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過ちの夜が明けて
特殊部隊の訓練基地にある病院。そこの最年少外科部長、長谷川美羽(はせがわ みう)は海外帰りの天才だ。その手は数えきれない大手術を成功さ...
Chương (1)
第1章
特殊部隊の訓練基地にある病院。そこの最年少外科部長、長谷川美羽(はせがわ みう)は海外帰りの天才だ。その手は数えきれない大手術を成功させてきた、まさに神の手だった。
しかし今、彼女の手は、無情にも誰かの足元で踏みにじられていた。
それをするのは彼女の夫であり、訓練基地の責任者でもある長谷川竜也(はせがわ たつや)だ。
竜也は椅子に静かに腰かけ、きちっとした制服姿で、平然とした顔をしていた。
彼の背後にある部屋からは、美羽の妹・二宮紬(にのみや つむぎ)が男たちにベッドへ押し倒される音が聞こえる。助けを求める紬のか細い声が、美羽の心をえぐるように響いていた。
「美羽、さっさと楓のお母さんの手術をしろ。さもなければ、今すぐ紬の部屋のドアを開け放ってやる。あいつのみだらな姿を、街中の人たちに見せてやろう」
美羽は歯を食いしばり、血走った目で竜也を睨みつけた。
「竜也、どうして、私にこんなひどいことをするの?」
第1話
特殊部隊の訓練基地にある病院。そこの最年少外科部長、長谷川美羽(はせがわ みう)は海外帰りの天才だ。その手は数えきれない大手術を成功させてきた、まさに神の手だった。
しかし今、彼女の手は、無情にも誰かの足元で踏みにじられていた。
それをするのは彼女の夫であり、訓練基地の責任者でもある長谷川竜也(はせがわ たつや)だ。
竜也は椅子に静かに腰かけ、きちっとした制服姿で、平然とした顔をしていた。
彼の背後にある部屋からは、美羽の妹・二宮紬(にのみや つむぎ)が男たちにベッドへ押し倒される音が聞こえる。助けを求める紬のか細い声が、美羽の心をえぐるように響いていた。
「美羽、さっさと楓のお母さんの手術をしろ。さもなければ、今すぐ紬の部屋のドアを開け放ってやる。あいつのみだらな姿を、街中の人たちに見せてやろう」
美羽は歯を食いしばり、血走った目で竜也を睨みつけた。
「竜也、どうして、私にこんなひどいことをするの?
楓が母をひき殺したって、あなたも知ってるでしょ!彼女の母親が脳腫瘍になったなんて、当然の報いよ。それなのに、私に仇の母親の手術をしろって言うの?」
1ヶ月前、美羽の母親・二宮凛(にのみや りん)は商店街で買い物をしている最中、舞踊団に所属する中野楓(なかの かえで)の車にはねられて亡くなった。
美羽はすぐに彼女を告訴した。
しかし、3日と経たずに、身代わりの人物が出頭して罪を認めたのだ。
真犯人が罪を逃れるなんて、美羽には到底受け入れられない。高等裁判所に上訴しても繰り返し棄却され、挙句の果てには病院の部長職が解かれ、無期限の停職処分になってしまった。
美羽が絶望に打ちひしがれていた矢先、楓の母親・中野遥(なかの はるか)が病に倒れたのだ。
腫瘍ができた場所のせいで手術は極めて難しく、N市で執刀できるのは美羽をおいて他にいなかった。
その話を聞いた美羽は、即座に断った。殺人犯の母親を手術するなんて、死ぬよりも辛いことだったからだ。
だが、その直後、彼女は何者かに拉致され、あるホテルの一室に閉じ込められてしまった。
そこに現れた竜也の顔を見て、美羽はすべてを理解した。自分を命がけで愛してくれていると思っていた夫の心には、ずっと別の女性がいたのだ。
「美羽、もう時間がないんだ!」
竜也の声で、美羽はハッと我に返った。
「最後のチャンスだ。3分やる。それでもまだ楓のお母さんの手術を断るなら、部下に命じて紬の部屋のドアを開け放ってやる。あいつのみだらな姿を、街中の人たちに見せてやろう!
