音もなく、愛は冷え切っていた

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音もなく、愛は冷え切っていた

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私は十年間パティシエとして働き、ずっと自分の店を持つことを夢見てきた。 夫である森田安弘(もりた やすひろ)は、「機会があれば、二人で...

Chương (1)

第1章

私は十年間パティシエとして働き、ずっと自分の店を持つことを夢見てきた。 夫である森田安弘(もりた やすひろ)は、「機会があれば、二人で店を開き、店名は『洋菓子専門店葉月』にしよう」と言っていた。 結婚五年目になって、ようやく「洋菓子専門店葉月」はオープンした。 その日、私は家で一晩中看板ケーキを作り、明け方四時に店へ向かった。 ショーウィンドウには、すでに完成品がずらりと並んでいた。 店員は私を見ると、少し驚いた顔で言った。「応募の方ですか?」 私は「オーナーの妻です」と答えた。 彼女はますますきょとんとして、「オーナーさんは今日、お忙しいはずですが」と言った。 私は奥へ進み、壁に掛けられた巨大なポスターを見た。安弘が一人の女性と肩を並べ、満面の笑みを浮かべている。 ポスターにはこう印刷されていた。【森田安弘と葉月晴奈共同創業者】 私はその名前を見つめたまま、手にしていたケーキの箱を取り落とした。クリームが床いっぱいに飛び散った。 葉月晴奈(はづき はるな)なんて。 でも、私の名前は葉月美咲(はづき みさき)なのに。 第1話 私は十年間パティシエとして働き、ずっと自分の店を持つことを夢見てきた。 夫である森田安弘(もりた やすひろ)は、「機会があれば、二人で店を開き、店名は『洋菓子専門店葉月』にしよう」と言っていた。 結婚五年目になって、ようやく「洋菓子専門店葉月」はオープンした。 その日、私は家で一晩中看板ケーキを作り、明け方四時に店へ向かった。 ショーウィンドウには、すでに完成品がずらりと並んでいた。 店員は私を見ると、少し驚いた顔で言った。「応募の方ですか?」 私は「オーナーの妻です」と答えた。 彼女はますますきょとんとして、「オーナーさんは今日、お忙しいはずですが」と言った。 私は奥へ進み、壁に掛けられた巨大なポスターを見た。安弘が一人の女性と肩を並べ、満面の笑みを浮かべている。 ポスターにはこう印刷されていた。【森田安弘と葉月晴奈共同創業者】 私はその名前を見つめたまま、手にしていたケーキの箱を取り落とした。クリームが床いっぱいに飛び散った。 葉月晴奈(はづき はるな)なんて。 でも、私の名前は葉月美咲(はづき みさき)なのに。 私は店の前で安弘に電話をかけた。 何度も呼び出し音が鳴って、ようやくつながった。 「店名の『葉月』って、私のことを指してるんだよね?」 向こうは二秒ほど沈黙してから言った。「……もう店に行ったのか?」 「答えて」 「もちろん君のことだよ。でも、ただの名前だ」 彼はため息をついた。「俺はまだ寝てたんだ。朝から何なんだよ」 「どうしてポスターには『森田安弘と葉月晴奈』って書いてあるの?」 「宣伝のためだよ。彼女は若くてイメージもいいし、お客様を引きつけやすいから」 私は目を閉じた。「じゃあ、どうして私と一緒に店を開かなかったの?」 「君は専業主婦だろ。そんな才能があるのか?」 彼の口調はいら立ちを帯びてきた。 「投資にはリターンが必要なんだ。 晴奈は海外で製菓を学んだ、プロなんだ。 君は家にいればいいだろ。余計な心配をするな」 私は胃をぎゅっとつかまれたみたいに痛んだ。 「でも、私が専業主婦になったのは……」あのとき、あなたがひざまずいて頼んだのに。 言い終える前に、安弘は冷たく遮った。「もういい、騒ぐな。あとで用事があるんだ」 電話は切れた。 私は暗くなったスマホの画面を見つめながら深呼吸し、自分に言い聞かせた。考えすぎかもしれない、と。 帰り道、胃の痛みがひどくなり、私はコンビニで水を買って胃薬を飲んだ。 最近、この痛みがますます頻繁になっている。 家に着くと、安弘はすでに出かけていて、テーブルにメモが置いてあった。 