オーロラと星辰

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ビジネス界において、高嶺凛(たかみね りん)が神崎奏多(かんざき かなた)の懐刀であることは周知の事実だ。 凛さえいれば、神崎グループに...

Chương (1)

第1章

ビジネス界において、高嶺凛(たかみね りん)が神崎奏多(かんざき かなた)の懐刀であることは周知の事実だ。 凛さえいれば、神崎グループに落とせない商談はない。 そして奏多は、凛を骨の髄まで愛している。彼女が望めば、その命さえ差し出すと言われるほどに。 かつては、凛自身もそれを信じていた。 彼女は神崎グループのため、南方の無法地帯で躊躇なく自らの頭に銃口を当て、引き金を引いたことがある。 西の大陸では、原料サプライヤーとの接待で吐血するまで酒をあおり続けた。 どんな修羅場でも、振り返れば必ず奏多が支えてくれていると信じていたのだ。 奏多が、あの小柄なボディーガードに向ける視線に深い感情が含まれることに気づくまでは。 彼はそれを「同情」だと言い張るが、二人が交わす視線の端々には、隠しきれない情欲が滲み出ていた。 第1話 ビジネス界において、高嶺凛(たかみね りん)が神崎奏多(かんざき かなた)の懐刀であることは周知の事実だ。 凛さえいれば、神崎グループに落とせない商談はない。 そして奏多は、凛を骨の髄まで愛している。彼女が望めば、その命さえ差し出すと言われるほどに。 かつては、凛自身もそれを信じていた。 彼女は神崎グループのため、南方の無法地帯で躊躇なく自らの頭に銃口を当て、引き金を引いたことがある。 西の大陸では、原料サプライヤーとの接待で吐血するまで酒をあおり続けた。 どんな修羅場でも、振り返れば必ず奏多が支えてくれていると信じていたのだ。 奏多が、あの小柄なボディーガードに向ける視線に深い感情が含まれることに気づくまでは。 彼はそれを「同情」だと言い張るが、二人が交わす視線の端々には、隠しきれない情欲が滲み出ていた。 …… 二千億円規模のM&Aが成立した瞬間、凛は鉛のように重い体を引きずり、交渉の場を後にした。七十二時間不眠不休で働き続け、肉体の疲労は限界を超えていた。 「お疲れ様、凛」 奏多は両手を広げ、凛を強く抱きしめた。 馴染み深いシダーウッドの香りに、どこか異質な、鼻を突く香水の匂いが混じっている。 凛の視線は彼の肩越しに、背後にぴったりと付き従う女に向けられた。 「彼女は?」 奏多は凛を離すと、安心させるように背中をさすった。「影山(かげやま)レイだ。腕が立つから、これからは君の警護につける。さあ、乗って」 彼がそう促すと、レイは迷うことなく運転席に滑り込んだ。 奏多は慣れた手つきで助手席のドアを開ける。 後部座席は広く、乗ると寂しい錯覚が生じるくらいだ。 かつて「僕の助手席は、永遠に君だけの特等席だ」と耳元で囁いた男が、今、当然のように別の女の隣に座っている。 奏多は窓から顔を出し、以前と変わらぬ甘い笑顔を向けた。 「凛、早く乗れ。後ろの方が広くてゆっくり休めるんだ」 昔の彼は、確かにこう言っていたはずだ。 「道が悪いから、僕に寄りかかって眠ればいい」と。 凛は何も言わず、黙って後部ドアを開けた。 道中、奏多とレイは親密に談笑していた。 レイを見る彼の瞳には、熱っぽい光が宿っている。 だが、バックミラー越しに凛と目が合うと、その光は瞬時に消え失せた。 その残酷な温度差は、氷で研いだ毒針のように、凛の疲弊した神経を突き刺した。 別荘に到着しても、レイは帰る素振りを見せなかった。 凛の声には冷ややかな響きが混じった。「奏多、言ったはずよ。この家に部外者は泊めないって」 奏多が口を開く前に、レイが素早く動き、温かい白湯を凛の前に差し出した。 「奥様、社長からは今後、こういった雑用はすべて私が担当すると仰せつかっております。ご安心ください、私は空気のように気配を消しますので、お二人のプライベートをお邪魔することは決してありません」 凛はすぐには受け取らず、レイの手首に視線を釘付けにした。 