代の同級生だった。今は海外で絵画スタジオを営み、「日影の才能をこんなところで枯らせちゃいけない」と、何度も日影を誘ってきていた。
けれど日影の頭は海男でいっぱいで、かつて誰よりも愛した油絵の具も、ずっとしまい込んだままだった。
胸に手を当てる。そこには、海男への執着が詰まっていた。でも今、彼女はそれをすべて捨てた。これからは、自分の人生だけを生きていく。
日影は会社の近くに借りているマンションに戻り、額の傷に手早く手当てをした。
しかし、涙だけは止まらない。切れた糸のようにつながり、窓の外がうっすらと明るくなり始めるまで流れ続け、目もひどく腫れ上がった。
朝、日影はようやく体を起こすことができた。
……
午前中、入江グループの本社ビルに入ると、秘書が慌てた様子で近づいてきた。
「副部長!会長が、至急会長室へお越しになるようおっしゃっています」
日影はそっと眉間を押さえた。昨夜の騒動は、父の耳にも入っていたに違いない。お説教は、覚悟しなければならないだろう。
彼女が幼い頃に母を亡くして以来、父との関係は決して親密とは言えなかった。
父の目には、彼女と海男の結婚は、決して恋愛の結果などではなく、入江家と藤原家を結ぶための政略結婚でしかなかった。
重い足取りで会長室のドアまで来ると、中から楽しげな笑い声が、次から次へと聞こえてきた。
第3話
ドアの隙間から、ソファに座る二人――海男と祢々の姿が目に入った。
「海男さん、今回はこの案件を弊社にお引き立ていただき、誠にありがとうございます!ご期待に沿えるよう、全力で取り組みます!」
日影の父、入江宗一郎(いりえ そういちろう)の声には、どこかへつらいが混じっていた。
海男はそっけなくうなずいた。
「いいえ。祢々が、お世話になったと申しておりましたので。一つや二つの案件など、問題ではありません」
「はい、はい!お二人は本当にお似合いです!」宗一郎はすぐに同調し、声を張り上げた。
「日影の件はどうぞご心配なく!どのようなお決めになられようとも、彼女が一言でも異を唱えるようなことは、絶対にございません!私が保証いたします!」
二人の言葉は、冷たい礫のように日影の全身を打ちつけた。
彼女は、心臓が瞬間で凍りつき、次の瞬、粉々に砕け散る音が聞こえるような気がした。息を吸うことさえ、重苦しかった。
せめて……せめて父だけは、ほんの少しの親子の情けにかけて、味方になってくれるかもしれないと思っていた。
けれど、それは甘すぎた思い込みだった。
利益という名の天秤の前では、彼女の心の痛みなど、取るに足らないものに過ぎないのだ。
「副部長……?」
背後で、動かない日影を不審に思った秘書が、小声で呼びかけた。
その声に中の者が気づき、視線が集まる。
日影は深く息を吸い込み、ドアを押し開けた。
「来たか。ちょうどいい」
宗一郎は彼女を見るなり、淡々と切り出した。その口調は、明日の天気について話すかのように、平然としていた。
「話しておくことがある。お前の営業部副部長のポストを、祢々ちゃんに譲ってもらう」
日影の心は、底なしの闇へと沈んでいった。
確かに、退職と留学の意向を父に伝えるつもりではあった。
けれど、まさか自分が七年かけて血のにじむような努力で築き上げた地位が、父によってこんなにも軽々と、海男を取り入るために祢々に譲り渡されるとは――
あの時、卒業したばかりの日影は、海男に一歩でも近づくために、最も愛した油絵の道を断念し、不本意ながら入江グループに入社した。
一番下の社員から始め、徹夜で企画書と向き合い、案件のために奔走し、難しい顧客と渡り合った。
七年という歳月をかけて、ようやく自らの実力で営業部副部長の座を勝ち取り、社内の信頼を集めてきたのだ。
「……どうして、ですか」日影の声には、抑えきれない震えが宿っていた。
先に口を開いたのは、海男だった。
「祢々は名門大学の経営学博士だ。君のようなただの学士卒より、副部長の資格は十分にあると思うが?」
その言葉で、日影の顔色は一瞬で血の気を失った。
目の前の三人を眺めながら、ただただ、すべてが悲しいほど滑稽に思えた。
「もし……私が『嫌だ』と言ったら?」
彼女の声は大きくはなかった。けれど、これまでになかった強固な意志が込められていた。
「私は入江グループの会長だ。人事権は私にある」
宗一郎の口調は完全に冷たくなり、即座に自分の秘書に電話をかけた。
「総務部に連絡しろ。入江日影の営業部副部長職を解任し、後任は小林祢々とする。すぐに通達を出せ」