【店のことで忙しくて、夜は遅くなるかも】 私は書斎に入った。 彼のパソコンはまだついていて、デスクトップに【葉月プロジェクト】というフォルダがあった。 開く。 内装図、メニューのデザイン、契約書。 内装は、ずっと私がやりたかったスタイル。薄いピンクの壁、無垢材の家具、アンティーク調のペンダントライト。 メニューのスイーツは、どれも見覚えがあった。 イチゴのナポレオン、キャラメルマキアートケーキ、レモンタルト。 全部、私が前に企画書に書いたレシピだ。 さらにスクロールする。 一枚の契約書が目に入った。 【甲:森田安弘。 乙:葉月晴奈。 投資額:四千万円。 持株比率:森田安弘は六〇%、葉月晴奈は四〇%】 私はその数字を見つめた。 四千万円。 五年前、私は「千万円あれば店を開ける」と言った。彼は「今は資金が厳しいから、もう少し待って」と言った。 五年間、私は待っていた。 そして今、彼は別の女にあっさり四千万円を出している。 胃がまた締めつけられるように痛み、私は腹を押さえて身をかがめた。 深呼吸。考えすぎるな。 きっと、ただの投資なんだ。 きっと…… そのとき、別のフォルダ名が目に飛び込んできた。【晴奈の誕生日サプライズ】 私は愕然とした。 開く。 【企画書:晴奈二十三歳の誕生日パーティー。 日時:一月五日。 場所:洋菓子専門店葉月。 予算:百万円】 指がマウスの上で固まった。 一月五日。 それは、私と安弘の結婚記念日だった。 …… 夜十時、安弘が帰ってきて、ソファにどさっと倒れ込んだ。 「疲れた。今日は思ったよりお客様が多かった」 彼はスマホを取り出した。「ほら、晴奈はやっぱり腕がいい」 写真には、晴奈がカウンターの向こうで笑顔でスイーツを差し出している姿が写っていた。 「この年でこのレベルだし、経営のセンスもあるし。ブランド育成もちゃんと考えてる。俺たちの店はこの先、きっと大きく成長するよ」 その口ぶりには、はっきりとした賞賛があった。 私は湯のみを握りしめた。「来月の五日、予定ある?」 彼は一瞬きょとんとした。「どうした?」 「私たちの五周年の結婚記念日だよ」 「ああ……そうか!」 彼は額をたたいた。「その日……たぶん無理だな。店でイベントがある。 でも、大丈夫。早く帰れるようにするよ」 「どんなイベント?」 「お客様への感謝イベントみたいなこと」 「ずらせないの?」と私は聞いた。 彼の視線が一瞬泳いだ。「無理だ。もう決まってる」 彼はいら立ったように言った。「美咲、なんでそんなに分別がないんだ。 今、俺は必死で起業してるんだ。少しは理解してくれ」 私はうなずいた。「……分かった」 「ご飯温めてくれ。まだ食べてない。 そうだ、明日キャラメルマキアートケーキを一つ持って帰るよ。食べてみな」 私は立ち上がってキッチンへ向かった。 冷蔵庫を開けた瞬間、また胃が痛んだ。 しゃがみ込むと、涙がこぼれた。 リビングから、安弘の電話の声が聞こえる。 「うん、オープンは順調……晴奈はよくやってる……誕生日パーティーは予定通り準備して……」 私は床にしゃがみ込み、腹を押さえながら、自分に言い聞かせた。 泣くな。 きっと誤解なんだ。 きっと来月、彼は私にサプライズをくれる。 きっと、彼はまだ私を愛している。 第2話 一月五日。 私と安弘の結婚五周年の記念日。 私は朝からずっとキッチンに立ち、たくさんの料理を作った。 豚の角煮、白身魚の甘酢あんかけ、そして安弘の大好物である鯛のかぶと煮。 胃はずっと痛んでいたけれど、私は耐えた。 テーブルにはケーキを置き、ろうそくを立てた。 私は赤いワンピースに着替えた。五年前、安弘が「きれいだ」と言ってくれたあの一着。 午後七時。 八時。 九時。 料理は冷め、私は一度温め直した。 十時。 十一時。 ろうそくの蝋がケーキいっぱいに垂れ落ちた。 十一時五十分、インターホンが鳴った。 安弘が酒の匂いをまとって入ってきた。スーツにはクリームがついている。 テーブルにおいてある料理を見ると、彼は一瞬固まった。「……こんなに作ったのか?」 私は彼を見た。「今日は早く帰るって言ったよね」 彼はこめかみを揉んだ。「今日は……ごめん。