彼女の手首にあるのは、去年、自分が奏多に贈った誕生日プレゼントの時計だ。 彼は言っていた。 「これは僕専用だ。僕たちの時間が永遠に同期している証だ」と。 今、その「永遠の同期」を象徴する時計が、別の女の手首で時を刻んでいる。 凛の思考が一瞬凍りつき、心臓に無数の棘が刺さるような鈍痛が走った。 彼女は顔を上げ、レイを見据えた。 レイの顔には計算された「狼狽」が浮かんだ。急いで袖をまくり上げ、隠そうとするその仕草は、あまりにも芝居がかっていて見事なほどだった。 「凛、レイは身寄りがなくて不憫な子なんだ。責めないでやってくれ。行く当てもないから、一時的にここに置くだけだ。離れを使わせるから、僕たちの邪魔にはならない」 奏多はレイの手からカップを取り、自ら凛の前に差し出した。その口調には、隠しきれない庇護の色が滲んでいた。 凛は強引に握らされたカップの温もりを感じながら、立ち上る湯気で視界を滲ませ、瞳の奥で渦巻く痛みを押し殺した。 彼女が黙り込んでいると、レイが唐突にドサッと膝をつき、まるで世界中から見捨てられた捨て犬のように泣き叫んだ。 「奥様!私の命は、社長に地下格闘技場から拾っていただいたものです!わ、私、お二人の犬になります!どうかここに置いてください!離れじゃなくていいです、玄関で番犬として寝ますから!場所も取りませんし、ご飯も残り物で済みます、本当です!」 凛は彼女を冷ややかに観察した。地下格闘技場のような血肉の磨耗場から這い上がってきた人間が、これほど美しく手入れされた顔をしているはずがない。 「奏多、彼女の言ってることは嘘よ」 凛が顔を上げると、奏多の瞳には強烈な憐憫の色が浮かんでいた。 「凛、君はいつも思慮深いはずだろ。レイはあんな場所にいたんだ、十分可哀想じゃないか。もう少し同情心を持ってやってくれ」 彼女が、可哀想? 凛は静かに奏多を見つめたが、脳裏には制御不能な記憶が蘇っていた。三年前、南の国境地帯で遭遇した、あの粘りつくような雨の夜のことを。 自分は神崎グループにとって数百億円の価値があるコアチップを取り戻すため、現地最大の武装勢力「鬼の手」に銃口を突きつけられていた。 リボルバー拳銃。凛は自分自身に五発、引き金を引いた。 その命知らずの狂気が、彼女を交渉のテーブルから生還させたのだ。 数百億円のチップは無事に取り戻した。 だが自分は、「鬼の手」の部下たちに嬲られ、全身傷だらけになり、飲み込む唾液さえ血の味がした。 あの時、奏多は電話でただこう言った。「お疲れ様、凛。早く帰っておいで」 結局のところ、本当の「九死に一生」は美談にはならず、表舞台には出せないのだ。 一方、念入りに脚色された嘘は、いとも簡単に憐れみを勝ち取る。 生理的な嫌悪感が胃の底からせり上がり、喉が詰まる。 凛はそれ以上言葉を発することなく、立ち上がってその場を去ろうとした。 「凛……」 奏多が追いかけようと腰を浮かせた瞬間、レイが彼の太腿にしがみついた。 「社長、私のために奥様と喧嘩しないでください、すべて私が悪いんです!今すぐ死んでお詫びします!そうすれば、お二人の仲に亀裂が入ることもありませんから!」 そう叫ぶや否や、彼女は暖炉の大理石の角に向かって頭から突っ込んでいった。 「レイ!」 奏多の瞳孔が収縮し、飛びつくようにしてレイを抱き止め、守るように抱え込んだ。 「凛、先にレイを病院に連れて行く」 背後で響く慌ただしい声を聞きながら、凛の心は吐き気を催すほどの嫌悪で満たされていた。 彼女は秘書にメッセージを送った。 【影山レイについて調査して。彼女に関する全ての情報が必要よ】 第2話 その夜以来、奏多は主寝室に入ってこなくなった。理由は「レイが怪我をして毎晩うなされている、僕の姿が見えないと安心して自殺しかねないから」だった。 一週間後、N市にある企業との交渉が重要な局面を迎えていた。 凛がN市へ出発する準備をしていると、奏多がレイを連れて現れた。 「交渉の準備はどうだ?」 「プランに問題はないわ。でも、私一人で行く。相手は背景が複雑だから、人数が多いとかえってトラブルの元になる」 「わかった。じゃあ、レイも連れて行って勉強させてやってくれ」 凛は弾かれたように顔を上げた。 