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月が落ちる昏い霧の夜
【もし結婚してなかったら、私のこと、好きになってくれますか?】 村田美羽(むらた みう)と名乗る女の子から、真夜中に山崎梨花(やまざき ...
Chương (1)
第1章
【もし結婚してなかったら、私のこと、好きになってくれますか?】
村田美羽(むらた みう)と名乗る女の子から、真夜中に山崎梨花(やまざき りか)の夫へメッセージが届いた。彼の返事は、たった一言だけ。
【ああ】
そのやり取りのスクリーンショットが届いたとき、梨花は夫の山崎翼(やまざき つばさ)と一緒にパーティーに出ていた。
彼女の表情は一瞬こわばったけど、すぐにいつもの微笑みに戻った。
挨拶に来た人とにこやかに話してから、梨花はそのメッセージの送り主に返事をした。
【分かった】
夫の翼は、この東都で誰よりも気高く、自分自身に厳しい人として知られている。
彼は自分にとても厳しく、スケジュールは分刻み。食事も生活も、すべて計画通りに進める。何があっても、その予定が狂うことは絶対にない。
身持ちもとても堅い。クラブで遊ぶなんてありえないし、お金持ちの息子たちが好むような遊びにも一切興味がない。悪い趣味というものが、何一つない人だった。
第1話
【もし結婚してなかったら、私のこと、好きになってくれますか?】
村田美羽(むらた みう)と名乗る女の子から、真夜中に山崎梨花(やまざき りか)の夫へメッセージが届いた。彼の返事は、たった一言だけ。【ああ】
そのやり取りのスクリーンショットが届いたとき、梨花は夫の山崎翼(やまざき つばさ)と一緒にパーティーに出ていた。彼女の表情は一瞬こわばったけど、すぐにいつもの微笑みに戻った。
挨拶に来た人とにこやかに話してから、梨花はそのメッセージの送り主に返事をした。
【分かった】
こんなの、見るからに加工された画像だわ。梨花は、まったく気にしなかった。
夫は、この東都で誰よりも気高く、自分自身に厳しい人として知られている。
彼は自分にとても厳しく、スケジュールは分刻み。食事も生活も、すべて計画通りに進める。何があっても、その予定が狂うことは絶対にない。
身持ちもとても堅い。クラブで遊ぶなんてありえないし、お金持ちの息子たちが好むような遊びにも一切興味がない。悪い趣味というものが、何一つない人だった。
感情をあまり表に出さず、自制心も強い。ベッドの上で深く求めあっているときでさえ、彼の深い瞳に余計な感情が浮かぶことはなかった。
結婚するとき、翼は言った。「梨花は、俺の生涯でたった一人の妻です」
梨花は、その言葉を信じて疑わなかった。
梨花が15歳のとき、母親が事故で亡くなった。すると継母が、梨花より1歳年下の男女の双子を連れて家に乗り込んできて、彼女のすべてを奪っていった。
継母に何度も陥れられ、ひどい暴力を受けた。そんな梨花を救ってくれたのが、翼だった。
ゴミ箱に突っ込まれた梨花を、翼は優しく引っ張り出してくれた。そして、体についた汚れをそっと拭ってくれたんだ。
彼の顔には嫌悪感も、上辺だけの優しさもなかった。まるで一筋の光が、梨花の心に差し込んだようだった。
その瞬間、梨花はもうどうしようもなく、翼を好きになった。
彼と過ごし始めたころ、梨花はまだありのままの性格で振る舞っていた。
一日中、翼の後ろをついて回ってはおしゃべりをした。ありとあらゆる手を使って彼の気を引こうとしたけど、翼は嫌な顔ひとつせず、ただ黙っていた。
ある日、翼が山崎家に代々伝わるお守りを梨花の手に握らせた。星のように輝く瞳で、彼は言った。「今日から、自分を磨け。お前は、俺の生涯でたった一人の妻になる人だから」
その日から、翼は梨花のために厳しい計画表を作った。彼に見守られながら、梨花は少しずつ変わり、成長し、やがて品のある本物の令嬢へと生まれ変わった。
22歳のとき、翼は梨花を連れて、離婚ができないと定められている国へ行った。そこで、二人だけの特別な結婚式を挙げた。
彼は梨花の薬指に指輪をはめながら言った。「おめでとう、今日からお前は俺の妻だ」
そのときの翼も、やっぱり感情を表に出さず、余計なことは何も言わなかった。
思い出に浸っていると、梨花はなんだか訳もなく寂しい気持ちになった。
すると、ふと肩があたたかくなった。いつの間にか隣にいた翼が、自分のジャケットを梨花にかけてくれたのだ。
「冷えるといけないから」彼の声は低く穏やかで、さりげない優しさがこもっていた。
「ありがとう」梨花は目を細めて、心が満たされていくのを感じた。
翼の一番の長所は、その細やかな優しさだ。いつも何気ない行動で、梨花の心を温めてくれる。
周りからは、すぐに羨むような声が聞こえてきた。「奥さんは本当に幸せですね。山崎社長にあんなに愛されて」
「二人は、本当にお似合いの夫婦ですね!」
翼は表情を変えず、まるで自分には関係ないというような顔をしていた。
一方、梨花はワイングラスを手に、一人ひとりと挨拶を交わしていく。その立ち居振る舞いは、非の打ちどころがなかった。
パーティーも半ば、梨花が隅の席で休んでいるときだった。頭上のシャンデリアが緩んでいることに、誰も気づいていなかった。
シャンデリアが落ち、周りは一瞬でパニックになり、彼女も慌てて身をかわそうとした。
そのとき、翼が人混みをかき分けて走ってくるのが見えた。でも彼は梨花を通り過ぎて、そばにいたウェイトレスの腕を掴んだのだ。
その場にいた誰もが、あっけにとられた。
シャンデリアは梨花の腕をかすめて落下した。腕はぱっくりと裂け、鮮やかな血が流れ出した。
一方、そのウェイトレスは翼の腕の中に守られ、かすり傷ひとつ負っていなかった。
梨花は、驚きと気まずさでいっぱいになった。
でも翼はすぐに我に返ると、腕の中の女性を離した。そして何事もなかったかのように梨花を抱き上げ、病院へ運んだ。
梨花は、彼の腕の中で痛みのあまり気を失った。
目を覚ますと、そこにはいつもと変わらない翼の穏やかな瞳があった。まるで、何も起こらなかったかのように。
でも梨花は割り切れなかった。さっきの一瞬、確かに翼の瞳に焦りと不安の色が見えた気がしたのだ。
「翼、あの女と知り合いなの?」
翼は表情を変えず、静かに口を開いた。「家のルールをもう一度覚え直したいのか?」
梨花の体は、びくっと硬直した。胸に分厚い綿でも詰められたように、息苦しくて痛い。
山崎家の家のルール、第9条。根拠もなく相手を疑うべからず。
でも彼は、危険な目に遭っている妻を人前で見捨てて、他の女を助けたのだ。それを聞くことさえ許されないの?