店でちょっとトラブルがあって、対応が必要だった。お客様が……」 「今日は、私たちの五周年記念日」 安弘の動きが止まった。「……知ってるよ」 彼は急いで私の前に来た。 「ごめん。最近は店のことで手いっぱいで、明日埋め合わせするから。 そうだ、君へのプレゼント」 彼はポケットからビニール袋を取り出した。「これ、先に渡す」 中には製菓道具のセット。 でも一目で、百円ショップでついでに買ったものだと分かった。 値段まで知っている。六百円。 彼のスマホが光った。 ロック画面に通知が浮かぶ。 【晴奈:安弘、今日は本当にありがとう!人生で一番幸せな誕生日だった!】 その後には一枚の写真が添えられている。パイ投げの記念写真。 安弘はそれを見ると、すぐに画面を消した。「シャワー浴びてくる」 彼は背を向けて浴室へ入った。 私はその場に立ち尽くし、六百円の製菓道具を見つめた。 そして、すっかり冷えきった料理を見る。 胃が激しく痛んだ。 私はキッチンへ駆け込み、流しに突っ伏してえずいた。 何も吐けず、込み上げてきたのは胆汁の苦さだけ。 私は眠れなかった。 リビングに座り、天井を見つめていた。 午前一時、私はスマホを手に取った。 魔が差したように「洋菓子専門店葉月」を検索した。 地元のインスタグラムアカウントを見つけた。 最新の投稿は今日のもの。 九枚の写真。 店内は風船でいっぱい、テーブルには巨大なバースデーケーキ。 晴奈が真ん中に立ち、目を細めて笑っている。 安弘が隣で、彼女にバースデーハットをかぶせている。 彼の笑顔はとても優しかった。 投稿者はこう書いている。【二十三歳になりました!安弘のサプライズに感動して泣きました。人生で一番特別な誕生日パーティーです!】 下には何十ものコメント。 【晴奈、誕生日おめでとう!】 【森田さん、ほんとに優しい!】 【いつ二人でお付き合い発表するの?笑】 私は投稿された時刻を見つめた。今夜十時だった。 さらに前の投稿を遡っていく。 二日前【深夜作業も、一緒にいてくれる人がいるから頑張れます】 背景は晴奈と安弘。 一週間前【このレシピが一番だって安弘が言ってくれました!】 手に持っているのは、私が以前研究していたイチゴのナポレオン。 半月前【私たちの店のオープンが楽しみ】 「私たちの店」私は小さくつぶやき、スマホを握る指が白くなるまで力を込めた。 浴室のドアが開き、バスタオルをまとった安弘が出てきた。 私がまだ起きているのを見ると、彼は眉をひそめた。 「なんで寝ないんだ。明日は休みだから、記念日やり直そう」 彼は近づいて、私の頭に触れようとした。 私は身をかわした。「晴奈の誕生日を祝いに行ってたんでしょ」 安弘の手が宙で止まった。「……どうして知ってる?」 私は彼を見つめた。「私たちの記念日に、他の女の誕生日パーティーを開くなんて」 「美咲、聞いてくれ」 彼は焦ったように言った。「違うんだ、君が思ってるようなことじゃない。あれはただの店のイベントで、たまたま彼女の誕生日と重なって……」 「たまたま?」私は笑った。 「今月の五日は、私たちの記念日で、同時に彼女の誕生日。 あなたは彼女を選んだ。それを『たまたま』って言うの?」 「俺は……」安弘は言葉を失った。 「私がどれだけ待ってたか、分かる? 朝七時から料理を作って、夜十一時まで待ってた」 私の声が震え始めた。 「冷めたら温め、温めたらまた冷めて。 胃が痛くて仕方なかったけど、我慢した。 あなたが帰ってくるって信じてた。記念日のことを覚えてて、家に私がいることを覚えててくれるって。 でも、あなたは他の人の誕生日を祝ってた。 百万円かけてパーティーをして。 私には、六百円の製菓道具だけ……」 安弘は口を開いた。「本当に……」 「もういい」 私は立ち上がった。「疲れた。あなたは主寝室で寝て」 私は客室に入り、鍵をかけた。 ドアにもたれてずるずると座り込んだ。 胃は刃物で切られるように痛んだ。 私は体を丸めた。 外で、安弘が何度かドアを叩いた。「美咲、開けて。ちゃんと話そう」 私は答えなかった。 彼はしばらく叩いて、諦めた。「ゆっくり休め。明日、埋め合わせするから」 足音が遠ざかっていった。 私は膝を抱え、暗闇の中に座っていた。 