自分は経営には口を出さない、奏多は交渉には口を出さない。それが二人の間で決めた鉄則だった。しかし今、彼はレイのためにそのルールを破ろうとしている。 「あそこは交渉のテーブルよ、格闘技場じゃないわ。私一人で十分」 奏多は凛のコートの襟を整えていた手を止め、眉をひそめた。その口調には、反論を許さない強硬さがあった。「レイがいれば、僕も安心なんだ」 そう言い捨てると、奏多は凛を通り越し、直接レイに命令を下した。「今日は凛をしっかり守れよ」 そして再び凛に近づき、耳元で低く囁いた。 「凛、僕を信じてくれ。あと七ヶ月だ。七ヶ月後には、必ず君にサプライズを贈るから」 凛の心は冷たく沈んだ。 七ヶ月という期間が何を意味するのかは分からなかったが、それでももう一度だけ、彼を信じてみようと思った。 交渉の席上、空気は予想通り張り詰めていた。 大和田(おおわだ)社長はビール腹を揺らしながら、陰湿で警戒心の強い小粒目を光らせ、わざとらしく凛を挑発した。「高嶺さんのような美人は、殺伐とした交渉の場における一輪の花だねぇ。ただ気になるのは、夜の接待もお上手なのかな?」 会議室に下卑た笑い声が響く。だが凛は冷静だった。人身攻撃に走るということは、相手がもう手詰まりである証拠だ。 バンッ―― 凛が口を開こうとした瞬間、レイが重厚なマホガニーの会議テーブルを蹴り上げた。 全員が驚愕する中、レイは大和田に飛びかかり、床にねじ伏せると、拳を何度も顔面に振り下ろした。大和田はその場で気絶した。 必勝だったはずの交渉は、レイのこの暴挙によって崩壊した。こちらが過失側となり、多額の賠償責任を負うことになるのは必至だ。 「救急車を呼んで!レイ、やめなさい!」 凛の顔色は蒼白だった。 奏多が駆けつけた時、現場は修羅場と化していた。 彼は本能的に凛の元へ走り、彼女の冷え切った手を掴んだ。その目には、心配と恐怖が入り混じっていた。 「手がこんなに冷たい。あいつに何かされたのか?」 凛が答えようとしたその瞬間、レイが突然、取り押さえようとする警備員の手を振りほどき、片膝をついた。そして、隠し持っていたナイフを自らの太腿に突き立てた。 刃が肉を裂く音が、鼓膜を震わせるほど鮮明に響いた。 激痛に顔を歪めながらも、レイは顔を上げ、強情な瞳を向けた。 「社長、私の不手際です。罰は甘んじて受けます!」 奏多の瞳が極限まで見開かれた。 「おい!正気か!」 その声に含まれる焦燥と恐怖は、先ほど凛に向けた言葉のどれよりも真に迫っていた。 「医者は!医者を呼べ!どいつもこいつも何をしているんだ!」 わずかに温まりかけていた凛の心は、一瞬にして凍りついた。 交渉の場で百戦錬磨の彼女が、今は硬直して一言も発することができない。 救急車がすぐに到着し、奏多は「ここは任せた」と一言だけ残し、レイを抱きかかえて去っていった。 「高嶺本部長、その手……」 駆けつけた秘書が凛の姿を見て悲鳴を上げた。慌ててしゃがみ込み、応急処置を始める。 凛の腕の傷は骨が見えるほど深かった。だが、流れ出た血が奏多の手のひらを赤く染めていたにもかかわらず、彼はそれに気づきもしなかったのだ。 「大丈夫よ」 凛は、二人が寄り添って去っていった方向から視線を外し、足元に広がる惨状を見つめた。 第3話 大和田とのトラブル処理に、凛は一晩中奔走した。 自ら謝罪に出向き、医療費の全額負担を約束し、さらに市場価格より二割増しの追加契約を結ぶことで、ようやく事態を鎮静化させた。 家に戻った頃には、空は白み始めていた。 巨大な掃き出し窓から差し込む朝の光が、床に灰白色の斑点を落としている。 凛は鉛のように重い体を引きずって階段を上がった。長時間動き回ったせいで腕の傷がズキズキと痛み出し、包帯には薄らと血が滲んでいた。 薬を探そうと力を振り絞って一階へ降りようとした時、書斎から押し殺したような泣き声が聞こえてきた。 「奏多さん、わざとじゃないんです。ただ奥様を守りたかっただけなんです。あの男が奥様にあんな事をさせようとしたから、奥様が辱められるのが怖くて……」 「わかっているよ」 奏多の声は優しく、凛がこれまでに聞いたことのないような優しさに満ちていた。 