女の評判が地に落ちれば、どうなるか、わかるだろ」
紬の叫び声は、まるで無数の矢のように美羽の全身を貫き、耐え難い苦痛を与えた。
美羽は拳を固く握りしめた。唇を噛みしめすぎて、口の中に血の味が広がる。「竜也、結婚の時の約束、もう忘れたの?」
結婚式の日、竜也は美羽の前にこう誓ってくれたのだ。「美羽、今日からお前の家族は俺の家族だ。俺が永遠に守ってみせる」
しかし竜也は、美羽のかすれた声など聞こえていないかのように、ただ氷のように冷たい視線を向けるだけだ。
「美羽、残り1分だ。あいつの運命はお前の決断にかかっている!」
その瞬間、美羽の瞳から光が失われ、深い絶望だけが宿った。彼女は歯を食いしばり、竜也が満足するであろう言葉を口にした。
「わかった。手術、私がやるわ」
その返事を聞くと、竜也は満足げに美羽の頭を撫でた。
「それでいい、美羽。手術が終わったら、お詫びとして今一番流行っているアクセサリーをプレゼントしよう」
竜也の浮かべる笑みを見て、美羽は強烈な皮肉を感じるだけだ。
彼女はすぐに手術室へ送られた。限られた機材しかない状況で、腫瘍の摘出手術は実に12時間も続いた。
疲れ切った美羽が手術室から出ると、息つく暇もなく、一人の看護師が慌てて駆け寄ってきた。
「長谷川先生、大変です!妹さんが、ホテルで複数の男性と一緒にいたところを見られてしまいました。その時の写真が街中に広まって、彼女はショックで屋上から飛び降りようと……」
美羽の頭の中で、何かが崩れる音がした。足元がおぼつかないまま、彼女は震える声で叫びながら走り出した。
「どうしてこんなことに……竜也、あなたは約束したはずよ!私が手術をしたら、紬には手を出さないって!」
病院の屋上にたどり着くと、下にはすでに野次馬が人だかりを作っていた。紬は、屋上の縁にぽつんと座っている。まるで壊れてしまった人形のようだ。
美羽は恐怖に震えながら、紬に必死に語りかけた。「紬!お願いだから、早まらないで!大丈夫、きっと乗り越えられるから。私を信じて」
紬はゆっくりと顔を上げた。美羽の姿を見ると、その唇に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。「お姉さん、来てくれたんだね!」
美羽は、一歩一歩、ゆっくりと彼女に近づいた。
「紬、お願いだからそこから下りて!もう、あなたを失いたくないの!」
しかし紬の瞳は虚ろで、生きようとする意思はもう、どこにも見当たらなかった。
「お姉さん、ごめんね。でも私、もう生きていく勇気がないの」
そう言うと、彼女はゆっくりと立ち上がり、美羽に向かって寂しそうに微笑んだ。
「お姉さん、私、お母さんのところに行くね」
その言葉を最後に、紬はためらうことなく後ろ向きに倒れ込んだ。
美羽はすぐに駆け寄ったが、その指が紬に届けなかった。
「いや、紬、やめて!」
すぐに病院の警備員たちが駆けつけ、美羽を押さえつけた。
美羽は必死にもがいた。
「放して!私にはもう何もないの!家族はもう誰も……」
心臓が張り裂けそうな激痛と共に、美羽は血を吐いた。そして、目の前が真っ暗になった。
次に目を覚ました時、鼻にツンとくる消毒液の匂いがした。美羽は魂を抜かれたように、ゆっくりと体を起こした。
そしてナースステーションへ向かうと、5年もの間封印してきた番号へ電話をかけた。
「あなたの条件、飲むわ。その代わり、私の要求は一つだけ。竜也と楓に、相応の報いを受けさせることよ!」
電話の向こうはしばらく黙っていたが、やがて低く落ち着いた声が答えた。
「わかった。1ヶ月後、俺が直接迎えに行こう」
電話を切ると、美羽は弁護士の岡本正人(おかもと まさと)に電話をかけた。
「すぐに離婚届を用意してください」
第2話
電話を切った直後、病室のドアが勢いよく開けられた。
美羽は、誰が来たのか確かめる前に、慣れた腕の中に引き寄せられた。
「美羽、紬のことは本当にすまなかった。でも、あれは事故だったんだ。誰かが間違って入り込んでしまっただけで……」
竜也の優しい声が耳元で響いたが、美羽は言いようのない嫌悪感を覚えた。
彼女は無表情で竜也を突き放した。瞳から愛は消え去り、そこには憎しみだけが渦巻いていた。
美羽の冷たい態度に、竜也は彼女の手を握った。まるで何もなかったかのように、優しい眼差しを向ける。
「美羽、仕事に復帰したいんだろう?病院にはもう話を通してある。お前がずっと望んでいた海外研修のチャンスも一緒にやるから、な?」
美羽は鼻で笑うと、竜也の手を振り払った。
「これが私への償いのつもり?家族の命と引き換えの『償い』だって?」
まさか二人がこんな関係になってしまうなんて、美羽は夢にも思っていなかった。
昔、竜也が特殊任務中に撃たれ、弾丸が肋骨の間に挟まってしまったことがあった。どの医師も、この難しい手術をやりたがらなかった。
そんな中、彼女は迷わず名乗り出た。そして大きなプレッシャーをはねのけ、竜也の命を救った。それが、彼の心を掴んだきっかけだった。