梨花はうつむいた。「翼、説明くらいしてくれてもいいでしょ」
「事故だ」翼の声は低く平坦で、それ以上説明する気はまったくないようだった。
一瞬、空気が凍りついた。
次の瞬間、翼の秘書・阿部亮太(あべ りょうた)が数人の警察官を連れて、病室の入口に現れた。
亮太が翼に、何か耳打ちした。
翼の瞳がすっと鋭くなった。いつも氷のように変わらない表情が、一瞬だけ変わった。そして彼は立ち上がり、入口へと向かった。
「少し用事ができた。出てくる」
翼のわずかな感情の揺れに気づき、梨花の心臓が跳ねた。思わず口を開く。「何があったの?私も一緒に行く」
翼はちらりと彼女を振り返り、静かに言った。「いい子だから、騒がないで」
梨花の瞳から光が消えた。昔、彼女がまだ自分を抑えることを知らなかったころ、翼が一番よく口にした言葉だった。
でも今は違う。騒いでなんかない。ただ彼を心配して、そばにいたいだけなのに。
「翼……あなたのことが心配なの……」
「ここで休んでいろ。余計なことに首を突っ込むな」翼は梨花の言葉を遮り、振り返らずに部屋を出ていった。
いつもと違うことが立て続けに起こり、彼女は胸騒ぎと不安でいっぱいだった。
梨花は初めて翼の言うことを聞かなかった。こっそりと、彼の後を追いかけたのだ。
翼が向かったのは警察署だった。それも、一人の女性のために。
あのウェイトレスは、女の子に絡んでいた酔っ払いを助けようとして、相手に怪我をさせてしまったらしい。相手は少し権力のある人間で、彼女を傷害罪で訴えると言ってきかないそうだ。
ウェイトレスはどうしようもなくなって、翼に助けを求めたのだった。
翼が着いたとき、彼女は顔を真っ赤にして反論していた。殴られて腫れた頬には、正義感がみなぎっている。「そんなの不公平です!私は悪い人を懲らしめただけなのに、どうしてわざとやったなんて言われなきゃいけないのですか?
私は絶対に罪なんて認めません!悪いのは向こうなのに!」
「美羽!」翼は女を強く抱きしめた。表情はいつも通り冷静だったが、その瞳の奥には痛々しそうな色が浮かんでいる。彼は手を伸ばし、傷ついた女の頬に触れた。「どうしてまた、あんなところに行ったんだ?」
「お金を稼ぐために、バーでバイトしてたんです。そんなことより翼さん、聞いてくださいよ、この人たちが……」
翼が来たからか、女の強気な態度は少し和らいだ。話しているうちに悔しさで目が赤くなる。「あなたはすごい方だから、悪い人たちを野放しにしないでください!」
そう言うと、彼女は急いで涙を拭った。自分の弱いところを、誰にも見せたくないようだった。
「わかった」翼は、女をぎゅっと抱きしめた。
美羽。
やっぱり、この女が美羽だったんだ。
梨花の体はぐらりと揺れ、全身が凍りつくような感覚に襲われた。
梨花は翼を見た。その瞬間、胸に鋭い痛みが走る。彼の瞳には、今まで見たことのない感情が渦巻いていた。いたわり、愛おしさ、抑えきれない怒り、そして……隠しきれないほどの深い愛情が。
そうか。翼は感情のない、氷みたいな人なんかじゃなかったんだ。彼も心を痛め、怒り、嵐のように激しい感情を抱くことがあったんだ。
そして、翼が本当に好きだったのは、明るくて、正義感が強くて、太陽みたいに元気な女の子だったんだ。
梨花は、ふっと笑ってしまった。じゃあ、これまでの自分の努力は、一体なんだったの?
感情を殺して、性格まで変えて。翼が求める完璧な女性になろうとした、あの時間は何だったの?
梨花の体は震えていた。心の中で何かがガラガラと崩れ落ち、胸がずたずたに引き裂かれるようだった。
翼自ら圧力をかけ、美羽が「悪い人」と呼んだ連中を片付けた。美羽は憧れのまなざしで彼に拍手を送り、何度も親指を立てて褒め称えた。
翼は、それを面倒くさがるどころか、かすかに口角を上げていた。はしゃぐ彼女を、心から愛おしそうに見つめた。
そのかすかな微笑みが、梨花の胸を深く突き刺した。切なさで胸が締め付けられ、息もできなくなりそうだった。
この瞬間、心の中にあったすべての疑問が、解けてしまった。
第2話
翼が美羽を抱いて出てくるのを見て、梨花は慌てて物陰に隠れた。
翼はずっと美羽を抱きしめていて、車に乗ってからも降ろそうとしなかった。
美羽は翼の腕の中で心地よさそうな体勢になると、彼の腕にしっかりとしがみついて、楽しそうにぺちゃくちゃとおしゃべりを続けた。
翼はとろけるような笑顔で、彼女の言葉ひとつひとつに優しく相槌をうっていた。
こんな扱いは、梨花が一度も受けたことのないものだった。昔、急な虫垂炎で気を失いそうなほどの痛みに襲われたときでさえ、彼の隣で静かにおとなしく座っているしかなかったのに。
車がどんどん遠ざかっていく。梨花はその場に凍りついたまま、胸に生々しい傷口をえぐられたような、冷たい痛みを感じていた。
薄い患者衣のまま冷たい風に吹かれて、梨花はずっとそこに立ちつくしていた。体が冷え切って感覚がなくなるころ、ようやく我に返った。
震える手で、彼女は探偵に連絡し、美羽の身元を調べるよう頼んだ。
すぐに、調査資料が送られてきた。
美羽は貧しいけれど、芯の強い大学3年生だった。
彼女と翼の最初の出会いは、驚いたことに梨花自身がきっかけだったのだ。
梨花はスマホを握る指にぐっと力をこめた。断片的な記憶が頭のなかに浮かんでくる。
美羽は配達のアルバイトで、以前、家に解熱剤を届けに来たことがあった。
彼女のバイクが、梨花が玄関前に停めていたパナメーラにぶつかってしまったのだ。それでも美羽は、絶対に弁償すると言って聞かなかった。
梨花がいくら気にしなくていいと言っても彼女は聞かず、あれこれ理屈を持ち出した。
「私は責任から逃げるような人間じゃありません。今はすぐにお金を用意できませんが、必ず弁償します。
貧しくても志はあります。まだ若いですし、絶対に返すことができます。私の名前は村田美羽です。借用書を書かせてください……」
そのとき梨花は熱を出していた。美羽にまくしたてられて頭が痛くなったので、ちょうど帰ってきた翼に対応をお願いしたのだ。
まさか、そのとき翼が美羽に個人の連絡先を教えていたなんて。