電話を切った瞬間、ようやく祢々が躊躇がちに口を開いた。声は柔らかく、申し訳なさそうに。
「入江社長……私、実務の管理経験がほとんどないんです。ですから……日影さんにそのまま続けていただいて、私がまずは現場から学ばせていただければ……」
「そんな必要はない」
海男が優しく祢々の言葉を遮り、手を伸ばして彼女の髪をそっと撫でた。甘やかすよう言った。
「君の能力を、俺は信じている。それに……俺がついている。何でも手伝ってあげる」
「その通りです!海男さんが支えてくださるなら、何も心配はありません!」
宗一郎はにこやかに付け加えた。
祢々の視線がゆっくりと日影に向けられた。もはや口元に浮かぶ微かな笑みを隠そうともせず、彼女は言った。
「では……これからはお世話になります。日影さん、引き継ぎの件、よろしくお願いしますね」
三人の和やかで一体となった光景は、日影の瞳の奥深くまで突き刺さった。
息が詰まりそうになった。彼女は振り向き、一瞬も早くと、会長室を飛び出した。あの場所には、もう一秒もいられない。
その後、祢々は宗一郎の秘書に付き添われ、入社手続きへと向かっていった。
日影は自分のオフィスに戻り、無心で業務引継ぎ資料の整理を始めた。
意外にも、その時海男が、後を追うように入ってきたのだ。
第4話
海男が近づいてきた。複雑な眼差しで日影の横顔をしばらく見つめ、つい口を開いた。
「……その傷、大丈夫か?」
その、ほんの少しだけ気にかけているような口調に、日影の目頭が一瞬熱くなった。湧き上がってはならない動揺が、胸の奥をかすめた。
けれど、彼女の声は氷のように平然としていた。
「大丈夫」
一呼吸置き、日影は顔を上げて彼をまっすぐ見た。
「すぐに弁護士に連絡して、離婚協議書を作成してもらうわ。手続きは、できるだけ早く済ませましょう」
海男は、目の周りが赤く腫れ、顔色は青ざめていながら、なおも背筋を伸ばして強がる彼女の姿を見て、心の奥底で、言いようのないものが、かすかに動いた。
彼はわずかに眉をひそめて言った。
「……離婚しなくてもいい」
日影ははっと顔を上げ、瞳に一瞬、驚きが走った。
しかし、彼の続く言葉が、そのかすかな思いを瞬時に粉々に打ち砕いた。
彼は当然であるかのような口調で、淡々と付け加えた。
「『藤原夫人』の座は、君のままでいい。ただし、俺の愛は祢々だけに捧げる……わかるだろう?」
彼女はそのあまりにも当然そうな態度を見つめ、突然、笑いがこみ上げてきた。笑い声には、自嘲と皮肉がにじんでいた。
「結構よ。私は別に優秀な人間ではないが、他人の恋人を奪い取るほど卑しくもない。
愛のない結婚生活には、これ以上興味もない……ちゃんと身を引くわ。お二人が末永くお幸せに」
海男は、彼女があまりにもあっさりと諦めるとは思っていなかった。表情が一瞬固まり、たちまち顔色が険しくなった。
「離れたいなら離れろ!だが、今度は後悔して泣きついてきても、こっちは何も知らんからな!」
日影はそれ以上相手にせず、再びうつむいて、机の上の書類の整理を続けた。
ちょうどその時、祢々が入ってきた。
「日影さん、お仕事の引継ぎに伺いました。今、お時間よろしいでしょうか?」
日影が口を開く前に、秘書が慌てた様子で駆け込んできた。
「副部長!東町の現場から緊急連絡です!鉄筋に品質上の問題が発見され、作業チームが全工程を停止しました!」
日影の胸が、一瞬で締めつけられる。
この案件は、彼女が半年以上、心血を注いできた重点工事だ。鉄筋に問題があれば、それは取り返しのつかない重大事だ。
たとえ辞職して留学する決断を下したとしても、この案件は、彼女が一から育て上げた、我が子のようなものだ。
それに将来、ここに入居する人々の安全がかかっている。どんな小さなミスも、絶対に許されない。
彼女は即座に立ち上がり、椅子にかけてあった上着を手に取った。
「現場に行こう」
「私も行きます!」
祢々が振り返り、海男を見つめて目を輝かせた。
「ちょうどいい機会ですから……緊急時の対応を、日影さんから現場で学ばせていただきたいです」
海男は一瞬のためらいもなくうなずいた。
「俺も同行する。現場は雑然としていて、何があるかわからない」
日影の足が一瞬、ほんの一瞬だけ止まった。彼女は指先に力を込めて上着を握りしめ、何も言わず、先に足早にオフィスを出て行った。
現場に着くと、容赦ない夏の日差しがコンクリートの地面を焼いていた。
海男は終始、傘を差していた――その大半を、祢々の頭上にかざしながら。