それからというもの、竜也は美羽に猛アタックを始めた。花やアクセサリーをひっきりなしに病院へ送り、結婚前には資産の半分を彼女名義にして、安心させたのだ。
誰もが美羽のことを、この街で一番の幸せ者だと言った。彼女自身も、以前はそう信じていた。
でも、竜也の初恋の人が戻ってきて、舞踊団に入団した。自分と半分ほども似ている楓の顔を見て、美羽はすべてを悟った。
自分は、哀れな替え玉に過ぎなかったのだと。
その時、正人が書類を持って入ってきた。美羽ははっと我に返った。
竜也は弁護士の姿を見ると、みるみる顔をこわばらせた。美羽を見る目つきは、鋭いものに変わっていた。
「まだ諦めてなかったのか?楓を訴えるつもりか?」
美羽は正人から離婚届を受け取ると、それを数回折り畳み、サインする部分だけが見えるようにし、あざけるように竜也を見つめた。
「アクセサリーで償ってくれるんじゃなかった?ほら、遠洋宝飾店の最新作が欲しい。サインしてちょうだい」
竜也はただの慰謝料の請求だと聞いて、ほっと息をついた。書類を開いて確認しようとした瞬間、病室のドアが再び開いた。
楓が、慌てふためいた様子で飛び込んできた。
「竜也さん!母が急に胸が苦しいって……手術で何か問題でもあったのかしら!」
竜也は顔をしかめると、美羽の手首を力強く掴んだ。
「手術は成功したんだろう?どうしてこんなことになるんだ!お前は一体何をした!」
竜也が取り乱す様子を見て、美羽は自分の母親が死んだ日の彼の冷たい態度を思い出した。なんて皮肉なことだろう。
「術後の合併症なんて、よくあることよ!」
楓が、必死の形相で美羽に訴えかける。
「長谷川先生、私のことがお嫌いなのは分かっています。でも、恨みは全部私にぶつけてください!お願い、母だけは助けてください!」
竜也は険しい顔つきで美羽を睨みつけた。「今すぐ楓のお母さんを診に行け。もし何かあったら……美羽、俺が何をするか、分かってるよな!」
だが美羽は、竜也が持っている書類を冷たく見つめるだけだ。
「サインして。そしたら、すぐに行ってあげる」
竜也は、鋭い目つきで彼女を睨んだ。
「美羽、俺を脅すつもりか?」
「竜也、これはあなたが私にするべきことなのよ!」美羽の声は冷たいのに、どこか壊れてしまいそうに震えていた。
竜也は一瞬ためらったが、すぐにペンを走らせてサインをした。
「これで満足か?」
美羽はサインされた離婚届を、そばにいた正人に手渡した。
「お願いします!」
正人は慌てて離婚届を鞄にしまうと、美羽にこくりと頷いた。
「長谷川先生、後のことは私にお任せいただければ結構です!」
美羽と正人のやりとりを見て、竜也はなぜか胸がざわつき、漠然とした不安に襲われた。
美羽は正人を見送ると、楓と共に病室へ向かった。しかし部屋に入るなり、花瓶が彼女の額めがけて飛んできた。
第3話
割れた花瓶の破片が床一面に散らばり、美羽の額からは真っ赤な血がゆっくりと流れ落ちていた。
遥は、鬼のような形相で彼女を睨みつけていた。
「あんた!手術の時に何か変なことしたんでしょ?なんでこんなに胸が痛むのよ!」
美羽は、ぎゅっと拳を握りしめ、ベッドに横たわる女を冷たい目で見つめた。
妹を失い、12時間かけて手術をして助けた相手から、目覚めて一番最初に浴びせられたのが、まさかその言葉だったとは。
「術後の痛みは正常な反応ですよ。それに、そんなに元気に人を罵れるんですから、もう心配ないでしょう!」
美羽がそう言って立ち去ろうとすると、楓がその行く手を阻んだ。
「長谷川先生、母を診てくれないなんてことになったら、竜也さんになんて報告しましょうか?」
美羽は離婚を前にして、これ以上事を荒立てたくはなかった。
胸に込み上げる怒りをなんとか抑え、ベッドへ歩み寄った。彼女が聴診器を取り出した瞬間、遥が突然手を振り上げ、その頬を強く打ちつけた。
「本当に診る気あるわけ?留学帰りの天才だかなんだか知らないけど、聴診器ひとつでごまかそうだなんて、馬鹿にしてるの?」
赤く腫れあがった頬を押さえながら、美羽は怒りを露わにしてベッドの女を睨んだ。
「私の腕が信用できないのなら、担当医を変えてもらってください。でも、こう何度も暴力を振るわれるのは、さすがに看過できません」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、乾いた音が響いた。
遥が、再び彼女の頬を打ちつけていた。
「私があなたを叩いて何が悪いの?訴えるつもり?あなたの妹がどうして死んだか、もう忘れたのかしら?次はあなたがホテルで男とみだらなことをして、死ぬ番かもしれないわね」
遥は、勝ち誇ったような笑みを浮かべて美羽を見つめた。
「そうよね。あなたの母は当たり屋だし、車に轢かれて死んで当然。あなたの妹は恥知らずにも体を売っていたし!きっとあなたもろくな人間じゃないんでしょ!」
家族を死に追いやった元凶である遥にそこまで侮辱され、美羽は我を忘れて遥の首に手をかけた。