それからというもの、美羽は毎日彼に連絡しては、バイト代を送金してきたらしい。
翼は一度も返信しなかったが、彼女のほうは楽しむようにそれを続けていた。
でも、いつからか、翼もたまに【ああ】と返事をするようになった。
美羽はまるで小さな太陽のようだった。その光と熱で、翼という氷山を少しずつ溶かしていったのだ。
二人の連絡はどんどん頻繁になった。翼は美羽からの連絡に特別な通知設定をして、会議中にでさえ、彼女が送ってくる日常のメッセージに返事をしていた。
彼は美羽のために予定を変更し、時間を作っては人気のない道を一緒に散歩した。彼女が病気になれば眠らずに看病し、彼女が好きな屋台の味を求めて、わざわざ遠くまで買いに走ったりもした。
翼はこっそり美羽に高時給の仕事も紹介していた。ただ、彼女のプライドを傷つけないように、そのことは一言も伝えなかった。仕事を紹介した担当者でさえ、それが翼の頼みだとは知らなかったという。
こんなにも細やかな気遣いと、あからさまな特別扱いは、梨花が8年間ずっと求めても決して手に入れられなかったものだ。
それなのに翼は、出会ってまだ半年しか経っていない若い女の子に、いとも簡単にそれを与えていた。
梨花は全身をわなわなと震わせながら、スマホの画面に向かって、ふっと笑い声を漏らした。
笑っていたはずなのに、いつのまにか涙がぽろぽろとこぼれ落ち、音もなく画面を濡らした。
夫が無愛想で、何を考えているかわからなくてもよかった。彼が薄情で、愛というものを知らない人なのだとしても、まだ受け入れられた。
でも、自分には冷たくしておきながら、その愛情と情熱のすべてを、他の自由気ままな女に注いでいるなんて。それだけは、どうしても許せなかった。
梨花は一晩中、ただ呆然と座りこんで、探偵からの資料を何度も何度も読み返した。
夜が明けるころ、彼女は決心した。もう、ここを出ていこう、と。
梨花は、弁護士をしている唯一の親友に電話をかけた。「離婚協議書を用意してほしいの。慰謝料も財産分与も、何もいらないから」
「何もいらない、だと?」翼の声がして、病室のドアの前に彼が立っていた。
梨花の手がぴくりと震えた。慌てて電話を切って、顔をあげて翼のほうを見た。
翼は食事の容器を手に部屋へ入ってきた。その表情はいつもと何も変わらない。静かな視線を梨花の顔に向け、答えを待っているようだった。
梨花はぎゅっと拳を握りしめ、必死に平静を装って言った。「翼、あなたと離婚したいの。財産は、何もいらない」
「家のルールをまた覚え直したいのか?」翼の声は平坦で、表情もまったく変わらない。彼はただ、容器からお味噌汁をよそって梨花に差し出した。
梨花の体がかたまる。あまりに悲しくて、そして、ばかばかしくて。
翼が梨花のために作った99カ条もの「家のルール」だ。その中には、離婚という言葉を口にしてはいけない、というのがあった。
この数年間、梨花はその「家のルール」を掟のごとく守ってきた。翼や山崎家の人たちをがっかりさせたくなかったからだ。
そのルールが正しいかなんて、一度も考えたことがなかった。でも今になってみると、ただ悲しくて、笑えてくる。
自分を愛してもいない夫に、離婚を切り出す権利さえないなんて。
彼女は目を伏せ、差し出されたお味噌汁の器を受け取ろうとはしなかった。
翼は、そんな梨花の手にお味噌汁の器をむりやり握らせた。そして穏やかな目で言った。「わがままを言わないで、ちゃんと食べて」
熱い器のせいで、手のひらがじゅっと焼かれたような気がした。その痛みが、まっすぐ心臓に突き刺さる。
昔は、こういう優しさこそが愛情なのだと信じていたのに……
梨花が何か言い返そうとしたとき、翼が電話に出た。どうやら祖父の山崎剛(やまざき つよし)が、山崎家の屋敷に二人を呼んでいるらしい。
梨花は気のないままお味噌汁を二、三口だけ食べると、翼のあとについて病室を出た。
下の階に降りるエレベーターは少し混んでいた。翼は梨花と向き合うように立ち、隅にいる彼女をかばうように体を少し傾けた。
かつては愛情の証だと感じていたこの仕草も、今ならわかる。これはただ、彼の体に染みついた育ちの良さなのだ。
相手を愛しているからじゃない。翼が、誰に対してもそういうことができる、とても「良い人」だからというだけ。
胸の奥がちくりと痛んで、梨花は思わず目頭を熱くした。
エレベーターのドアが開いたとたん、梨花は翼の気配が充満するこの狭い空間から、一刻も早く逃げ出したくなった。
誰かにぐいっと押されて、彼女はよろけて倒れそうになった。
翼がとっさに梨花の腕をつかんで、ぐっと胸の中に引き寄せた。「危ない……」
彼の言葉が、ふと途切れた。その視線は梨花を通りこして、別の方向へと向けられていた。
翼の視線の先を追った梨花の目に、思いもよらない人物の姿が映った。
第3話
少し離れたところで、美羽がお年寄りを支えながら受付に並んでいた。彼女は服が破れ、おでこには擦り傷があった。足も痛むのか、足を引きずっている。
美羽も翼に気づいた。彼女の目はぱっと輝き、あいさつしようと手をあげかけた。
でも、彼が梨花を抱きかかえているのが見えた瞬間、その手は固まった。そして、瞳からさっと光が消えた。
美羽は顔をそむけ、もう二人の方を見ようとはしなかった。
それとほぼ同時に、梨花は腕をぎゅっと強くつかまれた。傷口に鋭い痛みが走る。
彼女はひっと息をのみ、思わず翼を見上げた。
翼は眉をきつく寄せている。必死に感情を抑えようとしている顔の下で、隠しきれないほどの心配が渦巻いていた。
さっき自分が離婚を切り出した時でさえ、この男は少しも動揺せず、平然としていたのに。
それなのに、美羽が怪我をしているのを見ただけで、こんなにも取り乱すなんて。
愛してるか、愛してないか。こんなにも分かりやすいなんて。
胸がちくりと痛み、梨花は考えるよりも先に口を開いていた。「パーティーの時、あなたが助けたウェイトレスでしょ。見に行かなくていいの?」
翼の瞳の色がすっと暗くなる。その声は冷たく、警告するものだった。「梨花、お前は踏み込みすぎだ!