時折、「暑くないか?」「あの木陰で待っていようか?」と小声で気遣い、彼女の足元の泥さえも、「ズボンにつかないように気をつけて」と注意していた。
日影はその光景を目にしながら、瞳の奥が針で刺されるような鋭い痛みを感じた。
彼女は、入社したての頃、現場を駆け回っていた日々を思い出した。
――夏の炎天下で背中にひどく日焼けをしてしまい、夜には泣きながら海男に電話をかけたこともあった。
彼はただ冷淡に、「仕事で実績を積みたいのに、その程度の苦しみも我慢できないのか」と言うだけだった。
あの時は、自分がまだ甘く、弱かったのだと思い込んでいた。
今ならわかる。彼はただ、愛していなかっただけなのだ。愛していないから、たった一言の慰めさえ、無駄だと思っていたのだ。
やっとの思いで施工側と鉄筋の緊急交換案を取りまとめ、一行は会社へ帰ろううとした。
完成間近の建物の足場の下を通りかかったその時――
頭上から、不気味な「ギシッ……」という軋む音が聞こえ、大小のコンクリートの破片が、ざあっと降り注いできた。
日影が反応するより早く、人の背丈ほどの大きなコンクリート板が、彼女の背中にむごく落ちてきた。
「――っ!」
激痛が全身を駆け抜け、彼女は地面に打ちつけられた。背中を重く押さえつけられ、身動きひとつ取れない。息をするたびに、肋骨が軋むような、引き裂かれるような痛みが走る。
日影は必死で顔を上げると、視界の端で、海男が祢々をしっかりと腕に抱え、危険区域から外へと走り去っていく後ろ姿が見えた。
全身の力を振り絞り、彼女は叫んだ。
「海男っ!助けて――!」
走り去ろうとした海男が、はっと振り返った。血と塵にまみれながらも、彼を必死に見つめる日影の姿が目に入った。
その瞬間、彼の心臓がぎゅっと締めつけられるのを感じた。無意識に、彼は彼女の方向へ駆け出した。
第5話
しかし、祢々が彼の腕をがっしりと掴んだ。
「海男さん……!怖い、怖いよ!ここ、危ない……早く外に出よう、お願い!」
彼女は涙で曇った瞳を上げ、全身で海男にしがみつき、その目には紛れもない依存と怯えが満ちていた。
海男の足が止まった。
彼は一瞬、コンクリートの下に閉じ込められた日影を見た。そしてすぐに、うつむいて祢々の震える視線と向き合った。
喉仏が一度、大きく上下に動いた。
結局、彼は手を伸ばし、祢々を守りながら、振り返らずに出口へと走り去った。
その一瞬、日影の心の中で、最後の灯火がぷつりと消えた。
深い、底なしの暗闇が、すべてを飲み込んだ。絶望が冷たい潮のように押し寄せ、彼女の意識を浸していく。
彼女は歯を食いしばり、爪を立てて、ほんのわずかずつ前に這い進んだ。背中のコンクリート板が皮膚を擦りむき、一センチでも進むごとに全身の力が抜けていくようだった。
日影は一メートルも進まないうちに、再び足音が近づいてきた。
見慣れた人影が、逆光の中を駆けてくる。
――海男だ!
日影の目に、かすかな希望の光が一瞬ともった。声は涙で詰まりながらも、思わず叫んだ。
「海男……!助けて!」
けれど、海男の視線は彼女には向かわなかった。彼は地面を急ぎ足で見渡し、必死に何かを探しているようだった。
すぐに彼はかがみ込み、何かを拾い上げた――祢々のペンダントだ。いつの間にか、ここに落ちていたのだろう。
彼はそれをポケットにしまい、その時、初めて日影の方へ手を伸ばし、彼女を助け起こそうとした。
ちょうどその瞬間、外から祢々の悲痛な叫び声が響き渡った。
「海男さん――!」
海男の眉がぴくっと動いた。空中にあった手が一瞬固まり、彼は日影に慌ただしく言い放った。
「……すぐに人を呼んでくる!」
振り返り、彼は祢々の声のする方へ、全速力で駆け出していった。
日影は再び地面に這いつくばり、入口の向こうに消えていく彼の後ろ姿を見つめた。
ついに、完全に、すべてを悟った――
七年間の結婚生活。彼女は、ただの笑い者だった。
海男の愛を手に入れられると信じていたが、この男が、そもそも彼女に愛がないことを忘れていたのだ。
彼は、彼女に一度も心を動かしたことはなかった。
たった一秒さえも。
……
どれほどの時間が経っただろう。天井の軋む音は、次第に収まっていった。
秘書が数人の作業員を引き連れ、駆け込んできた。閉じ込められる日影を見ると、顔がとっさに青ざめた。
みんなが急いで力を合わせてコンクリート板をどかし、彼女を慎重に担架に移した。
現場から運び出される時、日影の朦朧とした視線が人混みを越え、少し離れた場所にいる海男の姿を捉えた。
彼が、不器用にハンカチを握りしめ、祢々の頬を伝う涙を拭っている。その仕草には心配の色が濃くにじんでいた。