「母と妹を殺したのはあなたたちのくせに、二人を侮辱する資格なんて、あなたたちにあるはずがないでしょう。私があなたを生かしてあげたんだから、殺すことだってできます!」
その言葉を言い終えるか否か、強い力で突き飛ばされた。美羽はベッドサイドのキャビネットに体を強く打ちつけ、全身に鋭い痛みが走った。
病室に現れたのは竜也だ。彼はベッドの前に立ちはだかり、楓と遥を背後にかばいながら、軽蔑に満ちた眼差しを美羽に向けていた。
「美羽、紬の一件で少しは反省したと思っていたが、まさか病人に手を上げるなんて、前よりひどくなっているじゃないか!お前には本当にがっかりさせられる!」
楓は、さも悲しげに竜也の胸に顔をうずめ、しくしくと泣き始めた。
「竜也さん、長谷川先生がなぜ急にあんなことをしたのか、私にはわからない。でも、母は大きな手術を終えたばかりなの。こんな仕打ちに耐えられるわけがない!」
涙に濡れた瞳で訴える楓を見て、竜也はたまらず彼女を強く抱きしめた。そして、冷え切った視線を美羽に向けた。
「美羽、謝れ!」
美羽はぐっと拳を握り、目に溢れそうな涙を必死にこらえた。そして、負けまいと竜也をまっすぐに見つめ返した。
「どうして私が謝らないといけないの?私の家族を殺した人たちに、謝る理由なんてないわ!」
竜也は冷たい表情で美羽を見据え、背後に控えていたボディーガードに軽く手をあげて合図した。
「地下室に連れて行って反省させておけ。心から反省するまで、そこから出すわけにはいかない」
「地下室」という言葉を聞いた瞬間、美羽の瞳孔が恐怖できゅっと縮まった。
地下室は長谷川家では禁じられた場所だった。そこでは、竜也が番犬として二頭の大型犬を飼っているのだ。
その犬は非常に獰猛で、これまでにも何人もの人間が襲われて大怪我をしていた。
美羽は、恐ろしさのあまり震えながら竜也を見つめた。
「竜也、やめて!私を地下室に連れて行かないで!」
だが、竜也は彼女に視線を向けることすらなかった。
美羽は、ボディーガードに引きずられ、地下室へと連行された。
中に放り込まれた途端、二頭の大型犬が、飢えた目を光らせながら美羽を睨みつけた。
美羽は振り返って逃げ出そうとしたが、ボディーガードは躊躇なく重い扉を閉ざしてしまった。
「竜也、そんなことしないで!こんなところにいたら、私、死んでしまう!」
美羽の額の傷はまだ手当てされていなかった。漂う血の匂いに気づいた犬たちが、その瞬間に猛然と襲いかかってきた。
一頭に右手を固く噛まれ、もう一頭は体の上にのしかかり、美羽は身動きがとれなくなった。90キロを超える大型犬が、圧し潰すかのように覆いかぶさってくる。息さえ、できない。
激痛に耐えながら、美羽は必死で地下室の扉を叩き続けた。
「竜也、助けて!犬たちがおかしいの、襲ってくる!」
しかし、扉の向こうから聞こえてきたのは楓の甘い声だった。「竜也さん、あの二匹の犬をあなたにあげた時、あんなに賢かったのに。人を傷つけるなんてないわ」
楓の言葉を聞き、竜也の声も冷たくなった。
「美羽、くだらない芝居はやめろ。いつ自分の過ちを認めるかだ。認めれば、出してやる」
やがて二人の足音が遠ざかっていくのが聞こえた。美羽は、まるで氷の底に突き落とされたかのような絶望感に襲われた。
そう、竜也にとって、自分が助けを求める声ですら、ただのずる賢い芝居に過ぎなかったのだ。
次の瞬間、ゴキッという鈍い音が響いた。噛みつかれていた手首が砕けたかのような、引き裂かれるような激痛が走り、美羽は意識が遠のいた。助けを呼ぶ声さえ、もう出なかった。
どくどくと流れる真っ赤な血とともに、美羽の意識はだんだんと薄れていった。
意識を失う直前、竜也が血相を変えて飛び込んできて、自分を強く抱きしめてくれた、そんな気がした。
「美羽、すまなかった!」
第4話
次に目を覚ましたとき、美羽は見慣れた病室にいた。
手に、骨を砕かれるような激痛が走り、美羽は自分の手がまったく上がらないことに気づいた。
慌てて起き上がったが、右手は痛むだけで、まったく力が入らなかった。
「どうしてこんなことに……」
美羽の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。そして、パニックになり、ベッドから降りようともがく。その物音に気づいた竜也が、ソファから駆け寄り、彼女を痛ましそうに抱きしめた。
「美羽、すまない。お前の手は、犬に腱を噛み切られて……もうメスは握れないんだ!」
美羽は自分の手を見下ろし、口を開いたが、言葉にならなかった。
彼女が最も誇りにしていた手。医師として生きていくための、かけがえのない手が、もう使い物にならなくなってしまったのだ。
こんな現実、どうやって受け入れろというのか。受け入れられるはずがない。
それからの数日間、竜也は美羽のそばに付きっきりで、身の回りのことをかいがいしく世話した。
美羽は丸一週間入院し、ようやく退院することができた。
家に帰る車の中で、美羽は黙って窓の外を眺めていた。竜也は優しい表情で、彼女の手に自分の手を重ねた。