できた妻なら、余計な口出しはしない。何もしていない女性を疑ったりしない。
屋敷に戻ったら、まず仏壇で家のルールを覚え直して反省しろ!」
翼は我を忘れていた。彼は梨花の腕をつかんで、足早に外へ向かう。
梨花はよろめきながら翼の後を追った。傷口からは血が滲みだし、立っているのもやっとなくらい痛む。
「痛い」梨花は眉をひそめて、身をもがいた。
翼は少しだけ力をゆるめたが、足を止めはしなかった。そのまま彼女を駐車場まで引っ張っていく。
車に乗ると、彼はいつものように、まず梨花のシートベルトを締めてあげた。
必死に感情を押し殺している翼の横顔を見ていると、梨花の心は大きな手でわしづかみにされたようだった。腕の傷より、何百倍も、何千倍も痛い。
翼は運転しながら、まるで別人のように、秘書の亮太にメッセージを送って、美羽のことを調べさせている。
いつも自分を律して冷静な男が、次々とルールを破っていく。梨花は、そんな彼を見ていると、なんだかもう、どうでもよくなった。
彼女は窓の外に目を向けた。外はどしゃ降りの雨だ。ガラスを叩く雨粒が、まるで自分の心に打ちつけられているように感じ、胸の奥がずきずきと痛んだ。
車が突然、急ブレーキをかけた。不意を突かれた梨花は、前のめりになる。
「あっ」彼女は小さく声をあげた。シートベルトが食い込んで赤くなった肩が、じんじんと痛む。
「降りてそこで待ってろ。迎えの運転手を手配した」翼の低い声が響いた。
梨花は信じられないという顔で彼を見た。「外は、雨が降ってるわ」
翼は顔色ひとつ変えず、有無を言わせない口調で言った。「運転手はすぐ来る」
梨花は彼の目を見つめ返した。胸がずきりと痛み、もう言い返す気力もなくなった。
「わかったわ」
彼女はドアを開け、ドアポケットにあった傘を手に取った。
「待て」翼が鋭く声をかけた。
梨花の心臓が、なぜかどきりと跳ねた。瞳に一瞬光が宿り、彼の方を振り返る。
すると翼は、梨花の手から傘をひったくった。そして自分のジャケットを脱いで彼女に差し出しながら言った。「この傘は使うな」
そこで梨花は初めて気づいた。傘のカバーに、美羽の名前の刺繍がある。あの女のものだったのだ。
この男は、何百万円もするジャケットを妻に羽織らせて雨に濡らすのはよくても、美羽の傘を少し使わせるのさえ惜しいのだ。
梨花の瞳から光が消え、彼に抱いていた最後のかすかな希望も、完全に消え去った。
彼女はジャケットを受け取らず、そのまま車を降りた。
梨花がまだちゃんと立てていないうちに、翼の車は走り去ってしまった。
遠ざかっていく車を見つめながら、梨花の心は完全に冷え切ってしまった。
次の瞬間、ミキサー車が猛スピードで走り抜け、泥水が頭から浴びせかけられた。息もできず、視界も奪われる。その衝撃で、彼女はよろめいて後ろに数歩下がった。
梨花は無様に転んでしまった。周りから突き刺さる、たくさんの奇異な視線。こんなに恥ずかしくて、みっともない思いをしたことは、今まで一度もなかった。
その瞬間、抑えきれないほどの悔しさとみじめさが、大きな波のように押し寄せてきた。息もできなくなるほど、彼女はその重圧に押しつぶされそうだった。
梨花は唇をきつく噛みしめ、泣き出すのを必死にこらえた。そして、震える体に鞭打って、なんとか立ち上がった。
山崎家の屋敷に戻った時、彼女はずぶ濡れで、服は血と泥にまみれていた。
翼の母親・山崎渚(やまざき なぎさ)は梨花を見るなり眉をひそめ、不機嫌そうに彼女を家から追い出した。
「この格好!少しは山崎家の嫁としての自覚があるの!
家の外で反省して。自分が何をしたか、よく分かるまで入ってきてはいけません!」
渚は翼の継母だ。愛人の座から今の地位にのし上がった、腹黒い女である。
彼女は翼には手出しできないため、その矛先を梨花に向けている。表でも裏でも、ことあるごとに梨花に嫌がらせをしていた。
いつもなら、翼が梨花をかばってくれた。渚と二人きりにさせることも、決してなかった。
けれど今日、彼は美羽のために、梨花だけを先に屋敷へ送り返したのだ。
胸がちくりと痛んだが、梨花は気を取り直し、渚へと視線を向けた。そして、毅然とした態度で口を開く。
「おばさん、私は雨に濡れただけです。何も悪いことはしておりません。汚れているのなら、洗い流して着替えれば済むことです」
「あなたは何様のつもり?よくもそんな口が利けるわね!」
渚はさっと顔色を変えると、怒りにまかせて立ち上がり、彼女に駆け寄った。そして、平手で打とうと手を振り上げる。
「おばさん、おやめください」梨花は渚の手首をつかんだ。態度は崩さず、言葉遣いも丁寧なままだ。「山崎家では、人に手を上げることは禁じられています」
「あなたが……家のルールを盾に私を脅す気?」渚はカッとなって、顔を真っ赤にした。彼女は梨花を荒々しく突き飛ばす。「私が怖気づくとでも思った?姑に口答えするなんて、罰せられて当然でしょ!
誰か!この子を押さえて!」
使用人たちがどっと押し寄せ、あっという間に梨花を取り押さえた。
渚は彼女の頬を思いきりひっぱたいた。そして、もう一度手を振り上げた、その時だった。戸口から、氷のように冷たい声が響いたのは。
「やめろ!」
第4話
翼がずかずかと入ってきて、冷たい目で使用人たちに合図し、梨花を解放させた。
「翼、この子が先に私に失礼な態度をとったのよ。彼女をかばって私をいじめるなんて許さないわ、私は目上なのよ」渚は顔を曇らせ、その目には動揺が走っていた。「こんなみっともない姿、山崎家の恥さらしじゃないの」
「俺の妻のことは、俺が一番わかってる」翼は梨花をかばい、渚を一瞥すると、冷静に言った。「事を大きくしたいのか?」
「もういいわ!」渚は怒りをあらわにして背を向けた。「でも、次に家のルールを破ったら、ただじゃおかないから」
渚が去ると、翼は梨花をちらりと見て、彼女の手を引いて裏庭のほうへ歩いていった。
「翼、どこへ連れていくの?」梨花は抵抗した。「気分が悪いの。今日は家のルールを書き写すのを休んじゃだめ?」
「仏壇には行かない」
梨花はほっと息をついた。でも、彼が祖父の剛の庭に自分を連れていくのを見て、なぜか胸騒ぎがした。
「翼、いったい何をするつもり?」
「そろそろ子どもを作るべきだ」翼の眉間に、梨花には読み取れない感情がよぎる。彼は梨花を横抱きにすると、剛の書斎へずかずかと押し入った。
「どういう意味?放して。子どもは作らない主義じゃなかったの?
それに今日は、あなたが決めた夜の約束の日でもないじゃない……
翼、やめて!ここはおじいさんの書斎なのよ、放して!