「ごめんなさい……海男さん、私が悪かった……」
祢々は彼の胸に顔を埋め、声を詰まらせた。
「ペンダントを探しに行かなかったら、海男さんも危険を冒してあの中に入ったりしなかったのに……もし、もし何かあったら、私……私も……
実は……七年前から好きだったんだ。ただ、日影さんと結婚するって聞いて、わざと海外に逃げてた……」
「バカだな」
海男は彼女を強く抱きしめ、その声には深い後悔と愛惜が満ちていた。
「このペンダントは、俺たちの運命の証だ。なくすわけにはいかないんだ……俺が悪かった。君だと気づくのが遅すぎた。七年もの時間を、無駄にしてしまった。
これからは、もう二度と君を悲しませたり、怖がらせたりしない」
太陽の光が、抱き合う二人を優しく包んだ。
日影はその光景を見つめていた。目の前の世界が、次第に色を失い、最後には深い闇に飲まれていった。
病室で目を覚ました時、医師が厳しい表情で告げた。
「右側の肋骨を三本骨折しています。背中には広範囲の打撲と挫傷。少なくとも一ヶ月は、絶対安静が必要です」
医師が去り、日影がただ天井を茫然と見つめていると、病室のドアの外から、看護師たちの話し声がかすかに聞こえてきた。
「ねえ、知ってる?下の階のVIP病室、藤原グループの社長さんがずっと付きっきりなんだって。
奥様が手にちょっとした傷を負っただけなのに、もう大騒ぎで、何でも自分でやってあげて、水一杯すら看護師に頼まないんだって」
「奥様って、入江グループのお嬢様でしょ?入江会長もいらしてたわよ、高級な滋養強壮剤を山ほど抱えて。本当に、目に入れても痛くないほど大切にしてらっしゃるみたい」
「ああ……もう、幸せすぎるよね!会長のパパに溺愛されて、藤原社長みたいな旦那様に守られて……まさに『勝ち組』の鑑よ!」
日影はそれを聞き、突然、声を立てずに笑った。その笑いには、言い尽くせない自嘲が込められていた。
どうやら、世間の目には、小林祢々こそがもう「藤原夫人」であり、入江家が心から可愛がる「お嬢様」になったらしい。
そして、真実の入江家の娘で、七年間も藤原夫人を務めてきた彼女自身は、この病室で、誰にも顧みられることなく、ただ一人で痛みに耐えている。
彼女は苦労して体を起こし、ベッド脇のテーブルから携帯を取り、よく知る弁護士の番号をダイヤルした。
「笹木(ささき)先生、離婚調停、最短でいつ成立させられますか?」
「双方が合意であれば、裁判所の調停手続きを利用できます。書類が整えば、二週間程度で成立するケースがほとんどです」
日影は一瞬、目を閉じた。再び開いた時、その瞳には、もはや迷いのかけらもなかった。
「それでお願いします。できる限り、早く」
電話を切り、彼女は携帯を枕元に戻し、窓の外の青空を静かに見つめた。
……
数日後、彼女は医師の制止を振り切り、無理やり退院手続きを取った。
この国に、この心をすり減らした土地に、これ以上一瞬でも長くいたくなかった。
すべてを早く終わらせ、新しい人生を歩み始めたいだけだった。
病院の正門まで来た時、人混みの中から突然、鋭い悲鳴が上がった。
彼女が無意識に二歩後ずさりするのと同時に、目の前の光景が飛び込んできた。
――祢々が、ある男に首を絞められ、その首筋に、鋭く光る果物ナイフの刃が突きつけられていた。
そして、ほんの数メートル離れた場所に立つ海男。
普段は常に冷静で揺るがない彼の背筋が、わずかに硬直している。
日影は彼の体の横に垂れた手がかすかに、しかし確かに震えていることさえ、はっきりと見て取れた。
第6話
日影は、こんな海男を見たことがなかった。
記憶の中の彼は、常に鋼のように冷徹で、完璧な自制心の持ち主だった。
かつて、彼の腕がガラスで深く切り裂かれ、骨が見えるほどの傷を、麻酔なしで縫合した時ですら、彼はただ軽く眉をひそめただけで、声一つあげなかった。
けれど今、彼の目には明らかな動揺が渦巻き、声まで震えていた。
「落ち着いてくれ……お金が欲しいか?それとも何か他のものか?話し合おう。何でもやるから、彼女を傷つけないでくれ」
「金……?金だと……!?」
男は叫び、目を大きく見開いた。
「金で俺の妻が戻ってくるのか!?この病院が……この病院が俺の妻を殺したんだ!お前たち全員が、妻の命の代償を払え!」
傍らにいた主治医が、蒼い顔で説明しようとした。
「この方、奥さんは既に末期がんで、我々も……」
「ただの頭痛だ!どうして末期がんなんて診断が下せるんだ!お前ら、このヤブ医者どもが!」
