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娘誕生日、母の私が入替え国家組織へ
娘の誕生日だった。 彼女はわざと、みんなの前で言った。「ママはくたびれた顔のおばさんなんだから、ケーキは食べなくていいよ。これ、パパが...
Chương (1)
第1章
娘の誕生日だった。
彼女はわざと、みんなの前で言った。「ママはくたびれた顔のおばさんなんだから、ケーキは食べなくていいよ。これ、パパがすごく高いのを買ったんだもん」
胸の奥が、すとんと沈んだ。
振り向くと、娘は一番大きなケーキを皿にのせ、家庭教師に差し出していた。
「小山ママ、このケーキのイチゴ、すごく甘いの。早く食べて」
夫は私の居心地の悪さなど気にも留めず、笑いながら娘と家庭教師の頬にクリームを少し塗った。
「長生きして、元気でいられますように」
三人が楽しそうに笑い合う姿は甘くて幸せそのものに見えた。
その瞬間、私はすべてを諦めた。
そして私の先生に電話をかけ、国の極秘プロジェクトに参加することを選んだ。
この人たちのために夢を捨てるなんて、あまりにも割に合わなかった。
第1話
娘の誕生日だった。
彼女はわざと、みんなの前で言った。「ママはくたびれた顔のおばさんなんだから、ケーキは食べなくていいよ。これ、父さんがすごく高いのを買ったんだもん」
胸の奥が、すとんと沈んだ。
振り向くと、娘は一番大きなケーキを皿にのせ、家庭教師に差し出していた。
「小山ママ、このケーキのイチゴ、すごく甘いの。早く食べて」
夫は私の居心地の悪さなど気にも留めず、笑いながら娘と家庭教師の頬にクリームを少し塗った。
「長生きして、元気でいられますように」
三人が楽しそうに笑い合う姿は甘くて幸せそのものに見えた。
その瞬間、私はすべてを諦めた。
そして私の先生に電話をかけ、国の極秘プロジェクトに参加することを選んだ。
この人たちのために夢を捨てるなんて、あまりにも割に合わなかった。
……
私の話を聞くと、先生は数秒黙り込み、やがて少し落ち着いた声で言った。
「行かないって言ってたよね?子どもも、まだ小さいし。どうして急に気が変わったの?」
荷造りをしていた手が止まり、私は一度唇を引き結んでから答えた。
「大丈夫ですよ、先生。もうちゃんと考えました。七菜ちゃんには、私みたいな母親はいらないんです。家で専業主婦をしているより、国のために力を使いたいんです」
電話を切ったあと、私はベランダのソファに座り、することもなく外の景色を眺め続けていた。
頭の中では、今夜レストランで起きた出来事が自然と何度も蘇っていた。
今日は娘・内川七菜(うちかわ なな)の誕生日だった。お祝いのため、私は都内の高級レストランで個室を予約していた。
朝早くから休みを取り、定時よりも早く帰宅し、手作りでイチゴのケーキを焼いた。
最初は終始、和やかな雰囲気だった。
けれど、ケーキを切り分ける段になって、七菜はわざと私を何度か見てから口を開いた。
「ママはくたびれた顔のおばさんなんだから、ケーキは食べなくていいよ。これ、父さんがすごく高いのを買ったんだもん」
胸の奥が、すとんと沈んだ。
振り向くと、娘は一番大きなケーキを皿にのせ、家庭教師の小山愛海(こやま まなみ)に差し出していた。
「小山ママ、このケーキのイチゴ、すごく甘いの。早く食べて」
その言葉が落ちた瞬間、場の空気が一瞬止まり、友人や親戚たちは黙って私たちに視線を向けた。
やがて小さなざわめきが広がり、七菜の中で、私はもう母親として数えられていないのだと悟った。
私はその場に立ち尽くし、ただ気まずく笑うしかなかった。
けれど内川安彦(うちかわ やすひこ)は私の顔色には目も向けず、笑いながら七菜と愛海の頬にクリームを塗った。
「長生きして、元気でいられますように!」
「パパ、ひどい!小山先生にも塗った!」
愛海はか弱そうな笑みを浮かべ、今度は父娘の頬にもそっとクリームを塗り返した。
三人が笑い合う甘く睦まじい光景を目にした瞬間、私の中で何かが静かに切れた。そのまま背を向け、店を出た。
帰り道、ネオンがきらめいていた。
無数の灯りの中に、私を迎え入れてくれる明かりは一つもなかった。
