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そして昨日、銀杏は落ちた
この5年で、工藤夏美(くどう なつみ)に対する周りの評価は、「優秀な人」から「運のいい人」へとすっかり変わってしまった。 かつての輝かし...
Chương (1)
第1章
この5年で、工藤夏美(くどう なつみ)に対する周りの評価は、「優秀な人」から「運のいい人」へとすっかり変わってしまった。
かつての輝かしい功績も、今や「工藤グループの社長夫人」という肩書きにすっかりかき消されてしまった。
彼女の聡明さや努力を褒める人はもういない。みんなただ羨ましそうに、「玉の輿でいいね」と言うだけ。
夫の工藤克哉(くどう かつや)は、一代で会社を築き上げた男だ。わずか数年でIT業界の寵児となり、資産は数兆円とも言われている。まばゆいばかりの成功を収めた人物だった。
そんなすごい人なのに、彼は今でも夏美を宝物のように大切にしていた。
夏美のつわりが酷かったときは、夜通し予定していた会議を全部キャンセルして、彼女の検診に付き添ってくれた。
夏美が食べるものにこだわれば、克哉は農場を丸ごと一つ買い取った。そして、自ら野菜を一つ一つ育て、手料理を振る舞ってくれるほどだった。
息子の工藤翔(くどう しょう)が自閉症だと診断された夜もそうだった。克哉は目を赤くしながら彼女の手を強く握り、決して責めることはなく、「大変だったね。二人で乗り越えよう」と言ってくれたのだ。
彼は全財産を夏美に預け、何事も彼女を優先した。これまで、少しの嫌な思いをさせたことなんて、一度もなかった。
そう、あの日、夏美が地下室で偶然にも隠し扉を見つけてしまう、その日までは……
第1話
この5年で、工藤夏美(くどう なつみ)に対する周りの評価は、「優秀な人」から「運のいい人」へとすっかり変わってしまった。
かつての輝かしい功績も、今や「工藤グループの社長夫人」という肩書きにすっかりかき消されてしまった。
彼女の聡明さや努力を褒める人はもういない。みんなただ羨ましそうに、「玉の輿でいいね」と言うだけ。
夫の工藤克哉(くどう かつや)は、一代で会社を築き上げた男だ。わずか数年でIT業界の寵児となり、資産は数兆円とも言われている。まばゆいばかりの成功を収めた人物だった。
そんなすごい人なのに、彼は今でも夏美を宝物のように大切にしていた。
夏美のつわりが酷かったときは、夜通し予定していた会議を全部キャンセルして、彼女の検診に付き添ってくれた。
夏美が食べるものにこだわれば、克哉は農場を丸ごと一つ買い取った。そして、自ら野菜を一つ一つ育て、手料理を振る舞ってくれるほどだった。
息子の工藤翔(くどう しょう)が自閉症だと診断された夜もそうだった。克哉は目を赤くしながら彼女の手を強く握り、決して責めることはなく、「大変だったね。二人で乗り越えよう」と言ってくれたのだ。
彼は全財産を夏美に預け、何事も彼女を優先した。これまで、少しでも嫌な思いをさせたことなんて、一度もなかった。
そう、あの日、夏美が地下室で偶然にも隠し扉を見つけてしまう、その日までは……
……
扉を開けた瞬間、背筋が凍るような寒気がした。
狭い部屋の壁一面に、同じ女の人の写真がびっしりと貼られていた。
少女時代から、今の落ちぶれた姿まで。パソコンのディスプレイまでもが、彼女の寝顔だった。
それは、松田杏奈(まつだ あんな)だった。
大学時代はミスキャンパスに選ばれたほどの美女。でも今は、悪い噂が絶えない落ちぶれた女優だ。
克哉が作ったこの地下室に、こんな狂気じみた想いが隠されていたなんて。
夏美は、必死に平静を装って、奥歯をぐっと噛みしめた。
心臓が自分の意思とは関係なく激しく脈打ち、恐怖が蔦のように体を締め付けてくる。
突然スマホが震えた。セレブ妻のグループラインで、友人の今井静香(いまい しずか)から立て続けに動画が送られてきた。
「夏美、あなたのご主人が岩崎さんの結婚式で……とにかく、これを見て」
岩崎雄太(いわさき ゆうた)、あの有名な芸能プロダクションの社長よね?
なぜ克哉は自分を連れて行ってくれなかったんだろう。そう考える間もなく、夏美は心臓が止まるような思いで動画を再生した。
そこには、結婚式場に乱入する杏奈の姿。手には真っ赤なペンキの入ったバケツを提げている。
招待客が悲鳴をあげる中、彼女は新郎新婦に向かって思い切りペンキをぶちまけた。
「ご結婚おめでとう!岩崎社長!」
雄太は顔にかかった赤いペンキを拭い、狂ったように笑う女を鋭い目つきで睨みつけた。
ボディーガードが駆け寄ってきて、杏奈を乱暴に取り押さえる。彼女はよろめき、地面に膝をつきそうになった。
「やめろ!」
克哉が駆け寄り、ボディーガードを突き飛ばすと、みすぼらしい姿の杏奈を背後にかばった。
そして、自分のスーツの上着を脱いで、震える彼女の肩にかけてやった。
雄太は信じられないという目で見ていたが、相手が相手だけに、強くは出られないようだった。
「工藤社長?一体どういうおつもりですか?」
静まり返った会場で、克哉は端正な顔に迷いの色一つ見せず、はっきりとした声で言った。
「松田さんは、うちが新しく契約したタレントで、俺は彼女の雇い主です」
会場は騒然となった。
杏奈といえば、実家が没落し、雄太に婚約を破棄されてからは素行も悪くなった。悪い噂が絶えず、業界では誰も手を出したがらない厄介者だというのは、周知の事実だったからだ。
雄太は鼻で笑った。
「工藤社長も人がいいですね。あんなガラクタを拾って、工藤グループの看板に傷がつくとは思いませんか?」
克哉はメガネの位置を直すと、少し顔を上げて、傲慢な態度で相手を見た。
「彼女の価値は、俺が決めます。
岩崎社長がご信用なさらないのでしたら、ここで一つ、賭けをしませんか?