男は完全に理性を失い、手に力を込めた。鋭い刃が、祢々の首筋にかすかな血の線を刻んだ。
「待てっ!」
海男は反射的に二歩前に出ようとしたが、警備員に遮られた。彼は祢々の血を見つめ、その瞳に浮かぶ血走った赤がますます濃く浮かび上がっていく。
「俺が人質になる。彼女を離して、俺を人質に取れ」
「はっ……まずこの女を殺して、それからお前をな!」
男は不気味に笑った。
「俺が欲しいのは、お前たち全員の命だ……!」
交渉は決裂し、膠着状態に陥った。祢々の涙は止まらず、首から血もどんどん流れ出ていった。
その時、海男が突然、警備員の制する手を強く振りほどいた。
そして、傍らにあった医療カートの上から、消毒済みの外科用メスを、素早く掴み取ったのだ。
誰もが彼の次の行動を理解するより早く――彼はそのメスを握りしめ、自分の腹部へと、力強く突き刺した。
「ぶすっ」という鈍い音。
真っ白なワイシャツが、瞬く間に真っ赤に染まり広がっていく。
彼はぐらりと膝をつき、かろうじて体勢を保ちながら、それでも祢々の方向を見つめていた。
声はかすれていたが、はっきりと聞こえた。
「俺の命を……やる。彼女を……放せ」
男は呆然とし、手に持った刃の力が一瞬緩んだ。その目には、理解を超えた事態への混乱と驚愕が映っていた。
この一瞬の隙を、周囲の警備員たちが見逃すはずがなかった。一斉に飛び掛かり、男を押さえ込み、凶器を奪い取った。
祢々は崩れるように地面に座り込み、彼女の声は泣き叫びに変わり、必死に海男の元へ這い寄った。
「海男さん……バカ!何でそんなことするの!?無事でいて、お願い……無事でいて!」
海男の顔は青白かった。それでも、血に濡れた指先を震わせながら、彼女の頬をそっと撫でた。
「泣くな……大丈夫だ。君が昔……俺を救ってくれた。今度は……俺が……君を守る番だ……」
祢々の瞳の奥に、一瞬、複雑な感情――まるで後ろめたさのような影が走った。しかしそれは、すぐに涙と悲しみに覆い尽くされた。
担架が駆けつけ、海男が運ばれていく時でさえ、彼はかすれた声で医療スタッフに言い続けていた。
「祢々を……まず祢々を……ちゃんと診て……」
日影は、自分がなぜまだそこに立ち尽くしているのか、わからなかった。
よそ者のように、彼女はこの芝居を、最後の一幕まで見届けてしまった。
手術室の外に、日影は少し離れた場所で立っていた。長い時間が流れ、ようやく医師が「もう命の危険はありません」と告げた。
彼女はゆっくりと背を向け、ゆっくりと、重い足取りで病院を後にした。
海男が祢々のために命を賭ける姿は、おそらく、彼女の記憶に刻まれる最後の彼の姿になるだろう。
けれど、その記憶は、もはや彼女の心を締めつけることはない。
ただ、彼女の決断が正しかったことを、より確かなものにするだけだ。
日影はまず、藤原家の別荘へと向かった。
自分が七年かけて、少しずつ「家」らしい形にしてきたこの場所を、もう一度見ておきたかった。
引っ越してきたばかりの頃、ここは海男その人と同じく、冷たく無機質で、生活の匂いさえ感じられない空間だった。
彼女は暖色系のカーテンに替え、柔らかなソファカバーを選び、バルコニーには日当たりのよい場所に小さな畳を敷いた。
壁に掛けた一枚の絵さえ、海男が何気なく口にした好みを聞き届け、探し回って手に入れたものだった。
海男は、家のこれらの変化を、ただわずかに眉をひそめて見つめるだけで、何も言わなかった。まるで、日影の存在そのものを、そっと黙認しているかのように。
あの時、彼女は愚かにも、それが「受け入れ」の証だと錯覚していた。
今ならわかる。彼は受け入れたのではなく、ただ「気にしていなかった」だけなのだ。
この空間がどう変わろうと、彼女がどれだけの想いを込めようと、彼の心には、一片の影さえ落とさなかった。
彼女は寝室に戻り、結婚前に実家から持ってきた、ごくわずかな私物だけを整理した。
海男がこの七年間で「贈った」すべての贈り物には、一切手を触れなかった。
いや、「贈り物」などというのもおこがましい。それらは全て、彼女が「ねだって」手に入れたものばかりだった。
記念日の度に、彼女は心を込めてプレゼントを選び、渡した。数千万もする時計もあれば、自分で編んだマフラーもあった。そして、子供のように「お返し」をせがんだ。
海男はただ、淡々と多額のお金を彼女の口座に振り込み、日影は自分で何かを選び、それを「海男がくれたの」と自分に言い聞かせてきた。
元々、自分に属していないもの。無理に求めたところで、何の意味があるだろう?