それでも涙は止まらなかった。 第3話 翌朝、安弘は本当に出かけなかった。 彼は朝食を作ってくれた。目玉焼きとトースト。 「今日はずっと一緒にいよう。行きたいところがあったら、どこでもいいよ」彼の声にはどこか取り入るような調子があった。 私はほとんど食べられなかった。胃の痛みがずっと続いていた。 「病院で診てもらいたいの。最近ずっと胃の調子が悪くて」 彼は眉をひそめた。「疲れすぎじゃないのか?家で休んだほうがいいんじゃない?」 「検査したい」 「わかった。じゃあ一緒に行こう」 彼は車の鍵を取った。 病院に着き、受付をして、順番を待った。 安弘はそばにいたけれど、ずっとスマホを見ていた。 私の番になると、医者はいくつか質問をして、胃カメラ検査を勧めた。 「どれくらいかかりますか?」と安弘が聞いた。 「二時間ほどです」 「じゃあ……」そのとき安弘のスマホが鳴った。 彼は着信画面を一目見て、「ちょっと外で電話してくる」と言って廊下に出た。 ドアの隙間から、彼の表情が険しくなるのが見えた。 「え?審査員が今日来る?来週じゃなかったのか? ……わかった。今すぐ行く」 彼は電話を切って戻ってきた。 「美咲、店で急な用事ができた。晴奈が、早めに審査を受けたほうが宣伝にもなるって言ってて。今すぐ行かないと」 私は彼を見つめた。「今日はずっと一緒にいるって言ったよね」 「わかってる。でもこの審査は本当に大事なんだ」彼の声に苛立ちが混じりはじめた。 「検査を受けるだけだろう。店の審査が終わったら、俺はすぐに戻るから」 「ひとりで検査を受けるの……」 「もう三十歳だろ。検査ひとつでそんなに不安になるのか?」彼は遮った。 「美咲、もう少し一人で何とかしてくれない。俺はいま起業で忙しい。店は大事なんだ。わかってほしい」 彼は時計を見て言った。「本当に行かないと。検査が終わったらタクシーで帰って。俺は夜に戻るから」 そう言って、彼は振り返らずに行ってしまった。 私はその場に立ち尽くした。 彼の背中が廊下の奥に消えていくのを見送った。 「葉月美咲さん、どうぞ」 看護師に呼ばれて、私は検査室に入った。 ひとりで。 胃カメラ検査はつらかった。 冷たいチューブが喉に入ってくる。 私は検査台に横たわりながら、吐き気と涙を必死にこらえた。 隣の検査室から声が聞こえた。「大丈夫、そばにいるから。怖くないよ」 私は目を閉じた。 涙がこめかみを伝って流れた。 検査が終わったあと、私は立ち上がる力もなかった。 看護師が休憩コーナーまで支えてくれた。 「ご家族は?」 「用事があって、先に帰りました」 看護師は一瞬私を見て、何か言いかけてやめた。 私は椅子に座り、スマホを取り出した。 安弘に「検査が終わった」と送ろうとした。 けれどスマホを開いた瞬間、「洋菓子専門店葉月」のインスタが更新されているのが目に入った。 タイトルは、【洋菓子専門店葉月、グルメフェスの審査員の視察を迎えました】 開くと写真が並んでいた。 一枚目、安弘と晴奈はカウンターの前で、スーツ姿の人たちにスイーツを説明している。 二枚目、安弘が晴奈のエプロンの紐を優しく整えてあげている。 三枚目、晴奈がスイーツを安弘の口元に運び、彼が目を細めて笑っている。 投稿者はこう書いている。【森田さんの丁寧なご指導のもと、私たちは万全の準備で審査員の皆さまから高評価をいただきました】 私は三枚目の写真を見つめた。 あんなに楽しそうな笑顔。安弘が家にいるときより、ずっと嬉しかった。 スマホが震えた。 安弘からのメッセージだった。 【審査は順調だった。店はすごく将来性があるって。 晴奈の対応も本当によかった。若くてセンスがあるって、皆が褒めてたよ。 やっぱり俺の目に狂いはなかった。 今夜は接待があるから多分帰れない。君は早く休んで】 看護師が来た。「葉月さん、今日はもう帰れます。結果は出たらご連絡します」 「深刻ですか」 「少し気になる所見があるので、詳しくは病理レポートを待ちましょう。家でゆっくり休んで、刺激の強いものは食べないでくださいね」 看護師はまた何か言いかけて、やめた。 私は頷いた。 点滴を終えて家に戻ったのは、もう夜七時だった。 