一年以内に、松田さんをトップスターにしてみせます。もしできなければ、工藤グループの全株式をお譲りします」
彼はその場で契約書を作らせ、それにサインすると、呆然とする人々を後に、杏奈の肩を抱いて去っていった。
動画はそこで終わっていた。静香から送られてきたボイスメッセージは、からかうような口調だった。
「夏美、ご主人のかばい方は、ちょっとやりすぎじゃない?あの松田って女、気をつけた方がいいわよ!」
夏美はただ、画面の中で克哉が杏奈に向ける眼差しを、じっと見つめていた。
その眼差しには、ひたむきで痛ましいほどの愛情が宿っていた。それは、彼女が今まで見たこともないほど強いものだった。
夏美の心は、ずしりと重くなった。
疑念と絶望が入り混じった感情が胸に込み上げ、息が完全にできなくなった。
夏美は狂ったように目の前のパソコンのロックを解除しようと、震える指で杏奈の誕生日を入力した。
すると、画面が明るくなった。
目に飛び込んできた一文を読んで、夏美の頬を涙が伝った。
【もし卒業式のあの日、俺が行っていたら、俺たちの結末は違っていたんだろうか】
この言葉が、自分に向けられたものではないことくらい、すぐに分かった。
過去の記憶が、痛みと共に一気によみがえってきた。
あの頃、夏美と克哉は、情報科学科で最も注目を集める二人の天才だった。
克哉は才能にあふれ、すらりとしていて、夏美は派手さはないものの、優しく知的で、物静かな雰囲気を持っていた。
二人はいつも図書館で肩を並べて勉強していた。克哉が席を取っておいてくれれば、夏美はプログラミングに夢中な彼の手元に、そっと温かい牛乳を置いた。
クラスのみんなはとっくに二人をカップルだと思っていて、いつも冷やかされていた。
グループ課題ではいつも克哉がリーダーだった。コーディングで行き詰まると、彼はさりげなく身を乗り出して夏美の手に重ねてマウスを握った。そのとき、温かい息が耳元をくすぐった。
「ここは、こうすればもっと良くなる」
ある日の学園祭で、きらびやかな杏奈がステージに登場した。まるで輝く星のようだった。
夏美はステージを見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「家柄も良くて、綺麗で、彼氏は芸能プロダクションの社長だっていうし、卒業を待たずにデビューも決まってるなんて……あんな子、まるで高嶺の花みたい。誰もが手に入れたいって思うよね」
でも、杏奈が甘いラブソング『ソフトスウィート』を歌い、会場中が彼女に熱狂している、まさにその時だった。
隣にいた克哉が、そっと夏美の手を握ったのだ。
彼の目つきは澄んでいて、確かな意志を宿していた。
「高嶺の花なんて、手が届かないよ。
だから、俺は花が欲しいなんて思わない。俺が欲しいのは、お前だけだ」
その瞬間、夏美の心は完全に克哉に奪われた。
それから二人は、大学で誰もが羨むカップルになった。
二人揃って特待生に選ばれ、数々のコンテストでは息の合ったコンビネーションで、たくさんのトロフィーを手にした。
誰もが、二人は知性も感性もぴったりで、未来が明るいと言っていた。
卒業式では、優秀な学生の代表として二人並んでスピーチをし、希望に満ち溢れていた。
幸せで胸がいっぱいだった夏美は、式の後、克哉を実家に連れて行って両親に紹介するつもりでいた。
しかし、式が終わり、人々が会場を後にしていく中で、彼のスマホの画面が光った。
なんと、杏奈からのメッセージだった。彼女が開くプライベートな卒業パーティーへの招待状だ。
それを見た夏美は、一瞬きょとんとしたが、すぐににっこり笑ってみせた。
「まさか、松田さんからお誘いが来るなんて!せっかくだから、うちの大学の有名人に会いに行ってきたら?」
克哉は画面を見つめたまま、一瞬、指先の動きが止まった。
ほんの2秒にも満たない間。でも、幸せの絶頂にいた当時の夏美にとって、それは気にも留まらないようなことだった。
結局、克哉は画面を消すと、彼女に優しく微笑んだ。
「バカなこと言うなよ。俺と彼女に接点なんてないんだから、きっと間違いだよ。
それより、今はお前のお母さんに会うことの方が大事だ」
その時は、彼が迷いなく自分を選んでくれたのだと信じていた。
二人はすぐに結婚し、愛情に満ちた、幸せなものだった。
夏美は、自分が克哉の唯一の、そして最愛の人なのだと、心の底から信じていた。
この薄暗い地下室を見つけるまでは。動画の中で、彼が杏奈に向けていた、あの熱い眼差しを見るまでは。
夏美は、痛みと共に、はっと現実に引き戻された。
卒業式のあの日、克哉が行かなかったパーティー。それは、彼が口にしたように、決して軽い気持ちで断ったものではなかったのだ。
あれは、心の奥底に深くしまい込まれた、未練と執着だったのだ。
じゃあ、自分は一体何だったの?
本命が手に入らなかったから、代わりに選んだ妥協の産物?
克哉が本当に愛する人と結ばれるのを阻む存在、邪魔者なの?