スーツケースを引きずり、玄関まで来た時、執事の斎藤が声をかけてきた。
「奥様……?どちらへお出かけですか?」
日影は無理に、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「斎藤さん、私は……海男と離婚することにした」
「なっ……なぜですか!?」
斎藤は思わず一歩踏み出し、声に焦りの色をにじませた。
「海男様は、確かに口数は少なく、冷たそうに見えますが……心の底では、奥様のことを気にかけていらっしゃいます。以前にも私に……」
「見つかったんだよ」
日影が優しく、しかし確かに彼の言葉を遮った。
「二十数年も探し続けていた、あの命の恩人を」
斎藤の言葉は、喉の奥で止まった。口を開いたまま、結局、深いため息一つに変わった。
日影はスーツケースの引き手をしっかり握りしめ、振り返らずに、ドアを開けた。
七年間、彼女が「家」だと思い込んできたこの場所を、静かに後にした。
第7話
その後、日影は入江グループにおける自分の業務をすべて整理し、明確な引継ぎ資料を作成した。退職届とともに人事部に提出し、静かな退社の準備を進めた。
そして、負傷した体を癒やしながら、海外への留学に必要な書類の最終確認をこなしていく。
ある午後、アパートのインターホンが突然鳴った。
ドアを開けると、祢々が立っていた。
「日影さん、お邪魔します。海男さんがまだ入院中で……普段のお世話で、何か気をつけることや好みがあれば、教えていただけませんか?私、もっとちゃんと面倒を見たいんです」
日影は視線を少し下げ、声に感情の波はなかった。
「そういう細かいことは、執事の斎藤さんの方が私よりもずっとご存知です。彼にお聞きになった方が確かですよ」
しかし、祢々は一歩、中へ踏み込むような仕草をした。
「でも……聞いたんです。この七年間、日影さんは海男さんを喜ばせようと、本当にいろいろ努力されてきて、小さな習慣から食べ物の好みまで、きっと誰よりも詳しく覚えていらっしゃるはずだって」
日影が返答する間もなく、彼女はひとりで話し続けた。言葉の端々に、海男の「特別な愛」がにじみ出ている。
「海男さん、毎晩私にビデオ電話をかけてくれるんです。私が寝落ちするまで、切ってくれないの。
なんとなく話題のスイーツが食べたいってつぶやいたら、自分で二時間も並んで買ってきてくれて。
仕事でわからないことがあると、取締役会の途中でも電話に出て、深夜まで企画書の添削を手伝ってくれるんです。
それに、この前だって私を守って傷ついたのに、病院でも私の心配ばかりして、逆に私を慰めてくれて……」
彼女は目を輝かせて日影を見つめ、最後にこう付け加えた。
「日影さん、前はあなたが本当に羨ましかったですね。生まれながらに何でもお持ちで。でも今は……海男さんがいるから、今までの全ての苦労が報われた気がするんです」
日影は、彼女の目に隠しきれない優越感と、あからさまな誇示を見て取った。これ以上の会話に意味は感じられず、彼女はただ体を横にずらし、入り口を開けた。
「……お入りください」
ソファに座り、日影はとりとめもなく、淡々とした口調で海男の習慣を話した。
コーヒーには砂糖を大さじ二杯、パクチーは大の苦手、甘いものには目がない……
その時、祢々の携帯が振動した。
日影が「お電話、どうぞ」と言うと、祢々は画面を一瞥しただけで、すぐにサイレントに切り替えた。
しばらく話が続いた後、日影が「これで大体……」と言いかけたその瞬間――
アパートのドアが、外から力任せに開けられた。
海男が、二人のボディーガードを伴い、荒々しい気配を纏って室内に飛び込んできた。その顔は、これまで見たこともないほどの険しい怒りに歪んでいた。
彼は一瞬でソファの祢々を視認し、次に日影を見た時、目に狂暴な光が走った。
日影が状況を理解するより早く、彼は駆け寄り、躊躇いなく彼女の横腹を力任せに蹴り上げた。
「――っ!」
癒えかけた肋骨に直撃し、鋭い痛みが全身を駆け抜けた。
日影はうめき声を上げ、冷たいフローリングに倒れ込んだ。胸の傷口が再び引き裂かれるような感覚に、息が止まりそうだった。
「祢々に……何をした?」
海男は祢々の前に立ちはだかり、彼女を守るようにして、日影を睨みつけた。その声は凍りつくように冷たかった。
「彼女に近づくなと、言ったはずだ」
日影はただ茫然としていた。うつむくと、胸元に鮮やかな赤が、白いTシャツにじわじわと広がっていくのが見えた。
「海男さん!?どうして退院したの!?お医者さんがあと数日安静にって……!」
祢々が慌てて駆け寄り、海男の腕を支えた。彼女は振り返り、早口で説明した。
「違うよ、誤解だよ!私が日影さんに、あなたの好みを教えてもらいに来ただけなの。もっとちゃんとお世話したくて。何もされてないし、何もしてないよ!」
海男はようやく、ほっとしたように深く息を吐いた。手を伸ばし、祢々の頭を優しく撫でる。
「バカだな……君の顔さえ見れば、どんな傷もすぐに治る。君がそばにいることが、何よりのお世話だ」
彼はそう言い終えてから、初めて床に倒れた日影に視線を向けた。
彼女の胸元の血痕に目が止まった時、眉がわずかに動いた。ほんの一瞬、何かがよぎったようだったが、すぐに表情は再び硬く閉ざされた。
「……大丈夫か?」
日影が答えようとするより早く、彼は言い足した。まるで弁明するかのように。
「祢々が長い間連絡を絶って心配だった。君がまだ執着して、祢々に危害を加えるのではないかと……」
日影は彼を見つめ、そして、声もなく笑った。
――七年間。共に過ごした七年間の歳月が、彼の心の中では、私はただの「執着深い女」の一方的な騒ぎでしかなかったのか?