いやっ!」
翼は梨花を剛の書斎机に押さえつけ、スカートを乱暴に引き裂いた。思いやりも前戯もなく、ただ無理やり体をねじ込もうとしてくる。
梨花は痛みで全身が震え、恐怖に目を見開いた。翼の瞳の奥に渦巻く冷たさに気づき、はっと息をのむ。「翼、狂ってるの?」
翼の眉間に複雑な色がよぎる。彼は暴れる梨花の手を掴むと、眉をひそめて言った。「いい子だから、騒ぐな」
また、「騒ぐな」だって。
梨花の心は無理やり引き裂かれるようで、息もできないほど痛かった。彼女の声は途切れ途切れになり、それはほとんど懇願に近かった。「翼、お願い。お願いだから、せめてここではやめて……」
翼の動きが一瞬止まる。彼の目には、不憫さ、苦しみ、そして何か複雑な感情が入り混じって浮かんだ。
でも結局、翼は行為を続けた。
その瞬間、梨花は全身が凍りつくように冷たくなり、心も体も粉々に砕け散った気がした。
理性が屈辱と苦痛に飲み込まれた。彼女は力いっぱいもがき、指が机の上の万年筆に触れると、それを掴んで思いっきり翼の胸に突き立てた。
翼は驚いて、その場に呆然と立ち尽くした。正気に戻ったようでもあったし、梨花がこれほどの抵抗をするとは夢にも思っていなかったのかもしれない。
「お前……」
梨花は青ざめた顔で何も答えず、翼を突き飛ばして外へ駆けだした。でも、剛の庭を出る前にボディーガードに捕まり、反省部屋へと閉じ込められた。
このことを知った渚は、人を連れて駆けつけてきた。そして、梨花を床に押さえつけ、何十発も激しく平手打ちをした。
さらに人に命じて、翼を刺した彼女の手を折らせると、水も食事も与えずに二日二晩閉じ込めた。
梨花は抵抗もせず、もがきもしなかった。渚が気がすむまで殴り、罵るのを、ただ受け入れていた。
彼女はすっかり感覚が麻痺して、まるで魂のない抜け殻のようだった。
翼は現れなかった。梨花のために助けを求めることもしなかった。
彼女は痛めつけられ朦朧とし、ついには暗く湿った地下室で意識を失った。
目が覚めたとき、梨花は病院のベッドにいた。
病室には誰もいなかった。ベランダからかすかに翼の声が聞こえてくる。誰かと口論しているみたいだ。
梨花は何かに引き寄せられるようにベッドから降りて、そっと近づいた。ガラス戸の向こうには、感情をむき出しにした翼がいた。
目は充血し、額には青筋が浮かんでいる。いつものスマートな彼はどこにもいなくて、まったく感情をコントロールできていないようだった。
「おじいさん、俺は美羽とはやましい関係じゃないと、言ったよね。なぜ彼女に手を出したんだ?」翼の目には抑えつけられた苦しみと怒りが満ちていて、声も少し震えていた。
「お前は分別をなくした。ただの学生に心を奪われたんじゃ」電話の向こうから聞こえる剛の声は、歯がゆそうだった。「山崎家の脅威になるものは、いっさい許すわけにはいかん。あの子はお前の未来を邪魔するだけだ」
「彼女には手を出すな!ひ孫が欲しいなら、今すぐ梨花と作る。俺はもう態度で示したはずだ。それでも足りないのか?」翼は歯を食いしばって、興奮のあまり全身を震わせた。
「今回、彼女たち親子に怪我をさせたようなことは、二度としないでほしい。おじいさん、何かあれば俺がすべて引き受けるから、美羽を困らせないで」
その瞬間、梨花は雷に打たれたような衝撃を受け、全身の血が凍りついた。
そういうことだったんだ。
翼が理性を失ってまで、自分と子どもを作ろうとしたのは、美羽のためだったんだ。
美羽が怪我をして病院にいたのは、祖父の仕業。彼は、美羽の存在に気づいていたんだ。
そして、自分と子どもを作ることは、翼が美羽を守るための手段だった。
彼の人生計画に、子どもの存在はなかったはずなのに。
翼の実の母親は難産で亡くなって、継母は彼に冷たかった。そして10歳の時に叔母が難産で母子ともに亡くなってから、翼は固く子どもを持たないと決めていた。
去年、祖父が重い病気になって、何度もひ孫の顔が見たいと訴えても、彼は断り続けていた。
それなのに今、祖父に美羽へ手を出させないために、翼は子どもを作ることを承知したんだ。
翼が自分を祖父の書斎に引きずり込んだのは、たったひとつ、祖父に彼の「覚悟」を見せつけるためだったんだ。
梨花は全身が震えた。自分は翼という人間のことを、何もわかっていなかったのかもしれない。あんなに冷静で、信念を曲げない彼が、一人の女のためにこんな卑劣なことをするなんて。
「俺の我慢も1ヶ月が限度だ。その女子大生には、しばらく手出ししないでおいてやろう」電話の向こうから剛の冷たい声が聞こえてきたが、翼はもう何も言わなかった。
第5話
梨花は、全身の力が抜けてしまった。壁にもたれかかり、苦しそうに大きく息をついた。
翼が振り向いたのを見て、彼女は慌ててベッドに戻り、寝たふりをした。
翼はベランダから戻ってくると、ベッドのそばに立った。そして、梨花の顔をじっと見つめた。
梨花は、寝たふりだとばれないように、ぎゅっと手のひらをつねった。
今の彼女には、どんな顔をして翼に会えばいいのか、分からなかった。
さいわい、翼は長居しなかった。
彼はそっとかがむと、優しく梨花の布団をかけ直した。そして、静かに部屋を出て行った。
翼が遠くに行ったのを確認すると、梨花はベッドから起き上がり、急いで山崎家の屋敷へと向かった。
彼女は、剛の前にひざまずいた。
「おじいさん、どうか翼と離婚させてください」梨花の声は低くかすれて、今にも倒れそうなほど弱々しい。「美羽さんの存在も、おじいさんがひ孫を望んでいることも知っています。でも、私は嫌です」
剛は黙っていた。彼が簡単にうなずくはずがない。
梨花は覚悟を決めて、スマホを剛の前に差し出した。「おじいさんの欲しいものを持っています。ただ翼と離婚させてください。財産は一切いただきませんから!」
剛のまなざしが、かすかに変わった。その視線が、梨花とスマホの間を行ったり来たりする。
ガランとしたリビングは、しんと静まり返っている。剛から放たれる冷たい空気、その圧倒的な威圧感に、梨花は思わず震えた。
梨花はこぶしを固く握りしめる。心臓の鼓動が速くなって、息をするのも苦しくなってきた。
彼女が気を失いそうになった、その時だった。剛が口を開いた。「それを使えば、もっと多くのものを手に入れられたはずだ。何もいらないなんて、損だとは思わないのかね?」
梨花はひそかに安堵のため息をもらすと、首を横に振った。そして、きっぱりと言う。「私は、翼と別れることだけを望んでいます」
剛は梨花をじっと見つめ、約束した。「よかろう。俺が話をつけてやる」
梨花はほっと胸をなでおろした。すぐに親友に連絡し、離婚協議書を持ってきてもらうと、それを剛に手渡した。
梨花は病院には戻らなかった。その足で不動産屋へ向かい、自分名義の家を売りに出す手続きをした。