「美羽、明日、お前の家族のために葬式を開くことにする。盛大に見送ってあげよう」
葬式、という言葉を聞いて、美羽の表情が少し和らいだ。彼女が口を開こうとしたその時、竜也のポケベルが鳴った。
電話口から聞こえてきたのは、楓の声だ。
「竜也さん、母の胸がまた痛みだしたの。どうしたらいいか分からなくて……そばにきてもらえないの?」
竜也は急ブレーキを踏むと、険しい顔つきで美羽を見た。
「美羽、ここから一人で帰れ。楓は一人じゃだめなんだ!」
美羽は鼻で笑った。
「あなた、医者なの?彼女の母親を治せるってわけ?」
竜也の顔が、みるみるうちに曇っていった。
「美羽、楓のお母さんに重い後遺症が残ったのは、お前の手術のせいだろうが。俺は、お前のためにやってんだから!」
そう言うと、竜也は車から降りて、美羽が座る助手席のドアを乱暴に開けた。
「降りろ!」
目の前の男を見て、美羽は馬鹿馬鹿しくなった。愛情なんて、いくらでも偽れるものだったのだ。
美羽が車を降りるやいなや、竜也は待っていたとばかりに車を急発進させて走り去った。彼女は一人、人気のない通りに取り残された。
ここは郊外に近く、治安が悪い。柄の悪い連中がうろついていることも珍しくなかった。
空がだんだんと暗くなっていく。美羽が歩きだそうとした時、路地の角から、数人の男たちが現れた。
美羽は警戒しながら男たちを見た。胸騒ぎがして、振り返って逃げようとしたが、行く手を阻まれた。
「これ、最近世間を騒がせてる女性の姉じゃねえか?妹があんなに尻軽なんだから、姉のほうも体売ってたりしてんじゃないんだろうなあ!」
男の一人が美羽の腕を掴んだ。振り払おうとしても、怪我をした手にはまったく力が入らない。
「私が誰だか分かってるの?私に手を出したら、ただじゃ済まさないから!」
美羽がもがく様子を見て、男たちはさらに下品に笑い、彼女を路地の奥へと引きずっていった。
「今日は俺たちとたっぷり楽しもうぜ!」
美羽は必死に助けを求めて叫んだが、返ってくるのは男たちの興奮した笑い声だけだ。
「喉が張り裂けるほど叫んだって、誰も助けになんか来やしねえよ」
男の一人が美羽の服を無理やり引き裂こうとする。その隙に、彼女は男の手に思いきり噛みつき、ありったけの力で走り出した。
男たちは慌てて後を追ったが、次の瞬間には勝ち誇ったように笑った。
「ここは郊外だ。お前の後ろには湖しかないぜ!」
美羽は背後にある湖を見ると、ためらうことなく身を投げた。
冷たい水が、一瞬で美羽の体を包み込む。岸辺で誰かが口論している声が、かすかに聞こえた気がした。
「おい、あの人はあいつを『めちゃくちゃにしろ』って言っただけだぞ!殺せなんて言ってねえ!もし死んだら、誰が責任取るんだよ!」
第5話
美羽が再び目を開けると、そこは長谷川家の屋敷だった。
彼女が起き上がろうとした時、リビングから大きな物音が聞こえてきた。
竜也が、手に持っていた花瓶を床に叩きつけた音だった。
「どんな手を使ってでも、必ずあの連中を探し出せ。俺の妻が辱められたんだぞ。この件を誰かが漏らしたら、タダじゃ済まないぞ!」
楓は竜也の肩に寄り添い、優しく彼の背中を撫でた。
「竜也さん、もしかしたら長谷川先生も被害者なのかもしれないわ」
美羽の名前が出た途端、竜也の顔は恐ろしいほど険しくなり、ガラスのテーブルに力いっぱい拳を叩きつけた。
「あいつが被害者だろうが関係ない。事が起きてしまった以上、俺が、汚れた妻を受け入れることなどありえない。
今のあいつは、紬と何が違う?」
部屋の隅に立っていた美羽は、ぎゅっと手を握りしめた。竜也の言葉は鋭い刃物のように、心をえぐり、血を流させた。息もできないほどの苦しみに、彼女は打ちのめされていた。
この男は、自分に何があったかすら聞こうともせず、汚されたと決めつけている。
翌朝、美羽は、竜也が彼女の家族のために開いてくれた葬式へ向かった。
ホールの正面には、二人の遺影が飾られていた。ほんの1ヶ月前までは、すぐ目の前で笑っていたのに。
美羽は祭壇の前に立ち尽くし、固く目を閉じ、ひたすら合掌を続けた。そうでもしないと、心が張り裂けそうだったから。
朝の8時から昼の12時まで、弔問に訪れる人は誰一人いなかった。
二人を盛大に見送ると約束してくれたはずの竜也さえ、姿を見せなかった。
美羽は時間を確認した。もうすぐ納骨の時間だ。誰もいないホールを見渡し、彼女は一人で母親と妹の骨壷を抱えて外へ出た。
式場の外へ出た途端、大勢の記者たちが現れて、あっという間に美羽を取り囲んだ。
「長谷川先生!昨日、路地裏で数人の男に襲われたって聞きましたけど、長谷川隊長はこのことをご存知なんですか?」
「無理やりだったんですか?それとも合意の上で?長谷川先生の方から誘ったって話も聞きましたけど。もしかして、亡くなった妹さんみたいに、元々そういう奔放な方なんですか?」
「まずはお母さんが当たり屋をして事故死、次に妹さんが男遊びの末に自殺、そして今度はあなたが男を誘うなんて、あなたたち家族は、揃いも揃ってみんなそうなんですか?」