レイの泣き声が次第に小さくなっていく。「そういえば、今日、赤ちゃんが蹴ったのを感じました。まるで『パパ、怒らないで』って言ってるみたいに。 まだ三ヶ月でよかったです。もしもう少し大きかったら、今日あんな風に奥様を守れなかったかもしれません……」 パパ?赤ちゃん? 凛の心臓が激しく収縮した。 書斎から再び奏多の声が響く。「余計な心配はするな。お前は静養して子供を守ることだけ考えればいい。N市の件は凛が何とかする。 レイ、自分の立場をわきまえろ。お前とは一夜の過ちに過ぎない。住む場所は与えたが、子供をダシにして本妻の座を狙おうなんて思うな。 僕が愛しているのは凛だけだ。僕たちの関係は絶対に凛に知られてはならない。もしバレたら、お前を許さないからな」 …… その後の言葉は、凛の耳には届かなかった。 全身の血液が一瞬に逆流するような感覚に襲われた。 妊娠十ヶ月。今、子供は三ヶ月。つまり、あの「七ヶ月」とはそういうことだったのか? 彼が言っていたサプライズとは、他の女との間にできた子供のことだったのか? 凛は自分がどうやって寝室に戻ったのか、もう覚えていない。 ベッドに腰を下ろした時、腕の傷が開いていることに気づいた。 鮮血が包帯を染めていくが、痛みは全く感じない。 極度の悲しみの中では、肉体の痛みなど無に等しいのだと知った。 握りしめたスマートフォンは、まだ録音を続けていた。 長年の仕事で身についた習慣が、まさか自宅で発揮されることになるとは。 適当に応急処置を済ませると、凛はパソコンを開いた。画面の青白い光が、血の気を失った彼女の顔を照らし出す。 【調査中止。判明した全ての資料を直ちにレポートにまとめて送って】 すぐに暗号化されたメールが届いた。その内容を目にした瞬間、凛の瞳孔がすっと細まった。 レイの背後にある事情は、想像以上に複雑だった。奏多は毒蛇を自ら懐に温め、その毒牙が喉元にあるとも知らず、愛しい女として抱いているのだ。 凛は目を閉じ、深く息を吐いた。奏多の愚かさの道連れに、神崎グループ全体を葬り去るわけにはいかない。 その夜、凛のパソコンから次々と指令が発信された。 海外に資産を再構築する指示を出した。全ての準備が整い次第、彼女は神崎グループのすべてを持って姿を消すつもりだ。奏多と彼の「忠実な犬」が、永遠に結ばれるように。 翌朝、凛は完璧なメイクを施し、腕の傷をシルクのシャツの下に隠した。 昨夜の絶望と心労が、まるで音のない幻夢であったかのように。 階段を降りると、奏多がレイのために料理を取り分けていた。その動作は甲斐甲斐しく優しい。 凛の姿を認めると彼の動きが止まり、顔に一瞬の不自然さが走ったが、すぐに隠された。 レイが勢いよく立ち上がった。足の傷が痛むのか、顔をしかめる。「奥様」 「凛、レイは足に怪我をしてるんだ。数日はあまり厳しくしないでやってくれ」 厳しく? 凛は足を止め、奏多を真っ直ぐに見つめた。一言も発していないのに、レイが勝手に立ち上がっただけで、自分が厳しくしたことになるのか? 失言に気づいたのか、奏多はすぐに話題を変えた。「N市の件、どうなった?」 「解決したわ」 凛の冷淡でよそよそしい態度に、奏多は理由のわからない苛立ちを覚えた。 だが、彼は弁解一つしようとはしなかった。 第4話 二人の間に漂う低気圧のせいで、社内の雰囲気も異様なものになっていた。 半月の間、凛は会社に泊まり込み、チームを率いて数え切れないほどの徹夜を重ねた。 「高嶺本部長、完成しました」 最後のエンターキーが押されると、全員が安堵の息を漏らした。 凛は立ち上がった。「デリバリーを頼んでおいたわ。皆は仕上げのチェックをお願い。私が下まで取りに行ってくる。今夜はみんなで打ち上げよ」 歓声が上がる中、凛は席を外した。しかし戻ってくると、チーム全員が椅子の上で呆然としており、パソコン画面は死を告げるような青一色――ブルースクリーンになっていた。 そして、レイが彼女のデスクの横に立っていた。 「どういうこと?」凛の心臓が早鐘を打った。 レイは潤んだ瞳で凛を見上げた。 「奥様!すべて私の責任です!