冷たい風に吹かれながら、思考は乱れ、頭の中には私と安彦の過去ばかりが浮かんでは消えた。
私たちは大学で出会い、惹かれ合い、恋に落ちた。
キャンパスからウェディングドレスまで、周囲から羨ましがられる恋人同士だった。
結婚して二年目、私は七菜を身ごもった。
体質の問題かどうかは分からないが、妊娠中は不眠が続き、苦しみが重なって倒れ、病院に運ばれることも少なくなかった。
数か月のうちに、体は見る見る痩せていった。
安彦は私の様子に胸を痛め、涙を流しながら、この子を諦めてほしいと訴えた。そして膝をつき、言葉を絞り出すように誓った。
「この先、子どもがいなくても、君を愛し続ける。苦しむ君を見て、何もせずにいられるはずがない。子どもと君なら、俺は君を選ぶよ」
あの頃の安彦はどれほど真剣で、どれほど私を愛していたのだろう。
それなのに、どれほどの時間が経ったというのだろう。まだ倦怠期と呼ばれる時期にも達していない。
愛海という存在が彼の人生に入り込み——気づけば、命がけで産んだ娘も、私が愛し続けてきた夫も、私から離れていった。
人生の途中に取り残されていたのは、私だけだった。
ガチャリと音を立ててドアが開き、安彦が不機嫌そうな顔で入ってきた。
「黒木玲奈(くろき れいな)、いい加減にしろ。今日は娘の誕生日だろう。母親のお前が途中で帰るなんて、どういうつもりだ。七菜ちゃんは冗談を言っただけじゃないか。それを本気にするのか」
第2話
私は、彼に視線を向けることすらしなかった。
安彦にとっては彼や七菜が口にする「小山ママ」という呼び方も、何気ない一言も、すべて冗談のつもりなのだろう。
けれど、私という実の母親を目の前にして、堂々と他人を「ママ」と呼ぶ。それを冗談と呼べるはずがない。あれはどう考えても私への挑発だった。
手にしていたスマートフォンを、私は強く握り締めた。
「冗談って、お互いが笑えてこそ冗談でしょ。あなたたちは私がやってきたことを当たり前だと思って、それを盾に好き勝手してるだけ。
あなたも七菜も、私の気持ちに甘えて、平気で踏みにじってる。小山先生が小山ママなら……私は、何なの」
この夜になって、私はようやく腑に落ちた。
安彦の気持ちは愛海へと移り、それに倣うように、娘も同じ方向を向いている。
私が耐え、譲り続けたところで、彼らの真心が戻ることはなかった。残ったのは歯止めの利かない無遠慮さだけだった。
私は唇を噛みしめた。
情けないことに、涙があふれ、視界が滲んでいく。
他人ならともかく、安彦が知らないはずはない。
七菜は、私が命を削る思いで産んだ子どもだった。
当時、体の事情から医師には告げられていた。この子を産み続ければ、命に関わる危険があるかもしれないと。
それでも何か月ものあいだお腹の中で共に過ごし、その子が動くたびに、その一瞬一瞬を私は確かに感じていた。
この子は私と安彦の子どもだった。私たちの愛が形になった存在だった。
それを、どうして手放せただろうか。
運よく命を取り留め、私は七菜を無事に産んだ。それからは細心の注意を払いながら、ここまで育ててきた。その愛らしい姿は会う人の心を自然と和ませた。
それなのに、成長した七菜が最初にしたことは父親と肩を並べて私を傷つけることだった。
だからこそ、こんな父と娘のために、私はもう何かを差し出すつもりはない。
おそらく、私がこれほど感情を露わにする姿を見るのは初めてだったのだろう。
安彦は明らかに戸惑った表情を浮かべた。
「七菜ちゃんが冗談で言った一言だろう。あのケーキのことで、そこまで怒るのか。
玲奈、いい大人が娘と本気で張り合うのか。今日はそのケーキを食べなかったら、死ぬとでも言うつもりか」
彼は私が怒っている理由を理解しようともしなかった。説明する気力も、もう残っていなかった。
「もういい。あなたの屁理屈はこれ以上聞きたくない。これから、あなたと七菜が小山先生とどう関わろうと、私はもう関係ない」
私はすでに、先生の極秘研究計画への参加を受け入れていた。
少し時間が経てば、ここを離れることができる。
私を顧みない父と娘のもとから。
そのとき、ドアが開き、言い争う声を聞きつけた七菜が我慢できずに入ってきた。