どうやって重い足を引きずって、克哉のあの「秘密基地」から出てきたのか、覚えていない。
頭が混乱していたが、玄関のドアが開く音で、はっと我に返った。
第2話
克哉は、夜の冷たい空気をまとったまま帰ってきた。
高価そうなそのジャケットは、別の女の肩にかけられていた。
克哉は夏美を一瞥だにせず、慣れた手つきでネクタイを緩めると、何気なく彼女に手渡した。
いつもの、ごくありふれた日常の一コマのように。
「彼女は松田杏奈。知ってるだろ、大学の同級生だ。うちが契約したタレントでもある」
説明する気などなさそうな、平坦な口調だった。
この女のために出しゃばって、法外な条件の契約を結んだ。そんな馬鹿げたことなど、まるで無かったかのようだった。
言い終わると克哉は、夏美の目の前で、目を真っ赤にして泣いている杏奈の前に跪いた。
かつて夏美の指に結婚指輪をはめてくれたその手で、今は別の女に優しくスリッパを履かせている。
「山下さん、この子を洗面所へ。クローゼットに着替えを用意してある」
夏美は、家政婦の山下に連れられていく杏奈の後ろ姿を見つめていた。喉が詰まり、何か問い詰めようとしたその時、ふと克哉に手を握られた。
「夏美……」
彼はまた、夏美にとって見慣れた優しい顔つきに戻っていた。
「お前はこの間、仕事に復帰したいって言ってただろ?
ちょうど杏奈と契約したことで、うちも芸能界に進出できる。お前たちは同級生で杏奈のことも分かるだろうし、しばらく彼女のアシスタントをやってくれ」
夏美は信じられないというように、目を大きく見開いた。
「なんて?私の専門はコンピューターよ!それに……」
しかし、夏美が言い終わる前に、克哉は手を振って話を遮った。そして、杏奈が去った方へ視線を向けた。
その声は、有無を言わせぬ迫力があった。
「いいか。これはもう決まったことだ」
去っていく克哉の後ろ姿を見て、夏美はまるで深い穴に突き落とされたような衝撃を受けた。
翔の容体が安定し、やっと仕事への情熱を取り戻したところだった。翔の未来のため、脳科学とコンピューターの融合分野を研究しようとさえ考えていた。
ずっとお願いして、やっと克哉に認めてもらえたばかりだった。
それなのに、今はたった一人の評判の悪い女のために、長年積み重ねてきた専門知識も、自分の夢も、こんなにあっさりと否定されてしまうなんて!
夏美は血の味が滲むほど強く下唇を噛みしめ、どうにか涙を堪えた。
彼女は寝室に駆け戻ると、何日も徹夜して書き上げた二冊の技術報告書を掴み、克哉の元へと急いだ。
一縷の望みをかけて、彼女は懇願するように口を開いた。
「克哉、私には主任エンジニアが務まるって、証明させてほしい」
その声は、微かに震えていた。
「この報告書には、新しいプロジェクトの致命的な欠陥が書かれてるの。修正しないままリリースすれば、大問題になるわ。こっちが、その解決策……」
克哉はスマホの画面に視線を落としたままで、報告書を受け取ろうとする気配は全くなかった。
その時、後ろから杏奈のか細い声が聞こえてきた。
「克哉、ちょっと気分が……頭がクラクラする……」
克哉は勢いよく立ち上がると、ためらうことなく夏美を突き飛ばし、杏奈の元へ駆け寄った。
突き飛ばされた夏美はよろめいて床に倒れ込み、抱えていた報告書が散らばった。
夏美が必死で拾おうとした、まさにその時だった。焦って駆け寄る克哉の足が、無情にも最も重要な解決策のページを踏みつけた……
3日も徹夜して、何度も計算と検証を重ねた、努力の結晶だったのに。
「あっ……」
彼女は思わず声を上げ、その足をどかそうとした。
しかし克哉は見向きもせず、むしろ杏奈を横抱きにした。その声は、夏美が聞いたこともないほど焦っていた。
「どこが辛い?すぐにかかりつけの医者を呼ぶ!」
杏奈を抱きかかえてその場を去ろうとした克哉は、ふと夏美に視線を向けた。
みすぼらしい格好で床に座り込み、無駄だと分かっていながらも紙を引き抜こうとしている彼女を見て、克哉は端正な眉を不機嫌そうにひそめた。
「夏美、自分の今の姿を見てみろ」
克哉の声は氷のように冷たかった。
「こんな紙切れは、二度と俺の前に持ってくるな!これからのお前の仕事は、杏奈の世話をすることだけだ」
紙切れ?
宝物のように大切にしてきた、会社の未来を左右するほどの技術の結晶を、彼は紙切れだと言ったの?