棘のある言葉が、無数の針のように美羽の心に突き刺さる。彼女は憎しみに目を充血させ、記者たちを睨みつけた。
「黙って!白黒もつけられないくせに、私の家族を侮辱するなんて許さない!」
美羽はその場から逃げようとしたが、誰かに強く腕を引かれて引き戻された。
「長谷川先生、図星ですか?あなたが男と密会していたことは、もう街中に広まってますよ。長谷川隊長に追い出されるのが怖くないんですか?」
美羽は足元がふらつき、地面に倒れ込んでしまった。その拍子に、抱えていた骨壷が手から滑り落ちた。
混乱の中、誰かが骨壷を蹴飛ばした。蓋が外れ、中にあった遺灰が地面に散らばってしまった。
美羽はは正気を失ったように這っていき、震える手で散らばった遺灰をかき集めようとした。
「どいて!どいてよ!」
しかし記者たちはわざとらしく、遺灰を踏みつけ続けた。美羽は完全に打ちのめされ、絶望の淵に立たされた。
「踏まないで。お願いだから、やめて……」
だが記者たちはその声が聞こえないかのように、みっともなくうずくまる美羽に、いっせいにカメラを向けた。
美羽が立ち上がろうとした時、誰かに強く突き飛ばされた。彼女は後ろに倒れ、後頭部に鋭い痛みが走った。
直後、人混みの中から誰かの悲鳴が上がった。「血!血がたくさん!」
次の瞬間、数台の車両がゆっくりと近づいてきた。車が完全に止まる前に、竜也がドアを開けて飛び出してくる。
「お前たち、何をしているんだ!」
竜也は、血の海に倒れている美羽を見て、痛ましげな表情を浮かべた。彼女を抱きかかえようとしたが、その手は途中で止まる。そして、彼は部下・山崎裕也(やまざき ゆうや)の方を振り向いた。
「君が妻を病院へ」
裕也は困ったように竜也を見た。
「それは……ご自身で奥さんを運ばれた方が……」
しかし竜也は背を向け、美羽の方を二度と見ようとはしなかった。
「汚らわしい」
その一言は、巨大な岩のように、美羽の心に重くのしかかった。
第6話
美羽が病院のベッドから体を起こそうとすると、ちょうど院長が病室に入ってきた。
「君のスキャンダルは、病院の名誉をひどく傷つけた。よって、君を解雇することにする。今後の身の振り方は、よく考えることだね」
美羽は、去っていく院長の背中を見つめ、フンと鼻で笑った。
利用価値がある時はあれだけちやほやしておいて、用が済んだらゴミみたいに捨てるんだから。
美羽が病院で過ごした3日間、竜也が顔を見せることは一度もなかった。
退院して家に帰りついた美羽は、ドアノブに手をかけた。でも、その動きをぴたりと止めた。
「美羽とは離婚しない!二度とその話はしないでくれ!」
竜也が怒りにまかせてテーブルを殴りつけると、ガラスの天板が粉々に砕け散った。
彼の母親の長谷川和子(はせがわ かずこ)は、苦虫を噛み潰したような顔でソファに座っている。その目には、美羽への嫌悪感と不満が満ち溢れていた。
「美羽が不倫したという噂は、もう街中に広まってるのよ。それでも離婚しないって言うの?彼女がどこの馬の骨とも分からない子供を産んで、それを長谷川家の跡継ぎにするつもりなの?」
竜也は、目の前に置かれた離婚届を粉々に引き裂いた。その顔は、恐ろしいほど険しい。
「あいつを見つけ出した日、すぐにピルを飲ませた。もう二度とあいつには触れない。だから、子供ができるはずもない。長谷川家の跡継ぎは……楓に産んでもらう」
ドアの外で聞いていた美羽は、ドアノブを強く握りしめた。手の甲には、血管がくっきりと浮き上がっている。
これが、竜也の言う「愛」だなんて。あまりに馬鹿げていて、吐き気がする。
その夜、外は凍えるように寒かった。美羽はデスクに向かい、正人に電話をかけた。
「私名義になっている長谷川家の資産は、すべて処分してください」
電話の向こうの正人は、腑に落ちない様子だった。でも、何も聞いてこなかった。
「かしこまりました。長谷川隊長との離婚手続きも最終段階です」
美羽は静かにうなずいた。
「できるだけ急いでください。10日後には、私は絶対にここを出ますから!」
美羽が言い終わると同時に、部屋のドアが勢いよく開けられた。そこには、険しい顔の竜也が立っていた。
「どこへ行く気だ?」
美羽は、ぎゅっと電話を握りしめた。何か言おうとした時、階下で誰かがドアをノックする音がした。
竜也が階下に下りてドアを開けると、楓が悲しみに暮れた顔で彼の胸に飛び込んできた。
「竜也さん、母が手術してから、時々胸が痛むんだって。どうしたらいいの!」
竜也は彼女を抱きしめて優しくなだめた。でもその目は冷たく、そばにいた美羽を一瞥した。
「なんでそんなにひどい後遺症が出てるんだ?お前は手術で一体何をした?」
美羽は楓を見て、フンと鼻で笑った。
「私が彼女の手術をしたのは脳よ。胸の痛みのことなんて、本人に聞けばいいじゃない」
その言葉を聞いて、楓はさらに声を上げて泣きじゃくった。
「竜也さん、海の底深くにある薬草を口にすれば、どんな不調も和らぐんだって!