彼女は頬を膨らませ、怒りを隠そうともせず私を睨んだ。
「ママ、なんでパパと喧嘩するの。ただのケーキでしょ。
パパは毎日あんなに大変なのに、ママは文句ばっかり。小山先生のほうが優しくて気が利くんだもん。だからパパもママのこと好きじゃないんだよ。
パパがいなかったら、こんな家に住めないでしょ」
その言葉を聞いた瞬間、私は信じられない思いで顔を上げた。
「七菜……あなたは私のことをそんなふうに思っていたの?」
大学を卒業して研究所に勤め、七菜を産んでから、私の生活は少しずつ家庭中心になっていった。
そのため、極秘研究への参加を持ちかけられたときも、私は迷わず七菜を選んだ。
娘には母親がそばにいる必要がある。そう信じて疑わなかった。
それでも、まさか。
私のしてきたすべてが、娘には安彦に寄りかかって生きているだけに見えていたなんて、思いもしなかった。
第3話
私が黙り込んでいるのを見ると、七菜はますます調子に乗った。
彼女は一度部屋の外へ出て、小さなケーキを持ち帰ると、それを私に投げつけた。
「ふん。小山先生がケーキまで買って、ママをなだめてくれてるのに。ママってほんと分かってないよね」
ケーキは避ける間もなく真正面から当たり、甘ったるい感触が頬に貼りついた。
七菜は自分のやったことに満足した様子で腰に手を当て、扉の前に立っていた。
「もうババアのくせに、小山先生と比べようなんて。鏡で自分の顔を見なさいよ。ケーキは最初から、小山先生にあげるつもりだったんだから」
私は顔を上げ、扉の外に立っていた愛海と視線が合った。
彼女は新作のコートを身にまとい、丁寧にパーマを当てた髪に、華やかなメイクをしている。
それに比べて私はシャツにジーンズ姿だった。
こうして並ぶと、「ババア」と呼ばれても、否定しようもなかった。
普段は研究室で仕事に追われ、終われば七菜に付き合う。自分の身なりまで気を配る余裕などなかった。
ただ、この父娘にとって、私はその程度の存在でしかない。
「七菜ちゃん、そんな言い方をしちゃだめよ。お母さん、傷つくでしょう」
愛海は腰をかがめ、七菜を抱き寄せた。その目には、明らかに咎める色が浮かんでいる。
七菜は舌を出し、「わかった」とだけ言った。
……本当に、この子は愛海の言うことだけは聞く。
私は小さく息を吐いた。
そのままバスルームへ向かい、体についたケーキを洗い流した。
離れること。
それが、きっと一番ましな選択だった。
片づけを終えて戻ったときには、三人はもうリビングにいて、何事もなかったかのように遊んでいた。
私は無理に混ざろうとはせず、ベッドに横になり、そのまま休むことにした。
自分を大切にしてこそ、人からも大切にされる。
そういうものだったはずだ。
翌朝、私はすっかり昼近くになってから目を覚ました。
その間、安彦が物音を立てて苛立っているのは分かっていた。ドアには鍵をかけていたから、朝食を作らせようとしても無駄だった。
身支度を整えて部屋を出ると、三人はまだ家にいた。
愛海は私を見るなり、柔らかな声で言った。
「玲奈さん、今日はずいぶん遅いですね。体調が悪いんですか。七菜ちゃんたちは、あなたがいなくて大忙しでしたよ」
彼女をちらりと見ただけで、私はまだ何も言っていない。
その瞬間、七菜が飛び出してきて、噛みつくような勢いで私に詰め寄った。
「わざとでしょ。朝ごはんも作らないで、先生にやらせて。私は負けないからね。あとでみんなで外に食べに行くんだから」
私は彼女の得意げな様子を無視し、静かに口を開いた。
「小山先生は家庭教師でしょ。勉強や生活を見るのが仕事で、朝ごはんを作るのもその一つ。それとも、家庭教師じゃなくて、他にやりたいことがあるの?」
そう言い終えると、私はスマートフォンを取り出し、デリバリーを注文した。
愛海の顔色がみるみる変わるのを、私は気に留めなかった。
彼女が皮肉られたのを見て、安彦は我慢できなくなったようだった。冷たい視線を向けてくる。
「玲奈、何をでたらめなことを言ってるんだ。愛海ちゃんがそんな汚い考えをするわけないだろう。お前は疑い深すぎるんだ」
それを聞いて、七菜も慌てて続けた。