その瞬間、夏美には自分の心が砕け散る音が聞こえた気がした。
それだけでは足りないというかのように、克哉は杏奈を抱いて階段を降りながら、言葉を続けた。
「そんな無駄な報告書を作る暇があるなら、もっとましなことをしたらどうだ。今日から杏奈は静養が必要なんだ。お前はゲストルームに移れ。夜は翔のそばにいてやれよ、泣き声で杏奈の邪魔をしないようにな」
夏美は去っていく克哉の後ろ姿を見つめていた。その瞳から光が少しずつ消えていき、やがて完全になくなった。
彼女はしばらくして、ようやく立ち上がった。涙は流さず、ただ散らばった報告書を一枚一枚拾い集めた。
紙についた埃と足跡をそっと払い、きちんと整えてから、彼のデスクの上に置いた。
克哉、あなたのためにしてあげられるのは、これで最後よ。
決心を固めた夏美は、すぐにある場所に電話をかけた。
彼女の用件を聞くと、電話の向こうからは大喜びの声が返ってきた。
「……問題ない!遅くとも今月末までには、君が海外の研究院に行けるよう、すべて手配しておくよ!」
夏美は電話を切った。下の階で杏奈を優しく慰める克哉の後ろ姿を見つめながら、目尻の涙を拭った。
ここから去るのは、克哉の妻としてではない。
自分自身としてだ。
そう、ただの、自分だ。
第3話
その夜、夏美はなかなか寝つけず、ベッドの上で何度も寝返りを打った。
克哉がどこに行ったのか。彼女は気にならなかったし、もう気にしたくもなかった。
翌朝早く、夏美は翔の甲高い泣き声で目を覚ました。
夏美は急いで子供部屋に駆け込んだ。すると、人見知りのはずの翔が、杏奈の服の裾をぎゅっと握りしめて、たどたどしく一言を発していた。
「マ……マ……」
夏美は全身の血が凍りつくのを感じた。
まさか翔が初めて呼ぶ「ママ」が、他の女だなんて。
杏奈は翔を抱き上げると、隣にいる克哉を振り返った。三人の姿は、まるで本当の家族のようだった。
ドアの前に青ざめた顔で立ち尽くす夏美を見ても、克哉は顔色一つ変えず、当たり前のように言った。
「杏奈が今日、パーティーのドレスを選びに行くから、お前も付き合ってやれ。ああいう場所は、一人じゃ心細いだろうからな」
夏美の心は、ナイフで抉られるように痛んだ。
もう何年も一緒にいるのに、彼は一度だって、自分を大事な場に連れて行ってくれたことがなかった。
問い詰めても、「お前はああいう場には向いてない」と言われるだけで、結局うやむやにされてきた。
夏美はぎゅっと指先を握りしめた。
「わかったわ」
彼女は俯いて、すべての感情を押し殺した。
月末まで、あとたったの2週間。
ここから完全に逃げ出すまで、耐えなければならない。海外で生活が落ち着いたら、この男に離婚を切り出そう。
翔のことは……夏美は苦しげに目を閉じた。
自閉症の子供を連れて逃げるなんて、現実的じゃない。
まずは一人でここを出て、それから方法を考えるしかない。
高級ブティックへ向かう途中、杏奈は親しげに夏美の腕に絡みついてきた。
「夏希さん、これからあなたは私のアシスタントなのね。仲良くしようね!
本当に感謝してるの。克哉も私も、大学時代のあなたがどれだけ優秀だったか、ちゃんと覚えてるわ」
彼女はにこりと甘く笑った。
「安心して。私が必ず、克哉の社運を賭けた契約を成功させてみせるから。絶対に彼をがっかりさせたりしないわ!」
自分の名前すらまともに呼ばない杏奈を見ても、夏美の心はもう何も感じなかった。
そんなことは、もうどうでもよかった。
社運を賭けた契約がどうなろうと、彼女には関係のないことだ。
店に入ると、店員はみんな杏奈を取り囲み、誰もその隣にいる地味な服装で無表情な夏美には気づかなかった。
杏奈が三着目のドレスを試着していた時、突然、店の入り口が騒がしくなった。
「松田!お前の父は工事費も払わずにムショに入りやがった!それなのにお前はのうのうと贅沢しやがって!このクソ女!金返せ!」
作業員風の中年男たちが、警備員を突き飛ばして店になだれ込んできた。
杏奈はさっと顔色を変えると、ためらうことなく夏美の帽子とマスクを奪い取った。
「ここを出て右に曲がれば裏口よ!」
そう言うと、彼女は反対方向へ走ろうとした。
男たちの怒りは警備員では抑えきれず、人の波が店の中に押し寄せてきた。もう逃げられないと思ったのか、杏奈は突然、夏美を前へ突き飛ばした。
「あなたたちが探してるのは彼女よ!私は替え玉!」
まるで、時間が止まったかのようだった。
夏美が反応する間もなく、怒り狂った男たちに囲まれてしまった。
汚物を浴びせられ、彼女は地面に倒れ込んだ。腕を踏みつけられ、鈍い痛みが走る。
ぼやける視界の中、克哉が慌てて駆けつけてくるのが見えた。
彼は緊張した面持ちで、自分のジャケットを脱ぐと、震える杏奈の肩にかけた。そして、彼女を庇いながら足早にその場を去って行った。
一度も振り返えって夏美を見なかった。
夏美は、どうやって家に帰ったのか覚えていなかった。
体は汚物にまみれ、一歩進むごとに、床に悪臭を放つシミが残った。
「くさっ!うえっ!」
翔は彼女を見るなり、怯えたように後ずさり、小さな手で杏奈の服の裾を強く握った。
「ママ……ママ……ママ……だっこ……」
その瞬間、夏美は心の中で何かがぷつりと切れる音を聞いた。
克哉が近づいてきたが、その目には嫌悪の色が浮かんでいた。彼はくるりと背を向けると、翔が夏美を見ないようにその視界を遮った。
「夏美、早くシャワーを浴びてこい。あまりにも臭い」
夏美は、ただ一言、克哉に聞きたかった。
さっきお店の前で、本当に自分のことが見えなかったの?