長谷川先生が、母の不調は彼女と無関係だと言うなら、私が自分で探しに行く!たった一人の母、苦しんでいるのを見ているなんて、耐えられない」
楓が去ろうとするのを、竜也が力強く腕の中に引き止めた。
「お前は泳げないだろ。海に行ったら危ない」
そう言って、彼は美羽に視線を移した。
「美羽、楓のお母さんの後遺症は、お前のせいだ。楓の代わりに、お前が薬草を探してこい。それがお前の罪滅ぼしだ」
第7話
美羽は、信じられないものを見るように竜也を見つめた。その眼差しは、氷のように冷たい。
「私が一番後悔したは、あの女を助けたことだっていうの!」
竜也の表情が、みるみるうちに険しくなった。
「美羽、いつからそんなに根性が悪く、話の通じない女になったんだ?」
そう言うと彼は、部下に二つの木箱を持ってこさせた。
「この前、お前の家族の遺骨を、残さず集めさせておいた。これを持って帰れるかどうかは、お前の態度次第だ!」
美羽の瞳から涙が溢れ、彼女は唇をきつく噛みしめながら竜也を見つめた。
「楓の母親の具合が悪いとしても、病院には先生も看護師もいるじゃない。国内で一番いい検査設備だってあるわ。それなのにあなたが、楓の言う薬草なんて伝説のものを信じるの?竜也、おかしいと思わないの?」
しかし、竜也の態度は冷たいままだった。「美羽、同じことを二度も言わせるな」
美羽は絶望しながら竜也を見つめ、諦めたように頷いた。
「わかったわ。行く」
まもなく、美羽は船に乗せられ、沖合へと連れて行かれた。
このあたりの海は、一番深い場所でも数十メートルほどしかない。それでも、プロのダイバーにとっても限界に近い深さだ。
ダイビングスーツを身につけた美羽は、船室で楓とワイングラスを傾ける竜也を見て、絶望的な気持ちになった。
楓は、自分が口をつけたグラスを竜也の唇へと差し出した。
「竜也さん、こんな寒い日に長谷川先生を海に潜らせて、本当に大丈夫なの?」
竜也は差し出されたグラスを呷ると、嘲るように口の端を上げた。
「美羽は、海外にいた頃、ストレスがたまるとダイビングをしていたらしい。大会記録を出したこともあるそうだから、心配いらないさ」
冷たい潮風が頬を打ち、美羽は無意識に右手を握りしめた。
竜也は忘れているようだ。自分の右手の腱は、もう切れてしまっているということを。
船のライトが海面を照らすなか、美羽は海へ飛び込んだ。冷たい海水が、一瞬にして彼女の体を包み込む。
夜の海の中は、ライトで照らしても視界が1メートルもない。
美羽は、ひたすら海底を目指して泳いだ。一刻も早く目的の物を手に入れなければ、自分の命が危ない。
水深数十メートルの海底に着いた途端、前方に魚の群れが猛スピードでこちらに向かってくるのが見えた。
美羽が何事かと身構えるよりも早く、巨大なマンタに体を突き飛ばされた。
腹部に激痛が走る。美羽は、裂けるような傷の痛みをこらえながら腕を動かし、なんとか体勢を立て直した。
しかし次の瞬間、彼女は魚群の向こうに、巨大なサメの姿を捉えた。
美羽はぎょっとして、すぐに浮上しようとした。しかしその時、足元で揺れる薬草が視界に入った。
迫りくるサメと、踏みにじられた母親と妹の遺骨が脳裏をよぎる。彼女は歯を食いしばると、身を翻して薬草を掴み取り、猛スピードで浮上を始めた。
だが、サメはすぐに追いついてきた。そして、大きな口を開けて美羽に襲いかかった。
彼女は咄嗟に、背負っていた簡易酸素ボンベを外してサメに投げつけ、ほんのわずかな時間を稼いだ。
もうすぐ水面だというところで、美羽の右手が引きちぎれるように痛みだした。もはや、腕を動かす力も残っていない。
酸素が足りなくなり、頭がぼうっとし始める。意識もだんだんと遠のいていった。
彼女の体が、口を開けたサメの方へと沈んでいく時、水面に大きな水しぶきが上がり、誰かが必死の形相でこちらへ泳いでくるのが見えた。
美羽は、血相を変えた竜也の顔を見て、ひどく滑稽だと思った。
竜也、できることなら、あなたとは出会いたくなかった。
第8話
長谷川家に戻ったその日の晩、美羽は高熱を出した。何日も熱が続き、やっと少しうどんが食べられるようになったくらいだ。
この日、美羽は自分の荷物をざっとまとめ、スーツケースに詰め込もうとしていた。すると突然、ドアが勢いよく開けられた。
竜也が血相を変えて部屋に入ってきて、力任せに美羽の腕を掴んだ。
「お前は薬草に何をしたんだ?どうして楓のお母さんはあれを飲んでから吐いたり下したりして、容体が悪化してるんだ?」