「そうだよ。小山先生とパパは仲のいい友だちなんだから。もし小山先生を怒らせて出ていかれたら、ママが私の世話をするの?そんなの嫌。ママみたいなお母さん、幼稚園のみんなに笑われるよ」
声は幼いのに、その言葉だけがやけに鋭かった。刃物のように胸に突き刺さり、血が流れる感覚がした。
安彦もその流れに乗るように、失望した表情で言った。
「もういい。お前は家で一人で反省していろ。俺は二人を連れて、朝ごはんを食べに行く」
そう言うと、安彦は七菜の手を引き、勢いよくドアを閉めた。
衝撃で、窓までわずかに震えた。
私は三人の背中を見送りながら、心は驚くほど静かだった。
簡単に部屋を片づけ、窓辺の観葉植物に水をやった。
そのとき、安彦が突然戻ってきた。
彼は私を見るなり、怒鳴り声を上げた。
「玲奈、お前は何考えてたんだ。七菜ちゃん、熱が出てるのに気づかなかったのか!外に出る前に、確認するべきだっただろう。このまま倒れるまで放っておくつもりだったのか。いいから来い。今すぐ病院だ」
第4話
水を注ごうとした手が、宙で止まった。
正直、すぐには状況を呑み込めなかった。
七菜の誕生日パーティーから今まで、ずっと私を避けていた。そんな私に、彼女の異変に気づけるはずもなかった。
それでも、母親としての本能が私を突き動かし、安彦の背中を追わせた。
向かう途中で、ようやく何が起きたのかが分かってきた。
朝食を食べている最中、七菜の体が急に熱を帯び、全身が火照ったまま倒れたのだという。
「おかしい、安彦。七菜ちゃんはただの熱じゃない。アレルギーだと思う」
彼の断片的な話の中に、引っかかる点があった。朝食にピーナッツスープを頼んだと言っていた。七菜はピーナッツアレルギーがある。
「……そうなのか?」
安彦は驚いたように私を見た。
私は彼を押しのけ、そのまま病院へ向かって走り出した。
アレルギー。
それは私が七菜に対して、ずっと胸の奥に抱えてきた後悔でもあった。彼女は私の体質を受け継いでいる。重く出れば、命に関わる。
「玲奈、待て。靴が……」
安彦はすぐ追いついてきた。息を切らし、私の片方の靴を手にしている。
けれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。七菜に発疹が出ていた。全身が赤くなり、弱々しい声で「ママ」と呼んでいる。
「七菜ちゃん……」
私は両手を伸ばした。
その瞬間、ほかのことはすべてどうでもよくなった。
誰を母親だと思っていようと、本当に私を嫌っていようと、考えたくなかった。
今はただ、この子を抱きしめたかった。
パシン。
意識が朦朧としているはずの七菜は、それでも私を認識した。まるで私を拒絶するかのような目で、私の手を強く叩いた。
「いやだ」
かすれた声が胸に突き刺さり、息が詰まるほど痛かった。
「七菜……お前の母親だろ」
安彦の顔色はひどく悪かった。私がどれほど必死で駆けてきたか、彼は目の前で見ていたのだから。
愛海も、私の裸足と、空気に混じるかすかな血の匂いに気づいた。
「玲奈さん、怪我してますよ。先に処置したほうがいいです。七菜ちゃんはここは私がついてますから」
この二年間、彼女は七菜の成長をそばで見てきた。強く叱れるはずもなく、話題をそらすようにそう言ったのだろう。
私は足の裏に視線を落とした。来る途中、地面に割れたガラスが落ちていたことに気づかなかった。
さっきまでは心配でそれどころではなかったが、言われて初めて、突き刺すような痛みが一気に押し寄せた。
「……処置したほうがいい」
安彦の声には後悔の色がにじんでいた。
私は愛海のそばに腰を下ろし、無表情のまま、足裏のガラス片を取り除いた。
「いい。先に、七菜ちゃんを診てもらう」
心が引き裂かれる感覚を、子どもを持って初めて知った。
できることなら、ベッドに横たわっているのが私であってほしかった。
「本当に大丈夫ですか?」
愛海は心配そうに私を見て、安彦も言葉を選んでいる様子だ。
「大丈夫。お医者さんが来た」
痛みをこらえ、私は誰よりも先に医師のもとへ向かった。七菜の体調もアレルギーの経過も、一番よく知っているのは私だ。
一時間後、点滴につながれた七菜の熱は完全に下がった。その頃には、私の頭がふらついていた。