余計なことをしてしまいました!ただセキュリティを強化しようと思って、システムの不要ファイルを削除しようとしたら、まさかこんなことになるなんて……」 不要ファイルの削除…… 凛の頭の中で何かが切れる音がした。レイを相手にする暇などない。奏多に緊急メッセージを送り、会議の延期を含めた対処を求めた後、すぐさまパソコンに向かい復旧作業を開始した。 それらは極めて重要なファイルであり、たとえ一部でも取り戻せなければ致命的だ。 凛はチーム総出で緊急リカバリーに当たった。 奏多がいつ来たのかさえ気づかなかった。 ただ、最も重要な瞬間に、レイが「わあっ」と声を上げて泣き出した。 画面が突然ブラックアウトした。 終わった……全てが。 凛は絶望のあまり表情を失い、振り返った。そこには、電源ボタンの上に膝をつき、自らの頬を激しくビンタし続けるレイの姿があった。 「奥様、私を殺してください!社長がいつも会社のネットワークは脆弱だと言っていたので、お役に立ちたくて……」 彼女の背後に立っていた奏多は、レイの泣き腫らした目と頬に浮かぶ手形を見て、怒りを急速に萎ませていった。 彼はため息をつき、終始無言の凛に目を向けた。「凛、彼女も悪気があったわけじゃない。君ほど優秀なら、一晩徹夜すればまた作り直せるだろう?」 凛は彼を見て、ふっと笑った。 こんな夜遅くに駆けつけたのは、レイを慰めるためだったのか? 緊急対応というのは、自分の専門能力と労力を、別の女の失敗を帳消しにするためのコストとして使うことだったのか? だが、もう奏多と争う気力さえ失せていた。 口から出た「わかった」という言葉には、底知れぬ哀しみと嘲笑だけが含まれていた。 その夜、凛は奏多抜きの会議を招集した。 去るための準備には時間がかかる。だがその前に、社員全員の逃げ道を確保しなければならない。 一睡もせず、凛はプランを一から作り直した。 翌日の会議、驚くべきことにレイが奏多の隣、秘書席に座っていた。 彼女にこの会議に出席する資格などないはずだ。 奏多は立ち上がり、全員に紹介した。「影山レイは我々の新しいパートナーだ。勉強のために、今回の会議に参加させることにした」 ボディーガードに、経営判断を学ばせるだと? 全員が困惑の表情を浮かべ、凛も思わず指先を強く握りしめたが、すぐに感情を押し殺した。 すべての手配を終え、神崎グループごと持ち去った後なら、奏多がレイに何を学ばせようと好きにすればいい。 会議の中盤、古参の島崎(しまざき)取締役が突然口を開いた。「高嶺さんのプランは相変わらず堅実だが、保守的すぎるな」 島崎取締役は以前から凛と折り合いが悪く、凛の発言には必ず難癖をつけてくる。誰も気に留めておらず、凛自身も答えるつもりはなかった。 しかしその時、突拍子もない声が響いた。「私は島崎さんの意見に賛成です」 レイが立ち上がった。「高嶺さんのプランは慎重すぎます。私なら、もっと攻めます!市場なんて奪い取るものじゃないんですか?何を怖がってるんですか!」 会場は静まり返り、全員がまるで狂人を見るような目で彼女を見た。 凛は目配せで奏多にこの茶番を止めるよう促したが、目が合うと奏多は逆にふっと笑った。「凛、君も時には彼女のような勢いが必要かもしれないよ」 会議はこの馬鹿げた「喜劇」で幕を閉じた。 全員が退出した後も、凛は自分の席に座り続けていた。 五年前の記憶がぼんやりと蘇る。同じこの会議室で、創業したばかりで行き詰まり、古参たちの批判に晒されていた時だ。 奏多は自分のために机を叩いて立ち上がり、力強く宣言した。「もう一度言う。高嶺凛は僕の共同経営者だ。異論がある奴は今すぐ出て行け!」 かつて全世界の悪意から自分を守ってくれたその背中が、今日、自らの手で自分を批判の矢面に立たせた男の姿と重なる。 その事実は、凛の魂を引き裂くほどに残酷だった。 第5話 あの日以来、凛は病に倒れた。 意識が混濁し、冷たい海の底に沈んでいくようで、どうしても浮上できない。 朦朧とする中で、奏多が何度も「愛している」と囁くのが聞こえた気がした。 待っていてくれ、と。 何を待つのだ?彼の子供が生まれるのをか? やがてその声は、聞き慣れた足音に変わった。 