愛していないと、その人間の存在そのものが、最初から間違っていたという烙印を押せるものなのだろうか。何もしていなくても。
日影は冷たい床に手をつき、ゆっくりと、苦痛に耐えながら体を起こした。声は弱々しかったが、一つひとつの言葉は明確だった。
「藤原社長、ご心配なく。もう、誰にも『執着』はしませんから。それに、一週間後には裁判所で離婚調停の調書に署名します。もうすぐ、すべて終わります」
海男の表情が、一瞬、微かにこわばった。彼女があまりにも冷静に、あっさりと言い放つ姿に、戸惑いを隠せないようだった。
しかし、それはすぐに、いつもの冷淡な仮面に覆われた。
「……ならいい」
そう言うと、彼は細心の注意を払って祢々の肩を抱き、振り返って部屋を出た。
玄関を通り過ぎる時、日影の目にはっきりと映った。海男が祢々の手を取り、その手の甲に、そっと口づけを落とすのを。
その目に溢れる慈しみと優しさは、彼女が七年かけて、一滴たりとも手にすることのできなかったものだった。
その瞬間、日影の胸の奥に、かすかにくすぶり続けていた「海男」という名の最後の炎が、ぱちりと音を立てて消えた。
まるで、最後の酸素を失った蝋燭の灯火が、静かに、しかし確実に、闇の中へと消えていったように。
第8話
七日後、家庭裁判所にて。
日影は、シンプルな白いブラウスにデニムを合わせて出向いた。意外なほど、内心は穏やかだった。
間もなく、入り口から聞き慣れた、力強い足音が響いてきた。
顔を上げると、海男が祢々の手を握りながら入ってくる姿が目に入った。二人は、淡い水色のペアルックを着ていた。
ふと、過去の光景が頭をよぎった。日影はかつて、こっそりと彼と同じブランドの時計を買い、色味を合わせた服を選び、ささやかな「ペアごっこ」を楽しんでいた。
毎回、嬉しそうに見せると、彼はただ軽く眉をひそめて「子供か」と吐き捨てるだけだった。
嫌いだったわけではないのだろう。ただ、愛してない人とそういうことをしたくなかっただけだ。
調停室では、余計な言葉は交わされなかった。
海男はペンを手にしたが、すぐには署名せず、ふと顔を上げて日影を見つめた。
しかし、彼女には一瞬の躊躇もなかった。さらりと、自分の名前を記入していく。
見る間に、海男の胸中に、理由のわからない怒りのようなものが沸き上がった。
彼は歯を食いしばり、ペン先を力任せに書面に叩きつけた。力は強く、紙を引き裂きそうな勢いで、言いようのない焦燥感がにじみ出ていた。
結局、彼はやはりサインした。
調停調書を持って、日影はすぐに役所へ行って、離婚届を提出した。
離婚届受理証明書が手渡された時、日影の手はほんの一瞬、かすかに止まった。すぐに、彼女はそれを鞄の奥深くにしまい込んだ。
七年間の結婚生活は、結局この一枚の薄い紙に凝縮され、ここに幕を下ろす。
海男と祢々が顔を見合わせ、ほほえみ合う様子を見ることもなく、彼女は静かに裁判所を後にした。
日影の飛行機は午後出発だった。昼間、いつもの洋食屋で数人の友人と最後の食事を共にした。
テーブルを囲み、友人たちは口々に海男を罵り、笑いながら彼女を励ました。
「もっと早く諦めてればよかったのに!日影のやりたいことは絵画でしょ、男なんて所詮、邪魔になるだけだよ!」
日影はグラスを掲げ、目尻を下げて笑った。
「そうね。これからは、誰にも邪魔させない。きっと……みんなを驚かせる作品を描いてみせるわ」
明るい笑い声が、静かな個室に響き渡った。
途中、彼女は席を外した。廊下の角を曲がった時、隣の個室から、海男の声が聞こえてきた。
「……今夜のプロポーズ会場の最終確認を頼む。花は、祢々が一番好きな白バラで。指輪は、彼女が到着するまで、絶対に気づかれないように隠しておいてくれ」
その口調には、珍しく弾んだ喜びが滲んでいて、友人との会話がはっきりと耳に届いた。
「早すぎる?いや……全然早くない。あの子とは、子供の頃から決まっていたんだ。あの時、海でおぼれかけた俺を、彼女が必死に岸まで引き上げてきて……人工呼吸までしてくれたんだ」
日影の足が、突然、釘付けになった。
海男の声が、ほんの少しだけ低く、恥ずかしそうに続いた。
「あれが……俺の、初めてのキスだった。唯一の、キスだ」