それは全部、亡くなった母親が彼女のために残した財産だった。だから、ここを離れる前に、すべて現金に換えておきたかったのだ。
不動産屋を出たときだった。梨花は、広場で翼と美羽の姿を見かけた。
翼は目立たないラフな服装に着替えていた。マスクとキャップで顔を隠し、美羽のチラシ配りに付き合っている。
美羽は、ずっと笑顔だ。翼に話しかけながら、道行く人にチラシを手渡している。
通りすがりの人に断られても、ひどい言葉を投げつけられても、彼女は天真らんまんな笑顔を崩さない。
翼は、ただ黙って彼女の隣に立っているだけ。手出しも口出しもせず、美羽を愛おしそうに見つめていた。
梨花は息が詰まった。いつか翼にも、あんなふうに隣にいて、自分を支えてほしいと願ったことがあったから。
でも、もういい。そんなことはどうでもいい。心なんて、とっくにずたずたに引き裂かれているのだから。
目の前が、ぐらりと暗くなる。なんとかその場を離れようと足を動かしたが、そのまま膝から崩れ落ち、意識を失った。
次に目を覚ました時、目の前に翼がいた。
彼はいつもの格好に戻っていた。シャツのボタンは一番上まできっちり留められ、その顔からは表情が消えている。
梨花と視線がかち合った瞬間、翼の目にふと妙な色が浮かんだ。
「どうして道で倒れたりしたんだ?」どこか罪悪感でもあるのか、彼の口調は少しおかしかった。
「不動産屋に、家を売りに行ってたの」
「そうか。まだ体調は万全じゃないんだから、もううろつかないでくれ」翼は淡々と答えた。梨花が何を言ったのか、まるで気にも留めていない様子だ。
梨花は自嘲するように笑った。もう何も言う気になれない。この男は自分の体を気遣ってはくれる。でも、自分の心には、まったく興味がないのだ。
また、二人の間に気まずい沈黙が流れた。
ピコン。
タイミングよく、梨花のスマホが鳴った。
剛から写真が送られてきたのだ。そこには、署名済みの離婚協議書が写っていた。
梨花はその写真を一瞬ぼうぜんと見つめた。でもすぐに、これでやっと生まれ変われるんだ、という解放感が胸に広がった。
「何をみているんだ?」珍しく翼から話しかけられて、梨花の指がこわばる。とっさに画面を消した。
梨花は顔を上げ、まっすぐに翼を見つめた。「私たちの、離婚協議書よ」
第6話
翼の表情は、まったく変わらなかった。まつげ一本、ぴくりとも動かない。
「いい子だから、騒がないで」彼は梨花をちらっと見て、静かに言った。
「子どもの話は本気だ。お前の体がよくなったら、さっそく始めよう」
もうとっくに期待していなかったからだろうか。それとも、すっかり諦めてしまったからだろうか。梨花の心は、驚くほど静かだった。
彼女は口の端をゆがめて笑った。美羽のことを話そうかと思ったけど、もう意味がない。結局、出てきたのはあざけるような言葉だった。「もうすぐ離婚するのに、子どもなんて産むわけないでしょ?」
だけど翼は、きっぱりとした口調で言った。「離婚はしない。子どもも、お前は産むことになる」
彼が梨花の前髪を直そうと手を伸ばしてきた。でも梨花は、さっと顔をそむけて避けた。
それでも翼は怒る様子もなく、表情ひとつ変えなかった。
梨花はもう何も言わなかった。ただ彼に背を向けて、静かに目を閉じた。
彼女の怪我はひどかった。入院してからも、たびたび高熱が出て、毎日ぼーっと眠たい感じが続いていた。
翼は毎日、時間通りに病院へやって来た。それから、たくさんの宝石や服をプレゼントしてくれた。
退院の日、翼は梨花を子会社の新規プロジェクトの記念式典に連れて行った。
美羽は、式典のコンパニオンをしていた。ドレスを着て、はさみを乗せたお盆を持ち、翼の隣に立っている。
彼女はうっすらと笑みを浮かべて、翼の体にぴったりと寄りそっていた。
美羽は、なにかと理由をつけては彼に触れたり、話しかけたりしている。
翼は表向きは平然としている。でも、その瞳の奥には、彼女への深い愛情がにじみ出ていた。
ステージの下から二人を見ていた梨花の胸は、やっぱり少し苦しくなった。
彼女は席を立って、お手洗いへと向かった。
お手洗いから出ると、美羽が待ち構えていたかのように、行く手をふさいだ。
美羽は顔を赤らめている。どこか頼りなさげで、悔やんでいるようにも見えた。でも、彼女は意を決したように口を開いた。「梨花さん、私たち、お話ししませんか?」
梨花はただ黙って、美羽を見つめ返した。
美羽は深くお辞儀をすると、意を決したように顔を上げた。「ごめんなさい。私は翼さんのことが好きになっちゃったんです。いけないことだってわかっています。でも、この気持ち、どうにもできません。
翼さんも、私のことを好きで、すごく、すごく優しくしてくれます。だからもう、彼がいないなんて考えられません。
彼を、私に譲ってはもらえませんか?どんなことでもして、このご恩は必ず返します」美羽は不安そうな顔で、梨花を見上げた。「それか……なにか、私にしてほしいことがありますか?あなたが許してくれるなら、なんでもします」
目の前で純粋に、そして怖いもの知らずに話す美羽を見ていると、梨花はふと、15歳になる前の自分を思い出した。
あの頃の自分はまだ、「山崎家の嫁」という看板を背負っていなかった。継母にいじめられてつらい毎日だったけど、それでも心は自由で、情熱にあふれていた。
翼に教えられたからだ。「山崎家の妻たるもの、常に落ち着いて、感情を表に出してはいけない。自由に生きることなんて、もってのほかだ」って。
それなのに、彼は今、美羽のような情熱的な若い子を好きになった。
なんて皮肉なんだろう。
「梨花さん、だめですか?いえ、だめなのは当たり前ですよね。でも、安心してください。私はただ翼さんを好きなだけで、やましいことはなにもしていませんから。
せいぜいハグをしたり、手をつないだりするくらいで、キスだって、したことないんです」
梨花の顔が青ざめたのに気づいた美羽は、もう一度お辞儀をした。「ごめんなさい。お邪魔しました」
寂しそうに背を向けた美羽の瞳から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。肩が小さく震えていた。
「私は翼ともうすぐ離婚するから。二人が付き合うのに、私の許可なんていらないわ」梨花は静かに言った。
その言葉に、美羽が勢いよく振り返る。その瞬間、彼女は足をもつらせて、そばにあった資材置き場に倒れ込んだ。
梨花は、とっさに美羽を支えようと手を伸ばした。だけど、その腕は強い力でぐいっと掴まれた。
次の瞬間、目の前に現れたのは、怒りに満ちた翼の顔だった。
「梨花、何をしている!」
翼は冷たく言い放つと、乱暴に梨花の手を振り払った。
不意をつかれた梨花は、そのまま倒れこんでしまった。散らばっていたガラスの破片が手のひらに突き刺さり、額を棚の角に強く打ちつける。
激しい痛みと、くらくらするめまい。生暖かい血が、どろりと頬を伝っていく。