しかし、克哉はすぐに顔をそむけ、杏奈の腕から翔を受け取ると、優しい声で話しかけた。
「工事費は、さっき俺が立て替えておいた。もう怖がることはない」
満面の笑みを浮かべる杏奈を見て、夏美は急に吐き気を催した。
シャワーを浴びて身支度を終えると、大学の先輩の高木弘樹(たかぎ ひろき)から電話がかかってきた。
「準備はすべて整ったよ。月末には出発できる。君のお母さんの転院手続きも済ませておいた。でも……本当に、子供は連れて行かないのか?」
夏美は鏡に映る惨めな自分を見つめた。そして、他の女の腕にぴったりと寄り添っていた翔の姿を思い出す。彼女の声は、恐ろしいほど静かだった。
「連れて行きません」
夏美は少し間を置いてから、一語一句、はっきりと告げた。
「克哉には、離婚協議書を送りつけますわ」
第4話
その夜のパーティーで、克哉はめずらしく楽しそうに談笑していた。
いつもはクールでとっつきにくい彼が、今夜はまるで別人のようだった。
会場の客たちは克哉と杏奈を取り囲み、次々とお世辞を口にした。
「工藤社長と松田さんは、本当にお似合いのカップルですね」
克哉が既婚者であることなど、誰も覚えてはいなかった。
公の場に姿を現したことのない妻の存在は、すっかり忘れ去られているようだった。
克哉の隣にいるのが、最近悪い噂の絶えない杏奈だと気づくと、人々は一瞬驚いた。でも克哉の芸能所に所属していると知ると、すぐに、もっと熱烈な賛辞を送り始めた。
克哉は笑みを浮かべていた。彼は杏奈が、かつて自分を門前払いした財界の大物たちの間を巧みに渡り歩く姿を目で追い、満足げな表情を浮かべた。
帰りの車で、克哉は杏奈に言った。
「今夜はご苦労だったな」
杏奈は優しく微笑み、彼の袖口を指先でなぞるかのように触れた。
「克哉、こんなの当然でしょ。私の評価が上がった方が、会社にとってもいいに決まってるよ」
彼女の言葉を聞いて、克哉は何かを考えているようだった。
家に帰ると、彼はゲストルームに入ってきた。そして夏美の隣に横になり、彼女の腰を抱いた。
夏美の体が震えているのを感じて、克哉は彼女が眠っていないと分かった。それから、ようやく口を開いた。
「夏美……」
夏美は黙っていた。すると、彼のくぐもった声がまた聞こえてきた。
「杏奈に優しくしているのは、会社のためなんだ。彼女の評判が悪すぎて会社のイメージまで下がるから、一つ方法を考えた。
世間は悪役を求めている。だから、俺は架空のマネージャーをでっちあげようと思う。長年、杏奈を脅して搾取してきたってことにして、彼女のこれまでの失態は全部そいつのせいにするんだ。そうすれば、杏奈は勇敢に立ち向かった被害者になれるだろ……」
克哉は一瞬言葉を止めると、何でもないことのように、最も残酷な言葉を口にした。
「お前が、その役を演じてくれないか?」
夏美は完全に呆然とした。自分が何を聞いたのか、信じられなかった。
彼女はベッドから起き上がった。目の前にいる、よく知っているはずなのに見知らぬ男に感じる夫を見て、震えながら一言ずつ、言葉を絞り出した。
「克哉、自分が何を言ってるかわかってるの?私がそんなこと、同意するわけないじゃない!」
克哉の目に宿っていた優しさは一瞬で消え去った。何も言わず、彼は立ち上がって部屋を出ていった。
その夜、夏美は一睡もできずに朝を迎えた。
翌朝、ぼんやりと目を覚ますと、スマホが鳴りやまないほどの通知で埋め尽くされていた。
ネットニュースのトップ記事を開いた瞬間、彼女は全身の血が凍りつくのを感じた――
画面いっぱいに、自分の顔が映し出されていたのだ。
動画の中の「自分」は、鬼のような形相で杏奈を怒鳴りつけ、脅していた。その表情は、恐ろしいほどにリアルだった。
画面からは、杏奈の泣き訴える声が聞こえてくる。
「ここ何年も、ずっと彼女に支配されて、脅されてきました……言うことを聞かなければ、莫大な金額の違約金を請求されるんです!」
コメント欄は炎上し、夏美への罵詈雑言と、杏奈への同情の声で溢れかえっていた。
夏美は全身が冷え切ってしまった。
まさか、AIで自分の顔を合成して動画を作るなんて。
もう我慢の限界だった。彼女は克哉のオフィスに駆け込み、彼の目の前にスマホを叩きつけた。
「克哉、あなたは一体何をしてるの!こんなこと、私が許可したとでも思ってる?今すぐこの動画を消して!」
「無理だ」
克哉が身を乗り出すと、夏美は椅子に倒れ込んだ。克哉は椅子の肘掛けに両手をつき、夏美をその間に閉じ込めた。
「杏奈には、もうCMのオファーが三本も来ている。彼女の評判はすぐに回復する。この流れを維持しなければならないんだ」
夏美は思わず吹き出しそうになった。
「私の評判を犠牲にして、彼女のイメージを守るって言うの?!」
「お前の評判?」
克哉は体を起こした。その眼差しは、どんどん冷たくなっていった。
「夏美、3年前のことを覚えているか?」
彼女の心臓が、どきりと音を立てて沈んだ。
「お前のお母さんが交通事故で重体になり、海外での治療が必要になった。あの時、会社は非常に重要な投資案件をまとめようとしていた。
俺はそのプロジェクトを諦めて、お前と一緒に3ヶ月間付き添った。そのせいで、会社は倒産寸前にまで追い込まれたんだ」
夏美の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。
この件について、彼はこれまで一度も自分を責めたことはなかったのに。
まさか、杏奈のために、今になってこの話を持ち出して自分を追い詰めるなんて……
克哉は一言一言、区切るように彼女に問いかけた。
「俺はお前のために、あれだけのものを犠牲にしたんだぞ。今、お前が俺のために、これっぽっちの犠牲を払えないとでも言うのか?」