美羽は竜也の手を振り払おうとしたけれど、病み上がりでまったく力が入らない。
「薬草を持って行ったのはあなたじゃない。なのに、私のせいにするっていうの?」
竜也は鋭い目つきで彼女を睨みつけた。
「美羽、お前は本当にやり方が汚いな。何事もないように祈ってろ。もしものことがあったら、ただじゃ済まさないからな」
美羽の体はこわばった。竜也の嫌悪に満ちた眼差しは、鋭いナイフのように彼女の心をズタズタに引き裂いた。
竜也が手を上げると、すぐに部下が二人部屋に入ってきた。
彼は冷え切った目で美羽を見つめた。
「反省の色もないようだな。だったら、病院前で土下座してろ。楓のお母さんが峠を越すまで、ずっとだ!」
美羽は顔を上げ、信じられない目で竜也を見つめた。
「竜也、あなたは人殺しの母親に土下座しろって言うの?」
竜也の表情は、氷のように冷たかった。
「自分の犯した過ちの償いは、自分でしなくちゃな!」
美羽は、ぎゅっと拳を握りしめた。
「私が犯した一番の間違いは、あなたと結婚したことだわ!」
竜也はきょとんとしたが、すぐにその顔を曇らせた。
「こいつを連れていけ。俺が許すまで、立たせるな!」
美羽は罪人のように病院の前まで引きずられていった。ひざまずくのを拒むと、部下の一人が容赦なく彼女のふくらはぎを蹴りつけた。
ガクンと膝が折れ、美羽は集まってきた人々の嘲笑を浴びながら、病院の前にひざまずかされた。
「あれ、有名な天才外科医の長谷川先生じゃない?どうして罪人みたいに土下座してるのかしら」
「不倫してたって噂よ。それに、自分の立場を利用して、患者さんの術後の経過をわざと悪くしたんだって。ひどい話よね!」
行き交う人々の嘲るような視線が、刃物のように美羽の心をじわじわと切りつけていく。
美羽が朝から晩までひざまずき続けていると、ようやく楓がゆっくりと病院の前から出てきた。
「長谷川先生。母はもう大丈夫ですって。私が竜也さんにお願いして、あなたを帰して休ませてあげるように言っておきましたからね!」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、美羽のポケットに入っていたポケベルが震えた。
正人からの連絡だった。
【離婚届は既に受理されています。離婚届受理証明書は、使いの者に届けさせました】
そのメッセージを見て、美羽は安堵のため息をついた。これでやっと、ここから解放される。
彼女は、きしむ体に鞭打ってなんとか立ち上がると、鋭い眼差しで楓を睨みつけた。
「楓、あなたがいずれどうなるか、見物させてもらうわ」
そう言い残すと、美羽は背筋をぴんと伸ばし、一歩ずつ夜の闇の中へと消えていった。
病院を後にして、美羽はまっすぐ家に戻った。
彼女はスーツケースを手にすると、5年もの間自分を縛り付けてきた屋敷を最後にちらりと見て、未練もなく長谷川家の門をくぐった。
門を出たところで、一台のセダンがすっと美羽の目の前に停まった。
窓がゆっくりと下がり、そこからクールな顔立ちの男性が顔をのぞかせた。
「美羽さん、久しぶりだな」
……
病院。
竜也が廊下で待っていると、遥の主治医が検査結果を持って歩いてきた。
「長谷川隊長、検査の結果が出ました。患者さんは、こちらの指示を守らずに脂っこいものを大量に食べたせいで胃腸炎を起こしたようです。大事には至りませんのでご安心を。長谷川先生の手術には何の問題もありませんでした」
検査結果を持つ竜也の手が、ぴたりと止まった。彼が何かを言おうとしたその時、裕也がショルダーホンを手に慌てて駆けつけてきた。
「隊長、ご実家が大変なことに」
竜也が通話ボタンを押すと、ショルダーホンの向こうから和子の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
「竜也、大変なの!お父さんが事故で……ガラスの破片が心臓の近くに刺さって……すぐに手術が必要なのに、場所が悪すぎてどの先生も執刀できないって!」
竜也の目に一瞬動揺が走った。すると、そばにいた医師が口を開いた。
「この手術ができる外科医は、おそらく長谷川先生だけでしょう。残念ながら、もう彼女の手は……でも、長谷川先生に指導してもらえれば、少しは望みがあるかもしれません!」
それを聞くやいなや、竜也はすぐに人をやって美羽を探させた。
だが、返ってくる答えはいつも同じだ。
美羽は、この街から完全に姿を消してしまったのだ。