凛が無理やり目を開けると、十年来の付き合いであるホームドクターが困惑した顔で立っており、その前にレイが立ちはだかっていた。 「櫻井先生、ご足労いただきましたが、もう結構です。 社長がS国から最高のプライベート医療チームを呼び寄せました。間もなく奥様の精密検査を行います」 凛は何か言おうとしたが、喉が渇ききっていて声が出ない。 ただ、目の前の出来事を黙って見ていることしかできなかった。 見知らぬ冷たい医療機器が体の上を滑る時、彼女はかつてない屈辱を感じた。 その日、彼女は残る力を振り絞って奏多に電話をかけた。 電話の向こうで、奏多は当然のように言った。「君の体が一番大事だ。最高のものを使うのは当たり前だろう。その点、レイは君よりもよく気がつくよ」 凛は受話器を握りしめたまま、言い争う気力さえなかった。 自分が一週間寝込んでいる間、奏多は一度も顔を見せなかった。毎日三回メッセージを送ってくるだけだ。 「まだ残業だ、愛してる」と。 だが彼女は知っていた。この一週間、奏多が会社に一度も足を踏み入れていないことを。 初日、彼はカップル専用レストランで、レイと「キスのご褒美で食事代無料」のゲームに興じていた。 二日目は遊園地。アイスクリームをレイの服に落とし、二人は濃厚な雰囲気に包まれていた。 三日目、彼はレイを連れて自分のプライベートアーチェリー場へ行った。自分が他人の立ち入りを禁じていたその場所で、奏多はレイの体に密着し、弓の引き方を教えていた。 …… これらはすべて、レイが自分に送りつけてきたものだ。 その一つ一つが、奏多の裏切りを高らかに宣言していた。 凛は長い間それを見つめた後、全てのメッセージをスクリーンショットに撮り、保存した。 携帯が鳴った。海外からの乱数表示だった。 電話に出ると、落ち着いた男の温和な声が聞こえた。 「凛、神崎グループの資産を空にして、奏多とは別れる決心はついたかい?」 凛は静かに、低く答えた。「西園寺さん、提携の件、進めて」 電話を切り、画面が暗くなった瞬間、唐突にメッセージがポップアップした。 【奥様、もう寝ましたか?社長が今夜は飲みすぎてしまって、私のところで休まれています】 添付された写真には、上半身裸の奏多が写っており、背中には生々しい爪痕が残されていた。 【そういえば奥様、さっき二人でいろんなことをしたんですけど、社長が言ってました。「交渉のテーブルで化かし合いをする女より、僕のために命も投げ出せる女の方が好きだ」って】 【奥様は賢い方ですから、自ら身を引くことのメリットはお分かりですよね?】 放り投げられた携帯が、着信音を鳴らし続けている。 凛はメッセージのスクリーンショットと、これまでに集めた証拠をまとめて暗号化し、顧問弁護士に送信した。 計画は既に動き出している。あと一ヶ月あれば、これらの証拠で奏多を身一つで追い出すには十分だ。 そして自分が秘密裏に海外で構築したシステムがあれば、あらゆる不測の事態を無傷で乗り切ることができる。 第6話 翌朝。 凛が目を覚ますと、奏多は既にベッドサイドに腰掛けていた。 「凛、櫻井先生から聞いたよ、だいぶ良くなったみたいだね。ほら、温かいうちに食べて」 温かいお粥の椀を手に握らされる。 その確かな温度を感じながら、凛は奏多を見つめた。彼の瞳にある心配の色はあまりにリアルだ。だが彼は昨夜、レイのベッドで「凛のような腹の探り合いをする女は大嫌いだ」と言い放ったのだ。 「凛、まだ具合が悪いのか?今日の交渉だけど……」 「大丈夫、行くわ」 凛は粥をサイドテーブルに置いた。伏せた瞳の奥には、冷たい嘲笑が渦巻いている。 彼がこんなに早く帰ってきたのは、自分を心配したからじゃない。交渉の道具として使いたいからだ。 粥は冷めやすい。人の体温から離れれば、ものの数分で冷たく固まってしまう。まるで二人の関係のように。 道中、奏多は甲斐甲斐しく世話を焼いたが、凛は終始無言を貫いた。窓の外を飛ぶように過ぎ去る街並みを眺めながら、どうして二人の関係はここまで堕ちてしまったのかと自問していた。 バッグの中で携帯が短く震えた。 