血で赤く染まる視界の向こうで、翼が美羽を抱きかかえているのが見えた。
美羽は慌てて手を振って、涙ながらに訴えた。「翼さん、誤解です!私が勝手に転んだだけで……私のことはいいから、早く梨花さんを病院に連れて行ってあげてください!」
しかし翼は、美羽をぎゅっと抱きしめた。その目には心配と痛みがはっきりと浮かんでいる。「あいつの肩を持つな。君は、怪我はないか?」
「翼さん、離してください!早く彼女を病院へ!」美羽がもがいても、翼はまったく動じなかった。
彼は、梨花が美羽をいじめたのだと、決めつけているのだ。
翼のその態度は、鋭い刃のように梨花の心を突き刺した。昔、彼女を守ってくれたことや、信じてくれた言葉が、ひどく安っぽく感じられた。
心が、血を流しているようだった。梨花はなんとか壁に手をついて立ち上がると、まつげについた血をぬぐい、一歩、また一歩と外へ向かった。
翼の動きが、一瞬止まる。そして冷たい視線が彼女を射抜いた。「待て。お前は何か知ったのか?ばかな真似はよせ。この子はまだ学生なんだぞ」
梨花は足を止めない。その声には、あざけるような口調で言った。「なにを、かしら?」
翼が、わずかに眉をひそめる。
「安心して、翼。二人のこと、祝福してあげるから」梨花はゆっくりと歩き去っていく。彼女が手をついた壁には、赤い手形がくっきりと残っていた。
壁に残った手形を見て、翼はなぜか胸騒ぎがした。
腕の中の美羽は、しきりに梨花を助けに行くよう促している。しかし翼は、彼女を抱きかかえたまま、別の出口へと向かった。
梨花は唇をきつく噛みしめた。激しい痛みに耐えながら外に出ると、一人でタクシーを拾って病院に向かった。
傷の手当を終えて病院を出ようとした、その時。突然現れた大勢の人たちに、彼女は囲まれてしまった。
第7話
「山崎社長が清楚な女性と浮気してるって、ほんとですか?」
「その怪我は、浮気の現場で山崎社長に殴られたんですか?」
「山崎社長とは離婚するおつもりですか?それとも、このまま結婚生活を続けるんですか?」
「山崎社長は本当に不倫していて、暴力もふるうって本当なんですか……」
記者やインフルエンサーたちは、梨花にカメラを向けて夢中でシャッターを切った。フラッシュの光で、目が痛いほどだった。
彼女は手で目を覆い、思わずその場を離れようとした。でも、どんどん人に囲まれて、身動きがとれない。なかには、マイクを顔に突きつけてくる人までいた。
「話してください。世間があなたの味方になりますよ」
「そうですよ。今は世論が動く時代です。つらいことがあるなら、私たちに話してください」
「離婚するっていうなら、俺たちが応援します!」
群衆の中からは、わざと話を煽るような声が聞こえてくる。梨花の口から、山崎家の黒い噂を聞き出そうとしているみたいだ。
梨花はずっと黙りこんでいた。すると、しびれを切らした誰かが、わざと彼女を押しはじめた。
弱っている梨花の体は、人ごみの中でふらつき、何度も倒れそうになった。
また突き飛ばされて倒れそうになった瞬間、彼女はとっさに相手の手をつかんだ。そして、ありったけの力でその人を引きずり出した。
その瞬間、梨花は全身が凍りついた。なんと、自分を押していたのは美羽だったのだ。
美羽の瞳に、焦りと戸惑いがよぎる。そして、その奥には気づかれにくい憎しみが隠れていた。
梨花は眉をひそめた。「どうしてあなたがここに?この人たち、あなたが呼んだの?」
「何のことか分かりません。あなたが倒れそうだったから、助けようとしただけです」美羽はもごもごと弁解するけど、視線はさまよっていた。
梨花は息をのんだ。小さい頃からこういう世界で育ってきたのだ。美羽の考えていることくらい、分からないはずがない。
ただ、なんだか虚しくなった。美羽は、本当に純粋な子だと思っていたのに。
「わざと転んで私のせいにして、人を集めて私を追い詰めて、私の立場を奪うつもり?」梨花は、疲れと怒りでいっぱいだった。美羽と翼のことは心から応援したのに、まだこんな企みをしかけてくるなんて。
「何を言ってるんですか!」美羽は、すぐに目を赤くした。唇を噛み締め、必死に弁解する。「そんなひどいこと、私がするはずがありません」
梨花は冷たく笑うと、もう彼女と話す気はないとばかりに、一番近くのカメラに向かって口を開いた。「当事者はここにいます。聞きたいことがあれば……」
梨花が言い終わる前に、顔に強い平手打ちをくらった。じんと焼けるような痛みで、目の前がくらっとする。
はっと我に返ると、目の前に立つ翼の姿に、衝撃を受けた。
いつも冷静な翼が、こんな人前で、自分に手をあげるなんて。
「勝手な真似はするなと言ったはずだ」翼は冷たい声で言うと、ごつごつした手で梨花を抱き寄せ、低く警告した。
梨花は強く拳を握りしめる。爪が手のひらに深く食い込み、痛い。耐えがたいほどの屈辱と悲しみで、心が張り裂けそうだった。
パシンッ。
彼女はとっさに腕を振り上げ、みんなの前で翼の頬を平手で打ち返した。
世界が、一瞬で静まり返った。誰もが息をのみ、その場は針一本落ちる音さえ聞こえそうだった。
美羽が悲鳴をあげ、翼に駆け寄ろうとする。でも、彼のボディーガードに止められてしまった。
梨花は、思いきり平手打ちをした。叩いた手のひらが痺れていて、体は震えが止まらない。
「翼、どうして私を殴るの?あなたにそんな権利ない!こんな下手な芝居も、あなたには見抜けないの?」梨花の瞳は氷のように冷たく、憎しみに歯を食いしばった。
翼の瞳がかすかに揺れ、呼吸が少しだけ重くなった。でも、その表情はなにも変わらない。声の調子さえも、穏やかなままだった。「いい子だから、騒がないで」
また、その言葉。
梨花はもう聞き飽きたし、うんざりしていた。
「翼、あなたが馬鹿でいたいなら勝手にすればいい。でも私を巻き込まないで。私たちはもうすぐ離……」
梨花が言い終わらないうちに、翼は彼女を抱き上げた。
「もう勝手なことを言うな」彼は静かに釘をさすと、梨花を抱いたまま、大股で人ごみから出ていった。
「離して、翼!私たちはもうすぐ離婚するって言ってるでしょ」梨花はもがきながらも、その声は固く、冷たかった。
翼は聞く耳を持たず、表情も変えない。彼女が何を言おうとお構いなしに、まっすぐ車まで運んで座らせた。
梨花が必死にあがいても、彼はますます強く抱きしめるだけだった。
梨花は抜け出せないと悟り、諦めて窓の外に顔を向けた。すると、怒りでゆがんだ美羽の顔と目があった。
「翼。あなたの大事な女が、怒ってるわよ」
翼の動きが、一瞬止まった。
第8話
翼は無意識に窓の外を見た。数秒黙ってから、低い声で言った。「あの子とは何もない」
まるで面白い冗談でも聞いたかのように、梨花は鼻で笑った。
「あなたは他の男とは違うと思ってた。でも、あなたも結局は同じなのね」
体の関係がなければ、何にもないってこと?