日影の胸の奥が、何かにそっと刺されたようだった。痛みはないのに、どこか隙間風が吹き抜けるように冷たい。
七年間の結婚生活。二人は、数え切れないほどの肌を重ねる夜を過ごした。
けれど、彼女が唇を寄せようとするたび、彼はそっと顔を背け、「潔癖症なんだ」と避けてきた。
そうか、潔癖症などではなかった。ただ、彼のキスは、祢々だけに捧げるものだったのだ。
彼女は振り返って去ろうとした。その時、廊下の窓辺に置かれた観葉植物の鉢に、うっかりぶつかってしまった。
陶器の鉢が床に落ち、音を立てて割れた。
個室のドアが開き、海男が現れた。日影を見て、表情が一瞬硬直し、すぐに冷えきった。
「……聞いていたのか?」
彼女が答えるより早く、彼は言葉を継いだ。警戒するような口調で。
「今夜のプロポーズパーティーには……邪魔しに来るなよ」
日影は彼をまっすぐ見つめた。そして、驚くほど淡々とした声で言った。
「ご心配なく。もう、離婚が成立しています。あなたのことは、もう私には関係ありません。それに――」
言葉を終えないうちに、祢々の声が近づいてきた。
「海男さん?どうしたの?あら、日影さんもいらっしゃるの?」
海男は即座に視線をそらし、手を伸ばして祢々の手を取った。声は一瞬で柔らかくなった。
「何でもない。さあ、中に戻ろう。君が好きなお料理、もう注文しておいたから」
日影はもう二人を見ようとはせず、背筋を伸ばして振り返って去っていった。
ハイヒールが厚いカーペットを踏みしめても、ほとんど音は立てなかった。まるで、彼女の心の奥に今、沈殿していく感情のように、さざ波一つ立たずに静まり返っていた。
しかし、海男はなぜか、ほんの一瞬、彼女の後ろ姿に目を留めた。
胸の奥で、つかみどころのない、微かな感情が、羽根のようにかすかに揺らめいた。
――日影は、さっき、まだ何か言いかけたようだった……?
彼はわずかに首をかしげたが、深く考える間もなく、祢々がそっと彼の袖を引いた。
「海男さん、早く行こうよ。ちょっとお腹が空いちゃった」
彼は我に返り、そのなぜか湧いた違和感を頭の隅に追いやった。
――どうでもいい。彼女のことは、もう俺に関係ない。
彼は祢々の手をしっかりと握りしめ、個室へと戻っていった。
日影は自分の個室に戻ると、何事もなかったように笑顔で友人たちと談笑を再開した。
食事を終え、彼女はタクシーで空港へと直行した。
搭乗手続きの列に並んでいる時、かつて海男の動向を追うために入っていた「藤原グループ非公式チャット」から、通知が次々と飛び込んできた。
誰かが、海男が手配したプロポーズの準備に関するスクリーンショットを投稿し、メッセージが堰を切ったように流れていった。
【やばい、社長マジで小林さんにメロメロ!白バラ十万本って聞いたよ?花のトンネル作るんだって!】
【この前、小林さんが『星空きれい』ってつぶやいたら、社長が庭に特注のイルミネーション設置したって話だし、今回のプロポーズ、ロマンチックすぎ!】
【社長がこんな細かいことまで自分で指示するなんて、見たことないよ。今回はデザートの盛り付けまで気にしてるらしい。これが噂の『本命扱い』か……!】
日影は、その眩いほどの祝福の言葉の洪水を、静かに見つめた。
指が画面の上で、ほんの一瞬、止まった。
そして、彼女は淡々と、そのグループチャットから退出した。続けて、連絡先リストから「海男」の名を長押しし、「ブロック」をタップした。
最後に、父にメッセージを一つだけ送信した。
【行ってきます。心配しないで】
送信を確認すると、彼女は携帯のSIMカードを取り出した。それを、ゴミ箱の投入口へと、そっと落とした。
空港のアナウンスが流れ、日影は深く息を吸い込んだ。スーツケースの引き手を握りしめ、搭乗ゲートへとまっすぐ歩き出した。
飛行機はゆっくりと上昇し、窓の外に広がる見慣れた街の灯りが、次第に小さな無数の星の集まりのように、ぼんやりと遠ざかっていった。
長い年月、彼女の喜びと涙をすべて飲み込んだこの場所は、やがて、雲の切れ間の淡い光の粒へと変わっていく。
藤原海男、さようなら。
これから、あなたの残りの人生と、私の未来は、二度と交わることはない。