【高嶺本部長、影山レイが交通事故を偽装しようとしています】 メッセージは簡潔だった。凛が天海(てんかい)グループ内部に潜り込ませたスパイからの報告だ。 添付された写真のナンバープレートは、高速に乗ってから付かず離れずの距離を保っている後続のトラックのものと一致していた。 「車を止めて!」 凛がナイフを取り出し、レイの首筋に突きつけたその瞬間、背後のトラックが猛スピードで突っ込んできた。 刹那、レイはハンドルを急激に切り、自ら運転席側をトラックに晒して衝撃を受け止めた。 ドォォン! 凄まじい衝撃で凛の体はドアに叩きつけられ、ナイフが手から滑り落ちた。奇跡的に、誰にも当たらなかった。 混沌とする意識の中で、凛は顔を上げた。そして見てしまった。意識を失う直前、レイの口元に浮かんだ「計画通り」という微かな笑みを。 後部座席から這い出した奏多の声は、恐怖に震えていた。 「レイ!レイ!」 彼は自分の額から流れる血も拭わず、狂ったようにレイのシートベルトを外しにかかった。 救急車のサイレンが近づいてくる。 …… 病院には、刺すような消毒液の臭いが充満していた。 医師が険しい表情で救急処置室から出てくる。「患者のご家族は?出血が酷く、母体も胎児も危険な状態です……」 医師が言い終わらないうちに、奏多がその胸倉を掴み上げた。「子供を守れ!どんな手を使ってもだ、僕の子供を絶対に助けろ!」 彼は一度たりとも、同じように顔面蒼白で佇む凛を振り返ることはなかった。 その瞬間、凛にははっきりと聞こえた。心の中で何かが、粉々に砕け散る音が。 奏多は三日三晩、レイの病室に付き添った。そして三日目は、彼らの結婚記念日だった。 その夜、凛の携帯に奏多から着信があった。だが聞こえてきたのは、レイの弱々しい声だった。 「奥様、ごめんなさい……社長が私と赤ちゃんのことを心配しすぎて、離れてくれないんです。記念日は……来年埋め合わせるそうです」 凛は電話を切り、テーブルの上で冷え切ったキャンドルライトディナーを無表情に見つめ続けた。 数日後。 奏多は全身に疲労を纏って帰宅した。彼は背後から凛を抱きしめ、深情けな瞳を向けた。 「凛、ごめん。記念日をすっぽかしてしまって。愛しているんだ、ただ僕は……」 彼の言葉が終わらぬうちに、再び携帯が鳴った。 病院からだ。「レイの容態が急変した」という知らせだった。 奏多が即座に出て行こうとするのを、凛は腕を掴んで引き止めた。「レイが妊娠している子供は、あなたの子ね?」 奏多の顔色が変わった。「凛、あれはただの事故なんだ。僕が愛しているのは君だ。でも、子供に罪はない」 「そう。じゃあ証明して見せて。 あの『事故』よりも、私を愛していると証明して」 第7話 凛は奏多をじっと見据えた。 視線が交錯する中、奏多の方が先に目を逸らした。「凛、わがままを言うな。 事故の時、彼女は身を挺して君を守ったんだぞ。それなのに君はナイフで彼女を脅していた。たとえ彼女が憎くても、命の恩人として感謝すべきだ。それに、僕が愛しているのはずっと君だと言っているのに、どうして信じてくれないんだ?」 何を信じろというのか?彼の言う「七ヶ月」を?それとも、レイの腹の中の子が彼の子ではないという嘘を? 凛はスマートフォンを取り出し、レイから送られてきた挑発的なメッセージを奏多の目の前に突き出した。続いて、書斎の外で録音したあの会話を再生した。 奏多が愕然とする中、彼女はタブレット端末を彼の方へ滑らせた。 画面には、レイと天海グループが裏で繋がっていることを示す証拠の数々が表示されていた。それらはすべて、巨大な陰謀を指し示していた。 奏多の表情は驚愕から不信へ、そして窒息しそうな沈黙へと変わっていった。 「このデータ、どこで手に入れた?」 「私独自の情報ルートよ」 凛がそう答えた瞬間、奏多が猛然と詰め寄り、歯を食いしばって問い詰めた。 「独自の情報ルートだと?凛、僕は君の夫だぞ!会社に問題があるなら、真っ先に僕に報告するのが筋だろう。なぜ勝手に外部の人間と動いた?」 「あなたに何を報告しろと言うの?彼女は嘘つきだと言った時、あなたは信じた?」 凛の目が赤く潤む。あの時、彼は何と言ったか。