じゃあ、美羽のために計画を変えたり、ルールを破ったのは何?あの思わせぶりなメッセージのやりとりは、何だったの?
美羽のせいで自分を疑って、傷つけたことはどうなるのよ?
梨花は視線をそらした。胸のうちは、苦さと鈍い痛みでいっぱいだった。
翼は少し眉をひそめた。ほとんど聞こえないくらいのため息を一つついて、それ以上は説明しなかった。
車の中は、死んだように静まりかえった。
車がしばらく走ってから、翼はようやく梨花を解放した。
梨花は彼の腕から逃げるようにして、さっと隣の席へ移った。
スマホを取り出し、ネットの掲示板をのぞいた。超お金持ち夫婦の大喧嘩みたいなゴシップを探すためだった。
でも、翼が何か手を打ったのか、二人のことに関する書き込みは一つもなかった。
梨花は屋敷に連れ戻された。翼は彼女の自由をうばい、勝手な外出を禁じた。
約束の1ヶ月はもう半分が過ぎてしまった。おまけにこんな事が起きたから、彼は気が気じゃなかった。一刻も早く梨花を妊娠させないと。
剛がまた美羽に手を出すんじゃないかと、心配だったのだ。
その夜、翼は梨花の部屋へ向かった。
梨花は彼を警戒して言った。「出ていって。あなたの子どもなんて産まないわ。私たちはもうすぐ離婚するって言ったでしょ」
「お前は俺と離婚なんてしないさ」翼は確信に満ちた口調で言った。
「どうして?」
「もう寝る時間だ」翼は答えず、部屋着を脱いで彼女の方へ歩み寄った。
昔の梨花は、翼の見た目が大好きだった。思わず彼に近づいて、触れたくなってしまうほどに。
とくに翼の裸の胸を見ると、心臓が飛び出しそうなくらいドキドキしたものだ。
でも今の梨花は、心も体も何の反応も示さない。彼の目的を考えると吐き気がするだけで、一刻も早く逃げ出したいとしか思わなかった。
翼が近づいてきた瞬間、彼女はベッドからさっと立ち上がった。
でも、立ち上がった途端、急なめまいに襲われた。足に力が入らず、そのまま床に倒れ込んでしまった。
梨花の瞳がかっと見開かれる。わけのわからない恐怖と怒りがこみ上げてきて、信じられないというふうに言った。「私に薬を飲ませたの?」
翼の目に一瞬、後ろめたさが浮かんだ。でも、すぐに平静を装って言った。「最近のお前が、あまりにも言うことを聞かないからだよ」
ぞっとするような寒気がして、梨花はぶるぶると震えだした。「翼、あなたなんて最低よ!
あの女が好きなら、好きにすればいいじゃない!なんで私を巻き込むの?私たちは離婚するって何回も言ったでしょ。あなたの子どもなんか産まない!
もし私にさわったら、レイプで訴えてやるから!」
「はぁ」翼は疲れたようにため息をついた。「家のルールをもう一度、ちゃんと学んだほうがいいね。お前は昔はこんな子じゃなかった。どうしてそんなに聞き分けがなくなったんだ?
俺の妻はお前だけだって言ったのを忘れたのかい?あんな若い子にやきもちを妬くな。あの子とは何もないし、ただ守ってあげたいだけなんだ。
お前はずっと子どもを欲しがっていただろう。今、その願いを叶えてあげるんだ。喜んでいいんだよ」
翼は少し眉をひそめると、床に倒れている彼女を抱き上げた。
梨花は怒りで全身を震わせた。もがきたいのに、体にまったく力が入らない。
彼が自分をベッドに運ぶのを、なすすべもなく受け入れるしかなかった。
慣れ親しんだ匂いがして、翼が覆いかぶさってくる。そして、やさしく彼女の唇にキスをした。
うっ。
翼の動きがぴたりと止まった。首すじから鮮血が噴き出し、シルクのシーツに赤い染みが広がっていく。
翼は首の傷を押さえて起き上がった。そして複雑な表情で聞いた。「本気で俺を殺すつもりだったのか?」
「そうよ!」梨花は冷たい目で、震えながら答えた。
さっき倒れたとき、カーペットの下から陶器のかけらを見つけていたのだ。
それは昔、翼が彼女に教えてくれた護身術だった。目立たない場所に刃物を隠しておけば、いざという時に命が助かる、と。
まさか、この方法を最初に使う相手が彼自身になるなんて、思ってもみなかった。
翼は眉をひそめた。陶器のかけらでズタズタに切り裂かれた梨花の手を見て、一瞬、心が乱れた。
「なぜだ?美羽のせいか?」彼の顔色が変わる。そして、梨花の手首をつかもうと手を伸ばした。
だけど彼女は最後の力をふりしぼって陶器のかけらを振り回し、翼を近づけさせなかった。
「もう、あなたが知る必要はないわ」梨花は唇を噛んで必死に意識を保とうとした。でも、お腹の底から熱い波が押し寄せ、だんだん意識が遠のいていく。
意識を失いかけたその時。屋敷の外から、たくさんの車のエンジン音と、遠くから近づいてくるパトカーのサイレンが聞こえてきた。
翼は凍りついた。そして、不思議そうに窓の外を見た。
梨花は最後の力を振り絞って、ゆっくりとベッドから這い起きた。「翼、裁判所で会いたくないなら、もう私に関わらないで」
そう言って、梨花は一歩一歩、苦しそうに部屋の外へ向かって歩き出した。
翼は眉をひそめて彼女を見た。「いい子だから、もうわがままはやめるんだ」
「今回だけは、めちゃくちゃにしてやるわ!天地がひっくり返るくらいにね!」梨花の態度は、固かった。「翼、昔の私が素直だったのは、あなたを愛してたから。でも、もう愛してない!
私は、本当の自分を取り戻しに行くの」
彼女は苦しそうに体を引きずった。ドアまでたどり着いたところで倒れ、起き上がって二歩歩いたら、今度は階段から転げ落ちた。
でも梨花は諦めなかった。また起き上がって前に進む。一歩、また一歩と、翼から離れていった。
彼女は裏口で待っていたリンカーンに乗り込むと、一度も振り返らずに走り去った。
それと同時に、屋敷の正面玄関が開け放たれ、大勢の人間がなだれ込んできた……