夏美は指先まで震えていた。
「これしきの犠牲だって?自分の人生を、自分の手で台無しにしろって言ってるのよ!」
克哉の眼差しはますます冷たくなっていた。彼は、気にも留めない様子で言った。
「そうだ、お前のお母さんが来月必要としている特効薬だが、S国の研究所にはもう連絡済みだ。彼らは俺の顔を立てて供給を続けてくれる。夏美、こんな時に……俺を困らせないでくれ」
その一言で、夏美の激しい抵抗は、一瞬にして凍りついた。
夏美はシングルマザーの家庭で、女手一つで苦労して彼女を育ててくれた母親の横山陽子(よこやま ようこ)は、事故で半身不随となり、寝たきりの生活を送っているのだ。
自分の評判はどうでもよかった。しかし、母親の命を危険に晒すことはできなかった。
克哉の漆黒な瞳を見つめ、夏美はもう後戻りできないことを悟った。
その夜、克哉がセッティングした記者会見で、夏美はマスクを着け、まぶしいフラッシュの光を浴びながら立っていた。
彼女は、壇下で肩を並べて立つ克哉と杏奈を見た。二人は、暗黙の了解を示すように視線を交わしている。
「私は……」
夏美の声は、マイクを通して会場中に響き渡った。
「松田さんからの告発内容を、すべて認めます」
家に帰る頃には、彼女は心身ともに疲れ果てていた。
子供部屋のドアを開けると、翔が床に座って積み木で遊んでいた。
翔は顔を上げ、冷たい目つきで夏美を見つめた。そして突然、手に持っていたミニカーを、彼女に向かって力いっぱい投げつけた。
「わるい!わるい!」
翔は叫びながら、ありったけの積み木を夏美に投げつけた。
「きれいなママは……いい……あなたは……わるい!」
翔の目に宿る怒りを見て、夏美は立ち上がった。ミニカーをぶつけられたこめかみから流れた血が、頬を伝っていく。
彼女は、ためらうことなく翔に平手打ちをした。
第5話
翔の甲高い泣き声が部屋に響き渡った。夏美は赤くなった自分の手のひらを見つめ、思わず胸が締め付けられた。
彼女が翔を抱き上げようと屈んだ、その時だった。背後から、ねっとりと甘いのに、氷のように冷たい声が聞こえてきた。
「あら、良妻賢母を気取ってたあなたも、誰も見ていないと化けの皮が剥がれるのね」
杏奈が、ハイヒールを鳴らして優雅に部屋に入ってきた。揺れるスカートの裾が、彼女の存在をことさらにアピールしているかのようだ。
泣いていた翔は、思わず杏奈に小さな手を伸ばした。しかし彼女は、まるで邪魔者を払うかのように、翔を足で軽く横に押しのけた。
「ねえ、夏美さん。こんな子はさっさと特別支援学校にでも入れたらどう?本当に邪魔よ」
その言葉を聞いた瞬間、夏美の目つきが鋭くなった。
彼女は、さらに激しく泣きじゃくる翔を家政婦の山下に預けると、杏奈に向かって怒鳴りつけた。
「この家も私の息子も、あなたに口出しする権利はないわ!」
杏奈は、怒りに燃える夏美の顔を見て、逆に声をあげて笑った。
「口出し、だって?
あなたなんてもう、とっくにこの家の女主人じゃないのに。一体何様のつもり?」
夏美は、ぽかんとした。杏奈は書斎から箱を取り出すと、その中身を彼女の足元に投げつけた。
「夏美さん、これをよく見て」
杏奈の声は相変わらず甘ったるかったが、その裏には明らかな悪意が潜んでいた。
「克哉はあなたが面倒なことになるのを心配して、とっくに手続きを済ませてくれていたのよ」
それは、一枚の離婚届受理証明書だった。
夏美は、息が止まった。驚きのあまり、瞳孔が収縮するのが自分でもわかった。
震える手でそれを拾い上げ、中を開いた。
そこには、彼女の名前や個人情報がはっきりと記載されていた。そして、日付はなんと3年前。ちょうど母親が事故で亡くなった直後の日付だった。
まさか……自分がまったく知らないうちに、克哉が署名を偽造して一方的にすべてを操っていたというの?
「ありえない……」
夏美はそう呟いた。全身の血が、一瞬で凍りつくような感覚だった。
「あら、ありえないことなんてないでしょ?」
杏奈はクスッと笑い、夏美の絶望に歪む表情をうっとりと眺めた。
「克哉によると、あの頃は会社が危なくて、あなたに迷惑をかけたくなかったんだって。でも、その問題はすぐに解決したのに……彼はうっかり、真実を伝えて復縁するのを忘れてしまったみたいね」
忘れた?
夏美には、あまりにも馬鹿げた話にしか聞こえなかった。
克哉と築いてきた長年の愛も、結婚生活も、たった一言「忘れた」で、全てなかったことにされてしまうというの?
杏奈は、夏美を頭のてっぺんからつま先まで嘗め回すように見ると、嘲笑を隠そうともせずに言った。
「だって今のあなたを見て。どこに克哉と釣り合う要素があるっていうの?彼の隣に立つべきなのは、私に決まっているでしょ!」
夏美がまだ大きな衝撃から立ち直れないでいると、杏奈はすっと立ち上がった。ハイヒールの音を軽快に響かせながら、寝室から荷造り済みのスーツケースをいくつか引きずり出すと、夏美の手に無理やり押し付けた。
「ほら、荷物までまとめておいてあげたわ。克哉はこの数年間、あなたの面倒を見てあげて、もう十分すぎるほど尽くしたでしょ。そろそろ、自分から身を引くべきだってわかるわよね?」
そして杏奈は、ついでとばかりにもう一つ箱を取り出した。
その中に入っていたのは、夏美が寝る間も惜しんで作り上げたものだった。彼女の全精力を注ぎ込んだ、将来の研究の基盤となる、高性能AI搭載型ロボットの試作品だ。
それは、海外で新しい事業を始めるための、そして自閉症の治療研究を深めるための、夏美の唯一の希望だった。
「あと、このガラクタもね!あなたが大事そうに隠してたから何かと思ったら、ただの鉄クズじゃない」
杏奈は首を傾げた。その美しい顔には、残酷な笑みが浮かんでいる。
「本当に、目障りだわ」
「やめて!」