「同情してやれ」と言ったのだ。 二人が対峙していると、奏多の携帯が鳴った。 慌ててスピーカーボタンを押すと、電話の向こうから天海グループの社長、影山剛(かげやま ごう)の気怠げで嘲るような声が響いた。 「神崎社長、家庭内で揉め事が起きているらしいな?お前は高嶺凛と死ぬまで一緒の愛妻家じゃなかったのか?たかがボディーガード一人のために修羅場とは傑作だ」 奏多は怒りを抑え込み、冷たく言い放った。「レイはお前の差し金か?」 剛は鼻で笑った。「俺がお前と同じ節穴だと思っているのか?あんな安い女、天海の駒にする価値もない。 ボディーガードを疑うより、自分の妻を疑ったらどうだ?彼女の愛は、お前の想像よりずっと重いぞ。恋敵を消すために、わざわざ俺に協力を持ちかけてきたんだからな。 そうだ神崎、お前は自分の嫁が清廉潔白だと思っているようだが、本人に聞いてみろ。三年前、西の大陸からどうやってあの積荷を取り戻したのか。本当に交渉だけで済んだと思っているのか?あの体を使って、ヒヒヒ……」 第8話 通話が切れると同時に、一本の動画が送られてきた。 動画の中で、レイは瀕死の状態だった。廃工場の梁から吊るされ、その下には緑色の泡を吹く化学薬品のプールが煮立っている。 動画の最後には剛の声が入っていた。「神崎、忠実なボディーガードを助けたければ、高嶺凛と交換だ。 ああ、それともう一つプレゼントを送った。メールボックスを確認しろ。パスワードは250367だ」 奏多は急いでパソコンを開いた。確かに暗号化されたメールが届いている。 中身は同じく動画ファイルだったが、今度は凛が映っていた。 薄暗い部屋に座る彼女の声は、冷静かつ明瞭だった。「影山社長、レイが産業スパイであるという証拠を偽造してほしい。成功の暁には、神崎グループの半分を譲渡する」 対する剛の低い笑い声。「高嶺さん、俺がお前を信用する理由は?」 「夫の隣に愛人が居座るのを許せる女はいないわ。それに、神崎グループをレイにすべて奪われるくらいなら、あなたに半分渡す方を選ぶ」 動画の中の女は、その表情、声、微細な癖、そしてその冷徹で論理的な思考回路さえ、凛そのものだった。 奏多の呼吸が止まる。だが考える隙も与えず、次の画面には銀行の取引記録が表示された。 見たこともない海外の秘密口座。記録によれば、数日前、天海グループからの巨額の資金が「協力手付金」の名目でその口座に振り込まれていた。 さらに、専門家による分析レポートが添付されており、凛が提示したレイの不正証拠がいかに捏造されたものであるかが「論証」されていた。 「凛、これはどう説明するんだ?待ってくれと言ったのに、どうして僕を信じなかった?レイを死地に追いやって、一体何の得があるんだ!」 「奏多、あなたは敵の言葉を信じて、私を信じないの?」 凛はあまりの滑稽さに悲しみを通り越して乾いた笑いが出そうになった。二つの証拠があるのに、彼は天海が提供した方を信じ、逆に妻を詰問しているのだ。 奏多は逆上して叫んだ。「君こそ僕を信じていないじゃないか!レイはさっき僕たちの命を救ったばかりだぞ。それなのに君は……」 「奏多!もしあの事故が、最初から彼女の自作自演だとしたら?」 凛も声を張り上げたが、奏多は無意識に彼女の視線から逃げた。 その「逃げ」が、凛の心を冷やした。あの事故について、彼はとっくに真相に気づいていたのではないか? だが、レイの腹にいる子供のために、全てを握り潰したのだ。 今回の「証拠」についても、彼は薄々気づいているのではないか? つまり、彼は愚かなのではない。ただもう自分を愛していないだけなのだ。 凛が悲哀に満ちた笑みを浮かべた時、奏多の携帯が再び鳴った。 「神崎社長、決断は?高嶺凛か、それとも忠実なボディーガードか。 チッ、俺としては高嶺凛の方が欲しいんだがな。あれほどの交渉のエキスパートがいれば、資本拡大も思いのままだ。あのボディーガードなんて、死ねばただのゴミだ。惜しむ価値もない」 剛の言葉が、奏多の神経を逆撫でする。 彼の目は血走り、声は氷のように冷たく震えていた。 「凛、お前が行って彼女と代われ。これはお前が蒔いた種だ」