家には昨日の料理が残っていたけれど、冷えきって食べられなかった。 私はひと皿ずつゴミ箱に捨てた。 胃はまだ痛かったけれど、もう何も感じないような気がした。 スマホがまた鳴った。 病院からのメッセージだった。【検査結果が出ました。できるだけ早くご来院ください】 私はそれを見つめ、胸が重く沈むのを感じた。 安弘に電話しようかと思った。 一緒に結果を聞いてほしかった。 抱きしめてほしかった。 大丈夫だと言ってほしかった。 でも発信ボタンの上で指は止まり、やがて下ろした。 彼は来ないはず。 店に用事がある。 晴奈は彼を必要としている。 第4話 翌朝、私は病院へ行った。 医者はレントゲン写真を手に、唇をきゅっと結んだ。「胃がんです。早期ですが」 私の頭の中が真っ白になった。 「すぐに手術が必要です。ご主人を呼んで、同意書に署名してもらってください」 指が震えながら、私は安弘に電話をかけた。 「もしもし?」彼の眠たげな声だった。 「胃がんだって」私はできるだけ落ち着いた声で言った。 「すぐ手術しないといけないって。早く病院に来て、サインしてほしい」 向こうが三秒、沈黙した。 「えっ!」 「胃がん。早期だけど、手術が必要なの」 「お、俺は……今日は……」 彼の声が慌てて乱れた。「今日は店のグルメフェスの決勝で、審査員も来てて……離れられないんだ……」 私は目を閉じた。「安弘、私、死ぬかもしれない」 「そんなこと言うな!」彼は慌てた。 「今の医学なら大丈夫だ。 両親に教えてサインしてもらって。俺は夜には必ず行く」 「私の両親はほかの都市にいて、明日にならないと来られない」 「じゃ……じゃあ、少し待って」彼はためらった。 「本当に今は抜けられないんだ。美咲、わかってくれ。今回の決勝は店にとってすごく大事で……」 電話の向こうがにぎやかになり、晴奈の笑い声が聞こえた。 「もういい」私は電話を切った。 医者が尋ねた。「ご家族は?」 「来られません」 「こんな手術に、ご家族なしでは……」 私はかすかに口角を上げた。「先生、私が自分でサインします。いいですか」 医者はため息をついた。「できますけど……」 「私がサインします」 私はペンを取り、【家族署名】の欄に自分の名前を書いた。 手術は六時間続いた。 途中で大量の出血があった。 麻酔の効果がまだ残っていて、医者の声が遠くで響いた。 「急いで!輸血を準備して!」 「血圧が下がってる!」 「ご家族は?」 「いない……」 「どうしてご家族がいないんだ……」 声はだんだん遠のいていった。 目を覚ましたのは、翌朝だった。 両親が来ていた。 母親は目を赤くして私の手を握り、父親は窓辺で涙をぬぐっていた。 「……安弘は来た?」私の声がかすれていた。 母親は首を横に振った。 父親は振り向いて、声を詰まらせた。「何十回も電話したが、全部『忙しい』と言われた」 私はそれ以上聞かなかった。 ベッドサイドの棚には、母親が持ってきたお粥と、父親が買ったカーネーションが置かれている。 安弘の痕跡はなかった。 午後、彼はやって来た。 果物かごを提げ、疲れた顔をしているのに、どこか嬉しさを隠しきれなかった。 「ごめん。昨日は本当に大事でさ。うち、最高評価を取ったんだ。晴奈は泣いて喜んで、みんなで遅くまで祝って……」 彼は果物かごを机に置いた。「手術は無事だった?審査が終わったらすぐ来たんだ」 父親は勢いよく立ち上がり、彼の頬を平手打ちした。「畜生!」 父親の目は真っ赤だった。 「美咲が手術台にいる間、お前はどこにいた? 大量の出血があって、死にかけたんだぞ!お前は何をしてた! 何十回電話しても、なぜ出なかった! 美咲はまだ三十歳だ!人生で最も貴重な五年間を、お前にやったんだぞ!どうしてそんなことができる!」 母親は父親を抱きしめ、震えながら泣いた。 「出て行って!あなたの顔を見たくない!」 安弘は頬を押さえ、呆然とした。「お義父さん……お義母さん……理由があって……」 「出て行って!」母親が叫んだ。 「今すぐ出て行かないと警察呼ぶよ!この人でなし!」 看護師が駆け込んできた。「静かにしてください!ここは病院です!」 安弘は慌てて私を見た。「美咲……説明してくれ……」 私は彼を見つめた。「安弘、離婚しましょう」