夏美は、必死に駆け寄った。
しかし、もう遅かった。
杏奈はロボットを高く掲げると、床に向かって力いっぱい叩きつけた。
精密な部品が床に飛び散る。コア部分は、彼女のハイヒールの踵で無残に踏み砕かれ、耳障りな音を立てた。
それは、夏美のキャリアそのものだった。彼女の夢、そして彼女が描いた未来……そのすべてが今、目の前で木っ端微塵に破壊された。
杏奈は、床に崩れ落ち、抜け殻のようになった夏美を、まるでゴミでも見るかのような目で見下ろした。
「これで、心置きなく私たちの前から消えられるでしょ?」
第6話
夏美は狂ったように家を飛び出し、克哉の会社へと向かった。
受付の制止も、周りからの奇異な視線も気にせず、彼女は社長室へまっすぐ乗り込んだ。
夏美が乗り込んでくるのを見ると、克哉はスマホを置き、不愉快そうに眉をひそめた。彼の周りの空気は一変し、凍てついたようなオーラを放ち始めた。
「克哉!あなたは……」
しかし、問い詰める言葉はどれも出てこなかった。こみ上げてくる思いに喉が詰まって、声にならない。
対照的に、克哉はぞっとするほど落ち着き払って、夏美の言葉を冷たく遮った。
「夏美、母親失格だな。なぜ翔に手をあげたんだ?」
克哉はスマホを夏美の前に突きつけた。画面には、彼女が翔を叩いた、まさにその瞬間が映し出されていた。
夏美ははっと顔を上げた。彼に先手を打たれるなんて、信じられなかった。
「気になるのはそれだけ?あの女が翔に何をしたか知ってるの?あの子の前で『邪魔』と言い放って、伸ばしてきた手を払いのけたのよ!」
「もういい」
克哉の視線は、まるで刃物のように鋭かった。
「夏美、自分の姿を鏡で見てみろ。杏奈はいつもあの子に優しく接してくれていたじゃないか。そんなことを言うはずがないだろう?」
「私のことより、あの女を信じるの?私たち、何年も一緒にいるのに。私がいつ……」
夏美の声は、絶望のあまり震えていた。
克哉は彼女をじっと見つめ、ふいに声のトーンを和らげた。
「長年一緒にいたからこそ……最近のお前の調子が、どれだけ悪いか誰よりも分かるんだ」
彼は突然、夏美の手を握り、わざとらしく心配するような口調で言った。
「翔に診断が下りてから、お前はずっと不安でいっぱいだった。その気持ちは、俺にも分かる」
夏美は克哉の腕を激しく振り払った。
「私の調子が悪い?克哉、一体何が言いたいの?」
克哉はため息をつくと、引き出しから一枚の書類を取り出し、そっと彼女の前に差し出した。
「これは、お前が去年、精神科で診てもらった時の診断記録だ。先生ははっきりと、静養が必要で刺激を与えてはいけないと書いている」
夏美はその場で完全に凍りついた。見覚えのあるカルテを前に、彼女の体は激しく震え始める。
「あれはただの、産後うつの経過観察で……」
克哉は立ち上がって彼女に詰め寄り、声のトーンをさらに下げた。
「じゃあ、ここ最近のおかしな行動はどう説明する?根拠もなく杏奈を疑い、彼女が翔を傷つけようとしていると思い込む。今じゃ翔に手をあげるまでになった。さっきの家の防犯カメラも見たが、あれは手加減なしのビンタだったぞ」
その言葉で、夏美はついに彼の狙いを悟った。足元からぞっとするような悪寒が背筋を駆け上る。
「だから、あの女に私を追い出すよう指示したのね?私が病気だから、病院に送るってわけ?」
「治療だ」
克哉の口調は、有無を言わせぬ響きを持っていた。
「症状が落ち着けば、いつでも翔に会いに戻ってきていい」
「何の治療よ?」
夏美はふいに笑い出した。その声は、悲痛な叫びのように響いた。
「私があなたを信じすぎてることを治療するの?それとも、あなたたちの邪魔をする、この正常な私を治療するってこと?」
克哉の顔から、完全に表情が消えた。
「お前のために言っているんだ。明日の朝の便だ。療養院の手配も済んでいる。環境のいいところだから、気に入るはずだ」
「克哉!嫌よ!」
しかし夏美が抵抗する間もなく、克哉は内線電話のボタンを押した。
「妻を療養院へ」
すぐに制服姿のボディーガードが二人入ってきて、夏美の両腕を掴んだ。彼らは半ば力ずくで彼女を社長室から引きずり出し、一台の車に押し込んだ。
目的地に着いたところで、ようやく目隠しが乱暴に外された。
そこで夏美は初めて気づいた。ここは療養院などではない。ひどく古びた、おぞましい精神病院だったのだ。
第7話
冷たい針が肌を突き刺し、得体のしれない薬が体の中へと流し込まれていく。
夏美はカビ臭い部屋に乱暴に放り込まれ、後ろで鉄の扉がガチャン、と音を立てて固く閉ざされた。
ここは、まさにこの世の地獄だ。
「治療」と称して行われるのは、体じゅうが痙攣するほどの電気ショックだった。
電気ショックの後には、さらに数え切れないほどの薬が待っていた。夏美が抵抗しようものなら、大勢の人に取り押さえられ、無理やり薬を飲まされるのだ。
それどころか、看護師の誰かしらが、なんの理由もなく彼女を殴ったり蹴ったりすることもあった。
夏美は冷たいコンクリートの床で体を丸めていた。逃れようともがき続けたせいで爪は剥がれ、滲んだ血が床のほこりと混じって、どす黒くこびりついている。
彼女に唯一許された自由時間は、談話室での30分だけだった。そこには、壁に掛けられた古いテレビが一台ある。
その日、テレビ画面に映し出されたのは、杏奈の健気で、それでいて芯の強さを感じさせる顔だった。
映っていたのは、世間の注目を集めるIT技術の授賞式だった。
杏奈は優雅なドレスを身にまとい、スポットライトを浴びていた。そして、プレゼンターから「年間最優秀新人技術者賞」のトロフィーを受け取っているところだった。
司会者が大げさな口調で彼女を紹介する。