血が靴の中まで滲み、歩くたびに刃物で切られるような痛みが走った。
安彦はそれに気づき、私を医者に連れて行こうとした。
けれど、七菜は嫌がった。
彼女は安彦と愛海の手を固く握り、やつれた顔に強い執着を浮かべている。
「……いい」
私はそっと七菜の布団を掛け直した。彼女は私に触れられるのを嫌がり、私もそれ以上はできなかった。それだけでも、そばにいようとした。
「うそくさい」
七菜は顔を背けた。私は黙って自分の袖口をなぞり、そのまま外科処置室へ向かった。
ここまでで、すでに一時間以上、怪我をしたままだった。
足の裏は血で覆われている。
医師は私の忍耐力に感心しつつ、同時に、どうして自分を大切にしないのかと責めた。
私は額の汗を拭い、彼に小さく微笑んだ。
「たいした怪我じゃないです」
七菜が私に向けた態度に比べれば、本当に、その程度の痛みだった。
第5話
医師は首を横に振り、それ以上は何も言わなかった。
私は静かに処置が終わるのを待った。
夜明け前、再び七菜の病室へ戻ると、彼女はすでにいなかった。
若い看護師が気遣うように私の肩を軽く叩いた。
「奥さま、旦那さんから伝言があります。お子さんがとても騒いでしまって、先に帰られたそうです」
「……わかりました」
泣くより、よほどみっともない笑みが浮かんだ。たった傷の処置をしている間に、全員がいなくなってしまうなんて思わなかった。
夜風に吹かれながら、私は家へ向かう道を歩いた。
今の気持ちを言葉にする術がなかった。
若い頃、安彦はとても私を大切にしてくれた。苦労させまいとし、どこへ行くにも迎えに来てくれた。
それなのに今は新しい人が隣にいて、命懸けで産んだ子どもまで、私を気にかけなくなった。
ここまで来ると、人生はひどく空っぽに思えた。
スマホが鳴った。
車で帰る途中、安彦からの電話だ。
向こうはやけに賑やかだ。私は眉をひそめ、スマホを耳に当てる。
「玲奈、子どもを連れて夜食を食べてる。そっちは終わったらこっちに来い。場所を送る」
直後、通知音が鳴った。
送られてきた位置情報は病院のすぐそばだった。しばらく食べてから、ふと思い出したのだろう。
「行かない。二人で食べて」
私は淡々と電話を切った。涙がこぼれ、胸の奥が息苦しいほど痛んだ。
「大丈夫」という言葉は簡単だ。
けれど、何度自分に言い聞かせても、本当に大丈夫なはずがなかった。
あれは私の子どもで、私の夫だったのだから。
それでも、もう限界だ。行くしかない。
昇り始めた朝日が窓に差し込む中、私はスーツケースをまとめ、離婚届をベッドの脇にそっと置いた。
安彦は戻ってこなかった。未明に届いたメッセージには、寒くて行き来が大変だからホテルに泊まるとだけ書かれていた。
私が余計なことを考えないようにだろう。部屋は二つ取ったのだと、あえて示してきた。
それは昨夜すでに見ていた。けれど、返事はしなかった。
今日は私が出て行く日だった。
戻ってこないなら、ちょうどいい。別れのときに交わす言葉も、娘に嫌われる顔を見るのも、もう耐えられなかった。
「行きましょう」
迎えに来た人へスーツケースを渡した、そのときだった。安彦が戻ってきた。袋いっぱいの食べ物を提げ、七菜を抱いて笑っている。
「どこへ行くんだ」
私のスーツケースを見ると、不満そうに目を上げ、七菜を愛海の腕に預けた。
「先に中へ入って。俺が玲奈と話す。子どもを怖がらせるな」
確かに、彼はいい父親だった。私は大きく息を吐き、微笑んで言った。
「荷物はもうまとめた。私は行くよ。七菜ちゃんをよろしく」
すべてを片づけて去ろうとする私を見て、安彦は嘲るように笑った。
「玲奈、今度は何の芝居だ。七菜ちゃんはまだ病気だぞ。母親のくせに世話もしないで、家出するつもりか。いい歳して、少しは大人になれ」
奥の部屋にいる七菜を気にして、彼は声を落としていた。
それでも、怒りははっきりと伝わってきた。
「安彦。私は、あなたたちが望んだほうを選んだだけよ」
できるだけ落ち着いて答えた。けれど彼には言い訳にしか見えなかったのだろう。
「玲奈。出て行くなら、後悔するな」
廊下に、重いドアの閉まる音が響いた。
安彦は振り返らなかった。私を見ることすら、しなかった。