「松田さんは、女優として活躍する一方で、実は天才的な技術者でもあります!学生時代には国の重要な研究にも参加し、特待生として学んでいました。そして今、自閉症の子供をサポートするAI開発で、画期的な進歩を遂げたのです……」
その瞬間、夏美の全身の血が凍りつくようだった。
画面には、杏奈の功績をまとめた映像が流れ始めた。
そこに映し出されたコード、アルゴリズムの設計……それらはすべて、かつて夏美が克哉と幾夜も徹夜して乗り越えてきた難題そのものだった。
そのすべてが、杏奈の手柄にすり替えられていたのだ。
それだけではない。夏美が誇りにしていた大学の卒業制作までもが……あの、彼女と克哉がそろって高い評価を得たAIシステム。その開発者名が、なんと杏奈に変わっていたのだ。
カメラが会場の客席を映し出す。
来賓席に座る克哉の姿があった。彼は、ステージ上の杏奈をうっとりと見つめ、口元には満足そうな笑みを浮かべている。
続いて、記者たちが大学時代の同級生数名にインタビューをしていた。彼らは、杏奈が当時いかに勤勉で聡明だったか、そしてIT分野でいかに素晴らしい才能を発揮していたかを、自信満々に語っていた。
まるで、かつて本物の天才だった夏美など、最初から存在しなかったかのように。
夏美は全身が震え、胃の中のものがこみ上げてくるようだった。
克哉は、関係者全員を買収したのだ。そして、自分の人生を無理やり杏奈の人生に押し込んだのだ。
努力も、才能も、過去の栄光も、すべてがいとも簡単に書き換えられ、臆面もなく別の女のものにされていた。
自分のすべてが、実績から家族まで、杏奈に乗っ取られてしまったのだ。
夏美が震えていると、テレビの画面が突然切り替わり、速報が流れ始めた。
「本日、S国にある高級療養施設で、重大な医療過誤が発生したことが分かりました。交通事故で長期入院していた移民の女性患者が、薬剤の誤投与により死亡したということです」
画面に映し出された名前は、まさしく夏美の母親、陽子だった。
雷に打たれたような衝撃を受け、夏美はその場で完全に凍り付いてしまった。
彼女の脳裏に、克哉の顔が浮かんだ。
あの男だ。
きっと、彼と杏奈の仕業だ。
自分を完全に支配するためか、あるいは、ただ邪魔になったからか……あの二人が手を組んで、母を死に追いやったのだ。
夏美はテレビに映る陽子の名前をただ見つめていた。その瞳から光が少しずつ消えていき、最後には静かな灰だけが残ったようだった。
彼女は冷たい床にへなへなと座り込んだ。まるで、命を抜き取られ、壊れた人形のように。
どれくらいの時間が経っただろうか。鉄の扉の向こうから足音が聞こえ、鍵が回る音がした。
逆光の中に、白衣とマスクをつけた長身の男が立っていた。その声は低く、どこか焦りの色を滲ませていた。
「夏美!遅くなってすまない……」
逆光で、その輪郭ははっきりとしない。
夏美は顔を上げたが、その虚ろな瞳には何の輝きもなかった。
ただ、感情のこもらない目で彼を見つめるだけだった。まるで、自分とは何の関係もない他人を見るかのように。
……
克哉は会議室で、杏奈のために練り上げた「天才女優」育成計画をチームに説明していた。
パワーポイントには、彼女をトップスターへと押し上げるための具体的なステップが詳細に描かれていた。
しかし、彼のスマホが立て続けに震えた。
執事からの電話だった。翔が朝から泣きわめいて暴れており、手が届くものをすべて壊しているという。誰かが近づくと、さらに激しく取り乱すとのことだった。
「夏美を呼べ!あいつに何とかさせろ!」
克哉は苛立たしげに命じた。
続いて実家の親戚から電話があり、屋敷のセキュリティシステムが完全にダウンして、街じゅうにけたたましい警報音が鳴り響いていると告げられた。
彼はイライラしながらこめかみを押さえた。
「以前はいつも夏美が対応していた。あいつを探せ!」
そこへ、チーフエンジニアが血相を変えて会議室に駆け込んできた。
「社長!新しいプロジェクトのシステムが、何者かに不正にアクセスされています!中の仕組みが完全にロックされていて、こちらでは手の打ちようがありません。これは……まるで、奥さんが初期の段階で設定した、特別に強いセキュリティが作動したみたいです……」
技術チーム全員がお手上げ状態だった。
「だったら、さっさと彼女を探して対応させろ!」
克哉の声には、自分でも気づかないうちに焦りが混じっていた。
しかし、その瞬間、彼はようやく何かがおかしいと気づいた。
夏美は自分の手で療養院に送られ、外界から隔離されている。自分自身でさえ、もうずいぶん連絡を取っていなかったのだ。
克哉は人払いをすると、初めて自ら、意図的に無視し続けてきた電話番号に発信した。
だが、返ってきたのは「おかけになった電話は、電源が入っていないか……」という、冷たい機械音声の繰り返しだけだった。
わけのわからない緊張感が、突然彼を襲った。
続いて、スマホの画面にシステム通知のメッセージが割り込んできた――
【通知:ご契約のドメイン『loveforever.com』は、料金未払いにより正式に失効しました。全てのデータは完全に消去されます】
克哉は愕然とした。
そのドメインは、大学時代に二人で一緒に登録したものだった。
そこには、二人が出会ってから恋に落ちるまでの、全ての思い出が詰まっていた。
初めて交わしたメッセージのスクリーンショット、二人で協力して書き上げたコード、夏美に送った最初のラブレター、翔が生まれた時に彼が夢中で撮った写真……
その後、自分は仕事に追われ、そのサイトにアクセスすることはなくなった。ずっと夏美が一人で、静かに更新を続けていたのだ。
それが今、料金未払いで……失効した?
克哉はそのメッセージを睨みつけた。心臓を見えない手に鷲掴みにされ、鼓動が止まったかのような衝撃だった。